韓国・モンゴルの伝統的な家庭教育

モンゴル・国立師範大学教授 T.ナムジル

 

■家庭教育の伝統的な特色

 韓国とモンゴルの人々は、昔から自分の代を相続すべき息子に特別の関心を持っており、胎内にある時から胎中教育を行って来た。このような意味を表現することわざとして、モンゴルには「人は幼い頃から、馬は小馬の時から」というものがあり、韓国には「人は幼い時からその将来が分かる(栴檀は双葉より芳し)」というものがある。

 母親の胎中での期間を考慮して、生まれ出た時点で既に1歳と見ている。このときから自然にこどもの幸福と未来を考えるようになるが、韓国とモンゴルの風習を見てみると、母親になるべき女性の行儀作法についてさまざまな守るべき点が多い。

 モンゴルと韓国の基本的な家庭教育は、実生活の中で教えるものである。そしてこの方法が、今日まで受け継がれて来ている。例を挙げてみれば、数千年の間仕事をしに行く時に、父親は息子を、母親は娘をそれぞれ連れて出ていく風習があるが、このような機会を通して、親はこどもを教育して来たのであった。実生活の中において教育することが、韓国とモンゴルの教育の重要な伝統である。率先垂範をするとか、ことばで教えるとか、共同活動をしながら教育してきた。「ことばで教え、仕事で模範を見せる」ということわざもある。

 韓国とモンゴルの家庭教育の伝統には、教育・訓育の方法と形式の違いが明らかに現われている。自然教育、ことばによって教える教育、労働、伝統、芸術、宗教教育などについて、特別に言及しなければならないと考えている。民族的な伝統、風習が教育に大きな影響を与えてきた。伝統や風習は、教育的意味をもっており、民族の伝統は教育の指標となっている。

モンゴルと韓国には、体系的に教育する伝統、風習がある。大人たちは、こどもに体験と忍耐性を持つように育みながら、特に幼いこどもを愛し、保護する。これはアジア諸国において、ある程度共通する人倫性の一つである。こどもは、日本に生まれても、韓国や中国に生まれても、その家庭においては特別な位置をもっている。

 家庭教育の方法を調べてみれば、アジア諸国に多くの共通点が見出される。例えば、家庭教育の制度を見ると、「教育する」ということは、既にあやまちを犯した後に、しかるのではなく、あやまちを犯す前にあらかじめ教えてやるという意味なのである。それだけではなく、親はこどもがあやまちを犯すたびに、しかったり罰を加えたりせずに、そのこども自身が自ら覚ることができる機会を与えてやるのである。

 最も重要なことは、あやまちやよくない性格は矯正できるという確信をこどもたちに悟らせることであり、こどもたち自身の努力がもっとも重要であるということを理解しなければならない。教育とは、しかりながら周知させることではなく、(本人に)理解させる方法で教えることである。このような方法が、韓国の国民教育の伝統にある。

 これらの共通点は何か。こどもは経験がないために、あやまちを犯すのだと考えるべきである。あやまちを犯したこどもを厳重に罰を加えたりはしない。なぜならば、こどもは(親などの)ことばを聞かないとか、意図的に反対行動をとる可能性があるとみるからである。

 モンゴル、ボルアツ、韓国の家庭においては、「こどものあやまちは、すなわち親のあやまちである」との認識を持ち、周囲の人たちがそのこどもの親や兄弟などをあざ笑うことを認識させ、こどもたち自らがあやまちを犯さないように努力しなければいけないという考えをもっている。こどもたちがよい性質をもって成長できるようにする伝統、風習、習慣などが多い。このような風習や伝統の中で、モンゴルと韓国の先祖たちは、目上の人を崇め、尊敬する伝統を重要視している。

 こどもたちには、生まれた時から、部族の血統を教えなければならない。先祖たちの生活を正しく認識することによって、そのこどもたちが、部族としてのアイデンティティーを失わず、親や先祖を誇りたがる心を持てるようにするのである。このような方法を通して、世代が受け継がれてきた。

■民族の伝統と風習 

 昔から、祖先を崇め尊びながら、親を尊敬するという伝統が受け継がれて来た。自分よりも目上の者の名前をむやみに呼ぶこと慎んできた。こどもたちに対して、幼い頃から「大人に対してまず挨拶しなさい」「年をめした方に対しては、いつも助けてあげなさい」「大人たちのことや会話には、口出しするな」など、目にみえない細かな礼儀作法を教えてきた。大人たちの言葉に対しては、いつも従順に実行してきた。

大人たちには、いつも尊敬語を用い、家での座る席は、一番の年長者が上座に座る。大人が座らないうちは、誰も座ることはできない。大人がまず箸をつけないうちは、他の人は食事を始めることができない。

 また民族の伝統や風習を通して教育する点が、モンゴル(チャガンサル等)や韓国の正月の風習によく表われている。その名節の数日前から、家や垣根、村の掃除をし、伝統的な料理を作る。また新年を迎える前に、借金があればそれを清算する。正月の朝に(チャガンサル)、敬拝をして先祖を思い出してその話をし、一連の儀式を執り行い、先祖の墓地に行ってお参りをする。モンゴル人は、火を灯して明るくし、祭礼の料理と酒を少しずつ分かちあって、神の祠や高い山のような意識的に重要視するところに、それらを供えるのである。

 名節の当日には、もっとも素晴らしい伝統的な服を着飾る。こどもたちは、目上の人(親、師、先生等)をたずねて挨拶をするが、挨拶を受けた大人は、こどもたちに対して祝いの言葉を返してやり、健康と幸福を祈る。また大人たちも、自分よりも目上の人に対しては新年の挨拶をする。正月15日までには、大人たちに必ず新年の挨拶をしなければならないという伝統がある。また、名節の時には、親戚や友達の間において、プレゼントを準備して互いに交換しあう。しかしモンゴルや韓国の人たちのやりとりするプレゼントには、違いが見られる。また、韓国では「ユンノリ(双六のような遊び)」をし、モンゴルでは「アラグ・メルヒ」「モリ・オラルトラフ(家畜のくるぶしで作った伝統玩具)」などの遊びをしながら、新年の運勢を見る風習がある。

 韓国人は、白色を好み、使用してきたが、これは韓国人が大陸に起源をもつことと関係があると説明する人もいる。それで昔から外国人は、韓国人を指して「白衣民族」と記録してきた。

 チャガンサルにおいては、正月とは新年の始まりを象徴している。新年の最初の日に、その年の運命を見、その年に起こる吉凶事を占ってみてきたが、これは新年の運勢を占うということだ。一人一人が(自分の)幸福を願うために、新年の最初の日からその年が幸福で運勢があるように祈る。新年を迎える風習は、地方によって少しずつ違っている。正月は、昔からもっとも重要な名節として認識されてきた。

 このように家庭において、こどもたちに幼い頃より、社会に対する適応力と礼儀作法を順序だって教える制度があった。

 モンゴル人と韓国人は、民族の象徴性を重要だとみている。こどもたちは、大人の言葉を聞きながら、口伝文学の豊かな伝統を学び、自分の部族や血統の起源を知るようになる。両親、特に祖父母は、こどもたちが昔の伝統を尊重し、自分の部族やその起源をよく知って、部族に対する伝説や歌をしっかりと学ぶことを願う。そして一人一人がこれをよく知らなければいけないと考えている。

こどもたちに対しては、幼い頃から道徳的規則を教え始める。それは、「大人が年老いて病気になったり、体が不自由になったときに、世話を見てやる。こどもは、生み育ててくれる親をいつも尊敬し、同じ血筋の先祖をいつも助ける」などという考えである。親は、こどもを実子だという気持ちで愛し、養い育て、教育する。溺愛はそのこどものためにはならないと考えている。

こどもは、年老いた親を面倒を見るが、特に親によく仕える若者を「孝行息子・娘」と言っている。これは、世代をつないでくれる金糸の紐となる。

 家庭教育論の基礎となるいくつかの理念がある。例を挙げれば、家庭教育は、モンゴル人と韓国人にとっては、時代を経て受け継がれてきた精神文化の所産だと言えるが、そこには生活、社会−政治、社会−経済、自然−気候の独特な条件が反映している。

 牧畜業、農業、狩猟、漁業など伝統的な産業分野は、中央アジア及び東北アジアの国民全体に一脈相通じる精神的枠組を形成することに、影響を与えたと言うことができる。そして勤勉性、親切さ、相互扶助の生活慣習等は、このような生活の中からおのずと湧き出て、形成されたとみることができよう。

■こどもの教養−口伝文学

 ことわざが表わす内容には、実に奥深いものがある。大部分のことわざは、2〜4行の詩の形式から成っている。数個の単語で深い意味を表現することができ、さらにその意味するところを理解したり、学んだりすることがたやすい。人の生活、生き方、言葉、言語などと関連している。こどもたちは、小説や短編小説よりも詩の方が覚えやすく、長く忘れずに記憶している。

 しかし別の見解を持つ心理学者もいる。米国の心理学者ドナルド・ヘイスとその同僚は、この問題に対していくつかの研究を行った。短編小説と詩を一つずつ選んで、3〜5歳のこどもに読み聞かせた結果、ヘイスは、「幼児は、詩の内容よりも詩のリズムや拍子、又は聞こえてくる状態にだけ注意を傾ける。もし自分のこどもが文学を好む人間になればいいと考えた時には、詩を読んでやりなさい。しかしもし文学の内容を理解することを望むならば、小説や短編小説を読んでやるのがいい」と言った。

 シ、カダムバなどのモンゴルの学者、及び李基文などの韓国の学者たちは、モンゴルと韓国のことわざを研究してきたが、その中でモンゴルと韓国のことわざを、家庭教育の中で用いてきた伝統について比較研究した学者はいない。そこでモンゴルと韓国のこどもの教養と家庭教育においてことわざをどのように用いられているかを、比較してみなければいけないと考えた。なぜなら、モンゴルと韓国の家庭教育制度にことわざが重要な役割をしてきたからである。

ことわざは、大人たちの言葉にしたがって、その言葉を実際の生活に用いることを教える。目上の人を尊敬すべきだということを教えることわざは、モンゴルと韓国には同じ様にあるが、それは次のようなものである。

「兄は教える立場にあり、弟は聞く立場だ」(モンゴル)

「兄ほどの(経験のある)弟はいない」(韓国)

 このようなことわざには、目上の人や経験のある人は、目下の人に(知っていることや経験などを)教えるべきであるが、目下の人や経験のない人は、その教えに従うべきだという考え方がよく表れている。

モンゴルや韓国において「教育する」ということは、「社会における歴史的な多くの経験を後孫に教えてやる」ということを意味している。この概念は、韓国の「どの世代にも、誇るべき人がいる」ということわざや、モンゴルの「昔の言葉は法となり、大人の言葉は初めとなる」ということわざによく表れている。

「教育は幼い頃から始めなければならない」という考えがある。それは、モンゴルの「人は幼い頃から、馬は子馬から」ということわざや、韓国の「栴檀は双葉より芳し」ということわざに表れている。そのためか、モンゴル人は、「幼い頃身に付けた癖は、死ぬまで残る」と言い、韓国人は「3歳の癖は、80歳まで残る」と言っている。

 あることがらや状況が起こるようになった理由と結果について、両国とも「すべてには理由がある。その理由一つ一つにも全て意味がある」と見ている。この世の全てのことを知り、理解するために勉強しなければならないのだが、これについてのことわざは、両国とも実に多い。以下、それらを挙げてみよう。


「努力すれば、分かる。

怠けていれば、筋肉が落ちる。

勉強しなければ、牛のようになる」(モンゴル)

「100万ウォンあるよりも、本一冊だけあることの方が価値がある」(韓国)

「力があるよりも、

知識が多い方がよい」(韓国)

「水ひとしずくを集めれば、海となり、

聞いたことを集めれば、知識となる」(モンゴル)

「千里の道も一歩から」(韓国)

「塵も積もれば山となる」(韓国)



 このようなことわざから、勉強方法も学ぶことができる。

■ことわざに学ぶ教育方法

 モンゴルには、「最初に出た耳よりも後から出た角の方が長い」、また韓国には「後に出た角が、抜きんでている」ということわざがそれぞれあるが、これらは新しく出てきたものが先にあったものよりもよいという意味である。

 教育したり、教える時に、方法論を重要視するが、これに関しては、それぞれ「怒りの多い人は穏やかに(扱う)」(モンゴル)、「言葉で教え、行動や態度で模範を示す」(韓国)ということわざがある。

 また教育する際には、特別な方法も必要だ。これについてのことわざとして、モンゴルには、「多くの言葉を語るよりも、一言、二言だけ語ることの方が、価値がある」というものや、「木の枝1本では、火にならず、人一人では家庭はできない」というものがある。一方、韓国には「人一人では、湿地の魚のようだ」などのことわざがあるが、このことわざは、表面上は、あれこれと生活を描写しているように見えるが、「人間は、社会の中でのみ人間となる。この社会を離れて、一人では生きていけない」という考え方を包含している。

 韓国には、「言葉が種になる」ということわざがあるが、モンゴルには「馬を失ってもそれは取り戻せるが、誤った言葉は直すことができない」というものもある。モンゴルの人たちは、言葉を家畜としばしば比較して表現するが、韓国人は従事する産業の影響から、こどもたちを教育することを農業と比較して説明しながら、ことわざを用いてきた。

「男もあやまちを犯すことがある。

岸辺も壊れることがある」(モンゴル)

「さるも木から落ちる」(韓国)

「その人がよいか悪いかは、いっしょにいれば分かる。馬の善し悪しは、乗ってみて分かる」(モンゴル)

「その人の人となりは、話をしてみなければ分からない。石橋も叩いて渡れ」(韓国)


 以上のようなことわざは、あることがらをするときに、結果を考えながら、抜目なく、落ち着いて、注意してかからないといけないことを表現したものである。

「少しずつ嘘をついていると、いつも嘘をつく人になってしまう。少しずつ泥棒をしていると、本当の泥棒になってしまう」というモンゴルのことわざがある。似たものとして、韓国には「針泥棒が、牛泥棒になる」ということわざがあるが、それは「一度嘘をついたり、泥棒をしてみると、結局は泥棒をすることに罪意識を覚えなくなり、知らずのうちに泥棒をするようになる」という意味である。

「自分がはげ頭であることを知らずに、人の髪の毛が薄いことをあざ笑う」というモンゴルのことわざがあるが、これと同様のものが韓国にもある。それは、自分の悪い性格やあやまちを自覚せずに、他人がちょっとしたあやまちをするとそれを大きな声で非難し、うわさを流す人の悪い性格を表現するものである。またモンゴルのことわざには、「オオカミの子どもを捕まえようとすれば、オオカミの洞窟に入らねばならぬ」というものがある。また韓国にも同様のことわざとして、「虎を捕まえようとすれば、虎の洞窟に入らねばならぬ」というものがある。これらの意味するところは、こどもは幼い頃から、勇気を持つように育てるといいということである。

そして息子が狩猟が上手にできるように望む気持ちから、熊の洞窟に息子を幼い頃に連れていっておくこともある。元来熊は、自分の洞窟の中では、人間や他の動物を捕まえて食べたりはしないということを知っていたために、恐ろしさに動じないほどの勇気ある、立派な狩猟人になれるように望む思いからそうするのである。

「労働は人間生活の基本である」という意味を表わすことわざは、多くの国に見出される。例を挙げれば、「働いた分だけ、稼げる」(アルタイ)、「歌を歌えば、心が開き、仕事をすれば、才能の花が開く」(トワ)、「勤勉な人の懐は中味がいっぱいだが、怠け者は垣根も空っぽだ」「仕事をすれば口が動き、仕事をしなければ、空っぽのお椀だけを見る」(ボリアード)、「手が動けば、口に油がつく。仕事をすれば口が動く」(モンゴル)、「手が遊べば、口も遊ぶ」「仕事がうまくいけば、口もうまくいく」(韓国)などである。仕事の重要性を表わすことわざは、主に手と口を比較させて、仕事をしなければ、ご飯を食べることが難しいという意味を表わしている。

どんなことでも既に着手すれば、必ず終わさなければならぬという意味のことわざとしては、「ことを始めれば、終りまで、塩を入れれば、塩がなくなるまで」(モンゴル)、「井戸を掘るにしても、まず一つの井戸を掘れ」(韓国)というものがある。また、同時に仕事をおろそかにせずに、誠実にしなければならぬという意味のことわざも多い。

 「一匹ずつ行く虎よりも、集まって座っているカササギの方が力は強い」(ボリアード)、「2人の意見があえば、20人のようだ。20人の意見が同じならば、鉄で作った城のようだ」(モンゴル)、「仲睦まじい人は、滅亡しない城のようだ」(韓国)などのことわざは、みな力を合わせれて、仲睦まじく生きることの重要さを表わしている。

■環境条件と家庭教育

 最後に韓国とモンゴルの芸術文化の伝統を調べてみると、昔から家庭教育が重要であるという立場をとってきたことがよく分かる。各家庭の教育方法の中には、その民族の伝統的な教育方法が表れているので、歴史、民俗学、教育学の研究の重要な資料となっている。

 韓国とモンゴルの家庭教育の伝統の研究は、両国の学者が、昔から関心をもって研究してきた。私のこの研究の目的は、韓国とモンゴルの家庭教育の伝統の中にある、相互の類似点を発見することであった。

 韓国とモンゴル両国の家庭教育の伝統を比較してみると、共通点が多い。ここで、なぜ共通点が多いのか疑問が生ずるが、中央アジアに位置する国々が、自然環境の特色によって、似通った家庭生活における教育の伝統が形成されたからではないかと考えられる。

 それで今日のモンゴル、ボリアード−モンゴル、韓国の家庭生活や家庭教育の伝統に、似通った点が代々伝えられてきたと見ることができる。それだけではなく、モンゴルと韓国の起源に対しても、多くの学者の意見を見ると、韓国のチュチェヒョック教授は、「韓国人は、3,000〜4,000年前に、中央アジアにおいて、民族が分かたれ、朝鮮半島に移住してきた。高句麗の起源は、バイカル湖流域に住むホリ・ボリアードと関連したものだと推測される」と言っている。またモンゴルの学者トミヤバタルは、「モンゴル語と韓国語は、4,000年前ごろに分かれた」と言っている。モンゴルの学者ラフッカは、「モンゴルと韓国の交流は昔から現在にいたるまで、深い関係をもってきたが、人の顔立ちや性格、風習が他の民族よりもかなり似ていて、言語構造も同じために、このような関係が長い期間にわたって維持されてきた」と語っている。

モンゴルと韓国の家庭教育の基礎は、祖先から代々伝えられてきた風習を尊重し、共同体生活の中で、生活方法を後孫に教えるところにある。韓国とモンゴルの家庭教育の理念は、祖先代々受け継がれてきた精神文化と伝統を受け継いだ結果である。これは現在まで家庭教育の重要な理念の基礎になったとみることができる。

 韓国とモンゴルの家庭教育の方法は、主に次のような点としてまとめられる。

・祖先から伝えられてきたことわざ、民間伝承、伝説を話して、教えてやること。

・実生活において実質的な模範となって、教えること。

・道徳的な教育を重要視すること。

・こどもたちを厳格に教えつつ、適切な方法で愛し、保護してやること。

・少しずつ、一歩ずつ、教えることなどの特性をもっていること。

 韓国とモンゴルにおいては、こどもを教育する時に、強制してやるとか、または無作法に甘えさせるとかさせずに、ある問題や事実を悟らせる方法で、教えるのである。韓国とモンゴルの家庭教育の一種の特徴は、親がこどもと一緒に過ごす時間が多いという点である。そのために親はこどもに対して模範となり、愛してやり、保護してあげるのである。

 韓国は、モンゴルと共通点が多いけれども、相違点も少なくない。モンゴルは家畜を育て、遊牧生活をしてきたが、韓国は農業を営んできたので、そうした違いが生まれるのは当然であろう。

 本稿が韓国とモンゴルの家庭教育の伝統に関する研究の範囲を超えて、更には両国の歴史、文化、芸術、民俗学などの研究にも少しでも寄与できればと思う。

(韓国PWPA「バイカル文化」1997年第4号から)