戦後教育はなぜ荒廃したか
―その歴史的考察―

教育問題研究家 四方 遼

 

■「信頼できる教師」「できない教師」

 今日、学級崩壊、登校拒否、いじめ、校内暴力、ナイフを持った生徒、キレる生徒といった教育を取り巻く、学校を取り巻く状況がまさに危機的状況にあります。今日の教育荒廃の原因及びその背景・要因は簡単ではなく、戦後教育五十年の歩みの中で徐々に醸成されたものと思われます。

しかし、いずれにせよ、教育に関する論議は青少年の現状に対する憂慮から始まって、教育制度の改革論に及び、最後には教師論に帰着する場合が多いと言えるでしょう。詰まる所は「教育は人なり」、改革の柱は「教師論に尽きる」と。

 ところで戦後の我が国における教員養成は多くの賢者の英知を集めて、常に「教員の資質向上を願う」改善策が打ち出されてきました。だが、必ずしも結果はプラスに出ていません。私はいつもかくいうところの「教師の資質」とは一体なんなのだろうかと考えてきました。「資質」を『広辞苑』で引くと「うまれつき。資性、天性」と書いてあります。ということは、教師として相応しい生まれつきの才能や性質があって、そのより一層の向上を図ることを願っているということだろうか。もし、教師に相応しい資質を生まれつき持っていない人は教職に就くことはできないということなのか。或いは、そういう資質を持っている人を採用時にどのように発見したらよいのか。その資質を教師は如何に向上させうるのだろうか……。

 平塚益徳先生は「教師の望ましい資質」として「@何よりもまず、教え育てることに最大の喜びと熱情とをもち、生徒ひとりひとりと互いに心が通い、かれらに無限の愛情を注ぐ人、A既成者としてでなく、目的に向かい、理想を目ざして絶えまなく精進する、よき意味での“夢みる人”たること、Bそれ故に精神が若々しく、接するすべての者が励まされ、力づけられ、より高く、美しく、真実な世界に目を向けざるをえなくさせるような人」とまとめています。とすれば、今日の教師の問題の大半はその資質に欠陥があると言えはしないであろうか。別言すれば、教師に相応しい資質を持ち合わせていない人が尊い“教職”に多く就いているということではないだろうか。様々な問題に直面している今日、私たちは「教師の資質」をもう一度考えてみなければならないのではないかという気がしています。

 10年程前ですが、私の講義を受講している教職履修者のうち、大学一年生の女子学生たちに、「これまで出会った教師のうち、信頼できる教師、信頼できない教師はどういう人だったか」を自由に書いてもらったことがあります。

 彼女たちにとって『信頼できる教師』は、「@個人的に質問や相談をした時、親身になって話を聞いてくれ、解決の糸口、指針を与えてくれる人」、「A生徒が問題を起こした時、頭から否定せず、勝手に自己解釈して怒らず、まず生徒の言い分をじっくり聞いてくれ、単に助けるだけでなく、厳しく律することも含め、個々の生徒に応じた適切な処置ができる人」、「B権力を振りかざさず、知ったかぶりをせず、生徒と一体となって、学ぼうという意欲に燃えている人」、「子供と共に泣いたり笑ったりできて、人間性豊かな人」、「生徒と共に学んで、共に成長しようと一生懸命の人」、「C授業だけでなく、クラブ活動も含めて、子供とすすんで接触を求めて一生懸命指導してくれる人」、「はみだしっ子、落ちこぼれと言われる生徒を切り捨てず、どの生徒にも公平でえこひいきをしない人」、「いつも溌剌と元気よく気の若い人」、「自分自身の独自のしっかりした考えをもって生徒指導に臨む人」、「自分の信条や目標を持って常に努力している人」「どうしても子供に必要と思えば、押し付けるような気迫と気概と勇気のある人」、「誉める時は心から誉め、悪い時は悪いと、きちんと悟らせることのできる人」などでした。

 逆に『信頼できない教師』としてあがったのは、「授業内容の説明が下手でついていけない人」、「教材に載っていることしか教えない人」、「質問されると、あやふやにごまかして次に進んでしまう人」、「いつも自信がなさそうにして、頼りない人」、「説教じみたことをくどくど話し、嫌味を言う人」、「失敗したことを根に持つ人」、「答えられない時にすぐ怒鳴る人」、「喜怒哀楽の差や感情の起伏の激しい人、お天気屋、ヒステリー」などでした。

そして教師になることを強く希望している彼女たちが皆かなり冷めた口調で「今まで信頼できる教師には出会わなかった」とまとめているのを見て、私たちはこれをどう受け止めたら良いのであろうか。彼女たちは『信頼できる教師』の基準を、教師としての専門的な教育技術よりは、むしろ性格、態度、姿勢、信念や使命感、情熱、人間性などに重点をおいているということです。このことは今日の学校及び教師をめぐる問題点の一端をうかがうことができると思うのです。

■国民の教師不信への第一歩、「労働者宣言」

ところで、戦後教育の功罪を考える時、常に問題になるのは日教組の存在です。GHQや文部省の後ろ盾によって昭和22年6月に結成された日教組は、『一、われらは、重大なる職責を完うするため、経済的、社会的、政治的地位を確立する。一、われらは、教育の民主化と研究の自由の獲得に邁進する。一、われらは、平和と自由とを愛する民主国家の建設のため団結する』を綱領に掲げて、今日まで教育界に君臨してきました。敗戦直後という特殊事情を考慮すれば、こうした綱領が作成されたことも、“食糧メーデー”への参加や賃金要求、生活権獲得闘争、権利闘争に明け暮れた運動も、また教え子を戦場へ送り出した教師としての心の傷みから“教え子を再び戦場に送るな!”のスローガンも“平和と自由と民主主義教育”に躍起になってきたことも、それなりに理解できないわけではありません。

 しかし、昭和27年に打ち出した『教師の倫理綱領』の中で声高らかに唱えた日教組の人間的解放ともいうべき「教師は労働者である」という“労働者宣言”は、少なくとも国民の教師に対する懐疑・不信への第一歩であったことは間違いないと思うのです。その後、労働運動の先頭に立ち、政治闘争、イデオロギー闘争、尽きることなき権利闘争や賃金闘争に明け暮れ、そして勤評闘争や道徳特設反対闘争、安保闘争、三池闘争、ベトナム戦争反対スト、全国一斉学力テスト反対闘争のスト、教育公務員特例法改正スト、中教審路線反対、主任制反対、臨教審反対など、“平和と民主主義の確立”を謳い文句に文教政策の全てを「反動」と決め付けてことごとく反対し、教室や子供を捨ててデモや違法ストに力を注いできた、目に余る日教組の組合運動史。その中で勝手に歪めた民主主義、平和主義を盾に、家庭や社会、学校における秩序や伝統を「古い残骸」と称して葬り去り、神聖なる教育の場に「自由」、「平等」、「平和」、「権利」を撒き散らしてきた。

■日教組の新採加入率がわずか19.4%に

そして、社会主義国家建設を目指し、教育現場にマルクス・レーニン主義に基づいて社会的秩序の破壊をもたらす階級闘争史観を持ち込み、自らを大いなる“歴史的課題”を担った“働く階級”に属する労働者であると任じ、「教師に“政治的中立”など求むべくもないはず」と豪語し、「教育が聖職だというなら、ストライキも社会主義を打ち立てる意味から尊い仕事である。それは“聖化されたストライキ”だ」とまでウソぶいてきた日教組の足跡は、「教師は聖職である」と信じ切ってきた国民の教師に対する期待と畏敬の念を完全に拭い去りました。その結果、勤評闘争時代の昭和33年には86.3%あった組織率も、40年代に50%台になり、今や32.7%(平成10年度)にまで低落、新採の加入率もわずか19.4%に過ぎません。これまさに教師の権威の失墜の歴史であったと言っても過言ではないでしょう。

 さらに、組合にはつきものの実に醜い派閥抗争、権力闘争、内部抗争を繰り返し、挙句は茶番ともいうべき「400日抗争」を繰りひろげ機能マヒ状態に陥った末に平成元年11月、共産党系の反主流派が日教組から飛び出し、全教(全日本教職員組合)を結成し、分裂してしまいました。

■「教科書問題」と 日本教育学会

 さて、私は学生時代、教育界で著名な先生方の講義を数多く受けてきました。しかし、誰一人として教育道の厳しさを説いてくれる人、教師としての情熱や使命感を燃やして下さる人、そして、教育道を説くに相応しい人間的魅力のある人、魂を揺り動かすような瑞々しい“語りかけ”をしてくれる人がいなかったことが、幼少の頃から教職に就くことを夢みてきた私にとって非常に不満でした。そこで、自覚と意識を持ち、情熱と使命感溢れる教師を養成することを私のライフワークとしようと決意致しました。そうした覚悟と使命感を持って今日まで大学で教鞭を執って参りました(その具体例は別の機会に譲るとして)。

 ところが昭和57年、一つの事件が起こりました。それをきっかけに私は(所属していた日本教育学会に反旗を翻したというわけではないのですが)、このままでは日本の教育は駄目になるという憂いから、やむにやまれぬ想いで一つの論文を発表致しました。それが大学に籍を置きながら教育問題研究家としての道を歩み出すきっかけとなりました。

 その「事件」とは、いわゆる「教科書問題」です。「歴史教科書で『侵略』を『進出・進攻』に書き換えた」としてマスコミが一斉に政府、文部省を叩き出し、これが外交問題にまで発展して中国からクレームが付きました。それに対して日本政府(鈴木善幸総理の時)が謝罪したというものです。しかし『侵略から進出への書き換え』はマスコミの大誤報であったという実にお粗末な結果が明るみになりました。御記憶の方もおられるでしょう。

 当時、箕輪郵政大臣が、これを焚き付けたのは一体誰だとマスコミにコメントなさいましたが、つまり、日本では「書き換え」という恐ろしい事態が起こっていると中国側に焚き付けた人間がいたわけです。それはマスコミだろうか、出版労連だろうか…と日本中がこの問題で騒然となりました。

 ちょうどそのさなか、8月26日から日本教育学会が東北大学で開催され、私も参加致しました。ちょうど教科書問題に対する「政府見解」が出されたのが8月26日だったのですが、翌々日の28日、学会で公開講演会が行われ、中国の教育界の重鎮と言われる金世柏氏が講演されたのです。

 当時、日本教育学会の会長は、日本教育界の重鎮であり、日教組の『倫理綱領』を作成した一人でもあった大田堯・東京大学名誉教授(前日本子どもを守る会会長)でした。金氏の講演に先だち、招待者側を代表して大田会長は次のように挨拶したのです。

「…我々はこれだけの恩恵を中国から受けたにもかかわらず、最近起こった戦争を反省しきっていない。…多くの国民が反対し、編集者、著者の反対を押し切って、侵略を進攻に書き換えたことが今日のような事態を招いたのである。…このままでいけば、(一)政府に反対し、また教科書に反対して授業した教師は、圧迫されるのではないか! (二)“第二の墨塗り”になるのではないか!…我々、教育科学者は今こそ心すべきである」と。

 それを受けて金世柏氏が、「教科書問題について日本教育学会ではアンケートを取ったとのこと。回答した人の80%が歴史教科書の改ざんに反対したというが、皆様の友好的な態度に心から感謝申し上げる」と述べて講演を始められたのです。

■昭和55年から 見えた学会の「偏り」

 私はこのやりとりを聞きながらピンときたのです。そして日本人としての激憤といくつかの疑念が湧き上がってきたのです。「中国側に焚き付けた」のはまさに日本教育学会のメンバーだったのだとひらめいたのです。それからその私の仮説を論証する為に、過去何年にもわたる学会の動きを分析したわけです。勿論、中国との関わりについても。

 日本教育学会では、実際には右のようなアンケートは実施していません。検定制度に関するアンケート調査はありましたが、教科書改ざんに関するものはありませんでした。それをあえて捏造して中国側に報告した者が日本教育学会の中にいたということです。

 私が学会に所属したのは大学院の頃からですから、会員としては古いのですが、実は、昭和55年に学会の役員改選が行われ、大田堯氏が会長となって牛耳り出した頃から、私は学会が妙な色に染まり、変な動きをしているなあと感じていました。たとえば、大会のシンポジウムのテーマの選び方、発表者の選び方や研究委員会設置、郵便物などを見ると、どうも偏っているのです。

 また、この頃(55年から56年にかけて)、三種の『アピール』文が会員に送られてきました。「我が国の文化・教育をめぐる最近の動向を深く憂慮する」として、「今年に入ってから、テレビ・出版物などを通しての戦争賛美や好戦的な心情傾向の宣伝…教育勅語90年をめざしての“教育正常化”の動きがきわだっている…これらの動きは新学習指導要領における“君が代”の国歌化、“ゆとりの時間”と結びついた“道徳的実践力”の育成、“無私と奉仕の精神”による青少年の社会参加の強調とともに、青少年の行動と意識の国家的統制をいっそう強めるものだ。…これと符節を合わせるように…防衛力の増強と有事にそなえた徴兵制検討の必要性を公然と提起したことは見逃せぬ。…これらは…アメリカの要請を直接受けた環太平洋合同演習や防衛力の増強の動きと呼応してあらわれており、その影響力を決して軽視できぬ。…私どもは、かつて、15年戦争において、強制的に戦場に送りこまれ、他民族にたいして被害を与えただけでなく、国内においては、理不尽な天皇制教育と戦争による被害とを身をもって体験した世代として、今日の事態を見過ごすことができぬ。…青少年は、真理と正義に基づき、平和な国家の形成者として、また、自主的な判断力と批判的精神をもった国民として育てられるべき…。憲法と教育基本法の原則からしても、最も感じやすい青少年を対象として進められているこれらの動きは極めて憂慮すべき…。こうした事態のもとで、真理と平和を求める人間の育成という一点で幅広い人々の願いを集め、協力しあうことが必要で、そのために可能な限りの努力(研究、討論、集会など、あらゆる可能な方法、手段を通じて)を傾注すべきだ」と呼びかけているのです。

■「ある意図」をもって出てきた

 この『アピール』は内容が余りにも広範囲にわたっており、それ故に今後、どのように利用されるのかと考えると身震いする思いが致しましたが、「呼びかけ人」として五十嵐顕、碓井正久、大田堯、長尾十三二、堀尾輝久、山住正巳ら15名の日本教育学会会員(理事も含む)が勢揃いしているのを見た時、従来なかった学会の“新しい動き”として実は驚いたものでした。彼らの多くは日教組を支えてきた学者・文化人であります。

 その後も『中野区教育委員準公選の実施を支持する教育学者・法学者の声明』、そして教科書問題についての『呼びかけ』など、次々とアピール文が出されました。

 こうした状況を見た時、私は「我が国の教育学者・文化人達は一体、我が国の教育をどのような方向にもっていこうとしているのか、我が国の教育界は一体、どのような教員養成をしようとしているのか、否、我が国の教育界は一体どこの国の教員を養成しようとしているのか、これはまさしく“教育界に見る構造的な知的犯罪”とも言うべきもので、左翼的な思想をねずみ講のようにどんどん浸透させるものだ」と思ったのです。そして覚悟を決めて『教科書問題にあらわれた日中合作の黒い影』というタイトルの長論文を発表致しました。この論文は各界で反響を呼び、共産党系の人たちや出版社からも問い合わせがありました。ところが驚いたことには、それ以来、日本教育学会のアピールや呼びかけ、アンケート調査などがピタッと止まったのです。それほど彼らのやり方は巧妙でした。

 私があえてこうしたことを申し上げるのは、今日様々な問題がありますが、長い年月をかけて、ある”意図”を持って出てきているのであって、突然出てくるものではないということなのです。

■昭和60年の「いじめ問題」から

 平成10年1月、栃木県黒磯市で女性教師がナイフで刺される事件があった後、『所持品検査』の問題が持ち上がりました。現状は、「子供の人権に関わるから検査はできない」という学校が多い。こうした「大手を振る生徒の人権擁護の傾向」は、今になって突然現れてきたわけではありません。

 こうした傾向が定着し出したのは、いじめが社会問題となり始めた昭和60年のこと。実は昭和58年から59年にかけて、校内暴力が吹き荒れました。学校側は目に余る校内暴力を鎮圧するために、毅然たる態度で“力の教育”をし、厳しく細かい校則などで生徒を拘束し、警察と連携(学警連)して徹底的な管理強化という策を取りました。学校だけでは手に負えないために、そうした対策を講じざるを得なかったわけです。ところが、校内暴力は鎮まりましたが、60年になって、新たにいじめが社会問題として起こりました。そしていじめによる登校拒否も増加し出したのです。松永光文相が『いじめ緊急アピール』を出したのも60年です。

 これに対してマスコミや学者、文化人たちが一斉に大変な叩き方をしたのです。校内暴力対策として執った管理教育によって教師から威圧されストレスのたまった子供たちが、逆にうっぷん晴らしとして友達にストレスを向けたのがいじめだ、或いは教師による陰湿な身体的かつ精神的な体罰が日常化する学校で、“無抵抗な”生徒が教師によるいじめを模倣したのが今日の生徒の陰湿ないじめだという非常に短絡的な図式化がなされ、“いじめを誘発した元凶”たる管理主義教育批判、校則見直し、体罰絶対禁止という動きが急速に展開されたわけです。

「管理教育によってストレスのたまった子の“怒りのはけ口”として、いじめは起こっている」といった類は一見もっともらしいのですが、本質からはずれ、かつ大人がいじめを是認し、子供の行動を擁護・弁護するという根本的な誤りを犯したのです。つまり、いじめは絶対にいけない非人間的行為であるということを教えず、怒りのはけ口としてならいかなる行為も容認されるという安易で横着な責任転嫁の気持ちを生徒の心に増長させたのです。そして、いじめは教師の体罰と関連があるから「子供の人権を擁護するために体罰は一切禁止せよ」ということになったわけです。

■理論的裏付けとなった日弁連の『報告書』

 さらに、こうした“傾向”に法的、理論的裏付けをしたのが、日弁連(日本弁護士連合会)が出した『学校生活と子供の人権――校則、体罰、警察への依存をめぐって』という300ページにも及ぶ『報告書』でした。この中で、例えば「食事の時に感謝を込めて」と明文化するのは、憲法第19条の「良心の自由」に関わる。そして日の丸の掲揚や降納、君が代の斉唱を規定して全生徒に強制することは、憲法第十九条の「思想・良心の規定」に反する。また、「服装、頭髪、所持品等は、本来、表現の自由(第21条)、幸福追求の権利、プライバシーの権利(第13条)、財産権の保障(第29条)、押収を受けることのない権利(第35条)等の憲法上の自由と大きくかかわる問題であり、基本的人権としてその自由が最大限尊重されるべきものである」としています。さらには、「……違反所持品だからという理由で学校が没収する等の行為も財産権に対する侵害行為で、いかなる教育的理由を用いても是認されるべきではない」としたのです。

このような論調で延々と綴った『報告書』は、最後に「管理主義教育は子供の成長・発達にいかなる影響を及ぼすか」と題して、@非行、校内暴力に対する対策として考えられている管理主義教育は現実には逆に校内暴力、登校拒否、いじめの原因になっている、A子供から創造性、活力を奪い、主体的な思考や判断力を持った個人を育てず、“指示待ち人間”を作る、B校則で子供をしばりつける教育は、子供に無責任や不道徳を教え、子供の豊かな成長の阻害になる、とした上で、管理主義教育は「自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」という教育基本法第一条【教育の目的】と明らかに矛盾する、と結論付けたのです。

この日弁連報告書を後ろ盾としてマスコミ、日教組、進歩的文化人が総結集していじめ対策にかこつけた“管理教育反対”“体罰禁止”の一大キャンペーンを展開し、“子供の人権擁護”という風潮が大手を振って罷り通ることになったのです。

■わずか10年で「人権擁護」の風潮が定着

 私は当時、「この管理主義教育反対の動きには実に恣意的な力・意図が背景にあることをしっかり掴まないといけない」と機会あるごとに警鐘を鳴らしました。そして「このままいけば、やがて学校はアナーキーになり、教育の場でなくなる。学校は法廷でも裁判所でもない。あくまで教育の場でなければいけない。子供は未熟なものなのだから、他律を経て初めて自律が培われるものであり、上からきちんと教え込まなければいけないのだ」と訴え続けました。しかし、その後、平成6年5月に「児童の権利条約」が批准・発効され、この傾向に一層拍車を掛けました。かくて現場教師たちは、本質的に物事を見据えることもせず、「子供の人権擁護」という風潮の陰に隠れて萎縮してしまったのです。

 私は今回、わずか10年余りにして、校長はじめ教育現場で「生徒との信頼関係があるので」「生徒のプライバシーと人権に関わる問題だから」所持品検査は出来ないという風潮がすっかり定着してしまっていることに、むしろ驚いています。

 しかし、未成熟、未完成、短絡的で自己中心的でわがままな子供たちを「人権尊重」という美名の下、一人前扱いし、甘やかし過ぎてはいないだろうか。“普通の子”でさえ加害者として凶悪犯罪を犯す危険性を秘めています。ナイフが凶器となれば、被害者の人権は一体誰が擁護してくれるのでしょうか。そこに居合わせた他の生徒達の心の傷はどうなるのか。否、加害者も加害者の家族も一生その罪過を背負って生きなければならないでしょう。とすれば、いつ加害者に豹変しかねない未熟で不安定な生徒達を、その危険性から少しでも守るという配慮も、大人の務めでありましょう。

子供がナイフという凶器を例え遊び感覚にせよ、日常的に持っている以上、先ず「所持品検査」は人を死に至らしめるという最悪の事態を少しでも避けるひとつの有力な手段にはなると思うのです。当然、そのやり方に教師としての見識と技量と温かい教育的配慮が必要なことは言うまでもありません。そこが教師の腕の見せどころ、教師の力量の問題であろうと思います。「生徒との信頼関係こそ大切」といった綺麗事は教師の側の“逃げ”でしかないと敢えて言いたいと思います。

 更には、この10年余りで定着した「人権擁護」の風潮が真に子供たちの為になったのか、功を奏したのかという“問いかけ”こそ今、教育界に必要ではないでしょうか。併せて、今日、再び校内暴力が増加しているという現実をどう見るかという視点も大切でしょう。

■ホンネは公権力による教師管理への反対運動

 それはともかく、管理主義教育絶対反対という昭和60年あたりからの動き、マスコミ、教育学者、法学者、日弁連がなぜ一斉に大キャンペーンを行ったかと言えば、これには実は恣意的な力が背景にあったことを見逃してはならないと思うのです。それは“いじめ”対策にかこつけて実に巧妙な手口で“すり替えよう”との意図であります。

ちょうど昭和五十九年、『戦後教育の総決算』を謳って臨教審が発足しました。このうち、第三部会で取り上げられたのが「初任者長期研修制度」と「教職適格審議会」設置に関する問題だったのです。これに対して日教組は「国定教師作り反対!」真っ向から反対いたしました。

 つまり、彼らがキャンペーンを張ったこの「管理主義教育反対」には実は二つの意味が内包されているのです。一つは教師によって児童生徒が管理されているという意味、もう一つは国や文部省、教育委員会、校長といった公権力によって教師たちが上から管理されているということです。いうまでもなく、日教組のホンネは、政府、文部省、教育委員会、或いは校長といった公権力によって教師たちが上から管理されないようにということを言わんが為の昭和60年代の管理主義教育反対運動だったと考えます。つまり、彼らが昭和60年に急に声高に始めた管理主義教育反対の運動の本質は日教組、マスコミ、日弁連、進歩的文化人が総結集して“いじめ”対策にかこつけた「臨教審粉砕!」の一大キャンペーンの“現れ”だったと私は見ています。

■用意周到に準備していた「所沢高校」

 ところで、私は『戦後50年』を左翼陣営が運動目標の“頂点”として定めたと思うのです。勿論、保守陣営も『戦後50年』をひとつの節目として見直しを図ろうとしたと思いますが、やはり左翼陣営の方が狡猾で行動力も上手でした。彼らはそこに向かう過程として、戦後40年目の「昭和60年」(1985年)を彼らの運動の“天王山”と位置付けたという気がするのです。そこで、例えば教育界においてはその5年前の昭和55年、日本教育学会を牛耳り、法学者とも連帯し、日弁連ともつながり、構造的に我が国の教育を何らかの形でコントロールしようという動きが急速に進んだのであろうという気がしてならないのです。

 今回の所沢高校の問題においても、大半のマスコミは「時代錯誤の頑固な校長が…」といった論調でしたが、そうではない。左翼のやり方は非常に緻密ですから、運動の方向をきちんと見極め、用意周到に年月を掛けて行動を起こし、準備を積み重ねているのです。

 平成2年2月、所沢高校では、生徒総会で「我が校内での儀式その他における『日の丸』掲揚及び『君が代』斉唱の強制に一切反対します」という『決議文』を採択しています。また11月には『生徒会権利章典』を決議しております。それ以来、“生徒主導”をルール化し、正常な入学式・卒業式が出来なくなったのです。

■全国で高校生を煽る共産党

 なぜ、生徒総会でこのような『決議』をする必要があったか、また可能であったか、それなりの“理由”“背景”、そして“土壌”があったと私は考えます。つまり、@ちょうど平成元年、国連で『児童の権利条約』が採択され、日本でも日弁連や日教組、全教などが、我が国での早期批准・実効を目指して躍起になって大運動を展開。前述しました前日本教育学会会長・大田堯氏はじめ、林量俶埼玉大教授らが埼玉では積極的に動いていました。

また、Aこの年は学習指導要領が改訂され(現在使用されているのは、このとき改訂されたものです)、「入学式や卒業式においては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と明記され、これを平成2年度より実施すると相成ったのです。これを受け、教育界は一斉に「国歌・国旗強制」と危機感を募らせ、反対の大キャンペーンを張ったのです。

 そして、B昭和61年以来、内紛が生じ、不様な“四百日抗争”を続けていた日教組ですが、ついに平成元年11月、共産党系の反主流派が日教組から分裂し『全日本教職員組合』(全教)を結成しました。こうした流れの中で、日教組と全教の熾烈な勢力争いが各教育現場で鎬を削っていたのです。所沢高校は全教の力が強く、実権を握っていました。また、共産党系のPTA会長や父母たち、そして背後に新日本婦人の会や日弁連の弁護士15人が生徒会を後押しして煽っているという構図だったわけです。

 しかし、こうした問題は所沢高校だけに起こっているのではありません。千葉県や愛知県でもそうしたアピールや決議を行っていますし、京都の桂高校もそうです。現に共産党は、高校生対策を方針の一つとして掲げ、大学生からではなく高校生からしっかり導いていこうという形が出来ているのです。

■過激な性教育推進の動き

 そして、さらに恐るべき問題がこの六年間、私が取り組み、一昨年(平成9年)、拙著『性教育推進の実態とその隠された“狙い”』を発刊し、その中で問題点を明らかにしました過激な性教育推進の動きであろうと思います。

 平成元年の学習指導要領改訂に伴い、小学校五年の保健と理科で性に関する指導が始まったことで、急に山本直英氏はじめ「“人間と性”教育研究協議会(性教協)」が取り上げられるようになりました。そして彼らによる驚くべき『副読本』が出回っていることも明らかになりました。私はいくつかの疑念を抱きました。

・なぜ、今、このように驚くべき『副読本』が唐突に登場したのか。

・なぜ、今、現実に山本直英氏をはじめとする過激な性教育“推進派”と称する人達が罷り通り、もてはやされるのか。本部会員1300百人、地方会員を含めても3000人程度の性教協がなぜ取り立てられるのか。

・なぜ、たちまちのうちに浸透していったのか。

・そして、なぜ、かくも多くの学者・文化人(ここでもまた件の大田堯氏や大槻健氏ら)が支持しているのか。

そして、何よりも私が問題だと思いましたのは

・彼らは一体、何を目的とし、何を意図しているのか。

・彼らは我が国を、そして我が国の青少年たちを一体、どのような方向に持っていこうとしているのだろうか。……

ということだったのです。

 そして、その疑念を解く“鍵”は性教育を戦後の我が国の大きな『歴史的潮流』の中で捉えると、次第に鮮明に浮かび上がってくるように思えたのです。

 それから私は、性教育の流れを中心に、戦後の我が国の政治の動きや社会の出来事、教育の流れや文教政策、そして日教組の運動史、山本直英氏や性教協の動きを具に調べ、分析したのです。私は先に我が国の戦後史、教育史は「昭和60年」が一つの山場、転換期だったと述べましたが、彼らが性教協を設立したのは昭和57年です。

 戦後、純潔教育を打ち出してきた文部省ですが、昭和四十五年以降、性教育に対する指導書を一切出していませんでした。しかし、青少年非行など憂慮すべき問題が起こってきたこともあり、昭和60年直前の58年、文部省は新たに性教育の指導資料を作る動きを見せ、19人の協力者を選び審議検討を開始したのです。その指導書作成に当たっての検討委員19人の中の一人に山本直英氏が入っていたわけで、氏は「『山本が参加していて』という批判には耐えたいために大切な所では、かなり発言はし…」とその著『性教育ノススメ』の中で述べています。

 そして昭和61年3月、『生徒指導における性に関する指導―中学校・高等学校編』が発表されました。従来の性教育を「狭い概念」とし、それに代わる「新しい概念の性教育」「幅広い考え方の性教育」と銘打ち発表されたのです。いわゆる「ヒューマン・セクシュアリティ」の概念に基づく性教育というわけです。

 平成5年、私が文部省を訪ねた時、初等中等局の若い担当官が「性教育は今は『ヒューマン・セクシュアリティ』という概念で把えています。『純潔教育』なんて古い考え方はもう誰も考えていませんよ。純潔教育についての資料なんて、引っ越しの際に処分したか、ダンボールに詰めてどこかに押し込んであるでしょう!」とこともなげに語ったのです。その時、私の中で、文部省がいう「ヒューマン・セクシュアリティ」の概念と、山本氏が自分たちの性教育を「ヒューマン・セクシュアリティ」の新しい概念に基づくものなのだと述べていることとが、ぴったりと一致しました。

 詳細は是非、拙著を読んで頂きたいのですが、まさに山本氏は文部省を「洗脳」し、我が国の「新しい性教育」を方向づけたわけです。60年安保の闘士だった山本氏は、もともと政治教育をやるつもりだったものの、女子高校生たちの政治意識のなさにがっかりして、「政治(セイジ)」から「ジ」を取って「性(セイ)教育」を(昭和43年頃から)始めたと述べていますが、確かに「政治教育」と「性教育」は山本氏流に考えれば実によく似ております。女性は長い間抑圧されてきたから早く目覚めなさいと言われたら、自己解放のために闘おうと思っても不思議ではありません。性教育には女性の方が積極的に取り組んでいるそうですが、少なくとも性教育を加速させたのは「女性の自立」であったことは事実だと思うのです。これは戦後史における女性の意識の変化、生き方の変化と深く関わりがあります。否、過激な推進派たちはまさにそこに目を付けたのです。このことを私は「女性の自立が加速させた性教育」と呼んでいます。

 そして昭和60年は、我が国で女性差別撤廃条約が批准され、男女雇用機会均等法も制定されて、世はまさに「女の時代」という、女性にとっていわば「都合のいい時代」に入っていきました。

それからもう一つ、昭和37年に『女子大生亡国論』というのが出ましたが、女子が数多く大学に入るようになりました。また、教育学部に女子が男子を上回って入学したのも同じ昭和37年のことです。女性の高学歴化と共に、昭和40年代は女性の社会進出が進み、教育現場に女性教師がどんどん入っていった時代でもあります。昭和44年には小学校の女性教師が過半数を超えています。

 “権利・平等・平和・民主的・自由”をスローガンに掲げ闘ってきた日教組運動はどんどん下火になっていきましたが、低落した日教組にとって“科学・人権・平等・平和・自立・共生”を謳う性教育は、まさに渡りに船というか、生き残りの活路を見出したというか、絶好のテーマだったわけです。まさしく政治教育・思想教育は性教育の中にうまく根を張り、或いは性教育の中で息を吹き返した。換言すれば、政治教育・思想教育は“性教育”に姿を変えて今、出てきたというべきでしょう。

 折りも折、エイズ問題も起こり、文部省も「性に関する指導の充実」を謳ったわけです。

 科学・人権・平等・平和・自立・共生の性教育を唱える山本氏らの副読本を見ると、小学生、中学生用では、“本当のことを教えよう”“真実を教えよう”と称して、学習指導要領では「取り扱わない」としている筈の性交や外性器について赤裸々に表現し、多様な生き方、多様な男と女の関係、従来の家族の形とは異なる“自分のために生きる”という生き方を教えようとしています。そして高校生用の『生きる―男と女の自立と共生』(実教出版)では、彼らの本当の狙い、階級闘争史観が明確に打ち出されているのです。小、中学生用はあくまで前段階です。

■夫婦別姓導入の動きと連動

 ところで山本氏は、同書は「性教育ではなく、家庭科の副読本として出した」と述べています。小、中学生用の副読本が出たのは平成3年ですが、『生きる』は平成元年に出ています。一方、高校の家庭科の男女共修が必修化となったのは平成六年です。実に六年前に副読本を出版していたというわけです。これはなぜか。

 これと併せて申し上げたいのが「夫婦別姓制導入の動き」です。実はこの夫婦別姓運動と「性教育推進の動き」がまさに連動しているということであります。

『生きる』では「最近では、このような同棲やシングルなどの結婚をしないカップルもふえてきました。…その人達の考え方としては、結婚はプライベートで自由なものであるべきで、婚姻届や戸籍という紙切れ一枚に縛られたくないという考えや、同じ姓を名のらなければならないことへの疑問、婚姻関係で生まれたこどもを嫡出子、婚姻外の関係で生まれたこどもを非嫡出子として法律上、差別的に取り扱うという不条理な制度に対して、あえて差別される側に身をおくことによって廃止を求めていこうとする…」「近年、夫婦が別姓を名のる自由を求める運動が活発化している。結婚後も仕事や社会活動を続けるうえで、改姓によって不利益や生活の不便さを強いられるという問題だけではなく、基本的人権として自分の姓を変えたくないという考え方を尊重しようとする運動でもある。諸外国の立法例を見ても、夫婦の一方に結婚前の氏を捨てることを強制する法律があるのは日本だけである」と記し、中学生用の『おとなに近づく日々』(東京書籍)では「最近、日本でも別姓を望む声が高まり、政府も別姓についての検討を始めました」とし、特に【注】欄を設け、「夫婦で別の姓を名乗ること。……結婚後も仕事を続ける女性が多くなるにつれて、改姓による不都合・不利益をなくし、自由に姓を名乗れる人権としても、民法の改正が求められている」と述べられています。

 しかし、法務省に民法改正に関する法制審議会が設置されたのは平成3年です。既にその前から学校現場においてこうした副読本が準備され、出回っていたということを押さえておいていただきたいのです。

 ついでながら、平成2年、共産党系の東京都高等学校教職員組合(都高教)が運動方針に夫婦別姓を採択したことも特記すべきでしょう。

 そして、さらに『生きる』では、「20世紀の初めのアメリカは世界で最も低い離婚率でしたが、現在ではソ連とならんで最も離婚率の高い国です。離婚後も恋愛し、再婚する、そういうライフスタイルをとる人が増えています。ソ連やヨーロッパでも、伝統的な家族形態は崩れつつあり、新しい家族像への模索がはじまっています。日本では家族の変貌はゆるやかですが、今大きく揺れ動きはじめているようです」と、まるで離婚しろと言わんばかりにまとめています。

■「家庭崩壊」が最後の狙い

 更に、『生きる』の第4章「社会に『生きる』」において、いよいよホンネが出てきます。

 日本に存在する差別として、能力的差別、性別的差別などと共に、思想・信条による、特に共産主義者に対する差別、資本家と労働者、地主と小作人の差別という階級的差別をあげて、「闘わなければならないものは、明らかに私達人間を侵し、脅やかす社会です。社会といっても、社会全体だけではなく、そこにある国家や、制度や、組織ということになります」「この社会との闘いでおもしろいことは、しいたげられ、抑圧されている人々が立ち上がったとき、それを受けて一番困る者、すなわち抑圧している側が明確に浮かび上がることがあります(これはすなわち敵が見えるということなのだと強調する)」「しかも闘う者にはファイトやバイタリティと賢明な知性、さらに人々を仲間にさせる豊かな感性が必要なのです。本当の闘士とか革命家は、とても魅力のある人物だということを知って下さい」と煽って、最後の章で「このような本で、高校生が学習するときが、ようやく到来しました。…明日を拓き21世紀に『生きる』あなたがたのために」と結んでいるのです。これはまさに階級闘争史観であり、革命思想であり、政治教育以外の何物でもありません。果たしてこれが家庭科で教えなければならない内容なのでしょうか。

 一方、夫婦別姓運動は、昭和60年、女性差別撤廃条約を受けて日弁連が民法の早期改正を求める意見書を発表。平成元年、東京弁護士会が意見書を採択し、法務省や各政党に申し入れをしています。この後、法務省が審議会を設けるなどして平成八年に改正案を出しましたが、自民党の反対が強く、議案として上程することが出来ませんでした。

 しかし、教育界では副読本によって、まことしやかに夫婦別姓を勧める教育が既に浸透しているという事実があるということです。それのみか、全教や日教組の教研集会では夫婦別姓を勧める授業実践の報告がなされております。朝日新聞がこのことを大きく取り上げたことも注視すべきでしょう。

『戦後50年』を目標に活動してきた左翼勢力は教育界、日教組を支配し、マスコミを掌握することによって日本の社会をほぼ壊滅的と言ってよいほどに洗脳いたしました。最後に唯ひとつ残ったのが“家族”“家庭”の問題、“家族”“家庭”の形、あり方だったと思うのです。共産主義を目指す人々が、最後の課題として、今、この家族をバラバラにし、家庭を崩壊させ、国家を変革するために手段として選んだのが、片や法務省を洗脳した「夫婦別姓制導入への動き」であり、もう一方が文部省を洗脳していった「性教育推進」だろうと思うのです。“新しい家族像を築くために”“多様なライフスタイル”“自己決定能力を身につけよう”という心地よいキャッチフレーズを合い言葉に。それらが昭和60年を境にして綿密な計画のもと、積極的に進められているというふうに私は分析しています。

 戦後教育をそうした歴史的潮流の中で構造的に捉えないと今日の荒廃は浮き彫りにならないのではないかと私は考えております。

(1998年7月30日発表)