21世紀のリーダー育成と教育改革の展望(上)

岩手県立大学長、東北大学前総長 西澤 潤一

 

●研究と教育

 戦後、ドイツでは、「条件の悪い大学から、どうしてユニークでいいアイディアが出るのか」ということについての追跡調査を行ないました。とにかく終戦以来、日本の大学というのは、軽蔑されてきました。ところがそれに至るまで、戦後も似たり寄ったりだと思いますが、非常にオリジナルなアイディアが大学から出ています。オリジナルなアイディアが、恵まれた環境下にある国立研究所や会社の研究所からそんなにたくさんでているわけではありません。

 ドイツの大学教授は、大変優遇されています。しかしその大学の先生方といえども、例えばスタッフの数が少なく、何人かの助手はいるでしょうが、大半は学生です。朝、大学に来ても講義に行ってしまう。それから午後は講義実験があります。要するに、学習のための実験です。夕方になり、やっと研究室に戻ってきて本格的な実験にかかるのです。最終学年になれば、もう少し余計に実験の時間が取れるかもしれませんが。

 ドイツといえども、やはり大学は、会社や国立研究所に比べれば研究の条件はよろしくありません。それにもかかわらず、なぜ大学からたくさんのいいアイディアが出るのか。調査の結果は、次のようなものでした。教官自体が、若い学生を教育する際に、今までの知識を見直し、系統付け、学問分野の体系を整理しながら、教えていきます。ところがそれによって、教官自身が自分の頭も、実は整理されていくというのです。そのうちに、どかんと大きなもの(いいアイディア)を拾うんだというのが、そのドイツの追跡調査の結果でした。この実証はなかなか難しい。どういう論法をもって発表したか分かりませんが、それを受け入れるところがドイツらしいという気がしながら見ておりました。

 ところが、悲しいかな日本には、そのような考えはありません。これも超一流会社の会長さんの話です。「もう大学の研究からは、ろくな結果がでないんだから期待はしない。大学の先生は研究をやめて教育だけやればよろしい」とおっしゃった。新聞に堂々と出ていました。それに対してどこからも反駁が出なかった。半年経ったら社長さんが、「大学から学生をもらっても、使うときには会社に来てからもう一度教育のやり直しをする。だから大学で余計に長い間教育をするなど、やめた方がいい。早く学生を会社に回せ」という話を新聞に載せていました。これに対しても、反駁は一言もありませんでした。

 最近では「大学院をつくろう」がブームになり、一所懸命に大学院のカリキュラムを組んでいる先生がいます。彼等は、「大学に入ったら、こういう講義を受ける」とか、「これだけの実験をする」とか決めてしまうので、私はそれには大反対をしています。人間にはタイミングというのがあります。要するに、「いつまでたっても(大学院になってまで)受け身の教育をしているのはよろしくない。薹(とう)が立ったような研究者が会社に行っても、何にも役に立たないだろう」と言ったのです。

ところが、超一流会社の某副社長さんがその場にいまして、「何を生意気なことを言うんだ。わけも分からんくせに。人間の寿命も長くなったことだし、ゆっくり勉強すればいいんだ」とおっしゃったんです。私は親の代以来、大学に奉職していますから、教育に対して少しはいろいろなことに見識を持っているつもりですが、会社の副社長を務めている方に、教育が分かる方がむしろおかしいんじゃないかと私は思っております。

 (国立の)大学には研究所の教授と、学部の教授がいて、「概して学部の教授は質がいいが、研究所の教授は質が悪い」とよく言われます。私はもっぱら研究所の教授を務めてきましたので、教育に対しては素人です。ただ八木秀次先生(注1)は大変ユニークな方で、「研究をやる人間は絶えず教育をやらなければだめだ。また教育をやる人間は、研究者としても研究の第一線に立っていなければならない。その後ろ姿が、学生たちに大きな影響を与えるものだ」と言っておられました。

 この間「行革」で第一号に引っ張り出されて、私が話をすることになりました。最初に橋本首相が、「これから五つの改革をやる」と話をなさいました。私はそれをすぐに受けて立って、「今、総理は五つの改革をやるとあいさつをなさいましたけれども、どの改革をみてもちょっと掘ると、その下からは教育の問題が出てきます。だから教育改革をきちんとやらなければ、実質的に五つの改革はできないでしょう。今こそ、教育改革の時です」と言ったのです。橋本さんは素直に受け取ってくださったと見えて、話が終わった後、「これからは教育改革と五つの改革をやる」とおっしゃいました。そして翌朝の新聞を見ると、行革が五つから六つになっていました。私が言ったから変えてくださったのか自信はなかったのですが、水野事務局長がたまたま東北大の卒業生で、間接的友人ですので、聞いてみたら「そうだよ」という話でしたから、まあ看板に入れるだけのことはやらせていただけたかなと思っています。

●学生実験での新しい発見

 私は長年研究所の研究審査をやってきましたが、その中で非常に感じるのことがあります。それ以前にも、私の研究室の学生の姿勢を見ながら、「(学生の様子が)おかしいな」と感じていました。それは簡単に言えば、私どもの時代は分かっていることをやらされると、ばかにするなということでむくれたものでした。

 一例を申しますと、1928年当時、東北大学にいらっしゃいました岡部金治郎先生(当時は、八木秀次先生のもとの助教授、注2)が、一年生の学生実験を担当しておりました。一年生の学生実験は、講義を聴いただけではわからない。それで初歩の実験をさせるわけです。例えば、電流はどうして計るかとか、電圧はどうして計るかとか。一つだけおかしなのが入っておりまして、学生たちは「マグネトロンの実験」をさせられるのです。ところがそのマグネトロン実験というのは1925、6年ごろからやっていたらしいんです。マグネトロンはアメリカのジェネラル・エレクトリックで発明されたわけですが、これが出たとたんに、一年生の学生にマグネトロンの実験をさせたのです。一体なんでこんなことをやらせたのか、今でも分かりません。いま私が責任をもたされたら多分やらないと思いますが、岡部先生はそれをやらせておられました。

 ヒーターを真ん中に置くと、それから電子が飛び出してきます。周囲をとりかこむシリンダーの陽極に正電圧をかけてそれを引っ張る。それに対して垂直に磁場をかけると、走ってくる電子が横向きに力を受け、それがぐっと右に曲がる。ある程度磁場が強くなると、陽極に到達する前にくるっと回ってしまうために、電流が流れなくなってストンと落ちるわけです。その落ち具合の広がりなどをみるためには、初速度分布を解析したりするのですが、マグネトロンというものが、世の中の記録にとどまるようになったのかは全くわかりません。恐らくその後の岡部先生のおやりになった仕事で、マグネトロンが非常に価値を高めたのではないかと思います。しかしその前に学生に実験をやらせていたのです。

 我々の経験で言うと、一年生の学生実験は、講義を聴いていませんから、全くわけがわからない。本居宣長の書いた本に「うひ山ぶみ」というものがあります。万葉集を読んでいくのに、漢字で書いてあって意味がわかりにくい。「四猪」というのは「四四」で「十六」と書いてあるというような例があるわけで、とても普通では読めないわけです。そういう未開の分野に入っていく時に、どういう心がけでやったらいいかが書いてあります。初めから全部わかろうとしたらだめだと書いてあります。実験もわけがわからないでやる、講義もわけがわからないで聴いている、そのうちにつながってくる。そういう意味では、大変うまい教科課程だと今では思っていますが。しかし学生時代には、「わかっている実験をやらされて面白くない、人を侮辱している」と生意気なこと言ったりしました。それで、みんなでいい加減にレポートを書き上げて、当時唯一の娯楽だった映画館にかけつけるわけです。そういう状況でした。

 たぶん1928年ごろ、その時に入学した一年生が、同じように実験をやらされていました。ところが、その隣で実験の監督をしておられたのが、岡部金治郎助教授です。まだ先生が大学を卒業したばかりのころでした。学生たちが出したレポートをみたところ、磁場が強くなってくるとスポンと落ちるはずのカーブが、そうなっていない。それをご覧になった岡部先生は、その学生をつかまえて、「こういうおかしな結果が出た時には、やり直してみるものだ」とおっしゃった。これは大変重要な教育です。その学生は素直に戻ってまた実験したそうです。しばらくして、また実験結果のレポートを持ってきた。同じ変な結果でした。しかし前のレポートのデータとは違うから写したものではない。先生は学生がもう一遍やり直しするのを見ておられたというのです。その結果をご覧になった岡部先生は、ピーンとくるものがあったというのです。

 私たちの時代までは、助教授には助教授室があてがわれませんでした。やはり助教授時代には、ちゃんと実験しているのを見ていろということです。自分みずから実験をした。学生と一緒に自分からデータを読んでやらなければいかんというのが、東北大学八木秀次先生の教えです。それをきちんと岡部先生はやっているわけです。このように一回ごとに変わるのは、超高周波発振が起こっているということを体得していらっしゃいましたので、先生は見た途端に、それかなとお思いになりました。吸収型の波長計が実験室に置いてあり、それを使って周波数を計ってみたところ、世界でまだ発振したこともないような高い発振周波数が観測されたのです。これが大発展をとげ、今日の型の新しいマグネトロンになりました。

 陽極を分割すればいいとお考えになって仕事が進み、岡部先生は最後、大阪大学に移られて、大阪管という真空管を考えられた。これで世界の最も高い発振をさせている先生ということで20年間記録保持者をつづけられました。ものごとのきっかけはこういうところです。

 ですから、平凡なところをばかにしているととんでもないことになると思います。私の恩師も「必ず一生のうち三回は、ノーベル賞はもらえるようなデータにぶつかることがある。しかしたいていの人間はそれを見逃してしまう。それを捕まえてこれは大変だということに気がつく人はほとんどいない」と言っておられました。その「つかむ」ということは、平素からちゃんと勉強してなければつかめない。やはり自分が勉強したことであれば、このような実験をやったら、このようなことが起こるということは、予想できるくらいになってなければいけない。

 ただ予想で押し切ってしまう人もいるわけで、これも大変危険です。結果が出たときに、それと予想とを比べてみて気づかなければいけない。初めから予想していないことは、おかしいとは思いません。ですからやはり予想をもっていなければいけない。予想をもちすぎると、逆に(その実験結果を)消しゴムで消して直すものがいます。

 岡部先生の話の後日談があります。その学生は誰だったのかという話が、東北大学の電気の同窓会でありました。大変有名な先生で、まだ現役でいらっしゃいますが、その先生が岡部先生から「それは君だよ」といわれたというのです。

 その先生は、その日家にお帰りになって、学生時代の実験ノートを引っぱり出してご覧になったら、きわめて平凡な講義の内容そのままの実験結果が書いてあったといいます。それで、「(その学生というのは)僕じゃない」と私にわざわざ教えてくださいました。その次の一言が大変だった。「しかし、今思い出してみると、あんな結果は出なかった」と。「これはまずいというので、消しゴムで消して直して出したということを今、思い出す。やはりあのときに、ちゃんと素直に正直にデータを出していたら、岡部先生に『私でした』と言えたのに」と言っておられました。これはあえて私におっしゃったので、たぶん教育の資料として使えということだと思います。やはりものごとをいかに正直に正確に受け取っていくかということが大切かということなのです。

 また、変わったことが出てこなくては、仕事にならないということです。大体、研究というものは、人がやっていないところを穴うめしていくものです。「ここはどんなふうになっているのか」ということを調べていく。

●学生の危機的な実態

 それからもう一つは、大家の研究結果でも間違っているものがあるということです。例えば、学問の分野ではウイリアム・ショックレーは神様です。しかし、彼の仕事の中に三つほど手ひどい失敗があるのです。私はその論文を読んでどうもおかしいなと思ったものですから、学会で再三、指摘したのですが、誰も相手にしてくれませんでした。あるとき、たまたま大学院生が余計にきたことがありました。考えているところを割り付けていったのですが、学生が余りました。それでショックレーのおかしいと思う部分の実験をここでやらせてやれとある男にあてがいました。するとみごとにショックレーの結果が、間違っていることがはっきりと出てきました。ショックレーといえどもやはり間違いをするということです。ある時、相当実験して、それが明らかに間違っているという実証をして雑誌に出したのですが、なかなか認められず、ショックレーの云ったことがそのまま通ることが多く、他者からの引用は少ない。たまにはそれを使って説明する方はいるのですが、私がやったとは絶対書いてない。

 そのような講義をして、本当はこう考えなくてはいけないということを学生に説明します。「試験のときに、講義したうちで大切と思って丁寧に話したところが出るに決まっている。君たちに是非これから覚えておいてもらいたいと思うことを試験の問題に出す。末梢的なことを出してもしょうがない。だからどこをしっかり勉強しておけということは分かるはずだ」と、ヤマのかけ方まで教えるわけです。しかしそう言って試験をしてみると、なんとショックレーの言った通りに書いてある。仕方ないから学生に、「講義の最中に、あれだけ熱心にこの部分のショックレーの考えはおかしことを説明したじゃないか。大家の仕事を鵜呑みにしちゃいかんぞ。こういうことは非常に大事なんだ」ということを言って聞かせて、また次に試験する。しかし、また私の言うようには書かかず、ショックレーの説明の通り書いている。3回目に「お前たちに何度もそういうことを言っているのに、どうしてよくわからないんだ。もし君らが納得できないなら、今、質問したらいいじゃないか」と言った。それでやってもまた同じでした。私が、「何度も言っているのにわからないのか」と聞いたら、「2度やったから、3度目は出ないと思ったんです」という答えが学生から返ってきました。このようなばかばかしい話があるのです。

 これはまだかわいい話です。このごろの学生は、ものも言いません。例えば、学生に「こういうことを研究してごらん」と言って、テーマを渡します。すると彼等は真っ先に図書館にかけこみます。文献を見つけるのです。しかしありません。同じ文献があれば、やらないですから。それでのこのこ帰ってきて蒼くなって、「先生、論文ないんです」と云うから、「論文がないから、研究をやるんじゃないか。君がちゃんと真面目にデータを出せば、それが文献になるんだよ」と言っても、やりません。そして「テーマ換えてください」とか、「研究室換えてください」なんてことを言うのです。これが現実です。

●消えゆくオリジナリティ

 そういうことで私は、教育に対する危機感を自分の研究室の中から捕まえることになりました。なんとかして本当の仕事のやり方を教えてやろうと思いました。はじめのうちはちょっと脅かすとなんとかなったのですが、このごろは押せども引けどもビクともしません。ですから新しい仕事が出てきません。研究費の審査に行ってみると、まったく情けなくなるほど新しいものはありません。

 それでいながら、常温超伝導ができそうだなんていうと、研究者はみんなそこに駆けこむ。そのような折、私の高等学校の同級生が、私のところにやってまいりました。彼は、常温超伝導研究の主任です。「常温超伝導ができるかできないかということで、国際的な競争時代に入っている。そういうときにもっと研究費がないというのは、おかしいじゃないか。100倍くらいにしてくれ。(西澤も)半導体で苦労したことがあるから、(私の事情が)わかるはずだ」と言うのです。

 そこで私は、「それはよくわかる。しかしどうしてあんなに沢山人数増やしたんだ」と言いました。膨大な研究者の中から2、3の人をつかまえて聞いてみました。「あなた、この間までこういうことやっていたでしょう。その研究をずうっとそのまま続けていたら、金鉱脈を掘り当てたかもしれないじゃないですか。もう一日掘り続けたら、よかったんじゃないかということになりますよ。どうして自分の専門を変えたのですか」と。すると「いや、前の仕事やっていたら研究費もらえませんから」と答えました。それで「それなら超伝導の研究をやれば、もらえるのですか」と聞き返しました。「そうなんだ」と云いました。こういう現実がございます。

 いたずら半分に、常温超伝導の研究をやっていた人の中から、常温核融合の研究を始める人がいるのではないかと、賭をしたんです。見事にそのような人が出てきました。流行を渡り歩く理論家はある程度いるでしょう。特に理論の分野では、一晩にしてすごい理論つくる先生もいらっしゃるわけですが、なかなか材料分野ではそのようなわけにはいきません。コツコツとやらなければならないのですから。そんなに簡単に専門をかえて、いい仕事ができるとは、私には思えないのです。

 この間もある会議で、「せめて20%くらいは、日本にしかないという研究があってほしいですね」と言ったら、後から賛成の手紙がたくさんきました。私はそれを見て、がっくりきました。実は20%というのは、皮肉のつもりで言ったのです。つまり「(そのような研究は日本には)20%もありませんよ」と言いたかったのです。今の日本の状態でしたら、外国にない仕事が50%は並んでいなければ、おかしいんじゃないか。そのように皮肉たっぷりに20%と言っていて、それが逆に褒められるとは、全くいかがなものでしょうか。

 学者には、もう少し本当の学問のあり方を追求してもらいたい。また研究費を支出をしてくれた国、あるいは国民に対して、責任感を持つことが、学者・研究者には少し足りないのではないかと思います。

 一例として、特許があります。普通は、特許を取れば儲かると思う人がいると思いますが、特許を取っても絶対に儲かりはしないです。いろんな抵抗が出てまいります。最後にお金を手に入れることは、非常に少ないのではないでしょうか。ですから発明する時の努力と、その後の努力を比べてみれば、後の方が10倍くらい大変です。日本にはそういう発明をしてお金を手に入れて、それを研究に使おうと、我々みたいな発想する人がほとんどいない。私自身がそのような体験を通して、そのようなことがいやと言うほどわかったわけです。

 特許に関して、最初に潰そうと寄ってくるのは、日本の企業です。日本の企業の為に、こういう特許が日本側にあれば、それだけで仕事がしやすくなるんじゃないかと思うのですが。日本の企業で我々の研究所の賛助会社になってくださるところには、特許料を半分位にまけますという約束になっています。それでも協力関係にはなりません。いよいよ切迫してくれば、特許紛争を公表せざるを得ないわけですが。

もう少しオリジナリティを尊重することをやらなければなりません。オリジナリティの数は、特に、戦後がひどい状況です。戦後、日本に対してアメリカが非常に好意を表してくれましたので、次から次に特許を売ってくれました。金さえ払えば、大体契約してくれるようになった。これが日本の立ち上がりを非常に助けたことはご存じのとおりです。ノウハウでも非常に手回しよくやってくれました。それは大いに感謝しないといけないことです。

ところが、自分のところで基礎研究をやらずに外国からノウハウ買ってくればいいと安易に考え、それでうまくいくし、成功する率も高いですから、みんなそれをやりたがるわけです。国内に種が育たなくなってしまいました。その結果、企業の方でも、大学には研究してもらわなくてもいいという考えになってしまいました。

●戦前の日本の研究事情

 では、戦前はどうだったのか。
 近年、「日本人には創造的な能力なんてない。しょうがないんだ」という意見が出されました。一時は、「分業論」さえ出ました。つまり、新しいアイディアの研究はヨーロッパがやリ、これを工業化するための研究開発はアメリカが引き受ける。最後の生産は、日本がやればいいんだという論です。しかし一番お金に結びつくのが、最後の生産なのです。その後の世界の展開をご覧いただければおわかりのとおり、日本は大変豊かな国になりました。却ってヨーロッパは、大変難しい立場に追い込まれたわけです。

 あるイギリス人と話をしておりましたら、「イギリス人は人の下で働くのが嫌いな民族だ。だから人と協力して仕事をするのは絶対うまくいかない。何でも一人でやろうとするから、時間がかかる。時間をかければ、イギリス人にやらせれば何でも世界一にもっていく自信があるが、どうしてもスピードが出ないので、今みたいなことになっているんだ」ということを言ったことがあります。大体当たっているのではないかなと思います。

 日本は基礎研究を見送りましたので、たいした仕事も出てこないということもあろうかと思いますが、イギリス人などはなかなかいい仕事をする。例えば、日本が最近まで大いに外貨を稼いだり、ぜひノウハウを売ってくれと頼まれたのが「液晶ディスプレイ」です。しかしこのもともとの実験はフランスで、その人は何年か前にノーベル物理学賞をもらっています。それを見たアメリカ人(既に潰れてしまったRCA、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカのニュージャージー・プリンストン研究所の人たち)が、これを使って表示板をつくろうと実験をしました。へたくそなのが出来たのですが、それを我々の出た学会にもってきて実演をして見せました。日本の会社の人がほとんど行っていました。帰ってきてみんな一斉に生産にかかった。その結果はご覧のとおりで、液晶ディスプレイに関しては、日本の技術は世界一になりました。私もびっくりしたのは、あれだけきれいなもの、更にはカラーが出るようになることは、とても当時はそんなことまで私には読み切れませんでした。

 それも大いに敬意を表すべきですが、しかし種は見られません。戦前は、それこそ岡部マグネトロンしかり、八木アンテナしかり、フェライトしかり、みな日本からの発信です。そのほかの分野でも日本から出たオリジナルなものが、戦前は結構ありました。それが戦後どうであったでしょうか。ほとんどありません。実は、これが今問題なのです。

 ヨーロッパに行った時に、本当は日本がやるべきところでしょうが、たまたま「光通信何十周年記念」のお祝いの会をイギリスがやってくれたことがありました。私はメインテーブルに座らされました。隣に座ったドイツ人が、私に向かって言いました。「今、ヨーロッパは、工業が衰退して困っている。何とかしなければいけないとして、新しい商品の開発をやる。やっと出来た。さあそれでは、工場を建て従業員を集め、彼等を訓練して生産が始まる。やれうれしやと思う間もなしに、3ヶ月もたつと日本からもっとよくて、もっと安いものが雪崩を打ったように、どんどんと入ってくるので、どうしようもない」と。「雪崩を打った」というのは、日本の場合にメーカー各社がみな同じ物つくるためです。例えば、布団乾燥機などを作る会社に友人がいるものですから、彼に「何で同じものを他の会社にも作らせるんだ?」と聞いたら、「日本人はおかしな民族で、東芝も作っている、日立も作っている、三菱も作っている、松下も作っている、というと売れるんだ。一社だけで作っていては、あまり売れない」と言っていました。だから他の会社が同じものを作ることを、むしろ奨励するわけです。そのかわり別のメーカーが開発した場合には、我が社もやるぞという、不文律があるというのです。ある意味で、これは一種の保険機構です。そのため各社から一斉に新製品が出てくるのです。

 その結果、国内のユーザーはいい。その中で商品開発競争をしますから、すぐに安くなって非常にいいものが使えるようになります。しかしその余勢を駆って、外国に押し出していく。一方、一般的に外国の企業は、よその会社が作ったものは自社では作らんという倫理観があるようですから、国内の競争が弱く、一遍に負けてしまいます。

しかし、オリジナルなものをそのまま育てていこうということで言えば、どっちがいいでしょうか。ヨーロッパ式がいいことは、言うまでもありません。特許を取っても、結局はつぶしてしまう。それならはじめからお互いにオープンにしましょうということになります。同業種組合の中で、特許は全部オープンです。以上、今の日本の企業と外国の企業のやり方の違いを簡単に申し上げました。

 私がここで敢えて申し上げたいことは、こういうことをやっていると外国から嫌われ者になっていくということです。現実に隣に座った男が、私に言いました。「お前の国はいいだろう。工業は全部お前の国にいく。他の国は工業がなくなってしまう。そんなことをやっていたら、ただでは済まないぞ」と。ところがそれをドイツ人が言うから迫力があります。

●一様化した教育の弊害

 とにかくそういう現実が何処から出てきたか。日本人は、本当はオリジナリティが結構あった民族です。明治以降、日本に初めてサイエンスが入ってきました。はじめに、薬品関係で随分、沢山オリジナルな仕事が出ております。北里柴三郎先生は、欧州に行きコッホ教授のもとで、破傷風菌の抗体をつくれと言われ、まず純粋培養をやり、水素中で培養しました。これに成功して破傷風菌の血清が簡単に手に入るようになりました。同じ原理を使って、コッホはいろんな仕事をしたためにノーベル医学賞をもらいましたが、本当は北里先生も連名に入れなければならなかったと指摘する方も結構いますから、おそらくそれは本当だろうと思います。そういうのものが、明治以降すぐに出るわけです。ですから「日本人にオリジナリティーが足りない」という指摘は当たらないわけです。しかし、その後どうしてこうなってしまったのかということが、問題なのです。

 いろいろな人が既に指摘しているように、「新制大学になってから出なくなった」とか、「センター試験が始まってからだめになった」という話があります。これはどのような絡みがあるのでしょう。いずれにしても重大問題です。

 聞くところによりますと、センター試験の問題というのは考えて書いていたのでは間に合わないといいます。全問に解答を書ききれないといけないから、暗記してスラスラスラと答えを出していくようにするというのです。

ところで、人間の暗記力として、すごい能力を持つ人がいるものです。いつか日本の週刊誌を何かの折りに見ていましたら、グラビアのところに東大大学院の学生が出ていました。私は知りませんでしたが、彼は小学校時代によくテレビに出演をしていたそうです。そして例えば、「昭和10年の10月10日は何曜日だったか」と彼に聞くと、ぱっと即答する。そういう子供でした。記者が、「どういう方法で、あのような返答ができたのか」と質問したら、その大学院学生は「まったくの暗記でした」と答えていました。人間の能力というものは、全くすごいものです。そんなものまで全部暗記できるのですから。記者が「今はどうですか」と聞くと、「いや、とんでもない。全くそういうことはできません。今は、ものを考えていますから」と答えていました。この人は転換ができたのでよろしかったのですが、あまり記憶を入れ過ぎると、ものが考えられなくなってくるのだろうと思います。今現実にそうなっているのではないでしょうか。ですから、ものを考えるということができなくなってきています。

 いつか学長会議の折に、最初に江崎玲於奈氏が「記憶力と創造力の和は一定だ」とおっしゃいました。これはちょっとひどいと思ったので、少し訂正を申し入れました。横軸に記憶量をとる。初めのうちはそうでもないのですが、次第に記憶量が増加すると、入った記憶の間で相互作用が起こり始めます。例えば、あれと同じだなとか、これとこれとをつなげばつながる、などといろいろなことが出てまいりますと、だんだんその中で、知識が新しいものを生み出すようになってきます。その中からから創造が出てくるので、創造はずっと遅れて立ち上がってきます。あんまり沢山覚えさせると、今度は思考能力が伸びていきませんから、これからがったっと落ちてきます。以上のようなことではないかということを、私が言いました。

 しかしピークの記憶量は、人によって皆差があると思います。そういうものを見ながらやっていくと、最後は個人的なベースで、一般的な議論を押さえなければいけないと思っています。あんまり沢山教えると、全くだめになってしまう子供もいます。ただ私は原理的には一つの信念がありまして、どんな子供でも必ずどこかに良いところがあると思っています。

 ですから今問題なのは、教育を一様化していることだと思います。大体、新制教育は、どの大学に入っても同じ教育が受けられるというのがうたい文句でした。

 戦前だって旧制高等学校の先生が、そんなに研究なさったかというと、それほどではなかったろうと思います。ただ大学と旧制高校とが分かれておりましたから、それなりに自信や誇りを持って教育をなさっておられたと思うのです。

 ところで、東京大学だけは「教養学部」になっていますが、他の国立大学は教養部でした。一字違うだけじゃないかと思ったら大間違いです。一般に、教養部の先生方には教授室がありませんでした。小学校の教官室のようです。授業をやるのが目的であって、研究をやるのではないのです。スタッフゼロ、研究費ゼロ。教授室はおろか共同利用の応接室すらありません。スタッフもいません。そのような環境の中で、同じ大学の中にいるということに一つの問題があります。どうしたって他の学校の教養部以外の先生から一人前扱いされないのです。差別されるようなものです。このためにだんだん意気が上がらなくなってきたということが、私は大学の教養課程が本来の使命を果たせなくなった最大の理由ではないかと思っています。この劣等感は、非常にまずいと思っていました。

 理系の先生が教養部の教官になろうものなら、実験もできません。そういう状態ですから、これはもう当然教養部の先生方というのはだんだん落ち目になっていきます。しかし東大の駒場だけは、教養部ではなく「教養学部」にして、教授には教授室があり、スタッフもおり、研究費も出ます。もちろん少し詳しく聞けば、条件が悪いということではありますが、しかし大体学部と同じ構成で仕事が出来る環境にあります。国立大学は、全部同じような教育が行われていると思うと、ちょっと違うのでありまして、どうしてこうなったのかはさっぱりわかりません。とにかくそういう謎はございますが、一応はどこにいっても同じだ、どの先生についても同じだということになっています。

●底上げ教育に問題

 韓国のある学者が、NASAをやめて本国に帰る前に、数年間日本で仕事をしてから帰りたいということで、東北大学の教授を3年間くらい勤めて昨年の春、定年で帰国しました。その人が最後に見るに見かねて、一遍だけ先生方に話をさせてくれと、その時、私たちが呼び集められたことがありました。その先生曰く、「今の日本の教育を見ていると、大変なことになっている。今日本はアメリカの教育のやり方を追っかけているが、実はアメリカの教育は1975年スプートニクショック以来すっかり変わった。今の日本の教育は、1975年以前のアメリカの教育である。すなわち底上げ教育だ。アメリカの市民たる者は、これくらいの知識をもっていた方が都合がいいというのが最初のアメリカの教育であった」と。それはそれなりに意味があることだと思います。しかしそれでは国際競争に負けてしまうということになり、その後、才能を伸ばすという方向に一気に方向転換しました。

 先日ある新聞に出ておりましたが、日本ではビル・ゲイツは天才児だと思っておりますが、アメリカでは彼を「あんな奴」と思っている人がいるといいます。つまりアンチ・モラルです。非常に世の中に対してけしからんことをしているという見方をする人が、沢山いるということを私はあるところで聞いたのですが、新聞を見てなるほどと思いました。あのような生き方にも、もちろん欠点はあります。けれども、アメリカが早く気がついたことは、「鋳型にはめ、これだけの人間に育てよう」ということを考えたのは間違っていたということでした。受け身教育に対する反省です。

 日本の場合には、上も下もありません。だから全部がわかるように基準の方を変えていきます。試験問題がその基準の中から出なければ批判されるわけです。それ以上勉強したところで試験には出ません。試験の範囲には入らなくても、知っていたらいいじゃないかいうと、これだけ忙しく試験で満点を取る訓練として、サラサラと書かないと間に合わないという試験で、それに対応した教育をしますから、なかなかそこからはみ出す勉強をする子が出てこなくなります。

 そういうことが、現在日本の教育の中に大変大きな影響を与えているのではないかと、私はかねてから研究室で学生を毎年毎年受け取り、また送り出しする過程で痛感していたところです。もともと思いもかけない管理業務(学長職)の方に転向することになり、そうなると責任ある立場ということから、あちらこちらで発言をするわけですが、どうも過激な発言と捉えられることも決して少なくありません。しかし、誰かがこのことを言わなければ、これだけ急速に展開してきた日本の歴史に、このような状況のままであるとすれば、ピリオドを打ってしまうことになってしまいます。私自身、めだちがりやだからだとか、いろいろなことを言われもしますが、しかしそんなことに構ってはおれません。とにかく何とかしないといけないと私は思っています。

●予算配分と研究の評価

 エリート教育というのは、蔑視が伴う差別教育ではないと思っています。「この人はエリートに向いている、この人はものづくりに向いている」というように、いろいろな才能に個人差がありますから、その各々の分野で伸ばしてあげることが非常に大事です。教育とは、天分を見付けてのばすのを手伝うことだと考えます。

 行革の審議の時に、「とにかく大学の先生の待遇をもうちょっと良くしてくれないと困る」と申し上げたことがありました。そしたら大学教授の委員の方が立ち上がって、「そんなことは全くありません。私が調べてみたところでは、日本の大学の先生は、決して外国の大学の先生に比べて見て悪いとは思わない」とおっしゃる。その方は現職ですから、こちらは困ってしまいました。こちらはもう現職にない立場ですから。

 しかしそのようなことを申し上げるのについては、事前に十分にいろいろな資料を私は調べています。産業界で一番月給が高いのは金融業です。これは労働白書にしっかりと書いてあります。二番目は流通産業。その次が製造業です。製造業に学生がいきたがらないのは当たり前でしょう。それよりも下と云われた大学の先生の場合には、教育というものに対する情熱を持った方がまだいらっしゃいますから、我慢してくださることがありますけど、だんだん減ってまいります。

 例えば、会社で重役になりそびれた方が、大学に職を求めておいでになる。そしてそのような方々に「(大学にきて)手取り収入はどれくらいになりましたか」と聞いてみました。その答えは、大体半分または三分の一というものです。今は少し変わったかもしれませんが、ついこの間、私が大学にいる頃まではそうでした。つまり、製造業は平均以下の給与なのですが、製造業で重役になりそびれた方々が、大学にくると給与が半分から三分の一になるというわけです。いかがでしょう。これで本当に教育がだんだん衰退しないで済むものでしょうか。非常に大きな問題です。もちろん全部一律にやること自体は問題があるかもしれませんが、いずれにしても何とかしなければけないということです。このような現実を見て見ぬ振りをしている人が少なくないということです。

 ですから私はまず「隗より始めろ」ということを言いたい。隗将軍というのが本当に実力があったかわかりませんが、「国王のもとによい人材を集めるにはどうしたらよいか」と言われた時に、「まず自分の月給を何倍に上げなさい」と言ったという有名な話があります。「自分はくだらん将軍だけれども、あんなやつでもあんなに優遇されているのかということを聞きつければ、天下の俊秀がみんな集まってくるだろう」というのが、隗将軍の進言でした。

 昔は(給与面にしても)一律ではなかった。私の出た中学校で、私のときの校長はそうではなかったのですが、その前任の校長は大学の先生より月給が高かったそうです。そのようにばらつきがあり、混じっていたのです。そういう方々が、教育界のキーパーソンになっていろいろな形で貢献をしておられたという非常に融通のいい運営が現実にはなされていたようです。

 それに対して戦後は、一律になってしまいました。育てようとする対象も、一律化しつつあり、更には先生の方も一律化しようとしています。大変な流れができました。特に、クリエーション(創造)ということは、なかなか一筋縄ではいかない分野です。一律にランク付けをするというような仕事は、難しいということになるだろうと思います。

 幸いある有名な代議士の方が、手を貸してくださいまして、思いもかけぬほどたくさんの予算を大学関係に配分して頂いたことがありました。そのとき私は、たまたま田中真紀子科学技術庁長官(当時)に呼ばれました。その時私は、「研究費や設備費をたくさんつけていただいたことは非常にうれしいと思っておりますが、配分が問題であります」と申し上げましたところ、田中長官は、「それは大丈夫だ。有名大学から20人ほどの先生にお願いして検討してあり、この先生方が大いに議論をして配分を決めていくことになっているから、心配しなくてもいい」と言いました。しかし私は、「20人の人に(研究開発の)中味が分かったら、もうそれはオリジナルではない。(オリジナルと言うのは)分かるのが数人というのが限度だ。だからせいぜい数人で決めるべきで、むしろ20人は多い」と答えました。すると田中長官は「具体的に言ってみなさい」というので、次のような話をしました。

 例えば、江崎玲於奈氏に30億円の予算を預け、「好きなように配分して使いなさい」という。彼は基礎学問については、結構立派な見識を持っていますから。ただ江崎氏だけでは分野が限られますので、他にも二、三人、分野をかえて、江崎氏ほどの人ではないかもしれませんが、そういう人たちを選んできて、この人には100億円、この人は3億円というように予算を決めて預ける。事務機構は、同じ人にお金が両方からゆくときだけ調整し、自由にやらせたらどうか。五年もたてば、ある程度成果が出るか出ないかわかるので、そのときに審査員を替えるべきか検討すれば良い。その時重要なことは、何人かに相談をさせてはだめだということです。そうすると必ず常識派が勝って、創造的な方にお金がゆかなくなってしまいます。個人の責任でやってもらうというのが一番いいと、私は進言したけれども、一つもそうなっておりません。

●研究の事後評価を

 今問題になっていることとしては、「事後評価をやってほしい」ということ。研究が終わったときに、今までは野放しでした。ひどい人になると、予算をもらうまでは一生懸命動き回ったけれども、そのあとはどう使ったか分からないなんていう場合があります。

 これは大学にもあてはまります。具体的に申しますと、文部省の関係者と話をしていると、「この研究は科研費の何でやったかということが、謝辞にちっとも入っていない先生が非常に多い」ということが話によく出てきます。いわゆるメリハリをしっかりさせて書くように、指導すべきではないかということを私は言いました。それなりに論文を書いている長老の先生が行って取り寄せてみたら、新聞記事のことですが、「これも会社からの研究費でやった」と、企業から金をもらって感謝していることを書いてあります。しかし科研費は黙ってもらっておいて、それにつけ足してくれた会社の方にだけ、「某社からもらって感謝する」と謝辞を表わしている人がいる。謝辞を書かないと会社は今度お金をくれなくなりますから、そういうことになるんだろうと思いますけれど。国からの大事な税金をもらってやっているんだということが、あまり意識されていないのではないか。

 それで私が、「今後、事後評価をやりましょう」と官僚の方に言いましたら、「事後評価の方が、事前評価よりもよっぽど難しい」との答えでした。それに対して次のように話をしました。「これからこういう研究をやることがいいか悪いか、この研究はいい成果が出そうか出ないかを決めることが、出来る人がほとんどいません。みんながいい成果が出る思っていたら、こんなことはとうの昔にやっている人がいるはずです。まだそういう仕事をやらずに残っているということは、研究をやろうという人の数が少ないからです。だから見て分かる人があまりいないはずです」と。

 だから、私は事前評価の方が、よっぽど難しいと思います。「事後評価は結論が出ているのだからもっと楽だと思います」と言ったら、お役人は素直に意見を引っ込めました。事後評価をするのに、その委員を選ぶのはやはり難しい。しかし、事前評価の委員を選ぶよりは実害が少ないですから、事後評価の委員を選んでおいて、その人に評価をさせる。そうすると「この人の研究成果は何点に値する。それならばこういうテーマを選んで研究費をつけた某先生にも何点やりましょう」と。そうすれば事前評価をやった人と実験やった人に全部点数がつきますから、毎年毎年これを積算していけば誰がいい仕事をし、だれが無責任な仕事しているかということが大体見当がついてきます。そうすると次回の配分比が出来るわけです。私は既にそのようなことを言っておくだけで、いくらかはいい影響が出ているのではないかと思っています。ぼやぼやしていると仕事がなくなると思ってくれれば、少しは真面目にやりますから、それなりの効果はあるだろうと思い、我慢しているわけです。しかし、なかなか取り上げていただけません。

 やがて何年か経過し、一番いい評価能力を発揮した方に、年の功と言うこともありますから、今度は事後評価委員に回ってもらう。こういうようなことをやったらいいのではないかと思っています。

 この間私のところへ、私が平素から評価している研究者が二人やってまいりました。その人は私に向かって言いました。「(西澤氏も)もうそろそろ研究評価と配分からおりたらどうだ」と。実は私はしょっちゅう辞めさせてくれと言っているのですが、なかなかはずしてくれません。自分には何にもプラスにもならないし、おまけにその研究費の配分委員になると、私は自分の研究費を申請するのを遠慮しています。自分で申請していてはまずかろうと思ってのことです。だから困ってしまうのです。

 今アメリカは定年制を廃止しました。年を取ったからといって辞めさせるということは「差別」だからだめなんだと。つまりこれは、実力がなくなったから辞めてもらいましょうということですから、逆に定年制がなくなるということは、若いうちに辞めさせられる可能性があるわけです。やはり民族の力として、どんな年を取った人でも力をもっているなら、やってもらいましょうというのが、今の主流の考え方です。これをやらなかったら国際競争に負けてしまいます。だから「年取ったから引っ込め」という考え方は、アメリカではやめました。老人引っ込めというのは、本当はおかしいのです。

 若い人にそのようなことを言われたので、大変ショックを受けました。だから私が言ったのは、「評価をやってくれて、私に評価能力がないという点数がついたら、いつでも喜んでやめる。私より上になった人がいたらすぐ代わるつもりだ」と言いました。評価だけは、何とかして制度化してから辞めたいと思っております。これが後の人たちに対する贈り物だと考えています。このことが「リーダーをいかに育てるか」ということにつながるのではないのでしょうか。

 日本には「多数決は最高の正義だ」と思っている方がたくさんいます。ところが、こと研究みたいなものに関して言えば、先述しましたように事前に評価できる人がほとんどいません。家庭の主婦からインスタント食品の売店の女の子までみんな集めて、研究の審査をしたらいかがでしょう。その方が、多数決ということでは、公平かもしれません。そのことを誰もいわない。ある範囲の中で公平にやりましょうということを言うんですが、実はちっとも公平になっているとは思っておりません。だから、一番優秀な人を選んできて、その人に選ばせるという方式を今後日本は積極的に取り入れなければだめになってくるだろうと思います。

 戦前は、大体そういうしくみでした。それにはよい点も悪い点もあります。ただリーダーが、部下のうちで一番ゴマのスリ方がうまいようなやつを後任教授にするようなところは一遍に衰退してしまいます。ちゃんとした見通しを持ち、自分にきつく当たられてもちゃんとやることはやるような人を後任に選んだ研究室は栄えていきます。これははっきりしています。

 しかしだんだん歴史が経過してまいりますと、難しい話が出てきて人情に流されることが多くなり、逆に日本の大学もだんだんだんだん衰退するところが多くなってきたのではないかという気がします。そのうちに中興の祖が現れたり、よきリーダーが出ていろいろと処置しますから、そのたびに大学のリフレッシュが起こるように、私は見ております。アメリカのように、卒業生は教授にしないというのは、少々日本には厳しすぎるかと思いますが、米国はそれぐらい必死にやっていることを考えるべきです。

●創造するための基礎を

 社会的責任がいかに足りないかという話をします。友達に仲がいい奴がいて、「俺の論文引用してくれよ」と友達に頼む人もいます。サイテーション・インデックスという雑誌に名前が出てくればよいという調子です。また、ある人がある教授に手紙を出した。「あなたの仕事は大変立派で私は平素から感服している。一遍我が大学に来て学生に講義をしてくれませんか」と。それをもらった教授は、それを学長のところからみんなに持ち歩いて、自分はこんなに評価されていると見せて、実際は講義に行かないのです。本当は予算がないんです。むしろ来られては困るのです。お互いに行かないと約束しておいて、手紙出しあうのです。そのようなことがいっぱいあると云われています。

 例えば、今の偏差値制度の試験の点数が、本当に人間の価値をそのまま表わしているかというようなことと同じことです。なかなか難しい。いい試験問題を出すのと同じように、やはりよき人が評価をするということが一番私は正しいのではないかと思います。「いい人をどのようにして抜擢するか」といういうことだけはやらなければいけない。

 かつてのように、長老が「(後継者は)あの人」と指名すればそれで済んだ時代はそれなりのやり方がまもられていました。いわゆる民主主義の世の中になると、みんながワーワーがやがやという。客観性のある評価をやってみせないと納得しないわけです。これは良い所でもあり、また悪い所でもあります。いずれにしても私は、そのような採点法を用いた客観的評価法の提案をしているのです。

 これは私の家であったことですが、子供と話をしていたら「数学は暗記だ」と言うものですから、びっくりしました。「そんなこと言っているから、数学の出来が悪いんじゃないか。少しは暗記するけれども、暗記の量が非常に少ないから、お父さんは数学が好きなんだ。暗記する数学や暗記法なんて、とんでもない」と言ったら、子供は次のように言うんです。「先生もそうおっしゃっているよ」。びっくりしまして、みんなに聞いてみたらまさにそうなんです。ある友人のうちでは、「おやじ、そんなこと言うんだったら、この問題解いてみろ」と言って、問題を持ってきました。おやじさんは一生懸命になって鉛筆なめながら答えを書いていきました。三分の一書いた時に息子がやってきて、「おやじ、時間だぞ」と言って、「まだ時間がなくて、全部書いてない」と言うと、「だから言ったじゃないか。考えながら書いたらそうなるんだ。暗記してサラサラと書かないとだめなんだ」。

これも有名なことですが、「今の入学試験の勉強は暗記じゃない」といいます。つまり、どれか一つにまるをつける、それをどういう方法でつけるかということを教えているんだというのです。オペレーショナルリサーチのようなやり方というわけである。だから暗記ならまだましだというのです。 

 日本はやはり科学技術が国の経済をしょっています。それは思い上がりだとおっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。しかし少なくとも相当大きな分野は、科学技術に依存せざるを得ない現状です。そういう時に考えることをしない子供達が世の中に出てくるわけです。暗記する子というのは、そのまま暗記しています。頭の中にカードを入れているようなものです。だからAのカードとBのカードに反対のことが書いてあっても全く気がつかないのです。こっちが出てきたり、あっちが出てきたりするような状態です。受け入れるときに、本当か嘘かと考えずに受け入れています。頭の中に基礎的なストラクチャーがないのです。ただ入りっぱなし、出っぱなしです。これでは本当にクリエーション(創造)できません。クリエーションというのは、一般法則を掴み、現象と照らし合わせていくと、そこにミスマッチが出てくる時にハッと気がつくものです。

アインシュタインは相対性原理をどのようにして考えたのか。まさに壮大なことを考えたわけですが、彼は非常に実験をよく観察しています。「こういう実験結果が出ると、こういう考えで説明できる」と考えてまとめていく。アインシュタインのいわゆる「相対性原理」の前に、ドイツ人でローレンツという人がいました。彼が「ローレンツ変換式」をつくっていたことは、確かにアインシュタインの相対性原理の基礎になっています。しかしそういうものがあったにせよ、やはりアインシュタインは今までのニュートン力学では説明できないいろいろな現象を集めてきて、それをうまく説明出来るような考え方を試みているうちに、あのような大発見になったのだろうと思います。最後には、原子爆弾などの原子力まで推定出来るほどの大理論を完成したということになると思います。勿論私は原爆は反対ですが、ああ云うことが出来るということを見出したのは大変なことです。やはりベースがなければだめです。今それがなくなっています。これではイノベーションが出るはずがありません。
        (1999年1月30日発表)

注1 )八木秀次(1886〜1976)
 大阪出身、東京帝国大学卒。その後、東北大学教授(工学部)、大阪大学教授、東京工業大学学長、大阪大学総長などを務めた。東北大学教授の時代に、1926年同大学講師の宇田新太郎とともに「八木アンテナ」を発明したことで知られる。

注2 )岡部金治郎(1896〜1984)
 名古屋出身。東北帝国大学卒。東北帝国大学助教授(工学部)、名古屋高工教授、大阪大学教授などを務めた。東北帝国大学助教授時代に、陽極分割マグネトロンを利用した超高周波の発生法を発見。文化勲章受賞。