日韓の共生関係をどう築くか

常葉学園大学教授 金両基

 

1.日韓関係における在日同胞の使命

(1)私にとっての異文化体験の原点
 私は、二つの国籍を持って生きているような人間の一人である。東京生まれの江戸っ子で、普通よりは平均的な標準語(日本語)を使えると思う。日本語の著作も数十冊になる。それならば、日本人と同じかというと、そうでもない。では韓国人と同じかというとそれとも違う。このような二つの異文化を背負いながら生きている立場といえる。それでは、私にとっての「異文化体験」とは何かについて、まず考えてみたい。

 まず言えることは、私にとって祖国(韓国)の文化が異文化なのである。敗戦の日、玉音放送を聞いたときに、二つの表情を目の当たりにした。すすり泣く日本人の姿、そして一方では、こぼれる笑いを抑えているという雰囲気の父母や、その周辺にいる当時の朝鮮人の姿である。当時、私は国籍が日本であり、日本人として生きていたわけだから、彼らのような異文化体験の実感がなかった。しかし当時、私の家庭は朝鮮語・韓国語を話すことができる家庭の雰囲気だった。私は、韓国の文化、歴史、文字も知らなかったが、その言葉を話せた。

「私の異文化体験の原点はいつだったか」と振り返ってみると、その原点は1945年8月15日だった。その日は、全く対照的な新しい単語を覚えた日でもある。「敗戦」という聞いたことのない単語、そしてまた聞いたことのない「マンセイ(万歳という意味の韓国語)」という言葉。そして「解放」、「独立」。この四つの単語に出会った日が、まさに8月15日であった。

 この私の異文化体験は、民族や国籍を離れたところで受けたものであった。「自分は韓国人だから、韓国文化は祖国の文化だ」といえるのは、韓国で生まれ育ち、生きてきた人だけに言えることだろう。日本文化も同様であろう。

(2)韓国での体験
 その後、さらに私が異文化体験を実感したのは1964年であった。当時の韓国は、日韓修好条約反対の学生運動のさなかで、戒厳令がしかれていた。大学では、表門に兵隊が駐屯しており、教職員たちは裏門から出入りしていた。

 その時、ソウルと慶州で、「私は韓国人でも日本人でもない」という体験をすることになった。つまり「韓国語のうまい日本人」と見られたのである。当時の私は、背広も日本製で、しかも日本人と同じ身振りや動作が身についていた。ところが私は、日本人にしてはうまい韓国語を話すために、その韓国語が疑われたのである。

 慶州のある食堂で、アジュモニ(おばさん)が、「あなたはどうしてそんなに朝鮮語がうまいのか?」と言うのである。当時、日本から行くときには、「(韓国では)朝鮮語と言ってはいけない」と言われていたので、私は一生懸命に「韓国語」と言っていた。ところが、地方では朝鮮語という言葉をまだ使っていたのである。このことは、外からのニュースと現実とのギャップを実感させてくれた。

 アジュモニは、「あなたは日本人に発音できない韓国語の発音できる。また甘い汁を吸いたいのか?」と言うのである。私がうまい韓国語を話したために、とんでもない質問をぶつけらたわけである。

 そしてこのとき私に、次の二つのことが瞬時に脳裏に浮かんだ。一つは、日本人のためにも、私の正体を証さなければいけないということ。そしてもう一つは、私は何人でもないということを自分に問い返さなければならないということであった。そこで私は、自分のパスポートを見せた。おばさんは、本当に私を日本人だと思ったようだが、パスポートは韓国のものであった。タイミングが悪く、私にお湯を注ぎかけた時に見せたものだから、アジュモニはびっくりしてやかんごと落としてしまったほどであった。

 またソウルの故宮では、アイスクリーム屋さんが「あなたは絶対日本人だ」と言う。「私の韓国語が下手か」と聞いてみた。すると「いや下手じゃない」と言った。私の戸籍上の故郷は、釜山から2時間ほど行ったところだが、地方からソウルに上がっていった人の韓国語よりも標準語に近い韓国語を私が使っていたのである。そのため地方へ行けば、私の韓国語も結構うまい韓国語になるのだ。しかし、その話をしてもアイスクリーム屋は全く信用してくれない。「おれの勘は間違いない。こういう商売しているから大勢の人に接しているのでわかる。間違いない。賭けてもいいが、あんたは日本人だ」とまで言うのである。パスポートを見せてもこの勢いでは、却って「パスポートが偽物だ」と言うだろうと思い、笑いながら会話をした。

 さて、慶州で韓国の文化を見て感じたことを葉書に書いて、私は韓国の芸術院会員や、元老、あるいは国会議員といった人たちに出した。葉書の内容が韓国の新聞のコラムに載ったことがあった。私は、本国にいる人とは違った目で韓国の文化を見ていたのである。これで私の目もまんざらじゃないと思いながらも、一方で、私はあまり韓国文化を知らないという不安感もあったが、それでも徐々に自信を持ち始めるようになっていった。

(3)私の韓国文化論と在日同胞の役割
 以後、韓国文化論を早稲田大学などの学会誌に書くようになった。それは私の初めての仮説であったが、今では定説になっている。簡単に紹介すると、それは次のようなものである。

 マスク、仮面のことを韓国語で「タル」と言う。これは漢字で表現はできない。どうしてタルという言葉がうまれたかという絵解きである。タルには災いという意味があるが、もう一方に仮面という異なった意味がある。つまり神が災い(タル)を追い払うために、仮面を用いて邪鬼を払っているうちに、追い払っている方の道具である仮面をもタルと呼ぶようになった。だから両義性が生まれたのだという発想だった。これが評価され、私はますます二つの文化を持っていることに自信を持ち始めた。

 私は10年前、集中講義でソウルに行っている間、週末には韓国の地方各地を歩き、さまざまな資料をフィルムに収めた。そのように知的体験で祖国の文化を取得した。一方、私の日本文化は生活体験であった。こうしたことを隠さずに外に出すようになった。しかし、当時これは歓迎されなかった。韓国へ行けば「韓国人か日本人かはっきりしろ」と言われ、日本では「おまえは韓国人だろう」と言われて就職も差別される。このように両方からはじき飛ばされる人間だったのである。

 こうした人間の歩んできた中から日韓問題の将来をどう考えるか。両国が共生し、仲良くしてほしいと思う熱意、願望が最も強いのが、私のような二重構造の中に生きている人間だと思う。

2.歴史問題に関わる日本の課題

(1)韓国と中国のスタンスの違い
 日韓の間に横たわってきた「過去」の問題は、果たして清算できたのか。

 先般、江沢民主席が来日した折に、歴史問題が逆に浮かび上がったが、アジアと日本という構造から見ると、金大中大統領は日本の「歴史認識」について日本に下駄を預ける形でボールを投げた。一方中国は、「日本人は歴史認識をはっきりせよ」というボールを投げかけた。いまこの二つのボールが日本に投げかけられている。今までは、韓国も中国も日本に対しては強く出ていた。ところが、今回韓国は日本人の知性にゆだねる形をとった。

日本人が越えなければならない課題は、この二つなのである。そして、切り離して処理ができるのか、あるいは、もう終わったと言えるのか、という問題が残っていると考える。そして、今後歴史問題では、大きな問題が中国との間に起きると思う。今は経済的問題が表面にあるためにそれは表舞台に出てこないが、中国にある細菌弾処理問題の時に必ず大きな問題として登場すると思う。それは現在の日本の経済力をもってしても、大変な負担の金額がかかる問題である。すると今の日本の経済をマイナスに引きずっていく要因が起きたら、これは日本人の反中国感情に火を付けることになり、歴史認識と国民感情のどちらをはかりにかけてもこれは大きな問題だ。

 細菌弾のような喉元の骨は、韓日の間では現在は元従軍慰安婦の問題以外はないが、中国との間では起きている。だから中国は、韓国と同じようなボールを日本に投げかけるには問題が大きすぎるという認識があったのだろう。ところが、日本のマスメディアでもその細菌弾をひっくるめた今後の処理問題として、それについては出てこなかった。

 このたび小渕首相が韓国を訪問した時には、過去の話(歴史問題)は出なかったという。小渕首相の訪韓は、北朝鮮問題における日本国民への「安心料」のためだったのではないか。そして、そのためには韓国と日本が真の共生時代を築く必要があるが、今までネックだった歴史問題が出なくてほっとしたというわけだ。韓国は「あなた方が考えることですよ」と、ボールを投げたのに、小渕首相が訪韓した途端に歴史認識問題を話題に出せば、「やはり韓国は信用できない」というふうに日本の国民感情が出てしまう。いくら韓国の政治が民族感情に敏感であっても、そういうことにはならなかったのである。

(2)日の丸、君が代について
 「日の丸」問題に関する中国と韓国の反応とでは、中国の方がよりシビアだった。韓国の方は、なぜかマスメディアが静かだった。これが、金大中大統領の足を引っ張るなということなのか、あるいは未来に下駄を預けたという認識なのか、ここの所が一つ課題として残っている。

 私は「日の丸・君が代」問題を、次のように考えている。
 国家が歴然として存在しているのに国の旗、国の歌がないという方がおかしい。それを戦後54年間も黙って、歳月(とき)の経過にゆだねてきた、この文化のありようは、文化的にはなかなか理解できない。そして日本が自ら決めたことであれば、一つの主権国家のことであるから私としてはそれを尊重したい。しかし、国民的コンセンサスを図る必要がある。戦後54年間、曖昧にして、もう慣例となった、既成事実になったから法制化しようとすると、もう一回この問題は起きてくる。リアクションが必ず起きてくる。そのようにならないよう日本人は整理をしてほしい。それが日本人に与えられた課題である。

 日本国内の意見も、今割れている状況である。自らの国の旗と歌をきちんと論理的に整理ができない、というのが今の日本の姿であろう。それでよしと思っている人がいるのであろうか。善し悪しは別として、曖昧なニュートラルな舵取りを国民が容認していることも事実だろう。トラブルを起こすよりは、起こさない方が賢明だといって問題を先送りしてきたのである。そしてこのまま21世紀に入っては、なお日本の姿はよく見えてこない。いつ軍国主義になるともしれないという批判が、中国でも起きている。現実に、そう言われてしまう姿をそのまま維持するのだろうか。あるいはそういうことがやはり共生時代にマイナスだからきちんと「私たちには裏腹はないのだ」、ということを明快に分かるような作業を日本人がするのであろうか。これは日本人一人一人の問題意識にかかっている。

(3)経済至上主義への反省
 しかし、今の日本の体質から考えると、この問題をきちんと整理することはしないだろう。なぜか。私の基本的な考えの一つである「『豊かさのあとの本当の豊かさ』のために」というコメントが、『パンの耳』という雑誌に載っている(注1)。これは後で、「共生時代のキーワードは人権」という話を展開する意味でも少し紹介しておく。

 「あまりにも長い間、日本では『人権』を軽んじる時代が続きました。それが、ここへきて、子どもたちの『いじめ問題』をきっかけに、文部省レベルの問題として初めて『人権』が取りあげられるようになりました。どうしてこんなに『いじめ』が発生することになったのでしょう。その大きな理由の一つとして、私は、『どんなことでもお金が解決してくれる』という考えをあげたいと思います。私は、ずっと以前から、日本の未来のためには、経済的な発展はスローダウンしてもいいと主張してきました。お金ですべてが解決できるという発想は、子どもたちの『人を思いやる心』までなくしてしまいました。それを取り戻すためには、今までの倍以上の努力をしなければなりません。しかし、そのことについて、真剣に考えている市民がどれくらいいるでしょうか。その自覚を促すアクションが、一般社会の中から起きてくれることを私は願っています。

もう一つ大きな要因は、『日本人が深くものを考え、きちんと点検するということを怠った』ことです。戦後50年を振り返ってみた時、経済的な力を持ち得たことは確かに日本にとってラッキーなことでした。しかし、そのことについて、最も信用すべき政府機関、大企業、大銀行等ことごとくが、同じ構造で自己点検することを怠りました。それらが今大きなツケとして返ってきているのだと思います。何が正しいかを考える力、そして、何が正しいか正しくないかを判断したら、それを行動にうつす勇気、私はそれを一般社会の人々、とくに若者に期待しています」。

 以上が、私が今日、未来共生時代を築く上での日本へのメッセージである。その一つが今の日の丸、君が代にもつながると考えている。

(4)「敗戦」をどう受け止めるべきか
ドイツは第二次世界大戦の終わりを「敗戦」と言っている。日本でもはじめ「敗戦」と言う表現だった。それがいつの間にか「終戦」になった。「終戦」は、負けても勝っても「終戦」である。今日の日本の繁栄が悪かったという日本人に出会ったことはない。「戦争は負けて良かった。負けるのは悔しいけれども、負けて良かった。この社会のほうがずっと暮らしよいから」という日本人がほとんどだと思う。敗戦が今日の繁栄をもたらしたというならば、「敗戦」という原点は、決して恥にならないと思う。

 東京の焼け野原で、私も育った。バラック家で死んでいく日本人の姿を目の当たりに見てきた。そこから立ち上がった勇気と行動、それを自ら私たちの力であるとなぜ若者に教えようとしないのだろうか。「悪いこともしたけれども、いいこともしたんだ」というような抽象論を教えるよりは、はるかに生きがいを教えることにつながると私は信じて疑わない。なぜそれができないのか。それは日本人の多くの人々が、「お金が総てを解決してくれる」という幻想論にひきずられてきたことが、大きな要因ではなかったかと思う。

(5)自己点検文化の欠如
何れにしても、日本に自己点検を自らするという文化がなかったのである。そういう文化が今日もなお生き続けている、ということだ。

 「戦争で良いこともした」ということの是非、これを私は、精神分析学の岸田秀氏との対談で取り上げたことがある(注2)。その対談の中で、彼は「白村江の戦い」で日本がやられたことが遺恨、トラウマ、精神的障害として残ったという。神功皇后の朝鮮征伐(いわゆる三韓征伐、事実ではない)がある。この話は古事記には出てこないが、日本書紀には出ている。夫の仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后がその遺志を継いで朝鮮半島に攻め入ったという作り話なのである。この作り話は、白村江の敗戦ショックによって生まれたものである。

吉田松陰までがそれを引用して「アジアを攻めよう」ということになった。この千数百年の長い間、このトラウマを維持し続けたこととは何なのだろう。江戸の中期の本居宣長、その前の賀茂真淵あたりが本気でそのことを考えている。このような連続性に対し、岸田氏は「トラウマ」だと言うのである。私は、それにしては長すぎるトラウマだと言って笑った。

 そういう問題が、ことあるごとに韓国と日本の摩擦を生んできたことだけは事実である。征韓論も論拠がないことは、歴史的に示されている。しかし征韓論に値する行為があったと思うことによって、日本人自身が拠って立つベースを作ったとしたら、これはおかしなベースだと思う。もっと違ったベースに立って、今後の共生時代を築かなければいけない。もろいベースの上に自己の確立はしないほうが賢明であろう。

というのは、21世紀にもう一回揺り動かされることが起きるからである。今以上に韓国や中国が経済力やパワーをつけた時の、日本の姿を考えてみてほしい。日本はなぜ20世紀中にこの問題をクリアーしておかなかったんだろうかという言葉が必ず返ってくるだろう。一国の経済が50年間世界を制覇することは非常に難しいのに、日本人は経済的パワーの幻想を抱いたまま、国際社会の共生時代に向かおうとしているのであろうか。このことは大きな課題だと思う。

3.新しい関係構築に向けた提言

(1)両方向からの国際化
 「国際化」という言葉は、60年代に日本経済新聞が使ったのを、朝日新聞が70年代になって、より思想的な、哲学的な意味で使い出した言葉である。しかし、国際化とは「大きな規模になること」というのが、いまだに広辞苑に出てくる解説である。日本人が生き延びるために必要だったというのが、経済の国際化だった。その国際化、経済の国際化の論理を、世界に輸出できるだろうか。むしろ叩かれるであろう。現に米国によるバッシングが何度も起きているではないか。

 国際化という言葉を使うならば、それは2waysであるべきだ。外から見ても国際化、内からみても国際化でなければならない。こうした考えは日本では少数派であろう。私は「(日本人は)自己点検ができていない」ということを、言いたいのである。

 自己点検は難しい課題であろうか。日本人の資質をもってすれば、クリアーできる課題だと考える。日本人はそういう豊かな資質に恵まれている。なのになぜできないのか。そこがアジアと日本との信頼関係がなかなか構築できない大きな問題であると思っている。

(2)国公立大学初の外国人教授誕生の意味
 ところで私は1987年、日本の国公立大学で初めて外国人の専任教授になった。これはずいぶん遅すぎた対応である。それも国家がやったのではなく、個人と個人の関係から窓口が開いた。

静岡県立大学は、87年に単科大学を集め、さらに新しい学部を作って総合大学に衣替えした。その初代学長予定者が東大名誉教授の辻村明氏だった。辻村先生とは70年代、ユネスコから依頼されたプロジェクトで三年ほど一緒に仕事をしたことがあった。彼に「日本一の大学を作る夢を与えてもらったから、一緒にやらないか」と誘われたのである。実は当時私は、韓国の大学で、日本関係の大学院をつくるので来て欲しいという誘いを受けていたが、諒解を得てトライした。

 新設大学の教授になるには、文部省の教員資格審査を受けなければならない。もちろん日本人でも受けなければならない。日本人でもはねられることがあり、いくら辻村先生や静岡県知事が採用を約束しても、審査が通るかどうかは別問題である。文部省が私のキャリアをもっても、日本の教授の資格がないと言えば、日本の教授の質は世界的に高いことになる。落ちても合格しても面白い。“喧嘩”の相手としては面白いと思った。

 それでトライしたら、早々と第一次の審査で内諾が出た。学部長予定者が興奮して、私に電話をしてきたものだ。その時一番喜んでくれたのが、文部省ではなく、外務省であった。外務省は「金さん、これで外に向かって言えるよ。一人でもいるんだもんなあ」と。これを聞いて、非常に日本的な話だと感じた。文部省は苦虫をかみつぶしているわけだ。今では二桁台の外国人の教授達が生まれている。

 実は、この時に一番喜んでくれるかなと思ったのは、私たち在日の同胞たちだった。ところが彼らは、日本人の教授たちほど私を評価をしない、という現象があった。一生懸命に努力しても自分が出る場所を与えられてこなかったからであろう。そういう時に人間の心は同じ仲間でも応援団になるのではなく、ジェラシーの対象にしてしまう。これは精神文化的にありうることだ。少数派が少数派を差別することはやってはいけないことだが、これも実際には起こり得る。これも在日の一面の姿である。そしてこの教授就任については、日本の在日同胞よりは本国(韓国)が喜んでくれたのであった。

 こうみると在日とはいったい何なのかという問いが出てくると思う。私は、在日同胞社会とは盲腸のような存在ではないと言っている。日本だけを批判するのではなく、本国に対しても批判を向けてきた。

(3)「人間」を原点として行動する姿勢
 そうした経過を経て、私は民族や国家を超えたところの人間を原点にして発言し行動するようになった。静岡県立大学の教育公務員になった時に自分に言い聞かせた。私はマイノリティーだから、教授会の発言でのパワーゲームでは圧倒的に少数派である。でも、私は正しいと思うことは発言すると一貫して通してきた。そのためのリアクションは覚悟していたが、リアクションは実際起っている。

なぜそこまでするのかと問われれば、「君たちは、正しいと思ったら勇気を持って発言し行動しなさい。君たちは学生だから失敗が許される。そして同じ失敗を二度繰り返さないために、その勇気を起こしなさい。歳を取ると一回の失敗はかなりのダメージになる。若いうちに失敗は体験しなさい」と学生に語りつづけているからである。

 そのように言っている私が、自分に不利になったからといって、社会や教授会で発言をしなかったら良心の呵責で自立できなくなってしまう。だから私は学生に言っていることをそのまま実践している。その意味で学生に本音でぶつかって今日まできた。この姿勢は国に対しても個人に対しても同じスタンスである。

4.歴史問題解決への視点

(1)従軍慰安婦問題
次に、「平等である」という視座から、問題を考えてみたいと思う。一つは元従軍慰安婦の問題である。

私はその問題解決のモデルを作ろうということから櫻井よしこ氏と対談したのである(注3)。それは櫻井氏と私が個人的に親しいから、実現できたと言ってよい。

多少考え方が違っても信頼があれば人間同士討論できるのだというサンプル(見本)を、私たちがつくろうとしたのである。各界で非常に評価され、駐日韓国大使館の人たちに、日本人がこの本をプレゼントしたそうだ。「僕たちが知らない日韓問題がいっぱいだった」と領事、公使クラスがそう告白していたらしい。それが現実だろう。建前と実際にどれだけ学んでいるかというのは違う。知ったふりをしてテーブルについて大事な国家間の問題を議論している政治家はいくらでもいるだろう。これをなくせるかという問題は大きな課題である。

(2)日本人のメンタリティーの問題
 私の親しい友人が、日米問題で日本側の代表団の一員として米国側との議論の席に出たことがあった。日本側からは各省庁から局長クラスが出席したが、討論の場になってみると、米国側からのみぽんぽんと意見が出てくる。ところが日本側からは一言も発言がない。これでは日本のこけんにかかわるというわけで彼は仕方がなく発言したという。日本では部署が違うと、意見があっても越権行為になるとして、いっさい発言しない。だから自分の与えられたことだけしかしゃべらないし、到底日本の恥などとは考えない。これが日本の政府間の国際交流のありようである。

 韓国と日本の間のやり取りも同じである。韓国は、少し黙っていればいいのにということまで言ってしまう。日本は、もう一言言えばいいのに黙っている。このことは、アジア諸国と日本との場合もほとんど同じパターンである。

 私は、日本の若い世代に、次のように言ってきた。彼らは日韓問題で「植民地の問題が出て来ると何もいえなくなってしまう」と言うのである。そんな若者に「言いたいことはいいなさい。ただし言いたいことに関して自分なりに勉強し、自分なりにその整合性を考えなさい、その上で自分の発言をしなさい。歴史に拘束されることはない」と話してきた。「知らないでしゃべることはやめなさい。しゃべった瞬間、しっぺ返しが来たらもうギブアップだ。それはみっともないからやめなさい。勉強して議論は大いにしなさい。韓国批判もしなさい」というのである。

 私の弟子(日本人)が、韓国で博士課程を終えて韓国の専任講師になった。彼にも韓国に行ったらそうするように言っておいた。植民地時代の話になると、きまって日本人はだまってしまうので議論にならない。だから、韓国で「おまえはどのぐらい知っているんだ」と言えるくらいその歴史を学ぶことが、韓国と日本との共生時代を築くことの第一歩だと思う。その歴史的事実の整合性の前には、ギブアップするしかない。韓国人も「おれは勉強しなかった」と言って勉強してくれたら、本来のあるべき姿が見えてくると思う。

(3)すれ違うアジアと日本の見方
 アジア諸国と日本との間で、しばしばギャップが起きるのは、アジア諸国が日本に対して歴史的事実の有無を認めるのか、それとも認めないかと突きつけるのに対して、日本人はアジア諸国に歴史認識を示すのである。

 例えば、「あの当時、日本が生き延びるためには仕方なかった。これは国際法上違反でもないだろう」という。そのような議論はその次の段階なのである。まず、事実があったかなかったかという確認の作業をすべきなのである。加害者は被害者になれないし、被害者は加害者になれない。だから加害者側がなぜそうしたのか、被害者側がなぜそういう被害を受けたかということをすりあわせてほしい。そして当時の共通の歴史認識として共有できないものだろうか。

 この作業をせずに、一方は「おまえたちがやったんだ」と言い、一方は「やむを得なかった。でも悪いこともしたかもしれないがいいこともしたじゃないか」などと言っていたのでは議論にならない。感情論に終始することになってしまう。しばしば事実を突きつけると感情論を誘発する。韓国は事実を確認しないで感情論が先行してしまこともある。それは、あまりにも日本人が知らないから。

(4)近現代史を正確に理解すること
 金泳三前大統領の時に、両国で「歴史認識」のプロジェクトチームがスタートした。日本側代表は、須之部量三氏。韓国側代表には、ソウル大学の総長を務めた高先生がなる予定だったけれども、健康上の理由で辞退した。実際は、健康上の理由ではなかった。歴史学者が一方のチーフで、もう一方は外交官がチーフという場に、歴史学者が出ても話にならないからであった。このチーフの組み合わせで歴史問題が議論できるとしたら神業である。だから私は、このプロジェクトは不毛だと言ってきた。須之部氏にも直接このことを言った。

1910年前後の重要な時期、日本の脱亜論が出る時代、1880年代から1945年ぐらいまでをカバーして議論しなければならないテーブルに、戦後問題の国際関係論を専門としている学者が出ても何の話ができるのだろうか。仲良くしようという話ならいくらでもできる。そうではなくてネックになっている問題を頭突きをして血を出してもいいから議論をするという国際会議はあってしかるべきだ。仲良くするためのポーズでスタートすれば、政権が変われば元の状態に戻ってしまう。今までこの繰り返しばかりやってきたではないか。

 では、その対案はあるかと問われたときに、東アジアの5か国が共同のテーブルにつくことはできるだろうという話をしている。日清戦争は日本の領土で起きたのではなく、韓国で起きている。日露戦争もロシアで起きていない。韓国と中国の旅順を含めたところで起きている。だから日露戦争、日清戦争は韓国が全部からんでいるのである。これを知っている日本人がどれだけいるだろうか。どこで戦ったのというと、みんな首を傾げてしまう。そのような状態では日韓の問題を語れるはずがない。まずは日韓を離れたところでもいいから、日本の歴史をきちんとすべきであろう。

 例えば、日露戦争に勝ったのに損害賠償が出ないので、日本の中から国民蜂起が出たほどであったが、このことを知っている日本人がどれだけいるだろうか。賠償も出ないのに、日本は強い国だと仕立てて、幻想をつくったではないか。こうした事実は、日本の未来を築く若人のためにきちんと教えるべき課題だと思う。

 韓国は、なぜ植民地になったかという自己反省をしきりにしている。自分の国家の力を弱めるような議論ばかりしていて、国際情勢はほとんど中国から情報を仕入れていて、自ら情報をとろうとしない。それで国家が維持できるとしたらおかしい。私はそうした内容をずいぶん前から主張していた。

 韓国がどこまで自己反省できているか。その実例を挙げてみよう。日本では国民学校はなくなったが、韓国にはつい数年前まで国民学校があった。韓国では、韓国民と国民学校を重ねたのである。国民学校は皇国臣民をつくる学校である。その経緯、事実を韓国政府が知らなかった。有志たちの運動で国民学校がなくなったが、私もその発起人に名をつらねた。ガクランも日本ではなくなっていたが、韓国では着ていたのである。まだ着ているところもある。皇国史観を批判しながら、皇国史観を温存してきた建物をそのまま使っているようなものだ。これらは、自ら点検が足りない例であろう。

5.在日同胞問題と人権

(1)国際化とは違いを認め合うこと
 日本の国際化について、社会党の「社会新報」に対談で語ったことがある(注4)。社会党の機関紙に韓国系の人間が登場したのは多分私がはじめてだろう。「韓国」ときちんと出すことを条件に出たのである。そこでは「日本の国際化と大東亜共栄圏の思想とどう違うのか」と質問した。それに対して、内海愛子さんが紙上で「経済的にはすでにやっております」とコメントしていた。そういう認識が日本の中にあるのだろうか。それから「経済的侵略」という言葉も後にずいぶん出るようになった。

 韓国でもずいぶん出てきたのだが、韓国では保税加工という時代があった。日本の製品を加工するのだが、トラブルが絶えなかった。文化が違うという認識が足りないのである。中国でもそうだった。漢字文化圏、儒教文化圏を共有している国だから、だいたい同じように考えるのだが、実際仕事をしてみるとギャップが生じる。

 私はソウルから妻を迎えたが、当初10年間ぐらいは「国際結婚」だった。「喧嘩をする時は韓国語でしよう」と私は言った。彼女は韓国語をそのまま翻訳した言葉の日本語をしゃべる。それは日本で使う意味とは違うことがある。違うと言っても夫のドグマだと思って喧嘩になってしまう。だから韓国語で喧嘩をしようと言っていたのだが、それを妻が理解するまで10年かかったのである。それほど文化が違う。

 だから私は比較文化とは、「ルーツが共通していることを発見するのではなくて、違いを発見することにある」と考えている。違いというのは独創性である。違いは悪いものだという意味ではない。違いを認め合うことが国際化なのである。それが共生時代であろう。

 同じだと思っていたのが、実は違ったと言って喧嘩するのは、笑い話である。しかし、日本とアジアの関係をみると、少なくとも中国、韓国、北朝鮮などの関係は、それに近いといえる。

 北朝鮮は、今の韓国をかつての韓国の姿と同じにみている。同じ民族であっても、今の韓国の発想や文化を北朝鮮の人は理解できない。同じ言葉を使っていても、文化的には異文化時代に入りつつある。それがしばしば政治的な問題で起きてきている。こういう時代が長く続くと一つの民族が二つの民族に別れてしまう恐れがある。

 こういう中で人間として平等であることを認知しあえるかという問題が問われてくる。それができてくれば、元従軍慰安婦問題ももっとスムーズな形で接点が生まれただろう。あの時、日本では「金ねだりだ」という議論がずいぶんあった。韓国は日本より大人の対応をしようというわけで、生活費は韓国が払うということにした。すると、金目当てだという議論が日本から消えた。金が絡むと、日本は経済的にアジアの国を見下す形になってしまう。だから対話ができないのである。

 被爆者問題がある。国籍が違うために、韓国では被爆の治療もできず、日本は韓国人の被爆者を見殺しにした経緯がある。私はかねてから「No More Hiroshima」がなぜ「No More War」に発展しないのか。その時はじめて世界にこだまするのだと主張してきた。50周年の時に広島・長崎の市長が、そのようなコメントをして世界にこだましたではないか。被爆国日本を訴えるなら反戦を言うべきである。そして日本は戦争を仕掛けた国のひとつであるから、その自己点検もすべきである。

(2)在日同胞の地方参政権問題
 在日韓国人の地方参政権問題がある。その中で、相互主義の議論がでてきた。しかし、相互主義は同じ環境があって成り立つものであるが、韓国に在韓日本人社会はない。強制的に韓国に連れていかれた日本人はいないし、韓国は日本を植民地にしたこともないから、その集団もエリアもない。それで相互主義が言えるのだろうか。なのに日本の代表的な政治家が平然と相互主義を言うのである。あまりにも知らな過ぎる。知っていて言うなら確信犯だが、知らないで言うのは恥ずかしいことだ。日本のためには、言わない方がベストであろう。

 地方参政権問題は、1945年12月に書かれた清瀬一郎氏のメモに出てきて、裁判所の証拠書類にも提示されたことがあった。当時天皇制の維持問題が話題になり、朝鮮人や台湾人に選挙権を与えると天皇制を維持することが難しくなるほど国会に進出する可能性があったために、一時選挙権を停止したというメモである。それまで日本人として(在日同胞にも)与えられていた選挙権が停止された。まだ韓国も北朝鮮も成立していない時である(両国はその3年後樹立した)。日本人として国籍があったのに、何も言わずに選挙権を奪ったのである。それを今日まで整理していない。これは日本の国内法の問題として整理すべき問題である。

 私達のような在日韓国・朝鮮人同胞社会の存在は、世界の中でも日本だけである。中国にいる朝鮮族は、全員が中国国籍である。ロシアにいる人も全員がロシア国籍、あるいはソ連の分裂でいくつかの国の国籍に別れた。米国では、永住権と市民権とに分かれる。永住権と市民権の差はあまり大きくない。市民権を放棄すれば、簡単に元の国籍に簡単に戻れる。

 ところが日本の場合は、国籍を取得すると国籍法によって簡単には変えられなくなる。裁判で国籍放棄が認められなければ変えることはできない。在日は国籍を捨てず、大韓民国、あるいは北朝鮮の国籍のままでいる人が多い。これは世界でも珍しい。

 これは、私たちが好むとか好まないとかの問題ではなく、不幸な歴史が作りだした産物である。歴史が作りだしたものだから日韓両政府は、それをきちんと整理する必要がある。また、在日はそれを要求する権利がある。国家利権のためにこれだけ大きな集団が犠牲になることはない。これが犠牲になるとしたら、明かに人権侵害といえる。

 こうした中で取るべき道とは何か。信頼関係の構築だろう。地域社会にどれだけ貢献するかが定住している人たちの生き方だと思う。

私は日本の地域社会の活性化のために、ささやかではあるが、全国レベルで歩いている。それは在日のためではなく、日本社会がより豊かになることをテーマにして活動したいという思いから行動している。住んでいる地域、社会が豊かになってほしくないと思う人は誰もいないと思う。なりたくなければ他所の地域に移動していく。在日も日本が嫌になれば他に移動していく。

しかし、日本に生まれ育った二世以降の世代にとっては、フィーリングが日本に合っている。生活するにも日本にいる方が楽だ。こうした文化のバックグランドがあって、永住権をもっている在日に地方参政挙権を与えたらどうかと主張しているのである。同時に、選挙権が与えられた後に、大きな課題であると私は説いている。日本人社会から「あの人たちには選挙権を与えない方がよかった」と言われないように、公平な立場で公正に選挙権を行使することを、今から準備しようということである。

 組織のために使ってしまうと組織叩きに会う。選挙は当選するか落選するか、たたかいみたいなものだが、そうした仕組みをよく知らずに、在日から選挙違反の逮捕者が出たりしたのでは大変だ。そうならないための作業が必要だと思っている。

(3)人権問題と「情」の文化
 これから日韓の共生時代に大きな問題が起こるとすれば、人権問題にかかわることだろうと考える。日本で人権といえば、すぐ同和問題が思い出されるが、ここでいう人権は一人の人間としての人権である。米国は人権を尊重する国だが、人権が先行するあまり、家族崩壊が進み、いま社会問題になっている。日本では今、学校崩壊という段階だ。次に日本に渡ってくるのは家族崩壊である。すでにそういう現象はいろいろな形で姿を現わしている。

 世界人権宣言の中には家族を大事にするということが条文の中に入っている。家族は人権を育むために、すこやかな社会をつくるために大事だとうたわれている。この家族崩壊は韓国より日本の方が先行している。この現象を、玄海灘を渡らせたくないというわけで、韓国は日本の大衆文化を拒否してきた。家族崩壊を韓国ではどう捉えているかというと、青少年の心が乱れること、また夫婦が別れることである。この家族崩壊と人権問題をどうクリアしていくかという問題が起きてくる。

 家族崩壊の原因は、資本主義と社会主義、そして宗教イデオロギー、この三つが大きな要因だと考えられている。これらの要因が生産的にからみあうか、摩擦を起こすか、これは大きな問題だ。日本にはこの三つともない。社会主義も資本主義もあるのかどうかあやふやな状況であり、宗教も90%近くの人は信仰はもっていても「宗教」は持っていない。教会などを基点として道徳が問われている欧米社会とは全く状況が違う。

 韓国は日本よりは宗教が普及している。キリスト教と仏教で半数以上が占められる。こうした状況も韓国と日本は違う。

 そうした中で何が共通の話題になっていくのだろうか。昨年、欧州を回っている時に、ユネスコに勤務している親しい人の縁で、ユネスコに呼ばれて質問されたことがある。私が「人権文化論」を研究していることに興味をもち、「日本の人権思想は欧米から入ったのか?」と質問されたので、それで「そうだ」と答えると「それでは、(人権思想が)欧米から入る前は、どういう人間関係を形成していたのか?」と問うのである。

 日本だけではなく、漢字文化圏、儒教文化圏に共通しているものとして、「情」がある。読み方は違っても、文字一つで中国でも韓国でも日本でも通じ合う。夫婦になれば、夫婦の情がうまれる。子供が生まれると、親子の情が生まれる。兄弟が生まれると、兄弟の情が生まれる。そして家族の情がある。友人なら友情がある。地域なら「おらが村」「おらが邦(くに)」といった情がある。こうした情が人間と人間の関係をスムーズにさせる「関節」の役割を果たしてきた。ところが、情は古くさいものだと、戦後民主主義が押しやってしまった。これを日本では点検しなかった。

今、一番「情」が残っているのは韓国、あるいは中国ではないか。日本では情を探したくともなくなってきた。「情」の代わりに「人権」が入ってきたが、なじみのない人権だから、ぎくしゃくしていて、スムーズに動いていないのである。ただし、情の文化には人権思想でいう平等性に欠けている面がある。たとえば、親子の情というと縦軸の情では、親が優先してしまう。兄弟なら長男が優先する。縦軸からみると情には弊害があった。

 例えば、かつての日本では、親が年貢が払えない時、娘が遊廓に身を売って払うといったことが行われていた。年季奉公を終えた娘が帰ってきても親孝行をしたというわけで、ちゃんと結婚もできた。しかし、韓国ではそれは親不孝として受け入れられなかった。同じようだが違いがある。ともかく、情の文化はいいところと悪いところがあり、その点検ができないまま今日に至った。今後、その点検が必要だろう。

日本だけではなく、文化を形成した国には人間関係をスムーズにするための「文化」があったはずである。その文化を人権思想という平等性の名の下に再発見をして、その文化になじんだ形で人権思想を普及していくという方法を考えるべきではないか――という考え方だ。

 また、ユネスコは次のように言っていた。「国連やユネスコは、今まで各民族や国に人権に関する国際法の批准を進めてきて、それが一通り終わった。これからどう普及させていくかが課題である。ここに文化が絡んでくる。私は新しい大学でこの4月から「人権文化論」の講座を開くが、こうした試みの中から、文化的に共通点の多い韓国と日本、また中国とも共生時代を築いていくことが可能ではないかと考えている。
(1999年3月23日発表)