戦後教育の総括

筑波大学名誉教授 鈴木 博雄

 

 戦後50年が経過して、教育分野に限らず戦後の日本の社会システム全体が崩壊してきており、その一つとして教育もその傾向にあると言うことができる。しかも教育の場合は、すぐに損得に結びつかないために、崩壊しているにも拘わらず、なかなか実感しにくいと言う状況である。そのため、首相も教育分野についてはほとんど言及しない。しかし、現実は教育分野の方が、かなり早くからそうした崩壊の兆候が現れていた。

 特に最近、注目される社会の事件として夫婦殺し、親殺しといった親族殺人犯罪が挙げられる。昔はあまりなかったが、最近では頻繁にニュースとなっている。これは教育の基盤である家庭の崩壊を示唆しているもので、こうした状況を見るにつけ、来るところまで来たという感慨を持つ。これでは教育の問題の域を超えているとさえ言える。

このように戦後社会のシステム全体を再検討しないといけないというのが、私の本音である。

1.社会システム全体との整合性

 そこでまず戦後の教育システムそのものの評価について考えてみよう。

 社会システム全体と教育のシステムとの整合性が必ずしも一致していなかったのではないか。例えば、六三制は、日本のそれまでの教育制度とはまったく異質なものを日本に接ぎ木してしまったもので、それに慣れるまでかなり時間を要した。そもそも六三制の三というのは、日本にそれまで存在しない制度であったために、最初の5年くらいはそのための校舎を作るだけでも大変であった。六三制は、そもそも占領軍の強い意思があり、それを受けて日本政府も実施をすることにしたのだが、それに見合った予算が伴なわなかった。つまり高等小学校の1年に2年を足せば3年になるという具合に単純にはいかないところがあった。

高校の場合は、旧制中学を転換すればよかったのだが、新制中学校は全く新設だったので、そういかなかった。「新制中学エレジー」という言葉もあったほどである。こうした苦労の土台の上に、10年くらいしてようやく中学校らしいものになっていった。

 その新制中学校の教師は、旧制中学の教師と旧制小学校の教師とから構成されていた。そのために中学校の伝統を築くのに相当時間がかかった。旧制中学の教師が幹部教員として赴任し、一方、旧制小学校の教師の中で年配の人が中学校にいった。そうした人たちが一緒にやるのだから容易ではなかった。

 高等学校は、昔の旧制中学校であるから、新制中学校とは違うという考えを持っていた。そもそも中学校と高等学校とを合わせて中等教育(ジュニアとシニア)と言っているが、日本の場合ははっきりとそこに線を引いてしまった。つまり六三は義務教育で次の三はそうではないとした。つまり、中等教育としての教育上の一貫性は最初から難しかった。

 当時の高校への進学率はだいたい30%弱程度であった。しかし、10数年すると、進学率もかなり上昇してきたにもかかわらず、今日に至るまでこの区分を変えなかった。教育制度としては、六三は義務教育であるが、最後の三はそうではない。具体的に言えば、それぞれの予算の出所が違っている。六三は、国から教員への補助金が出るが、高等学校教員に対してはそれが出ていない。このように、財政上のシステムが違っているのに、今度の答申では「中高一貫教育」と言っているわけだが、制度をまったくいじらずに、やれるかどうかは疑問が残る。指導する観点からは、中高一貫の方がいいと思われる。

 戦後の教育制度は、最初は占領軍の指導もあって仕方ない面もあったが、社会全体のシステムとは整合性が充分ではなかったと言える。その最たるものが、道徳教育であった。

 これは歴史的な因縁もあって、戦前の修身教育が超国家主義や軍国主義の元凶のようにいわれていた。例えば、GHQの司令で修身教育はだめだといわれた。修身教育はよくないけれども道徳教育はやらないとけないのではないかという考えは、当時の識者の考えの中にはあった。ところが、世間からは、「道徳教育」というと「これまた修身教育の復活か」と批判され、何も出来ないままに経過した。

 戦後幾度か「道徳教育」の振興が提起されるのだが、その度ごとにマスコミから叩かれて駄目になった歴史であった。昭和30年代後半から「道徳教育の時間特設」ということになったが、必ずしも徹底していない。教える側の教師自身が道徳について充分な理解を持っていないという状況さえある。

 文部省の指導方針も、マスコミから叩かれるのを避けるために、道徳を進める上でイデオロギーに関係のない「心理主義」を採用した。道徳の内容を考えずに、道徳の教え方のみを強調したのであった。道徳の内容は子ども自身に考えさせるとしたのであるが、道徳の内容を子どもの生活体験からだけで考えさせることには無理がある。

 この流れが今日の非行の指導法にもみられる。つまり何か学校などで問題が起こると、すぐ「カウンセリング」が持ち出される。キレる少年に対して担任教師が正面からぶつかって解決を図ろうとせずに、カウンセラーに任せるというのは、一見、合理的な手法であるが、必ずしも教育的とはいえない。文部省としては内容は真っ正面から取り扱えないので、没イデオロギーの方がやりやすいというわけである。この姿勢が一貫として一つの問題点となっている。やはり内容を抜きにした方法論だけでは、青少年の教育はできないのに、それをずっと避けてきた歴史があった。

2.社会的現実との整合性

 次は、教育だけではなく、日本の戦後50年そのもの(日本の社会的現実)が、つまり日本国憲法を始めとする戦後の制度・仕組みのすべてが、タテマエとホンネの二重システムになっていることである。教育の場合にも、同様のことが言える。このためにいろいろなことが徹底できなかったのであった。特に教育の場合は、そうした文化的な二重システムと共に、文部省と日教組という政治面での二頭立ての馬車の構造もあった。文部省がこうやれとタテマエで言っても、それに対して日教組はそれを実質的に形骸化するという構造で、今日までやってきた。

 幸か不幸か、数年前社会党(当時)の首相が出たときに、社会党の方針を変更したことによって、日教組も文部省とのテーブルにつくようになった。しかし戦後の教育自体を見れば、教育現場を預かる教師と教育行政を担当者とが、違った立場で二重の舵取りをやってきたのは、不幸な歴史であった。

 例えば、長らく京都は革新の勢力の強いところであった。文部省の研修においても、革新系の教員には特に注意して実施したような時代もあった。

3.内部サブシステムとの整合性

 教育行政において、上(中央)から下(現場・地方)に情報(政策)が伝達されることはあっても、下から上にはいく仕組みは不充分である。つまり現場からのフィードバックが働かない仕組みなのである。文部省は「下(現場)から意見を聞いてやっている」と言うのだが、意見を聞くとはいっても、彼等は自分たちの何かを進めるために(それに合致する)意見だけ選り出してを聞いているだけである。本当の意味で意見を聴取しているとは言いがたい。

 下からの意見や報告では、本当の事は言わないことも少なくない。それはそうすると自分の責任になるためであろう。そのような構造から出てくる「事実」をもとにして、対策を講じても、どうしても上滑りになってしまわざるを得ない。

 例えば、通産省と比較してみよう。通産省の行政は、企業にしてみれば、死活の問題であるからいいかげんな行政通達をやろうものなら企業等から突っ込まれてしまうはずである。しかし、文部行政の場合は誰も突っ込んでくる人がいない。大学教授ですら頭を下げて文部省にやってくるような体質が出来上がってしまっている。文部官僚の若い人には、「我々が日本の教育を担っているのだ」と気負っている人もいる。個々の役人云々と言うのではなく、システムがそうなってしまっているのである。学長ですら文部省にすっと行っても局長には会うことができない。

 ある時、日経連の教育部会で教育についての提言をするための会合をもったときがあった。その時私は附属小学校長を兼任しており、その会に出席した。その最初の会合の時、「委員の皆さんもずいぶん昔に小学校を卒業されたと思いますが、昔の小学校のイメージで議論されても困るので、一度小学校を視察してみてはいかがですか」と提言した。そうしたら文部省出身の委員にやりこめられてしまった。すなわち「その必要はない。もし小学校の事情を知りたければ、校長を呼んで報告させればよい。第一、どの学校を選ぶかという作業が難しい」と。その委員は、比較的柔軟な頭の人であったが、物分かりのいい人ですら、このような発想である。このときこれが文部省の考え方かと実感した。つまり現場の声を肌で感じないままに、文部行政をやっていると言うことなのである。

教育は、やはり半分は体験がものを言う。教育学と教育の経験とは、また別のものである。戦後の教育学は、科学として大きく発展したが、現実の教育の改革にどれだけの貢献があったかは疑問が残る。私に言わせれば、「戦後は教育学栄えて、教育滅ぶ」となる。もちろん戦前の教育学に比べて幅が広まり、深まったことは事実であるが、現実の教育はそんなによくなっていない。学問の性格上、現実に直結しないのはやむを得ない側面はあるものの、もう少し教育学者も理論や関心を、もっと現実と結び付ける必要がある。

 戦後の政治システムそのものも、軍部と財閥は消滅したが、官僚だけは戦前のまま生き残り、その上に政党が乗りかかって戦後50年の政治が続いてきたと言える。実質的に戦後50年間をやってきたのは官僚であった。教育においても同様である。

 文部官僚は、戦後の初めは内務官僚の系統であったから当然、中央集権的な行政をやった。途中から文部省生え抜きの官僚が出てきた。この人たちが戦後の文部行政の主流だと思う。

 しかし、当時の文部官僚には、能吏ではあっても、哲学はなかったように思う。昭和40年代後半のこと。大学進学率がどんどん増えたころで、私はある文部省の役人に、「こんなに大学が増えてしまっては今後困るのではないですか」と聞いたことがある。すると彼は「おかしいな。もう少しすると進学率は天井に来て(進学率がピークに達して)またターンするはずだ。米国のデータによるとそろそろターンするはずだ」と答えたのである。彼は、米国のモデルを日本の先行モデルとして一貫して使っていた。しかし、私は、日本と米国は社会状況で類似点もあるかもしれないが、やはり社会的現実はかなり違うから、米国をお手本にされたのでは困ると思ったものであった。特に私のように日本教育史を専攻するものにとっては、強くそう感じるのであった。

 戦後、新制大学ができたときに、「新制大学では、一般教養、専門教育、職業教育は三位一体だ」と言われた。ところが、昭和40年代だったと思うが、米国の学者と議論しているときに、彼等が「なぜ日本の大学は、一般教養として高等学校教育の焼き直しのようなことをやっているのか」と聞いてきたので、我々は「米国の大学をモデルにして導入したからそうなっているのだ」と答えた。すると彼は、「米国の教育制度では、小・中・高の段階では州毎にばらばらで多様性があるので、大学に入り大学教育をやるときにはどうしてもベースとして一般教育をやらないと専門教育に進めない。だからそのような必要性があって一般教育課程を設置してやっているのだ。しかし、日本は逆であって画一的な仕組みで小・中・高の教育をやっているのだから、そのあとはもっと多様化する必要があるのに、大学でまた一般教養をやっている」と。

 まさにこれは日本の典型的な失敗例であって、その国での社会的な位置づけを抜きにして、そのものだけを抜き出して移植してもうまく行くわけがないのである。

4.戦後教育の評価 

 全体として戦後教育の評価となると、国そのものの方向性が不透明であったこともあって、教育の向かうべき方向が一貫してはっきりしていなかった。そのために求心力がなくなり、ふわっとしたものとなった。また戦前と比べると、教師の指導力が著しく低下した。もちろん教科によっては、子どもの学力はかなり向上していることは事実であるが、全体として見ると、教師の指導力は弱い。

 これは教員養成の制度ともからんでいる。戦後の教員養成制度を端的にいうと、誰でも単位さえ取れれば教師になれると言う仕組みである。たとえてみれば自動車の運転免許と同じようなものである。そこでは、教育に尽くそうという使命感のある人は少なくなっている。これでは人を教える教師を育てるには問題があると言わざるを得ない。

 その教員養成のあり方が問題になったのは、昭和32年中教審が占領政策の是正という形で提言を出した時である。やはり目的的な教員養成にしないとだめだという結論だった。ところがこれに猛烈に反発したのが私立大学であった。なぜなら私立大学は教師になれるということで学生を集めている一面があるからであった。かつての師範学校のように、目的大学に入った者だけを対象に教員養成をするということになると、私立大学はその利点を失うことになるというわけなのである。このような私立大学の反対でこの案は挫折してしまった。

 この案については、教育大学系、師範大学系の先生は、教育大学の強化として賛成であった。旧帝国大学系の大学などは開放(オープン)性を主張し、目的的教員養成に反対した。理屈としては開放性がいいのだが、現実にはこの制度では「でもしか教師」しか育たなかったのである。開放性でいくのならば、それ相応のしっかりした教員養成のカリキュラムを作ればよかったのであったが、それもせずに来たことが問題であった。昭和30年代後半には、「でもしか教師」という言葉が流行っていた。この言葉は、当時の教師に対する一種の批判であったが、この点は今日でも生きている。

 一番重要なことは、教育の面では、さまざまな問題があるのにもかかわらず、半世紀にわたってきちっとした制度改革を一度もやらなかったということである。制度改革は法律を改正しなければならないが、これが容易ではない。その原因の一つには、日教組の存在がある。つまり国会で法律改正でやろうとしてもうまくいかないから、文部省の行政指導でいこうというのであった。だから基本線は、戦後一貫して六三制で今日まできている。財界などから要求があった部分だけ、少し部分的に改善するという手法であった。例えば、高等専門学校。六三制からいうとこれは「鬼っ子」になるわけだが、現実の要請としては高等専門学校は必要であるとということから、法律に依らず条例によってこれを設置した。これは明治以来の教育史から見ると、50年間抜本的な教育の制度改革をやらずに来たのは非常に珍しい。大体、10年に1度くらいで改革を行ってきた。これには政権党にも責任があったと言える。面倒なことは、みな先送りしてきたとも言えるのである。

 その他には、教育の機会均等と国民全体の教育レベルの向上、教育施設設備の充実など評価できる面も少なくない。また、教科学習の学力について言えば、理科、算数、音楽、美術、体育などは教科が充実したものの、国語、道徳、歴史などにおいては後退したことは否めない。

5.戦後半世紀の六三制教育の総括

 歴史を簡単に振り返ってみると、昭和20年代前半は、米国式新教育の受容と実施。昭和22年には、文部省は、学習指導要領の試案を発表した。教師が自主性を持って、カリキュラムづくりをするという方針であったために、教師は意欲を出した。何々プランというのが各地で出来た。とはいっても教師が完全に頭を切りかえるというのは容易ではない。その結果、上滑りした面が出てきた。一番大きな失敗は、社会科の生活教育。生活経験を重視するということから、教室の授業はやらずに、実際に外に出て調べたり、学校の中に模擬店を設けて品物の売買をためしたりというようにして学習させようとした。これは米国の経験主義の考えから来たものである。しかし、子どもにとって面白いので、「ごっこ遊び」で楽しむのだが、それだけに留まってしまって、学習として後に残らないという欠点があった。

 これが27年頃から、「ごっこ遊びではだめだ」ということから、もっと系統的な知識の学習をやらなければいけないということになった。これが更に具体的になってくるのが、30年代である。占領期の教育の是正ということで、次の二つが批判の対象になった。一つが道徳教育の不在であり、もう一つが基礎学力不足であった。この二つはイデオロギーを抜きにして説得力があった。

このような流れの中、文部省は「教育課程の国家的な最低基準」を策定した。これは、これまで国が示す教育課程は標準だったものを、これからは法律に準拠するということにした。これによって、この基準からはずれれば「法律違反だ」といえるようにしたのである。それまでは、例えば「学習指導要領の試案」の場合は、学校はそれぞれの中で創意工夫でもって自由にやりなさいといっている。文部省の学習指導要領は、一つの例を示すとして出したのである。これはあくまでも試案であるので、このとおり絶対やれとはいっていない。これをもとにそれぞれの学校で工夫してやりなさいという。これは米国流のやり方で、大綱だけ示して、個別的なことは各学校に任せるという方法である。

 道徳教育は、時間を設定せずにやればそれがいい加減になり、また効果が挙がらない。文部省は、昭和30年代初めから始め、33年には学習指導要領の全面改定を行なった。これも法律によるものではなく、条例の一部を変えたものであり、これによって学習指導要領の基準性(これに準拠しないものはだめというように)を出した。これが文部省の指導行政の法的根拠となり、これをもとに教育行政が進められるようになった。この33年の転換は、戦後の教育史上、画期的な転換点であったと考える。

 その後、日本社会全体から言うと、38年頃から高度成長期に入った。このころ産業界からの要請として「科学技術教育の充実」ということが出てきた。当時は、米ソが宇宙衛星の打ち上げに成功するなど、科学技術が大いに脚光を浴びていた。それで38年から43年頃までは、科学技術教育の重視の時代になった。

 そうしたものの総まとめが、昭和46年6月の中教審の答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本施策について」というもので、第三の教育改革とも呼ばれている。この内容はかなり本格的なものであり、私は評価している。これは戦後教育の総決算とそれから以後の教育の未来像について踏み込んで議論したもので、一つのターニングポイントである。このころは戦後20数年経過して、世の中が大きく変わってきたので、ここで教育の全体を見直そうという観点からできた答申であった。筑波大学や放送大学などもこの改革の一つとして取り挙げられたのである。

 内容としては、先導的試行、中・高一貫、4・4・6制など斬新な提案もあった。当時、大学紛争などもあり、これを実施しようという気運が高まったものの、昭和48年に石油ショックが起こり、膨大な予算がカットとなり、結局、教育改革は挫折してしまった。しかし名称は変わっても、この基本的な考え方はその後の臨教審や中教審にも受け継がれた面も少なくない。

このころ、科学技術教育の要請と同時に、当時米国で流行していた「教育の現代化」という考え方が日本に導入された。これは最先端の科学(例えば、量子力学)でも教え方によっては、小学校の子どもにもその原理を理解させることができるというもの。科学技術教育の振興と合わせて、教育内容の質・量が高度化したので、教育内容の「構造化」ということが提唱された。他方、教育内容の高度化は、「落ちこぼれ」を生むことになった。そして石油ショックのころには、落ちこぼれた子どもが非行に走るということで、このことが大きな社会問題となった。

 それに対する反省として出てきたのが、「ゆとりある教育」(昭和51年12月の教育課程審議会の答申)であった。当時、世界的にも「教育の人間化」が唱えられていた。簡単に言えば、少し学習内容が難しいからもうすこしゆっくりわかるように教えようということである。この流れは今日まで続いている。この答申では、他に「人間性豊かな児童生徒の育成」「基礎基本の重視と個性や能力に応じた教育」などが述べられていた。総じて、科学技術教育の振興の時とは、かなりトーンが違って来た。

 その次の大きなターニングポイントとしては、62年の臨教審であった。中曽根首相のときのもので、彼はこの改革を本気でやるつもりでいた。文部省に任せてしまっては、十分成果が上げられないので、内閣直属で教育改革をやろうとしていた。ところがそれに対して文部省が抵抗して、文部省に臨教審事務局を置くようにした。結局、中曽根首相もそれに動かされて、そのようになった。その結果、六三制は動かさないということになってしまった。これは最後の改革のチャンスであった。

 当時、大蔵省は予算がないので、制度改革はだめだからとくぎをさしていたために、最初の意気込みはかなりトーンダウンして、教育改革の核心である制度改革も出来ずに、最後にはいじめ問題や国際化問題についての言及で終わってしまったのである。最初は制度改革まで踏み込んでいこうという意図で始めた。一番の課題は、教育行政の規制を緩和しようという方向で考えていた。

 例えば、米国カリフォルニア州で行なったバウチャーシステムというのがある。これは納税者が納税すると入学券をもらい、それによって好きな学校に通うことができるという仕組みである。日本では居住地域によって通うべき学校が決まっているが、米国では納税者に配られた入学券によって、親の選択した小学校に子どもを通わせることができるというのである。実際には米国でも、実施するまでにはいかなかったが、競争原理を導入したという点で画期的なことといえる。最近、東京などでは、子どもの数の減少に伴い校区の規制が少し弾力化されてきている。

 その後もさまざまな改善が答申されたけれども、大局的に見れば、みな大同小異のものといえる。文部省としては現実に起きている問題(例えば、いじめなど)に対して対症療法的にも言及しないといけないという配慮があって、本質的に全体のしくみ(制度)を変えていくという意味の教育改革には程遠いものになっている。

(1998年6月30日発表)

 

[参 考]

■戦後の教育改革略年表

昭和20年代

前半は米国式新教育の受容と実施
22年 学習指導要領の試案
27年ごろから「占領政策の是正」

昭和30年代

 31年 教育課程審議会の答申
  道徳教育、基礎学力、科学技術教育、進路指導、教育内容の精選
  教育課程の国家的な最低基準
 33年 学習指導要領の全面改訂―生活学習から系統的学習への転換―
 38年1月 経済審議会「経済発展における人的能力開発の課題」−能力主義
38年6月 中教審に諮問「後期中等教育の拡充整備について」
  期待される人間像、後期中等教育のあり方

昭和40年代

 41年10月 答申「期待される人間像」
  日本人としての自覚、天皇への敬愛、後期中等教育へのあり方
  高校教育の多様化
 43年6月 教育課程審議会の答申
  統一と調和ある教育課程、教育内容の精選、能力・個性に応ずる教育、授業時数の弾力的運用
 この時期に、「教育の現代化」運動に影響されて、教育内容の高度化と過密化がもたらされた
 この頃、受験競争の過熱化が問題となる
 46年6月 中教審答申「今後における学校教育の創造的な拡充整備のための 基本施策について」―第三の教育改革― 
  先導的試行、中・高一貫、4・4・6制
48年 石油ショック。これで46答申は挫折する

昭和50年代

 51年12月 教育課程審議会の答申
  「人間性豊かな児童生徒の育成」「ゆとりある教育」「基礎基本の重視と個性や能力に応じた教育」
58年11月 中教審教育内容等小委「審議経過報告」「自己教育力」

昭和60年代

 62年 臨時教育審議会の答申
  個性教育・国際社会に生きる日本人の育成・情報化の進展に対応する教育

平成以降

 元年 学習指導要領の改定、「新しい学力観」
 7年4月 第15期中教審発足、学校週5日制、国際化・情報化・科学技術の進展に対応する教育
 8年7月 第15期中教審答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」(第一次答申)、「生きる力」
 9年5月 第16期中教審発足、大学・高校の入試、中高一貫教育、教育上の例外措置、高齢化社会に対応する教育
 10年3月 中教審「心の教育」の座長試案
 10年4月 中教審「中間報告」
  民間人からの登用、学校の自主性・自立性の確立
 10年6月 教育課程審議会のまとめ