世界共生の道と日本の立場

吉備国際大学教授 安延 久夫

 

■安定へ向かう欧州と不安定なアジア

 冷戦後の大きな流れを見た時に、ヨーロッパは、大体安定の方向に向かっている。緊張や対立の度合いが急激に薄れてきている。もちろん、ヨーロッパ諸国の中にはいろいろな波が渦巻いているが、平均して言えば安定の方向へ向かっている。それに比べて、アジアは決して安定していない。安定に向かうにはアジアはあまりに多様な文化に満ちている。これは、私がここ数年来欧州・アジア地域を訪れてみての印象である。

表層的な問題としては、まず、中国の将来に非常に不確実性が高いことである。中国外務省の招待で4年前、一昨年と中国を訪れ、様々な人の意見を聞くことができたが、中国人は日本に対して厳しい見方をしていて、軍備に関して私は外務省の人と激論になったくらいだった。

 また北朝鮮の動向も不明である。さらに東南アジアの日本に対する態度が、表面はいいが、本音は冷たい。私の体験では、金の切れ目が縁の切れ目という態度を東南アジアの人たちは持っている部分がある。日本との関係はその程度なのである。日本は、安心できる状況にない。ODAなどで援助しているから大丈夫だといった安易な気持ちでいると、ある日突然どんでんがえしを食って、孤立してしまうかもしれない。そういう印象を、私は持っている。

 もう一つは北東アジアを含めて、アジア太平洋の情勢は非常に流動的である。ヨーロッパにも波はあるが、一定の方向を持っている。しかし、アジアの波は、いろんな方向からの波が入り混じっており、予測するのに、あるいはどう解釈したらいいのか分からないことが多い。別の言葉で言えば、アジアの将来の変数が非常に多いのである。

 それでは、日本はどのようにしたら、彼らと一緒にやっていけるのか。日本は、これからが本当の正念場である。日本がこれから重要視しなければならないのは、中国と米国とロシア、それから一番身近な朝鮮半島。次いで東南アジアである。場合によっては、東南アジアとの関係が最優先されることがあり得る。

■勢力回復に時間必要なロシア

 ここで、ロシアの歴史はヨーロッパと共通している部分があるので、ヨーロッパの一員としてのロシアについて少し触れてみたい。

1985年にゴルバチョフがペレストロイカを展開して、それがきっかけとなって91年にソ連邦が崩壊してしまった。その時、ソ連の各地で台頭してきたのはスラブ人ではなく、非スラブ人だった。ゴルバチョフは非スラブ人の民族主義運動を過少評価していたのではないかと思う。例えば、86年にカザフスタンで、共産党のエリートをやめさせ、民族主義の人物を党の指導者にするといった事件が起きた。その後、ソ連の各共和国が、一斉に暴れだしたという結果になった。共産主義体制という鉄の法則のもとに、凍結されていた各民族の文化が、動き出したとみてよい。

 ロシアの状況は非常に面白い。85年から86年にかけて、東欧の民主化の嵐が吹き荒れた。それに対して、ゴルバチョフはなすがままにしたという感じであった。その結果、東欧に対するソ連の影響力は、急激に下がってしまった。190年前の帝政ロシアの時代ほどまで影響圏が後退した。190年前というと、エカテリーナ2世の頃だ。そしてソ連が解体して、さらに影響力は後退してしまった。

 そこでヨーロッパ諸国は安心したわけだ。つまり、ロシアが軍事力を持って圧力をかけてくることはもう有り得ない。というのは、ピョートル大帝の頃から、西側国家と直接国境を接するほど勢力を伸ばすために、約250年ぐらいかかっている。ロシアが再び元のような勢力を取り戻すには、少なくとも1世紀がかかると思う。それほど、ロシアの国内はガタガタになっている。2年後の大統領選挙では、おそらくエリツィンはだめだろう。しかし、ロシアがCIS(独立国家共同体)の関係を緊密化して大国主義の方向に向かう可能性は、かなり高い。

■西欧文明は没落するのか

 ドイツの歴史学者シュペングラーは、1918年に『西欧の没落』という本を著した。一カ所引用すると、「ギリシャ、ローマ、インド、バビロン、中国、こられの国の文明は、一個の生物体である。青年期から老年期を迎えて最後には死滅した」という表現をしている。そして「西欧文明も19世紀以降、老年期に入って、その終末は差し迫っている」と言っている。

 それでは、同じ西欧文明に属する米国はどうなのか。第一次世界大戦を境にして、米国民が世界の大国としての自身を意識し始めた。楽観主義があふれる中で、世界秩序の構想を米国がリードしていくのだという気運が満ちていた時代であった。シュペングラーはヒットラーと意見が合わず、第二次大戦後に不遇のうちに死んだが、彼は米国についても、青年期、壮年期を迎え、やがて老年期を迎えて衰退すると言っている。そして、その後の新しい文明とは一体何なのかと、疑問符を呈している。

 同じようなことを、米国の歴史学者、人類学者のA・L・クロバーという人が、著書『文明の歴史像』の中でシュペングラーの悲観論を、見事に楽観論に変えている。つまり、「文明の誕生から死滅まで、一回限りの生を経験するのではなくて、最盛期を過ぎて死に至るかに見えた文明が、パターンを再編成して生き返った」という言い方をしている。米国文明は、第二の興隆期にあると、彼は言っている。米国文明は即、西欧文明と言い換えてもいいだろう。

 西欧文明は13世紀ごろに、キリスト教的な文明として最盛期を迎えた。その後、規律が緩やかになり、悪くいえばルーズになって、没落に向かうように見えたが、16世紀ごろからまた上昇期に入って、18世紀に世俗文明としては頂点を迎えたと思う。そして今世紀に入って、また衰退に向かったかのように見える。

 例えば、超大国の米国は、湾岸戦争でも分かるように、日本から130億ドル借りなければ戦争ができなかった。テクノロジーの面でも、パトリオットを造ったのはもちろん米国だが、そこに使うチップを日本製に変えてから非常に命中度が良くなった。日本は大金を支援したのに、世界からまったく感謝されなかった。報告書に感謝の辞を述べているのは当時のナイ国防次官だった。彼は、湾岸戦争で、日本ほど効果的な貢献をした国はなかったと言って、非常に日本を評価した。

 また米国の失業率は、良くはなっているが、深刻な問題だ。財政でもあんな借金づけの国はない。それなのにドルは信用があって、円は信用度がない。つまり円が国際通貨足り得ないところに日本の深刻な問題がある。

 このように20世紀末になって、西欧文明は以前ほどパワフルなものではなくなってきているという印象がある。これは過渡期で、またパターンを変えてキリスト教的な文明が上昇するとクロバーは予測しているのだが、果たしてそうだろうか。

 米国は、21世紀になっても世界をリードし続けていけるかというと、疑問がある。むしろ、近年米国は防御的になっている。つまりこれ以上世界をリードしていくのは、国益に合わない。国益にかかわらない場合は、なるべく深入りしない方がいいという考え方だ。

 同時に面白いのは、「米国は西欧文明を守っていく。それに対抗しようとする文明が現れたなら軍事対決をも辞さない」という主張の本が、今、米国内で売れているという。もちろん、行政府がそう言ったわけではないが、国民にうけているということは、他の文明に対する挑戦的な態度に国民が共鳴しているということだ。

 この本は、ご存知のようにハーバード大学のハンチントン教授の『文明の衝突』である。彼の考え方は、結論から言うと、私がこの本を読んだ限りではシュペングラーと同じだ。シュペングラーは、「文明は死に絶える間近になると帝国という形とる」と言っている。このことは、ハンチントンは帝国とは言っていないが、同じ意味のことを言っている。

 ハンチントンもシュペングラーも、結局、国家が終末に息をひきとる前の危篤な状態が帝国であると言っているのである。つまり王様のようなものが出てきて威張る。典型的な例が、シーザーだ。両者に共通して流れているのは、西欧文明を非西欧文明の上位に置いている考え方である。

 両者の違いは、ハンチントンが中国の儒教文明、インドのヒンズー教文明など各文明は、コアステートがないと生まれないと言っていることだ。例えば、西欧文明の場合は二つのコアステートがある。ドイツとフランスがひとつの核であって、もうひとつの核は米国である。そしてその間を漂流する形でイギリスが副次的な核をつくっていると、彼は言っている。

 ご存じのように欧州連合をみると明らかだが、フランスとドイツの中核国家があり、そのインナーサークルとしてベルギー、ルクセンブルク、オランダなどがある。そしてその外側をイタリア、スペイン、ギリシャが囲んでいる。さらにその外側にオーストリア、フィンランド、スウェーデンなど比較的最近EUに加盟した国が取り巻いている。

 このように一致して同じレベルの群れがあるのではなく、文明には核があって、そのまわりを取り巻くものがあるというように、ヒエラルキーを形成している。必ずしも皆平等で渾然一体ではないという見方だ。私は、これは非常に権力主義的な見方だと思う。

 文明の中の秩序、または文明相互の関係(例えば、ベルギーの文明とフランスの文明)は、同根でも、核をなしている国の生き方によって違ってくる。フランスやドイツが核といったが、この核国家の持つ文明の違いによって、周りを囲んでいるベルギーなどの国の文明も違ってくる。核国家によって文明は左右されると彼は言っている。つまり、彼の文明観は、その文明を基礎として形成されている国を単位として考えている。そして最終的には、西欧文明は非西欧文明よりも優越しているという考え方である。

 シュペングラーもやはり同じである。西欧文明は没落すると言ったが、この優秀な西欧文明が没落したら地球上に何が残るだろうなどと言っているのである。

 なぜそのようにきめ付けることができるのか。儒教文明は西欧文明より劣っているとなぜ言えるのか。私は多少反発したい気持ちになる。彼らの本を読んだ限りでは、その理由を述べていない。

 この二人の西欧文明への危機感は、この優秀な西欧文明を保持しなければならないというものだ。もちろん、ドイツ人と米国人であるから、自分たちの文明を保持しなければならないと言うのは分かるが、西欧文明に立ちふさがる文明をはねのけなければならないという趣旨の結論になっている。非常に戦闘的で、帝国主義思想と結び付いているような気がする。他のヒンズー文明やイスラム文明と共生していこうというのではなく、実に戦闘的だ。

■文明対文明の世紀

 21世紀に向けて、我々が西欧と付き合っていく上で、これはかなり警戒しなくてはならない。こちらが仲良くしようとしてアクセスしても、むこうはそうではないというリアクションを起こすかもしれない。そういう危機感をこの二つの本を読んで感じる。

 その一環と言い切るのは冒険だが、米英型資本主義は今、非常に勢いがいい。一方、日本の経済は不振だ。そして盛んにグローバリゼーション(地球化)とか、インターナショナライゼイション(国際化)という言葉が使われている。世界経済はグローバライズされなければいけないなどと言う。これは、米英型資本主義の一種の攻勢であろうと思う。だからそれを真に受けるのは、ちょっと眉唾だと思う。

 米英型資本主義は、米国一国だけではなくて、英国もその中にあって一つの文明として押してきている。だから受ける我々も、国単位でそれに立ち向かうことはできない。集団的な構造でそれを押し返すしかない。集団の元になるのは、やはり文明、文化である。経済にもいろいろな形があるが、それも文明の一種だと考えていい。広域的な秩序をつくって対抗していく。21世紀はそうした時代に入っていくだろう。

 広域的な秩序をアジア太平洋、あるいは中東などにつくろうとした場合、結局長い歴史を踏まえた文明、そしてコアステートに立ち帰らざるを得ない。その意味では私は、ハンチントンの言うことにある程度同意できる。21世紀は、国家単位ではなくて広域的な秩序をつくりあげる一つの文明対文明の世紀であろう。

■「核」にはなりえない日本

 もうひとつ興味深いのはロシアである。独立国家共同体(CIS)ができた頃、民族主義がもてはやされた。共産主義のイデオロギーから解放され、それぞれの文化を大事にしようという流れになった。しかし、3〜4年後、CISに対するロシア連邦の影響力が非常に大きくなった。親ロシアの政権が誕生したり、ウクライナのように、初めはロシアに対抗していた国が、後にロシアに依存するようになった。そうした状況をみてエリツインは、95年10月に「CISに関する戦略方針」を打ち出した。これは「CISをロシア主導の下に置く、軍事的政治的色彩の濃い国家連合体にする」という意思を表明したものである。

 これをみても分かるようにロシアは、一旦バラバラになった国をまた自分の傘下に収めることにある程度成功した。米国がちょっかいを出しているので100%成功するかどうかは疑問だが。

 帝政ロシアも、初めはロシア公国という小さな国が、モンゴルの支配を離れた後、地方のスラブ系の独立国を吸収してモスクワ大公国となり、それが帝政ロシアの元になった。その領土の増やし方をみると、昔、バラバラになったものを回収するという形で大きくなっている。現在のロシアも同じパターンなのである。

この回収のパターンは、全く同じではないが、中国にもあてはまる。例えば、唐から宋へ王朝が変わった時には一旦バラバラになるが、それを回収して大きな国になるといった形である。中国もロシアも同じ歴史的ないきさつを持っている。

 一方、日本はどうか。日本は過去にバラバラになった国を回収するといった事実はない。したがって、今後21世紀には広域的な一つの秩序を持った同士の関係になっていくことを考えるときに、日本の場合はどうなるのか。西欧文明は、米国・独仏がコアステートで、その他の国が周辺を回っていると言ったが、アジアの場合、日本は西欧におけるイギリスとかベルギーといった周辺の国に相当するのではないか。コアステートに日本はなりえないという気がする。つまり、東洋においてコアステートになりえるのは、地政学的な面から言っても中国であろう。日本は中国より経済も技術力もあるが、そうしたものは表層的なものにすぎない。

 コアをつくるためには、文化がしっかりしていなければならない。文化は必然的にその民族、エスニックグループの生存に適したものになる。これは宗教も同じであろう。文化に優劣はない。

 ところで、文明と文化を同じものと考える人、あるいは文明が文化より上位にあると考える人がいるが、私はむしろ文化が文明より上にあると考えている。とうのは、文化はその民族、エスニックグループ、あるいは2、3人でもいいが、その人たちが誕生して、その子孫がずっと生き延びるため、生活しているうちに形成されてきたものである。文化を基盤にしてできたものが文明だと思う。

例えば、ウインドウズ98やマクドナルドのハンバーガーといったものは、便利なので日本人もよく使う。これは米国で生まれた文明である。私は、有益なものなら文明はどんどん取り入れたらいいと思う。文明がすぐれているから、その底にある文化も優れていると日本人は勘違いしたのではないか。確かに、西欧文明は便利で快適で、優れている。それを取り入れるのはいいことだと思う。しかし、そのために東洋の文化が西洋の文化より劣っていると考えるとしたら間違いであろう。

■EUにおけるドイツの戦略

 日独はよく似ていると言われる。明治以後、近代国家ができた日本に対して、それから3年後ぐらいに、ビスマルクの登場でドイツも近代国家となった。それ以後、確かに両国の歩みは似ている。第二次世界大戦では手を結び、負けたのも同様である。そして両国とも無条件降伏から奇跡のカムバックを果たし経済大国になった。そこで将来、「文明の衝突」時代になってもひょっとしたらドイツとは共通点を見い出せるかもしれないと思っている人がいるかもしれない。

 しかし、東西冷戦が終わってから、日独の歩みは非常に違ってきた。ドイツはベルリンの壁が崩壊してから約10年になるが、中部ヨーロッパの核になろうという戦略を着々と進めていると思う。それは昔の19世紀にあった帝国とは違うものである。集団的秩序を保っていく上での核になろうとしているのである。つまり、EUにヨーロッパの人たちは皆期待している。ユーロの誕生に期待している。ヨーロッパでは国家の概念が薄れてきていて、それよりも大きな共同体をつくろうとしている。英国やスイスなど一部は反対しているが、平均するとそうした意識になっている。ドイツはヨーロッパが期待しているEUに対して、常にフランスとともに先頭を切って引っ張っていくという姿勢をみせてきた。皆の期待を利用してドイツをうまくコアステートにしていくという戦略である。

 EUは、最終的には政治統合を目指している。国があるから争いがある。国を取り払えば争いはなくなるではないかというのが、彼らの新しい概念である。旧ソ連の社会主義実験は50年にして失敗したが、EUの新しい実験の行方はどうなるであろう。その点、日本は国民国家としてずっとまとまりやすかった。逆にいうと国家に頼りやすい面があると言える。

 そのEUにもすでに階層秩序ができている。どの国も平等というわけではない。99年にユーロに参加する国と参加しない国に差ができてくるし、EUに参加できない国とも軋轢がでてくるだろう。そのうように秩序には格差がある。その中心にドイツはなろうとしている。

 その流れが成功しつつある例として、スロベニアの独立が挙げられる。欧州各国はスロベニアの独立に反対であったが、ドイツが強行に独立を支持した。EUを推進しているドイツを怒らせたのではEUは実現しない。それはヨーロッパの期待に反することになるというわけで、ドイツの主張が通ってしまったのである。スロベニアはドイツ系の人が多い。もともとドイツの領土ではないが、ドイツの発言権が強いところだった。それが第二次世界大戦後、発言権がなくなった。それをなんとか回復したいという思惑があったのである。当然、スロベニアはドイツに対して感謝しており、いい関係にある。そのようにドイツは着々と手を打っている。

 さらに周辺諸国に警戒されないように、ドイツ基本法(憲法)を3回も修正している。はじめは日本と同じように海外への派兵は禁止だった。それを、国会議員の3分の2以上の賛成という厳しい条件ながら、海外派兵を認めるところまで修正した。そして実際にコソボ地域などで活躍している。そしてドイツが軍を派遣したことに対して、欧州諸国は非常に感謝しているのである。やっとドイツも普通の国になった。いざという時に協力してくれるようになったというのである。大多数の国はドイツの派兵を歓迎している。

■楽観できない日本の未来

 それに比べると、日本はアジア太平洋地域で、コアステートになろうという意思すらないような気がする。だから日本は、おそらく中国の周辺で漂うように存在し、核(コアー)になる国の動向によって濁流の中でもまれるようになるのではないか。そういう運命が21世紀の日本に迫っているように思う。21世紀の日本のポジションについては楽観的にはなれない。

 例えば、尖閣列島問題があるが、中国の調査船が尖閣列島の東側、つまり日本の領海にまで入ってきていることがたびたび報道されている。それに対して日本は、そこは日本の領土だから出ていってくれとは言うが、それ以上のことは何もしない。逆に日本の船が中国の領海に入ったら、中国はすぐに追う払うだろう。日本も独立国家としてそれなりの行動を取ってもいいのではないか。

 そうした日本の様子を東南アジア諸国は見ている。このあいだマハティールが来日した時に、彼と会う機会があったが、彼は「なぜ日本は、権利すなわち国益をもっと主張しないのか?」と言っていた。つまり、日本は気概のない国と思われているのである。

 冒頭でも述べたが、日本が東南アジア諸国に、大量のODAを投入していても、彼らがやがて技術力をつけて、もう援助はいらないようになったなら、日本に対して冷たい態度をとると思う。

 この間、APECの農水産閣僚会議があった。そこでつい3年前までは、米国の自由化せよとの主張に、日本とともに東南アジア諸国は反対してきたのに、今回は東南アジア各国は皆、米国側についてしまい、日本は孤立してしまった。東南アジア諸国には、自分たちの農産物を日本に輸出したという思惑があるためだ。日本の援助が昔ほど有効に働いていないのだろう。というよりも、彼らは日本の援助を、少しの例外を除いて、あまり有り難いとは思わないようになってきている。

 ODAの額を日本は小出しにしすぎる傾向にある。ちょうど湾岸戦争の時に感謝されなかったように。あの時も、はじめは10億ドル、それでは少ないというので30億ドル、そして結局は130億ドルになった。どうせODAをやるなら、もっと気前よくやれば感謝されるのである。このように東南アジアも、いざという時に日本をサポートしてくれるような状況にはない。

 中国は、現在スホーイ戦闘機が40機ある。10年後には400機にする予定になっている。こうなると、米国の第七艦隊もかなわない状況になってくる。ロシアも金に困っているのでどんどん売ってくる。このように中国の軍事力はどんどん増強されていく。すると尖閣列島問題においても、また韓国との竹島にしても日本の境界線はどんどんバックしていくと思う。

 びっくりしたのは中国の軍の新聞に、「戦略的境界論」という論文が載っていた。戦略的境界というのは、たとえ日本の領海であっても、中国の影響力が強くなっていけば、実効的にその地域を自由にすることができるようになり、それが何年も続けは新しい国境ができるというものだ。これはドイツのラッツェルという人の論文と同じ趣旨のものである。結局、尖閣列島はいざとなったら、自分のものにしてしまおうという意図が、見え隠れしていると言っていい。それに中国はバラバラになった領土を回収していくという歴史をもった国である。

 もうひとつとして、中国には、西欧文明に対して中国の儒教文明を中心にした挑戦の意欲、即ち周辺諸国を従えて西欧に対抗しようという意志があること。もちろん、軍事的な戦争だけを意味しているわけではない。しかし、ハンチントンはいざとなれば軍事的衝突を犯しても西欧文明を守るべきだと言っている。その意味では、湾岸戦争に勝った時に、ブッシュ大統領は、「革命と戦争の20世紀が終わり、平和と豊かさの21世紀がくる」と言ったが、その後そうなってはいない。21世紀は違った意味での摩擦が進んでいく世紀であろうと思う。

(1998年11月7日発表)