第三の教育改革と感性教育

神戸大学名誉教授 鈴木正幸

 

1.現代教育の課題

(1)第三の教育革命
 日本の教育は今、抜本的改革の時期を迎えつつある。従来と異なる学力観、思考法を見出そうとしている。しかしそれに対して、現場の教師達の意識転換が出来ていないのが現状である。譬えるならば、蒸気機関車時代に免許証を取得してD51の運転は出来るが、新幹線の運転は出来ないように、教師が時代の急激な変化に対応して、変革する努力が見えないのである。

 例えば、これからの時代は、コンピュータが出来なくても教職に対する適性や資質を問われないような状況では良くない。日本では教師になると努力如何を問われないまま、退職するまで身分と待遇が保証されるという教員採用上の制度的問題がある。当該者に教師の適性がない場合は、転職してもらわなければ子供が大変迷惑することもある。

 また、明治時代の教師は一種の契約制であった。例えば、ある教師は5年の契約期間とその間の給与が決められおり、5年間の勤務状態が評価された上で昇給や待遇に変化があった。場合によっては、身分もそこで切れることもあるという非常に厳しい環境の中で勤務していた。現在、英国や米国の教員採用の原則は、それと同様である。

 近代における教育改革の歴史を概観すれば、明治期が第一の改革、戦後が第二の改革、そして今が正に第三番目の大改革になる。明治の改革は、江戸時代の身分制度から180度転換をなし四民平等へと向かった。戦後の改革は、軍国主義体制から民主化への180度転換であった。そして第三の改革は、学力観の転換である。これまでの教育制度は、先生が教え、子供が教わるという「教師中心の知識の伝授」であった。一斉指導により、その習熟度の結果を○×テストで測り、偏差値を出し、その結果に従い優等生と劣等生を選別し、入試のランクもそれで決めてきたといえる。

 このシステムを180度転換するには、「教え、教わる関係」ではなく、教師が子供の学習活動を支援することに徹することがポイントになる。つまり「教え込みの上手な先生」は、有能ではないことになる。子供達が学べる環境を教師が支援する役割を果たすことになる。それは一斉指導だけでは難しい。子供が学びたいことを発見できるようにしてあげることが教師の役割であり、むしろこのタイプの教師の方が力量を要する。以上のような180度転換の教育改革観が共通して納得されなければならない。これが第三の教育革命の骨子である。

 例えば、文部省の総合的学習の提唱に対して、古い学力観をもつ校長達からは、「基礎学力が落ちるのではないか」という反対意見も出る。さらにその保護者、親達、一般社会にも、この改革のコンセンサスが明確に理解されなければ成果は上がらない。ゆとりの教育の為に学校に週休二日制を導入しているが、親たちが受験学力の補強のため予備校や、塾に通わせる時間に割いたら意味がない。ゆとりの為の時間を「真の学力」を伸ばすために使えるかどうかがポイントになる。

 日本において第一、第二の改革は、外圧による革命であった。しかし第三の改革は自分の手で自分達の教育を変えることであり、それは至難のわざである。自己否定、自分犠牲をしなければ変革できない。しかしそこを乗りきらないと、日本の21世紀はない。

(2)教育的思考法における日米の違い
 昨今の日本の教育現場の混迷の原因は、過去130年間にわたる「知識の教え込み」に起因している。詰め込み教育が日本人に発想力を失わせてしまったのである。ここで、ノーベル賞学者である利根川進教授の話をもとに、日米の教育的思考の違いについて見てみよう。

 利根川教授が米国の大学院での教鞭の経験から、日米の学生を比較した上で指摘していることは、「日本のエリート大学出身者が、米国の大学に留学してきて研究室に入っても、あらゆる面で米国の学生とは勝負にならない」ということである。日本では幼稚園から大学院まで先生の指示を受けて勉強するという受身的方法であるため、主体的な米国の学生には勝てないし、あらゆる分野の研究で日本がノーベル賞をとれないのは当然のことだ主張する。

 さらに利根川教授は自分のお子さんを米国で育てているために、日米の教育観の違いについていろいろと気づくことがあるという。小学校1年生の息子さんは日本語と英語の日記を書いている。日本語の日記は日本人学校の先生に、英語の日記は米国人の現地の先生に定期的に提出するが、先生方はそれぞれきちんと読んで短いコメントを書いて下さり、定期的に本人のもとに戻ってくる。

 あるとき、「1歳の弟がとてもかわいい」と日記に書くと、米国の先生は「小さい弟がいていいね。仲良く遊んでいる姿が目に浮かぶようです」というように、子供の目線に立って一緒に喜んでくれる。一方、日本の先生は「弟がいていいね。悪いことを教えないようにしましょうね」と書いてあったという。

 またある時は、「晩御飯に大好きなスキヤキが出た時、おいしくてごはんを3杯も食べた」と書いたら、米国の先生は「スキヤキっておいしいようですね。先生はまだ作り方を知らないので教えてくださいね」と書いている。日本の先生は「野菜も食べるようにしましょう」と書いてきたという。

 「悪いことを教えない」ことや食べ物のバランスについて指摘することは間違いではない。しかし日本の教師は、常に教育者として教訓を垂れなければいけないと思い込みすぎているようにみえる。スキヤキを喜んでいる子供には、共に喜んであげればよい。ここで日本の教師と米国の教師の基本的な違いがあるように見える。教師が子供の視点に立てるかどうかは大切なことである。

(3)新しい学力観
 また、生徒に対して「知識の伝達」と「思考させること」のどちらを優先させるかも教育改革のポイントである。

 考えさせることを重要視する英国の例をあげてみる。英国からの帰国子女がGCE (General Certificate of Education)の難しさを話してくれた。このGCEに合格しないと大学に入れない。イギリス人にも難しいテストに彼女は合格した。そのうちの一科目として日本語を履修したのだが、日本語の最終試験は、平安朝文学の物語性について半日かけて論ずるものだったという。日本語が話せても日本の高校生ではとても合格できないほど難しい試験である。

 日本で歴史科目の優等生といわれるには、年表や史実を正確に記憶しているだけで大体は良いが、英国ではそのレベルでは通用しない。例えば、試験では「第二次世界大戦は何故起きたのか。あなたの意見を述べなさい」という問題がでる。英国では、習ったことしか回答できない、自分の意見が言えない学生は優等生とはみなされない。暗記より考えさせることに時間を割くべきだと考えている。「いつ起きたか」ではなく、「何故起きたか」が大切なのだ。

 しかし現実の教育現場では、年代や英単語の暗記に学生達がエネルギーを投入せざるを得ない状態にあるため、一番重要な「考える力」が育成されないのである。史実などを問うのであれば年表を配布すればよいし、英語の単語ならば、入試に辞書を使わせてもよいだろう。語学習熟度のバロメーターは、辞書を効果的に活用できるかどうかにある。知識の量を問うだけで、学力を測ってきたことは大きな間違いである。

 これを180度転換し、一人一人の「感性」と「考える力」を伸ばすことが日本の学校教育における最大の課題である。それができなければ、今後も大学や大学院レベルの研究でも欧米諸国の学生達の後塵を拝するしかないであろう。

2.「感性教育」の提唱

(1)体験の重要性
 そこで「感性教育」について考える前に、まず「知っている」状態と「分かっている」状態の違いについて説明しよう。「知る」から「分かる」の岸に移させることが今日の教育改革の基本命題である。「知る」の岸から「分かる」の岸に移るには、「体験」という川を渡る必要がある。ここで私は、その「体験」の川において、「ナルホド」「ナットク」という原体験を通して「真の学力」が形成されるので、このことを「N体験」と呼んでいる。

 わかりやすい例として、私の幼少期における田舎での体験を紹介しよう。

 小学校低学年のころ、私の家の庭に山桃の木があった。これは実がたわわになり、とてもおいしいので、近所の子供と一緒によく食べたのだが、ある時その木の枝に蜂の巣があるのでうかつに近づけなかった。しかし私は、何かの知識で「蜂には人間が攻撃しなければ刺さない特性がある」と知っていたので、蜂の巣に近づいては桃を独り占めして食べていた。蜂は知らん顔をしていた。ところが私は根がおっちょこちょいなものだから、蜂の巣をめがけて種を軽く投げて見たことがあった。その瞬間5、6匹の蜂が刺しに飛んで来た。木の上に登っていた私は、刺されっぱなしであった。

 その瞬間、私のニューロン(脳神経細胞)がネッワークを張った。即ち、「あの本に書いてあったことは本当なのだ」と悟ったのである。「知っている」だけでは学習効果はない。「分かる」という右岸に移って初めて二度と同じ失敗をしないようになる。

 「真の学力」や「生きる力」とは、正にその右岸から出てくるものなのである。体験の川で私は刺されるという体験を通して右岸に移ったのである。ニューロンがネットワークを張って、このときの「なるほどそうか」という体験をしたが、これをN体験と呼んでいるのである。そして右岸に移った後、そこで内なるモノサシ(内面的な価値判断基準)を自分の中に体験に基づいて形成することになる。

 これまでの教育は、ともすると校則や罰則を強化して教え込み、違反者を懲戒するというやりかたであったが、それは間違っていると思う。そのことと幼児期の「しつけ」とは切り離して考えるべきである。更にいえば、日本の家庭ほど幼児期のしつけが悪いところはないし、それが学級崩壊のベースになっていると思う。
先日、文部省は「学級崩壊の原因の7割は、教師の指導力不足」という結論を出したが、それは正しくない。小学校低学年時に授業が面白くないからといって席を離れたり、嫌なことを我慢できない原因は、むしろ家庭内のしつけ教育の不足から来る問題である。幼児期のしつけは、体罰を以ってしても行うべきである。しつけはおしつけるもので、道徳は考えるもので、うちなるモノサシを自分の中につくることをいい、両者は全く別物とすべきである。

 今の学校教育はその点を取り違えている。規則を守る生徒が優等生であるという考えは間違いで、規則はなぜあるのかを考える生徒の方がむしろ優等生といえる。今後、日本の教育現場では「考えて、納得させること」を大切にすべきである。先生の体罰を怖れて規則を守るのは本物ではない。しかし日本の近代学校教育は100年以上そうしてきたので、それを180度転換するのは大変革である。

(2)豊かな感性を育む教育
 体験の川を渡り、分かるだけでは十分ではない。それ以上に重要なファクターは、「意欲」である。自発的にやる気が子供から出てこなくてはならない。教師や親によってさせられるのではなく、子供の意欲の土台の上に豊かな感性がなくてはならないのである。豊かな感性があってはじめて、問題意識の喚起や課題達成力も高まるのである。つまりヤル気のある子が大切だ。しかしながら教育現場にいる教師達は子供達のなかに、興味やヤル気がない子もいるという先入観で見ているケースが多いことも問題である。

 「人間は本質的にすばらしい感性を持って生まれてきている」という確信が教師達の中になければ、個々の子供達の持つ感性を引き伸ばすことは難しい。豊かな感性は、生得的なものである。胎内では母体にすべてを依存するが、母体から体外に出たならば、外界に対して鋭い感性を持ち合わせないと自己生存が危機に瀕することになる。赤ちゃんはいろいろなものに触れ、口に入れてなめて確かめる(「探求反射」)が、それと同時に苦ければ吐き出すような「抑制反射」も生まれながらにもっている。この両者を合わせて「おや、なんだ現象」という。

 人間が生存していくためには、自分と外界とのかかわりで、自分にプラスかマイナスかをしっかり見極める力をもたなければならない。幼児期にそのもって生まれた感性を育てるか、削るかによって社会に対する適応能力が変わってくる。幼児の感性を豊かに引き上げる発想が足りない母親が多いことも問題である。

 次に、良い母親の代表例として、大学生が書いた「毛虫のおかあさん」という感想文を見てみる。

 私は虫や動物の大好きな元気いっぱいの女の子でした。ある日、幼稚園の帰り道のこと、近所の家の生垣に黒い毛虫がたかっていました。その日着ていた真っ赤な毛糸のベストに、毛虫をいっぱいつけて意気揚揚と帰ってきました。近所のおばさんたちは、「何、この子!?」と顔をそむけます。家に帰って、「ただいま!」と玄関の戸をあけました。母は最初、おどろいた様子でしたが、少し間をおいて、「模様ができたみたいね」といってくれて、本当にうれしかったことを覚えています。

 一般的な母親は、毛虫を叩き落とすまで子供を玄関から家に入れないに違いない。しかしこの母親の特筆すべき点は、我が子の頭の中では、毛虫、バッタ、蝶も同じ仲間のうちにあることを理解できた点である。毛虫はこわい、汚いという先入観がないので、子供は手で掴んで服につけたのだが、近所の人の怪訝な顔に不安になった。家についたとき、母親は驚きながらも子供の目線に立ち、叱らずに受け入れた。この小さな体験が、後の母子の信頼感、愛情の結びつきを強めたのはいうまでもない。
この話をPTAの母親達に話すと「毛虫だらけの服で室内をゴロッとされたら困る」という反応が多い。現実的対処としては、毛虫の家は布団の中ではないことはこの幼児も理解できる。「おうちに返してあげましょう」と説得し、裏庭に回して毛虫を全部落として、子供がテレビを見ているときに踏み潰す。玄関先で踏み潰すか、2、3分後、時差をつけて踏み潰すかによって、大きな違いが生じる。子供が大学生になっても消えない。その効果は却って拡大再生産されているのだ。感性を大事に育むのは親の責任で、その配慮ができるかどうかが成否の鍵である。

(3)幼少年期の重要性
 子供の感性教育は、幼児期の言語学習と関連している。スズキ・メソッドで有名な鈴木鎮一先生は、幼児の言語学習のメカニズムを観察して、誰でもバイオリンが弾けると提唱しはじめた。自分がドイツに来て何年も経つのに、ドイツ語をマスターできないにもかかわらず、ドイツの子供は3歳、4歳ですぐに上手になる。それは日本の子供も同様で、日本語という難しい言語を幼児はいとも簡単に身につけていく。これをそのままバイオリンに応用すれば、誰でもバイオリンが弾けるはずだという仮説を立てた。幼児の音感の能力を音楽の音感能力に移しただけのことである。それで実際、誰でもバイオリンが弾けることが実証された。

 また幼児期に4〜5くらいの言語をマスターするのは、環境が与えられていればとても簡単である。大戦後できたスイスのペスロッチ子供村という戦争孤児の村には、世界中の子供がやってくるが、多くの外国語が飛び交うので子供たちは短い期間でバイリンガルになれる。こうしたことは幼児期に限ってのみ可能なことである。これを大脳生理学的に見れば、3歳までにニューロンとシナプスの結合が急速にでき、少し時期をおいて5,6歳でまた成長し、8,9歳で止まる。その頃までに出来上がったソフトプログラムを使って人間は一生を送っているのである。

 このように感性教育の重要なポイントは、幼少年期にある。この時期の教育は、論理ではなく感性でスタートすべきである。例えば、囲碁や将棋のプロも小学校時代に定石を覚える。そのときの定石は、論理的に学ぶのではなく、感性で覚えるのである。「石が汚い形では、打てない」というように、感性でもって基礎を固めれば、後に論理で磨けばプロになれる。その時期を逃してしまうと、いくら努力してもアマチュア5、6段くらいまでが関の山で、それ以上は強くなれない。この発達段階の適時期を「臨界期」と私は呼んでいる。絶対音感の臨界期は4,5歳、バイリンガルの臨界期は9,10歳である。音に関する環境は、比較的早い。

 論理はあとから学んでもいくらでも習得出来る。つまり(大脳の)左半球(論理)よりも右半球の方が大切なのである。私は教育には感性教育が不可欠であると考え、知育、徳育、体育に、「感性を育む教育」を感育と呼び、これを加えて四育とし、人間の全面的な発達を考えている。

 大脳生理学者である京都大学名誉教授大島清氏によると、人間は加齢しても感性的な分野を大事にしていれば老け込まないという。大島氏は、最近チェロを習い始めたという。ヨー・ヨー・マという世界的なチェリストがいるが、彼はマー・マー・ヨと自分をよんでいるという。

 例えば、単純な三拍子でも日本人には演奏できない。子供のときからそのリズム(三拍子)に親しんでいないと、感性的に臨界期を過ぎているため演奏するのが難しい。日本には本来三拍子はなく、日本の伝統的リズムは二拍子で、「すり足」である。田んぼの中では土に足が捕まり、跳ねて躍れないからである。日本舞踊も同じで、日本には飛び跳ねるバレエはない。同じ三拍子でも、ウィンナワルツの三拍子をベルリンフィルは演奏したがらない。これはウィーンの人でないと出せない味があるという。

 自分の出身地以外の方言を大人になってから真似ても出来ないのと同様である。大阪弁をマスターするには、子供のころ大阪の方言圏内にいなければならない。幼児期、少年期を過ぎてから真似ても不自然さが指摘される。小学校4、5年生くらいが臨界期である。つまり人間の発達段階において大事なポイントは幼少年期である。

(4)感性教育と歌
 歌を鑑賞したり、歌ったりするのにも、多彩な感性が必要である。また、自分の感性だけではなく、他の人の感性も大いに参考にすることが必要だ。

 例えば、有名な「あかとんぼ」の歌を引き合いに出して考えてみよう。

 学生の1〜2割は「おわれて」という言葉を聞いて「追われて」と認識しているが、本来作詞者がイメージした場面は当然乍ら「負われて」であった。幼児の時、母に背「負われて」見たのはいつの日かである。2番で「桑の実を子籠につんだは幻か」、3番、「15でねえやは嫁に行きお里のたよりも絶え果てた」。

 これは三木露風の作詞である。当時、ねえやの子守り労働は一般的であった。3番までのストーリーは少し考えればわかるが、4番の「とまっているよさおの先」の意味が分からない。普通に解釈すれば「ねえや」がいない寂しさを感じながら、竿の先に止まっているトンボをじっと見ているという感じだが、実はそうではない。

 作詞者の三木露風は、5歳の時に母親が家庭の事情で実家に戻され生き別れしている。幼児期に突然起きた母との別離の寂しさを少年時代もずっと引きずり続けた彼が、11歳の時に「赤とんぼ とまっているよ さおの先」という俳句をつくった。彼は文学的に早熟で、短歌も多く作っている。母親と添い寝できるのは夢のまた夢であるというような短歌もある。つまり母のいない寂しさを多くの短歌や俳句に託したその一つが、「赤とんぼ とまっているよ さおの先」なのである。それはまさに作詞者が一匹のトンボと共に寂しさを分つ場面であり、母親を思う切ない気持ちが4番に歌い込まれているのである。

 これらの背景を無視して、1番から4番まで同じ調子で歌う歌手は下手だと言わざるを得ない。譜面の背景も理解し、表現すべきである。ゆえにこの歌を正統的に芸術的に鑑賞するためには、最後の部分を歌うときに母親と別れている寂量感が強力に表現されていなければならない。自分の感性だけではなく、作詞者の生い立ちと作曲した時の気持ちを再現できれば全く異なった歌になる。そのような姿勢は歌い手だけでなく、聴き手にも求められるべきである。

 「ぞうさん」の歌は、作詞者のまど・みちお氏の解説によると、差別をなくす歌という。「鼻が長いといって笑われても、そんなことで悲しんではいけない、個性があっても良い、皆違っているのが良い」ということをあの歌詞に込めているという。

 作曲者の團伊玖磨氏は、もう一つ別の意味をこめて作曲している。彼は戦時中に、上野動物園でゾウを殺した頃、上野の音楽学校の学生だった。ある時動物園の前を通ると、黒白の幕が張ってあった。その日から動物を殺していくという。他の動物は毒入りの食べ物で既に死んだのだが、ゾウだけは賢くて毒入りの食べ物を食べない。そして飢えたゾウが芸をして飼育係に訴える。そのスタートのところを、作詞者は生き証人として見ている。結局、ゾウは餓死するが、戦後,インドのネール首相がインディラという自分の娘の名前をつけたゾウを日本に贈った。そのおひろめの儀式で歌われたのが「ぞうさん」の歌なのであった。ゆえにこの歌には平和が来た喜びが込められているという。

 ところが、ある大阪の小学校では、2年生が教科書にあるその話を読んでも大事なところで感動しない。むしろ空腹時に芸をするのは、馬鹿なゾウだと考える生徒がいたという。現代の子供はひもじいとか、死ぬほどの空腹体験がないため、そのゾウの気持ちを理解できないのである。そこで担任の先生が相談して飢えの体験をさせた。昼食後からその日の夕食と翌日の朝食を抜いて学校に来ることに決めた。水は飲んでも良い、体調の悪い人は止めてよいという条件付で保護者の了承の上で行ったが、大失敗となってしまった。このことが新聞に叩かれて、「バタバタと倒れる、行き過ぎた体験学習」と批判され、校長が謝罪することとなった。2食抜いて水を飲んでいるのならば、命に別状はない。そもそも2食抜いてきた生徒は3分の1しかいなかった。

 そこには学校に対する家庭の協力の意識が不足している。校長はこの若い先生が始めた体験学習の意義を認め、身を呈して庇うくらいの気概が必要だ。これと同じ飢えの体験を岡山の山村の小学校でしたが、全員が食べてこなかったクラスでは、給食にばかり関心がいき授業にならなかったが、良い体験だったという。ある母親は子供とともに2食抜いたという。基本的に母親と教師の協力体制と信頼関係が子供の感性発達のための環境を左右する。

3.生と死の体験の教育的意義

 ある年の夏休みに、神戸大学の夜間コースと昼間コースの学生の混合クラスで、「道徳教育の研究」(教員資格取得に必要)の講義を担当したことがあった。その授業の学生には、フリーターや定年退職後の60、70才の方など個性的な学生がいた。彼らを対象に教職課程の集中講義を夏期休暇の夜7日間連続で、一日4時間担当した。これには昼の学部の学生も参加していた。

 最近の子供と古い世代との違いの一つは、日常生活において生と死の原体験が少なくなっていることである。古い世代では兄弟が産まれるときは、特に田舎の場合、産婆さんが来て家で出産するので、出産で母親が苦労するのは分かっていた。また、祖父母は家で亡くなるので、最後の死に水まで子供達は知っている。しかし最近は日常生活の中にあった「生老病死」の過程が、すべて病院に移行されてしまっている。母親が1週間家を空けると、かわいい赤ちゃんがきれいに衣装を着て帰ってくる。祖父も病院で亡くなり、死に化粧して帰ってくる。

 こうしたことは核家族化なども要因になっていると思うが、自分の生活空間で生老病死を体験できないところに大きな問題が在るのではないかと考えて、私は授業の最初の課題として「生と死の原体験」を書くというテーマを掲げて授業を始めた。

 ある学生は、夏休みの課題でセミの羽化の研究に取り組み、母と弟と一緒に観察したのだが、それが非常に印象的で今もその宿題がとってあるというので、その観察記録と写真を提出してもらった。記録をとどめて残しておいた母親は立派である。

 ペットの生と死の話が多い中で、「亡くなった大好きなおじいちゃんに抱きついていると、人の死体は手と足から次第に冷たくなっていくことがわかりました」という体験を書いている学生がいたのには驚いた。ずいぶん長時間しがみついていなければわからないであろう。

 またある学生は高校生の時、ガンで亡くなった母親が残した3冊もの分厚いノートを持ってきて、その母親が亡くなる少し前に書いていたものを読んでくれた。ガンが発見される前に、自分の胸にしこりができたといって子供達に触らせていたことが記録されている。「せめて花嫁姿を見たかった」とある。亡くなった母親の無念が伝わってくる。

 それに対して、「遺書のある人は幸せです」という学生も出てきた。「妹は朝、笑顔で家を出て行き、帰りには冷たくなって戻ってきました」と交通事故で妹を失った体験を話したこの学生は、「この1年、一度も笑ったことはありません」という。

 毎晩入れ替わり立ち代り、学生が教壇に立って話を続けることで授業は終始した。中でも毎晩、皆のリクエストで教壇に引っ張り出される男は、フリーターをしながら二部で学んでいた学生である。彼はお金を貯めては2、3カ月のインド旅行に行ってしまう。インド人は、独自の死生観、仏教観、宗教観に基づいて生きている。彼らには物欲がなく、亡くなった時に必要なものは自分の遺体を焼く薪だけでいいという。このような話を聞くと多くの学生は自分たちは何をしているのだろうかということになる。出席していた学生の多くが「内なるモノサシ」を毎晩つくりかえなくてはならなかった。「自分の物差しだけでは計れない。世界はこんなことだと簡単に言い切れるものではない」ことを悟らされる時間であった。夏の夜の暗い雰囲気が効果的だったのかもしれない。

 また、ある年配の学生は、次のような趣旨の話をした。

「私はガンで亡くなった父親の最後をみとり、長男としての務めを終えたところだった。そのあと私の体が調子悪くなり、病院で手術を受けることになった。そのとき冗談で家内に『ガンだったら言うな』といって手術を受けた。手術後、『ガンじゃない』と言われて、治療を受けている。しかし私は英語がわかるので、今、自分が飲んでいる薬が抗がん剤であることはわかっているのだが、家内には知らない振りをして過ごしている。今、手術をして3年経ったが、3年後の生存率は何%。この課程を5年で終わる頃は、生存率は50〜60%に上がるという。そうなったとき、自分は残った命を中国の帰国子女達に日本語を教
える仕事をしたい」と。

 当初、ニューヨークで自分の子供達を海外子女として育てた体験を話してもらう予定であったが、この人が突然自分のガンの話をし始めたのであった。すると現役の学生達は、生と死を身近に持ちながらも、この人はこんなに頑張っているという事実に大いにショックを受けたようであった。

 きわめて燃焼度の高い授業であったので、資料を整理しこの内容をまとめて本として出版する予定にしている。昼間の学生は単位を取るには最低限の努力しかしないことが多いが、「遅刻も欠席も一度もしない授業は大学に入って初めてでした」とある昼間の4年生の学生は講義終了後の感想で書いた。

 阪神大震災で6千有余の生命を失ったが、それと引き換えに学んだ貴重な教えを後世に伝え、残す使命がある。ところが1998年のわが国の自殺者数は3万2千人を上回っており、その中でも特に中小企業経営者の壮年が占める割合が高い。社会のキシミのセンサーが機能しない日本社会全体になっているのは憂うべきことである。

 そんなある時、「喝采」で有名な作曲家の中村泰士氏は、最近発表した「命の話をしよう」という歌の内容に関して、練習中の事故で重度の障害をもつにいたった元野球選手の「生きることは死ぬことよりも勇気がいる」という言葉に感銘を受けた経緯を話してくれた。日本人はもっと命に対するセンサーの感度を上げるべきである。子供たちは社会を鋭く反映させてくれる。「子供たちが悪くなった」という前に、反省しなければならないのは大人たちである。
(この論稿は2000年3月4日に名古屋の研究会で発表された内容をまとめたものである。)