戦後日本の「民主化」と道徳教育

武蔵野女子大学教授 杉原誠四郎

 

 日本の教育に限定してコメントしようと思う。日本の教育が問題を抱えていることはいうまでもないが、現在の問題については、経済的繁栄や文明の発展に伴う問題と、戦後、占領下で教育の民主化をしたという歴史的な問題があるといえる。今日のテーマとして、歴史的な問題に関してコメントしたい。

 私は昨年の末に『杉原千畝と日本の外務省』(大正出版)を出版した。杉原千畝氏は、ご存知のとおり、ユダヤ人を6000人救った外交官として世界的にも有名になった外交官だが、戦後、外務省はそれだけの功績を持つ方を辞めさせた。日本では、ごく最近までその功績を検証しようとすると、外務省が必ず妨害してくることがあるというのが実情であった。

 それはかつての戦争において、日本が徹底的な敗戦を喫したこと対する清算がまだ終了していないことと深い関係がある。もちろんそれはアメリカ占領軍の所業のなかにもいろいろ間違いがあったからだが、しかし戦後50年経た今日においては、それ以上に問題なのは、そうした問題を整理、清算できなかったということで、むしろ日本側の落ち度が多いと私は考えている。

戦後「修身」が排除された経緯

 そこで、そのような観点からこの教育問題に関して、特に道徳教育についても、世の中にあまり知られていない重要な問題を指摘しようと思う。教育を「民主化」すること自体は理念的に考えた場合、大変結構なことであるが、その「民主化」というものが占領軍の軍事力を背景にした強制によってなされたことにおいて問題があるといえる。本来「民主主義」と「強制」は一致しない。そのような矛盾の中で、日本の教育の民主化という理念のもとにおいて行われた占領下の教育改革には、初めから致命的な問題を含んでいた。

 その中で特に大きなものが道徳教育である。戦後、占領軍は1945年に「修身、日本歴史、及び地理の停止に関する指令」を出した。しかしそれはよく見ると「停止」であり「禁止」ではなかったのである。つまり、教科書を修正すればもう一度「修身」を再開するという前提であった。しかしその後いくつかのいきさつを経て、結果としては再開されないままに終わった。我々日本の教育関係者から見ると、占領下において、「修身」が再開されないまま終わったことが、「戦前の修身は民主主義と合わないから、占領軍によって否定された」という解釈を生み出し、それを社会に定着させたように見えるのである。

 実際はどういうことであったか。「修身」停止の指令を起草した当時の占領軍民間情報教育局教育課の辣腕教育課員であったロバート・キング・ホールは、米国に帰国した後に書いた本で、以下のような趣旨のことを述べている。

 「修身」を禁止しなければならない理由は、現実的な、しかしながら公には出来ない理由であって、使用されている教科書を実際に検閲すればボロボロになるという問題もあるが、基本的な問題はそこではなかった。占領軍のなかで公然と認められた最も基本となる理由というのは、米国側がそのような指示を出す前に、日本の文部省が事前に自分達のほうで先に努力しようとしたいきさつがあったことである。もしそのような自主的な措置をとれば、米国軍にとっては評判となり、見せ場となる懲罰行為を占領軍から奪ってしまうことであった。徳育としての日本の道徳は民主化を進める占領軍にとって本質的に受け入れられないものだという根拠は薄かった。

 この指令を出すために、それまでの「修身」の教科書の内容をロバート・キング・ホール自身が調べ、軍国主義的な内容に関しては削除したが、全般的には民主主義と矛盾しない内容が多いという事実を確認している。例えば、出てくる67の話に関係して、信頼、節約、廉恥(恥を知る)、正直、勇気、自立、自衛、他人を敬う、過ちを隠さない、義務の遂行、親切、寛大、行儀、謙遜などの徳目は、民主主義と両立するので客観的には「修身」は禁止する必要がないという結論が出ていたのである。しかしだからといって、この時点で問題はないと認めてしまうと占領教育改革が出来ないために、一応厳しく停止の処分をとり、後に教科書を直せば充分に再開するという前提があったのである。それにもかかわらず、日本側の一部の人たちが自分達のパージを逃れるための画策の中で、表では見えないところでの日本人の策動もあり、最終的には再開されないままに終わった。そして「修身は民主主義的でないから禁止された」という、本筋とは違った解釈が日本の教育界に蔓延したのである。

民主主義と道徳教育

 ここで、民主主義と道徳教育という点について考えたい。私の大学の授業内容とも関係するが、結論から言うと、「民主主義社会であればこそ守らなければならない徳目が必ずある」ということである。徳目を最低限度身に付けさせて、ある程度人間として完成させてから大人の社会に一員として入れていくことは、子供の教育の意義の中で大きなウェイトを占める。

 そのために子供の教育において、道徳教育は不可欠な要素となる。成人の教育と違い子供の教育は、民主主義社会であればこそ必要な徳目があるが、そのためには「強制」ということが必要となってくる。その徳目を本人がよく理解し、そしてそれをきちんと実践できるというところまでもっていかなければ子供のためにもならない。道徳教育は必要であり、それはまた本人が好むと好まないとに拘わらず強制する点が重要である。しかし、残念ながら戦後、「修身は非民主的である」という前提が出来たために、せっかく昭和33年に「道徳の時間」という授業は設定されたにもかかわらず、教師達はその前提のために子供達に道徳を強制することを非常に恐れ、子供達にディスカッションばかりをさせる道徳教育を展開させたのである。その結果として子供達が発見した徳目であれば、それは教師の側から強制したわけではないから良いという筋書きを作った。確かにその手法は理屈上成立するが、そこから実践の段階までもっていくことは事実上不可能なのである。

 それに、子供達にディスカッションさせて徳目を自ら見出させるというこの手法は、子供の身近な生活のレベルの問題や教材しか提供できないという致命的な欠点がある。つまりもっと将来を見据えた、根源的な教材を提供することができないところに、問題があるといえる。

 現在「心の教育」が巷で叫ばれているが、この原点の問題を克服しなければ、いくら努力しても道徳教育としては現実的に実を結ばない。そして現在は、それらの努力が「実を結んでいない」ことに対して、文部省が気がついていないということに憂うべき問題がある。

 結論として、我々は歴史的な問題をもって道徳教育は重要だという認識がありながら、その方法論において、全く効果のない方法しか実践できていないことが、戦後我々がいまだ克服していないという問題と直結していると私は考える。
(2000年6月24日発表)