台湾における最近の台湾研究

東洋哲学研究家 前田 一可

 

■台湾を知ることは日本を知ることに

 戦後の台湾では、政治問題を初めとして、「台湾の事は自由に研究してはいけない」という不文律があった。つまり戦後台湾に移った中国国民党の独裁主義の政策により、台湾に住む人は「中国人」であって、「台湾人」を強調してはいけないという考え方の押し付けであった。しかし蒋介石総統(1975年死亡)と、その後継者であった蒋経国総統が死亡(1988年)した後、自由化運動の流れに従い、次第に従来の行き方に変化が現れてきた。

 蒋経国が総統に就任していた頃からも、そうした変化の萌芽が見られていたが、86年9月には非合法政党として民進党(民主進歩党)が生まれ、また87年7月には戒厳令が解除された。この頃には反政府運動もうねりを見せ、特に蒋経国死後、自由化の波が高まっていった。そして台湾人初の総統である李登輝総統の就任以降、いっそう台湾化が進むことになる。それと共に台湾人による独自の台湾研究が進んでいる。

 私は予てより「台湾学」という新用語を提唱しているが、真の意味で台湾研究は緒についたばかりと言える。極論すれば、台湾研究は大中華主義との戦いである。また、「台湾人とは何か」「台湾とは何か」について台湾人自身が知る必要性のあるのは当然として、我々日本人にとっても、台湾を知ることは、逆に日本を知ることにもなると思っている。例えば、台湾原住民(高砂族)の本来の生活様式・言語・文化・歴史などを通して、日本との関わりも見えてくるのである。原住民の民話の中には、日本の浦島太郎そっくりの話があることも興味深い。あるいは台湾人・高砂族の視点からの、日本を含めた対外国観・歴史観等はとても参考となる。

■「台湾」の由来

 「台湾」という言葉の由来について説明する。
 欧米の地図には「フォルモサ」となっている。これはポルトガル語で「うるわしの島」という意味である。16世紀に、ポルトガル船の乗組員が台湾を見て、「イラー・フォルモサ!」と叫んだことから来るという。

 また、オランダ人が16世紀に台南付近から開発を始めたが、彼らがその地域を「タイオワン」と命名したという。その言葉に漢字を当てて「台湾」という言葉が出来たと言われる。

 いずれにしても、昔から大陸の人には台湾についてはあまり知られていなかった。大陸から逃げた人が行く所であったことは歴史の中で続いている。日本の統治が始まるまで、清朝にとって台湾は「化外の地」であって、為政者にとっては「我々の統治の及ばない未開の島」という認識であった。即ち、山に入れば毒蛇がいたり、原住民の首狩りの風習もあったり、平地ではアヘンの吸引者が多い所であった。清国は統治と言えるほどのものはしていない。その後日本が統治らしい統治をしたのであったが、当初は統治するに極めて困難な未開の地であった。日本政府や台湾総督府の鋭意努力により、わずか半世紀の統治であったにもかかわらず、近代化に向かって飛躍的な成長を遂げ、今日の発展の基礎が築かれた。

 台湾では、昨年度から中学一年生の授業に『認識台湾』という科目が新たに導入された。教科書は、『地理篇』『歴史篇』『社会篇』の三冊から成る。これは台湾人にとって、実に画期的な出来事と言える。特に戒厳令が敷かれている間は、台湾研究をしようとしても難しい状況にあった。彼ら自身による、自分達の歴史・地理・社会をよく知ろうとする願望が実現しつつある事の証左と言えよう。この動きに対しては、当然、外省人諸団体の間から強い反発があった。

 外省人は、「台湾人即ち中国人である」との固定観念を持っている為に、『認識台湾(社会篇)』の中に一つの見出しとして「我們都是台湾人」と書かれてあったことに対しても、殊に猛反発したのであった。国民党の中の急進派が独立して「新党」(※政党名)を結成していたが、この「新党」の幹部が、新教科の実施に対する抗議行動として、統一派(※台湾を含めて大陸をも大中華民国として統一する考えの人々)の活動家を連れて教育部(※文部省に相当)に行き、卵をぶつけたという話も伝わっている。

 政党には、先述した「民進党(民主進歩党)」がある。現在、台湾の県・市の首長の約半数がこの政党で占められており、今後も増える傾向にある。この党は本来、台独(台湾独立)を綱領として掲げて出発したが、政権を取りたがっていることもあって、その色を弱化させつつある。この為、台独の目標を先鋭に求める急進派が「建国党」を新たに作って、台湾独立の達成を目指している。

■台湾住民の構成

 ここで台湾住民の構成について説明してみよう。
 大きく「本省人」と「外省人」とに分けられる。戦後、中華民国政府が大陸から台湾に移った時、共に渡って来た人々及びその子孫を「外省人」と称し、大陸の各省に籍を持つ人々であり、所謂「中国人」のことである。当時、兵隊約50万人、民間人及び政府高官とその家族約100万人の計約150万人が渡って来たと言われている。また、約200万人だったとも言われている。

 ただ外省人も複雑で、大陸各地から来ているので、「自分は中国人ではなく、純粋な満州人だ」と言う人もいたとのことだ。また、ある高砂族のおばさんは、外省人の兵隊と結婚したら、戸籍も自動的にその兵隊の出身地である大陸の旧住所に変更になり、国民身分証(※台湾では全員が持ち、登録番号制となっており、各種手続きのときに提示が必要となる)から見ても完璧な「外省人」となっていた。その人が私に身分証を見せてくれたのである。大陸から来たのは男が断然多かった。たとえ大陸に妻子を残して来ていたとしても、台湾で本省人女性と再婚する者もあったが、台湾での妻子や孫も外省人となったので、現在では本来の外省人の意味は薄れている。

 「本省人」とは、戦前から台湾に住んでいた人々及びその子孫であり、「台湾人」(※文中の「台湾人」はこの意味で用いている)と「原住民」に分けられる。これを三大グループと言うことができるが、「台湾人」はさらに「 南(ビンナン・ミンナン)系台湾人」と「客家(ハッカ)系台湾人」とに分かれる。現在は、外省人、 南人、客家人、原住民を四大グループとして見る見方が一般的となっている。

 「 南人」は大陸福建省の 南系の言語を話す人々で、彼らは台湾の中で圧倒的に人口が多く、所謂「台湾語(台語)」とは、即ち彼らの話す言葉を指しており、「 南語」(※台湾で変化しているが)とも言う。なお、 南人は客家人を「台湾人」とは見傲していない場合があり、「台湾人」とは即ち我々 南人のことだと、しばしば主張する。

 「客家人」は客家語を話し、客家料理を食べ、独特の風俗習慣・文化を確りと保持しており、その団結も強固なものがあって、世界の客家人団体ともつながりを持つ。もともと客家人の祖先は黄河流域から起こったと言われている。 小平、李登輝、リー・クワンユー、宋美齢(蒋介石の妻)、孫文など客家人であり、彼らは政治分野で活躍する人が多い。民進党党首であった許信良も客家人である。

 一方、 南人は商売がうまくてお金持ちが多く、財界へ人材を輩出している。 南人は男でも一般的ににこにこと愛想が良いので、商売向きと言えよう。客家人は一般に愛想はいいわけではないが、忍耐強く頑張ると言われる。女性が強く、良く働くのも特質とされる。

 南語と客家語とは全く通じないし、人間も両者は概して気分が合わず、仲が悪かった。例えば以前には、 南人と客家人とが恋愛して緒婚したいといった場合、 南系の人の家族会議により、まず反対されたのが普通であるという。相手が日本人の揚合は特に文句を言われないようだが。

 最近、「台湾人」の身体的特徴が医学的に研究されるようになり、その88%は大陸系ではなく、南方系人種に属するとの研究発表があった。つまり「台湾人の抗原体、或いはミトコンドリア核酸は、大陸系と原住民との中間種であるという。又、ある統計学者は、台湾史上の文献による統計研究から、台湾人の94.2%は原住民かその混血であり、漢人系は5.8%に過ぎない」と述べる。

 「原住民」は「山地人」とも「高砂族」とも言い、12種族が現存する。この中には滅亡の危機に瀕している部族もある。それぞれ言語が全く違い、その差は方言の差というものではない。彼らは顔を見ても互いに部族が区別でき、それぞれ民族精神を持ち、平均的な性格も部族によって特徴がある。例えば「アミ族」は陽気で社交的であり、踊りが大好きであるし、運動能力も優れている。日本の野球で活躍した郭源治がアミ族である。「タイヤル族」は誇り高く剛直で死を恐れず、尚武の民であるが、反面、冗談を交わすのが好きである。彼ら高砂族に共通しているのは、酒好きなことと、体力・歌唱力があり、性格が明朗闊達なことであろう。

 12の部族は次の通り。

 アミ族、タイヤル族、ブヌン族、ツオウ族、サイセット族、ヤミ族、パイワン族、ルカイ族、ピナン族、タロコ族、ピューマ族、セイダッカ族。

 なお、ある統計学者によれば、清朝の乾隆時代(18世紀)には、平埔族(平地に住む原住民)だけでも、総人口は既に150万人〜160万人あったとしている。当時の台湾住民のほとんどを占める数と言える。平埔族では、シラヤ族というのが有名である。大陸系移民との文化的融合や混血などにより、本来の民族としては消滅してしまったのか…。日本時代の記録では、「平埔族」は存在している。

 さて、「台湾人」という呼称であるが、ある時は台湾の 南系人だけを指し、ある時はこれに台湾の客家系人も加えて指し、ある時にはさらに前二者に原住民も加えて指し、或いは外省人も加えた全台湾の人を指す場合もある。この呼称を使う人と場合により、意味の範囲が異なってくる。日本のマスコミでは、「台湾のすべての人」という意味で使用しているが。

 台湾の人口構成であるが、全人口二千百数十万人のうち、外省人が13%を占め、本省人が87%を占める。本省人の中に原住民が2%含まれる。

■「日本名の強制」は誤り

 日本統治時代に台湾の人が日本名を強制されたということが言われているが、これは誤りであり、強制ではなかった。日本時代を通じて日本名を持っていた人は多数派かも知れないが、持っていない人もいる。原住民に聞いても、「(日本名を)取りたい人は取れた」と言っている。しかし、中華民国統治となってからは、絶対命令として、全員が必ず中華民国人としてのチャイニーズネームを戸籍に登録せねばならず、それを拒否する自由は皆無だった。それをあくまで拒否すれば、思想犯として銃殺される覚悟も必要であった。「強制」とは即ちこういうことである。

 しかし、自由化の波と原住民の政治運動が実り、最近では原住民名にもどすことができるようになったという。

■領土問題の誤解

 領土問題の経緯について見てみる。
 日本では、台湾領土の問題について誤解されていることがある。1972年、田中角栄首相が大平外相を伴い、中華人民共和国(以下、「中共」と略す)と平和条約を締結した時、台湾の領土権を認めたのだとする見方の人がいることだ。だが、そんなことはなく、明確に言って、日本側は台湾を割譲するとも返還するとも領有権を認めるとも言っていないのである。

 領有権については、中共政府は「カイロ宣言」を根拠と為し、「我が国の固有の領土である」と断固として譲らない。一方、国民党政府も同じく「カイロ宣言」を根拠に、「台湾は中華民国の固有の領土である」と、断じて主張している。しかし、最近の台湾人の研究によると、このカイロ宣言は歴史的文書としては存在するものの、誰(ルーズベルト大統領、蒋介石総統、チャーチル総理大臣)一人として、これにサインしていなかったことが確認された。即ち無効ということになる。

 因みに、『カイロ宣言』(1943年11月27日)には次のように記されている(一部抜粋)。

 「同盟国の目的は、1914年の第一次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し、又は占領した、太平洋におけるすべての島を日本から剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような、日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある」

 1951年の「サンフランシスコ平和条約」の中で、日本は「台湾を放棄する」としたが、どこに譲るかについては言及していない。つまり、台湾の帰属先は未定のままであった。

 その後、1952年に「日華平和条約」が結ばれる。この時、蒋介石が日本側に対して、対日戦争賠償と台湾領土を中華民国に譲渡するように言ってきた。しかし日本側は、「既に51年のサンフランシスコ平和条約で放棄してしまっているので、帰属先をこの時点では言明できない」としてその要求を断った。賠償要求も断っている。

 「以徳報怨」(※戦後、日本への恨みに対しても、我が方は徳を以てこれに答えようというもので、蒋介石の慈悲溢れる言行として有名。これによって対日賠償をすべて放棄したとされる)という蒋介石の有名な言葉がある。ところが、最近の台湾人の研究によると、事実は前後関係が逆転しているようである。いつ、この言葉が発せられたかは疑問視されているが、最初からそう思っていた訳ではなかったようだ。つまり終戦直後、昨日までの敵を思いやり、自ら賠償を放棄しようとしたのではなく、日華平和条約の際に、「日本から取るに取れなかった事への悔しさから来る捨てぜりふ」としての表現であると理解されている。

 この言葉の出典は、古代の漢文哲学書『老子』の第63章にある「報怨以徳」(怨みに報ゆるに徳を以てす)の部分である。

 1972年「日中平和条約」締結時に、中共側は「台湾を中国の一つの省として認めるよう」日本側に強く要求したが、交渉に当たっていた高島条約局長はそれを拒否した。51年のサンフランシスコ平和条約によって台湾を放棄したというのが、その根拠であった。その時、周恩来から高島は「法匪」と呼ばれたが、周は一方で「彼くらいの外交上手の人材が中国にも必要だ」と言ったという逸話がある。

 1972年、日本国政府と中共政府との共同声明には、次のようにある。

 「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国政府の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」(一部抜粋)。

 日本側としては、「相手国政府がこう考えているということを認知した」という意味である。領土問題については言及しないとはっきり言っている。このように台湾の領土問題は、宙に浮いたままなのである。はっきりしていることは、国際法的に、中共にも民国にも属していないということである。最善の道は、台湾の民族自決ではないか。当然、独立問題は最も大きな課題となろう。

 台湾人は、「米国は日本に原爆を落とし、台湾に蒋介石を落とした」と、皮肉って述べる。つまり、これは米国の落とした二大悪として表現したものである。又、「犬が帰って、豚がやって来た」とも言う。隠語で、犬=日本人、豚=外省人(中国人)、という意味である。日本人の男は道端でよく立ち小便をするというので、それを「犬」に見立てたという説がある。また犬は吠え立ててうるさいが任務に忠実で、よく人を守ってくれるからという説もある。「豚」は貪る者の意味らしい。

■惜しまれる頭脳流出

 台湾では欧米や日本に留学する人が多いが、そのままその地、特に米国に留まってしまうという傾向がある。台湾人から見れば、それは殊に外省人が多くの要職を占めていた為に、外国で学位を取得して帰国しても、台湾でふさわしいポストを見つけにくいという背景があったという。状況は少しずつ改善されたようだが、それでも自分の能力が生かせる外国に留まる者が多いという。台湾の発展の為には借しまれることだ。

 今から約20年近く前に聞いたところによると、最も優秀な学生が集まる国立台湾大学の卒業生の7割が米国に留学しており、現在でもかなりの程度米国留学していて、博士学位取得者も膨大な数に上る。ところが外省人・台湾人とも、そのほとんどが帰台しないという。頭脳流出という点で惜しまれる。

 社会上の現象として少し述べる。一般的に台湾の会社員は愛社精神や会社への帰属心には乏しいのか、賃金の少しでも高い所を求め、できれば移りたがる。経営者も経営者で、会社や工場を設立しても、それらの経営が危うくなると、社員諸共売り払ってしまう傾向があるようだ。やはり相互の信頼関係が成立しにくいのであろう。

 代表的外省人たる宋美齢は、日本時代の神社の跡地に宮殿式の豪華ホテルを建てて儲けたらしいが、自己の莫大な財産を米国に持って行ったという。また噂であるが、ある高官の外省人は、蓄えた金を持ち出して外国銀行に預けたとか。蓄財の大きい人ほどそういった持ち出し傾向が顕著のようだ。特に大陸から来た一代目の外省人は、どうしても大陸志向が強くて、台湾を墳墓の地と見做し難く、そのような現象が現れ易いのだろう。蒋介石の墓も大陸に移したいというのが、一族の希望であるという。

 以上のように台湾文化は実に複雑な要素を持ち、本格的な台湾研究も動き始めたばかりである。今後とも歴史学・考古学・地理学・社会学・政治学・経済学・医学・民族学・民俗学・文学・言語学・その他の学に関して、内外の研究者による各分野からの学術研究の切り込みにより、総合的な台湾学の発展が期待される。就中、原住民の言語は惜しいことに、滅びつつある現状なので、老齢者が生きているうちに記録と言語学的研究が急がれる。

(1998年7月25日発表)