米国の大学制度から学ぶ

名古屋外国語大学教授 加藤和光

 

1.はじめに

 ここ数年、日本で大学問題がマスコミなどの関心事になっているが、えてして批判的、否定的に取り扱われているように感じる。例えば、英語教育の実質的効果がない、大学生の識字率が落ちている、大学生の学力不足などといった厳しい批判である。

 実はこれと似たような時期が、20年前の米国にもあった。そのとき米国の多くの大学では、大学の内部からも厳しい自己批判が起こり、そうした批判に積極的に取り組み、8〜10年に及ぶ大改革を行ったのである。

 米国でも戦後まもなくの頃までは、大学教育といえばエリート教育が主流であった。そのころは日本も米国も、中流以上の家庭の子弟が大学に進学していた。米国では、第二次大戦後若い帰還兵などの職業訓練の必要性から大学が門戸を開き、学生数が急増した。1945年から65年までの約20年間は、大都市の大学では学生数が毎年二桁の伸びを示した。それに伴い、急増する学生数に対処するために教師の数も増員した。

 私が米国の大学で博士号を取得した1960年当時、同じ博士課程にいた人たちは、ほとんど全てが大学で勤めることを前提にしており、その上職業がみつからないということはまずなかった時代であった。このように大学が膨れ上がるようにして大きくなっていった。それがひとまず落ち着いた頃に、「一体大学は何をしているのか」という批判が一般社会から生まれてきた。大学を出てもろくに文章を書けない、ビジネスの即戦力にならない卒業生が多いなど厳しい批判を受けたのである。

2.80年代の米国の大学改革

(1)自己評価システム
 米国の大学は、日本の文部省のように一つの国家機関が全国を規制して統括する形にはなっておらず、大学それぞれが教育レベルや育成する人材を想定して運営している。しかし大学運営が個々に任されたとしても、大学の水準を一定に保つために、全米を三つの大学協会が地域ごとに各大学を定期的に審査する仕組みになっている。即ち、西部大学協会(Western College Association)がアリゾナから西海岸、バンクーバーからサンディエゴまで、中部大学協会は中央部を、東部大学協会が東海岸をそれぞれ管轄している。

 この大学協会では、数年毎審査後にaccreditationという資格を出しているが、もしそれが得られない場合、その大学は大学としての資格を失うことになる。そうすると、その大学を卒業しても、大学を出たというだけで実質の大学卒業の資格(学位)をもらえないのである。審査は他の大学の人が大学協会の立場で数日間、その大学の状況をチェックする。その審査では、図書数や学生数、教室では何人教えているのか、その他試験の内容、レベルなどをかなり詳細にわたってチェックする。

 大学側からも自己改革の動きが起こった。まず大学の教員自らが自己評価(self evaluation)をしようということであった。更に教授だけで審査すると教授の自己満足に陥ってしまう可能性があるので、学生からの分析評価も考慮に入れた自己評価をしようということでもあった。

 大学には自己評価委員会が設置され、各学科で他大学の点検に適する教員数名を推薦してその人たちに招待状を送る。この場合、自分の属する大学協会の区分を越えて推薦してもよい。その点検者に学科の評価をしてもらうために、教官たちは次のような項目の資料を作成して提出する。目的(mission)、教科書および参考資料、試験の実態、課程(コース)、コース全体の内容のサンプル、学生のグレードのサンプル。更に学生が教官を評価した学生評価などである。最後に「当校はこういう目標を目指してがんばっており、まだ達成していないけれども4年先には達成したい」といった事項を付け加える。

 自己評価(自己点検)し、自分達で立てた目標に対して、ある期間内に責任をもってそこに到達することは容易ではない。自己評価方法導入当初は、日本も米国も大学の先生の反応は全く同じで、不満を持ったり反発する人がいた。なぜなら、目標を書いたり、コースの現状を書いたりというように、相当の分量の資料を準備する必要があり、それが教員にとってはかなり煩雑な作業であるためであった。しかし大学が若い人達を教育するためには、社会のニーズを無視することができないし、社会のサポートなしに大学運営は成立しないので、より多くの社会のサポートを得る為に不承不承始めた改革であった。

(2)大学教員の教育能力
 この改革導入による最大の成果は、「大学教授の仕事の第一は教育である」と明確に定義されたことであった。それまで大学教授は、研究によってのみ評価されてきた。即ち、研究の成果を発表し、出版した論文の質と量がその教授の昇進、昇格の基準となり、それによってのみ大学教授個人の評価がなされていた。

 しかしこの改革が起こってから、そのような姿勢に変化が現れた。第一に教育、第二に研究というように、教育が最優先されるようになったのである。それと同時に、研究自体も自分の好き勝手に進めるものではなく、社会や教育に貢献するものという形で、研究の優先順位まで決まっていった。それまで大学教授は、自分の専門分野以外は関係ないといって「主観的」に教えることができたが、この改革以降教育内容にも客観性が必要になってきたのである。

 具体的には、同僚や他学部の先生達を招待して教育の現場にきてもらい、授業を参観して頂いた後に、コーヒーを飲みながらそれについて討論する。同僚達は良い点は指摘してくれるが、何もコメントがなければ悪い点が多いということになる。厳しい批判は殆どなかったが、同僚の前で授業をするには客観性のある教育案を準備し、それに沿って授業を進めることになる。

 米国の大学で教官を雇用する時に困ることは、学位取得者や学位候補者でも教授法に関してはまったくの素人だということがある。当時の教授法といえば、自分が持っている知識を単に教室で話せば通用するというものであった。しかしそれ以降は、採用する場合には多数の候補者の中から数人を選び、教室で実際に講義を担当してもらい、その中で一番上手な人を採用するという形に変わった。さらに採用する場合は、必ず二つ以上の学会誌に採用条件を載せなければならないし、掲載するときには職域と具体的な仕事内容を明示するように決めた。それは採用される側にとっても、採用する側にしても面倒なことだった。しかし10年位経て大学のレベルを比較してみると、実際に大学は比較して、とてもオープンなものに変わったのである。

 従来「アカデミック・フリーダム(学問の自由)」を盾にして、他の教授に対して自分の領域に干渉させない人が多かったが、この改革によって現在ではそのような閉鎖的気風がなくなった。いろいろな先生を外部から呼んで、授業のデモンストレーションをしてもらったり、我々自身もワークショップをつくったりして教育現場に取り組んだのである。これらは「インサービス」といって、仕事の時間内で行われた。外部講師を呼ぶ場合に、その経費を大学が負担するために大学としてもかなりの財政出費があった。今まで自分のところだけに閉じこもっていたのものが、外部の人の教え方や意見を聞き、自分たちからの意見も聞いてもらうことにより、非常に開かれた大学になったのである。また帰納的に大学での教育レベルが上がったのである。

 以上のように、約10年位かけて米国の大学は大改革を実施した。その結果、大学におけるカリキュラムの改訂、授業の質の向上、単位互換制の導入、編入制度などが導入され、大学運営が大きく改善されたのであった。

 私が日本に戻った頃(93年)、大学の文科系の学科に所属していたが、米国の大学と日本の大学の落差にとても驚いた。英語についていうならば、日本の大学では、そのころでも英文法、英作文、英語購読といった区分になっていて、私が大学生の頃の区分と全く変わっていないのである。変わった点といえば、教科書の体裁が少し新しくなった程度で、内容、区分、教授方法もまったく変わっていない。しかし現在では、ずいぶん改善されてきていると思う。

 私の勤務している大学では、英語教育改革委員会をつくり、月一回、外部の人も交えて英語のカリキュラムを検討している。最近の米国やヨーロッパでの言語教育の主流は、コミュニケーションを主にしたものとなっている。ところが日本の英語教育は、現在でも購読や文法の日本語による解説が中心であるために、コミュニケーションが出来ない英語教育になりがちなのである。そのような反省から、日本でも少しずつコミュニカティブ・メソッドが出てきて、慶応大学や関西学院大学などで既に導入し、かなり成果をあげている。

3.米国の大学のしくみ

(1)大衆教育と生涯教育
 日米の進学率に関しては、米国における大学進学率がわずかに高い程度で、日米の格差は縮まりつつある。大学は従来エリート教育が主体であったが、今では大衆教育へと移行してきている。50%前後の高校卒業生が大学へ進学すれば、当然それはエリート教育とはいえず、幅広い人達の教育になるので、大衆教育としての位置付けにならざるを得ない。ただ一部の限られた大学では、今でもエリート教育が行われている。しかし米国では、エリート教育と大衆教育(注1)とはいっても、それぞれの大学間で単位の互換性、編入制度があるので、それぞれが全く違うカリキュラムを組むことはない。

 カリフォルニア州では1950年代末に「高等教育の三段階システム」(three tiers system)をつくり、これが後に米国の他州での高等教育のモデルともなった。このシステムでは、カリフォルニア大学、カリフォルニア州立大学、コミュニティ・カレッジの三段階を決めている。それぞれの関係は次の通りである。
<エリート教育と大衆教育を兼ねる>

 University of California System(専門家教育、研究者養成、BA、MA、Ph.D.)
<大衆的で授業料も安い>

 California State University System(一般高等教育、教師養成、BA、MA)

 Community College System(短大、職業教育、一般教養、AA)

 これらはどこからでも相互に編入学できるように、単位の互換性が保証されている。

(2)学部教育
 1980年代にカーネギー教育発展基金(Carnegie Foundation for Advanced Teaching)は、大学、特に研究専念を旨とする大学の学部生の教育の重要性を主張して、教育の見直しを提案した。上述のカリフォルニア大学でも、教授評議会(Academic Senates)で学部生への教育重視を決議し、全教科で教育法を研究、実施することにした。これは「エリート大学の大衆化」とも言えるもので、かつてなかったことである。この教育重視は、大学の教育水準の向上、確立にもつながり、編入はもちろん、大学院への入学水準をも助けることになった。

 また米国の大学は、専攻に関して「主専攻(major)」と「副専攻(minor)」を定めている。例えば、英文学をメジャーとして選択し、別の科目をマイナーとして選択する。ここで面白いのは、「ダブル・メジャー」という制度があり、科目二つを同時に専攻することもできる。また、「選択科目(electives)」といってメジャーや一般教養以外何でも良いというのがあるが、この選択科目を他の専攻科目で選び、二専攻にすることもできる。

 専攻を途中で変更する学生が多いことも米国の大学の特徴である。日本の大学では、入学時に専攻を一旦決めたら動かせないが、米国では2年生までは決めなくてもよい。入学時に希望を聞くけれども、それは単に希望という意味であり、3年生になるときに決める。そのときにはいろいろな専攻をみてまわり(ウインドウ・ショッピングという)、自分で勉強してみてそれが自分に向いていないと思うと変更する。そして主専攻が決まると指導教官につき、相談しながら勉強していく。

 ところが日本の大学では専攻を変えることは容易に出来ないので、途中で嫌になって喪失感を味わう学生もいると思う。例えば、高校時代は好きで英語を勉強したけれど、専門的に学んでみたら不向きだったというケースも多い。それで勉強に専念出来なくなり、欠席も多くなる。学生の学習意欲を起こさせるためには柔軟な編入制度とか、容易に専攻が変えられる制度などを日本にも導入する必要があると考えている。

 日本では今でも編入はほんの限られた数だけである。一度ある大学を卒業してから仕事をしていても、再び英文学を学びたいと思ったらまた入試を受けて1年生から始めなければならない。しかし米国であれば、一度その大学で学士号を取得すれば、次に入学するときは何の関門もないのである。その点で米国の大学は、自由に専攻をかえられるという利点がある。

 また「高等教育の三段階システム」に関して言えば、私の娘の一人も米国の大学に入学する前の1年はコミュニティ・カレッジに通っていた。そのパサデナ・コミュニティ・カレッジは授業料が無料で、必要経費は教科書代と駐車場代くらいである。そこで1年間学び取得した単位は全部、カリフォルニア大学サンディエゴ校に入学しても振り替えができ単位として認定してくれる(これをトランスファーという)。これはまさに「高等教育の三段階システム」のおかげといえる。コミュニティ・カレッジから州立大学へ移れるし、また大学院レベルである医学部に進むこともでき、学生のトランスファーは、受け入れ大学さえ許せば、かなり自由に出来る。勿論、受け入れ大学の要求するレベルに達しなければならないので、トランスファーをするには、かなり勉強をすることはいうまでもない。

(3)大学選択の基準
 日米ともにどの大学を卒業したかというステータス、いわゆる「学歴」がある。しかしその意味と影響力は、それぞれかなり違うように思う。米国では、私立大学がそれぞれの個性をもった大学の性格を打ち出し、公立とは異なるユニークさ、学力のレベルなどをもっている。私立大学の学費は高いけれども、そうしたユニークさにあこがれて、高校生は大学の選択をすることになる。

 大学の選択基準について、99年8〜9月にでたTHE U.S.NEWS&WORLD REPORT("America's Best Colleges")誌から垣間見てみよう(注2)。

 そこに挙げてある選択基準は次のようなものである。
@ 著名な教授のいる大学
A多岐にわたるカリキュラムとかカリキュラム以外の活動
B大学が行っている特殊な研究(例えば、Duke大学の地質学での潜水艦を使っての海底調査)
C大学の大きさ:大が自分に向いているか、あるいは小が合っているか
D教授と会えるチャンスの多いところ

 その項目の中には、どこそこの大学は有名だからというように、単に有名だということだけで選択する学生は、この調査では見当たらない。‘How to meet your needs'(自分のニーズにどのように適合するか)ということが優先し、その上で有名校であれば大変よろしいということになるのである。もちろん、有名校であればそれなりのステータスが得られるけれども、それは日本ほどではない。ただ、親はそうしたことを子供に望み、そのプレッシャーが大きいことはいずれの国も同じである。

 次にTIME誌によると、‘The Princeton Review:The Best Colleges for You'には、次のような順で大学を決めるとして紹介してある(注3)。

@ 親の経済状態
 (授業料及び必要経費は、米国では平均値が公立で10458ドル、私立で22533ドルとなっ  ており、その格差は大きい。私立有名校は高価である)。

A 大学の場所
 (海岸志向:アイオワなどは不可、町中のexciting place:N.Y. urban vs suburban)

B 気候
 (暖かいところ:フロリダ、多雨地域:オレゴン、砂漠:テキサス)

C大学のサイズ
 (大きい大学はexciting、小さい大学はpersonalだという。−The Chronicle of Highe  r Educationによれば、65.1%が強い関心)

D 高校の友人との関係
 (一緒に学ぶか、競争するか)

E 大学での生活環境
 (寮/アパート−ある大学では寮のみを許可。大学を見に行くときには、必ず寮も同時  に見る)

F 自宅からの距離
 (旅費、電話代、休暇の時の帰郷も考慮)

G 教授の資格
 (著名度、博士号をもつ教授の率、TA−助手が何人とか。The Chronicle<同上>では、  48.4%が重視)

H学生と教授との比率
 (米国全国における平均値 11:1)

Iカリキュラムの多様性と課外活動の多様性
 (サッカー、演劇、シンフォニーなど−The Chronicle<同上>では、12.1%)

J図書館のサイズとその環境

 このような学生のニーズに対して、大学側も競争してそれに応えるよう努力し、優秀な学生を得ようとしている。優秀な教授、優秀な学生が大学のランキングを決める最も重要なポイントになるために、そこに大学としては力点を置いている。

 このようにして学生は、翌年9月の入学願書を受け付け始める時期の11月中旬までには、両親や友人達と大学回りをしながら、どの大学に入るのかを決定していくことになる。

 両者の言い分は次の語に集約されている。

大学側/Be-all and end-all of higher education
  (大学教育でのニーズ、目的のすべてを適える)

学生側/‘Shop smart’,‘think ahead’,‘know the lingo’,‘ask around'
  (「賢く選べ」、「よく考えて選べ」、「大学の言う言葉の裏まで知れ」、「人に大学のことを聞きまわれ」)

(4)入学試験制度
 日米の大学の違いは、入学試験にも現れている。米国の大学は、基本的に個々の大学がその行政に関して自己責任で行っているために、入学者選考も当然多様なものとなっており、一般的には日本のような「入学試験」はないといえる。一般的な選抜基準としては、高校での学業成績(特に、高校2〜3年のテスト結果など)(注4)と「大学進学適性検査(SAT)」(Scholorstic Aptitude Test)、「アメリカ大学テスト(ACT)」(American College Test)[米国中部の州はこちらを重視する傾向あり]など(注5)の成績を基にして決めている。大学によっては、それ以外に小論文(注6)を課すところもある。

 例えば、カリフォルニア大学では州の法律で高校卒業生の上位者10%を許可しなければならない。州立大学ではその数値が上位25%になっている。しかしここ十数年はずいぶん学生数が増えたために、徐々に関門が狭くなってきている。そしてコミュニィティ・カレッジで優秀な成績を修めると、編入試験で2年生になるときに、カリフォルニア大学で転校、落第した人たちの枠ができるために編入しやすい。2年生の進級時に成績の悪い学生は落第するが、その人たちは逆に州立大学やコミュニィティ・カレッジへ行ってやり直すこともできる。

 大学では入学者全員に対して数学と英語の試験を行う(これをplacement testという)。1年生のレベルに満たない人は、準備コース(remedial course)に入る。このプレイスメントテストは1970年頃から始まった。この試験で良い成績をとった人は、必修の英語を何単位か認定される。

(5)一般教養と卒論
 大学に入ると、一般教養がある。この頃は共通科目と呼ばれているが、米国では日本のように先生を一般と専門に分けることなく専門の先生も一般教養の講義を担当する。そういう意味では一般教養の先生も専門科目の先生も同格である。一般教養は日本のように全員が同じ科目を選択するのではなく、科学ならその枠の中で何単位を修得するというように、選択肢が数多く準備されている。

 それから日本の大学では卒業論文があるが、米国の大学にはそれがない。通常、無事にすべてのコースを修了したら卒業できる。日本では入学試験が重視されているが、米国では自己評価・自己点検が始まってから、卒業試験というのが生まれつつある。例えば、フランス語を学んだ人がそれをパスしないと卒業証書をもらうことができない。それゆえ大学の方でも、ゆったりしていると単位は取れたけれども卒業できない学生が出てしまうと困るので、深刻に受け止められるようになった。

 私は日本の卒論は、すべての学生が動機をはっきり持って勉強するという点ではとてもよい制度であると思う。自己責任はとても大切である。卒論に対しては熱心に取り組む学生が多く、かなりまとまったものを書いてくる。卒論をまとめて小冊子にして配布するが、意外な学生がよい論文をかいてくることに驚くことがある。ただ剽窃も多く、注意しなければなならない。

(6)教授法
 私が大学教授になったころは、自分の知識を授業の中で説明すれば仕事として事足りたのだが、自己評価・自己点検が始まって以後は学生の考え方を育てなければならないようになった。哲学を教えていたとき、自己点検制度の始まる前には講義ノートに基づいてソクラテスならそれに関しての知識の伝達をしていたが、自己点検で指摘されたのは、ソクラティック・メソッドという質疑応答の教育法の実践であった。哲学の授業ならば学生が授業の前に指定されたテキストの箇所を読んできて討論をする。学生と教授の質疑応答が授業の中で続くので、予習による予備知識がなければ授業についていけなくなってしまう。

 これは哲学科だけで行っているわけではなく、英語科とかスペイン語科などでも行われ、結果を重視するコミュニケーション主体の教育方法である。スペイン語の授業であれば、授業の初めから終わりまでスペイン語で行なわれ、殆ど英語は使わない。初級授業に限り、必要に応じて英語が使われる程度である。この方法が導入されてからスペイン語やフランス語、日本語なども効果が上がった。

 かつて私がカリフォルニア大学日本研究所にいたときに、東京の二つの大学が「英文科の学生を送るから世話してくれないか」という話があり、4週間英語の教育をしたことがあった。驚いたことは、それまで8年間英語を勉強した日本の学生の英語の実力と6週間日本語を学んだ米国人の会話力が殆ど同じだったということである。

 これは教育制度の違いからくる問題である。読解力や語彙数は日本の英文科の学生の方が確かに多いが、習った言葉をコミュニケーションに利用するという面では米国の学生の方が6週間の割には進んでいたと思われる。カリフォルニアの語学科ではコミュニケーションも含めて、卒業時に試験を課している。

 日本ではゼミがあるが、米国には学部ではゼミはまずない。学部教育ではだいたい専門課程へ進むための教養を中心として進めており、ゼミというのはどちらかというとソクラティク・メソッド、即ち準備された知識を基に討議しながら進めて行くという形式の教授法であるから、学部段階では殆どなく、ゼミの準備コース(preseminar)というものがある。

(7)大学生活
 米国でも日本でも学生はよくアルバイトをするが、カリフォルニア大学で大学院を目指している人たちは学部でもアルバイトをしている時間はまずない。私の娘は同大学在学中にアルバイトをしていたが、学内でのアルバイトとしては10時間程、それも2年生くらいまでで、それ以後はやれる状況ではなかった。

 殆ど米国の学生は高校を卒業すると経済的に独立する。学生でも自力で生活することが、普通のアメリカンスピリットである。学生がアルバイトする目的は学費捻出で、多い人は20〜25時間位アルバイトに当てている。一方、日本の学生は、アルバイトで稼いだお金を旅行や洋服につぎ込むようである。それで生活している人はまずいない。アルバイトをする目的が日本と米国の学生とでは全く違う。いずれにしてもアルバイトで時間が制限されるとある程度勉強に響くようである。

 また、日本の学生は洋服などの流行に非常に敏感だと思う。米国の大学では、服装は自由気ままで、関心がないというわけではないが、相対的に見てかなり質素だと思われる。というのは自力で生活をしなければならないからだと思う。もう一つは、大学へ入るときの意識の問題もあると思う。米国の学生は、大学へ入学して何をするのかという動機と目的意識がはっきりしている。一方、日本の学生は入学試験が大きな目標になっていて、入学試験が終わると一息ついて次の目標をつかむまで勉強はしない学生が多い。中には3年経っても目的をつかめない学生もいるくらいである。

(8)授業料と奨学金
 米国の大学の平均的な授業料は、公立が10458ドル、私立が22533ドルとなっている。米国の公立大学は、日本の私立大学とだいたい同じくらいか少し高いくらいである。米国の私立大学になるとはるかに高くなる。

 ここでTimeとNewsweek誌の大学の特集記事からいくつか興味深いデータを紹介しよう(注7)。

 教官と学生の比率でいえば、カリフォルニア工科大学が米国では一番で、教官と生徒の比率が1:3となっている。授業料が高い理由がここにある。ハーバード大学でも1:8である。授業を取った学生の中を16単位ごとに1人とカウント(FTE)するので、ハーバード大学では実際には1:6位であろう。私の勤めている大学が交流しているモントレー国際大学という言語に中心をおいた大学では、1:2となっている。逆に、カリフォルニア大学は、1:14である。これらは常勤の教官のみを対象にしているので、非常勤の教官は数に入っていない。日本の大学はどのようになるであろうか。

 米国の大学には数多くの奨学金制度があり、約31%の学生が何らかの形で経済的援助を受けている。私自身も米国へ行き、学部で2年くらい英語を学び、大学院へ入り、博士課程の8年間を米国で過ごしたが、授業料、生活費はずっとスカラーシップであった。結婚して、子供までいても全部奨学金で生活ができたのである。その頃から比べると今は少額のものが増えたように思う。それに比べ日本の大学は、経済援助が充実していないといえる。授業料が少し安くなるとか、非常に限られたものとなっている。そういった点でも、米国の大学生は非常に勉強しやすい環境にあるのではないかと思う(注8)。

4.大学の役割と大学改革の必要性

 大学というところは、新しいアイデアをたくさん創り、新しい技術を生むところであると同時に、また保守的なところでもある。簡単な例をあげると、一つの言葉が流行しても、大学は最初は非常に保守的、批判的で、その言葉を使うことに躊躇してしまう。そしてその言葉が辞書に一旦掲載され、公に使われるようになるとそれをサポートする側に回る。そしてその言葉の文法的解説をしながら、過去の学問を拠り所にして、また新しいものを批判する。この手法は大学の先生の大変得意とするところである。文化の流れというのは、常にそういうものではないかと思う。これはヨーロッパ、米国、日本その他どこでもほとんど同じ状況であろう。

 一つ例を挙げると、シェイクスピアという人は非常に新しいものが好きで、当時流行っていた外来語としてのフランス語を新しい(inkhorn termという)言葉として使ったり、品詞を変えて使ったり、過去の文法にそぐわない新しい言葉を作ることなどをした。ところが同じように作家でありながらも、『ガリバー旅行記』を書いたジョナサン・スィフトはその反対で、英国にアカデミーをつくって言葉を規制したらどうか、英語がくずれていくことに不安を感じて、英語を規制しようとした考えの人であった。

 今の米国の大学でも、これと同様に二つのタイプの学者がいる。新しいシェイクスピアのような学者もいれば、非常に保守的な学者もいる。しかしこれは言語だけに限らず、文化というものは、伝統を守る人と、それに反して機能性を重視して新しいものを取り入れようとする人との中から形成されるものだと思う。

 話がそれてしまったが、日本語も英語も語彙数の多い言語といえる。小学館の大きな日本語辞典を見ると、約45万語あり、ロシア語やフランス語と比べると殆ど3倍の語彙数がある。英語と日本語は他の言語と比べ語彙数がずば抜けて多いといえる。これは新しいものをどんどん取り入れるという文化傾向があることを示している。

 私たちの周囲を見まわしても、伝統的なものと新しいものが目につく。フランスなどの保守的な国と比べると、どちらかといえば日本は改革的といえる。しかし、米国はもう一歩進んでいる。

 米国の大学は大改革を経験してきたが、現在日本の大学がその大改革をやりつつあるときにきている。おそらくここ2〜3年で大きく変わるであろうし、また変わらざるを得ない状況になってきている。

 大学にいる人たちは非常に保守的でこの改革に積極的ではないが、しかし現実的にやらざるを得ないと思う。実際に社会のニーズと大学の現実とのギャップが大きくなりすぎているからである。私自身もう少し効果的で、かつ学生側のニーズをとりいれた大学教育になって欲しいと思っている。米国の例をみても、改革を進めるのに10年位かかっており、改革後は教え易く、学び易い大学となった。しかし、大学は公のものであり、常に内外からの批判を受ける。そして、その批判が刺激となるのである。今こそ改革を進めるべきときだと思う。

 日本では文部省が大学を統括しているので大学が自主性や個性をもって改革できない環境にあるが、今後は徐々にそれも変わっていくであろう。そういう意味で、日本の将来を考えたときに、今は苦しいが大学改革を進める絶好の時期を迎えたと思っている。
(1999年12月11日発表)

注1 米国の大学には、公的に決められたものではないが、昔ながらの「エリート大学」と戦後から次第に始まった「大衆大学」との二つの大学群に分かれている。前者は、昔ながらのアイビー・リーグ、超高等教育で知られたカリフォルニア工科大学などがあり、後者は地域に根づいた大学群といえる。両者が相互の影響しあっており、両者間では単位の互換も自由にできる。双方とも、「生涯学習」も含め、カリキュラムを社会のニーズに応えるように作られているが、その感度は「大衆大学」の方が、敏感のようである(例えば、哲学や古典などの必修科目をコンピュータに代えるなど)。

注2 THE U.S.NEWS & WORLD REPORT:America's Best Colleges;Year 2000 Annual Guide

注3 TIME / Princeton Review.The Best Colleges,2000 Edition 1999年9月発行。

注4 高校の成績(transcriptsという、高校自身のレベル評価も)で、特に重視される分野は次の通りである。

   数学:代数I/IIで高2、3年次
   英語、米文学、世界文学、それについての作文、
   科学:生物、化学、物理、地学など
   歴史:米国史、米国の政治史、文化史など
   外国語:高2までの成績
   Extra Curricula:授業外の活動評価、運動、ボランティアなど

注5 SAT I/IIは、3時間のテストで、年間に7回地域の大学で実施される。受験料は23.50ドル。I:4/8、II:10/9、11/6、12/4、1/22、5/6、6/3。またSATの練習としてPSATもある。Math to Vervalに分かれており、総合点で800点まで。ACTは年間2回で、受験料は21.00ドル。

注6 入学試験での小論文の例(大体600-800語が普通の長さ)

 [例]Occidental College:「どんな写真でもよいが、
 一枚選び、その写真が自分にとってどんな意味を持っているか説明せよ」

 Princeton Unviersity:「時間と資金を与えられて、どんな技術でも、技能でもよいが、専門的な知識を身につけるとするならば、何を選ぶか。またそれはなぜか」

 Randolph-Macon Women's College:「あなたは自分の世代について何か尋ねられたことがあるか。尋ねられたとしたら、あなたはどんなことを話したか。尋ねられなかったら、どんなことを話したらよいと思うか」

 Bennington College:「専門的な科学でも、特別な研究の質問でもないが、カエルが聴覚を持っているか、もっていなかということを調べるとしたら、どんな方法がよいか。それをデザインしてみなさい」、「どのような人でも、十分楽しめるような遊びの場の構造を一つ以上デザインしてみなさい」

注7 注2、注3参照

注8 学生が求める経済援助(financial aid)の割合は、公的なものが22%、私的なものが9%となっている。おもなものを以下に挙げる。

   連邦政府の経済援助
   Federal Stafford Loans:23000ドルまで
   Federal Perkins Loans:1年で4000ドル 
   Federal Pell Grants:学部生に、1年3125ドル
   Federal Educational Opportunity Grants:1年4000ドル
   College Work Study Program

 このほか、各州政府の各種の援助があり、私的なクラブとかいろいろな機関や個人まで奨学金を出している。このようになった背景には、税制面での優遇策に負うところが大きいといえる。学生は、大学のCollege Scholarship Serviceというオフィスで、奨学金の種類、条件などを教えてもらい、申請することになる。