ヨーロッパにおける宗教の自由

オーストリア・グラーツ大学教授 クリスチャン・ブルンナー

 

■西欧社会における宗教の位置

 まず最初に、西ヨーロッパ社会における宗教の立場、位置ということの特徴を説明したいと思います。ここがお分かりいただけますと、いろいろと見えてくるのではないかと思います。

 まず、ヨーロッパのアイデンティティーというのは、相変わらず宗教によって規定されています。つまり、キリスト教、カトリック、プロテスタントの両方が入りますが、政治的、公的な議論となると、特にイスラム教議論となりますと、多くの人々が西洋の文化ということを言います。そして、その柱の一つがキリスト教だと議論されるわけです。その一方で、クリスチャン、教会という言葉はそれほど同調されていません。すなわち、祖国、宗教、仕事、こういった方が皆共感できるのです。

 カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、宗教は過大評価されているのかもしれません。たとえば、オーストリアでは77%がカトリック教徒です。その一方でその他の宗教儀式への参加率はさほど多くありませんし、むしろ下がっております。たとえば、14%のオーストリア国民が定期的に日曜日の礼拝には参加をすると言います。ドイツでは人口の49%、ほとんどがキリスト教の原理的な部分、すなわちキリストの復活は信じていないと言っておりながら、一方では信者の数がどんどん減っているのです。54%は神を信じると言い、25%は精神性を信じているとしています。若い人たちは特に密教的、神秘的な考え方を信奉しています。そして、今心理学的サービスに人気が出ていまして、何らかの人生の意義を見つけようという動きがあります。

 このように西欧社会には、矛盾した状況があるのです。つまり、宗教、あるいは精神性ということに関する関心が今後数十年さらに伸びていくものと思われます。

■法的側面

 次に、法的な側面に触れて見ましょう。

 ヨーロッパの国々はいくつもの国際条約に調印し、批准しています。いろいろの人権問題に関するものがあります。たとえば、「人権及び基本的自由の保護のための条約」(ヨーロッパ人権条約)というものがあります。これは、ヨーロッパの多くの国で既に憲法化され、40の東欧、西欧諸国がこれに調印しています。その中には、ルーマニア、チェコ共和国なども入っています。

 その条約の第9条(注1)の中で、「思想、良心、宗教に対する自由を誰もが持っている」と言っています。そして、この信仰の自由というもの、これは「法律の枠組の中で許されるものである」と言っています。すなわち、公の秩序の保護、あるいは健康、あるいはモラルを保護するという法的な枠組みの中で認められるとされています。ここで「公の秩序」ということに触れられていますが、これについては後ほどもう一度言及したいと思っています。

 さて、この条約の中(注2)で、「各々の国は親の権利を認めるべきである。教育、宗教の教えに関して、自分の信仰に基づいて教育する権利がある」ということを言っています。多くの国々が思想、良心、宗教、そして集会の自由を尊重していますが、しかしながら、いろいろな立法化の段階でさまざまに限定することができます。

 たとえばスウェーデンなどがそうです。プロテスタントの国々、すなわちオランダや北欧の国では、宗教の自由が大変重視されています。ということで、どういった宗教団体であれ、そういったところに対して差別が行われるといった場合には、あるいは制限が設けられる場合には、自由の侵害と見なされます。

 それに対してフランスのような国々では、いわゆる反カルト的な法律として厳しいものが導入されており、これによって宗教的少数派の自由が侵されることがあります。たとえば、オランダでは、ハレ・クリシュナなどは宗教団体として認められていますが、ドイツ、オーストリアでは危険なセクト扱いとなっております。

 国際的な、あるいは国の法律のレベルを見て一つ言えることは、宗教の自由は保証はされているけれども、しかしながら、差別、抑圧ということが少数派に対しては行われてきた何十年という歴史があるという事実です。まず、宗教という用語。二つ目は、公の秩序に関連してこれが言われるわけであります。各個人、学者の多くが、宗教の定義というものを広くとっています。

 たとえば、「我々はどこから来たのか、我々は誰なのか、そして私の運命は何なのか」ということに関して、政治的、伝統的な回答というのは、「メインストリーム型」です。たとえば、サイエントロジーに関してですが、ミラノの控訴審では、「宗教というのは至高の存在と人間の関係に関するものだ」と言っています。イタリアの最高裁は後にこれを却下いたしまして、宗教のそうした定義は受け入れられないとしました。というのは、その定義は、聖書に基づく宗教にしか当てはまらないものであり、いわゆる仏教など、その他の宗教には当てはまらない定義であるとの根拠からそう結論づけたのでした。

 そして、宗教というものは、宗教の自由という目的、そして国、憲法、国際的条件などにあったものとならなければならないのです。

 もう一つ大切なことは、公の秩序に関する条項です。公の秩序に関する条項の中では、宗教は公の秩序を乱してはならないことになっています。

 ヨーロッパ人権条約第2条の第2項を説明したいと思います。この条項は自由の侵害と公的秩序の侵害が対立している場合は、公的秩序の方が重視されるということを言っています。

 たとえば、オーストリアの例を申し上げますと、エホバの証人というのは、国家が認めた宗教団体とはなっておりません。数年前、登録したいということで申請しました。しかし、これは拒否されました。その理由は以下の通りでした。

 「エホバの証人の教えの中には、国家、国家群、そして他の宗教に対する非寛容の態度が見られる。そして『サタン世界』の部分として政治制度が捉えられており、選挙には参加しないように、政治から遠ざかるよう教えられている。輸血を拒否するという問題は、信者の子供たちにおいて救命の処置がとられないということから問題である」。

■事実的側面

 カルトに関しては、EU(欧州連合)が報告書をまとめています。宗教団体の問題行動がリストアップされています。すなわち、危険と見なされる行為がリストとしてまとめられているのです。

 たとえば、信者から経済的、資金的収奪をするということ、あるいは、非常に高いコース参加費を課すということです。それから、通常の職業ができない、あるいは家族との共同生活ができないという問題。また、やめた人に対して批判したり、あるいは弾圧するという問題です。心理的テクニックを使うといった勧誘の仕方も問題とされています。信者が家族と一緒に住めない、社会的、職業的環境からも孤立してしまうといったことも問題とされています。

 しかしながら、カトリックの聖職者になった場合には、普通の家族を持つことができない、つまり特別な環境に置かれるということはあるわけです。

 この反カルト運動ということですが、オーストリアの方でも進んでいますし、フランス、ベルギー、ドイツの方でも進められています。セクトをコントロールしようという動きです。このような状況から既に残念な状況が発生しています。

 たとえば、オーストリアの例ですが、ヨガが成人教育のコースから削除されてしまったという問題があります。これは、セクト的動きに繋がる精神的依存性を呼ぶというのが理由でした。それから、母親がサイエントロジーの会員だったということで養育権が奪われてしまったというウィーンの裁判所の判例もあります。

 またオーストリアの国民党の決定ですが、党の会員であること、そして党の役員の仕事をするということは、セクトに対する信仰とは相容れないという決定をしています。

 このように、法的な状況、そして、宗教の自由の違反の状況を西ヨーロッパで見てきますと、確かに問題があると認めざるを得ません。

■事実は法的状況を覆えすか?

 しかし、希望もあります。一つは、市民的自由、内務に関する委員会、これを欧州議会で1997年に報告書として出しているものです。そこでは反カルト的方策等に言及しており、宗教の自由を守るべきだという結論になっています。

 宗教、特に世俗化された社会における宗教ですが、これは常に社会から批判を受ける立場にあります。特にマイノリティーであれば、しかりであります。人生観、価値観、様々な教会の慣習があり、それぞれの人生観があります。非常に急進的な精神指向というのも文化的意味合いがあります。文化的慣習から大きく異なるという可能性もあります。これが、反カルト的な動き、法制化に繋がっているわけです。

 ヨーロッパにおける宗教的マイノリティーの台頭をコントロールしようという政策もありますが、一方では一部の従来の宗教をサポートしようという政府の動きもあります。すなわち、宗教団体の存在を寛容に扱おう、危険ではない団体は良しとしようという政府の態度です。

 それから、危険と見なされた新しい宗教的な動きに対しては抑圧しようという政府の態度が見られます。このような宗教活動に問題があると見るか見ないかに関わらず、このような政府の態度には懸念が持たれます。

 政府、教会が情報センターを運営する、また、精神分析の専門家等のアドバイスに従って家族の問題や改宗の問題等を取り上げていくべきでしょう。この宗教的動きという枠組みの中で、犯罪的動き、または悪用・濫用という問題に対処していかなければなりません。しかし、宗教団体のメンバーであるということだけで特別な扱いがあってはいけません。私たちの考えは、やはり宗教の自由というものを基本にすべきです。これは個々人にとって基本的な人権であり、人類の擁護すべき権利だからです。

(1998年5月24日、「新しい世紀と宗教の自由」日本会議において発表)

 

注1 ヨーロッパ人権条約第9条 
 1 すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利は、自己の宗教又は信念を変更する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、教導、行事及び儀式によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。

 2 宗教又は信念を表明する自由は、法律の定める制限であって公共の安全のため又は公の秩序、健康若しくは道徳の保護のため又は他の者の権利及び自由の保護のために民主的社会において必要なもののみ服する。

注2 人権及び基本的自由の保護のための条約についての議定書(ヨーロッパ人権条約第一議定書)第2条
 何人も、教育についての権利を否定されない。国は、教育及び教授に関連して負ういかなる任務の行使においても、自己の宗教的及び哲学的信念に適合する教育及び教授を確保する父母の権利を尊重しなければならない。 

注3 ヨーロッパ人権条約第2条
 1 すべての者の生命に対する権利は、法律によって保護される。何人も、故意にその生命を奪われない。ただし、法律で死刑を定める犯罪について有罪の判決の後に裁判所の刑の言い渡しを執行する場合は、この限りでない。

 2 生命の剥奪は、それが次の目的のために絶対に必要な力の行使の結果であるときは、本条に違反して行われたものとみなされない。
 a 不法な暴力から人を守るため
 b 合法的な逮捕を行い、又は合法的に抑留した者の逃亡を防ぐため
 c 暴動又は反乱を鎮圧するため合法的にとった行為のため