日本人の宗教的自覚
―日本人の精神的風土における反宗教的傾向―

摂南大学教授 渡辺 久義

 

■歪められた観念

 日本人である私が今日の日本人全体の病気とも思えるものを診断できる立場にはないかもしれない。しかし最近の日本人、特に若者たちの道徳的荒廃を、それをはっきり観察し触知しうるもの、集団的病気の症例として分析しうるようなものにしたと思う。これが先進国すべてに共通するらしいことは不気味な意味をもっている。だが私はここでは日本の独特の事情に焦点を絞るつもりである。

 最近の若者も大人も合めた道徳的な逸脱行為を憂慮する、また憂慮するふりをする日本人は一致して、直ちに何らかの対策を講じなければならないと主張する。が正直なところ、彼らはそのような「対策」がありうるのか疑問をもっており、実のところどうしてよいか分からないのである。問題は、そのような人々が自分は免罪されていて別だと考えるのか、それとも自分にも責任があリそこに深くかかわっていると考えることができるかどうかである。事の性質はアウトサイダー意識を許容しないほどに深い。

 一つの国民全体の精神が健康な状態にないということは、彼らが宗教的に病んでいるということであり、彼らがそれを宗教的問題と認めようと認めまいと、また彼らが宗教をもっていると公言しようと無神論者であろうと関係のないことである。今日大多数の日本人は、あまりにも偏見をもちしかも想像力には乏しいので、近年の信じられないほどの青少年非行の根が宗教的次元に求めるべきものであるとは考えられないのである。私がここで言う「宗教的」とは、通常誤って理解されているより以上の、また少し違ったことを意味している。私は「宗教」という概念そのものが、我々の要求に合うように、現在の猶予できぬ問題に対処できるように、まず再定義される必要があると思う。今日宗教が必要とされるということは、我々の心の構え方の構造的な変化、新しいパラダイムヘの転換、意識しようとしまいと我々がそれによって生きている哲学を一新することが必要とされるということである。

 しかし人々は一般に、そして特に日本人は、宗教についていまだ偏った歪められた観念しかもっておらず、我々の最も重大な、しがって「宗教的」な問題に関して判断する力をもっていないのである。このことが日本で表面に現れたのは、オウム真理教による凶行がわが国の多くの「批評家」たちの批判を引き出した時であった。反応は概して、アウトサイダーの驚きと憤慨であり、犯罪者たちの社会心理学的な動機に関する頭のよい分析と憶測であった。私を不安にさせたもの、しかも最も重要な意味をもつものは、彼らのほとんどが宗教を下に見るかのごとき態度を取ることであった。彼らは確かに、我々誰もがそうであるように、犯罪者や堕落した宗教よりもすぐれているであろう。しかし彼らは、我々すべてと同じく、宗教への情熱そのものを軽蔑することはできないのである。

 更に彼らは、なぜこのような宗教が若者の間から起こってこなければならなかったのかに対して盲目であった。オウムの信者たちは確かに間違った方向へそれていき、そして最後は殺人集団となった。しかし批評家たちは概して、この時代の精神的砂漠から脱出しようとする若者たちの基本的な渇望と、そのための方法を暗闇の中で手探りしなければならなかった事情を見ようとしないのであった。彼らは、我々のすべてがこの精神の病いに対して集団的に責任があり、それらの若者は我々自身の病気に冒された体の炎症を起こした部分であることを見ようとしなかった。彼らはこれら狂信者たちを「反社会的」であるとして非難したが、いかなる革新運動も反社会的であらざるをえないこと、ただそれは精神的にであって物理的であってはならないということを認めようとしなかった。不幸なことにオウムの若者たちは、共産主義のような暴力革命を信ずるように導かれたのであった。

 したがってオウム事件とは、宗教的に病気にかかっている共同体の内部での誤った宗教的覚醒の一例であった。それはそれ自体が病気の症状であって、彼らがそのつもりであったかもしれぬ治療ではなかった。それはそれ自体が治療を要するのだが、明らかにそれはどんな外科的手術や対症療法によってでもなく、この共同体全体の体質の一新によってでなければならず、それは我々すべての真の宗教的覚醒を意味するのである。

 逆説的にひびくかもしれないが、個々の反乱であろうと世界各地にある宗教間の紛争であろうと、宗教的な悩みをいやすことのできるのは宗教――再定義された、新たな、強力な宗教――でなければならない。この逆説的ではあるが単純な事実に批評家が気付かないという事実そのものが、病弊の最大の徴候である。これは昨今の人々がいかに、精神的(霊的)な救済策など考えることもできない唯物論的な世界に生きているかを示している。よりすぐれた識者の中には、今日我々が最も必要とするものが何かであるかに気付いている人もいるかもしれない。しかしそのような人たちも、おそらくは「宗教」という言葉を使いたがらないであろう。なぜかというと、現状では、それは一般大衆の心の中にうさん臭い感情を引き起こす可能性が大だからである。それは彼らができれば口にしたくないと思うような言葉なのである。

 そういうわけで我々は、最も嫌われているものが最も必要なものであるという事実に、ひるむことなく直面しなければならない。そしてこの矛盾は多かれ少なかれ一人の人間の内部にさえ存在する。我々は時によって、自分の知識人としての名声と地位を危険にさらすことなく宗教について話すことができるかどうかを思い迷う。したがって我々の最初になすべきことは、宗教とは本当はどういうものであるかを明らかにすること、その概念のもつ古いにおいを一掃すること、そして一般大衆をその惑わしと思い違いから救い出すことではなかろうか。私はこの宗教の概念的更新が、幸いなことに、いかに徐々にまたひそかにであれ、ちょうど「科学」の概念がトマス・クーンから始まった「パラダイム」の議論とともに捉えなおされているように、またそれと平行して、今進行中であるように思う。宗教の議論はしたがって、科学に関連づけることなしには、もはや可能でもなく望ましくもないと思われる。そしてそれは我々の課題をはるかにたやすいものにする。もし新しくされた科学の概念と新しくされた宗教の概念が出会って、現実世界に対する一つの統合された見方を形づくるなら、そしてそれが世界中に常識として広く受け入れられるようになるならば、宗教の自由や宗教教育の擁護のために我々のなすべきことも、たたかうべき相手も何もなくなるであろう。

■はびこるマルキシズム

 日本人が宗教について考えていることは、一神教の人々が考えることとは少しあるいはかなり違っていると言えるかもしれない。私の印象では、第二次世界大戦後しばらくして新宗教が現れはじめた頃までは、日本人は一般に宗教のことを、死ぬ準備をしている老人や老婆のものであるにすぎないか、または葬式や年忌に際して思い出すものと思っていた。宗教についてのこの考え方は新宗教の出現によってある程度は変わったものの、教育を受けた人々はたいてい宗教などというものを軽蔑しており、それがインテリであることの証しであるかのように思っていた。知識人のこのような態度は、戦後40年ほどにわたって知識階級の間で勝ち誇りつづけたマルクス主義イデオロギーによって、大いに勇気づけられたのであった。日本におけるマルキシズムは欧米諸国のそれとは少し違っていたし、今もそうである。つまり、一たび戦時の弾圧から解放されると、それは何の障害物に出会うこともなく広がり、知識人の間でほとんど神聖不可侵のものになった。それは先に存在する哲学としてのキリスト教という防御物がなかったからである。

 基本的にこの状況は今もあまり変わっていない。ただそれはソ連の崩壊後、少しあるいはかなり変わってきたとは言える。それを「少し」と呼ぶべきか「かなり」というべきかは状況をどう見るかによる。そしてそれは重要なことのように私には思える。なぜならマルキシズムは今日、形を変えて、いたるところに見いだすことができるからである。そもそもマルキシズムが素朴にも、その宣伝通りに「科学」として受け入れられてきたという事実は、日本人が本当のところは、宗教とは何かを学んだことがないのみならず、科学とは何かをも学んだことがないということを示すものである。

 西洋の諸科学が明治維新後はじめて日本に導入されたとき、それは多かれ少なかれ、ヨーロッパではもともとそれと一つのものであった宗教的探究から切り離された、完成され独立した専門科目としてであった。これは不幸なことであった。なぜならそれは、現実世界を探究する唯一の尊敬すべき方法としての、科学への我々の安易な信仰を生み出したからである。この信仰はたしかに欧米にも存在するかもしれない。けれども日本においては、それは伝統的哲学の欠如あるいは弱さのために更に悪い形をとった。たしかに日本に宗教はあったし、人々は非常に宗教的で、もしかしたら他の民族以上かもしれない。しかし日本人は概して、宗教というものを哲学体系として、すなわち宇宙の神学的な説明として求めたことも、受け入れたこともなかったのである。

 このような土壌は、何もそれを制止するものがなくて、科学が成長するには好都合であり、それはわが国の科学技術的な領域でのかなりの成功に現れている。しかしそれはまた、「科学信仰」とも呼ぶべきものを成長させ、宗教を扼殺させてしまうのにも好都合であった。更に事態は、行く手に何の障害物もなく、日本の知識人の心の中心にまで浸透したマルクス主義によって悪化を招いたのである。そのように見れば、日本の無神論者や唯物論者が欧米とはやや違うということがよくわかるであろう。彼らは自分がそうであるとは気付かずに無神論者や唯物論者なのであり、気付いているときでも罪の意識はまったくなく、それを誇りにさえしているのである。

■困難な宗教教育

 マルキシズムの天国はダーウィニズムの天国でもある。アメリカでもどこでも日常的に見られる、ダーウィン進化論をめぐって賛成か反対かという熱い議論は、日本では決して起こらない。人々は通常、その話題に引き入れられればポカンとした顔をするだろう。彼らは学校で、はっきリとまたは漠然とダーウィン的に考えるよう教えられ、それ以後それを疑ってみたことがないのである。このことは日本人が愚鈍だとか非宗教的だとかいうことを意味するのではない。それはただ彼らが、神とか超越的な力の存在とか、神の創造とか、宇宙の青写真とか、自分自身の起源についてさえ、そのような大きな神学的問題に対しては軽蔑するか敬遠するように、文化的に条件づけられているということを意味する。彼らはもっぱら「科学的」な考察にのみ興味をもつよう教えられ躾けられているのである。

 そこに日本における宗教教育の困難が横たわる。宗教など老人が死の恐怖を鎮めるための気休めにすぎないとみなされていた段階を、日本人は通り越したとはいえ、今なお多くの公言する共産主義者と、更に多くの公言しない、あるいは意識しない共産主義者がいるのであり、彼らは好んで宗教についての古い見方に固執し、それを政治的または個人的な利益のために利用するのである。共産主義者というものが、いつでもそれとわかるものではないということは強調されなければならない。ここには彼らが反宗教的感情を煽リ立てるために好都合な要因がたくさんある。人々は普通、怠惰であって、目覚めさせられるよりも何によらずその古い歪められたイメージとともに眠ることの方を好む。また未だに左翼的優越ともいうべきものと、左翼的思想に対する一般の敬意の雰囲気がある。更に、オウム真理教事件や他の宗教団体による逸脱行為という、宗教的堕落のあまりにも雄弁な証拠がある。そして最も強力なのは、日本国憲法による公の教育機関における明白な宗教教育の禁止である。

■宗教なき道徳教育はない

 このような要因が結合して、反宗教シンドロームともいうべきものをわが国において醸成している。ところで、これらの共産主義者や準共産主義者たちは、この不幸な状況を作り出した張本人であると同時に、自ら好んでなったその犠牲者でもあると言えるかもしれない――ちょうどオウムの犯罪者たちが、日本の精神的堕落の犠牲者でもあり代表者でもあると言えるように。私がそれを言うのは、日本は今、前代未聞の青少年と大人の非行に対する何らかの解決策を求めているからであり、何らかの永続的な道徳的原理が確立されなければならないと感じており、どうやらその原理のためには宗教的支えが必要であることに気付きはじめているからである。というのは、ちょっと考えただけでも、宗教教育に基づかない道徳教育などは不可能だからである。これは私の空想かもしれないのだが、しぶしぶながらでもこの真理を理解しはじめている日本人が増えてきたように思える。

 他方において、それが宗教を前提としなければならないがゆえに道徳教育に公然と反対してきた、そして今も反対するますます優勢な共産主義者に、我々は直面しなければならない。宗教を彼らはこの世で最も危険なものであるかのように言い触らす。彼らは今後もその主張を続けるのだろうか? それとも彼らは抽象された宗教の必要は認めるが、個々の特定の宗教は危険だと言うのであろうか? あるいはもう一つの選択肢を取って、古い宗教は奨励されねばならぬが、新しい宗教は「カルト」であるから排斥し滅ぼさねばならぬ、と言うのであろうか? 我々のこのような運動や、世界の諸宗教の統一への傾向に対して、彼らはどう言うのであろうか? 宗教自体の、新しくされ新しくなりつつある概念に対してはどうなのか? そこから道徳と倫理が生ずるはずの、人間存在のあまねく合意された哲学的基礎が必要だとする提議に対してはどうなのか?

 すべてこういったことは想像力の問題だと私は思う。自分の生きているこの現実を、いかに深く、いかに全体論的に、いかに未来に向かって考えることができるかという問題である。一人の日本人として私は、共産主義者や彼らに追随する人々がそう思わせたがってきたように、この世界は人生の宗教的基礎などない方がうまくいくと考えるほど、我々は想像力の乏しい民族だとは思わない。最近、わが国では「心の教育」ということについてにわかに騒がれている。しかしこれは「心とは何か」という議論がまずなくては何にもならないことである。そして、誰が心というものについて納得のいく考え方を提供できるであろうか? 唯物論者では断じてない。心理学者でさえない。なぜなら、それが現実的に有効であろうとするなら、それは孤立した現象としてではなく全体論的(ホリスティック)に捉えた像でなければならないからである。そして宗教的次元以外のどこにそれを求めることができるだろうか。我々が奇妙にも目をふさがれてきたこの単純な事実は、「パラダイム・シフト」と呼ばれるもの、つまり科学者や哲学者の間で議論され、今は広く受け入れられている物の考え方の枠組みの一新によって、より受け入れやすいものになったと私には思われる。

 これまで論じてきたように、日本の事情は諸外国の事情とは少し違ったところがある。にもかかわらず、私が述べてきたことは多かれ少なかれ世界の他の国々にもおそらく当てはまることであり、そしてあえて言えば、宗教の自由を擁護する世界的な闘いにおいて、その自由を制限しようとするほどひどい思い違いをしている世界の諸勢力と闘うというよりは、彼らを啓蒙するために、考慮されてよかろうと思う。

(1998年5月24日、「新しい世紀と宗教の自由」日本会議において発表)

(英文で書かれた原稿を著者が翻訳したものである)