宇宙意志の追求としての芸術

摂南大学教授 渡辺 久義

 

1.芸術不毛の時代を生み出した原因

 もし我々が次世紀において新しい文化を創造しなければならないとしたら、芸術にはどのような位置を与えたらよいであろうか、またどのようなものになすべきであろうか。このような問題について考察するのは、我々自身をどう作り替えるかという議論なしにはむつかしいことである。この論文で私がめざすのは、芸術について私の理想像を述べることでも、未来の芸術について考察をめぐらすことでもなく、我々がよい芸術を産み出すために我々に何が起こらなければならないか、よい芸術の前提条件とは何か、それが満たされたときには芸術はどうなるか、といったことについての考察である。

 芸術は、栄えるにしても滅びるにしても、その土台に依っている。そしてその土台は、一般の人々の精神構造によって決定される。我々の世紀において芸術は栄えただろうか。私はそれについて判定を下すつもりはない。ただこれだけのことは言えるだろう。我々の時代は、芸術にとっては全く不利な時代であったということ。その多産性にもかかわらず、芸術はそれが本来果たすべき機能を果たさず、芸術が本当はどういうものかを知らない人々によって、濫用され歪められ貧困化されるか、さもなくば特別の少数者の鑑賞と独占にまかされるかしてきたこと。しかし、どうしてこういうことが起こったのであろうか。

 芸術は、土台すなわちそれが根を張り成長するための土壌を必要とする。そしてそれは、土台が変わればかならず変わらざるをえない。そしてこの土台は、マルクスの教えとは逆に、物質的なものでなく精神的なものである。疑いもなく我々の時代は、必ずしもそれを意識はしていなくても、唯物論的な哲学によって支配された時代であった。たいていの人々は意識をしていない。ほんのわずかの人々が意識している――いかに奇妙な世界に我々が住んでいるかを意識しているのである。芸術に関する限り、重要なのはこの多数者の無意識の哲学である。それは芸術の基層を形成する。この唯物論的な土台が堅固であるかぎり、芸術は決して栄えることはできない。

 唯物論は哲学としては明らかに浅薄なものである。浅薄な土台の上には、いかなる深い芸術も根付くことはできない。「唯物論芸術」というのは、ほとんど「四角い円」というくらいに馬鹿げた言葉の矛盾である。あるいは「唯物論宗教」というくらいに、と言ってもよい。芸術と宗教とは、我々の観点からすれば、後に論ずるように、きわめて密接に結びついたものである。

 問題は、今までたいていの人々が、「唯物論芸術」と呼んでもいいような馬鹿げた、あるいは怪物じみた作品にも価値があるかもしれぬと信じ、また信じ込まされてきたことである。それほどに、我々の時代の知的かつ美的混迷は深かったのであり、残念ながらそれはまだ終わってはいないのである。その故にこそ私はこれを書いている。

 最近、唯物主義に嫌気がさしたのか、またほかの理由からかわからないが、霊的なことがらについての話題が多くなり、そのような出版物が増え、新しい宗教運動も活発になってきた。これは少なくとも日本における最近の現象である。そしてこれは確かに歓迎すべきことではある。しかし無条件にではない。

 たとえば、あの世についての、また超常能力や超常現象についての話題は、それ自体では、ほとんど反宗教運動と同じくらいに真の宗教運動に水を差すということがありうる。宗教そのものを話題にすることすら、これはよくあることだが、もしそれが我々の時代に支配的な唯物論的哲学の上に、無意識にあるいは無批判的に寄り掛かっているならば、皮相にもなり、また皮相に聞こえることがありうる。

 真の宗教的覚醒も真の芸術復興も、我々近代人の中に深く根付いたこの皮相な哲学を覆し、別の哲学によって置き換えないかぎり、起こることはないだろう。宗教も哲学も、唯物論的哲学の上に、上部構造として存在することはできない。つまりこの世界の現実に対する狭い見方に自らを限定し、すべて他の見方は誤りであると信じ、もっと悪いことには、たいていは自分でそれと気付いていないような精神構造の上に、存在することはできない。この習慣化された精神構造を打ち破るのは難しい。けれども、もし我々が自分自身の思考習慣を相対化するだけの想像力をもたなければ、どんなに情熱的に宗教や芸術の復興といったことを論じても、それは役に立たないであろう。

2.全体論(ホーリズム)的パラダイム

(1)最先端の科学者からきたパラダイム・シフト
 しかしながら幸いなことに、一つの光が見え始めている。ある地殻変動的な変化が、しばらく前から人々の心のもっとも深いレベルで進行中であるといってもよいと私は思う。唯物論を克服するとは、正反対のあるいは全く異なった観点からこの世界を見ることができるということを意味するのであって、唯物論の上に精神的な構造物を建ててこれを押しつぶすことではない。それは我々の心の深層で起こる革命を意味するのであって、単にそれを皮相だとして軽蔑し退けることではない。それは唯物論とは全く違った角度から宇宙の全体を見る首尾一貫した視点を獲得することを意味するのであって、ただ「唯心論」の立場に与して物質世界を否定したりすることではない。

 通常「パラダイム・シフト」などとこれは呼ばれるのだが、この自然界に対する革新的なものの見方は、何人かの最先端の科学者や哲学者からやってきた。それが科学の領域からやってきたということは、意味深く驚くべきことである。なぜなら科学は、長い間、唯物主義あるいは物質主義の砦であり、我々の日常の唯物論的な思考癖を「科学的」であり、その故に絶対的で反論できないものとして、支え保証してきたからである。

 ニュートン以来の科学の方法は、分析的で還元主義的であった。そしてそれは大いに成功したがために、やがてそれは哲学の立場、すなわち宇宙の究極の真理は、それをその構成要素に還元し、その物理的メカニズムを調べることで知ることができるという信念(信仰)にまで引き上げられたのであった。言い換えるなら、もともと現実世界に対する一つのアプローチであったものが、絶対的なものになり、他のすべてのアプローチを「非科学的」であり、したがって間違いであるとして排除するようになったのである。

 しかしながら、このような還元主義的パラダイムは効果的ではあっても限られており、現実の全体をつかむには不十分であると認識されるようになってきたのである。なぜなら、我々が生命と呼ぶもの、とくに我々自身の生命や心は、たしかに機械的な側面をもってはいるが、機械に還元することはできないからである(頑迷な唯物主義的生命科学者のある者は、それを否定するのだが)。それは他の有効なパラダイムに対して、単に相対的なものであり、現実の全体的認識に達するためには、これと相補的なものと考えなければならないことが示されたのである。

 この新しいパラダイムは全体論的パラダイムと呼ばれ、「全体論(ホーリズム)」とは還元主義、機械論、原子論などと対立し、そして究極的には唯物論に対立する概念である。全体論とは宇宙を本質的に生命(私はこれを「生命=意識」と呼びたいのだが)として解釈するパラダイムである。これに対して還元主義は宇宙を機械として解釈するパラダイムである。

 ひとたび生命というものが、現実の存在論的基底として、我々にそもそも最初から与えられたものであり、唯物論者が仮定するように、何もないところで物質から構築されたものではないという仮説を受け入れるならば、我々は自分の住むこの世界を驚くほど新鮮な角度から見ることができるようになる。それはいかなる宇宙の物質主義的説明よりも、包括的であり、強力であり、無理な議論からより自由な仮説として、我々の前にあらわれるだろう。全体論的パラダイムは究極的には「宗教的パラダイム」と呼ぶこともできるが、この「宗教的」は、もはや伝統的な宗教人の使うような意味においてではない。

 たとえばそれは、生命進化というものを、もはやダーウィン的な機械的過程、すなわち生物の身体構造の偶然による徐々なる複雑化・精巧化としてでもなく、聖書的に理解された創造(それはなお身体的なものを中心とする)としてでもなく、宇宙的な生命=意識が徐々に目覚めていく過程として理解することを可能にする。ここには、何ら神秘的なものも、超自然的なものもない。少なくとも、この進化という過程の唯物論的=科学的説明がそうである以上に神秘的であるわけではない。それはただ存在論的根拠として、どちらを優先させるかという問題にすぎない。先にある/あったのは計測可能な量としての物質と空間か、あるいは計測不可能な質としての生命=意識か、という問題である。

(2)全体論と還元主義の調和
 還元主義的=機械論的パラダイムに権威があるのは、それが量を扱う言語、すなわち科学の言語で表現することが可能だからにすぎない。これに対して全体論的=宗教的パラダイムは、質の言語すなわち価値、意味、目的を扱う言語にのみ馴染むものであるかもしれない。問題は、量と質のどちらが、この我々の宇宙的現実に関してより基本的であるかということである。

 この二つのパラダイムは対立するが、互いに排除するわけではない。還元主義は確かに全体論を排除する。しかし後者は前者を包摂するのである。ちょうど私の身体は私を含まないが、しかし私は私の体を包摂するように。生命あるいは心は、その機械的な側面を含む。しかし機械仕掛けをもって生命や心と同一とすることはできない。

 したがってこの二つのパラダイムは対等の関係にあるのではない。すなわち全体論的=宗教的パラダイムが、還元主義的=機械論的パラダイムに優先しなければならないのである。なぜなら当然我々は、二つの仮説のより包括的、より強力なものを選ばなければならないからであり、それは量に対して質の、計測しうるものに対して計測しえないものの、目に見えるものに対して目に見えないものの、DNAに対して生命の、脳に対して心の、存在論的優先性を認めることである。

 このことは、最初は承認しがたいことであるかもしれない。我々は長く唯物論的なパラダイムに馴れ親しんできたからである。しかし今日最も要求されているものは、我々の内部の革命、我々自身を一新することである。それが「パラダイム・シフト」といわれるものであり、実はそれは我々の外部でなく、内部で起こる変化なのである。この内なる革命は、否も応もなく、遅かれ早かれ、かならず起こらねばならぬものだと私はあえて言う。というのは、我々の意識の基底の部分を構成し直すことなしには、今日我々が直面する現実的また理論的なもろもろの困難を克服するいかなる希望も――絶対的にいかなる希望も――持つことができないからである。科学自体が、その自ら設けた限界から自分を救い出すことができず、単なる知的遊びに堕するよりほかはなかろう。

 このパラダイムあるいは仮説あるいは想定が、古いパラダイムに優先しなければならないということは、一部の科学者があたかも侮辱されたかのごとく歪めて取るように、それが古い方を押し退けたり無化したりするということではない。そうではなく、より広い視野を獲得するということ、より確固たる幅広い立場に立つということなのである。何も犠牲にされるものはない。ただ、方法やアプローチと区別された限りでの哲学――古い哲学――が捨てられるだけである。

 新しいパラダイム、すなわち、生命あるいは心が現実の存在論的基底として最初に与えられているとする想定の最も大きな長所は、それが世界についてのより首尾一貫した、統合された見方を与えるということである。我々は、それぞれの切り離された領域ではいかに怜悧で辻褄があっていようと、断片的な、またばらばらの世界の説明で満足できた知的段階を抜け出たものと思いたいものである。

 たとえば、倫理・道徳という今日我々に最も焦眉の問題は、もし我々がそれを世界の統合された機構の中に位置付けることができなければ、つまりもし我々が世界についての全体論的=宗教的パラダイムを持つことができなければ、これを青少年にきちんと教えることはできないだろう。医療というのもその例である。酉洋医学はホーリスティックな哲学を夢にも考えることができないでいるがために、東洋医学のホーリスティックな方法論に対して、還元主義的=機械論的な方法に縛り付けられているのである。(Ho1ismは「癒し」の意味を含む。to make wholeは、to cureの意味であり、そのギリシャ語の語源である「全体」を意味するho1osからheal, health、haleそして特に意味深いことにholyが出ているのである。)

3.新しい芸術論

(1)宇宙的生命の自己実現
 今までの議論は、我々の本題である芸術に入る前の準備であった。もし我々がここで言っているパラダイムの転換あるいは意識革命が、将来、望みどおりに完全に行なわれたら、芸術はどうなるであろうか。それが受ける影響と、それが我々に与える影響は、はかり知れないであろう。

 新しいパラダイムを受け入れるということは、宇宙の歴史についてまったく新しい見方をもつということである。前にも言ったように、我々が進化と呼んでいるもの、最初の原始的な生命体から植物へ、そして下等動物へ、さらに高等動物へ、そして最後に人間へ、という宇宙的展開の過程は、これらの物質的な生命体を通じての、非物質的な宇宙的生命=意識の自己実現の過程とみなすことができる。それは宇宙的生命=意識のより大きく目覚めていく過程であるというのが最もよいであろう。だから宇宙は、明らかに実現すべき目的、進むべき方向をもっている。宇宙の歴史は疑いようもなく創造過程であるが、そこに含まれるすべての物理的過程を排除することなしに、である。このような考えは、唯物論的観点からすれば馬鹿げているであろう。しかしそれはただ我々の最初の想定の違いによるのである。

 生命の概念は目的の概念と不可分に結びついている。生きるということは何かを成し遂げるということである。もし我々の宇宙が目的をもっているとするなら、最後に現われ、その中に住む存在である人間もまた、達成すべき目的をもっているということになる。そしてこの二つの目的が違っているはずはない。もしそうだとしたら我々の宇宙は自己矛盾を犯していることになる。

 ブッダ(仏陀)とは「目覚めたる者」ということである。だから我々の内部に組み込まれた目的とは、一人一人がブッダになること、特別に宗教的意味合いなしにそうなることだ、と言うことができる。なぜなら科学の進歩も、宗教的また芸術的目覚めと同様に、我々がより大きく目覚めることだからである。この観点に立てば、いままでそこに何ら統一原理のなかった芸術と科学と宗教を、統合的に見ることが可能になる。最も意味深いことは、この統合的見方は、それが切り離されてはあまり説得力をもたない道徳と倫理に、確固たる根拠を与えるということである。人は最も根本的な問いを発する。「この世に生まれて何をなすべきか」「そもそもいかに生きるべきか」という問いである。宇宙は明らかにより大きく目覚めつつあり、その目標のために我々を巻き込みながら、我々に依存しながらそうしているのである。

 では我々はどうすればよいのか?我々は単により賢くなるように求められているのだろうか?私はそれを言うのに、より多く自己中心性から離れることだ、という言い方が最もよいと思う。文明をもつということ、野蛮の段階から、下等動物の段階から脱するということは、より自己中心的でなくなるということである。自己中心的な科学とか、自己中心的な芸術とかいうものはない。すべての宗教は同じことを教える。すなわち、自己中心性を離れて、より高い、より明るい、より大きな世界へと自らを引き上げよ、あなたがそれと知らずに閉じこめられている自己中心の、低い、暗い、狭い世界から自らを救い出せ、と教えるのである。

(2)芸術に不利な時代
 今やっと我々は「芸術とは何か」という問題にたどりついた。これはトルストイがかつて自らに問うて満足できる答えを見いだせなかったものである。トルストイは、確かに真の芸術がどの方面にあるかを嗅ぎ出す本能をもっていたが、それを大きな宇宙的機構の中に位置付けることはできなかった。

 我々の時代は芸術にとって、きわめて不利な時代であり、唯物主義は決して芸術を育てることはできないと私は言った。唯物主義的な時代が悲惨な時代であるという意味は、実はもう一つある。それは進むべき方向をもたないのである。それが精神的貧困といわれることの意味である。砂漠の中で正しい道を見付ける本能をもった芸術家はあるかもしれない。しかしその本能も、それを正しい方向へ向かわせる磁場が存在しないところでは、間違うことがあるかもしれず、たとえ正しい方向を見付けても、彼らを支持する聴衆を見いだすことはほとんどないだろう。悪趣味が支配し、本物とにせ物を、すぐれたものと劣ったものを、区別するいかなる基準も失われるだろう。

 私は「唯物論芸術」とは言葉の矛盾だといった。私は付け加えて、自己中心的芸術などというものもない、それは自己中心的科学、自己中心的宗教、自己中心的倫理などというものがないのと同じことだ、と言わなければならない。我々はしばしば、自己憐憫や自己愛の精神に満たされた文学作品を、人間的真実がよく描かれているなどといってもてはやしたりする。しかしそれらが無価値とはいわないまでも、それを芸術と呼ぶことはできないのである。それはちょうど家計簿をつけることを数学だというようなものである。また我々は「偉大な芸術」などというけれども、「偉大」の何を意味するかを本当は知らない。一つの芸術作品が偉大なのは、それが宇宙意志を体現するものであるときである。

(3)宇宙意志に支えられた創造
 宇宙の歴史あるいは進化は、明確な方向をもっている。それは異論の余地なく、狭くて暗い自己中心の世界に閉じこめられた心から、より大きく明るく高く、より客観的な世界に住む心へと開けていく方向性である。それは創造の過程であって機械的過程ではない。そして、そこに我々は一翼を担ってはいるが、それは我々を超えた過程であり畏怖を感じさせるものであるがゆえに、我々はそれを神の創造と呼ぶのである。

 「偉大」であるとは、そのものに同化しその中へと埋没することであって、己れの卑小な自己を主張することではない。そしてT.S.エリオットがかつて言ったように、強い個性をもつ詩人のみが、それから逃れてより大きな秩序の中に同化することを願うのである。彼の場合、それは伝統というものであった。しかしながら精神的砂漢の中に住み、しかもそれと気付かないような人々は、彼らの貧弱な個性か特異体質をしか表現すべきものとして持たないのである。そしてしばしば彼らはすぐれた芸術家だといわれる。それはまるで自分の財布の中の金を数えて、これを世間に向かって公表するようなものである。宇宙意志あるいは宇宙的全体性の感覚によって支えられていない個性は、そもそも個性ではない。シェークスピアは何といっても、我々の知るかぎり、己れのの個性を捨ててより大きな個性の中で生きた最上の例である。

 ついでながら、このシンポジウムの題である「すばらしい新世界」という言葉がそこから出ている彼の最後の劇『テンペスト』は、偉大な芸術のこの特質を示す最上に例に私には思える。芸術的創造などという。しかし唯物論的体質をもった社会で芸術創造などということ自体、全くナンセンスである。我々が我々自身の仕事を創造と呼ぶことができるのは、それが宇宙創造の一部であるとき、芸術家がいまだ開示されていない神の美と神の世界を開示すべく委託されたかのように仕事をするときだけである。

(4)宇宙目的意識
 私のここで言っていることは、想像力の乏しい人には大言壮語のように、あるいは傲慢なように響くかもしれない。そういう人には、神の概念があまりにも超越的な、さもなければ全く馬鹿げたものに思えるだろうから。しかしここでもまた問題は、パラダイムつまり存在論的優先性の選択の問題なのである。古いパラダイムが絶対だと考える人にとっては、神の創造と人間の創造を同じレベルで論ずることなど、当然、馬鹿げてみえるであろう。同様に彼らには、芸術と宗教と倫理と科学を同一の平面で論ずることも馬鹿げたことだろう。我々の唯物論的パラダイムがもたらした最悪のものは、想像力の貧困化である。あるいはこのパラダイムそのものが、我々の貧困な想像力の産物である。

 人間が賢くなったというのはその通りである。我々のハイテク文明は疑いもなく、我々の世界に対する物質中心的なアプローチの産物である。しかし本当の賢さとは――それは知恵と呼ぶほうがよいのだが――今までばらばらにしか存在しなかった物事を調和させる能力にあるだろう。何かを「知る」ということは、それが他のものとどうつながっているか、いかにそれが現実の全体的機構の中に位置付けられるかを知ることである。我々は統合された生を生きるべく意図された存在であって、次から次へと別の世界に住み分けて分裂病になるように意図されてはいないのである。

 たとえば我々は芸術というものを、何か特別のもの、他の人間的な興味から切り離され、多少とも選ばれた少数者にまかされた、それ自体で充足したものといったふうに考える傾向がある(「芸術のための芸術」などはそれである)。もしそれだけ切り離されれば、どんなものでも貧しくなるであろう。宗教は我々の精神風土では、切り離され、自らを貧しくし我々の人生をも貧しくしている。共産主義者はそれを金持ちの玩具か道具とさえ理解する。ただ科学だけが、ちょうど魚がその住みかである水の中で元気がいいように、唯物主義というわが住みかの中で栄えているようにみえる。しかし、もし科学が自らのなかに閉じこもり、自己言及的なものであり続けるならば、それは崩壊せざるをえないだろう。

 実のところは、芸術も宗教も科学も倫理・道徳もすべてがつながっており、本質的に一つのものなのである。あるいはむしろ、それらが有機的な一つの全体であることを創造的に見いだすように我々は要請されている、といったほうがよいかもしれない。たしかにそれらは別々で、それぞれ別の機能をもっている。しかし我々は、それらが相互に照明し、相互に強化する関係にあるものと理解しなければならないのである。そしてその関係は、宇宙進化の方向についての我々の自覚に基づいたものでなければならない。すなわちそれは、心のより大きく目覚めていく方向、心のより明るくされた、より自己中心性を離れる状態をめざす方向である。

 私はかつて別のところで、倫理というものを「宇宙目的意識」と定義することを提案したことがある。実はこれは、芸術、宗教、科学の基本的自覚でもなければならない。我々は恣意的にでなく、宇宙の創造と調和しながら、自らを創造しつつ、本来の自己を実現するために生きるように意図された存在である。

(5)新しい宗教の定義
 我々の未来は決定されているのではない。我々はそれを自分で創造しなければならない。しかし真空のなかで創造するのではない。我々は、そのようにしなければならぬというある衝動を感ずる。それは自分の内にあると同時に、外にあるものでもある。この衝動を宇宙意志と解釈することができるだろう。それは良心として我々のすべてを動かして、我々が意図された通りに生きるようにさせる。それは芸術家や科学者を動かして、創造的に、より高い、いまだ実現されていない心の段階を実現(顕在化)させるようにする。そしてすべての人間の活動において、一つの統合された目的達成のために我々のすべてを参加させるのである。しかしその衝動も、もし我々を方向づける正しい哲学をもたないならば、間違うことも方向を誤ることもあるのである。これが我々の意識の基本構造を再調整することから始めなければならない理由である。

 世界の最も貧しい地域の人々を救うために働いている高貴な人々のことを、一つ例にとってみよう。この人たちの要求は最も基本的な物質的要求であろうから、人は科学的=医学的かつ経済的な援助がすべてに優先しなければならず、物質的援助以外のものは、おせっかいであり、我々の価値を彼らに押しつけることだとして、排除すべきだとさえ考えるかもしれない。新しい宇宙観に基づいた我々の哲学は、このような考えを間違いでもあり無効でもあるとして退ける。物質的援助とともに宗教的、芸術的、倫理的援助がなければならないのである。

 なぜなら、まず最初に癒されるべきものは心でなければならず、彼らの心は、比喩的にでなく現実的に、創造者の心と切り離すことはできないからである。極度の貧窮状態にある、あるいは死につつさえある人々に向かって、自己中心的でなくなるように教えることは、一見すればきわめて消極的なことに思えるかもしれない。しかしそれは、彼らに世界を諦めることでなく、世界を手に入れることを教えるのである。

 こうした考察から導き出される系(帰結)は、我々の新しいパラダイムはまったく新しい宗教の定義を要求するということである。宗教はもはや、宗派抗争とか教条主義とか不寛容とか現世放棄とかいったことに結びついた、その古い概念の中に収まることはできないのである。

4.芸術と自然は一つ

 なぜ自然界にはこのように多くの美しいものが存在するのであろうか。そしてなぜ、このように精妙に美しくできたものを感ずることができるだけの精妙な感受性を、我々は与えられているのだろうか。こうした問いは馬鹿々々しいものに響くかもしれない。しかしここには驚嘆すべき事実が潜んでいるのである。我々が身辺に見る驚くべき多様な花々や、主としてテレビで見るであろう美しい鳥や魚の存在は、我々にとって正真正銘の驚きである。

 というのは、これら美しい自然物は、まごうかたなく我々人間が観賞するように意図されたものだからである。人間以下のいかなる動物にもそれはできないだろう。また花は例えば、昆虫をおびき寄せるといった利己的目的で自らきれいに装っているのだとは、とうてい考えられない。彼らはもし我々がいなければ無に等しいであろう。それ以上に驚くべきことは、花はより美しい品種を作ろうとする品種改良家の欲求に応えるということである。彼らはそれを拒否してもよかったのである。このことは宇宙意志というものが、美の追求――これは最も自己中心でない活動である――ということに関しては、人間の意志と一致するということ、そして我々は創造者と協力してもっと多くの美を産み出し、そうすることによって、この宇宙を人間と神のより高い目覚めの状態へと導くように意図された存在であることの証拠である。

 物質を基礎にする哲学(生命=意識を基礎にする哲学に対して)はこれを全く違ったように解釈するだろう。我々人間もこの自然環境も両方とも、自然選択と、一つ一つの自己主張する生きものの適応の産物にすぎない。そしてこの世界は、美しいものも我々の美的感覚をも含めて、偶然に現在の状態になったにすぎないのだから、すべては相対的であり、絶対的なものも何ら驚くべきものもそこにはない、ということになるであろう。

 我々の哲学はこれに対して、プラトンの「美のイデア」のようなものを措定する。なぜなら、我々が生命=意識の存在論的優先性を仮定するかぎり、そのようなものが存在しなければならないからである。それは絶対的な、永遠の、隠れた、しかし無限に豊かな美の源泉として、それに向かって我々も自然自身も努力すべく目論まれたものとして、存在する。それは到達不可能であるような宇宙的目標として、目に見えぬ磁極のように我々を誘ってやまぬもの、つねにその顕在化を我々に求めるようなものとして、存在し働く。

 芸術と自然は、ふつうは反対概念として考えられている。しかし我々の観点からすればそれらは一つである――芸術と宗教が我々の全体論的世界観では一つであるように。馬鹿な人間がいて、これは絶対主義であって我々の芸術活動の自由を奪うものではないか、などと反対するかもしれない。それこそが我々の間にはびこる貧困な想像力の論理にほかならない。自由とは勝手気儘ということではない。もし我々が宇宙の意志を無視して自分自身の欲望に従うだけなら、必ず最後には自分自身を否定することになるのである。さらに言えば、貧困なる想像力から生まれた自由の範囲などは、絶対的な「美のイデア」から流れだす豊かな自由には、とうてい比べるべくもないのである。

 すでに述べたように、人の個性は強烈で発明の才に富めば富むほど、その人はそれを抑え、より高い客観的な世界の中でそのものに真のいのちを与えようとする。私は当然ながら、来たるべき時代の芸術家に向かって、ああせよ、こうせよ、といった具体的な提案をするつもりもなく、またそれはできないことである。

 しかし21世紀の芸術家がなすであろうと私が夢見るものは、市井一般の誰もがなすであろうと私の期待するものと、何ら変わりはない。教育に、医療に、科学研究にたずさわる人々、また政治に、経済活動にたずさわる人々も、すべて同じ哲学に支えられていなければならないのである。とりわけ医療は、もしそれが教育、芸術、宗教と同じ原理に基礎付けられることができ、そのすべては互いに光を投げ助け合う関係にあるという認識に至ったときには、格段の飛躍を遂げるであろうと我々は確信をもって言うことができる。これらすべては、いかなる唯物論的哲学をも土台にもつようなことがあってはならない。この哲学はそれらを破滅に導き、必ずや我々を地獄へと導くであろう――我々の心が機械でないかぎり。

(原文は英文、1998年11月30日〜12月4日、台湾・台北にて開催された第25回ICWPにて発表)