大学の教育力を探る


北海道大学名誉教授   谷口  博


はじめに

 「大学の教育力を探る」のテーマで,大学への全入学時代を迎えて「教育力向上」「脱研究偏重」についての座談会(「読売新聞」2008年4月7日付参照)が開かれている。この座談会は,大学における教育力を論じているにもかかわらず,教育を担当する大学人(教授・准教授)が,現在では大学院修了者であることに言及していないので,実情に合わない点が多々あるように思われる。従って,「小・中・高校の教育力を探る」のであれば,大学教育を中心に論議するのが当然ではあっても,「大学の教育力を探る」場合には,大学院教育を中心に論議して欲しいのである。すなわち,「大学の教育力」を育てる現在の教育システムが,大学院とくに博士課程内にあることを忘れてはならない。

1.大学教育への視点

 世の中が期待する大学は,教育・研究を並行して行うことで,良き学生を送り出すのが責務であり,個々の学生が過去・現在・将来を見極める能力を備えて欲しいと願い,教育・研究に従事している。勿論,各分野の専門教育も重要であって,医・歯・獣医・薬学の教育を考えると,大学教育で初めて専門分野に触れることになろう。農・理・工学の教育あるいは文・経・法・教育学の教育でも,高度な専門分野は大学教育で授けているのが実情である。

 少なくとも,旧制大学では教育・研究の重視をモットーとして,学生教育に切磋琢磨していたが,新制大学への移行をきっかけとして,旧制高校における教育方針が高等教育から切り捨てられ,新しい教育方針として大学における研究重視が始まったのである。周知のことであるが,旧制大学時代の心ある大学人は教育力の向上を必須事項としており,その能力のない大学教授・助教授など存在しなかったといえよう。場合によっては,素晴らしい研究能力を備えた大学人を処遇するため助教授のポストを用意しておき,教育能力の備わった時期に教授へと昇進させたと聞いている。

 現在でも,大学における教育重視の証拠は存在しており,例えば私立大学における大学院博士課程の担当教授への判定を行う審査に際して,最初に認められる業績は教科書出版の有無であり,次に認められるのが研究論文なのである。文部科学省の方針として,研究論文の有効期間は5年(科学研究費申請への記入限度)であるが,教科書の有効期間についての定めは見当たらない。すなわち,研究論文の学会等における査読は,短期間の新規性を対象に行われているのに対し,教科書の出版社における査読は,十数年の学問的価値を対象に行われていると考えられるからであろう。また,最近は研究業績として重要視されている特許は,大学院博士課程の担当教授への判定審査に際して,記入欄すらないことを知っておきたい。

このように,最も研究能力が重視される大学院博士課程ですら,教科書に代表される教育能力の有無が論議されていることを,理解しておいて欲しい。勿論,極めて学問的価値の高い研究論文は不滅の業績であるが,その例は極めて少ないとの理由から,上記の判定審査では短い有効期間を定めているのであろう。

2.大学での研究業績重視となった経緯

 第二次大戦後,わが国で施行された新制教育システムの小6年・中3年・高3年・大4年・院修士2年・院博士3年の課程には,米国型の方式が取り入れられている。従って,米国の大学・大学院における研究重視の方針がわが国に導入され,教授採用の視点から教育業績が疎外されたといわれている。しかし,米国の大学院では,とくに博士課程での学生教育に重点を置いており,学生を受け入れない博士課程の大学教授など考えられなかったのである。

 新制大学・大学院の発足にあたり,旧制高校の教授は研究業績重視のため締め出され,教育面での経験を持たない教授が多数を占めたので,わが国に特有の大学における研究業績重視の気運が育ったのであろう。しかし,博士課程における学生教育の難しさを回避するため,わが国での博士課程修了者の社会への受け入れが難しいことを理由に,大学院博士課程における学生受け入れの有無は不問に付し,研究業績重視への疑問を抱かず今日に至っている。

 各大学において,最も重要な大学院博士課程の教授が教育能力への評価を放棄して,研究業績重視のみよる評価で大学人の採用を続けた結果が,今日の各大学における教育能力の欠如として現れたのであろう。従って,世界の趨勢である大学・大学院における教育能力の向上を図り,研究レベルの維持は当然であるとの観点に立って,大学人が力を合わせる時期にきていると思う。勿論,小6年・中3年・高3年の課程における教育能力の向上も大切ではあるが,大4年・院修士2年・院博士3年の課程において,大学人が研究業績重視から教育能力重視へと移行することが望まれているといえよう。

 最近になって,大学における教育能力重視への気運が高まり,大学人による論議が行われるようになったが,大学院教育とくに博士課程への論議は疎外されているように思う。大学教育を支える大学院,とくに博士課程での学生教育なくして大学教育の進展は考えられないので,博士課程を担当する教授の責務は重大なのである。勿論,大学院博士課程は研究業績重視であることが当然ではあるが,大学教育を支える大学人を育てる責務を放棄していたのでは,何時まで経っても教育能力重視の大学運営はできないといえよう。

3.大学での教育能力重視

 現状での可能な教育能力重視への案を模索してみると,幸いわが国では国立・公立大学法人が誕生して,私立大学法人と同格になったので,最高位の大学院博士課程の担当教授を私立大学の例にならって採用すれば,研究業績重視の弊害が少しは減ることになろう。すなわち,第1の業績は教科書の有無であり,第2の業績を過去5年間の論文(科学研究費の審査基準)あるいは教育成果である高等教育実績の有無とし,必要に応じて特許の有無も考慮しては如何か。とくに論議が必要なのは,大学院博士課程での教育実績であり,准教授からの昇格には博士課程での主査経験が重要案件と思われるが,博士課程での副査経験も十分考慮する必要がある。また,大学・大学院修士課程での准教授としての教育実績(講義・演習・実習)も含めて,教育能力の評価すれば可であると思う。

 一方,研究能力が抜群である大学人を受け入れるためには,教育に携わらない教授ポストあるいは准教授ポストを用意して置き,教授あるいは准教授に就任した後に教育能力の向上を期待すれば可であろう。何れにしても,世界を視野に大学のランクアップを目指すには,教育・研究の両面からレベルの向上を図り,その結果として社会に優秀な学生を送り出すことを考えておきたい。よく誤解されているが,大学で多額の研究費を受け入れて研究業績を伸ばすには,学生教育が足かせになるとの意見もあり,論議の種になることがある。しかし,そのような意見は研究所で受け入れられたとしても,大学の使命を逸脱することになるので,不可であるといえよう。


4.大学人への今後の期待

 何れにしても,国立・公立大学法人・私立大学法人における大学人が,相互に移動することで切磋琢磨しなければ,世界に伍した大学レベルの維持は不可能であろう。従って,教育能力と研究能力の両面を評価している私立大学の大学院博士課程の担当教授審査などを参考にして,各大学間で共通な評価が行えるよう,検討して頂きたいのである。

また,種々論議されながら解決できなかった,大学院博士課程学生が不在の担当教授の処遇についても,当然のことながら避けて通ることはできないといえよう。場合によっては,私立大学で常識化されているように,大学院教授のランクを博士課程と修士課程の担当に分け,博士課程学生の不在が長期化したならば,修士課程の担当に格下げするなどの措置が必要である。

 大学教授は全て同格であるという幻想にとらわれず,実情に応じた教育・研究でのランク分けを実施して,大学・大学院修士課程・大学院博士課程での大学人としての能力を発揮して頂きたいと思う。わが国の教育システムにおける小6年・中3年・高3年での教育課程と同様に,大4年・院修士2年・院博士3年の教育課程において,大学人が率先して教育能力の向上を図らなければ,誰が率先垂範する態度を示せば良いか,論ずる必要もないであろう。

 また,専門教育を行っている医・歯・薬・獣医学の分野のほか,農・理・工・文・経・法・教育学の分野において,大学人は日進月歩の現状を踏まえた教育・研究に従事して頂き,世界に伍した専門家を育てる責務があると考えている。従って,各分野での大学院博士課程に優秀な学生を集めることにより,専門分野教育への後継者の育成にも努力して頂ければと念願する次第である。

まとめ

 今後へのわが国の大学人による教育・研究能力の向上を期待するとともに,国立・公立大学法人あるいは私立大学法人の理事会の方々,責任者である各大学の総長・学長の方々に,勇気と良識あるご指導をお願いして,筆を置くことにしたい。

(2009年7月4日)