女性と家庭の視点から見た高等教育の展望

韓国・ソンムン大学副総長 徐 英姫

 

1.女性

(1)女性の地位
 最近まで、韓国は外国から大きな影響を受けることなく、その伝統や文化を保つことができた。しかしながら状況は変化している。今日の韓国は1960年代のアメリカと似ているとも言える。すなわち、韓国は、急速に技術化・情報化される一方で、同時に多くの伝統を失いつつある。

 例えば両親が、時には祖父母も含め長男の家族と一緒に生活する複合世代家庭を維持するのが韓国の伝統習慣であった。しかし、韓国国立統計局は次のような統計を挙げている。

 長男家族と生活をともにする年老いた親の割合は、1994年で36%であったものが、98年10月には僅か31%となった。その代わりに、親たちは扶養する能力が最も高い子供と生活しているか、自分たちだけで生活している。同じ調査によると、全体の46%の人々が、親は長男ではなく最も扶養能力の高い子供と暮らすべきだと回答した。(注1)

 韓国社会における女性の役割に関して、かつて女性の第一の責任は結婚して家系存続のために男子を出産することだとされていた。しかし今日では以下のような状況である。

 29%の女性が、「結婚は一つの選択肢であり、職業は絶対必要である」と信じており、男性の18%も同様の回答をしている。この調査の対象となった人々の43%が独身者であった。(注2)

(2)変貌する社会における女性の役割
 東洋は西洋に遅れをとっているかのようであるが、21世紀に近づくにつれ、東洋も急速に変化してきている。歴史的に見ると、人類社会は常に男女の役割分担によって維持されてきた。すなわち、男性は家庭の外で働き、女性は育児と家事を担当してきた。これ自体は悪いことではないが、このような男女の役割に対する固定的な態度は改める必要がある。家事というものがまるで楽な仕事であるかのように、そして女性が「単なる主婦」と呼ばれるのをしばしば耳にする。グローバル化社会において女性の役割というものが急速に変化する一方で、女性に対する態度は同じスピードで変化しているわけではない。働く女性であっても、夫の協力をほとんど受けることなく家事をこなすよう期待されているのである。

 家事の分担についてアンケートで聞いてみると、「妻の仕事だ」とするものが44%、「夫は協力はするが、主として妻の責任だ」が47%、そして「平等に分担している」と回答したのはわずかに6%であった。(注3)

 家事と育児の責任が夫婦間で分担されていない場合、夫妻間に葛藤が生じる。その結果、両者は家庭の外に満足感と尊重心を求め、そして家庭の崩壊へとつながっていく。これは特に離婚率が62%に達している米国で見られる現象であるが、ここ韓国においても同じような傾向が現れ始めている。

(3)21世紀における女性
 私は21世紀における女性の役割の最大の変化は、女性の地位に関するものというより、男女間の態度の肯定的な変化の中から起こると考えている。この変化が最初に見られる場は、家庭である。他人に対する子供の態度に影響を与えるのは主に母親である。仮に男児が、母親が父親によって虐待されるのを目撃すれば、彼は女性に対する虐待が容認され得るものだと理解する。もし女児が同様の出来事に直面すれば、彼女は人生において自分は将来の配偶者や他の男性から虐待され支配されるのだと理解する。

 しかし、もし夫と妻の関係がお互いへの愛と尊敬を表わすものであれば、子供たちは将来の配偶者を愛し尊敬することを学ぶであろう。率直に言って、この態度の変化のイニシアティブは女性にかかっていると私は考えている。女性が夫に反抗すべきだという意味ではない。このような態度の変化は、愛と尊敬に基づくものでなければならない。しかし、もし女性が先ず自分自身を価値視しなければこのような変化は起こり得ないし、また女性自身は同性に対する態度を改める必要がある。

 我々は人間の体と心、精神が、その内面や周囲の世界に神性(崇高さ)を見出せるような世界観を必要としている。我々は自分自身の中に神性を発見し、人類と宇宙の中に神性を感じる必要がある。女性が自分の人生をそのように見つめる時、女性は変貌し続ける社会の触媒となり、21世紀における真の女性となることができるであろう。

2.高等教育

 世界の現行教育制度が危機的状態にあることは否定できない。「教育の理想」は見失われている。それに加えて、学校運営のあり方に関する明確な方向性の欠如、学校と社会の溝、教師や生徒の情熱の喪失、近年の教育水準の低下など、さまざまな問題が起きている。

 今日の学校における諸問題は、社会全体に原因がある。つまりそれらは社会全体が直面している問題を反映していると見ることができる。それゆえ教育者は、社会に対して関心を持たなければならない。社会問題がやがて学校の問題となるとすれば、我々は周囲で起こっていることを決して無視すべきではない。例えば「セキュリティー・オン・キャンパス」は次のように報告している。

 米国において18〜25歳が最も犯罪に関わりやすい年齢層であることを考慮すれば、大学が犯罪活動の場所となっている事実は驚くべきことではない。毎年何十人もの学生が大学構内で殺害され、アルコールや薬物に関連した事件で死亡し、何千人もの学生が大学構内におけるレイプ、暴行、強盗、窃盗などの被害にあっている。(注4)

 今日高等教育は、社会との関連の中でその制度上の問題と取り組まなければならない。そして社会のあらゆる分野において、諸問題解決への取り組みが求められている。従って、家庭は社会の基礎であるために、家庭倫理の刷新とその社会へ応用(ここには教育も含まれる)が必要とされている。

(1)社会における高等教育の役割
 社会が教育に影響を及ぼすとともに、教育も又社会の形成に関与している。この教育の社会への影響は、教育制度の根源にある価値観次第で、有益にも有害にもなり得る。またそれは教育が社会の諸問題に対する解決の核心となる可能性を持ち、またそうあるべきである。その反面、近年教育が社会の問題を生み出してきたとも言えるのだ。

大学は若者の教育に対して責任がある。しかしこの若者たちを彼らの生活や勉学の面から切り離して考えることはできない。彼らも将来は子を持つ親となり、教師となるからである。彼らが大学で学ぶことは、将来の指導者へと受け継がれる。従って道徳的価値観に基づく高等教育が、社会全体に影響を与える極めて現実的な要因となり得ることは明白である。

(2)高等教育における倫理観の必要性
歴史的に世界のどの国やどの文化をみても、教育は文化を世代から世代へと伝達するための手段であった。この伝達のなかみは、国や文化によって異なるが、各々の価値観、伝統、その他全ての文化的システムを維持する効果的な手段であった。しかし過去数十年の間に、このような文化伝達のシステムが崩壊の危機を迎えるようになった。

 今日、世界の教育制度は深刻な問題を抱えている。その問題の深刻さは、国によって程度差はあるものの、それを完全に克服した国は一つもない。そしてすべての国の教育制度が崩壊するまで、より深刻な問題が増大し続けるということがきわめて現実的に懸念されている。

 外国の文化や思想の影響を免れ得る国はない。如何なる国家や文化も、我々が直面している教育問題を単独で解決することはできない。既存の文化を超越し抱擁するという理想に基づく、新しい教育理論と教育哲学が必要とされている。

 我々は地球村(Global Village)に生きているといわれるが、それは何を意味するのか?この世界は、理性と情の統一された真に一つの世界となっているだろうか?明らかにそうではない。しかし私はそのような世界を創造することが可能であり、必要であると信じている。そのために個々の文化を超越する文化が必要である。すなわち新世界文化である。また我々にはその世界文化に基づく教育制度が必要であり、その制度とは個々の文化の価値観や伝統を伝達するだけではなく、普遍的価値観と文化を伝達する教育制度である。

 価値観は社会の中で常に教えられるが、どの価値観が教えられるべきかについてはほとんど合意がなされていない。学校で価値観を教えるということは不可能のように思われるが、それは避けることのできない仕事であり、絶対的に必要なことでもある。我々は言葉だけでなく、行動と生活の在り方によって価値観を教えている。それゆえ、「教えて」いない時であっても、価値観を伝えているのである。

 これは高等教育においても倫理、道徳、規範を無視できないということを意味する。我々は行動規範を確立して学生に教え、それに従うよう促し、もしそのようにできなければ、学生が自分の行動に責任を持つようにさせなければならない。このようにすれば大学は社会全体の安寧に寄与できる若者を創り出すことができる。ソンムン大学の創設者であるムン・ソンミョン師は1978年に次のように述べている。

 大学・大学院における高等教育の貢献度は、学者や知識人、技術者、専門家の輩出という側面だけでなく、善なる人格を持つ成熟した人物を創造するという価値観があるかどうかという点において測られなくてはならない。(注5)

(3)高等教育の未来
 前述のように、社会の基礎は家庭である。教育の出発点は家庭にあり、両親は最初の教師となる。子供の教育において最も大きな責任を担うのが親である。

 しかし学校教育もまた、子育ての一形態と見ることができる。故に教育とは、愛の実践であり、無条件の愛に基づくべきである。従って初等教育から高等教育までの全ての教育課程は、知性だけではなく、愛情に根差した個人の成長と発達の場なのである。

 このように教育を考えれば、家庭は教育のモデルとなる。教育の未来を考えるならば、家庭の単位だけ考えればよい。すなわち、学校管理者と教師は親の立場であり、年長の学生たちは兄や姉、年下の学生たちは弟や妹のような立場である。

 指導者は親の愛をもって行政を司るべきだという点で、社会もまた家庭の拡大と見ることができる。教師たちは社会の一員として、行政府より教育の権限を賦与され、親の役割を受け継ぐ。さらに社会指導者は親の立場を代理するので、教師は指導者に対しても、親に対しても責任がある。こうして親の愛は教育制度の主軸となるのである。

3.家庭

 家庭は、あらゆる文化と社会の基礎単位である。家庭は、あらゆる文化と社会の未来、ひいては世界の未来にとっても、不可欠の要素である。人間の生存そのものに必要なノウハウを学ぶ場が、まさに家庭なのであり、自分自身が育てられ、また人を育てることを学ぶ場もまた家庭なのである。「第三者」との社会的接触を初めて体験し、「社会化」のための基礎的な方法を学び始める場が、また家庭である。そして変革を学ぶ場も、家庭なのである。

 しかし、今日の家庭は、かつての家庭と同じではないし、韓国の家庭は西洋の家庭と同じではない。類似点は存在するが、相違点もある。変貌する社会に各家庭が順応していく中で、家庭の一人一人も変化し、周囲の世界に適応することを学んでいく。このような変化の行為の中にこそ、未来への希望を見出すことができる。しかしそれは単純な課題ではない。以下に、識者のことばを引用しよう。

 人間は孤島ではない。その存在そのものが他者および自然との相互作用に基づいている。それ故、急速に変化し、複雑な、そしてしばしば逆説的な今日の世界との関連の中で、数々の難題に取り組んでいかなければならないのである。(注6)

(1)今日の世界における家庭の危機
 現代の家庭は危機に瀕している。「故郷を追われた人々の総数は、現在5300万人にのぼる。地球上の115人に1人が脱出を余儀なくされたことになる」(注7)。この事実や他の要因により、今日世界の子供たちの教育に多くの支障を来している。自分の名前が書けないほど読み書きができない人々が10億人近くいると見積もられている。1億3000万人以上の学齢に達している子供たちが基本的な教育を受けることができないまま成長し、何百万人もの子供たちが低水準の学校に入学している。(注8)これが将来の家庭に影響を及ぼすことは必至である。

 先進諸国においてもホームレス、児童虐待や育児放棄、家庭内暴力、10代の妊娠、中毒や薬物濫用、根本的な家庭構造の変化などの諸問題によって、家庭崩壊は警戒を要する域に達している。

 これらは貧困層の人々に限った問題ではない。こうした問題のほとんどは全ての階層に及び、最も経済的に安定した家庭であっても収入の喪失によって数週間でホームレスとなりかねない。

(2)社会における家庭概念の転換
 社会の実質的な変化をもたらすため、先ず我々は価値観と概念を転換しなければならない。つまり我々の家庭に対する見方や教育に対する考え方を改めるということである。ある事柄に関する概念を変えるということは、発展の過程における重要な一段階である。例えば、太陽が地球の周りを回ると信じられていた時代があった。この概念が変化し、地球が太陽の周りを回ると理解されるようになった時、人間は太陽系に対して異なる見方を始めた。

 21世紀に必要とされているのは家庭と教育の概念の転換であり、教育は子育ての一形態と見るべきである。つまり全ての教育は親または親の立場に立つ人物によってなされるということである。また学校は、家庭のような環境として機能すべきである。家庭という概念が学校を包むまでに拡大され、学校は訓練のみならず養育の場となる。このように世界というものを、さまざまな発展形態の「家庭」の集合体として考える必要がある。

 この概念を広げるため、人が最初に経験する「家庭」である子宮について考えてみよう。子宮の中では、二つのことが起こる。先ず、子宮の中では養育(nurturing)が生命の重要な側面である。養育は生命そのものを維持し、発達や成長は存在にとって二次的なものである。次に、出生によって子宮を離れ、別の環境へと入ることになる。

 家庭は最も重要な愛の学校である。子供は純粋な愛の教育を通して愛する能力を発達させる。この純粋な愛は家庭において育まれる。人は家庭において四種類の愛を学ぶ。すなわち、子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛である。愛は子供の個性形成の礎石となるのである。本物の愛であれば、無条件に与え許すなどの特性を発揮する。それは不変であり、永遠である。本物の愛は善なる人格を創り出す。反対に偽りの愛は自己中心的であり、変化し、長続きしない。また善なる人格を創り出さない。

(3)21世紀における家庭の位置
 人が産まれる以前には準備期間(胎中期間)があるが、それは新たな人生(地上の生)を迎え、最初の段階の「家庭」に入るための準備である。この準備は、基本的に父母の責任である。それ故、子育ては養育と訓練の両方の側面を含む。養育は生命を保ち発達させるために必要であり、訓練は個人を次の段階の「家庭」に入るための準備として必要なのである。適切な訓練なくしては、次の段階の「家庭」は本来的に機能することができない。

 子供が学校へ通う年齢に達すると、新たな「出生」が起こる。子供は家族との親密な関係を離れ、新しい段階としての「家庭」である学校で冒険し始める。ある意味で、子供は学校という環境に産まれるといえる。学校は家庭をモデルとして模倣すべきである。つまり学校システムの中に、家庭の拡大形態としての親の立場に立つ者、兄弟などが存在すべきである。それにより子育ての有する二つの責任、つまり養育と訓練が、学校という環境の中で実現されることになる。

 さらに、学校は肉親の家族から地域社会全般への移行期として見ることができる。学校はその中に家庭という側面をもつべきであるが、同時に地域社会という側面も必要である。

 子供が可能な限り最高の教育レベルに到達すれば、彼らは地域社会において貢献し必要とされる社会の一員として生活する準備が完了する。ただしここで教育が終了する訳ではない。大学の卒業は、次のレベルの「家庭」である世の中そのものへ再び産まれることを意味する。地球上での教育は、このように「家庭」から「家庭」への生涯をかけた移行の過程であり、それは肉体を持つ生活の終わりを迎えて、最後の卒業をするまで継続する。

 つまり世界市民は、社会の中においても親のような存在、兄弟など、家族の拡大形態を持っているのである。指導者は親の役割を果たし、同僚は兄弟の立場であり、この世の中そのものが我々の家族の拡大形態なのである。歴史における今この時点で我々は現在の世界しか想像することができないが、しかし私はそれが21世紀の世界だと信じる。

4.結論

 女性として、特に高等教育に従事する女性として、我々は社会的概念の転換と新世界の実現に必要な変革を始めることができる特別な立場に立っている。新しいアイディアは伝統的に大学の中から生まれ育ってきたし、将来の指導者や将来の親たちが教育を受けるのも大学である。

 我々はソンムン大学において純潔学部を創設し、この創造の過程をスタートさせた。世界がますます「不純(impure)」になる中で、「純潔(purity)」という言葉は新しい意義を持つ。世紀末の今日、我々が目の当たりにする退廃や、性や暴力が蔓延する文化を根絶しなければならない。それが純潔運動の目的であり、新千年紀の教育のねらいである。私は時と共に、この運動がより重要な意味を持つと固く信じている。それゆえ純潔に関する学術的環境を創造する必要がある。学生は、純潔教育と同時に伝統的知識・専門教育の両方を受けるべきである。

 韓国では、そのような動きが既に始まっている。「純潔」に関する教育課程は、全国の小・中・高等学校で開講されている。ソンムン大学では、体系的に倫理・道徳を教育・研究する学部レベルのプログラムを設置した。それでは「純潔学部」とは、何であり、その目的は何か?

 先ず我々は、知識だけでなく、しっかりした倫理的・道徳的価値観を備えた若者の教育こそが、歴史における今この時、家庭や社会、そして世界平和の実現にとって極めて重要であると考える。純潔の価値観と道徳的な家庭生活を基礎とする倫理と愛を中心とした社会を創造するために、倫理的な価値体系が確立されるべきである。汚れのない個人の生活と汚れのない家庭生活は、純潔の社会運動の実践によって達成されるであろう。

 さらに純潔の思想は、純潔研究の理論や方法論、カリキュラムなどを開発することによって高等教育や学術分野においても貢献するであろう。それではこの純潔運動はどのような方向を目指すべきか?

 第一に、我々は家庭、結婚、社会における本来の性の在り方を理解する必要がある。純潔運動は、性と純潔の本来の価値の理解と実践のために努力している。第二に、本来の性と純潔の価値を実践するために、精神と肉体の純粋さが保たれ、それによって道徳的に健全な家庭と社会が実現されなければならない。第三に、もし我々が望まない性的問題を克服しようとするなら、人格教育と個人の道徳教育が極めて重要である。第四に、個人の生活や家庭生活における性的な過ちを避けなければならない。これは婚前の性に関する自己抑制および結婚後の配偶者や家族に対する忠節を意味する。

 そのためには概念の転換、すなわち我々が生きている世界や将来の展望に関する概念の根本的な転換が必要である。しかし、もし世界の女性大学長たちが自己の持つ概念を変えることができれば、教授や学生たちもそれに続き、それによって世界の家庭が変わるに違いない。思想を変えるべき必要があるのは、先ず我々自身である。それは精神的、政治的、経済的、社会的な変化である。それにより我々は、自己の生涯において真に変革の触媒となることができる。これが21世紀に向けた我々の課題である。

(1999年6月28日〜7月1日、韓国・ソウルで開催された「世界大学女性学長会議」にて発表)

注1 1999年5月14日。アリランテレビ報告。韓国国立統計局による1998年10月現在の統計。
注2 同。
注3 同。
注4 1997年。ベンジャミン・F・クレイ、S.ダニエル・カーター(セキュリティー・オン・キャンパス社)。「大学生のための大学構内犯罪情報」。www.soconline.org ミミックス・プレス。
注5 1978年6月。ムン・ソンミョン。“卒業式式辞”「コーナーストーン」第2巻/第6、5号。統一神学校。
注6 1999年4月15日。Yb Dato’ Sri Mohd Najib Tun Razak。「講演文」2ページ。「純潔と真の家庭:世界平和への和解」に関する国際会議。マレーシア/クアラルンプール。
注7 同。
注8 同。2〜3ページ。