先進国における宗教の自由

宗教および信仰の自由国際アカデミー副会長 リー・ブースビー

 

■先進国も「基準」を満たしていない

 私のテーマは、「先進国における宗教の自由」ということですが、「先進国」と言った場合に何をさしているのか、はっきりと分かっているわけではありません。というのは、宗教の自由という観点から見た場合に、はっきりと開発された、「先進国」と言える国はまだないのではないかと思うからです。しかしながら、先進国で何が起こっているのかということは、途上国において宗教の自由がどうなっているのかということよりも、もっと大きな問題であると思っています。すなわち、先進国で宗教に関わる人権、ここにもし妥協が見られるということであれば、これを口実に途上国においても宗教の自由が脅かされることになるでしょう。すなわち、宗教の自由に対する闘いは、いつまで経っても不完全のままとなります。

 理解、寛容、自由を推進することは、国連でも非常に大きな関心事項となっています。そしてそれぞれの国が宗教的人権という観点から見た場合に、どういった位置にあるのかを計るために、いってみれば尺度というものを構築したわけです。すなわち、1981年11月25日、国連総会は「宗教、信仰に関するあらゆる非寛容、差別の撤廃宣言」を表明しました。

 さて、これから新たな一千年期が始まろうとしているわけですが、非常に懸念すべきことは、途上国においてのみならず先進国においても、まだまだこの基準を満たすに至っていないことであります。途上国における状況を見るよりも、先進国における宗教の人権がどのような脅威にさらされているのかということを、この宣言に照らし合わせて考えていきたいと思います。

 まず、この宣言の第1条は次のようになっています。

すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利は、自己の宗教又は、信念を変更する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、教導、行事及び儀式によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。

 しかしながら、今日「宗教的ディプログラミング」ということで、信仰を持つことへの脅威が先進国に見られます。すなわち、反宗教法という法律のもとで、信仰を表明することがいかに脅威にさらされているか、との実例があります。信仰を実践するということが、宗教団体の登録義務によって、迫害されています。

 たとえば、ギリシャの憲法では、改宗が禁止されています。ギリシャの法律では、直接、間接に他の信仰に対して影響を与えること、特に物的、精神的利得を約束するということ、あるいは不当な手段によってこれを行うことを禁止しています。しかしながら、ほとんどの宗教は精神的恩寵を、あるいは物質的ご利益の約束を含めて、約束しているわけであります。

 たとえば、聖書は人生の中で、罪をあがなうことの努力の報酬は、永遠の命であると教えています。また、10分の1税を払えば、10倍になって還ってくるということも言われています。

 そしてまた、宗教活動の不正な手法に焦点を当てることは、宗教的表明権を制限するもっともらしい方法となっています。問題はそれをいかにして、主観的な恩寵の場合において、偽りを証明するかということになります。

 たとえば、ギリシャの場合を見てみましょう。ミノス・コキナキス夫妻は、ギリシャ人の「エホバの証人」の信者です。彼らは近所の家に10分間福音を伝えにいきました。この10分間伝えにいった結果、夫妻は逮捕、起訴され、4ヶ月の禁固刑の有罪判決を受けました。結局、これは欧州人権裁判所に控訴されました。そこにおいて、キリスト教の証人になるということと、不当な改宗とは区別しなければならないとして、最初の部分だけが証明され、ギリシャ地裁の判決は破棄されました。残念ながら、ギリシャではキリスト教に対して伝道行為を禁止しています。

 これは、正教をもつ途上国に対して由々しきメッセージを送ることになります。すなわち、個人が宗教の信仰を明かにすることを国は禁止することができるということになるからです。ギリシャでは、エホバの証人、モルモン教、その他の信仰を持つ人たちが警察により、改宗行為ということでしばしば身柄を拘束されています。この拘束期間中、弁護士に接触することも禁止されています。また、言葉による虐待にもしばしばさらされています。そして、信仰権というものも危険にさらされています。

 日本でもしばしば、誘拐、拉致が行われています。勿論、これは民主国家においてこれらのことが行われているのです。

 さて、政府はこういった、いわゆる「宗教的ディプログラミング」に対して寛容であるべきではありません。ディプログラミングに当たる者は、しばしば宗教の懐柔策についてほとんどトレーニングを受けていない人たちであり、その動機はお金であり、どの信仰の信者も対象にするという特徴があります。このように宗教の弾圧、差別という形での脅威が、いまだに続いているのです。

■信仰による差別

 さて、国連の宣言の第2条では、差別に関して、国であれ、機関であれ、集団であれ、個人であれ、宗教、信仰で個人を差別してはならないと言っています。しかしながら、イスラエルでは、イスラム教徒は民事裁判所に訴え出ることができません。また、ドイツではサイエントロジーの信者が、さまざまないやがらせを受けていると言っています。政府はこれらを黙認し、また社会的にもこれが行われているわけです。そして、セクト・フィルタリングの結果として、サイエントロジーの信者がビジネスをする際、あるいは、その他のさまざまな社会活動の中で差別を受けていると言われています。また、キリスト教のカリスマ運動は税制上の宗教団体としてのステイタスを取り消されています。ドイツの社会に対して、文化的、宗教的、精神的価値を提供していないということで取り消されたのでした。また、バイエルンではサイエントロジーの信者は公務員になることができません。また、ギリシャにおいては、正教以外のリーダーになりますと、その信者たちは官庁の幹部にはなれない。そしてイスラム教徒の人で、軍隊の中で予備役将校にまでなれたのは二人しかいなかったということです。

 フランスにおいては、イスラム教徒の少女たちは、宗教上必要なヘッドスカーフをつけて公立の学校に行くことができないとなっています。

 アメリカにおいて私はひとつ訴訟を起こしておりますけれども、これは福音主義の人が警察官になれなかったということをめぐるものです。その当事者は、就職前の心理テストで次のような質問を受けました。「唯一真理の宗教をあなたは信じるか」「価値は男であるべきであると思うか」「悪なる精神は存在すると思うか」、そして「あなたはキリスト教徒か」ということを聞かれたというのです。

 宣言の第4条では、根拠のない差別を防がなければならないという義務を国に課しています。先進国の多くの法律は、平等な待遇、取り扱いというものをすべての宗教に保証しています。しかし、ジョージ・オーエルの『アニマルファーム』にありましたように、一部の宗教団体はより対等な立場を確保しているのです。すなわち、いわゆるマイノリティー、新興宗教団体よりは、従来の既成宗教の方が優遇されているということが指摘されています。

 オーストリアでは、宗教団体は1874年の法律に従って、宗教団体の登録という制度に従わなければなりません。そして12の教会が公認教会ということになっており、宗教法人への課税、宗教教育をすることができる許可などの優遇がされています。昨年12月、オーストリアの議会では法律の改正を行いました。そして新しい法律におきましては、300人以上の信者がいることが条件になったということです。それから、信者が一般の治安、公安、保険、そして他の市民の権利、自由を侵害しないということを文書でもって提出することがもとめられる、このようなことで登録が進められています。そして、より高い位置での公認が認められる場合、20年の観察期間を経なければならないというようなことが条件づけられています。このようにいろいろな条件が課せられているというのは、オーストリアの法律上非常に問題が大きい。たとえば、海外からの宗教がなかなか入り込むことができないということです。新興宗教が特定の国に新しく参入することを妨げる法律といえます。このような法律のもとでは、キリストと12人の弟子たちは多くの国で、宗教の登録の法律に引っかかって活動もできないということになったでありましょう。

 シンガポールの例でありますが、「エホバの証人」は、1972年に禁止されています。その理由は、兵役義務を拒否し、国家に敬意を表せず、そして国家への忠誠を誓わないからである、ということです。1996年に72才のおばあちゃんが逮捕されました。そして、500ドルの罰金が課せられました。それは彼女が、「エホバの証人」の文献を持っていたためでした。そしてその罰金を払わなかったために、7日間投獄されてしまいました。

 ベルギーにおいては、福音主義教会が国家の認知を受けられませんでした。というのは、ベルギーには、すでにプロテスタントの他の宗教団体があるからというのが理由でした。このように、聖職者の宗教活動に関しましても、さまざまな官僚的な規制があり、宗教活動が恣意的な気紛れな意思決定によって妨げられているという問題があります。

 昨年の7月ですが、ベルリンの連邦法廷で、宗教団体には後者の資格が認められないという判定が出ました。それは、不可欠の忠誠というものを民主国家に提供しないということを理由としています。恒久的な協力関係のためにこれは不可欠であるというふうに裁判所は判断したわけです。そして、この会員は選挙に参加しないという考え方が問題にされた事例でした。

■七つの脅威

 それから、ここで七つの宗教上の脅威を整理したいと思います。私の見るところ、先進国において、少なくとも七つの脅威があると考えています。

 まず第一に、グローバルな、普遍的な見方ではなく、非常に狭い宗教の見方をする傾向があるということです。政府は一部の優遇された宗教を守ろうとする。その他を排除する。そして、主要となる宗教団体が問題を抱えることのないようにというような擁護をするわけです。宗教団体については、国境によって制限されるべきではないはずです。ひとつの国では主要でも、他の国ではマイノリティーであるかもしれない。宗教は国境を超えているという性格上そういう制限は適切ではありません。

 第二に、政府によって宗教団体の登録という制度が設けられていること。どれくらいの信者がいるか、何年くらい活動しているかが基準とされるという問題です。これは、宗教的なさまざまな概念というひとつの立場への全面的参入を妨げるという問題があります。

 第三に、宗教活動の規制・制限は民主社会において絶対的に必要な場合のみに限るべきであるということ。実証された証拠がある、利害がある、そのために政府がより抑圧的ではないような手段をとって政府が管理することができない場合のみに限るべきでありましょう。

 第四に、一部の悪質な宗教団体の活動、行動によって宗教指導者、また宗教的な動機による活動、その他の神聖な宗教活動が、不適切な規制をかけられてしまっているという問題があります。世俗的な活動、宗派的な活動に対して特別な刑法を適応する、そして特定の宗教団体に対して非差別的な対応をするという問題があります。

 第五に、行政上の措置の問題です。ある国の一部の市民に対して、いわゆる政治的アウトサイダーというような取り扱いをする、その人の宗教、信条によって政治的にも差別をするということです。

 第六に、強制的にその他の信条を押し付けようという動きがあります。そして、政府がそのような行為をきちんと統制しない問題があります。

 第七に、特に差別されているような宗教団体があるということ。政治的にその国において優遇されていない、何か問題があれば差別的な取り扱いのターゲットとされてしまうような人たちがいるということです。

 この宗教の自由という問題ですが、先進国においてこのような実態があることをふまえまして、今回の会議にご参会の皆様、この問題にじっくりと取り組んでいただきたいと思います。

(1998年5月24日、「新しい世紀と宗教の自由」日本会議において発表)