心理学と宗教と法律

弁護士 ジェレマイア・ガットマン

 

■宗教と切り離された「道徳性」

 まず最初に申し上げたいことは、私が宗教的に誰かということです。というのも、この人の背景は何かということを知って話を聞いた方が公正だと思うからです。私の両親は無神論者であり、私も無神論者として育ちました。私はこの点については自分の心が変わったことはありません。しかしながら、私はこれまで宗教心を持った人々の弁護活動をしてきましたし、今も行っています。

 私は、マロニー氏の宗教の定義に賛成です。というのは、私の経験から言えば、米国の法律では宗教というのは非常に広く定義されてきたからです。それは良心に基づく「兵役忌避」という問題に関連しています。米国の法律は、ある人を徴兵するときに、その人が宗教的な信念に基づいて戦争に参加することを拒否した場合には、これを強制することはできないとしています。もともとは、宗教的な信念に基づいて例外的に兵役忌避が認められるのは、メノー派やクェーカー教徒のように公式な方針が平和主義である教団の信者に対してだけでした。そして、こういった特定の認定された宗教団体に属していない人々には、この宗教的信念に基づく徴兵忌避というものは認められてきませんでした。

 しかし私は、このような考え方は米国憲法に違反するものだと考えています。それでやはり裁判所は、「私は特に宗教心は持っていないし、宗教団体にも入っていないけれども、私の良心に反するから、私の善悪の価値観に反するから、戦争には参加しない」という人々のケースに直面するようになりました。ところが徴兵委員会としては、「それはナンセンスだ。あなたはメノー派でもクェーカー教徒でもない。宗教心はないと言ったじゃないか。例外は特定の宗教団体の信者にのみ認められているのであって、お前の主張は認められない」と言ったのです。私は連邦最高裁判所に行ってその判決を聞いたのですが、そのときに裁判所が下した判決は、「あなたは自分では宗教心はないと思っているかも知れないけれども、あなたが自分の道徳心に基づき、自分の良心に反するので参戦できないと言うのであれば、あなたが好むと好まざるとに関わらず、それはその意味において宗教心と言えるので、あなたの例外的な兵役忌避を認めましょう」というものでした。ということで、米国ではここ25〜30年くらいの間に、宗教の定義というものが、いわゆる一般の人々が宗教と考えているものよりもっと広範な概念になってきました。

 その結果どういうことが起きたかというと、いわゆる「道徳性」という概念を、多くの人が「宗教」とか「宗教性」と考えるものから切り離して考えるようになったのです。すなわち特定の宗教団体に属していなくとも、自分自身が正しいと思うことだけをする道徳的な人間というのも、存在し得るわけです。そして裁判所も、この良心的に基づく兵役忌避という概念を認めました。

 さて、コールマン氏が精神科医と法律の関わり、およびこれら二つと宗教との関わりについて、かなり詳しく説明してくれたのですが、私の方からも、少しそれにつけ加えてみたいと思います。

 マサチューセッツ州のある精神科医が何年か前に、ハレ・クリシュナに入った私のクライエントを診察しました。そしてその精神科医は、そのクライエントは自由意思を奪われることによってハレ・クリシュナに入ったのだから、精神病院に入れなくてはならないと主張しました。その結果、彼は精神病院に入れられ、そこのスタッフの診断を受けたのですが、そのスタッフはこういった事態に準備していなかったので、「この人は全く正常です」という報告を裁判官に上げてきました。そこで最初にこの人は正常でないと診断した精神科医は、「何回も検査を繰り返したが、この人には何の異常も発見できないという結果が出ましたが」と尋ねられました。すると彼はこの診断を逆手に取って、「症状がないということ自体が病状の深さを示すものである」と証言しました。すなわち、一見したところ異常がないという事実が、この人がいかに異常であるかを証明しているというのです。これが通常の異常なら簡単に発見できるのだが、彼の場合にはあまりにも異常なのでそれが分からない、と言ったわけです。これは完全に論理を無視した発言であります。もちろん裁判官がこのような主張を認めるはずもなく、彼は自分の教団に帰ることができました。

 もう一つ、やはり私が関わった裁判例を紹介したいと思います。

ある精神分析医は、「この若い女性は自分が選択した宗教団体(統一教会)によって、とても不幸になった」と言いました。しかし本人は「いや私は仲間の信者たちと一緒に居られてとても幸せで、快適で、満足である」と言ったのです。それに対してこの精神分析医は「彼女は自分は幸せだと思い込んでいるだけだ。あなたがたはこの訴訟に勝つことはできない」と言ったのです。

 また別の弁護士で、今はもう有名な教授になっているのですが、たくみに法律を利用して自分の立場を裏付けながら、ディプログラミングと呼ばれる拉致を正当化した人もいます。このディプログラミングには不法監禁や暴力行為も含まれており、まず最初に暴力的に被害者の身柄を拘束するわけですが、彼は次のような主張を展開してこれを正当化しようとしたわけであります。

米国では、賢明にも南北戦争の時代、すなわち1860年代に、いわゆる合衆国憲法修正条項第13条というものを通過させ、これによって奴隷制度というものは認められないということになりました。1863年に、この奴隷制度は良くない、違法である考え方に至るまでに長い時間がかかりました。さて、この有名なカリフォルニア州の教授は、次のような理論を主張し始めました。

「その他の宗教団体もそうだけれども、特に統一教会は、合衆国憲法修正条項第13条に反する行為を行っている。というのも、彼らは人々を洗脳し、その心を奴隷にすることによって教団に入信させているからだ。したがって、彼らは自分の意思を奪われているのだから、奴隷にほかならない。したがって、われわれが彼らの身柄を保護し、そこから解放してあげるのは、単にこの合衆国憲法修正条項第13条を実施しているのに過ぎないのである」と。

 法律も、精神科医と同様に悪用することができます。そしてそれは、やはり現状維持を図ろうという人々によって悪用されます。

■政教分離の問題

 今日まだ出ていない話題で、もっと議論しなくてはならないと思っている点があります。それは合衆国憲法の中に、そしてその他多くの国々の憲法の中にある一つの概念、すなわち「政教分離」という概念についてです。

多くの国が国教というものを持っています。イギリスには英国国教会があり、女王自らがそのトップにいます。イスラエルも正式にユダヤ教を国教に制定しています。タイにも国教があります。そのほか多くの国々が国教というものを持っていますが、国教といわれるものの問題は、その国に住む人々はすべて強制的に、自分の意思に反して、税金を払うという形で、自分が信じていない宗教を支援させられているかもしれないという点にあります。私はこれは納得できないことであると思います。国家と宗教が一つであるという概念そのもの、そして国がすべての人々に対して、信者であるか否かはお構いなしに、強制的にある宗教を押しつけたり、支持したりできるというのは、非常に危険な概念であると私は考えます。

 米国では政教分離を謳った合衆国憲法修正条項第1条があるにも関わらず、国家は免税特権によって宗教を支援しています。またイタリアのように、もっと直接的に宗教を支援している場合もあります。イタリアでは確定申告の際に所得税の還付を受けるとき、それをどの宗教に振り向けたいかという条項があります。そしてどこにも献金しないというわけにはいかないわけです。もし国家が免税特権などを与えることによって宗教を支持すれば、国家はその宗教の聖職者を支配できるようになります。そして資金源をカットするぞと脅しをかけて、彼らが説教で何を言うべきかまで干渉できるようになるのです。同様に、宗教が公的資金に依存している場合は、やはりその時々の政治に迎合し、日和見主義的な宗教になってしまうでしょう。

 米国という国は、宗教の自由を求める人々が設立した国であるという栄誉を持っています。わが国の子供たちは皆、われわれの祖先は礼拝の自由を求めてイギリスから渡って来た移住者であったと教えられてきました。しかし、この移住者たちが入植地に到着し、マサチューセッツやバージニア、その他いろいろな所に入植地を作ったとき、彼らは自分たちの宗教を打ち立てました。そして彼ら自身が迫害者になってしまいました。これは米国の歴史の大きな伝統だと言うことができるでしょう。われわれは、新しい宗教が出てくればそれを必ず迫害してきました。歴史的に見れば、それは明白なことです。ハレ・クリシュナにせよ、統一教会にせよ、今はファミリーという名前になっている「神の子供たち」にせよ、この中には私のクライエントになっている人々もいますが、今彼らが迫害されている状況というのは、何も新しいものではなく、歴史の中でずっと繰り返されてきたことなのです。

 イギリスからやってきた移住者たちは、自分たちのやり方で礼拝をしない人たちを迫害しました。ロジャー・ウィリアムズという有名なプロテスタントの牧師がマサチューセッツを逃れたのは、彼のキリスト観が当初のマサチューセッツの公式見解とは異なっていたからです。そこで彼は数マイル離れた所にロードアイランドという場所を打ち立てました。そして彼はロードアイランドで自分のグループを作って、今度は迫害される側から迫害する側へとまわったのです。

 また、米国でモルモン教徒たちによって神の石板(モルモン経)が発見されたときも、彼らは迫害されました。カトリック教徒が19世紀にイタリアやアイルランドから米国にやってきたときも、やはり多数派のプロテスタント信者がカトリック教徒を迫害しました。ここにおける共通点は、いつの時代でもどこの国でも、権力を持っている人たちは、新しいアイデアの台頭というものを危険なものと考える傾向にあるということです。つまり彼らが現在の権力を維持していく上で、新しいアイデアは脅威になると思ったわけです。したがって新しいもの、新奇なものは、こうした差別や迫害の対象となってしまうわけです。

■抑圧につながる考え方

 これは何も新しい概念ではありませんし、米国だけに限られたことでもありません。そしてこれは宗教だけではなく、他の分野でも見られることです。人々が何かある概念を信じる場合、宗教的な信じ方をする場合もあると思います。ある特定の宗教に対する反論として、こういったものがあると思います。「彼らが信じているものを見てみろよ。とても論理的とは言い難いし、とても合理的とは言い難いものを信じているよ」。

 しかし、宗教とはそもそもいったい何なのでしょうか。宗教というものはそもそも、信仰に根ざしているわけです。科学的に証明できるものを信じなければならないということはありません。たとえばキリストの神性について科学的な証明がなされているわけではありません。にも関わらず、何千万、何億という人々がそれを信じているわけです。これは何も科学的に立証できるからというわけではなく、自分でそれを信じようと選択したからです。そしてそれは、それを信じようという社会の中に彼らが同化しているからなのです。もし私がそれを信じないという選択をしたとしても、それは私の自由です。そして彼らがそれを信じると選択したのなら、それは彼らの自由なのです。これは彼らが私に対して寛容であるとか、私が彼らに対して寛容だとかいうことではありません。私は、彼らには人間としての主体性と尊厳性があり、自分にとって何が真実であるかを選択をする権利がある、ということを認めているということなのです。

 またその他にも、同じように迫害されてきた信仰に関する概念があります。米国人というものは、自分たちには物事をあらゆる観点から見る能力があると思いがちですが、私はそれはバカげていると思います。われわれは子供たちに、資本主義が一番優れた経済体制であると教え、洗脳しているのです。また独裁制や君主制ではなく、選挙によって人を選出するわれわれのやり方が、一番優れた政治システムなのであると子供たちに教えています。また、共産主義とか社会主義といった考え方を持ってきて、民主主義や資本主義などの考えに挑戦しようという人が現れますと、民主主義者や資本主義者は本当に興奮してしまいます。宗教改革のときに、プロテスタントの人々が教皇無謬説に異議を唱えたとき、教皇の威信のもとで平安な生活を送っていた人々は、非常に興奮しました。こうした場合の議論は、決して「私は自分の利権を維持しようとしているのである。私は自分の権限を保持するんだ」というようにはなりません。それは必ず「あなたはサタンだ。あなたは悪霊にとり憑かれている。あなたは騙されている。真実はわれわれの側にある」という議論になってしまいます。

 私は皆さんに対して、すべての宗教に対して、また宗教によって支えられている政府や、政府に支持されている宗教に対して申し上げたいのです。それはもし「真実は一つしかない。そしてその真実はわれわれが持っている。これを信じた方がいい。なぜならこれをわれわれは神から直接授かったのだから」と言っているとしたら、それは非常に危険だということです。これは抑圧につながります。こうした考え方が専制君主になり、個々の人間の人権を無視することになるのです。ありがとうございました。

(1998年5月24日、「新しい世紀と宗教の自由」日本会議において発表)