アイデンティティーとしてのジェンダー(上)

作家、ポルトガル元国会議員 パトリシア・ランサ

 

1.はじめに

 男女両性の関係と、男性と女性が自分たち自身とお互いをどのように見るかという分野ほど、近年において伝統的な考え方に対して異議が唱えられてきた領域はない。西洋の大学や国際機関の討論の場において、人類と同じくらいの古さをもつこの伝統的考え方(パラダイム)が疑問視され、奇妙な新しい思想の輪郭が浮き立ちつつある。こうした問題はこの30年間にわたって、未だかつてなかったほどに議論・研究され、著作として書かれ、さらにはキャンペーンが張られ、立法化されてきた。つい最近までは、男女それぞれの性アイデンティティー(注1)と性格の一般的な類型は固定したものであり、不変のものであると考えられてきた。

 今日まで性アイデンティティーが性にかかわる「私」をいかに形づくるかという問題は、階級、宗教、国籍、民族などとしての人間の特徴を定義することとは全く別の次元で考えられてきた。しかし、「ジェンダー理論」(gender theory)とそれに近い「同性愛理論」(queer theory)の支持者達は、別のものとして考えるべきではないとしている。

 性アイデンティティーの明らかな不変性は、今でも人類の圧倒的大多数にとって大前提であり、ほとんどの人々はジェンダー理論等によっても根本的な認識を変えることはないと思われる。近年、女性たちが国家の高い地位に就くようになった事実は、この問題とはほぼ無関係である。実際、歴史上に実権を行使した女性は数多く存在しており、このことが通常の男性と女性のそれぞれの役割と性質に関する認識を変える要因となったことは一度もない。むしろ、実際に変わってきたのは、女性が経済的・公的分野の表舞台に出ることに対する男性側と女性側、双方からののリアクションである。

 産業が発達した先進国においては、家事の面などにおいても女性の負担は軽減されてきたが、男性は父親になり、女性は母親になり、子供は家庭で育てられるのが良いと、大多数の人々が考えるのは当然である。また母親は女性であり父親は男性であるという点についても同様である。

 しかし、最近、以上のような自明の理に対して疑問をはさむような現象が一部地域で起こりつつある。それは英語圏の世界とスカンジナビア地方の国々において最も顕著にあらわれており、この現象が今後、世界的に家庭崩壊の増加を助長するのではないかと危惧されている。

 働く妻や母親たち、女性の完全な市民権、容易な離婚と中絶、および公共団体及び民間団体において指導的な地位に就く女性の増加は、確実に家庭と社会に対して広範な影響を及ぼしてきたのである。したがって、これらの課題との関連において「ジェンダー理論家」たちの見解を吟味することが重要である。

 まず初めに、@女性の解放以前、A解放の過程、B女性解放の現状――という三つの局面における性アイデンティティーと性格についてまず論じてみる。この研究は、女性が階級的に抑圧されているとか、男性には女性を支配し搾取しようとする傾向があるのではないかというあら捜しの視点よりは、むしろ冷静なリアリズムの視点が必要である。つまり少数のエリートの習慣や視点ではなく、むしろ総括的で庶民生活的視点が大切なのである。

2.近代化以前の両性

(1)男性に依存する女性
 近代化が始まる以前は、女性は男性に依存せざるを得なかった。この事実はもう少し綿密に考察される必要がある。なぜならその含意が「ジェンダー理論」によって見過ごされ、否定され、あるいは誤った解釈をされているからである。この理論の信条は、人類歴史の主要な特徴に対する感情移入と、その本質的に悲劇的な内容に対する同情を欠いているという点に顕著な特徴がある。

 伝統的な農業社会における平均寿命は40歳前後であった。死亡率が高いということは、共同体の存続のために女性がたくさんの子供を生むことが不可欠であることを意味した。従って、大家族が非常に望ましかったのである。ほとんどの女性たちは思春期になれば出来るだけ早く結婚することが願われたし、もし彼女たちが健康で夫が家に不在がちでなければ、女性たちは毎年のように妊娠して子供を産むのが自然の成り行きであった。産児制限の知識は必要なかったし、知られてもいなかった。乳母を雇えるだけの余裕のある裕福な女性以外は皆、自分の赤ん坊に母乳を飲ませるのは当然であった。

 人間は男も女も、生活のために朝から晩まで懸命に働いたのである。支配階級の者たちも含めて、ほとんどの人が文盲であった。大衆には娯楽もほとんどなく、精神に関することを啓発できるのはごく僅かの聖職者や学者達だけであった。そのような社会が略奪者や自然の猛威に直面した時には、公の秩序と安全はもろいもので、人類の存続そのもののために女性と子供たちは保護が必要だったのである。

 この要求は宗教によって神聖なものとされ、法律の中に定められた。われわれが家庭の起源を見出さなければならないのはここなのであり、それはエンゲルスが「母権の征服」、あるいは「男性による女性に対する……最初の階級抑圧」と呼ぶものではない(注2)。

 女たちは依存ということの中に必然的に含まれる従属的な地位のゆえに苦しんだ。しかし、男たちもまた苦しんだのである。彼らはしばしば自分の家庭を守るために生命を犠牲にしなければならなかった。彼らを突き動かしていた動機と報酬は、「より強い性」に対して要求される勇気と結び付いた名誉と栄光だったのである。女たちは、勇気と家庭に対する義務を礼賛する中で自分の息子を育てた。長い幼児期を通して最初に子供を教育し社会化する者として、女性たちが事実上規範を教え込んでいたのである。侵略者や征服者の軍隊は、しばしば共同体全体を殺戮した。そのような残虐な場合においてさえ、男たちが第一の犠牲者であり、女たちはたとえ奴隷として連れ去られる運命にあったとしても、その命は助けられたということを歴史は物語っている。

 旧石器時代には、人々が和やかな母権制のもとで平和に共存していた黄金時代があったという信仰は、根拠が疑わしい。実際、有史以前の人々の墓を調べてみれば、彼らが残虐な死を遂げたことを示さないような遺体はほとんど発見されてこなかったということの方が、より有力な証拠を持って主張されてきたのである。

(2)性に対する態度の多様性
 有史以前の時代の性別に対する態度は、医学の発達に支えられた豊かさと快楽に生きる社会のそれとは全く異なるものであったとしても驚くべきことではない。たとえ少数の支配的エリートの間にエロティシズムの礼賛があったとしても、あるいは下層階級の民衆が宗教的な豊饒の祭りに耽っていたとしても、農民の女たちは性行為を厳しく規制されていたのである。なぜなら多くの娘にとっては妊娠と出産は死の危険を伴う出来事であったからである。恐らく頑丈な農民の娘の中には、畑で痛みもなく出産して、喜んで仕事を続けた者もいたであろう。しかし、多くの者にとってはそうではなかった。栄養失調と病気は広く蔓延しており、出産にともなう死は日常的出来事であった。15世紀以降は梅毒によってさらに危険が続いた。

 そのような状況下において家庭で娘たちが婚前の処女性と結婚後の貞節を守る教育を受けるのはあたりまえである。男たちは女たちに性的な罪の考えを押し付ける必要はなかった。なぜなら通常自然の摂理に反したことを行えば生命の危険にさらされることで十分であったからである。こういったとしても、それは社会が一般的にこのような生命の危険にさらされることを習慣や法律によって強化しなかったということを暗示するものではない。若者たちの強い本能的な衝動は、それに伴う危険を知っている年長者や知恵ある者たちによって抑制されなければならなかった。

 不倫を犯した女は石打の刑に処せられてきた社会も存在する。陰核切除は世界のある場所ではいまだに存続している。中世の女性たちには貞操帯が強制されていた例もある。中国の上流階級の女性たちは足を縛られてきたが、これが審美的な理由によるものなのか彼女たちが堕落するのを防ぐためなのかは議論が分かれる。これらは実に野蛮な風習である! 宦官や聖歌隊員を作るために男たちを去勢したのと同じである。啓蒙主義のヒューマニズムが登場するまでは誰もが、男も女も、キリスト教の地においてさえ、野蛮な習慣を当然のこととして受け止めていた。

 人々は絞首刑にされ、内臓を引き出され、四つ裂きにされ、火あぶりにされたのであり――その数は女性よりも男性が多かった――、そして18世紀になるまで、老若男女を問わず多くの人々がこれらの恐ろしい光景を見るために熱心に集まったのである。そのショーを楽しむために、彼らはしばしばピクニックのバスケットを携えてやってきた。バランス感覚と恥の感覚を保つために、われわれは「啓蒙された」20世紀が、先進諸国においてさえ男女両方を巻きこんだ大量殺戮が繰り返し行なわれてきた時代であったことを忘れてはならない。

 したがって、残忍性、労働、あるいは性行為の規制は、「ヨーロッパの白人男性」によって構成される啓蒙思想以後のブルジョアジーの考案物であった、ということは全く真実とは異なっているのである。

 男の子の誕生は一般的に女の子よりも望まれてきたが、それはひねくれた男性優位志向に基づくものではない。歴史上のある時期には、身体的欠陥のある赤ん坊や女の赤ん坊は無慈悲に捨てられた。これは家父長制度による女性抑圧のほんの一例に過ぎないといわれてきた。しかしながら、これはつい最近まで胎児と幼児の死亡率は、女性よりも男性の方が相当に高かったという事実とより深い関係がある。これはこの分野の性比率の研究が示していることである。したがって、男の子は特に貴重だったのであり、世界の大部分の地域においてその傾向はいまだに続いている。先進工業国では、医学、衛生学、そして栄養状態の改善によって、幼児死亡率が下がってきた。その結果、自然の状態では男児の出生率が高く、男の子の方が多く生れて成人するのは歴史的にみて特異な現象といえる。

 人々は一般的に自分たちの性アイデンティティーや、自分たちの文化を支配している結婚と家庭に関する規範に対して疑いを抱かなかった。キリスト教社会やその他の社会では、聖職者の独身生活と修道生活が少数の人々によって実践されてきたし、それが結婚よりも栄誉あるものとされる側面もあった。純潔は高く評価されていたが、禁欲主義は美徳の問題であると同時に、教会経済の問題であったという説もある。それは性アイデンティティーの議論とは何の関わりもない。修練と自己犠牲をともなう独身生活の選択は、むしろ人格の問題である。ジャンヌ・ダルクは兵士であったかもしれないが、彼女は自分が一人の女性であること以上のことは何も主張しなかった。

 いかに男性と女性の性アイデンティティーが不変に見えたとしても、性道徳に関する特徴や行動は時代や地域によって異なっているということは、付け加えておく必要がある。放蕩と道徳的崩壊の時代があるかと思えば、改革の時期もある。最も重要な改革の例を挙げれば、プロテスタント宗教改革と、カトリックの反宗教改革である。同様にイスラムの歴史も、純粋主義に立つイスラム教徒たちが、本来の教えの理想からの堕落であるとみなしたものに対して起こした反乱の事例によってひとつの時代が区切られている。

3.性アイデンティティーと近代化の開始

(1)女性の権利拡大の歴史
 女性の平等を支持した歴史上最初の宣言は、オランプ・ド・グージュ(フランスの女性解放運動家、1748−93)によるものであった。このフランス人女性は、フランス革命時に「人権宣言」の起草者たちの女性の扱いに対して義憤を宣言した。彼女は女性に対しても男性と同様の権利が与えられることを欲し、それを著書『女性の権利』(Les Droits de la Femme)の中で述べた。この文献は、女性は「法律の厳格な適用によって扱われ」なければならないので、税金の支払いや「死刑に処せられる権利」をも含めて、男性と同じ義務が女性に期待されるべきであると主張している点で注目に値する(注3)。

 その他の女性たちも、フランス革命に感化されて市民権を要求するようになった。アン−ジョゼフ・テロワーニュ・ド・メリクール(フランス革命の女性活動家、1762-1817)はパリに行って女性市民軍を組織することまでした。イギリス人女性のメアリー・ウルストンクラフト(1756−97)はパリに行って『女性の権利の擁護』を著した。男性の革命家たちはこれによっては動かされなかったが、オランプ・ド・グージュの要求は一つだけ認められた。彼女は恐怖政治時代にギロチン刑に処せられたのである(注4)。

 18世紀の終わりには、こうした女性たちは荒野で叫ぶ声であったが、アメリカ独立宣言とフランス革命によって宣言された自由と平等の理想は、大衆の考えと一致した。次の一世紀半の間に、「女性も男性と同じ権利を享受すべきだ」という声が高まり、その中には男性の声も少なくなかった。工業化によって経済状況が変化し、より多くの女性たちが工場労働に従事し始めると同時に、学問的・知的分野にも参加する女性達も現れ始めた。冷静に見れば、女性たちが伝統的な家庭に縛られた価値観から抜け出そうとしており、彼女たちの完全な市民権を否定出来ないことが明らかになってきた。クリミア戦争におけるフローレンス・ナイチンゲールのような女性の役割、その後の工場における女性労働力の必要性、そして第一次世界大戦中の援軍としての役割は、女性の従属という古い制度に終わりを告げた。女性団体はまず選挙権を要求し、その後もその他の要求を拡大していった。それに伴って社会の見方も徐々に変化し始め、社会も一つ一つ女性の権利を認めていった。

 これらのどれ一つを取っても、急速な技術革新、医学的知識の拡大なくしては起こりえなかった。機械化によって女性たちはこれまで男性の領域とみなされていた多くの仕事ができるようになった。マルサスの教えと死亡率の低下によって、もはや大家族はかつてのように望ましいものではなくなった。家族計画が可能になったおかげで、女性は毎年のように子供を産む重荷から解放されるようになった。  

 それと同時に、市場経済の成長に伴いより多くの労働力が要求されるようになった。1930年代には乗数効果(注5)が初期段階の生産工程のスピードアップを可能にし、第二次世界大戦には目を見張る速度に達した。消費者中心主義の時代が幕を開けたのである。家庭内にも機械が入り込むようになり、家庭用器具は女性たちを家事の苦役から解放し始めた。これらの新しい機械を得るためには購買力が必要とされたため、女性は今や家庭の収入増に貢献する動機を持ち始めたのである。経済界と政府は共働き家庭の意味をすばやく見出した。女性が少数派としての地位を保っていた最後の砦は、第二次世界大戦後数十年で最終的に崩壊した。この期間に女性は連合国軍に参加するようになったのである。

 より効果的な避妊法の知識とともにその方法が用意に入手できるようになると、市場が女性の労働者と消費者を必要とするようになり、それに伴って西洋社会全体で根本的な変化が生じるようになった。男性ほどではないが多くの女性たちが高等教育を受けられるようになり、公共団体と民間企業の両方において高い地位に就く女性が増え、彼女達は経済的自立を獲得し始めた。男女同権が法律によって神聖化されたこと、消費者社会によって一般化された享楽的なエートスとあいまって、社会行動に関する多くの伝統的な拘束が全般的に蝕ばまれていったのである。

(2)避妊法の普及とその影響
 ここで、「今まで要約してきた一世紀半のプロセスの間に、性アイデンティティーと特徴とに何が起こったのか」という疑問が提示される。

 私のように1930〜40年代に成長したものは誰でも、かの遥か昔の日々に多くの若者たちの心の中で結婚を早めるように促していた要因が、妊娠への恐れであったということを記憶している。また、不満を抱いている既婚カップルが離婚を思いとどまり一緒に留まっていたのは、ほとんどの妻が経済的に夫に依存していたからであることも知っている。あの頃離婚したのは、一般に金持ちの人たちであった。これは、道徳的原理により性行為を抑制したり、離婚を思いとどまったり、自分の家庭に対する責任ある行動を取った人々が、それほど多くなかったということを言っているのではない。もちろん、人々はこれらの事柄に対する倫理的信念をもっていたし、それに従って生きようと努力していた。しかしながら、われわれは少なくとも北ヨーロッパと北米においては、相当な両性間の自由が既に存在していた時代に、性的行動を支配していたのが道徳的信念だけであったというような幻想を持つべきではない。

 私と同世代の人々はほとんどこれらの問題が論じられるときに、もし誰もが安全な避妊法を知り、その方法が入手できれば道徳の崩壊につながり、更には女性たちの経済的自立が家庭崩壊を助長することも警告されていた事実を知っている。第二次世界大戦中に大学や軍隊にいた私と同世代の若い女性は、皆こうした警告を聞いた。こうした“不吉な予言”に対するわれわれの答は、恐れによって上品に振舞うことには道徳的価値がないというものであった。これは私のように自身を(保守派の)気高いフェミニストであるとみなしていた者たちの答えであった。より良い教育を受けた女性と専門領域で満足な仕事を持っている女性は、そうでない女性達よりも大きな責任感とより確固たる道徳的信念を持っていると考えてられていた。彼女たちの道徳性は主として強制によって支えられた信念に基づいていると単純に考えていたのである。

 また女性の解放は、男性たちに良い影響を与えるだろうとも論じた。すなわち、彼らは結婚する時に女性を単なる性的満足の対象や、子供たちの母親、主婦や乳母といった存在でなく、対等な相手として見るであろうということである。つまり結婚そのものが新しい内容を帯び始めていると考えた。それまで結婚は、女性にとっては「養ってくれる人」やステータス・シンボルの確保であり、男性にとっては肉欲的な楽しみの源泉であったのが、男も女も、多くの人々が結婚を本質的に対等な相手とのパートナーシップであると認識し始めたのである。恋愛の理想は数世紀前に始まり、19世紀以降西洋社会を席巻したものであるが、それさえも男と女の友愛という新しい理想によって浸透されるようになったのである。

 ブルームズベリー・グループ(注6)のようなサロンでどのような秘密の議論が行われてきたとしても、ほとんどの人々は、社会主義者も含めて、男と女という二つの性別が存在するという伝統的な性アイデンティティーの概念を疑おうなどとは夢にも思わなかった。我々は当時「ホモセクシャル」というものが存在することを知っていたが、この言葉そのものはまさに男を男とし、女を女としているように思われる。すなわち、その言葉は単に「同性」を意味するに過ぎない。「多様な(性的)倒錯」(polymorphous perversity)の時代は、まだ遠い未来のことであった。

4.近代が「ポスト近代主義者」になる

 20世紀が終わりに近づき、私の青春時代の“不吉な予言”が立証されてきたように思われる。この場において家庭の崩壊と青少年犯罪の直接的な因果関係を示す統計資料を引き合いに出す必要もない。これらはいつでも入手可能であり、これまたすべての民主主義国家において社会の安定性に関する重大な懸念があることを示している(注7)。ここで問題となるのは、深刻な道徳とアイデンティティーの危機を示しているこうした問題が、女性解放の結果であるのかどうか、あるいはその危機のルーツを女性解放をもたらしたのと同じ状況の中に見出すべきであるかどうか、ということである。

 もしそれらが実際に相互に関連しており、すべての文化における近代化に不可避的に付随するものであるならば、そのような問題に直面するのは西洋だけでなく、残りの世界すべてだということになる。また一方で、以前からある西洋の伝統が、近代化の過程で今日の危機につながるような特別な特徴として具現化したのかもしれない。非常に異なった歴史を持つ世界のさまざまな国々がこれらの問題にいかに対処していくかということは、恐らくわれわれが21世紀に入るにあたって提示されるべき鍵となる問題の一つであろう。もしある国々ではアイデンティティーと社会的結合の問題が深刻化し、他の国々ではそれが克服されたとすれば、どちらの国がより強く成長してどちらが弱体化するかは想像に難くない。シュペングラー(注8)とトインビー(注9)は、西洋の未来に関しては深いペシミズム(悲観主義)に立っているが、恐らくその正しさが証明されるであろう。

(1)相対主義と脱構築(deconstruction)
 20世紀のほとんどの期間にわたって、西洋諸国の(自然科学に対するものとしての人文科学における)知的風土における顕著な特徴は、認識論と倫理学の分野における自己探求と相対主義の著しい興隆であった。文明史のいかなる時代、いかなる場所を見ても、過去三百年にわたる西洋社会の知識人たちほど、自己の伝統と制度に対する膨大な批判書を持った人々はいなかった。この現象は、直接的には17世紀の科学革命、民主主義制度の発達、自由な議論の習慣から生じたものであると思われる。

 ルネサンス以降、疑問は急速に成長して人間の興味の至るところに及ぶようになり、ついにわれわれは20世紀を「全体主義に匹敵する全面的な因習打破の世紀」とまで呼ぶほどになった。実際、因習打破は全体主義と少なからぬ関係があると見ていいであろう。その状況には皮肉が含まれている。その中でも一つの手段(合理的批判)が真理とより偉大な知識の探求と共に、ドグマに対する抗議から生じたにも関わらず、それが今や合理性と客観的知識の否定に等しいものにたどり着いているということである。なぜなら、これが実際「ポスト近代主義」と呼ばれるものの特徴であり、芸術、文学、哲学、および社会科学を含んだ多くの分野に適用された、雑多なものを一まとめにした表現だからである。

 ポスト近代主義哲学の中の影響力ある傾向である脱構築主義(deconstructionism)の基本的信条は、「われわれが知識であると思っているものは常に疑わしい。なぜならそれは、言語と文化を通してのみ到達できるものであり、これらは実体とイメージとが異なっているからである」というものである。それらは隠された意味をもっており、全ての言葉(言説)の背後に横たわる力関係を明らかにするために脱構築され、バラバラにされなければならない。要するに、現実の世界というものは存在せず、その主観的解釈のみが存在するということである。生活の全ての領域において、力を保持している者たちが、弱者たちを都合よく奴隷状態に留めておくために、彼らに自分の解釈を押し付けるのである。

(2)フーコーと脱構築主義
 こうした考えは、その起源をマルクス主義の教義に持っているが、「知識社会学者」の系統を引くものであり、ジャン・ボドリヤール、ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー(フランスの哲学者、1926−84)、ジャン・リオタールといった人々の著作において頂点に達している。フーコー(注10)の名前はここで最も重要である。なぜなら、彼の考えは「ジェンダー理論」の発達に対して相当な影響を与えているからである。

 フーコーが彼を批判する者に対して好んでなした返答が“D'o・parles-tu?”(あなたはどこから語っているのか)であった。いかなる異論もこのようにして攻撃されたが、これが示唆しているものは批判者はフーコーの見解を論駁しようとする上で隠された興味を持っているということであった。この種の擬似論駁は、マルクス主義やフロイト主義のような非科学的理論に共通するものであり、それらは自らを反証できないものにするような言葉で表現されている。真実といったようなものは存在しないというフーコーやその他の相対主義者の立場は、もちろん、「クレタ島のうそつき」のような古典的逆説と非常に良く似ている。もし彼らが正しければ、そのとき彼らは間違っているのである。なぜなら彼らは真理の否定を絶対的な真理として提示するので、自分自身の前提によって攻撃されるようになるからである。“D'o・parles-tu?”もまた論理的に、フーコーとその信奉者たちに対する“D'o・parles-ils?”(彼らはどこから語っているのか?)という質問となって返されるであろう。しかしながら、これを指摘してもフーコーは意に介さなかった。なぜなら彼はその膨大な学識(しばしば不完全ではあったが)にもかかわらず、合理性を軽蔑していたし、啓蒙主義を人間の福祉に対するかの二つのひねくれた敵、すなわちロゴス中心主義(logocentrism)や、さらに悪い男性言語中心主義(phallogocentrism)を創始したものであるとみなしていたからである。

 ロゴス中心主義とは脱構築主義者の言葉で、現実の世界が存在し、それは言葉で描写できるという信仰を表している。男性言語中心主義は、フーコーが強制された異性愛であり、さらにブルジョアジーがその力を保持するためのもう一つの戦略であるとみなしたものを表すために使った言葉である。これらの著作においての敵は科学と論理を含んだ西洋文化と、その伝統すべてでであることがはっきりと表現されており、それらはすべて資本主義を維持するための巨大な陰謀であると見られている。

 脱構築主義者たちは彼らの立場が事実上「何でもいい」という結果になることを認め、宣言しさえするであろう。「あなたの見解は私のと同じくらいに良い。あなたの行動は私のと同じくらい容認される。基準も道徳的価値観も存在しない」ということである。こうしたことはすべてフーコーより遥か昔に誰かが言ったことである。1968年5月とその後に続く急進的な世代にとってフーコーが魅力的であったのは、彼がその過激な立場を長期間にわたって取り続けたからであった。精神錯乱の批判から始まって刑務所制度と犯罪性の批判に至るまで、彼は著書『性の歴史』(Histoire de la Sexualit氏j(注11) をもって確実に勝者であり続けたのである。ここにおいて、性アイデンティティーの概念そのものが挑戦を受け、社会的構造であると宣言された。異性愛は、人間のアイデンティティーの本質的な構成要素ではなく、権力を保持している者たちが自分たちの関心に基づいて、人々(ブルジョアジーのメンバー自身をも含めて)のエネルギーを仕事に投入させるために、社会に押しつけられてきたものである、と主張されたのである。いったい、われわれが聞いたこともないような多くの性の(multi-sexual)喜びに専念した生活のために人々が働くのをやめたならば、彼らはどのようにして衣食住の生活を営むのであろうか。

 個人的なレベルで知的・道徳的ライフスタイルとして相対主義を採用することは、第一に精神的怠惰に対する言い訳を提供し、第二に放縦をもたらす、という結論は避け難いように思われる。社会全体に関する限りは、文化的相対主義の普及と増殖は多くの人々、とりわけ若者たちや抵抗力のない者たちから彼らのアイデンティティーの感覚をつなぎとめておくものを奪い、社会的規範の崩壊、不安定性、無責任性を助長する傾向にある。

 哲学問題にしばらく脱線したけれども、「ジェンダー理論」の問題を扱う上でこのことは適切なことである。なぜなら、この理論の主要な提唱者たちは、哲学者としての地位を主張し、フーコーが自らを感化したとみなしているからである。脱構築主義は英語圏世界の大学の人文科学科に急速な勢いで専門家を獲得してきた。かつては哲学科の学部一年生でも簡単に「脱構築」できたこの奇怪な理論の驚異的な成功は、教育水準の低下をよく知っている者にとっては全く驚くまでもないことである。原因は他にもあったことは疑いない。それは消費社会に普及しているナルシスティックなエートスと、際限のない快楽の探求を知的に正当化しているように見えるものが持つ、抗し難い魅力の中に存在している。  

 かくしてヨーロッパの白人男性であるフーコーは、「ジェンダー・フェミニスト」たちのグルとなり、彼らに霊感を与えるものとなったのである。実際、彼の思想は彼らのために仕立てられており、性アイデンティティーの概念に対する宣戦布告に、学問的な装いを提供したのである。少なくとも大学においてはこの戦争は相当な成功をおさめ、その戦場は社会科学、とりわけても「女性研究」(Women's Studies)の領域であった。

(3)ジェンダー論と性科学
 「ジェンダー理論」を生じさせたもつれた網の中には、もう一つの学問的ではないがより科学的な血脈がある。それはクラッフト−エビング、ヘイブロック・エリス、ウィルヘルム・ライヒらによって開拓された「性科学」(sexology)という新しい学問分野である。彼らの著作の幾つかは長い間禁制扱いで、医学の専門家のみが入手可能であった。しかしながら、アルフレッド・チャールズ・キンゼイとその同僚たちが検閲の甘かった1948年と1953年に、科学的研究のレポートとされるものを突如として世に送り出すと、それにメディアが貪欲に群がってベストセラーになった(注12)。今日でも広く引用されてはいるが、キンゼイの方法論と調査結果は、彼がインタビューした対象が特殊であったという点に関して厳しい批判にさらされてきた。彼がインタビューしたのは、主として学生と囚人たちだったのである。

 彼はまた、幼児と子供たちに対する性的実験を行ったことでも非難されてきた(注13)。にもかかわらず、キンゼイの出した結論のうち特に同性愛者の人口比率に関する極めて疑わしい数値が、広く受け入れられるようになった。彼はそれを10%と見積もっているが、最近行われた堅実な研究によれば1〜2%である。もっと大きな影響力があったのは、性アイデンティティーの流動性と、二分性よりも連続性が存在するというキンゼイの仮説であった。キンゼイはセンセーショナリズムと好色な好奇心というメディアのエートスにとって都合が良く、繁栄し利益を上げていた産業の創設の父とみなされたのであろう。この分野でそれよりかなり後になってより堅実な方法で行なわれた研究は、すでに受け入れられた見解になっていたものを否定したが、それらはほとんど評判を呼ばなかったし、「ジェンダー研究」(注14)の分野ではほとんど忘れられたのである。また、「どうでもいい」の性的エートスを促進するのに影響力があったのは、カール・ロジャースと彼の「人間の潜在能力運動」(Human Potential Movement)のような特定の精神分析の実践家であった(注15)。

 1993年までには、女性研究は米国において「人文・社会科学の中で、組織的にも出版の分野でも飛びぬけて急成長する分野となっていた。現在、500の女性研究プログラムと、三万の課目、50のフェミニスト組織があると見積もられている」(注16)。どんな学術専門書店を訪れてみても、この分野で出版されてきた著作がいかに多いかを確認できるであろう。近年になって知られるようになったことは、付け加えれば最近は「同性愛研究」も拡大してきたということだ。それは主として男性の同性愛に偏っているように見られるため、そもそも女性の解放にはさほど関心がない。ゆえに「ジェンダー理論」のこの分野はすべての女性に対して語りかける「ジェンダー・フェミニズム」ほどには公開の討論の場に食い込めなかった。したがって、この「ジェンダー理論」の友好分野は多くの基本的な考えを共有しているが、ここでは議論しないことにする。

 (1997年11月24日〜29日、米国・ワシントンDCにて開催された第7回世界平和教授アカデミー世界会議において発表された論文)


注1 性アイデンティティー(sex identity)
   自分が遺伝子・解剖学レヴェルや生殖機能上の差異を基準とした、二分法的な男-女カテゴリー(sex:生物学的性別)のいずれに属するか、という自己定義に基づくアイデンティティー。(有斐閣、「社会学小辞典」新版より)

注2 フレデリック・エンゲルス『家族・私有財産および国家の起源』(ニューヨーク,1986年)。
注3 Norman Davies「歴史ヨーロッパ」(オックスフォード,1996年)。716頁。
注4 同書。717頁。
注5 乗数効果(multiplier effect)
   ある一定額の独立支出が、その波及効果が終わったとき、もとの数倍の所得を生み出す効果。人々の限界消費性向cとし、独立支出を凾`とすると、n期間後の国民所得の増加分は、凾x=凾`(1+c+c+・・・+c)となり、0<c<1と考えれば、n→∞なら凾x=[1/(1-c)]凾`と表せ、凾xはAの何倍かになる。この効果を乗数効果と呼ぶ。(有斐閣、「経済辞典」第3版より)
注6 ブルームズベリー・グループとして知られるロンドンの文学サークルは、会員に多くのホモセクシュアルがおり、しばしば性的アイデンティティーを問題にしている。4世紀にわたって輪廻を続ける性倒錯者の小説、ヴァージニア・ウルフの「オーランド」を見よ。
注7 ミッチェル・B・パールスタイン「米国における父親不在」。『世界的変遷期における家族』ゴードン・L.アンダーソン編(PWPAミネソタ州セントポール,1997年)。401−405頁。
注8 オズワルド・シュペングラー『西洋の没落』(ニューヨーク,1926−28年)。
注9 アーノルド・ジョセフ・トインビー『歴史の研究』(縮刷版 ロンドン1946年)。
注10 概観はJ.G.Merquior『フーコー』(ロンドン,1985年)及びロジャー・スクルトン『新左翼の思想家たち』(ロンドン,1985年)31−44頁を見よ。スクルトンの『現代哲学』(ロンドン,1994年)は多くの個所でポストモダニズム、脱構築批評主義、ミシェル・フーコーに触れている。
注11 ミシェル・フーコー『性の歴史』(パリ,1976年)。
注12 アルフレッド・キンゼー他『男性の性行動』(フィラデルフィア,1948年)及び『女性の性行動』(フィラデルフィア,1953年)。
注13 ワーデル・ポメロイ『キンゼー博士と性研究機関』(ニューヨーク,1972年)。
注14 レイズマン及びアイケル(共著)『キンゼーと性、フロイト』(1990年)。
注15 ロバート・F.マイケル、ジョン・H.ギャグノン、エドワード・O.ローマン、ジーナ・コラータ『米国における性』(ボストン,1994年)。
注16 ジェリー・Z.ミュラー“Coming Out Ahead: The Homosexual Moment in the Academy”「First Things 35」誌(1993年8−9月号)。