中国教育界における道徳相対主義と個人中心主義に関する見直し

中国教育部社会科学発展研究センター 夏 衛東

 

1. はじめに

 道徳相対主義に関する論争は、中国道徳教育界において、ますますホットな問題として注目されつつある。論争は、二つのことをめぐって行われている。その一つは、「道徳価値の基準は、絶対的なものか、あるいは相対的なものか」であり、もう一つは「道徳価値の基準は、一元的なものか、あるいは多元的なものか」というものである。この二つの視点から導かれてくる結論は、中国の初等から高等教育までの各種の学校の道徳教育に大きな影響を与えるであろう。

 そこで、中国における道徳相対主義の歴史、現状及びその発展の趨勢を全体として把握できるように、中国教育界における道徳相対主義に関する見直しの経過をまとめて、振り返る必要がある。

2.中国史における道徳相対主義の位置

 中国古来の伝統的道徳教育思想の中で、相対主義は主流的な地位を占めたことがない。儒家思想は、近代以前の中国において、正統な統治階級の思想として、終始古代中国社会の主流の道徳思想の地位にあった。儒家の道徳思想は、多少道徳絶対主義の色彩を帯びたものである。儒家思想は、こうした正統の地位により、中国の文化、習俗、大衆の道徳心理を比べものがないほど強く支配し、中国古代のもっとも巨大かつ貴重な思想遺産となった。道徳相対主義は、儒家思想が占めたこのような歴史的な地位のもとでは、主流的な地位をとても得られるものではなかった。

 1949年、新中国が樹立した後も、道徳の主流思想は相変わらず、道徳相対主義を否定するものであった。しかし、この時は既に一方的に道徳絶対主義をもって、道徳相対主義に反対するだけではなく、同時に道徳絶対主義に対しても批判の矛先を向けるようになった。すなわち、道徳相対主義をも、従来の道徳絶対主義をも批判するようになったのである。

 道徳価値基準の絶対性と相対性に対する中国の主流道徳思想の見方は、各種の学校で、学生に善とは何か、悪とは何かの道徳価値観の教育を行なうように、中国の学校道徳教育を直接指導する役割を果たした。この見方では、人々の善の価値観は、自ずから人の頭に生まれるものではなく、家庭の薫陶、社会の影響、学校教育によってはじめて得られるもので、しかもその中で、学校の道徳教育は、決定的な役目を果たすものであると考えられている。だから、中国の学校における道徳教育は、学生に対する正しい道徳価値観の「植え付け」を強く強調している。

3.「植え付け」原則による道徳教育の失敗

 「植え付け」の原則は、能動的、積極的、有効的な道徳原則である。この原則では、学生の素晴らしい人格と品行と道徳を養成するように、学校、教員の教育と指導を通じて、人類の美しい道徳価値観を系統的に、順を追って漸次的に外部から学生に植え付けることが重視されている。

 「植え付け」の原則は、次のような人間性論、教育原則を基にしている。
 第一に、人間の価値観は生まれつきのものではなく、生まれてから形成されたものであること。第二に、人間の善の価値観は環境によるものであると同時に、教育によるものでもあるから、誰でも善の価値観の教育を受けなければならない。従って、進んで「植え付け」を受けるべきである。第三に、誰でも教育を通してよい人間になり、正しく「植え付け」を受けることができる。

 こうした原則に基づいて、中国における道徳教育の「植え付け」方法は、目覚しい成果を収め、若い世代の善良な品行と道徳の育成に決定的な役割を果たしてきた。また、こうした「植え付け」原則の実施によって、はじめて中国で50年代、60年代において大変よい社会風習が形成され、道徳の模範である「雷鋒」を代表とする新しい世代の育成に成功したのである。

 しかし、「植え付け」原則を絶対的なものとして理解し、それを絶対的に行なおうとするやり方によって、教育対象や教育の場を問わない「注入式」「命令式」の教育が形成された。その結果、教員、教育内容に対する学生の対立と反逆の気持ちが起き、「植え付け」原則の正しい施行に悪影響を及ぼし、道徳教育の効果を多いに弱めることとなった。

 「植え付け」原則のこのような躓きにより、教育管理部門、教員、道徳教育学者は、道徳教育に対する見直しを余儀なくされた。この見直しは、70年代からはじまり、ほぼ80年代中盛んに行なわれた。ある一時期においては、「植え付け」はマイナス意味のことばとまでなり、学者から批判、拒絶され、学校、教員、学生を動揺させることになった。

 こうした背景の下で、道徳相対主義は中国で台頭し、ますます多くの信者を魅了するようになったのである。また、このような背景のもとで、西洋の道徳相対主義の考えが中国に紹介され、中国の学校の道徳教育の理論と実践に、直接または間接的な影響を与えるようになったのである。

 しかし、青少年の犯罪率がますます高くなりつつあるという中国及び世界の道徳の現状を見るときに、道徳相対主義を疑問視し、それに挑戦する必要があると思わざるを得ない。青少年犯罪を起こす重要な原因は、是と非、善と悪、美と醜に対する青少年の認識がますます曖昧になったことである。これはまた、学校の道徳教育の弱化と密接な関係にある。

 中国の改革、開放政策の総設計士である 小平氏は、70年代から80年代の中国の経済、社会発展の経験と教訓をまとめる時に、「中国のこの十年来のもっとも大きな失敗は教育にあり、この失敗はインフレよりもひどいものだ」と、中国の道徳教育の無気力の状況を厳しく批判した。道徳状況の現実は、道徳教育に対する中国道徳学界の新たな見直しを喚起した。

4.道徳相対主義に対する見直し論

(1)道徳教育者の目覚め
 道徳相対主義に対する新しい見直しは、80年代末ごろ既に始まり、90年代になると目覚しい発展と、より掘り下げた議論をもつようになった。現在、この見直しにより、かなりの共通認識が生まれたのである。

 もっとも積極的な成果は、中国教育界が相対主義の道徳価値観の誤った認識より脱出し、より高いスタートラインから能動的、積極的、有効な道徳教育に立ち返ろうとする動きである。

 能動的、積極的、有効な道徳教育の推進は、中国教育発展の全体的な構想に著しく反映されている。今年6月、中国の教育事業の発展を方向づける上で、重要な意味をもつ第3回全国教育会議が開催された。会議の主題は、21世紀の挑戦を受けるために、全面的に素養教育つまり全人教育を実施しようとすることである。この会議の後、中国政府は素養教育の実施において指導要綱にあたる「教育改革の深化、全面的な素養教育の推進に関する決定」を発表した。この重要な文書では、徳育の重要性が指摘され、「学校教育では、知育を重視するだけでなく、徳育をもっとも重要視しなければならない」、「初等から高等教育までの各種の学校は、徳育教育を更に重視しなければならない」と強調されると同時に、的確に中華民族の優秀な文化・伝統の教育、理想、倫理道徳、礼儀正しい習慣養成の教育を行なうようにと強調されている。

こうした任務づけは、中国の学校教育が価値観の方向づけの役割を多いに強化することを示していると思われる。言うまでもなく、道徳教育者は、更に自覚的に学生の価値観に対する放任的な無責任な態度とやり方を拒否し、道徳相対主義、いわゆる価値中立説を拒否するであろう。

(2)個人中心主義の克服
 目下、中国で青少年に対して倫理教育を行なう際に、最も重要なことは、青少年に「個人中心主義」を克服し、次第に集団主義思想を打ち立てるようにさせることである。個人中心主義は、若い世代に目立って見える道徳問題である。それは主として、自我独尊、自己至上、エゴなどの行為として現れている。この個人中心主義が個人にも、他人にも、社会にもマイナス影響をもたらすことは明らかなもので、決しておろそかにしてはいけない。

 個人中心主義の道徳問題が、中国社会にますます目立つようになった客観的原因は、主として二つの面から考えられる。一つは、普遍的で誰でも知っているもの、つまり市場経済メカニズムのマイナス作用である。市場経済は、本質的に利益経済であり、利益または利潤の最大化は、おのおのの経済主体の求める目標である。この経済目標は道徳価値観に反映すると、人間に自我独尊、自己至上主義、エゴイズムなどの思想と行為をもたせることになる。そして、市場経済による利益主体の多元化は、道徳価値観の主体の多元化をもたらしがちで、個人同士が異なる利益関係によって、かけ離れた、または対立した道徳価値観をもつ現象を起こすようになる。だから、市場経済の場合、適当な道徳価値観の方向づけと規範がなければ、自発的に個人中心主義が発生する必然性をもつことになる。

 もう一つは特殊な原因、つまり中国特有の「一人っ子」政策の問題である。巨大な人口圧力をもつ中国では、厳しい生育制限の国策をとるのを余儀なくされている。しかも人口増加に対するこの自覚的な抑制は、もう世に認められる成果を収めてきた。しかし問題もこの国策に伴って発生した。

 その一つは、原則として一カップルの夫婦には子供一人だけもつことができるから、中国特有の家庭における「小皇帝(幼き王様)」現象が発生したのである。つまり一人っ子は、余計に溺愛され、幼い頃から個人中心主義の発生に適宜する家庭環境で育ち、次第に個人中心主義の道徳心理をもちがちになる。

 ところで、中国では数千年にわたる家庭教育をきちんとするよい道徳的伝統があり、しかも大変効果がある家庭教育の理論と方法及び関係の道徳規範が形成されてきたとはいえ、昔の家庭教育は、主として複数の子供を対象にするもので、一人っ子を対象にするものではない。一人っ子への道徳教育は、まさに中華民族が直面している真新しい歴史的課題となっている。民族全体が一人っ子への道徳教育の経験と教訓に欠けていることから、親や教育者は、一人っ子、つまり「小皇帝」の個人中心主義の道徳問題の対処に手のつけようのないはめに追い込まれ、この問題を解決する有効な手段も得られないままとなっている。しかし一昨年から、一人っ子政策が実施されてから生まれた一人っ子の第一陣は既に大学に入った。その一人っ子たちはもう大人になり、社会人として社会の各分野に入り、まもなく社会の主人公となるのである。

 市場経済のマイナス面、余計に溺愛されてわがままになる小皇帝現象という二つの要因が不思議に思われるほど、同時に中国社会に現れていることにより、個人中心主義問題は更に複雑になった。個人中心主義の道徳問題が、中国の青少年に根強く表わされているのは、何も不思議なことではない。

 問題の複雑性は、これにとどまるものではない。一方では、個人中心主義が蔓延するのによい条件をもつようになり、他方では、学校の道徳教育が、道徳相対主義の挑戦に直面しているために、真正面からの道徳教育が、程度差はあるものの、弱化され、既成の集団主義の考え方とその植え付けの教育原則が疑問視されてきたのである。

 こうして、個人中心主義の蔓延を助長するもう一つの条件、主観的条件が成立することになった。つまり、我々が主観の上で、正しい道徳的価値観、特に集団主義価値観の教育をおろそかにしたことにより、青少年が家庭、社会交際の中で、次第に間違った個人中心主義観念をもつようになり、道徳相対主義によって弱くなった教育の中で是正されることもできないままとなった。そして、個人中心主義を抑制するもってこいの時期を失ったのみならず、個人中心主義の増長と蔓延を助長してきている。

 個人中心主義は、最終的に社会有機体を崩壊させる危険をもつために、中国のような、社会の凝集力によって近代化を実現させる国にとっては、個人中心主義はまさに巨大な潜在的な危険性をもつものとなる。そこで、中国社会の道徳問題、特に若い世代の道徳問題を分析、解決するにあたって、個人中心主義を十分重要視し、あらゆる面で個人中心主義の氾濫を食い止めなければならない。学校の道徳価値観の方向づけと教育の強化は、中国の教育者、特に道徳教育者にとって、厳しい使命であると言えよう。

(1999年8月25日、中国・北京の中国人民大学で開催された、中国人民大学道徳科学院及び世界平和青年連合などの共催による「日中青少年問題シンポジウム」にて発表された論文)