日本と西洋の文化比較

名古屋外国語大学教授 加藤 和光

 

■「権利主張社会」と「茶碗蒸し」

 1年程前、ある新聞の書評欄で、松山幸夫という人が書いた『ビフテキと茶碗蒸し――体験的日米文化比較論』という本が紹介されていました。そこには、興味深い話が載っていましたので、少しご紹介いたします。

 あるとき松山さんがパーティーの席上で、そこに参加していた歯科医師に何気なく話かけたそうです。「時々歯が痛むけれども、こういった場合はどうしたらいいか」と聞いたら、歯医者さんは「歯をこういうような調子でよく磨くことですよ」という返事をしたそうです。ところがその数日後、その歯科医師から請求書が松山さんのところに送られてきたので、びっくりして、この請求を払うべきかどうかについて、今度は知人の弁護士さんに「こういったことで請求書が来ているが、どうしたらいいか」と相談したそうです。その弁護士は、「それはやはり支払うべきでしょう。とにかくプロフェッショナルの領域の問題ですから」と回答したというのです。結局彼は、請求額を払ったのですけれども、またその数日後、今度はその弁護士から請求書がやってきたという話です。 

 彼は、米国社会を「権利主張社会」と見ています。それに対して、日本は「茶碗蒸し」のように、いろいろなものやいろいろな人たちが、和をなして一つになっている社会だと松山さんは言ったということでした。

 これは日米の問題ですが、日本と中近東との関係でも同様のことがあります。ある新聞記者の書いた体験的比較文化論の中に、次のような話がありました。

 中近東のある国へ行き、宿泊しようとホテルへ行ったそうです。そして彼が「予約している○○だが」と言うと、「お部屋は×号室です」と言ってキーを渡してくれた。自分の部屋へ行ってみると、キーが間違っていて全然キーが入らない。よく見たら間違った部屋番号のキーをくれたんだということがわかった。彼はフロントへ行き、「間違ったキーをくれたじゃないか。これは私の部屋じゃない」と言ったら、「それはあなたが別の番号を言ったからだ」ということで、全然譲らない。実際には、彼が言った番号の方が合っていて、間違ったキーをくれたのだそうです。この新聞記者は、つくづくと文化的な背景の違いを感じたそうです。もしこれが日本だったら、恐らくフロントの人は、「大変失礼いたしました」ということで、正しいキーを渡して謝罪することでしょう。

 近年、伊達公子がテニス界を引退しましたが、引退直後に出た本に、「ラストゲーム」(日本文化出版)という本があります。その中に、1996年ウィンブルドンで、伊達公子とドイツのシュテフィー・グラフが対戦したときのことが描かれています。上手にうまいボールが入った時に、観客席からシュテフィー・グラフに対して、「シュテフィー、僕と結婚してくれ」という声があったというのです。するとグラフは「あなた、お金持ってるの?」とやりかえしました。その時伊達公子は、「私も、私じゃだめなの、と言おうと思ったけれども、言わなかった」と書いています。

 伊達公子は、結局引っ込んでしまったわけなのですが、その引っ込みの背景には、やはり文化的背景があると思います。いわゆる欧米流の「個人社会」に対して、日本という社会構造の中で育ってきた伊達公子という人の性格が原因としてあったと思います。それは日本社会を反映した性格でありましょう。「私では、だめなの」と本当に言っていたら、「何とはしたないことを言うんだろう」と、言う人も恐らくあるんじゃないかと思います。これは、いろいろな人が体験した文化比較でございます。

■哲学から文化へ

 本日、私が「日本と西洋の文化比較」というテーマを選んだ理由には、大きく分けて二つあります。

 まず大学では「比較文化論」を教えております。私自身の学問的背景を言えば、学位は「比較哲学」で取っております。その論文では、西洋の認識論という枠の中で、東洋と西洋の中の特定のものを比較しました。その後、西洋と東洋の古代文化等も扱ってきました。

 1960年代初めごろ、米国の大学内では、哲学が重視されていました。しかし、1965年を越えて、ベトナム戦争が非常に逼迫した情勢になってくるにつれて、若い人たちが1960年代の理想的な視点から、もっと現実的にものを見るようになってきました。そうしますと、学生たちも「一体哲学とは何だろう。何の役に立つんだろう」というように考えはじめました。その時期は、大体1960年代終わり頃でした。それを契機に、哲学は次第に下火になります。その結果、哲学の教授たちは他の教科も教えなければならなくなりました。

 私が教え初めたころ、西洋哲学には大体二つの流れがありました。一つは、論理実証主義や分析哲学、もう一つが実存主義という流れ。古代哲学、近代前期の哲学もその範疇で教えるといった風潮でした。その他、実存哲学もだんだん下火になって消えていき、逆に分析哲学が非常に力を持ってきました。

 哲学が非常に分析哲学の方に傾きまして、現実離れしているとの批判がありました。「一体、哲学とは何をやる学問なのか?」と学生からよく問われたものでした。「これをやって、一体何になるんですか。頭の運動でしかないじゃないですか」、頭のいい学生に限って、このようなことをはっきりと言ってきます。それで、私もだんだん「それもそうだなあ。これだけ抽象的になってきている。しかも分析のための分析、いわゆる頭の運動でしかなくなってきているなあ」と思い始めました。「学問の目的が、ただ真理の探究をするだけでは、意味がないのではないか。むしろ学問というのは、社会のニーズや人々の期待に沿うことが、本当の真の学問じゃないか」と考えるようになりました。

 1960年代後半頃から1970年代にかけて、米国では「文化(civilization)」ということを主題に、文化全体をつかもうということが一つの潮流をなしていました。例えば、スタンフォード大学等が口火を切りまして、医学部学生にも「文化」を教えなくてはならないといった考え方です。すなわち、「医者も文化が分からないと、患者を正しく理解できない。人それぞれがもつ文化的背景の中から人間の行動が生まれるのだから、個人と社会とは切り離せない。人間とは、社会を形成する文化の中に生きる存在である」というわけです。スタンフォード大学では、2年間、医学部の学生に「文化」について教えることになったのです。

 そうした流れの中で、私も徐々に文化について教えるようになりました。これが第1番目の理由です。

 もう一つの理由は、次のようなことです。

 過去20年ぐらいの間に西洋社会では、「西洋中心主義(Euro-centricism)」というものに疑念を抱く人が徐々に増えてきました。テレビの番組や一般的な読書の中に、そういった傾向がはっきりと現われてきたわけです。もちろん、正確に言えば、西洋中心主義に対する疑念という動きは、19世紀のころからありました。

 例えば、テレビの番組では、いろいろな文明・文化を出して紹介しながらも、最後の結論は、「今日の社会は、西洋文化を主体とした文化であって、もしこれに東洋文化や他の文化がどこかで一緒に交ざっていたら、果たしてこうしたものになったであろうか」というふうでした。

 世界の文化の流れを大きく見みますと、17世紀以降、西洋文化が概ね世界を支配し始めました。そして日本には、16世紀ころからポルトガル、スペインなどを通して、鉄砲や火薬などという形で、西洋文化が入って来ました。大きな波として西洋文化が入ってきたのは、19世紀のことでした。

 それ以来(特に明治5〜6年以降)、日本では、我々が小学校で習う算術・音楽・図画などに代表されるように、西洋文化の枠の中で育った学問体系を教えはじめました。これは恐らく日本だけに限らず、インドへ行っても同じですし、中近東へ行っても大体同じような傾向があります。西洋文化は、特に科学、産業という形で全世界に普及していきました。

 ところが現代にいたり、西洋においても、「西洋文化だけが文化というのではなく、他にもアフリカ文化もあるし、東洋文化もある。世界にはいろいろな文化の形があるじゃないか」と感じる人たちが出て来ました。このような傾向もありまして、西洋文化中心の考え方への見直しが必要だろうという問題提起がそれで、そんなことを含めてお話したいと思います。

■常に生成、変化する「文化」

 近年、日本の急速な経済成長とそれに伴う世界的地位の向上の結果、西洋社会の日本を見る目が大変厳しくなってきました。今まで日本が弱小で、西洋をモデルとして追随してきた時代には波風も立たなかったのですが、日本が大きくなり力が強くなってきたので、日本を見る目が厳しくなってきたというわけです。

 西洋人の日本に対する批判としては、「日本人は集団的だ。日本社会は規制を厳しくして西洋を排除している」というものがあります。一方、日本の中にも、「アメリカは強引だ」という欧米に対する批判があります。そのようなことを称して「文化摩擦」という言葉までできました。

 このようなことを踏まえまして、今日の私の話が、これからの世界の在り方を考える上で、何か一つの手掛かりにでもなればと思っています。

「文化比較」という言葉を使いましたが、「文化」という概念は非常に曖昧であり、難しいものであります。

 先述しましたように、米国の大学で「文化」について教え始めた時、西洋文化(Western civilization)とか東洋文化(Eastern civilization)という言葉を使って教えておりましたが、正確には、比較をする学問というのではありませんでした。

 日本語では、「文化」と「文明」とを切り離して考える場合が多くあります。ところが英語にしても、ドイツ語にしても、フランス語にしても、cultureとcivilizationとはほとんど区別していません。例えば、cultureという言葉は、英語では割に早くから「文化」という意味で使われはじめております。フランス語でもやはりそうでした。ところがドイツ語では、Kulturを耕すとか植物を育てるという意味で非常に古くから使っておりまして、19世紀になるまで「文化」とははっきり峻別して、「文化」の方をZivilisationという言葉で呼んでいました。

 ところが日本語では、これがはっきりと分かれています。例えば、エジプト文明、メソポタミア文明などの「文明」と、フランス文化、日本文化のような「文化」とは、意味が異なります。

 現在私は、西洋文化、日本文化、東洋文化という概念をどのように教えるかということに、関心を注いでいます。それぞれの文化の特色を持ち出した方が、文化の比較が容易になるわけです。最初は、個々の文化・文明を個別に教えていたのですが、「エジプト文明はこの時代こうだったけれども、果たして古代インドではどうだったのか」といように、特色の比較をするようになりました。1970年代になって、「比較文化」という概念が生まれてきました。

「文化」とは、大変にダイナミックなものでありまして、常に生成し、変化するものです。常につくられ、常に変化しています。「私」が生きてきた短い間でも、いろいろ私たちの生活の中で、消滅していったものがたくさんあります。私たちが子供の時にはなかったものが、現在たくさん出て来ています。このように「文化」というものは、非常にダイナミックなもので、常に生成し、変化し、その中で個別化が進むのです。

 大きなこの時間の流れの中で、それぞれ自分たちが生活の中で築いてきたものがありますが、そんなものの中心に当たるものが「個別化した文化」だと思います。その文化の性質は、「終わりのない、一連の過程」でもあります。つまり文化というものは、常に動いているものであり、「これが文化だ」などと特定することのできないほど複雑かつ変化するものであります。終わりのない過程、その過程の中心的なもの、そして個別化されたものが、日本文化であり、西洋文化であるというわけです。このように見るのが妥当ではないかと思っております。

■システム化が少ない「文明」

 我々が「西洋文明」というものを考えるときに、西洋文明とはどこから興ったのだろうかということを考えます。今申し上げましたように、ダイナミックな文化という生成変動の過程の中心にある個別化された西洋文化の原点は、一体どこにあるのかということを考えてみるときに、エジプト文明やメソポタミア文明が西洋文化に及ぼした影響というのは、割合に少ないのではないでしょうか。例えば、灌漑とか非常に限られたものは、もちろんそこから継承しておりますけれども、思想を含む西洋文化の多くはギリシャで生まれたと考えられます。

 古代ギリシャの思想家アナクシマンドロスは、「火とは何か、風とは何か、水とは何か」というように、自然を客観的に見つめ始めた最初の人だとされています。エジプト文明の中には、そういう人は出ておりません。また古代オリエントのバビロニア文明の中では、ギルガメシュにような英雄伝説はあっても、西洋式のものの考え方のはじめをつくったと考えられる人は、今のところまず見あたりません。このように西洋文化の原点は、ギリシャにあると思います。

 私が米国の大学で哲学を教えていた時に、学生に西洋文化の原点について聞いたことがあります。そうすると学生たちは、一様に「ギリシャが西洋文化の原点だ」と答えるのです。しかし考えてみると、哲学史というのはギリシャから始まるから、ひょっとしたらそうしたことに影響されているんじゃないかと思って、私の友人で科学史を教えているサイエンスの教授に聞いてみました。「ガリレオの時代から近代の科学史がはじまりますから、近代科学というのは、ひょっとしてイタリアが原点だという人がいるかもしれない」と思いまして、聞いてみたら「自分たちの文化の原点はギリシャだ」または「ローマだ」と大半の人が言うのです。結局、今申し上げたアナクシマンドロスやアリストテレス、ピタゴラスなどのギリシャ的な考えをもととするものが、西洋文化構築の契機をつくったと考えても間違いではないと思います。

 文化には、いろいろな定義があります。日本でも、西洋でも、同じように数えられないぐらい文化を定義した人がいます。例えば、文化人類学では、人間の作業とか思想のすべての結果を文化と言っています。人間がつくり出したものすべて、つまり物質も観念もすべてが文化であると言います。また狭義としては、「カルチャーセンター」のカルチャーのようなかたちでも使うことがあります。広辞苑で文化と文明の定義を比較してみますと、ほとんど変わりません。

 私は「文明」というのは、おおざっぱに言って、「野蛮」の反対語だと考えます。それでは「野蛮」とは何か。これもまた難しい問題です。私たちが宗教、学芸、技術というものに定義を与えようとするとき、私たちは、非常に狭義に、細部にわたって正確に定義しようとします。「文化」の定義はそれに似ています。ところが、「文明」といった場合は、同じ宗教、学芸、技術でも、距離をおいて広義に定義しようとします。

 エジプト文明というのは、ギリシャ文化や西洋近代文化と比べますと、正確性に乏しいと思います。西洋近代文化は、我々が性格をかなり正確につかむことができますけれども、エジプト文明とか古代オリエント文明といいますと正確性が非常に薄いのです。それは、知っているところが少ないのか、あるいはその文明にもともと正確性が乏しいのかまだはっきり分かっていません。しかし、エジプト文明というように、「文明」ということばをつける時には、システム化が少ないのではないでしょうか。逆に、はっきりとシステム化されたものが、「文化」ではないかと思います。

■統一性をあたえる「文化」

 次に、私の考える文化の定義というものを申し上げたいと思います。

 まず第1に、「さまざまな次元で、さまざまな面や角度を持つたいへんに複雑な人間生活の延長である社会がつくってきた、物質的、観念的なものに統一性を与えるもの」を、私は文化と考えています。例えば、王朝文化といった場合、そこには統一性があります。これとこれが、このように結ばれているから王朝文化だというように、論理的な統一性がなければ、文化と言うことはできません。

 2番目は文化現象です。文化現象というものは、人間のために意味を与えるものであります。もしそれが全く無意味であったら、文化として我々が取り上げて、ディスカッションをする理由がありません。ですから、意味を持たないものは文化といえないのです。

 3番目は、「人間の生物的な側面(つまり生きる、食べる、子供をつくる、老いる、死など)とは区別された、人間の社会生活を基盤にしたもの」が文化だと思います。例えば、「言語」です。「サピア・ウォーフ(Sapir-Whorf)の仮説」というものがありますけれども、言語とは単なる伝達のための手段ではなくて、言語自体が人間に作用を及ぼす力があります。私たちは、生まれ出てきた世界には既にもう言語があり、自然にその言語からさまざまな影響を受けることになります。

 例えば、色分け(区分)も社会によって異なる場合があります。虹は何色に見えるかといった場合に、日本では7色ということになっていますが、ある種族の文化の中では、虹は4色だと言います。また別な種族では3色だといいます。

 それから日本語で「車ががたがたする」といいますが、その「がたがた」というのを、米国人に言ってもそれが意味する音は全く分かりません。つまり一つの言語世界の中に私たちは生きていますから、そうした文化的背景を抜きには言語を理解することはできないのです。言語というのは、文化の重要な形態の一つと言えます。ですから言語(音声)文化というものは、非常に大きい力を有し、それはまた集団を結束する力、集団の中での習慣づけをする力を持っています。このようなものが、文化ではないかと私は思っております。

■思考停止になるレッテル貼り

 私たちは文化を固定観念化することもあります。例えば、米国人と話し合ったりすると、まずジョークからはじめるといいます。次にドイツ人に演説をさせると、「今日は、これとこれとこれを三つ話す」というように話します。つまりはじめに分析してから、それをどんどんと話していく。日本人のスピーカーが話すと、まず最初にお詫びと弁解からはじめるといいます。こうした話をエスニック・ジョークと言っています。特色を非常に抽象化して、いわゆるレッテル貼りをしてしまうのです。

 第二次世界大戦中に、米国政府から依頼を受けて文化人類学者ルース・ベネディクトという人が『菊と刀』という本を表わしまして、日本文化を広く米国民に紹介しました。ここでルース・ベネディクトは、日本文化は「恥の文化」、西洋文化は「罪の文化」だと二分しています。こういうふうにレッテルを貼るのは非常に簡単です。しかしレッテルを貼ることは、非常に危険性が伴います。その説に感銘した人は、「日本人は恥の文化」だというわけで、そのレッテル以上進まなくなり、そこで思考が停止してしまうのです。次に今度は、欧米人自身も、「我々は、原罪をもって生まれてきている。罪の文化だ」と、自分たちにもレッテルを貼ってしまいます。非常に複雑な現実、とらえがたい世界を、単純化してしまい、それだけで満足してしまうということになります。それからこのように特殊化(レッテル貼り)していきますと、国粋主義に陥る危険性もあります。

 また文化を単なる制度や組織と見ないで、動植物のような生命を持った存在だと考える場合もあります。それは「文化とは育てるものだ。日本の美しい大自然の中で、日本文化の種が植えられ、民族の血と汗で育て上げられ、今の日本文化という美しい大樹に育てられてきた」という見方です。その結果、「自分たちの祖先が築きあげてきたつくってきた日本文化という大樹は、大切な大樹だから、絶対に死なせてはいけない」という考え方が生まれます。これは「自己文化優位論」です。ところが、このように大樹のように大きく成長してしまったシステムは、どちらかというと文化の変遷を嫌うようになります。

 一般に、日本は集団的な文化だと言われています。しかしながら、外国にも集団的傾向はあります。例えば、イエール大学の卒業生の会といえば、イエール大学出身の結束力の強い集団になっています。

ところで江崎玲於奈博士は、日本人と米国人を比較するに際して、「日本人は固体の分子」だといいました。その意味は、相互の関係が既に決まっているし、それぞれの運動も決まっているということです。一方、「米国人は気体の分子」だと言います。それぞれの分子は、自由に動き回るけれども、それでいて互いにぶつからないというわけです。

 それから文化人類学者の吾妻洋氏は、「日本人は、お盆の上のおにぎりで、米国人はお盆の上のグリンピースだ」と言います。グリンピースは、お盆を動かすと一つずつばらばらに動きますが、おにぎりの方は、いっしょに(米全体が)動くわけです。

 両方とも日本人は集団主義的で、米国人は個人的だと規定しています。しかし、米国人も日本人も非常に千差万別で、このレッテルに全部があてはまるかというと、そういうことは全くありません。そのような傾向の人が多いということでしょうか。それほど文化というものは、複雑なものです。

 西洋文化の原点は、ギリシャにあると申し上げました。それでは、日本文化の原点はどこかという疑問がでます。地理的な日本はわかっていますから、いつだろうかということになります。

 日本文化の性格から見た場合、日本の原点は、狩猟生活をしていた縄文時代ではなくて、自分たちが自然に対して働きかけて、農耕をはじめたころにあると思います。その農耕社会(稲作文化)は弥生文化の頃からだと考えれば、弥生時代が日本文化形成の契機だろうと思います。 

 伊東俊太郎氏の書いた『日本人の自然観』(河出出版)を見ると、日本人が自然をこのように見ていたという図が出ています。

 その中心は「村(里)」になっています。「むら」という言葉は、「群」と同じ語源で、人が集まるところが村となります。生活圏の中心であります。それから山裾の傾斜地である「野(の)」の方へ続きます。「野」というのは、古代社会では、「まだ耕作されていない山裾の傾斜地」のことを意味しています。更に行くと、「端山(はやま)」、「外山(とやま)」、そして山の中心に至ります。「奥山」、「みね」「みやま」と呼ばれていました。

 今度は、海の方に向かいますと、やはり「村」から出発して、一つには「岬(御崎)」、もう一つは「浜(みなと)」から船に乗って「海」、そして「沖(おき)」となり、伊東俊太郎氏はその先に「常世」という言葉を書いています。これは恐らく、「常世」というのは、はっきりとは言わないけれども、日本人は古い時代からその向こうに何かがあるのではないだろうかと考えていたのでしょう。

 皆さんもご存じの井原西鶴の『好色一代男』という本があります。その中で、最後の好色一代男は海の彼方へ行ってしまい、帰ってこなくなってしまいます。これについては、その男は「常世」へ行ったという意味を含めているのではないかという見方をする人もいます。

 また「市」というのは、元来は「巷(ちまた)、道が交叉するまた」という意味で、よその村々から人がやって来て、巷でもってきたものを売買したり、物々交換をしたりするところとなります。そこでは他村の人と会ったりもします。そのようなところが「巷」であって、それはまた古代日本の生活圏の中にあるところとも言えます。今の現存しているほどんどの昔話は、村や里に住んでいる人たちが、いろいろなことをしたという形のものであって、都市を舞台にした話はまず出てきません。

■地名に人の名をつける西洋

 西洋文化を担っている西洋人というのは、紀元前3,500〜3,000年ぐらいまではシベリアの西方にいたアーリア人と総称される民族です。そして今から10,000〜11,000年前ごろに最後の氷河期がおわりまして、その頃は地球の大部分がまだ氷に覆われている状況でした。ヨーロッパ、中近東、アフリカも氷の下でした。そしてこの氷が徐々に長い年月をかけて溶けていきます。そして紀元前3,500〜1,500年くらいの間に、西洋社会の主流をなすアーリア人種がヨーロッパ全土にわたって移住していきました。フランス付近には、ケルト族がいました。それからゲルマン人、スラブ人なども入ってきました。

 このような事情のために、ヨーロッパの諸言語は皆似通った言語体系になっています。それでギリシャ語、イタリア語、ラテン語、ゲルマン語、インドの古いサンスクリット語、古代イラン語も、全部似通っているのです。

 文化、cultureという言葉は、colore(意味:耕す、住む、世話をする)というラテン語に由来しています。そしてその語源(インド−ヨーロッパ語)はKwel(意味:動き回る、一時滞在、耕す、住む、世話をする、心の世話=教養)で、そこから派生してラテン語やギリシャ語になっていきました。

 もう一つの文化がcivilization。元々はラテン語のcivis(意味:市民)からきていて、「人々の集まり」という意味が原点にあります。そこから派生したcityという言葉は、人々(市民)が住むところの意味になります。

ギリシャ語には「ポリス(polis)」という言葉があります。これは「町」という意味です。しかし元来は、インド−ヨーロッパ語の「城郭」という意味で、古代ギリシャの都市国家を指しています。都市国家は、日本の「村」のような形態ではなく、人々が中心に位置し、人々がいろいろ考え、つくりあげていったものが都市であり、それが発展して「都市国家」になっていきました。それから「ポリス」という言葉から、英語のpolite(丁寧)、politic(政治)、politician(政治家)という語が派生しました。これらは皆、人が中心になっています。

 次に、日本語の方を見てみましょう。

 日本社会では、歴史的に「村」が中核になっていて、その農耕習慣が社会の基礎となっています。そのためか西洋語のように、「人」が中核ではなく土地、地勢に中心が置かれています。

 日本の地名を見てみると、例えば、秋田、平田町、笹島、半田、岡崎、横浜など、みんな土地と密着した言葉になっています。私の名字である「加藤」は、加賀の藤原氏に由来しますし、「伊藤」は伊賀の藤原氏という具合です。さらに「藤原」にしても、「藤が生えている原っぱ」ということでしょう。その他にも、山本、鈴木、岡本、橋本、豊田、福田など、山とか川とか田んぼなどのように、土地にちなんだ名前が非常に多いのです。

 次に、『延喜式』『和名類聚抄』『尾張国地名考』『愛知県地誌』などをもとに、この地方の地名を見てみます。

 名古屋、愛知などこの地方の地名は、海、漁村、農村など土地に由来するものが多くみられます。

 「尾張」は、八つの郡(こおり)に分けられています。すなわち、海部、中島、葉栗、爾波、春日部、山田、愛智(年魚市あゆち)、知多(千田)の八つ。「尾張」についても、『延喜式』には、「小治田」「小墾おわり」とあり、開墾されたという意味になります。

 また名古屋は、「那古野」と書かれている。『延喜式』『和名類聚抄』などにある古い地名には、中村、日部、物部、大毛、熱田、神戸、千窯、作良(さくら)、成海(なるみ)、日置、井戸田、長根、八事、御器所などが見られ、土地と深く直結した名称となっています。

 ところが、米国、フランス、イタリアなどの町へ行ってみますと、人の名前がたくさん付けられていることが分かります。例えば、パリのド・ゴール広場。ド・ゴールという人の名前です。「パリ」そのものも、ギリシャ神話の女神の名前ですし、「ローマ」もローマ神話の中の女神の名前です。「サンフランシスコ」は、カトリックの聖人の名前、「ロサンゼルス」は、天使という名前。

 それから米国の大学などに行きますと、例えば、「ジョン・F・ケネディー・ライブラリー」というように、図書館の名称にも人の名前をつけます。そして宇宙飛行士の一人で、宇宙飛行船が爆発して亡くなった日系人のオニヅカという名前の人がいましたが、ロサンゼルスの日本人町に行きますと、「オニヅカ通り」という通りがあります。このように我々の社会や文化に貢献があった人の名前をたたえて、その人の名前を町の名前にする場合が非常に多いのです。

このように西洋社会では、「人間」を中心にしたものの考え方・発想が非常に多いのです。ですから西洋文化は、その原点から人の名前が地名もなっており、人と人との交流の中から文化が生まれてきたことが分かります。

 ところが日本では、「豊田市」というのは「豊田」という人の名前だと思いますが、それはあくまでも例外的なものでしょう。ほとんどの場合は、町の名前に人の名前をつけることはまずありません。豊臣秀吉や徳川家康の名前に由来した地名を散見しますが例外で、天皇由来の名も見当たりません。

 例えば古事記には、次のような話があります。

 天照大神と織り姫が機を織っているところへ素戔嗚尊が現われ、畔を切り、馬を殺して生はぎにし、更にその肥料である人糞をばらまいてしまいます。そこで天照大神は、大変怒って、織り姫が機を織っているものをとって、ホトを突いて死んでしまいます。実際は、女性の性器を突いて死んでしまうと古事記には書いてあります。そして「天つ罪(天から守りなさいといわれたことを破る重罪)」というのは非常に重い罪になります。「天つ罪」には、「畔放(アハナツ)[田の畔を壊すこと]」、「溝埋(ミゾウメ)[田に水を引く溝を埋めて引き水を妨げること]」、「屎蒔(シマキ)」等がありますが、全部農耕に関係のあるものばかりです。「屎(シ)」というのは、人糞のことです。つまり「天つ罪」は、集団の存続を脅かす罪で、農耕社会では集団への忠誠、公的世界への信義が強調されていたようなのです。そのかわり、人を殺しても、「国つ罪(意味:人々が国土で犯した罪)」で、あくまでも個人的罪なのです。個人的罪と公的罪とをはっきり分けて、公的な罪は非常に重いのです。つまり畦を壊すとか、溝を埋めてしまうとか、肥料を台無しにしてしまうなどということは、非常に厳しく禁じられていました。それが農耕社会なのです。そのために、そのような社会では個人的な英雄を作りません。

 ところが、西洋社会では個人的な英雄がギリシャの時代からありました。しかし日本では、ヒーローを強調しません。江戸時代に佐倉宗五郎という人が、村民のために立ち上がり、一揆のリーダーになり、最後には自分がはりつけになってしまう。しかし、自分は公のために身を捧げたというわけで、私は日本的なヒーローじゃないかと思うんです。例えば、土井清良という人が『親民鑑月集』、佐瀬与次右衛門の『会津農書』、宮崎安貞が『農業全書』、鈴木正三の『万民徳用』など、農業に関する実用書が数多くあります。そこには品種改良なども記載されていますが、それは個人のパテントではなくて、あくまでも公のため農民のためという思想が貫かれています。

■共生のために相互の文化理解を

 文化とは、常に終わりのない、生成変化ではありますが、生成変化の中にも中心があります。その中心が、日本の場合は日本文化です。個人というものは、私は個人であるけれども、孤立した存在ではなく、私が住んでいる社会を反映した個人でしかないのです。ですから、当然私個人は、日本で生まれ育ったという、文化的な背景の影響を非常に強く受けた個人だと言えます。

 また、私は地球環境というものに非常に関心をもっていますが、これからは世界が一丸となって地球環境というものを守っていかなければ、この地球を我々の子孫に残すことはできません。「地球」は、私たちが考えているよりもはるかにか弱い存在と言えます。か弱い存在を是非とも救わなければ、人類の文化も存続しえないのです。人間は私たちが考えているよりも早く絶滅する可能性すらできてきています。そこで、私たちは世界中の人たちと「共生」のために協調していかなくてはいけない時代が今きております。

 そのような意味においても、東西両方の文化が互いに理解し合えれば、すべてのことがスムーズにいくのではないかと思います。そして世界の未来についても、ゆっくりと話し合えれば、深い理解が得られるだろうと考えております。ありがとうございました。     (1997年9月27日発表)