米国道徳教育の失敗と新しい潮流

ボストン・カレッジ教授 W.キルパトリック

 

■害をもたらす米国からの「輸出品」

 本日私は、米国の道徳教育分野における最近の展開について、最新の情報を含めながらお話ししたいと思います。これは私にとっては若干当惑する内容でもあります。というのは、米国の道徳教育において最新と言われる内容が、皆様から見れば特に目新しい内容には思えないかもしれないからです。実際、それは古くさいものにすら見えるかもしれません。これは米国の教育が、1960年代において長い回り道をしてきたことに原因があります。しかしその回り道は、結局、回り道というよりはむしろ、袋小路に入ってしまったのでした。それで現在、私たちは「本流」に戻そうと努力しているところです。

 ここでいう「本流」とは、道徳教育における「人格教育(Character Education)」というアプローチです。この方法論は、模範を強調し、子どもに対して、よい行動習慣を身につけるよう奨励するものです。すなわち、良い行いとは何であり、また悪い行いとは何かということを、直接に子どもたちに話すことでありますが、そこではある種の学校環境やエートス(学校の校風)を作り上げることも扱わねばなりません。ここで言う「学校環境やエートス」というのは、校則、衣服に関する校規、表彰・報奨金制度、学校に対する奉仕活動、地域社会に対する奉仕活動などに関心を向けさせること等を意味しています。そうすることで、子どもたちが自分たちにとっても、また社会にとっても良いと言われる習慣で、行動するようになっていくということなのです。

 しかし、1960年代において、米国の教育者たちは、人格の形成という非常に困難な仕事に対して、上述の方法とは違った別の方法を発見したと考えました。しかし、結果として分かったことは、彼らの方法による教育によって、実際には子どもたちの道徳性を希薄化したにすぎません。

 本日の私の話では、彼らの方法論に焦点を当て、なぜこの方法論が有害であるかを検証したいと思います。これは皆様にとって、かなり有益であろうと思います。というのは、米国で失敗した道徳教育(私はこれを「自己決定[Decision-Making]」の方法と呼んでいます)が、諸外国に輸出される可能性が高いと考えるからです。というのは、私が各国を視察して驚くことなのですが、諸外国の教育者たちは、米国教育における最もよくない部分をとても熱心に取り入れているように見えるからです。

「自己決定」の方法論は、現在米国では、「1960年代に失敗した単なる一つの流行だった」と非難されていますが、それにもかかわらず、諸外国の人々に対しては、これが最新の方法であるとして提示されているのです。私の本日の目標の一つとして、この方法が、現実には大いに害をもたらす可能性をもった時代遅れの方法であることを、皆様に提起したいと思います。要するに、これは慎重に点検されなければならない米国からの「輸出品」であるということです。

■レイプを「認める」子どもたち

 それでは、これまでどのような害がもたらされたのでしょうか。一例をあげてみましょう。

 数年前、ロードアイランド州にある「レイプ・クライシス・センター」が、全国の6年生から9年生1700名に対して、レイプに対する彼らの態度についての調査を実施しました。この調査結果を見て驚いたことは、調査した男子の65%が「レイプは一定状況下においては認められる」と考えていたことです。その一定状況の一つは、例えば、男性が女性を誘って20ドルくらいのお金を使うような場合です。また、もう一つ驚いた点は、多くの女子がやはり「レイプは特定状況においては認容できる」としていたことです。

 この調査結果に対して、例えば「なぜ、学校においては価値観教育をしないのか」、あるいは「性教育をしないのか」といった疑問が上がりました。それに対する回答は、「もちろん、そういう教科はある」ということです。過去20年間にわたって、私たちはこうした教育課程が爆発的に増えたことを知っています。また、近年においては、そのような価値観教育、性教育に対して、膨大な予算と人材が投入されてきました。しかしその結果、疑問が呈されました。それは、こうしたプログラムが、現実に解決すべき諸問題に対して、本当に有効なのかどうか疑問を抱かざるを得ない状況に、いよいよ立ち至ったからなのです。

「なぜジョニーは、善悪を見極めることができないのだろうか」。善悪の違いについて、私たちが十分教えていないからとも言えます。あるいは、私たちがその代わりに「実験的方法」−つまり子ども自身に道徳性を確立させようとする実験−に頼っているからとも言えます。この実験は、さまざまな名称でもって進められています。例えば、「価値の明確化」「道徳的推論」「自己決定」「批判的思考」、あるいは「生活技術」といったものです。

 しかし、名称は何であれ、それぞれの前提は同じです。それは、大人には何が善で何が悪であるかということを語る権利はない、というものです。これらは、具体的問題として現われています。例えば、時にはそれが一つの教育過程となり、また時には性教育、あるいは麻薬教育過程におけるひとつの戦略となるというようにです。いずれにしても、「自己決定」の方法が、米国の学校教育における道徳教育の基調を作ってきているのです。

 ここで私たちは、教育の他の分野においては、このような「自己決定」の方法を使わなないことを銘記する必要があります。例えば学生たちに対して、そもそも登校するか否かの決定を彼ら自身に委ねるということはありません。また、化学の授業において、何と何を混ぜてどのような化合物を作るかということを彼ら自身に決定させるわけではありません。もしそのようなことをすれば、まさに「爆発的」な結果になってしまいかねません。

 こうした道徳教育における私たちの実験の結果も、「爆発的」なものであったという現実を見ることができます。子どもたちが大人の指導なしに、自ら「道徳性」の基準を作り上げてしまうとどうなるかは、火を見るよりも明らかです。1940年代から50年代においては、教師たちは、子どもがガムを噛んだり、廊下を走るといったことに関心を向けていました。しかし今日では、暴行や強盗、レイプといったことを心配しています。

■精神治療の世界から導入

 こうした実験的方法の出発点は、どこにあるのでしょうか。

 こうした「自己決定」の方法の始まりに関して、私たちが知っておくべき重要な点は、これは実際、精神治療の世界から取り入れられたものであるということです。いわば、カウンセリング分野において有用であると分かった考え方や技術を取り入れ、それを教室の中に持ち込もうとするものでした。

 1940年代から50年代に、カール・ロジャーズらが「非指示的」「非判断」「来談者中心」といったカウンセリング技法を開拓しました。カール・ロジャーズは、アブラハム・マズローと共に、現在の人間主義的心理学、あるいは人間の潜在能力に目を向けた心理学などの分野の創始者でした。ロジャーズは心理学者としては、それほど知られているわけではありませんが、米国の文化や私たちの考え方に、これほどの影響を与えた心理学者を私は知りません。

 1960年代から70年代にかけて、ロジャーズが開発したこうしたカウンセリング技法が学校に導入されました。その結果、教師たちが価値観に関しては、子どもたちに指示を与えず、判断をしないといった態度を取るようになりました。子どもがそれぞれの価値観を自分で探し出すようになり、結局はある価値が他の価値よりすぐれているというようなことは誰も言えなくなってしまったのです。

 精神療法と同様に、ここでの判断基準のポイントは、自分自身がいい感情をもてたか、そして自分が選択したことについての満足の度合ということになります。結局、「自己決定」の方法が、教師をアマチュアの心理学者に仕立てあげ、価値観教育の授業を、「エンカウンター・グループ」のようなものにしてしまったのです。

 しかしながら興味深いことには、カール・ロジャーズ自身は、自分の子どもや孫に対しては、この「非指示的」方法を用いなかったという点です。ロジャーズの知人であるウイリアム・カールソン博士が、ロジャーズ家を訪ねた時の話をしています。

 それはある夏の暑い日、ロジャーズ一家が屋外プールの近くに集まっているときのことでした。ロジャーズの孫娘2人がプールの傍らにいました。そのうち一人が、コカコーラのビンを取って、プールの脇に投げつけるような格好をしました(当時のコカコーラの容器は、ガラスでできていました)。カールソン博士はラウンジの椅子に座って、一部始終を観察しながら、考えました。「ロジャーズは、これを非指示的方法によって、どのように扱うのだろうか。孫娘に対して、『何を考えているんだい。ビンを投げたらどうなると思う』と言うだろうか」。

 しかしロジャーズの言ったことは、それとは違っていました。実際に彼が言ったことばは「ビンを置け。危ない! 誰かがけがをするじゃないか」というものでした。つまり、自分の孫に対しては、「非指示的」方法が影も形もなくなってしまったというわけです。

 また、アブラハム・マズローも、「非指示的」方法を実践しませんでした。ある日、彼は自分の娘を部屋に閉じ込め、彼女がドアをどんどん叩いて抗議をしたにもかかわらず、彼が選んだ大学に娘が進むことを娘自身が同意するまで部屋から出さなかったというエピソードがあります。

■「自己尊重の主張」

 しかしロジャーズやマズローとは違って、価値観教育の専門家たちは、精神療法においては適切な方法も、人生のさまざまな場面において、いつもそれが応用できるわけではないということに気がつかなかったのです。そのため、「非指示的」方法が価値観教育の基礎になってしまいました。彼らは、どのように正当化したのでしょうか。それは、私が「自己尊重の主張」と呼ぶ内容をもってでした。

「もし子どもが、自分自身に対して満足すれば、子どもは何も悪いことをする必要はない」と彼らは言っています。皆さんはこのような議論を聞いたことがあると思います。そして、あまりにもそれが単純ではないかと思われたのではないでしょうか。なぜなら、私たちは全く逆の結論に容易に到達することができるからです。すなわち、自己評価が非常に高い子どもは、「自分は何も間違ったことをするはずがない」と思いこんでしまうこともあるわけです。そのような子どもが考えることは、「自分は正しい。自分がしたいことは何でもできる」ということです。残念ながら、かなり多くの子どもたちがこのような結論に達するようであります。

 ボストン大学の同僚が、この点について一つの例を話してくれました。彼は自分の哲学の授業で、「正邪、あるいは善悪に関する個人的な葛藤」についてエッセイを書かせたことがありました。しかし、彼は学生たちにはこの課題ができないということが分かりました。なぜでしょうか。学生たちは明らかにまじめな顔をして、「今まで自分は何も悪いことをしたことがなかった」と言ったからです。

 保護者の方が私にいつも聞くことは、「子どもをどこの大学に通わせたらいいのでしょうか」ということです。それに対して、私はいつも「ボストン大学に」と言います。「ここでは誰も悪いことができないからです」。このように、非常に多くの「自尊心」を見出すわけですが、これはまた、あまり自覚がないということも言えます。

 米国の保護者の中には、教育における実験的方法に対して、非常に強い疑問を持つ人が多くいます。教育者自身が自分の子供には、その方法を応用しないという現実があるからです。例えば、シカゴ市の公立学校の約50%の教師は、自分の子どもを私立学校か宗教系の学校に通わせています。こうした傾向は、米国中の都市において見られます。

■知識欲のない教師 

 教師はなぜ、こうした方法に固執するのでしょうか。また、「価値の明確化」、あるいは「自己決定」という方法を取り続けるのでしょうか。私は、その大きな理由の一つとして、現在、米国の多くの教育者が「他に教えることを持っていない」ということだと思います。この問題について、あまり知識を持ち合わせていないわけです。教育課程においては多くの課目を学んでいるのですが、相対的に歴史や数学、科学といった分野は、あまり教育を受けていません。米国の典型的な教師は、子どもたちが大好きですが、それに見合うような知識欲は持ち合わせていないようです。

 結果的に、彼らが子どもたちに教える知識は非常に少なくなるわけです。ですから、歴史、文学、科学や地理といったことを教える代わりに、子どもたちと一緒に輪を作って座り、子どもたちの気持ちを理解しさえすればいいという誘惑に陥ってしまいます。これは授業として準備もあまりいらないし、目を通さなければならない宿題の数もぐっと少なくなるというわけです。

 従って、諸外国の子どもたちが米国の革命や南北戦争について学んでいる間に、米国の子どもは、自分の気持ちについて満足するということを学んでいるわけです。そして実際にこれは機能しています。米国人は、世界でも自尊心の非常に高い国民です。中国とチリの違いが分からなくても、自分たちのことでは満足しているのです。

 ですから、「自尊心」は、人格形成にとって代わる一つの試みでした。しかし、この代案はうまくいきませんでした。

■「道徳的推理法」の誤り

 もう一つのうまくいかなかった代案として、ハーバード大学のローレンス・コールバーグが開発したものがありますが、これは、「道徳的推理法」と呼ばれています。それは、子どもたちに困難な倫理的なジレンマを与えることによって、彼らの自己決定技術を磨くことができるとするものです。

 こうしたジレンマの中で最もよく知られているのが、「救命ボートの訓練」と言われるものです。これは、まず教師がクラスの子どもたちに「船に乗っているところを想像しなさい」と言います。そしてこの船が氷山に衝突し、沈みかけています。その中で自分たちが救命ボートに乗るわけですが、人数が多過ぎて、更に嵐のような天候の中では、全員が溺れる危険に晒されています。誰かを降ろさなければ船が沈んでしまうという状況に陥ります。そこで教師は、乗員のリストを見て、誰を犠牲にできるかを考えるわけです。そのリストには、若いカップルとその子ども、医師、スポーツ選手、芸能人といった人たちがいます。そして、そのリストの最後には、老人とその妹がいます。

 ご存知のように、米国の子どもたちが教えられる価値観の中に、目上の人に対する尊敬の念というのは、あまりありません。ですから子どもたちは、老人とその妹の2人を犠牲にするという選択をするわけです。

 ところで、ある研究者が、この訓練による変化を調べました。そして、乗客員の代わりに犬と学校の教師を置いたのです。すると11歳の子どもたちは、教師を犠牲にして犬を残したそうです。このようにして子どもたちの価値観が明確になるのです。

こうした道徳的推理法は、価値明確化の方法よりはましだと思います。しかし、重要な問題をいくつか抱えています。その一つは、子どもたちが非常に功利主義的な観点から人生を見てしまうということです。つまり、この世には必要ではない人間もいるという考え方をしてしまうのです。

 もう一つの問題は、子どもたちに対して、こうした解決が難しいようなジレンマを提示することの累積的な影響について心配しなければならないという点です。そのジレンマとは、中東和平交渉を行っている人たちにとってさえ難しいようなジレンマです。ここでいう危険性とはもちろん、次のような印象を子どもが受けてしまうということです。すなわち、道徳基準は何らかの矛盾を含むものであり、善悪の問題は不確かなものであると、誰にでもそういう印象を与えてしまうのです。

 つまり、子どもたちは、今まで自分がそもそも持ち合わせたことのなかった価値観や徳目について疑問を投げかけるように仕向けられるという問題があり、それは正に馬の前に馬車を置くようなものです。

 子どもを「社会化」するには、時間がかかります。また、嘘をついたり、他人を殴ったり、物を盗んだりすることが本当に悪いということに気がつくまでに時間がかかるわけです。従って、子どもの「社会化」が完了する前に、こうした特殊命題を彼らに提示することは誤りだと思います。

 そのことは次のことを示唆するのです。つまり、異常事態においては、嘘をつくことも多分大丈夫であろう、また非常に複雑な状況下においては、盗みも時と場合によっては許されるであろう。そして、特定の危機に瀕しては、他人の生命を犠牲にしてもよいだろう。このようなことさえ教えてしまうのです。

■成熟した大人のみ有用な「対話方式」

 話を戻しましょう。価値観を強調する教育者たちは、これに対する用意周到な弁明を持っています。彼らは、声を潜めて言います。「これはソクラテス的な手法である。プラトンやソクラテスが、人間の智慧を引き出すために、このような手法を使った」と。プラトンやソクラテスは、考えを吹き込んだり、講義したりはしませんでした。彼らは、あるジレンマを提示し、非常に突っ込んだ質問をしただけだというわけです。

 このことは、確かに事実です。しかし、プラトンはこうしたことを、「資格」のある人のみに与えています。プラトンは、対話方式は若い人には適切ではないと言っています。これは、30歳以上の成熟した大人に対してなされるべきだという意味です。さらに、対話方式というものは、すでに美徳を兼ね備えた人に対してのみ、ふさわしいと言います。プラトンの言葉を借りれば、「若者の頭というのは、子犬のようなもので、思想・思考に対して、これを噛んだり、引っ張ったり、割いたりするだけである」となります。従って、真理を探究すると言うよりも、彼らは議論をすることの興奮で紛らわされているのです。この結果は、若者が「良い人」になることよりも、彼らがただ理屈屋になるだけだというのです。これは、プラトンが最も嫌いであったソフィストの典型なのです。

 そこでアリストテレスとプラトンは、「習慣」を強調しました。アリストテレスは、「美徳とは、習慣と日々の実践によって獲得されるものであって、決して議論によって形成されるものではない」といっています。また彼は、「人間というのは、公正な行動によって公正になるし、勇敢な行為によって勇敢になり、節度のある行為によって節度ある人間になる」とも記しています。

 古代ギリシャ人は、このように美徳を理解したので、彼らは人格形成を競技訓練によく例えました。「美徳」という言葉の原義は、現代のことばで言えば、「力」といったような意味でした。「体力」と同じように、それは訓練を怠れば、失われるものだったのです。

■欲望の奴隷となる個人を作り出す

 上述のような理解をもとに考えて見てみると、今日私たちは「選択すること」や「決定すること」という話をしますが、それは浅薄なことです。なぜなら、個人はそうすることができる能力を持ち合わせていなければ、何かを選択することはできないからです。

 例えば、ボストンマラソンを走ると考えた時、それだけの体力がない人には「走る」という選択肢は出てきません。自発的に何ヵ月もトレーニングを積んだ者に対してのみ、選択が可能になってくるのです。

 この観点から見ますと、「人格教育」というのは、習慣と訓練を強調していますので、現行のカリキュラムよりも、選択についての真の自由を提供しているといえるかもしれません。そのカリキュラムは、「選択」についてかなり多く扱っていますが、むしろその本当のところは自分の欲望の「奴隷」となっている個人を作り出す傾向にあります。

 私たちは、選択や選択肢については十分論議していますが、習慣の形成については今まで怠って来ましたので、実際には、歴史上現われた中で、最も脅迫神経症や中毒にかかったような社会を作ってきたのかもしれません。私たちの社会は、それぞれの行動に対して選択の自由をほとんどもてない人々で溢れているかのように見えます。

 私たちが現在苦しんでいる脅迫神経症的行動のリストを挙げてみましょう。アルコール中毒、タバコ中毒、過食症、ギャンブル狂、買い物のしすぎ(これには私も含まれるかもしれませんが)などがあります。アリストテレスがこれを見れば次のように言うことでしょう。「良い習慣のない人は、ほどなく悪い習慣の虜になってしまう」と。

 米国人は道徳教育の実験に失敗しました。「価値観の明確化」「自己決定」「道徳的推理」というのは、個人主義が極端な段階まで至った例です。こうした方法の中で、それぞれの子どもたちは、大人社会からの指導、助言なしに、自分自身の価値観を作り上げるようになっています。

 父母や教師が価値観を子どもたちに教えなければ、子どもは自分でものを考えるようになる、と考えていました。しかし、実際にはそうなりませんでした。その代わり、子どもたちは、仲間集団やメディアに翻弄されてしまいました。そして、もちろんメディアは、自分たちの偏った価値観を、何のためらいもなく子どもたちに押しつけてきました。

■メディアが集団行動的社会に影響

 皮肉なことに、これと同様のことは、快楽主義的で、物欲主義的なメディアに一旦さらされると、集団行動的社会においても起こり得ます。

 例えば日本は現在、より小さな規模においてではありますが、米国が直面している問題を体験しています。特に深刻な問題は、女子中高生の売春という問題です。しかも彼らは、中流階級の子どもたちであって、貧困が原因で売春に走るのではなく、衣服、時計、ハンドバック、宝石など高価なブランド品を買うために売春に走るのです。彼女たちの大半は、13歳、14歳という年齢です。東京のある学区においては、女子中高生の3分の1がこうした売春に関わっていると推定されています。

 こうした個人主義の過度な強調が快楽主義的な道徳性を導くように、過度な集団行動主義の強調も同様の結果をもたらします。すなわち、一つの集団行動主義が別のタイプの集団行動主義に取って代わられるというだけです。そしてメディアは、伝統的な社会においても、青少年の間にこうした集団主義的思考を作り出すことに成功してきました。青少年が個人としての判断ができなくなったとき、仲間集団が集団行動主義の発信源となります。仲間集団は、伝統的な価値(道徳)からではなく、娯楽産業によって作り出された価値観を追従しているのです。過度の個人主義を奨励する社会と過度の集団行動を奨励する社会は、ともに不幸な結末を迎えていくことになります。

■普遍的価値観を育てる

 伝統的社会と個人主義的社会の双方において、子どもたちを助ける一つの秘訣は、普遍的価値観を子どもたちの中に育てるということです。その価値観とは、メディアに対しても、自分自身の行動に対しても、価値判断することのできる客観的な原則のことです。

 もちろんコールバーグは「自分はこのことを行っている」と考えていました。彼の間違いは、道徳性に対して純粋に合理的な根拠を持てば十分であると考えたことです。彼は、子どもたちが全く指導を受けない理性の働きによって、こうした普遍的な倫理原則に到達できると誤った仮定をしました。そして更に彼は、子どもがこうした原理を一度発見すれば、それに準じて行動する、とも誤って仮定を立てました。

 彼は、二つのことを考慮に入れませんでした。それは「意志力」と「情操」です。コールバーグは、習慣の形成によって意志力を訓練するということには関心を持っていませんでした。従って、彼は、子どもが仮に何が正しいのかということを考えるだけの能力が幸いあったとしても、自分の知識に基づいて行動する意志力には欠けていることに気がつきませんでした。

 また、道徳的生活における情操の重要性をも、彼は認識できませんでした。彼が見落とした点は、次のようなことです。何が善であるかを単純に知るだけでは十分ではなく、それを追求しなければならないということです。

 道徳教育という課題について、深く、長く考えてきたプラトンは、子供たちが美徳の虜になり、悪徳を憎むような仕方で教育されなければならないと考えました。そして、このような欲求を若者の中に起こす鍵は、教訓を含んだ話や歴史であると考えていたわけです。そうした欲求がなければ、いかに議論と対話を重ねても、それを補うことはできないだろうというのです。

 事実、道徳分野においてさえ、大半の人は議論によって説得されるのではなく、美学(美の力)によって説得されるのです。より正確には、彼らが美しいと感ずるものによってのみ動かされるのです。

 一例として、イブ・モンタンはアイゼンシュタイン作の映画「戦艦ポチョムキン」を見て、共産主義に転向したと告白したことがあげられます。つまり、彼は知的な議論によってというよりは、美的な側面によって強く動機付けされたわけです。

 アブラハム・リンカーンも、同じようなことを指摘しています。彼が最初にハリエット・ビーチャーズ女史に紹介された時、このように挨拶しました。「この子が大きな戦争を始めた小さな淑女ですね」と。これは米国人の道徳的な感性に対して、「アンクルトムの小屋」という小説があまりにも大きな影響を与えたことを指摘したものです。この小説が出版されると、何百もの都市で上演されました。それは、非常に多くの米国人にとって、奴隷制という「悪」が実にドラマチックな形で視覚化された初めての体験でした。

 ですから、私たちは道徳問題について、子どもたちは批判的な考え方をしてほしいと望むべきですが、しかしそれ以上のことを望むべきです。すなわち、善悪について熱心に求めることも同様に大切です。

■人生には意味がある 

 コールバーグの方法論と価値観の明確化についての第2番目の問題は、道徳と意味の関連性を理解していなかったということです。人生には意味があるという感覚がなければ、全ての行動における動機づけの力は失われてしまいます。

 マクベスの言葉を借りれば、「人生というのは、愚者が語るストーリーである。それにはたくさんの音と怒りが込められているが、何の意味も持たない」ということなのです。ということは、どのように行動するかということが問題ではないということです。もし人生そのものが意味を持たなければ、良き人生を送ろうとすることの意味はありません。

 しかしながら、意味を持ったこの宇宙において重要な役割を果たせる見込みがあり、その役割をうまく果せれば、その人にとっては、そのことが十分な動機づけとなります。こうした動機付けがコールバーグの方法論に欠けているのは明確です。なぜなら、物語の基盤としての人生の意味を全く欠いているからです。従って、人生に生きているというような感覚が失われてしまいます。実際には、関連のないジレンマの連続として捉えられた道徳的生活に関しても、何か不自然な気持ちが存在します。これはあまり魅力的な人生の理想像ではありません。むしろ関連性のない点をつなげていくゲームのような作業になってしまいます。

 ストーリーの魅力は、こうした意味を人生に与えることができるということです。そして、人生そのものが一つのストーリーであるという確信を強めてくれます。すなわち、人生にはつなげるべき点、あるいは目的、座標があるということです。

 ロバート・ペン・ウォーレンという人は、「私たちが生きる人生というストーリーについて、何らかのヒントを得るために、私たちは小説を読む」と言いました。ストーリー性、目的、あるいは人生の葛藤や苦しみに対する説明というものがあります。こうした物語の最高の賜物は、こういったものが見つけられるという安心感です。それはまた、ストーリーは、より大きなビジョンを私たちに与えてくれることにより、混沌として意味がないように思われる体験の中に、意味を見出す手助けとなるのです。

 数年前、ある15歳の少年の新聞記事を読みました。彼は、老女を残虐に殺害したということで逮捕されました。警察から「後悔していないか」と聞かれた時、彼はこう答えました。「彼女は僕ではない。なぜ彼女を気にかける必要があるのか」と。確かに、人生に目的がなければ、彼はこのような見方でいいと言えるのかもしれません。

 米国には、人命を尊ぶということを知らない若者が、実に多くいることを私は残念に思っています。なぜなら、自分にのみ埋没し、あるいは自分を甘やかしている状態から抜け出て、自分自身の何たるかをつかむことのできる「人生という大きなストーリー」やビジョンといったものが、彼らにはないからです。若者たちが、一つの人生のストーリーを念頭に置いているとしても、単にスリルを追求するためのもの、何か自慢話をする、あるいは行きずりの性関係を楽しむといったこと以上のものではなく、極めて限定されたストーリーのはずです。

■道徳的情操の教育

 私たちは、食べ物を必要とするのと同じように、人生にドラマを必要とし、物語を語る存在です。そして娯楽産業は、子どもたちを一つの型にはめることに成功しました。というのは、子どもたちに対してストーリー、ドラマやイメージなどを与えているからです。仮に道徳の教育者が、子どもたちをメディアの誘惑に抵抗できるよううまく教育できたとしても、その後も道徳的発達における情操に役割について、もっと関心を持つべきです。

 子どもたちに対して、行動規範を提示することは重要なことです。そして良い行動習慣を身に付けさせることも大切です。と同様に大切なのは、彼らの情操を豊かにするということです。情操と情熱が、悪の側にある子どもたちの中に育っていけば、それは少しの努力でもいいのですが、彼らを美徳の方向へ引っ張っていくことが可能となります。

 火に対しては、火でもって闘わなければなりません。従って、よいストーリー、イメージ、思い出をもった次世代の子どもたちを育てるのは、正に私たちに責任があります。ストーリーやイメージというのは、子どもに人生における意味を見出させ、ニヒリズムや大衆文化に抵抗する力を与えることができ、それは同時に、正しいことが行えるよう鼓舞することができるのです。ハムレットのセリフに、「王の良心を捉えるのは、芝居においてである」というのがありますが、実際、芝居は王の良心を捉えたわけです。

 ですから、芝居とはやはり、それなりのものと言えます。類例のものとして、芝居、物語、歴史、偉人伝、歌、詩といったものがあります。これらによって、全ての世代が道徳的情操を得ることが、あるいは取り戻すことができるのです。

■失敗した米国の実験

 適切な道徳教育には、三つの側面があります。それは、理性、意志力、情操を訓練することです。米国においては、かつてこのことを理解していましたし、また人格をいかに育てるかということが分かっていました。それはどのようにしてかといいますと、規律を立て、学校において前向きな道徳文化を作り上げることによってです。また、子どもたちに対して高い理想を与え、模範を提示すること。また非常に力のあるストーリーによって動機づけをすることによってです。

 しかし、私たちはどこかでこうしたことを忘れてきてしまいました。そして、人生に意義あるビジョンを示すことのできるストーリーを語ることをやめてしまいました。私たちは、習慣の形成ということ全てを見下していました。その代わり、私たちは価値観の明確化、あるいは自己決定といったさまざまな仮定した「近道」でもって、壮大な実験をしてきました。しかし残念ながら、十分考えぬかれたプログラムが、却って当初意図したものとは、逆の結果をもたらすことも度々でした。

 例えば、学校における麻薬防止プログラムは、逆に麻薬の乱用の増大につながってしまいました。また、性教育のプログラムも、性行動をより活発化させ、性感染症の増大につながっています。

 1960年から90年の間に、米国では凶悪犯罪が560%も増加し、婚外子が419%増加、離婚率は4倍に増えています。他の先進諸国に比べて、米国は最も離婚率が高く、十代妊娠率も最も高く、妊娠中絶率も最高となっています。また若者たちの間で暴力的な殺害事件が最高の国であります。

 ですから、「メード・イン・アメリカ」というラベルが貼られた教育上の「産品」を取り入れる前に、慎重に検討していただきたいと思います。米国は現在も、優れた製品を数多く製造し、輸出しています。しかし、過去30年間における米国の学校教育の中で生み出されたアイデアは、例えばボーイング747やアップル社コンピューターといった高品質の商品と比較されるべきではありません。むしろ、これらはバービー人形やマイケル・ジャクソン、MTV(米国の音楽専門のテレビ)、ラップミュージックといった米国の輸出品と同等のレベルであるわけです。

 こうした商品がなくても、十分に人生を楽しむことができます。またそれと同様に、米国の教育者によって輸出されたアイデアなしでも、皆様は十分にやっていくことができるはずです。現在、米国人の多くが、こうした欠陥商品を回収すべきだと要求していることを鑑みるとき、皆様の社会において、これらを輸入することはあまり賢明とは言えないと思います。

 また一方では、私たちの間違いから学んでいただくことも可能です。私たちが長い期間にわたって、こうした諸問題を体験してきたという事実から、皆様は有益なことが得られるかもしれません。結果として、私たちは将来に向けて有望な戦略、解決策の開発に着手し始めたところです。皆様にとっての一つの課題は、米国における、どのような系統の専門家に耳を傾けるかということと言えましょう。

(1997年11月25日)