21世紀のリーダー育成と教育改革の展望(下)

岩手県立大学長、東北大学前総長 西澤 潤一

 

●学生も自己評価を

 先日最後の研究費の審査をやっておりまして、泣けてくる気持ちになりました。何も日本から(新しいものが)出ていないのです。これはと思った研究もあったのですが、よく調べてみると、既にみんなやっているのです。外国にはどこにもないというものが、日本から出てこないかということを私は待望しています。ここまでひどいことをご存じない方がたくさんいらっしゃると思います。ですからここを何とか切りくずさなければなりません。やはりきちんとしたものの考え方を取り戻させないといけないのです。これでなくては、日本は国際的にはなれません。

 先生が何かおっしゃった時に、私どもは先生の言うことがよくわからない時には、よほど先生がおかしいのではないかと思っても、「よくわかりませんが」と言って伺ったものです。しかしこのごろの学生は、いきなりやってきて「先生、間違ってます」と言うのです。愕然として、よく学生に話を聞いてみると、嘘ばっかり言ってるわけでありまして、結局自己評価が出来てないということなのです。

 私の書いた論文に、指導教官の先生が線を引いてくれたことがありました。「これはまずい」と思い、もう一度考え直してみても、とことん正しいと思ったものですから、「先生が印を付けて下さった部分が、どのように間違っているのかわからないのですが、とにかく一生懸命書き直してまいりましたので、見て下さい」と言ったら、先生は、「なんだ、俺はいいところに線を引いた」と笑われるのです。褒めていただいたのに、何か悪いことしたかなと思う位、反省しようという気があったのです。今の人などは反省もしません。やってきては、「先生、間違っています」などと大きな顔して言って、最後に自分が間違っているのがわかればその場で説明するわけです。いずれにしても、「失礼しました」とか、「ありがとうございました」も言わずに帰っていくのです。若い人たちも自己評価をしなければいけないと思います。

 私どもの時代には、文部省の研究費申請のときには審査で皆落とされましたから、お金(研究費)はもらえません。すると恩師が、「企業に行って、もらってこい」というわけです。今でも忘れない話があります。「こういうものなら安上がりで出来るし、これはまず間違いなくできるだろう」と思ったので、「こういうものが出来るのですが」と言って、企業に頼みに行きました。すると「いくら金がかかるんだ」と聞かれたので、「50万円です」と答えたら、「そんなに出せない。20万円なら出せる。それがいやならだめだ」との返事でした。それでいろいろと考えました。50万円分の仕事を20万円でやるということは、容易なことではない。結局20万円もらわないと何にもならないから、もらってきてとんでもないやりかたを考え出して、20万円で完成させました。それを企業にもっていきました。

 これは日本からベルテレホンラボラトリーへの半導体関係の最初の輸出技術でした。ところが海外特許は、契約によって全部向こうの方にはただになりますから、仕事がその会社を通じてベルテレホンラボラトリーに入ったことは間違いないのですが、そういうことは歴史に残りませんでした。そんな仕事もやったことがありました。

 そのときに考えていたことは、「一遍でも失敗したら、次にお金がもらえなくなる」ということでした。一遍も失敗しないでやろうと、必死で考えて取り組みました。それから自分が評価してこれはできそうで、これはできそうにないと言ったことがどれくらい当たるかということがあります。これは一種の空想実験です。こういうことは出来そうに思うとか、これはだめではないかとか、みんな紙に書いてもっています。そのうちにできると、「ああすると、やはりよかったんだな」と分かって、自分の力に点数がついてまいります。そうすると例えば70点だというなら、会社に行ってお金をいただく交渉をするときに70点の自信をもって相手に話をすることができます。そのようなことを自分でやってまいりました。後で振返ってみると、そのようなことをやってきて非常によかったなという気がするわけです。

 研究室を一年間安定的に運営できるためには、このぐらいの金がいるということでそれをもらうことに教授が必死になります。かつては「講座費」というのが出ていました。その後大学数が増えて、全部研究費を申請してやらせた方がいいのではないかということになりました。今では講座費が実質目減りをしまして、秘書一人雇うにも足りないくらいになってきています。だから大学の先生に連絡しようと思っても、最近は簡単につながりません。ファクシミリができたので、こういうことが改善されましたが、そのような状態です。


●安直な研究費申請

 だから何か新しいことを考えたとしても、ちょっと調べてみることが実質なかなか難しい環境になっています。昔はともかく、やはり昔でも今でも、常識に反することをやろうと思えば、当然お金がもらえなかった。当時は講座研究費だけはありましたから、そこで小さな実験をして、試してみることができました。今はいきなり何千万、あるいは何億というようなお金を直接もらいに来ます。事前に実験を全然やらないでもらいに来るのです。

 以前、「炭酸ガスは海に吸収されていて、案外世界の炭酸ガス量は増えないのではないか」という議論が沸騰したことがありました。そしてある大学の先生が、炭酸ガスが大量に海水に吸われるということを実験したいといって研究費を申請しました。私は、「これにはしっかりしたデータがないから、是非やらせてみる必要がある」と考えて、「予備実験くらいはやっていらっしゃるんでしょうか。例えば、波が荒れている日に、海の水を汲んできて炭酸ガスがどの程度入っているかとか、海がないでいるときに海水を取ってきて調べてみるなど、そのくらいのことは実験できるんじゃないですか」とその先生に聞きました。するといきなり、「金がなくて、うちの女房の貯金をおろしてきて機械を買った」などと話してきて、全く要領を得ないのです。三回ほど押し返して、同じ質問したら、相手が怒り出しました。こちらはなぜ怒られたか分かりません。結果的には(選考から)落ちざるを得なかったのですが、後から手紙をよこしてまた怒っているのです。「今まで、あんな屈辱を味わったことは一度もなかった」と書いてありました。何が屈辱なんでしょうか。私はちっとも分からないですが。

 近年はとにかく予備実験のない研究費申請が非常に多く入ってきています。非常に安直なのは、外国でうまくいった研究を見てきて、その先生と同じ機械を申請するというものです。よくお調べになってみれば、今相当多くがそういう研究です。当然二番煎じになります。そういうところにも、せっかく持っていた日本人の創造力が非常に低下してしまった原因があるだろうと思います。頭の方もそうですし、金の配り方もそうです。そういうところを何とか早く直さなければならないというのが、今私が必死になっているところです。

 研究開発の分野におけるリーダーについて、今申し上げましたけれども、私は政治の世界のリーダーのことについてはよく分かりません。いずれにしても、戦後の「一律多数教育」というものが、非常に大きな問題を生じさせているということは、ご理解いただけるのではないでしょうか。全部の人が学者になるわけではありませんし、全部がリーダーになるわけでもありません。また全部が物づくりになるわけでもありません。いろんな教育の道があるということが大事です。多様化で、いろいろな才能を持った人がのび上がれる教育でなければならないと思います。ある面で戦前は、そうなっていたと言えます。

●見識のない日本

 自分の見識、自分の考えがないから創造性が出ないんだということを先に申しました。以前、後藤田正晴先生のお話を聞く機会がありましたが、そのとき先生は、「今、日本の政治家で、例えば、国連本部にいって自分の政治的な見識をとうとうとぶつことのできる人はいない。残念ながら、それだけの人生観をもっている人はいない」と慨嘆していました。理科でも文科でも同じ状況ではないかと思います。

 例えば、この間、京都で環境問題のフォーラムがあり、開発途上国と先進国とがいわゆる炭酸ガスの出方に対して制約をどうかけるか議論しました。世界各国一律にかけるべきか、先進国には厳しく規制し、開発途上国は緩くするかということで、大議論がありましたが、とうとう成案は出ませんでした。日本はその辺のことが本当は両方とも分かっている国のはずですから、このとき一番リーダーシップを発揮する良いチャンスでした。そのような立場があのときに取れたとしたら、日本人に対する海外の評価も随分変わったろうと思います。

 かつてアメリカに行ったときに、例えば、ボストンの町の真ん中にデパートが二つあったのですが、その間に渡り廊下がかかっていました。渡り廊下の両側には、商店まで並んでいました。そしてその中は普通の部屋と同じように内装されており、暖房が行き届いております。だから一方のデパートからもう一方には、買い物しながらでることができます。空調がやってありますから、外に出ているという感覚は全くありません。それを見たアメリカ人が、「いくらなんでも、あんなことまでしなくてもいいのではないか」と私に言いました。だからアメリカの中でも、そういう生き方に対していろいろな批判があるわけです。

●中国の教え方にみる「見識」の在り方

 今、中国の田舎に行ってみると、やっと電灯がついたというところがあります。そういう国と渡り廊下の中に商店街をつくって、その中の暖房を普通の部屋と同じようにやっている国と、同率で規制するということが果たして正しいことでしょうか。「正しい」という言葉が適切かどうかはわかりませんが。

 中国では率先して、いわゆる「産児制限(一人っ子政策)」をやってきました。クリントン大統領夫人が、それに対して「人道に反する」と言ったのですが、中国はむしろ家を大事にする国であり、子供をかわいがる国です。今では、もう少しゆるくなって農家に関しては、男の子が産まれるまでは三人まで生んでもいいということになっています。いずれにせよ、家を大事にしますから男の子を何とかしてつくりたい。一時言われた話ですが、女の子が産まれるとみんな間引いてしまったそうです。女がいなかったら、男がいくらいたって困るわけですが。中国はいち早く人口の増加に歯止めをかけようとしているのです。

 それから中国には、「三峡ダム」があります。日本では「水力発電所は環境を破壊する」ということになっています。私も水力派ですが、以前三峡ダム見に行って、「多段式にしたらどうですか」と、聞いたことがあります。つまり一気に塞き止めずに、段にわけるのです。一番川幅の広いところがなくなりますから、そうすると貯水される量は数分の一になります。しかしトータルエネルギーは同じです。「そのようにしたらどうだ」と言ったら、中国の若い人たちは、「いいことを聞いた」と言ったのですが、ボスにそれを伝えたら怒られたそうです。「お前、何を言っているんだ。三峡ダムというのは発電用のダムではないんだ。あれは洪水防止用のダムである。十年に一遍の大洪水のために、地方の食糧事情がめちゃくちゃにされる。上流で大雨が降り、水が来たぞということになると、三峡ダムの水を放水して空にし、上流からきた水のショックを吸収して、許容水量だけを下流に流す。たまりきるまでに上流の大雨の影響が消えれば、それで洪水を免れることができる。そうすれば十年に一遍ずつある洪水が、百年に一遍になる。350億トンの水を蓄えるというのは、そういう対策だ。だから、環境破壊だからやめたほうがいいだろうと言うのは、これまたけしからん話だ」と言うのです。

 人間生きていくときには、一方で必ず環境破壊をやっているわけですから、選択の問題ともいえます。そういう意味で、私は中国の政策は大変評価しているわけですけれども、いずれにしても何をやるかということについては、もう少し総合的に考えなければいけないということが言えます。

●これからのエネルギー・環境問題

 私が学術振興会の委員長をやっていたときに、あるプロジェクトをつくりまして、いわゆるエネルギー問題を少し積極的に研究してもらったことがあります。このまま石油・石炭を使っていってよいものかについて検討しました。石油・石炭がなくなってしまうのが早いか、あるいは炭酸ガスの量が増えて、人間生活に阻害がでるようになるのが早いか、この二つによって対応が全然違ってきます。日本のように石油がない国にとっては、石油が枯渇するのが先だったらえらいことになります。堺屋太一氏が小説書いて有名になりましたが、あの大型版になるわけです。それこそ石油を買うためには、何をさておいてもいうことをきかないといけないという事態が予想されるわけです。しかし、つかえなくなった場合に、代替エネルギーは何を求めるべきか。

 まだそのようなことは調べているのですが、誰も結論を出してくれません。この間、その担当者に、「早く日本は将来を見通して、どの道を選ぶかということを決めないといけない」小言をいったのですが、いつまでもやってくれません。エネルギー問題について、これから先どうなるかということに対して日本人には見識を持とうとする気持ちがありません。

 山本義一先生(東北大学名誉教授、注3)という大気の専門の方がいますが、この先生は、大気中の炭酸ガスの分析をずっとやってきました。東北大学から南極に行った研究者が、南極から氷をかいてもってきました。それを分析すると、この氷は1800年に固まった氷だとか、1750年に固まった氷だなどと、大体分わるそうです。その氷を溶かすと中から炭酸ガスが出てきますので、その量を測定・分析することによって、この氷が固まった時には大気中に炭酸ガスが何%あったかということが分かるために、随分昔の炭酸ガス濃度のデータが得られます。そのデータによると、大変な勢いで炭酸ガスが増えているというのです。その増え方は、年数に対し指数関数の指数関数ぐらいになるそうです。その原因については、いろいろ議論のあるところです。

 1975年に山本義一先生が「炭酸ガスが急増している。このままいくと危ない」と世界に向けて発表されたのですが、私も残念ながら耳に聞いた覚えもありませんでした。この問題を取り上げたのは、大阪大学の稲田献一先生でした。岩波書店の『世界』に、この問題を取り上げた論文を出して、山本先生の説を紹介していらっしゃるのです。

また先日、世界が発表した注目すべき論文だけを集めた本が、40周年記念出版になり、書店に出ていたので、買って見てみましたが、そこには山本先生の論文のことを紹介された稲田論文は出ていませんでした。今もって評価されていないということです。

 ところで、日本で炭酸ガス問題について騒ぎ始めたのはちょうど8〜9年前、ローマクラブが「炭酸ガスが急増して危険な状況になる」と警告を発したときからでした。そのはるか以前に、山本先生がそういうことをおっしゃっているのに、日本人の中にはそういうことを記憶していた方も、またそのとき問題視した方も非常に少なかったということです。

●旧制高等学校の長所に学ぶ

 ですから日本人はしっかりとした意見をもっていないということが、いわれるのです。いわれるだけではなしに、日本から新しいものが出なくなってしまったということです。ですからやはり自分がしっかりして自分の人生観を持ち、一生をどのように過ごすかということを決めるのが、旧制高校ではなかったかと思っておりますから、何とかして多様化の一部として、いくらか復活しようというようなことになってほしいものです。

 近年、旧制高等学校というものが非常によかったという方が非常にたくさんいらっしゃいます。なぜでしょうか。当時、私たちが入学してみてびっくりしたことがありました。学校へ行こうとすると、先輩が布団の中から首を出してきて、「学校に行くなんてばかだ」と言うのです。つまり自分が興味をもったことに集中的にやることを奨励していたといえます。ですからおとなしく講義を聴いていることが、旧制高等学校の生徒の間ではくだらんことだということになっていました。

 私たちのときには、既に本すら満足に手に入らない時代でした。図書館に行っては自分が読みたい本を探し、夜遅くに帰ってきて、喜び勇んでそれを読むのです。万年床はしょっちゅうですが、万年床の上に小さなちゃぶ台を持ち出して、飯も食べずに、頭から布団をかぶってうずくまって本を読むようなことをやるのです。

 そして一つの疑問点をずっと押し進めながら、いろんなことを考えたというのが旧制高等学校生活の重要なポイントではないかと思います。それを通して、自分の考え方を持つようになります。他人と討論しながら、自分が納得いかないことは、とことんまで突き詰めていくことをあの時代にやらせたのではないでしょうか。文科・理科は初めから決まっておりますが、そのようなことを経た上で、専門を決めていきます。時には文系から理系に、また理系から文系に移る人もいるわけですから、ゆとりがあったといえます。それから自分の専門を決め、自分がどういう一生を送りたいかということを、高等学校時代につかませて、その上で専門科目を教えたのでした。そのようなことは、リーダーを養成する時にもっとも効果的ではなかったかと思います。今、専門を決めるのが早すぎ、これが人間教育を弱くしていると思います。

●「現実」から出発する科学

 今、新しい学問や技術が必要な時代であることはおわかりいただけたと思いますが、新しい学問は机に座って考えていてもなかなか出るものではなく、現場から出てくることが多い。ではここで、現場から立ち上がれるような人材をいかに教育するかについてお話しします。大体、科学というのは、現物をよく見て出発するものです。

 例えば、街角のお菓子屋さんから店の経営管理について頼まれたときに、「あなたの店の在庫管理には、こういう計算機を買ってきて、こうやったらどうでしょうか。それからこういうデータをとっておけば、そのときの調節の仕方はこうですよ。また、雨が降ったら、このお菓子はどのぐらい売れゆきに影響するんだということを判定し、それも含めて調べて注文しよう。そのためには、こう云うソフトウェアがいる」と、アドバイスできるような技術者です。このようなこともできるようなエンジニアを育てようということを私がいっているわけです。

 世の中の人は、「そのようなことは低級だ」とよくいいます。しかしこれが一つの問題です。「特許なんていうものはけしからんものだ」とか、「お金はほしいくせに、お金なんていうことは下品だ」という。このことが日本の学問の発展に、非常に大きな障害になったのでした。

 陽電子を世界で最初に見つけたアンダーソンというノーベル物理学賞受賞者を日本に呼んでシンポジウムが開かれたとき、私も引っぱり出されたことがありました。モデレータは、広中平祐氏でした。そのときに「応用なんて考えるのは卑しい」という話がありました。私は立ち上がりまして、「今、応用なんて考えるのは卑しいというお話がありましたけれども、日本がとにかくここまで復興できたのは、皆さん方がおっしゃる卑しい連中ががんばったからじゃないでしょうか。またそういうお金が貯まったからこそ、先生方がいまおっしゃるように、基礎研究に金出せということが言えるのです。もし卑しい研究者がいなかったら、そんなことがいえなくなっているんじゃないでしょうか」ということを言いましたら、みんないやな顔をして黙ってしまいました。そうしたら会場の聴衆の方から大変な拍手をいただきました。私は国民の方々は分かってくださるんだと思って安心しました。

 ところが、アメリカはその「卑しい方」が主流です。例えば、ウイリアム・ショックレーは基礎研究でノーベル賞をもらったのですが、応用の方でも集積回路に至るまでの半導体の技術の中心的な特許は、ほとんど全部ショックレーがもっています。応用に関する特許は、その時点まで、ほとんどショックレー一人の力でした。彼は基礎をやるからこそ、いい応用が考えられたのです。また応用しているから、そこに今度いろんな疑問点が出てきて、基礎研究に戻っていけたといえます。一人の中で両方やったということのために、大変な成果を収めたのだと私は思っています。大体彼は、ベル電話研究所の応用研究部に居たのです。ベル研に七人とかのノーベル賞受賞者が居たといいますが、一人だけが基礎研究部でした。

●英国の学風

 このやり方は、実はグラスゴー大学のケルビン卿の始めた学風でした。「蒸気機関は世界文化の革命である」と言われるわけですが、あの蒸気機関はグラスゴー大学でできたものではありません。悪く言えば、「町のおっさん方」がやったのです。炭坑の中から水を汲み上げるのに、何とか機械でやれないかというところから始まりました。

 まず最初にパバンというフランスから帰化した人が、非常に初歩的なものをやり、これを改良したのがニューコメンです。さらに最後の改良をやったのが、ジェームス・ワットです。それであのようなものになったのです。誰それが、「もっと太くしたらよくなったぞ」とか、誰それが、「もっと短くしたらよくなったぞ」などといっては、みんなでデータを交換しあいながら、よいエンジンをつくっていった。

 そこに赴任した22歳で物理学教授になったケルビンが、蒸気機関の理論を整理しました。結果として熱力学の第二法則に到達したのです。哲学的で、頭の痛くなるような議論です。なるべく短くしようと思ったのです。そちらも大事です。ちょっとだけ覚えておけば、あと全部それを使えばものごとがきまるというようにするのが、「帰納法」です。その帰納法をきわめて本当に縮めるだけ縮め、よけいなものを全部切ろうとしたのがその哲学的議論です。おかげさまで、ケルビンの熱力学第二法則を使えば(演繹すれば)、大抵の蒸気機関を設計できるようになったのでした。

 この話は有名ですが、その次の話はあまり有名ではありません。
 ちょうどそのころ、ドーバー海峡を通して、2本の線を海底に沈めた人がいます。電流を流し、電圧をかけると、一方からもう一方にその電圧が伝わっていきます。切るとパルスみたいなものが、向こうに伝わります。トンとやればトンと伝わり、ツーと長く接触すれば、ツーと長い電圧がずっと伝わっていく、いわゆる「トン・ツー」ができるわけです。ドーバー海峡といっても、フランスのカレーとイギリスのドーバーの間には、距離がそんなにありませんから、いいかげんなことをしても結構伝わったのでありましょう。

 この話を聞いて、これを理論で整理したのがケルビンです。私どもが通信電気の勉強をしたときに「電信方程式」ということを聞かされましたが、いわゆる「偏微分方程式」です。これを使えばそういうシステムの動態を解析できるというのが、この偏微分方程式です。ドーバー海峡の状況をふまえながら、それをケルビンが出したのでしょうが、これは帰納法です。

 例えば、先の蒸気機関でしたら、そこであとは設計に使ったのですが、今度はケルビンはそこで止まりませんでした。その式を使って、今度はアメリカからイギリスにパルスを送るためには、どういう線をつかったらいいのかということを計算したのです。ところが今度は計算だけでは追いつきません。イギリスの政府に申請して建設費をもらい、自分が総括責任者になって部下をケーブル敷設船に乗せて出航しました。いまでもタイタニック号みたいな船が沈むような気象条件の悪い北の海、北大西洋を木っ端船に乗って、電線を沈めにいく船に乗せられたケルビンの部下は、全く気の毒だと思います。私でしたら、自分の研究生には絶対にそんなことはさせないけれども。しかしケルビンも海水が漏れることはうまく処理できなかった。たぶん8本まで失敗し、9本目にいたってやっと成功しました。8本は腐る前に引っ張り上げ、もう一遍防水対策をして沈めなおしました。それ以降二組のケーブルがアメリカとイギリスの間に引かれまして、これで初めて手紙をもっていかなくても、通信が出来るということになったのでした。

 このようにケルビンは、応用というものもしっかりと頭に置き、基礎の考え方もしっかりともっていました。私たちも科学者ですが、しかし、我々がやっかいになっている人間社会に対しての何らかのお返しをしなければいけない、と私は思っております。もう少しはっきりとお話させていただければ、そういう気持ちのない人は、科学者としては立派かもしれないが、人間としては尊敬する気になれません。

 大きな科学というのは、現実をよく見てそこから一般性を抽出していき理論になります。さらにこれを哲学的に見つめていくと、非常に短いものを覚えていけば全部のことがそれによって考えられる、つまり演繹が可能であるようなものまでまとめ上げるのです。この一部が、さっき申しました応用や現実を無視した「哲学的科学」です。ここがえらく評価されるのです。ところが私に言わせれば、全体の科学というのはそれよりもっと大きいものです。これがなければ新しい科学は生まれてきません。現実をみるから新しい科学がでるわけです。だから、「街角のお菓子屋さんの在庫管理をやるということから、大変な発想が出てくるんだよ」と言いたいのです。

●身近なところからの発見

 実際にあった話を一つ紹介します。東北大学にいたころ、次のような悪口をよく言っていました。どこかの大学の情報工学科のエレベータはみんな団子運転していました。複数のエレベータがいっしょに上がり、そしていっしょに降りてまいります。この原理はすぐ分かります。だから情報工学科の研究者であれば、それが円滑に、そしてほぼ等間隔で使用できるよう、しかもなるべくそんなに待たずに乗れるようにするというのが、便利さの原則です。「そういうことを自分の建物のエレベータを使ってやってみたらどうだ、そういうところから新しい情報の学問が出るんだよ」と言っていました。しかし誰も聞いてくれませんでした。

 そうしてあるときに、NHKの教育番組を見ていたら、アメリカでエレベータ運行解析に新しい手法が発表になったと報道されていました。その手法を使うと、非常に待ち時間が平均化されて合理的な使い方が出来るんだということをいっておりました。それで、「それみたことか」ということで、だいぶあちこちでそのことを自慢したわけですが、やはり現場から新しい学問が出てくるのです。

 今はどうもそういうところが、日本には欠けているように思います。かつて田中舘愛橘先生(注4)という方が東京大学の物理学教室にいらっしゃいましたが、この先生は日本で最初の物理の教授らしい物理の教授だと言われた方でした。それ以前の先生は、欧米から知識をもってきて講釈するのが精一杯でした。「朝になって、必死になって暗記した」と本に書いてあります。田中舘先生は、それどころではなく立派な論文もお書きになり、外国に出ていってしっかりとした物理屋で通ったという話があるくらいです。

 どういうきっかけかわかりませんが、田中舘先生はケルビン卿の学風を非常に評価されまして、これを日本にもってきて東京大学の物理学教室に植え込まれたのです。真っ先に日本に赴任なさったのは、ユーイング(注5)という人でした。後に、英国に帰国してサー(sir)の称号をもらった方です。ユーイングは日本に来て何をやったかというと、地震の研究をしたのです。その当時、大学で地震の研究をやっているところは世界中に全くありませんでした。それが日本には地震が多いから地震の研究をやろうということで、ご自分で地震計の設計までやってはじめたのです。そのおかげでつい10年ぐらい前までは、もう少し前でしょうか、プレート説が出るまでは、日本の地震学は世界にダントツだったのです。

 浅田敏先生(東京大学名誉教授)は、「外国のことなんて、考えることなかったよ。とにかく毎日毎日研究室に出て、楽しく勉強していた」ということを、よくおっしゃっていました。これが本当のトップというものです。そういうものを日本に植え付けられたのが、グラスゴーから来たユーイング先生でした。

 第二番目が、磁性材料の研究です。自らまずヒステリシス現象の実験をやって、総合的な報告を雑誌に発表しました。これに対して説明つけたのは、今で言えばコーポラティブ(協力現象)の一番の基本理論であるところの理論であります。古い言葉で言えば分子磁石説というのがあります。これを日本で発表したわけです。長岡半太郎伝によりますと、「当時、物理学の中心は、日本に移った」とまでいわれたことがあるわけですが、そこまでいったかどうかという気持ちになるのですが、朝日新聞社が出しております『長岡半太郎伝』にそう書いてあります。ですから、いかによそでやっていないことを取り上げてやるということが大事であり、かつこれが一つの大きな伝統をつくるということの例になると思うのです。

●国の将来を左右する研究者の育成

 実際今、日本は少し遅れましたが、まだ依然として世界のトップグループです。その後ちょっとうまくいかないわけですが、とにかく一人の人がそれだけの先見性を発揮して仕事をしますと、その後百年近く、その国に大きな影響を残すのです。こういう人を見つけだして育てていくべきです。やはりわれわれがやらないといけないのではないのかと思います。

 岩波新書に『天才』という本があります。宮城音弥先生という東工大の心理学の教授がかかれたのですが、学者10人、芸術家10人、世界の歴史に名をとどめた人をもってまいりまして、この人たちが子供のときにどんな子供だったかということについて、追跡調査しています。結論を私が少しモデレートして申しておきます。反対じゃないかとおっしゃる方がいらっしゃるもしれませんが。

 上記20人の世界の歴史に名をとどめた学者や芸術家の幼少の時代を追跡してみると、この中で頭がよかったのはたった一人、ジャン・ジャック・ルソーだけであるというのです。頭がよかったというのは、ちょっと適切な表現ではないかもしれませんが、つまり学校の成績のよかったのは一人、ジャン・ジャック・ルソーであると勝手に直させていただきます。教育学者で『エミール』を書いた人です。小説も書き、音楽も作曲している、まさに天才です。

 しかし克明にこのジャン・ジャック・ルソーの業績を分析すると、これは一種の精神異常者である。残りの中にも随分ひどい人がいますが。しかしそういうのは専門家にいわせれば「異常」ではなく、「変わっているだけ」だそうですが。ルソー以外の19人は、全部そろって学校の成績が悪いというのです。今いかがでしょうか。

 要するに、学校の成績が悪いということは、どちらかといえば大体記憶力が弱いというか、記憶が悪いということでしょうか。知識がなかなか詰まらない人たちだということです。自分の頭の中にある一つの体系と合わないうちは、新しい知識を頭に入れないという覚え方があるわけです。見せられた物を、そのまま鵜呑みにするのと、そこで頭の中の既成の考え方とつないでみてつながらないものは入らない。これではないかと私は思っています。そういう人たちが、この19人ではないかということです。

 現在は、そういう人間の育て方をしておりません。そういう人はたぶん途中で落伍してしまいます。落伍しないでビリでもついていけばものになるでしょうが、落伍してしまうとやはりまずいです。そのへんのところに問題があるのではないかと思います。やはりなんとか早くこの暗記ばかりで人を選択する、暗記で選ぶのはやめたらいい。

 ゲルハルト・プラウゼというドイツ人の書いた本が『天才の通信簿』という名前で講談社から訳本出版されております。この本を見ると、政治家と軍人には学校の成績の良かった人が多いと書いてあります。学者や芸術家は、この本でもだめだと云うことになっています。他にもたくさんの本があります。職業によって違うのです。ですからその辺のところよく心得て、やはり多様化教育を早期導入することが必要です。

学者・研究者は、むしろ早く現場に出して研究させる。大学院などむしろ自分の専門ではないところの講義を自由勝手に聞いてこいとか、必要なことがあったら聞きに行けというくらいにして、毎日研究報告するとか、人の論文を批判するとか、そのようなことを中心に講義をすべきではないかと、私は前から主張しておりますが、なかなか認めていただけません。戦後、アメリカの教育の影響が非常に強くなってまいりました。そういう意味では、現在の日本における研究者としての養成は必ずしも十分ではないのではないかと思います。
        (1999年1月30日発表)