米国人から見た日本の教育

桜花学園大学教授 ハリー・レイ

 

1.はじめに

 私の専門は近代日本史、特に外国史と教育史であるが、その中で戦前の教科書の内容や占領時代の教育改革について研究している。10年程前から日本と米国の現在の教育にも関心を持ち、研究し始めた。そこでまず序論として、戦後直後の教育改革について概観してみたい。

 占領時代の教育改革は、段階的なものであった。まず第一段階(1945〜46年4月)は、拒否的、否定的な段階であり、これは日本が超国家主義、国家神道を中心とした軍国主義に再び傾かないようにするためになされたものであった。この段階で米国側は、教科書から軍国主義に関連のあった内容を追放し軍事的な力を取り除こうとした。そしてそれは新憲法の9条による戦争放棄までいきついた。

 第二段階において占領軍は、日本の民主化を進めた。米国的価値観、最新の教育制度などを早く取り入れようとした。占領軍はそのためにエリート主義、男尊女卑、上下関係や権威主義的教育などを廃止しようと試みた。それと同時に、独立心にあふれ自ら信じるところを貫く市民をつくりあげようとした。この建設的段階における明確な教育の目標の主なものは、まずカリキュラムの改革、進歩的教育、教育の機会均等、男女共学、六三三四制の中での義務教育の延長などであった。当時の文部省の職員は、男女共学について相当反対した。

 そして科学的歴史教育、教育勅語や国体の概念に代わる個人主義的考え方などを基本とする教育基本法が制定され、入試改革、文部省の権限の縮小と地方分権、教科書執筆の自由化、国家と宗教の分離、国際化などを進めようとしたが、これらのすべてが成し遂げられたわけではない。そもそも過去のものを一掃するような改革をすすめることは困難なことである。

 占領軍が意図したようにはならなかった理由として、次のことが挙げられる。1番目は6年半という短い期間に対して日本は大変長い歴史を持ち、昔からの強い伝統が強く残っていた。2番目は日本に改革の土壌になるようなものがなく、大正デモクラシーくらいしかなかった。3番目に、日本は歴史的に他の文化を自分流に取り入れている。4番は、戦後の日本があまりにも貧しく、米国側が意図したスピードで改革を行うには財政的に困難であったということなどである。

2.日本人の教育観

(1)初等・中等教育
 まず日本の教育の優れている点を挙げてみよう。日本の指導者は、社会や国家の長期的利益のために厳格な教育課程を維持している。生徒が基礎科目の学力を充分習得出来るように取り計らっている。これは基礎科目に多くの年限を当てていることからもわかる。中学校段階では米国の教育と同じように学習の機会が平等であるにもかかわらず、日本のすべての生徒がはるかに高い学業レベルに達している。高等学校の卒業率は米国が75%であるのに対して、日本では95%に達している。実は29歳の時点では米国で約85%が卒業する。それまでは結婚したり、仕事をしたりしていることになる。米国では少数民族の40%、全18歳人口の13%が読み書き能力に欠けている。一方日本でこれに相当するものは3%に過ぎない。数字読み書きがかろうじてこなすことができる程度の者を含めるとこの数字がかなり増える可能性がある。

 そして国民の教育に対する期待も大きいと思う。米国の場合、残念ながら国民は教育に期待していない。米国では教育に関する批判は非常にゆるく、はっきりした形を持っていない場合さえあるのに対して、日本の場合は高い学力水準にあり、また初等・中等教育のすべての段階で生徒により高いものを要求するという点で優れている。つまり、初等・中等教育では日本のほうが米国より優れているということである。

 高等学校と大学の入学試験のあり方は、中学校と高等学校の学習に多大な影響を与えているが、それは必ずしもよい影響といえるものばかりではない。しかし、日本には入学制度があるために、中学生は勉強しないと希望の高校に入学できないというのも事実である。同様に高校生は大学の入学試験のためにしっかり勉強しないと良い大学、あるいは大学そのものに入れない。従って日本では小学校から高校まで、子供は親、教師、その他の人々から勉強するように励まされる。そしてどの入学試験も一発勝負で決めるしくみとなっている。

 この状況を米国の高等学校、大学と比較してみよう。まず、米国の高校の場合、入学試験というものがない。なぜならば義務教育が16歳または17歳までで、職業教育・一般教養などを総合的に教える地域の公立高校に自動的に入学できるためである。米国の高校生は学科に関する知識を試験されるのではなく、SATとACTのような大学の学業適性テストを受けることになる。これは潜在的な知能を測るものである。その結果、米国の学生は読み書きそろばんという必要基礎知識を軽視しがちで、大学に入る前はあまり勉強しない。大学に入れるかどうかは適性検査の結果次第で決まるからである。しかも大学入学後に、その能力不足を補うことができると考えて、知識習得を安易に考えがちになる。

 また、まず短期大学かコミュニティーカレッジに入学して成績を向上させてから大学入学を目指す道もあり、これは有名大学の入学は無理でも公立の地方大学ならば可能なのである。日本の生徒との大きな違いは、小学校時代から大学に至るまで学業に対してあまり真剣な取り組みを見せないことである。

(2)社会の教育意識
 日本は一般的に教育に対する意識が高く、教育尊重の態度があることには疑う余地はない。私がしばしば驚かされることは、喫茶店やレストランなどに入っても教育の話がよく話題にのぼることである。それが批判か誉めているかはともかく、教育の話をよく聞く。

 例えば、小学校入学時の社会現象を見ればはっきりわかる。親、親戚、周りの人々はそろって物質面のみならず、精神的にも協力体制をつくる。学用品を取り揃え、新入生を励まし、子供の新しい社会参加に精神的準備をさせる。子供が小学生になると親は3、4万円位のランドセルを買う。南山大学の学生に聞いてみても、大体30%は祖父母がランドセルを買ってくれるという。またどの家を見ても、ほとんどみな子供の机がある。

 日本の子供は学校に入ると責任あるいは役割を認識させられる。「貴方は生徒だから勉強するのだ」という考え方を教わる。入学式には来賓が出席して子供の学校教育重視の雰囲気をもりあげる。経済的に裕福でない家庭も、子供の学用品には最善の努力を払って入学に万全を期すことになる。

(3)学習認識
 米国では楽しく勉強することを基本に考えているが、日本では勉強は楽しいものではなく、特に中学、高校に入ると、努力して習得するものだから、成し遂げることに大きな意味があると考えられるようになる。これを目指して学習が成就するように子供達を励ます。もちろん誰もが教育を楽しいものにしたいと希望するが、結局、勉強は楽しくないこともある。勉強というものは基礎を作ったあとの段階から楽しくなるものである。

 米国ではIQ(知能指数)を基準にした教育をしている。IQ70ならそれなりの学習成果をあげれば満足するという傾向がある。日本では反対にIQが問題ではなく、それが低い者でも教育によって学習成果を上げることが教育の目的とされ、教師もその努力をする場合が多いとみられる。親や教師、祖父母までも「努力」を奨励し、一流大学に入れるよう励ます。米国人の場合、IQによって入れる大学を判断し、IQ以上の大学に入った場合はオーバーアチーブ(overachieve)とよくいう。

 日本の学校は責任感や細心の心配り、また働く心構えなどを教える。そうすることで日本の学校教育は、米国のそれにまさる強みをもっている。日本の生徒は各自責任をもって掃除をさせられる。また責任感が強いので教師から要求された課題は必ずやってくると思って間違いない。ただ私の経験からいうと一般的な宿題を出したら殆ど誰もしてこない。しかし誰かを決めてさせると必ずやってくる。クラブ活動にも責任感の強さが現れている。生徒が学校教育についていっそう現実的な見方をしていることがある。

 日本の生徒は学校を娯楽の場とは考えておらず、学びの場として考えている。教育がおもしろいものとは考えておらず、彼らの達成基準は、鍛錬、日課、多大な努力にあることを米国より明確に認識している。米国では授業の内容が面白くなければ、先生が悪いと評価されてしまう。

3.日本の教育制度の課題

(1)教師の待遇
 日本の教育が優れている一つの理由として、教師に対する大きな尊敬、財政的な優遇措置が挙げられる。日本の社会は、国家が教育の仕事に携わる人に対して十分な報酬を補償しなければ、教育の質的な水準は達成できないという認識をもっている。日本の教師の社会的地位は相対的に高く、教師は自分の職務に対して努力し、給料も米国と比較して高いと思う。

 もちろん日本の小・中・高等学校の教師はいうまでもなく、大学教官も自分の給料に満足しているわけではないが、日本の教師の給与水準は、諸外国と比べても比較的よい方といえる。にもかかわらず満足度が低いのは、物価水準が高いからであろう。

 日本の教師の初任給は、1960年代の終わりごろから給与規定によって小・中・高等学校レベルで公務員の初任給より10%高くなった。これは大変賢明な国の政策だと思う。また企業の給与水準と比べてみても、重工業部門、建設部門などの初任給の間に格差は殆どない。米国ではエンジニアの初任給は教師の初任給より25%高くなっている。更に日本は、年功序列制度により毎年給料があがり、50歳の給与が初任給の約3倍に上がる。米国では毎年の給与の増加は望めず、17年で頭打ちになり、1.8倍にしかならない。これらの条件が、教育にどのような利益を与えるかを考えてみたい。

 人間は自分の周囲の生活条件を気にするものである。鈴木さんの給料はどうか、渡辺さんはどのくらいか、自分の給料の絶対額がどうであろうと周囲と同じ程度であれば満足し、そのような視点から評価しがちである。教育界は企業より初任者の条件が悪いと認識されているようだが、かならずしもそうではない。企業との競争に耐えられる条件を十分に満たしていると思う。日本では給料が退職するまで段階的に増加するから、教師は生涯その職業を続けることを当然と考える。しかし、米国の場合5、6年勤続すると辞める教師が多い。特に優秀な教師にはその傾向がある。

(2)中央集権的体質
 日本と米国の教育は両方ともそれぞれよい側面を持っているが、日本の場合過度に生来の日本的価値観やや慣例を引きずっているために、日本の教育の否定的な面が顕現しているのではないか。それでは日本の教育制度の欠点はどこにあるのか。

 ひとつは日本の教育制度が、中央集権的、統制的、非民主的だということである。米国は日本占領期において最大の努力を払ったにも拘わらず、日本の教育の恒久的地方分権化に失敗した。すべての教育政策は上から指示されるという間違った考え方に惑わされている。私の考えでは、文部省が過度に教育を中央集権化しようとしているので、民主主義の完全な発展が阻害され、欲求不満な教師や市民、地方の教育委員会、学校経営者の自立と指導性が抑圧されているように思われる。文部省の権限が強いので市民、教師、学校関係者、教育委員会が消極的になっている。学生も消極的になることであろう。

(3)教科課程の画一性
 また日本のカリキュラムには非常に細かい規定が多く、厳格過ぎると思う。選択科目は中学、高校レベルで全課程の10%以下である。教科科目についていえば、90%の公立学校の総合課程は大学(短大または4年制大学)へ進学する39%の生徒のためにつくられている。61%はある意味で軽視されている。職業課程はほんの少ししかない。

 科目がもっとバラエティイに富んでいて、生徒がそれを選択でき、教師が全体的に教えることが出来れば、才能のある生徒にもない生徒にも、進学しない生徒にも、もっと大きな利益があると考える。そうしないと職業教育課程に進んだ生徒が、普通課程の生徒よりも意欲がなくなったり、差別されていると感じたり、劣等感にさいなまされたりして落ちこぼれになりやすくなる。私が教えている大学の学生の中で、劣等感を感じている学生も少なくない。日本は中等教育でもっと多くの選択科目を設けることにより生徒は恩恵を受けるだろうと思う。

 教科課程についていけない子供の学習のために、塾でなく学校教育がもっと面倒をみるべきである。ある特定の科目で同じような能力と興味をもった生徒の学級が設けられたり、コンピューターを授業に導入したり、もっと計画的かつ柔軟性のあるカリキュラムが組まれるべきだろう。

 また、つめこみ授業のために日本の教師は授業をより創造的、独創的にすること、また生徒の個人的な関心やニーズ、能力に充分に対応することが構造的に出来にくくなっている。一言で言うと日本の教育はあまりにも標準化され過ぎている。これらの拘束によって、教師は才能に恵まれたものとそうでないものとの異なるニーズや能力に対応出来ない状況である。日本の教育制度は詳細に規定された学習指導要領、画一的、百科事典的教科書、入学試験の重圧、詰め込み教室などを生み出している。日本の教育制度は画一性と標準化をあまりにも強調するあまり、生徒の異なったニーズ、才能に対応していない。

 米国の小・中学校では、教室でうまく利用することの出来る補助職員に多くのお金をかけている。日本の学校は生徒に心理的、社会的学習問題の相談に乗れるように、もっと多くの指導員や教育の専門家を利用すべである。そうすれば国語(読み書き)や算数・数学の教師は、生徒が学習に遅れないように助けてあげる余裕がでるだろうし、塾や家庭教師にその仕事を押し付けることもなくなるだろう。才能のある者、精神的、身体的ハンディのあるもの、大学進学を希望しないものに対する日本の教育計画は、米国のこれらの教育計画より劣っているといえる。

 才能のある生徒についてもお話ししたい。日本では才能のある生徒も、他の一般の生徒と同じカリキュラムとなっている。さらに高いレベルの学習に挑戦するだけでなく、思考、批判精神を養うよう組まれていない。なぜなら、小・中学校では多様な生徒を一緒にして一斉授業を行うからである。飛び級は認められておらず、落第もほとんどない。

 日本の教育制度の中には、まだほかにも欠点がある。それにある一科目について優れた才能を持っているけれど他の科目にはあまり興味を示さない生徒についての問題である。日本では大学入学試験で国立大学では5科目、他の大学でも殆ど3科目について行われるので、このような一点に才能のある生徒は普通、負け犬になってしまう。また、日本の企業が平均的な人材を採用しようとするところにも原因がある。もしアインシュタインが日本の大学に入ろうとしても、恐らく入学出来ないだろう。

 そして集団の結果を優先するために、個性重視の教育が犠牲にされている。日本では子供達がグループに入ることを拒絶することは、頑固で、非協力的で、わがままで、非社会的なことだと教えられる。いいかえれば日本人は「社会」を神様のように考えており、正しいこと、間違っていること、適切か不適切かを判断する尺度を社会に求めている。良し悪しに関係なく、社会通念に則して行動するよう相当の重圧をかけられている。このように画一化しようとする圧力をかけることにより、日本の社会は学校に秩序や調和をもたらしている。

 しかしこうしたことにより、戦前の国家主義、軍国主義による誇張主義政策のような間違った方向に引きずられた時、日本人は無抵抗になってしまう。生徒たちが、統一や調和を超えて真実、多様性、積極的市民性を尊重することを教えられていないからなのである。

4.未来に向けた改善策

(1)個の自立を阻害する規制
 私の感じでは現在の子供達は20年くらい前の子供達よりだいぶ「暗い」し「義務的」だと思う。表面的で目的がないようにも見える。高校生以下の生徒に対して、学校の内外で相当な統制がなされている。中等教育であまりにも多くの規制や基準があることがその特徴である。特に中学校レベルではその特徴が顕著である。生徒は学業または学業以外の活動の場で自由、責任、選択のある行動をすることによって民主的態度と、一人前の振る舞いをすることを身に付けていくものだと私は信じている。

 私の考えでは、日本の学校と社会は個人の自立と成長を促すことを犠牲にしてまで秩序を保たせようという方向に暴走していると思う。「出る杭は打たれる」という日本の古いことわざがあるが、これは日本人の行動を示唆している。たしかに日本では人と違うと言われることはあまりよくないことだという意味合いがある。米国では人と違うといわれることは、ティーンエイジャーにとっては、大人として認められたことを意味する。私が思うに、有名な私立中学校の50%は、子供は成長の流れの中で自然に、身をもって民主主義を学ぶという要求に逆らっていると思う。日本の経済は一流、政治は三流とよくいわれるが、政治が三流である理由は、日本人が積極的に政治に興味を持ち、また政治の課題に進んで参加するような生徒の姿勢を学校教育が育てていないからだと思う。

 近年、不登校の児童・生徒数が年々増加しており、現在約13万人と言われている(編集部注:年間30日以上欠席者数、1998年)が、学校を辞める学生は毎年10万人だという。日本の教育が優れているというならば、この数字をどう考えたらいいのか。県の教育委員会の顧問をしている高橋史朗教授は、登校拒否の理由の主なものとして、「厳格で細かい校則があること。口やかましい、良識のない教師、特に学級担任がいること。仲間が非協力的で、いじめをする生徒がいること」と言っている。教師が不当な非難をするので、他の生徒がその犠牲者をいじめるようになるのである。

 最近、10代の若者の暴力行為件数が増加しているが、彼らは良心の呵責を感じていない。規則や力に依存することは、民主主義や人間性のある生活を追求するための訓練にはならない。学校は、規則、一時的な流行、社会的に認められた行動に単に従っていれば安泰であると思うような人をつくり出しているように思われる。このような人は自ら率先して行動できないのである。

(2)国際的人間の育成に必要なもの
 私は日本の幼稚園から大学までの教育に一番悪い影響を与えているのは、入学試験だと思う。特に大学入試が教育の本質を歪めており、また現在の入学試験は国際主義をも妨げる一因になっているようにも思う。

 もっと国際的志向の日本人を作るためには、日本の教育はもっと冒険的で、創造的で、好奇心があり、積極的かつ柔軟性で、外に向かって心を開く生徒を育てなければならない。ところが高い学力を持つこと、多くの知識を詰め込むことが、特によい大学に入学する際の必須条件であると日本の生徒は、小学校に入ったときから繰り返し聞かされている。このような教育は、個人の精神に自由や尊厳を与えることができない。むしろ心を閉ざし、経済的に生き残るために他人と常に競争してるような市民を作り出すことになる。このような入試のプレッシャーは、教育、生徒の考えや行動を歪め、その結果、生徒は大変狭い視野でものごとを考えるので、広い世界について考える傾向が乏しくなる。

 もう一つは、日本の学校教育は受身的で無感動な市民を作っているということである。早い場合は、小学校低学年から、遅くとも中学、高校で極めて受身的な学習が展開されている。よりよい学校を目指して、たとえ有能な教師であっても、一方通行の講義形式を取らざるを得なくなっている。これは知識注入の効率は高いのだが、学ぶ側の生徒はじっと座って知識の最大吸収のために努力することになる。これでは教師はクラス内で、討論やディベート、ディスカッションなど活動的な授業を展開することができないのである。

 私は毎日このような大学生に教えている。彼らは余りにも内気で、受身的で、他人と違うこと、誤りを犯すことを恐れて、意見を言おうとしない。自分の意見が違う場合は、それを発表するような訓練を受けていない。このような態度は、日本人が外国人や国内の人でもあまり知らない人と自然に(スムーズに)交流する際のハンディになる。国際的な外交の場やセミナー・シンポジウムなどで、日本人が不利になる理由の一つが、まさにこの問題である。

 中曽根元首相は日本が国際的になるように考え、同時に日本の伝統文化を学校で非常に大事にした。この二つはバランスが必要である。例えばある日本人は、国際的なことは大学のレベルで教え、まず子供達には根が形成されるように日本の伝統的なことを強調すべきだという。またある政治家は、「もし日本人が、(日本の伝統的なことを知らずに)外国に行ったら、自分の国のことも分からず非常に恥ずかしく、許せないことだ」という。また、「国際的なことを勉強すると、自分の国を愛さなくなる」ともいう。

 だが、私はそうは思わない。私は日本に23年間住んでいるが、そのために米国を愛さなくなったわけではない。自国の欠点が以前よりずっとよく見え、毎日日本のやり方を見ながら、なぜ米国はこれを導入しないかと思うことも多くある。他国の社会、価値観、宗教を勉強したら、どうして自分の国を愛さなくなると考えるのか、私には分からない。

 これまでの議論をベースに考えると、日本の社会と学校教育の過程では、受身で、柔軟性に乏しく、ぎこちなく、物質指向の、内向的な市民をつくる傾向がますます増えるように思われてならない。国際的な市民を育成しようとしても、学校に対する内部や外部からの制約があまりにも多いことが問題だと思う。国際化に関係のある問題点について述べると、子供達は12年間の学校教育の間で厳しい規則や社会慣習に従うことを教えられるので、見方が狭く、自信がなく、彼らの振る舞いや他人との交渉に柔軟性がなくなる。圧倒的多数の人は、多様性に心を開かず、自分の社会共同体と違った行動、服装、言動、思想を受け入れようとはしない傾向が見られる。

 今日まで日本人は自分たちの教育制度のために大きな犠牲を払ってきたし、誇るべきものを多く得てきた。しかし、日本の現在の教育制度は、個人にとっても、社会全体にとっても、多くの緊張、ストレス、歪み、望ましくない行き過ぎがあると私は思っている。
(2000年6月3日発表、文責編集部)