「心」を失った現代社会
―「道」(プロセス)を大切にする日本文化を見直せ―

共立女子大学教授 木村治美

 

技術文明と引き換えに失ったもの

 今、私たちの生活の中に技術文明が非常に深く入り込んでいる。「技術文明」というものを私なりに定義してみると、「プロセスを機械に任せること」「手間ひまを省くこと」となるが、私たちの日常生活の技術革新というのは、ほぼこの定義の中に収まると思う。

 例えば、ご飯を炊くのに昔は薪を割るところから始めて、「はじめちょろちょろ、なかぱっぱ、吹き出したらば火を引いて…」というプロセスを踏んで、手間ひまをかけてご飯を炊きあげていた。しかし、現代は、スイッチさえ押せば、ブラックボックスである機械がやってくれて、結果(炊きあがる)だけを私たちは手に入れることができる。

 それでは、非常にありがたい便利な技術文明と引き換えに、私達の生活から一体、何が失われたのか。逆に言えば、昔の人は手間ひまのかかった暮らしをしながら、付加価値としてどのようなものを手に入れていたのであろうか。このように考えてみる時、私は三つの要素をあげたいと思う。

 例えば、まず第一に、編み物をするとか草取りをする、ご飯を炊く、洗濯をするといった手間ひまのかかる作業の中で、私たちは自分の心と向き合っていたのではないかと思う。今と違って、音楽もないし、ラジオも聞こえてこない。ただひたすら自分で作業をしている時間は、自分の心を見つめる以外にない時間である。私はおそらくそれは、「祈り」に近い時間であったと思う。昔の日常生活の中で、私たちは無限に手間ひまがかかった分、無限に自分の心を見つめ、祈りに近い時間を過ごしていた。今はそれがなくなってしまったといえる。

 二番目に、手間ひまがかかった分、私たちは「心を込める」というおまけを付けていたと思う。ご飯にしても、機械で炊いたご飯と竈で炊いたご飯とでは、出来上がってみれば同じかもしれないが、やはりお母さんが炊きあげてくれたご飯の方が、子供に渡す時、どこか違うかもしれない。

 ご飯はともかく、おかずはもっとはっきり違いが分かる。パックに入ったおかずを買ってきて子供に食べさせるのと、お母さんが煮てくれた煮物を食べさせるのとでは、子供にとっては栄養的には同じかもしれないが、後者にはお母さんの心が込もっていることは確かである。そういう生活が昔は山のようにあった。意識して心を込めようと思わなくても、昔は心を込めて何かを作り、その心を受け取りながら食べたり着たりしていた。それが現代に至り、抜け落ちてしまったということである。心を伝える場がなくなったということが言えると思う。

 三番目に、技術文明以前の暮らしの中で、今はなくなったが、昔あったものとは何か。私は、「人と関わること」ではないかと思っている。

 私の母の里は岡山県の山奥であるが、昔はお風呂を焚くことがとても大変な仕事であった。一番力の強いおじさんがつるべで何度も水を汲み上げては、五右衛門風呂に満たしていた。その燃料はおじいちゃんが山に柴刈りに行って積んできて、おばあちゃんが竈の前で火を焚いた。私がお風呂に入っていると、おばあちゃんがやさしい顔をのぞかせて「湯加減はどうだい。ぬるくないかい」という思いやりをかけてくれた。

 ところが今は、私の家でお風呂に入ろうとしたら、全自動のスイッチを押せばいいのである。そうすれば自動的に沸き上がる。お湯が少しぬるいと思ったら、「おいだき」というスイッチを押す。

 確かに、昔のお風呂を焚くということは大変な作業であったが、家族みんなが自分の守備範囲の中で手をかけていた。相手と共感したり、ボランティア精神で力を貸したりという場が昔にはあったのである。しかし今は人の心など感じなくても、スイッチさえ押せばお風呂にも入れるわけである。

 私はこの三つのことを、非常に便利で豊かな技術文明と引き換えに失ってしまったと思っている。それでは、これをどうすべきか。もはや後戻りはできないし、手に入れた文明はもう手放すことができない。しかし私は解決の道はあると思う。

プロセスを重視する日本の伝統文化

 日本の伝統文化には、例えば書道、茶道など、たいてい「道」が付いている。スイッチを入れて結果だけを手に入れるというのではなく、道中、プロセスが大切だと言っているのではないかと思う。パソコンなどで字を書くという作業を極限まで省略しようとする時代にあって、墨をするところから始めて、一画一画心を込めて書く書道という日本の伝統文化が、この文明社会にあって生涯学習の場で今なお好まれている。茶道にしても、たった一杯のお茶を飲ませていただくために、延々と手間ひまをかけて、人間関係を大事にしつつ、心を込めるという世界がある。私たちは、そういう問題意識を持ちつつ、今こそ日本の伝統文化を見直す時ではないかと思う。

 最後に、私も大学の教師の一人として、教育の世界で何が欠けているのかと考えてみると、心の面として、学生たちと付き合ってみて分かるのは、本を読んでいないことである。本の読み方を知らない。「モモ」や「星の王子様」など子供の本とされているものを私が一緒に読んで、「このように読み取るのね」「ここは共感するでしょう」というように、読み方から指導しなければならない状況である。それが学生たちの心の問題といえる。やはり手間ひまをかけて、一字一字活字を読んでいくということが億劫なのであろう。

 それから、学生たちの体の面についていえば、食事は手間ひまかけたものを食べているかどうか、大変疑問だと思う。彼女たちに、「お味噌汁を作る時、ちゃんとおだしを取りますか」「ごまあえを作る時、ちゃんとごまを擦って作っていますか」と聞いても、そのようなことは一切ない。ほとんどの学生は、スーパーマーケットのパック入りのものを買って食べている。最近の子供たちは「キレる」とよく言われるが、私は子供たちがどのようなものを食べているのかを、きちんと調査すればいいのではないかと思う。

自尊心の回復

 それから、私が特に強調したいのは、そういうものを大人が自尊心を持って子供たちに伝えることである。宗教心でも、心の面でも、あるいは食べる物でも、あるいは「本を読みなさい」「伝統文化は大切ですよ」と言うことでも、大人が自尊心を持っていないということが問題ではないか。自尊心を持っていない大人が、子供にはっきりとした自覚と自信を持って伝えることができるのかと申し上げたい。

 よく、最近の大学は私語が多くて授業にならないことが多いと言われている。私はそれが信じられない。私の大学はいわゆる一流の学生が集まっているという大学ではないが、少なくとも私の授業では私語は全くない。百人規模の授業もあるが、私語は許さない。それは私のプライドが許さないからである。おしゃべりがあれば、直接学生のところに行って「やめなさい」と注意する。私は、私語が騒がしい中で平然と授業をする人の自尊心はどこに行ってしまったのか、無責任だなと思う。

 子供の母親についても同様である。電車の中で「静かにしなさい」と時々子供を叱るけれども、子供は走り回る。そうするとまた注意する。しかし子供は止めない。自分が「やってはいけない」と言ったことを子供がやっている。言うことをきかないのに、なぜ言うことを聞かせるだけのプライドがないのだろう。プライドを自尊心と言ってもいいし、セルフ・リスペクトと言ってもいいが、大人たち、親たちが自尊心を失っているといえる。その自尊心がどこで失われてしまったかと言えば、やはり戦争に負けたことから来ていると思う。マッカーサーに「日本人は十二歳である」と言われたショックを、私は子供ながらに覚えている。私たち大人全体がプライドを失っている。そこに今の教育問題の非常に深い根があるような気がしてならない。
(2000年6月24日発表)