少子化時代の大学改革の方向性

元立命館大学教授 中村 忠一

 

1.戦後の大学のあゆみ

(1)大学のマンモス化
 戦後、新制大学に移行した時に、それまでの旧制高等学校や旧制高等専門学校が大学に「昇格」したが、そのころ特に教育学部への移行のことを一般に「二階級特進」と呼んでいた。つまり、昭和19年、師範学校から高等専門学校となり、そして更に新制大学の教育学部となったからである。

 そして各地の高等専門学校が大学になったが、それらを揶揄して「駅弁大学」と呼んでいた。また旧制高校の教員の処遇はどうなったかというと、北大を除き全国に六つあった帝国大学と同じ都府県の旧制高校の教員は、それらの帝国大学の教養部教員となった。それ以外は、各地の新制大学に移行したのであったが、それらが上記の「駅弁大学」と呼ばれたのである。

 その後、昭和30年代に入り、「大学のマンモス化」という傾向が出てきた。当時、私立大学の数は非常に少なく、新制度における大半の私立大学は、昭和30年代末から40年代以降に設立されたものである。昭和37〜38年頃から大学志願者が増え、大学生の数が増加しはじめた。水増し率は200%を超え、300%近くになった。この水増し入学が実定員化されたのは、私学助成が始まった年である。

 当時私がいた立命館大学でも、昭和37年頃までは受験生数が約1万人であったのが、昭和39年には3万人を突破した。そして翌年私が学部長代理を務めた時に、日本で初めて「マークシート」方式を入試に取り入れ、それから更に受験生数が増え、4万人になった。

 この頃学生が急激に増えたために、大学は施設を拡充しなければならなくなったものの、財政のめどがたたなくなった。そこで大学としては「大学・学部のマンモス化」でそれに対応しようとした。つまり、学生をたくさん詰め込んで、資金を集め、その資金でもって校舎を建てて、また学生を増やしていくという繰り返しによって、雪だるま式に、大学が膨張していったのである。

(2)高校教育と大学教育とのひずみ
 そして昭和39年ごろから、全国で大学紛争の嵐が吹き始めたが、そのとき学生から問いかけられた問題の一つが、「高校教育と大学教育とのひずみ」ということであった。つまり、大学における一般教育科目(教養科目)に対して、学生から「高校の時学んだことの繰り返しではないか」という議論が出てきたのである。

 それに対して、いかに対応するかということが大学において大きな課題となった。昭和40年に、私が主導して立命館大学経営学部では、一般教育科目(教養科目)を1年次から4年次までに振り分けたのである。これは日本で初めての試みだったと思う。例えば、哲学を学ぶのであれば、3年、4年生位の方が、1年生の頃より理解が進むだろうという考え方である。つまり、教養科目などの人格形成に関わる科目の扱いを4年の学年全体に分配したのである。そしてもう一つの柱として、専門科目の中から基礎科目を1年次までおろしたのである。文部省も昭和60年代になって、同様の「従型」カリキュラムの方向性を打ち出したのであった。

(3)推薦入試と裏口入学
 次に起こったのは、いわゆる「裏口入学」の問題である。その背景には、私大入試の難化のなかで、大学の先生が入学生の推薦権を持つようになったことがあった。それを象徴する言葉として、「○○大学の天皇」というものがある。

 そのしくみは次の通りである。教授会の全メンバーが入学者の推薦権を持っている場合、年末になると翌年度の入学のために、受験生の親が学部で一番「偉い先生」にたくさんのお金を持って頼みにくる。その偉い先生は、教授会メンバーが一人で二人の入学者推薦権を持っているとすると、一番上の二口を自分がもらい、残りを多い額から若い先生に分配していく。そうすると必然的に「ボスの言うことは何でもお聞きします」という人間関係が形成される。これを私立大学における「ペアレント制度」ともいう。この制度は、大手のほとんどの私立大学で行われていた。そしてこれらは、昭和30年代から40年代に起こった大学紛争の一因にもなったのである。

 推薦入試の最終決定権は、教授会あるいは理事会にあったが、さまざまな問題が表面化して結局は推薦入試が廃止になった。あわせて、スポーツ推薦もほとんどなくなったのである。結果として、一流私立大学が独占してきたビッグスポーツが、これらの大学の手を離れていった。

(4)私立大学の「バブル期」
 大学のマンモス化とともに、私学助成金がクローズアップされ、私学助成が実現したことによって、特に昭和49年以降、国立大学と私立大学の教員の給与格差問題(私高国低)が出てきた。例えば現在、東京や関西の私立大学の場合、若い先生であれば国立大学より50%程度給与が高くなっており、年配の先生でも20〜30%の違いがある。原理的に言えば、公務員のベースアップに数%上乗せして私立大学の教員給与ベースを決めてきたために(そして定期昇給が加算される)、10年ほど経過すればそのくらいの差が出てくるようになっていた。しかし、これは問題だと考えて、私は『私立大学の虚像と実像』(東洋経済新報社、昭和54年)、『私立大学甘えの経営』(東洋経済新報社、昭和56年)という本を出版し、その問題点を明らかにした。

 ある面で、昭和50〜60年代というのは、日本経済の趨勢とあいまって私学にとっては「金持ちの時代」であった。そして18歳人口の増加とあわせ、昭和64年から大学入学者の臨時定員増加(いわゆる「臨定」)が始まった。「私学大金持時代」となる。

 その背景として、文部省の提示した条件は、建物や施設はそのままで、教員も増やさず、教育条件は低下しても、教室に学生の収容能力に余裕があれば、その余裕分に相応した定員増を認めるというものであった。例えば、200人の定員を300人にすれば、年間の収入が50%増える。しかし人件費も余分な設備投資も増やす必要がないので、その全部を内部留保や拡大再生産に回すこともできた。ある大学では、臨定の昭和64年から平成5年までの5年間の収益増分で新学部増設のための校舎建設費用などに当てた。

 このように昭和の終わりから平成の初めにかけては、私立大学の財政に大きな余裕が生れたので、年配の教授をたくさん入れ、例えば、65才の定年を70才まで延ばすなどの措置を取り、大学院の新設・拡充を行った。しかしこれらの問題は、後に次第に経営難を引き起こす要因ともなった。

 また私立大学の裕福な時代は、日本経済のバブル期に当っており、大学当局が土地を買ったり、建物の建築を始めるなど膨大な投資を行なった。その結果、私立大学の一部では膨大な借金を抱えるようになった。しかし、その当時の大学経営陣の多くは、「まだ臨定は続く。水増しで学生を2〜3割多く入れれば、支払いは何とかなる」という安易な考えであった。

 しかし、バブル経済の崩壊とともに急速な少子化現象の進行により、18歳人口が減り始めてきた。こうしたことは、人口統計等を見れば最初から分かっているはずであるし、文部省も「臨定は、平成10年には全部返還していただく」と期限を決めていた。それなのになぜ、私立大学はそれに対して準備してこなかったのか疑問である。この疑問は、「私大の甘えの構造」にあったと見るのが正しいだろう。

2.少子化時代の大学経営戦略

(1)入学者の定員割れ
 今後を展望してみた時に、2004年(平成16年)には大学への入学率は限りなく100%に近くなる。そうすると「行きたい大学へ行く」、「行きたくない大学は受けない」という高校生の動きが顕著になってくる。

 平成11年、全国の私立大学の83校が「定員割れ」を起こしている。一番顕著な例としては、T大学は、T市が80億円投資して新設した大学であったが、今年(平成11年度)の入学者は、200人の見積もりに対してその4分の1の50人であった。T市は今後どう運営していくべきか頭を抱えているという。
また、新潟県でも同様の問題を抱えている。新潟県の場合、その背景として「公設民営型」の大学を作りすぎたことがあった。
「公設民営型の大学」とは、自治体が資金を出して、民間が大学を運営するという経営形態である。原発で財政の豊かな柏崎市が大学のために土地と建物を提供し、新潟県が教職員の人件費など経常経費を負担してつくった「公設民営型大学」の第一号が、私の最後の勤務大学の新潟産業大学であった。

 これが成功したので、新潟県では次々と大学新設のラッシュが続いた。すなわち、新潟経営大学(県と加茂市などが負担)、新潟国際大学(県と新潟市などが負担)、新潟工科大学(県と柏崎市が負担)、長岡造詣大学(県と長岡市が負担)、さらに今年長岡経営大学が開設する。一度に7大学が出来た。

 しかし、実際それぞれの定員に見合った学生が入ってくるのかといえば、現実は非常に苦しいのである。その中では、新潟市内にある新潟国際情報大学と「ニット」の特色を持つ長岡造形大学を除けば、他の大学は学生が集まりにくい状況にあるといえる。新潟市内の若者が県都以外の大学には行きたくないと考えるのは当然のことである。それは東京の高校生が地方へ「都落ち」したくないと考えるのと同じ道理である。

(2)大学のブランドによる帝国主義的進出
 公設民営型大学の究極の形が、早稲田大学の北九州市への進出、大分県別府市における立命館大学のアジア太平洋大学構想である。

 早稲田大学側は、正式に研究所をつくると発表しているが、今の日本国内における北九州市の位置付けから考えても、何百億円ものお金を投入して研究所をつくることはありえない。明らかに大学の誘致を目指していると思われる。北九州市で早稲田ブランドの大学誘致が実現すれば、間違いなく近隣にある私立大学は「定員割れ」を起こすだろう。

 また別府市と大分県が資金を提供してつくったのが立命館アジア太平洋大学である。しかし、それが日本への留学生に対して日本文化を教えるというものならば、むしろ京都に大学を作ったらよかったのではないか。

 戦後、日本の経済発展とあいまって大学のマンモス化が進行してきたが、それが曲がり角に直面した時、今度は公設民営型で地方に進出していこうという考えに変わった。進出する側は、「他の大学と共生しよう」といっているが、大手の大学が地方に進出した場合には、地方の私立大学、特に小さい私立大学は、戦々恐々である。もし新設するならば、法政大学が行ったように、既存学部の定員を削りそれらを合わせて新学部をつくるべきであろう。「特定の大学だけが生き残って、他の大学はつぶれてもよい」という発想なら帝国主義的進出と同じ発想ではないか。このような発想はもうやめていかねばならない。

(3)少子化時代がもたらす諸問題
 少子化現象が今後ますます進行することが予想される中で、ここでの解決策を考えた時に、大学経営は苦しいであろうが、臨定は全部やめることが賢明と言える。これをやめれば、2000年から2010年まで、18歳人口120万人時代をなんとか乗り越えることが出来ると思う。その120万人の子供たちとは、団塊の世代の子供たちである。しかしその世代が終わると、18歳人口は急速に減っていくであろう。そして更に10年くらい後には、100万人を割ることになる。

 そうなると国の人口政策をどうするのかが大きな課題になってくる。かつて、フランスでは結婚奨励のために70〜80年前に、女性だけに「未婚税」を課したことがあった。それによって若年人口が増えたことがあったという。

 もう一つの大きな問題は、若者の職業観である。「フリーター」を当然のものとして受け入れる若者の職業観が問題である。

 今、東京都における教育困難校出身者の半分以上は、フリーター(若年不定職者)になるといわれている。東京ではそのうちに、全高校生の三分の一くらいに増えてくるのではないかと心配だ。また東京を発信地にして、この現象が全国に広がり、フリーター10万人、20万人という時代がくるであろう。若者100万人の中の10万〜20万人がフリーターになっていけば、大学進学者は70万人を割るだろう。

 しかし18歳人口のうち大学志願者が70万人ということになると、悠長なことは言ってられなくなる。2010年頃には、私立大学のうち300校位は倒産の危機に直面するのではないだろうかと思う。大学の場合、単年度ごとに学生からの授業料などをもとに予算が組まれているために、学生数の減少は致命的な打撃となる。

 ただし無駄な投資をやっていなければ、しばらくは現状を維持することはできる。まして臨定増の収入を全部「内部留保(金融資産)」に回していた大学は10年以上入学者ゼロでも今の教職員に月給が払える。そして教職員の給与を三分の二にするなど、全員一丸で厳しい経営努力を行っている大学は浮上する可能性がある。極端な話、建物の減価償却費や修繕費をゼロにすれば、建物が老朽化して使えなくなるまでは運営できるだろうが、所詮その時点で大学の運命は終わりになる。

 信州短期大学では、「ダブル・バブル」(経済のバブルと受験人口のバブルが重なった)時期、200人の定員で500人ぐらい入学させ、文部省には230人ぐらいと報告したことがあった。しかし、これからは逆の報告をするようになるに違いない。つまり、例えば100人の定員に対して40人しか入学者がいないのに、53人などと報告する。それは私学助成金を交付してもらうために、定員の半分以上の数値を偽って報告するわけである。なぜなら、入学してくる学生が定員の半分を割ると、政府からの私学助成金は出なくなるからであり、入学時の人数はともかく、2年3年の学生数を操作する可能性も高い。

 18歳人口の減少は、また年金問題にも大きな影響を及ぼすことになる。現在のさまざまな年金の中で、一番運営状態のいいのが私学共済であるが、それも今後は難しくなっていくに違いない。

 私が甲南大学に就任した頃、私学の教職員数は2万人程度であったのが、今では15〜6万人になった。そのためこれまでは掛け金が増えていき、年金財政が豊かになった。中には、宗教系大学でシスターなどの多いところでは、掛け金を納めても年金を受給しないケースもある。最近まで、70歳を過ぎても退職するまで掛け金を納めて年金は受給しないということがあったが、平成2年に法律が改正になって65歳から年金を受給するようになった。このように、私学共済の財政展望も厳しいものがある。

3.大学改革の視点

(1)偏差値の功罪
 まもなく大学志願者全入時代を迎えようとしている。そのような時代の学生の質(学力など)は、どうなっていくのか。

 今、偏差値の低い38程度の大学では、100人の受験生のがいれば90番台まで入学出来てしまう。また全国的に見ても、希望する大学に入学できなかったので、就職する人や浪人する人などが100人のうち10人いると、結局全員が入学できてしまい、大幅は「定員割れ」大学が続出することになる。

 「偏差値は学力とは関係ない」という人が多いが、グループ全体の学力を見るという点では非常に有効なモノサシである。いろいろなレベルの大学を専任としてまわってみると基礎学力の違いが良くわかる。

 例えば、「京都の町は碁盤の目のような」という書き取りの問題を出したときに、偏差値が30〜35の大学には「五番」と書く学生がいる。しかし偏差値が45位の大学には、そういうケースはまずないが、本を読ませると1ページに一つか二つくらい読めない漢字がある。しかし、50以上の偏差値の大学では、そういうことはない。

 私の経験では、ある大学の産業論のゼミで、調査研究の初歩である新聞記事の切り抜きから学生にやらせた。学生達が自分で選んだ分野の新聞切り抜きをさせたのである。本来このようなことは、中学校でやるべきことだが、これを始めて半年たったら作業の価値が分かり、ものになってきた。2年後にやっと卒業論文らしいものを書くことができるようになった。立命館大学の時は、「○○を調べておきなさい」と学生に指示すれば、彼らは自分でまとめて論文にすることが出来、この論文は私の研究に役立った。一つの大学だけで教えていたらそういうことは分からない。このように偏差値には、学生集団としての学力を知る上で有効な働きもある。

(2)学生の質の向上をどう図るか
 私が今憂えていることは、大学を受験する18歳人口が60〜80万くらいになったときに、学力レベルの低い大学で一体何を教えたらよいのかということなのである。大学だけ考えては、彼らに教えることはない。例えば、K大学では、そこの英語の先生は授業で中学校のテキストを使っていた。実際の学生のレベルに合わせてテキストを選ぶのも一つの方法ではあるが、大半の大学のレベルがそうなっては困る。

 大学生の学力低下の問題が最近叫ばれているが、その大きな原因の一つは、入学試験から数学を外してしまったことにあると思う。また、このごろよくK大学の先生が「分数の分からない大学生が多くなった」と指摘しているが、これも根を同じくしている。柔軟な思考能力を養うために数学は必要不可欠である。

 それとともに理科の成績も下がってしまった。最近の調査でも、先進国の中で理科の試験で比べてみると、日本は14カ国中13位という状況であり、あと20年も経つと日本は二流国家になり下がってしまうのではないかと憂いている。それを回避するためにも、まず文系の大学入学試験に数学と理科を復活させなければいけないと思っている。大学入試の科目を減らすことは、考えものである。

 もう一つの問題点として、入学試験問題が、地文に引かれた傍線について何々せよと問うたり、丸バツ・記号式の回答形式が増えていったことによって、学生は考えなくなり、受験技術に走るようになった。

 長銀の調査部長をしていた竹内宏氏が日本評論社主催の座談会で、「うちは大卒者でも、人間関係のよい者だけ採用する。よく勉強したものでも、5年間指導してやっと論文が書ける程度だ」というようなことを言っていた。これは大学入試が産み出した一つの結果だと思う。
もちろん戦前には、願書を出せば大学に入れるということもあったことは事実であるが、当時は旧制中学卒が10万人程度であったので、学生全体の学力低下という心配はほとんどなかったので、今日の状況とは同列視することはできない。

(3)「だべる」ことの今日的意義
 学生の質が下がったもう一つ原因に、「だべる」ことがなくなったことがあるように思う。かつての旧制高校では、読書会などで車座になって「だべ」っていた。それはまさに自主的な学習である。国語辞典には、「だべる」とは「むだなおしゃべりをすること」と出ているが、その本質は、ゆっくり、落ち着いて討論すると言う意味である。一見無駄のように思われるけれども、自主的な学習心を培うのには効果的であった。これがなくなってしまったことが、今日の教育の大きな問題点だと思う。

 近年、高級官僚の不祥事が多発している。戦前の官僚は8割が東大出身者であったが、今のように不祥事を起こすことはほとんどなかった。その問題の源をたどってみると、この問題にたどりつくことがわかる。

 戦前、東大出身の運輸省の役人が私費を投じて信州に一つの「塾」を設けていた。そこは、東大の学生が自由に寝泊まりして、天下国家を論じることのできる場所であった。この「塾」は、現在のような塾や予備校とは違う。その中で、「人生とは何か」「天下国家を自分達はどうしたいのか」など根本的問題を同僚達と討論していた。これには、前述した旧制高校における「だべる」ことがその基底にあるといえる。こうした背景があって、戦前の官僚には腐敗という問題がほとんど起らなかったのだと考えている。

 また米国留学の経験を持つ東京大学教育学部の苅谷助教授は、「日本の大学生の一番大きな欠陥は、討論することを知らないことだ」と言っているが、彼は旧制高校を知らないからそう言っているのだと思う。旧制高校制度には、「だべる」という実にいい伝統があったのである。これこそ現代の軽い「討論」に相当するものと言えるし、現在の大学教育にこれをどう取り入れるかということが、今後の大学改革に大きく寄与する点だと考えている。

 例えば、ゼミやサブゼミでも、その全部の時間を、討論する時間に組み換えることである。また、高等教育の最初の段階で哲学書や心理学書などの原点を読むことも薦めたい。

(4)独立行政法人化の問題点
 今年の国会では、国立大学の独立行政法人化が大きな問題となっていくだろう。これは端的に言えば、国立大学の民営化の問題である。

 国立大学を民営化した場合の授業料を、いくらに設定するかについて試算してみた。東京大学の理科系で400万円以上、文科系で260万円、以上平均すると360万円、医学部は慶応の医学部を大きく上回るほどの授業料となるであろう。京都大学や他の国立大学も同様だろう。そうすると誰が授業料を支払って大学にいけるのかという問題が出てくる。年間の授業料が300万円で、子供が2人いれば、2人分の学費として600万円を払わなければならない。しかし普通のサラリーマンで、そのような学費を支払える人は多くはないはずである。独立行政法人化問題も、金持ち優遇の改革にならないようにと思う。

 民営化の場合の私学助成金について試算してみると、東京大学で400億円程度、京都大学で250億円位出さなければ運営できない。民営化したら東大はお金持ちの子供だけしか入学しないだろう。それは京都大学や東北大学などとて同様であり、また場合によっては、それらの大学では下手すると研究費が不十分となり研究も十分に出来なくなる。大学で研究が出来なければ、300万円の授業料を払う価値がなくなる。そして日本は、科学技術がなければ21世紀を生き残れない。

 民主主義社会においても、エリートは必要である。エリートが、年間300万円の授業料を支払うことのできるお金持ちの階層に集中してしまったとき、一体どうなるであろうか。

 それには、社会の大衆の中から出てくるエリートも作らなければならない。かつての陸軍の失敗はまさにここにあった。陸軍の最高エリートはみな幼年学校出身者であったが、そこには将軍の子弟が優先して入るようになった時に、陸軍がおかしくなってしまった。だから大衆の中から生まれたエリートがどうしても必要なのである。

 また、国立大学を全部民営化していった場合、教育学部をどうするのかという問題がある。今の日本の小・中学校は40人学級だが、ヨーロッパは殆ど20〜25人学級である。日本に25人学級をつくるにはどうすればよいか。小人数教育をするためには、かつての師範学校教育のよい部分を復活することであり、よい教員をたくさん養成することである。

4.最後に

 これからの大学は、学生集団の学力レベルにより3極分化するだろうと考えている。ごく一部の優秀な学生が入る難関の大学(学生の1割)、次に緩やかな競争の半選抜的大学(学生の4割)、三番目に学力に一切関係なく誰でも入れる全員入学の大学(学生の5割)である。そして当然、大学生全般のレベルは下がるだろう。

 最近、文部省は高校から大学への飛び級(理工系のみ)を認めるようになったが、それ以外でも「飛び級」を認めてもいいのではないか。また、大学を3年で卒業することを学校教育法で定めたが、三年飛び卒業が一般化したら、大学はどうなるか。そうなると学生は、親孝行タイプと放蕩タイプのふたつに分かれるのではないか。前者は3年で卒業し、ある者は就職し、ある者は大学院に進学する。そうなった場合に、私立大学は学生数が減少するために、収入が減り困ることになる。それを補うために、私立大学は大学院を拡充して補うようになる。

 最近、東北大学工学部では6年制の大学への転換を進めているが、私も6年制の大学制度には賛成である。一方、大学院を持たない大学はどうなるか。大学院の受験勉強学校になるであろうか。

 また、日本での大学入学資格試験の論議でいつも話題に上がることに、フランスの「バカロレア(大学入学資格試験)」があるが、その理解には大きな誤解がある。バカロレアに通ってパリ大に行く学生の学力は、純粋科学などの分野を除けばだいたい二流であって、超一流の学生はグランゼコールに行く。数多くの試験を受け、それを勝ち進んでこそ入ることができる学校である。その代わり、これらの学生は国家公務員と同じく給与をもらう。フランスは世界で一番優秀な官僚をつくるといわれている。フランスの企業は、グランゼコール出身者が天下りするのを大歓迎する。彼らは国がお金をかけて作り上げた優秀なエリートだからである。フランス国内の大企業100社で重役4分の3はグランゼコール出身者である。このような事例も、日本の大学改革を推進する際に是非考えて頂きたい。

 最後に、日本の教育関係の予算が、いかに少ないかということを指摘しておきたい。国民所得に対する高等教育機関に使われている費用で言えば、日本と同じレベルはイタリアである。それは米国の半分である。また科学研究費で言えば、日本は1500億〜2000億円くらいだが、米国は1兆億円を投入している。このような状況では、日本の科学技術の未来は暗澹たるものでしかない。長期的展望に立った国の教育予算配分と文部行政を切望するものである。       (1999年10月2日発表)

【参考文献】
国立大の民営化、独立行政法人化の問題については、未来社の『激震!国立大学』、学生の学力問題については、『分数ができない大学生』(東洋経済新報社)を読まれるとよい。