アイデンティティーとしてのジェンダー(下)

作家・ポルトガル元国会議員 パトリシア・ランサ

 

(4)「ジェンダー」という言葉について
 現在「ジェンダー」(gender)という言葉は、英語圏の国々では名詞や形容詞に関連する文法上の「性」とは違うものを示す言葉として一般的に用いられている。この新しい用法は英語圏の世界にあまりに広く普及しているため、それに挑戦すれば時代遅れで特異なもののように聞こえる。しかし、この新しい意味は、「政治的妥当性」(political correctness)というパンドラの箱における鍵となる概念を示しており、伝統的な(二元的)性アイデンティティーの概念に対する挑戦のほとんどすべてと関わりがある。

 現在、社会科学とメディアにおいて、全般的に使われているこの新しい用法に対する一つの予備的な批判としては、それが事実上翻訳不可能であるということ、そして英語以外の言語では表現できない概念であるという非常に奇妙なものだということである。英語しか知らない者であっても、ふと考察してみれば、この最近の「発明物」がいかに奇妙なものであるかが分かるであろう。それが不適切であることは、そのことを繁殖に関連して応用してみれば明白である。

 昆虫以上の動物界におけるすべての繁殖は(腹足動物や特定の爬虫類のような低級な生き物にはときどき例外はあるが)、オスとメスの結合による繁殖である。これは生物学的大前提であり、社会的構造ではない。生物学者、植物学者、動物学者、民族学者などは、常に「性的繁殖」について語り、それを一つの種が遺伝の多様性と生存能力を守るための手段であるとみなしている。それらに恋愛行動は関係がない。

 実際、「ジェンダー」という言葉の使用を主張する英語で語るスピーカーの中には、国際的な討論の場で甚だしい困難を引き起こす者がいるが、これについて明らかにする事例を以下に論じてみようと思う。これは文法上の「性」を有する言語――英語とオランダ語以外のほとんどのヨーロッパ言語がそうであるわけだが――も、「ジェンダー」という言葉をさまざまな意味で用いており、それはどれも人間の性別を意味するのではないからである。この言葉の意味には、第一に属、科、人種、第二に種類、様式、仕方、方法、第三に芸術的スタイル、様式、第四に流儀、ファッション、好みなどがある(注17)。

 「ジェンダー理論」とは、はっきり言って、伝統的な性アイデンティティーの概念を不特定の用語で攻撃する一群の思想のことを言うのである。「ジェンダー理論家」は急進的なフェミニストであると考えられており、ときには彼ら自身そう称するが、その運動にはさまざまな党派があり、その毒舌はわれわれに一切おかまいなしである。しかしながら、これから検討する「ジェンダー・フェミニスト」は、実際には真の女性解放運動ではない。それはむしろ男性と女性(という性別)をなくすためのプログラムであり、その目的はその提唱者たちの幾人かによってはっきりと述べられている。

(5)言語に表れた「ジェンダー理論」
1)ジェンダー理論家の主張
 「ジェンダー理論」を明確にするためには、その信奉者たち自身の言葉で語らせなければならない。以下に引用される著者たちは「ジェンダー理論」のはしくれというよりは、むしろ模範となるような人々である。これらの引用がなされた出版物のほとんどは、女性学コースの参考文献の中に発見できるものであり、その著者の幾人かは急進的なフェミニスト運動の指導者である。

 多くの人々は、男性と女性はDNA情報がそのまま表現されたものであると考えているが、「ジェンダー」は人間の思考と文化の産物であり、すべての個人の「真の性質」を作り出す社会構造である(注18)。

 異性愛は強制的に潜在意識層において女性に押し付けられてきた。…「強制的異性愛」は1976年に行なわれた女性に対する犯罪についてのブリュッセル国際法廷において、「女性に対する犯罪」の一つとして名付けられた(注19)。

 適切で実行可能な堕胎する権利に関する戦略は、たとえ男女間の主観的経験においてはそうでないと思っても、異性愛に基づく性交が強姦であることを知らせることである(注20)。

 …異性愛は、母性と同様に、政治的な視点から認識され研究されなければならない(注21)。

 性の流動性とは、どれくらいの時間にわたったとしても、またどの程度の変化であっても、自由にそして意識的に、一つの性に、時には無限の性に変化できる能力のことである。性の流動性は、性の境界とか規範といったものを全く認めない(注22)。

 「女性」というようなものが存在しなければ、女性が抑圧されることはあり得なかった。「性」をなくすことが、家父長制度をなくすための鍵である(注23)。

 もし性が現在想像できる範囲を超えて二つ以上に増殖したらどうなるか想像してみよ。それは力を分かち合う世界であるに違いない。患者と医者、親と子、男性と女性、異性愛と同性愛――これらの対立するもののすべては、分裂の源として、なくしてしまわねばなるまい。そこには医学的治療の新しい倫理が生じるであろう。即ち、その倫理とは性の二分化を克服した文化の中で、多義性を容認するものであろう(注24)。

 友人間のセックスが普通のことであると想像してみよ。性交が友情と喜びをどれほど促進するかという観点から、それを評価することを想像してみよ。…喜びはわれわれが宗教的家父長制度の中で奪われてきた生得の権利である。…われわれが受けるに価する喜びに浸っている様を私が思い描くとき、それは家族ではなく友人である。なぜならわれわれの体は神聖だからである(注25)。

 ゲイとレズビアンの文化もまた、家族という考えの支配的性質に挑戦することのできる破壊力であるとみなすことができる。しかしながら、それは人々が家族そのものに対する反対であると感じないような方法でやることができる。単純な「家族を粉砕せよ」のスローガンは、支配階級に対してはそれほどでもないが、しばしば彼らの生活の安全と安定を維持するために家族の絆に頼る労働者階級にとっては、脅威と見られるのである。ゲイ文化の破壊的性質が効果的に用いられるためには、われわれは人間関係のもう一つの視点を提示することができなくてはならない(注26)。

2)ジュディス・バトラー
 「ジェンダー理論家」の中で最も影響力のある一人がジュディス・バトラー(Judith Butler)である。彼女はジョンス・ホプキンス大学の人文科学科の教授であり、国際ゲイ・レズビアン人権委員会(IGLHRC)の理事の一人である。この委員会は国連NGOとして認可されており、「性別を世界女性会議の議題に上げよう」という国際請願キャンペーンのスポンサーになっている。この請願は、加盟国に「自分の性アイデンティティーを決定する権利、とりわけ親密な関係を確立する際に自分の体をコントロールする権利、および子供を産み育てるか否か、またいつ、誰と共に生み育てるかを選ぶ権利――を性的志向に関わらずすべての女性の人権の根本的な構成要素として」認めるように呼びかけた(注27)。

 バトラーの著書『性騒動、フェミニズムとアイデンティティーの転覆』は女性学研究コースの参考文献に広く引用されている。

 二元的な性の安定性をいったん認めたとしても、それは「男」の構造が男性の体にのみ生じるとか、「女」が女性の体のみを意味するということにはならない。さらに、たとえそれらの性が彼らの形態と構造において問題なく二元的であるように見えたとしても(これは問題となるであろう)、そのジェンダーもまた二つであり続けなければならないと仮定する理由はどこにもない。二元的なジェンダーのシステムという仮定は、ジェンダーが性を映しだすか、あるいはそれに規制されているというような、ジェンダーと性の擬態関係に対する信仰を言外に含んでいる。構築されたジェンダーの地位が性とは全く独立したものとして理論化されるとき、ジェンダーそのものは自由に浮かぶ項目となり、その結果として男と男性は男性の体を意味するのと同じくらい容易に女性の体を意味するであろうし、女と女性は女性の体を意味するのと同じくらい容易に男性の体を意味するであろう(注28)。

 もし性の不変の性質に異議が唱えられれば、恐らくこの「性」と呼ばれる構造はジェンダーと同じくらいに文化的構造なのであろう。実際、恐らくそれはいつも既にジェンダーであった。その結果、性とジェンダーの区別は、結局まったく区別がないという結果になるのである(注29)。

3)シュラミス・ファイアストーン
 もう一人の有名な「ジェンダー理論家」であるシュラミス・ファイアストーン(Schulamith Firestone、注30)もまた、露骨なマルキストの一人である。『フェミニズムの古典的書物』は、ファイアストーンの『性の弁証法』(シモーヌ・ド・ボーヴォワールに捧げられた)を「女性運動の急進派の思想を形成する上で強力な力であった――ロビン・モーガン(Robin Morgan, 注31)はそれを彼女の思想形成にとって決定的であったフェミニズムの『基本的な基本成分』であるとみなした」と宣言している(注32)。「ジェンダー」ユートピアを少し味わってみる上で、彼女の著作に少し注目してみる価値がある。

 両性の自然な生殖機能の違いが、性別に基づく最初の分業に直結した。それがさらなる経済的・文化的階級へと分化していく起源である(注33)。

 ちょうど経済階級を除去するためには下層階級(プロレタリアート)の反乱、一時的な独裁、生産手段の強奪が必要であるように、性的階級を除去するためには下層階級(女性)の反乱と、生殖の支配権の強奪が必要である。それは女性が自分の子供の所有権を回復し、子供の出産と養育のための新しい技術とすべての社会機構を含めて、人間の繁殖に対する女性の支配権を回復することである。そして、ちょうど社会主義革命の最終目的が経済階級の特権の除去だけでなく、経済階級の区別そのものの除去であったように、フェミニスト革命の最終目的もまた、最初のフェミニスト運動とは異なり、男性の特権の除去だけでなく、性的区別そのもののなくすことでなければならない。人間の生殖上の違いはもはや文化的には重要でなくなるであろう(注34)。

 したがって、「自然」は必ずしも「人間的」価値観ではない。人類は自然よりも大きく成長し始めた。われわれはもはや差別的な性的階級を、その起源が自然にあるという根拠に基づいて正当化することはできない。実際、実利的な理由のみによれば、われわれはそれを取り去ってしまわなければならないかのように思えてくる(注35)。

 一方の性による両方の性の利益のための繁殖は、(少なくともオプションとしての)人工繁殖によって取って代わられるであろう。子供たちは両方の性に平等に、あるいはどちらからも独立して、ただし自分の世話をすることを選ぶ者のところに生まれるであろう(注36)。

 現在インセスト・タブー(近親相姦忌避)は家族を維持するためだけに必要とされている。それなら、もしわれわれが家族をなくしたら、われわれは性行為を特定の型にはめる抑圧も実際に廃止するであろう。他のすべてのことは平等だが、それでも人々は単に身体的により好都合であるという理由で異性の者たちを好むであろう(注37)。
もし初期の性的抑圧が政治的、思想的、および経済的な奴隷制度を支える構造を特徴付けた基本的なメカニズムであるとするならば、家族の廃止によるインセスト・タブーの終焉は、深い影響を及ぼすであろう。性はその囚人服からエロティシズムへと解放され、われわれの文化全体がその定義そのものを変えるであろう(注38)。

 われわれはいかなるフェミニスト革命のプログラムにも子供の抑圧を含めなければならない。…われわれの目指す最終段階は、女性であること、子供であることの状況そのものを除去することでなければならない(注39)。

 子供と大人のセックス、および同性愛のセックスのタブーはなくなり、性的でない友情もなくなるであろう。…すべての近しい関係は肉体的関係を含むであろう(注40)。

ファイアストーンはいかなる代替システムにも、第一に以下のことを要求している。

1.入手できるあらゆる手段を効じて、女性をその繁殖上の生態における虐待から解放すること、そして出産と育児の役割を男性と女性の両方を含んだ社会全体に拡散すること。…4.すべての女性と子供たちに自分が望むいかなる性的行為をも行える自由を与えること。…子供の性行為は、家族の脆弱な精神的安定さに対する脅威となるために抑圧されなければならなかった。こうした性的抑圧は、生物学的家族の文化的誇大表現の度合いに比例して増加した。…われわれの新しい社会において、人類はついにその自然な「多様にひねくれた」性愛に回帰することができた――すべての形態の性愛が許され、耽溺されるであろう。…結婚はその定義からして、それに参加する者たちのニーズを満たすことはできないであろう。なぜなら、それは根本的に抑圧的な生物学的条件の周りに組織され、奨励されたからである。われわれは今やその条件を修正する技術を持っている。われわれがその機構(結婚)を持つ限り、われわれはその基礎にある抑圧的な条件を持ち続けるであろう。結婚が時代遅れのものでありながらも、今日なお満足させてくれている感情的・心理学的欲求をより良く満たすような新しい代替物について、われわれは語り始めなければならない(注41)。

 上記の引用は、「ジェンダー理論」は男性の優位性が女性に異性愛を強制するという見解であることを明確に示している。実際、ジェンダー・フェミニストの中にはこの強制がなければレズビアンが好まれるであろうと宣言する者もいる。他の者たちもファイアストーンと同様に小児に対する性欲と近親相姦を好む。「世界のレズビアン化」(バトラーの引用によるモニク・ウィッティヒ)を望む者もいるし、また一対一であれ一対集団であれ、誰とでもセックスをしたがる人もいる。これらのわいせつな宣言の何が真に常軌を逸しているかというと、彼らのやりたい放題の(サタン的と言うべきか)空想が、それまで上品とされてきた分野に巧みに入り込みそこに根を下ろしたことである。人文科学を学ぶ学生は、文明の偉大な文化的遺産について学ぶのではなく、彼らが知らないものを蔑むことを教えられ、ポルノSFに近いものによって教化されているのである。

4.行動に表れた「ジェンダー理論」

 「ジェンダー理論」をすべて空言に過ぎないと片付けてはならない。それは女性学研究と人文科学の分野で重要な位置を占めているばかりでなく、国際組織の議題にもなってきた。「ジェンダー理論家」がどのように働きかけるかについての良い例を提供しているのが、1995年9月に中国の首都北京で開催された国連第4回世界女性会議を準備中に行なわれた議論である(注42)。

 北京会議の参加者たちの間で、文書中の「ジェンダー」という言葉について論じたとき、幾人かの英語圏の代表者たちと、英語を母国語としない大多数の無知な世界の女性たちの代表と間で、激しい論争を引き起こした。後者の女性代表は「ジェンダー」という言葉が性(sex)の婉曲表現であり、「ジェンダー」とは人間の男性と女性のことをさすのだと推測した。しかしながら、通訳においては性(sex)に該当するそれぞれの言語の単語を使用する他に選択の余地はなかった。

 こうして巻き起こった論争によって、善意の無邪気さが悪意ある無知に直面することになった会議を取り巻く策略が明らかになった。会議の進行の過程において、この聞きなれない概念の使用は、国連の認定を受けた文書にその言葉を密かに入れ込もうという策略によるものであることが明らかになったのである。それを企図した世界的な女性組織は、家族を重視する女性組織から、通常は不道徳であるとして否定されている「権利」を数多く主張する団体であった。これらの権利には、同性愛が異性愛と平等であるとみなされる権利、中絶することのできる完全な自由と援助、青少年のセックス、売春をサービス産業として認めること、あらゆる公共団体の分野における女性職員の割当てを政府が実施すること――などが含まれていた。

 「ジェンダー・フェミニスト」たちにとっては不幸なことに、家族を重視する組織から英語を話す代表者たちが来ており、彼女たちは米国の大学の女性研究プログラムののっとりについて良く知っていたのである。その結果、激烈な論争が起こり、その過程で「ジェンダー理論の視点」(gender perspective)が暴露された。

 さまざまなテキストの比較によって事実が明らかになった。1995年2月27日の英語の草稿には「ジェンダー」という言葉が60回以上出てくるが、スペイン語版やフランス語版ではそれに該当する genero と genre という言葉は一度も使われていない。その代わり、ジェンダーは sexo (英語の sex に該当)か hombres y mujeres(男と女)、あるいはその他の語句に訳されていた。英語とフランス語とスペイン語がそれぞれ違う意味を持っている場合もあった。

 したがって、「ジェンダー」に関しては何か異常なアングロ中心主義が存在するように思われる。それを批判する者たちは「ジェンダー・フェミニスト」たちから激しく攻撃された。彼らはこれを「政治的妥当性」に対する反動的猛攻撃であるとみなしたのである。米国連邦議会下院の元女性議員であるベラ・アブズッグ(Belle Abzug)は「ジェンダー・フェミニスト」を弁護しているが、彼女の主張は示唆的であった。

 「ジェンダー」の概念は現代の社会的、政治的、および法的な論文の中に定着している。…ジェンダーという言葉の意味は、女性と男性の役割と地位は社会的に構築されたものであり、変化し得るという現実を表現するために、性(sex)という言葉から分化されて発達してきた。…現在幾つかの加盟国が活動要綱から「ジェンダー」という言葉を抹消し、それを性という言葉に置き換えようと試みているが、これは女性たちが得てきたものを元に戻し、われわれを強迫し、さらなる発展を妨げようとする、侮辱的で堕落的な試みである。われわれは、女性の権利の強化を除外し妨害しようとする少数の男女の代表者たちに対して、この陽動作戦をやめるよう懇願する。彼らは成功しないであろう。彼らは貴重な時間を浪費するだけだ。われわれは従属的で劣等的な役割に帰りはしない(注43)。

 「ジェンダー・フェミニスト」たちは準備がしっかりしており、資金も豊富だったため、彼らの思想を、トーン・ダウンを余儀なくされはしたものの、最終的な北京文書の中に事実上盛り込むことができたのである。これは新しい現象ではなかった。その他数多くの国連の文書や、西洋の政府省庁の文書、また欧州連合や欧州議会の文書の中で「ジェンダー理論の視点」(gender perspective)に出くわすのである。

5.社会的条件付けと性アイデンティティー

 相対主義の否定は、アイデンティティーを形成する上での社会的条件付けの重要性を過小評価することを伴わない。シモン・ド・ボーヴォワールは、「人は女性に生れるのではなく女性になるのだ」という言葉で有名である。この取るに足らない観察は、それが値するよりも必要以上に重く評価されてきた。ある意味でそれはありふれた真理を含んでいるが、別の意味でそれは誤りを含んでいる。誰しも男と女のどちらかに生れるのである。彼らがどのような種類の男あるいは女になるかは、もちろん彼らが社会化される過程に影響されるであろう。子供が自分の文化圏で受ける経験と教育、および彼が受ける期待とは、そのアイデンティティーと性格を形成する上で非常に重要である。生れつきのものと文化的に形成されるものとの関わりについては、知性やその他の性質との関連において「自然対教育」(nature versus nurture)論争の中で長らく論じられてきた。

 性アイデンティティーの問題においては、付加的な側面があり、個人が社会化されるあり方に対しては、生物学的機能が第一義的な影響を与えるのであろう。もし所与の社会の生存条件が、女性は男性に保護され依存することを要求するならば、その文化は両性の構成員に対してそれに従って社会化するよう配慮するであろう。経験は成長過程にある人間に自己のアイデンティティーを構築可能にするような多くの要素を提供するであろう。このプロセスは本質的に相互に作用するものである。

 われわれが自己として生れるのではなく、自己であることを学ばなければならないということは、私には非常に重要なことであると思われる。実際、われわれは自己になるために学ばなければならない(注44)。自己になることは部分的には生れながらの性質の結果であり、部分的には経験、とくに社会的経験の結果である。新生児は数多くの生れながらの行動や反応の仕方を持っており、また新しい反応や新しい活動を発達させる生れながらの傾向も多く持っている。こうした傾向の中に、自分自身を意識する人間へと発達していく傾向がある。しかし、これを成し遂げるためには、多くのことが起こらなければならない。社会的に孤立した状況で成長する人間の子供は、完全な自己の意識を獲得することはできないであろう(注45)。…すべての学習による適応は、有機体の遺伝(その「ゲノム」)が新しい適応を獲得する素質を提供しなければならないという意味において、遺伝的基礎を持っている(注46)。

 伝統的社会、近代化の過程にある社会、そして今日のわれわれの社会では、子供の自己意識に影響を与える文化的要素が大きく変わってきた。女性の解放と、女性が社会的・公的領域に完全に参加することが実質的に可能になったことによってはじめて、女の子の完全な自己実現が可能になったと論ずることができよう。男の子のアイデンティティーの意識もまた変わらざるを得ない。今日においては、これは時として悪い方に変わる。男性の理想を女性の保護者・支配者から平等なパートナー・仲間へと発展させていくというよりは、われわれの文化の多くの特徴は男の子たちを無責任な攻撃者にするのを助長しているのである。

 もし「ジェンダー理論」がその目論見通りに影響力を得るようになれば、若い女性たちのアイデンティティーの感覚にも悪影響を与えるようになるであろう。自分たちを男性の犠牲者として、また「流動的な性」の生き物として見る女性を生み出すことを目的とした女性研究に没頭して社会化(意識の高揚)がなされれば、彼女たちは家族に対して敵対的になり、生れながらの素質である母性は抑圧されるであろう。この種の洗脳が感受性の強い若い女性の性格に与えるダメージは容易に予想がつく。しかし、こうしたプロジェクトが成功するのには非常な困難が伴う。母親となり子供を育てるようとする女性の遺伝的性質――彼女らのアイデンティティーの本質的基礎――は、父親になろうとする男性の遺伝的性質よりもはるかに強力なのである。後者は成熟した市民となるためのより積極的な社会化を必要とする。

 「ジェンダー・フェミニスト」は、普通の女性を回心させることは、自然の性質を変えるように非常に難しいということに気付いている。われわれが北京の事例で見たように、彼らが自分の目的を達成するために行政的な手段に頼るのはこのためなのである。これはすべての革命家が最終的に取る手段である。

 「ジェンダー・フェミニスト」はまた、その民衆扇動においても特筆すべきものがある。傷つきやすい若い女性たちの支持を得るために、歴史をひどく歪曲すると共に、「セクシャル・ハラスメント」に対するキャンペーンを張って、この言葉が意味するものをすべての合理的な領域を越えて広げてしまったのである。このキャンペーンの主要な効果といえば、女性たちをより不安にし(犠牲者崇拝)、若い男性たちの間に以前にまして無責任な行動を誘発したことであった。こうしたキャンペーンや、その他の「家父長制度の抑圧」に対する非難を支持するために、多くの指導的な「ジェンダー理論家」たちは広範な領域の統計資料の「料理」に頼ってきた。クリスティナ・ホフ・サマーズ(Christina Hoff Summers)はこうした実践の例として実に見事な一群の作品を作り出した(注47)。

 もう一つの扇動的戦略は(職場における)女性の割合の拡大要求、(女性の)雇用促進計画であったが、それは実行されれば有能な女性の信用を傷つけるか、男性と女性の関係をさらに悪化させるだけであった。この要求の背後に横たわっていた可能性のある「隠されたアジェンダ」については、後に示唆することにする。

6.少数派民族と「ジェンダー」

 「ジェンダー・フェミニスト」を含む「ゲイとレズビアン」の活動家グループは「少数派の権利」についての宣言を頻繁に行い、自分たちが不利な立場にあると考えている少数派民族のグループと同盟を結ぼうとする傾向にある。人種に関して、身体的特徴以外のいかなる重要なことをも生物学的に先天的なものであると主張することは、人種差別の匂いがすると一般的にみなされる。ある種の民族主義と共通の大義を作り上げようとする「ジェンダー理論家」たちの欲望は、「ジェンダー」と民族性の間に類似性を描き出そうという下心を持っていることが明白である。少数民族のグループに多元性があるので、ジェンダーの多元性もあって当然であろう。民族性はしばしば流動的なのであるから、「ジェンダー」も当然そうであろう。

 民族主義者たちの抗議と反乱は現実の抑圧や差別に対するものが多いのだから、もし「ジェンダー」活動家たちが彼らと提携すれば彼らもまた犠牲者として見られるであろう。「人種差別主義者」であることが悪であるように、性アイデンティティーが本質的な性質であると主張することは「性差別主義者」であり、悪である。これは抗議運動の歴史における古いストーリーであり、とりわけ見せかけの運動によく見られるものである。彼らは問題を混同させるのである。

7.脱構築主義者を脱構築する

 最後に答えられなければならない疑問は、なぜ私がこの論文における主たる関心事として「ジェンダー理論」と「ジェンダー・フェミニスト」を選び、男性のアイデンティティーの現代的な変化についてはほとんど言及しなかったのか、ということである。この理由は、女性のアイデンティティーの本質と関係があり、「ジェンダー・フェミニスト」たちはそれにはっきりと気付いている。「ジェンダー・フェミニスト」たちが、ただ単に女性の雇用促進計画と、社会生活のすべての領域における男女の平等な地位を提案するだけではなく、合衆国の各州に男女二名の上院議員を立てるように米国憲法を修正すべきだとまで提案する時、彼らは自分たちが何をしているのか知っている。彼らの目的は、選挙区を支配下に置くことにある。大多数の女性は、家の外で働いているか否かに関わらず、公権力の地位に就く時間も意思もなく、政治活動によって得られるみすぼらしい報酬のために母としての役割や家庭を放棄したいとは思わないであろうということを、ジェンダー・フェミニスト達は、あまりにもよく知っているのである。

 彼らは母としての役割を事実上放棄する提案の際に、それを十分に議論している。レズビアンの中には母親もいるであろうが、ほとんどはそうではない。これは労働市場と政治市場の両方において、大部分の異性愛者の女性に対する同性愛者の女性の優勢を相当高めることになる。これは異性愛者の男性に対して同性愛者の男性が享受していない利点である。同性愛者の男性が男性解放運動の先頭に立ちたいと切望するなどということはあり得ないし、またそんなものは存在しなかった。

 しかしながら、レズビアンの女性はすべての女性を代弁し、権力の座について彼らを代表すると主張する。職場における女性の割り当て人数、同等の地位、およびそれに類する提案は、もし実行に移されたならば、必ずや彼女たちの野心を実現するのに役立つであろう。ちょうどボルシェビキの中流階級の知識人たちが、プロレタリアートの背後でロシアの権力の座に上ったのと同じように、「ジェンダー・フェミニスト」たちは普通の女性たちの背後で権力を握るための戦略を持っているといってよいであろう。そしてこれらはすべて権力者に対する闘争の名のもとに行なわれるのである。おそらくフーコーの質問は“D'ou parlent-elles?”(彼女たちはどこから語っているのか?)と言いかえられなければならないであろう。彼女たちの多くは、既に既存の社会を倒すという自分の目的を宣言している。そのとき、彼女たちを指導すべき姉代わりの年長者に誰がなるのであろうか?

 「同性愛理論家」はその女性版である一般的な脱構築主義のアプローチと多くの共通点を持っているが、彼らの間には決定的な矛盾がある。後者は、われわれがこれまで見てきたように、性アイデンティティーを第一義的に社会的構造であると主張し、その生物学的な基礎を否定あるいは破壊さえしようとする。しかしながら、多くの男性同性愛者のスポークスマンは今、少数派としての地位を認めさせるための要請の一部として、先天的な要因の重要性を主張し始めているのである。

 「ジェンダー・フェミニズム」は絶え間なく結婚と家族を敵視し続ける。多くの男性の同性愛者たちは、結婚と家族が彼らにも与えられるように要望している。こうした問題についての議論はこの論文の範囲を超えているが、一言だけコメントしておきたい。いわゆる「ゲイとレズビアン」の同盟は、基本的にまとまりがなく不安定であるように見える。これはゲイとレズビアンがなんらかの少数派民族運動と同盟したときも同様である。

8.結論

 「性」という言葉を「ジェンダー」という言葉に置き換えることは、古い手法のもう一つの例に過ぎないように思われる。つまりそれは、G.オーウェル(G.Orwell)が、「ニュースピーク」(Newspeak)(注48)と呼んだもの、あるいはフランソワーズ・トム(Francoise Thom)が「紋切り型の用語」(langue de bois)(注49)と呼んだものである。何かに別の名前を与えれば、その本当の性質があいまいになる。それを人々に使わせれば、彼らを洗脳できる。「人民の民主主義」や「プロレタリアートの独裁」と同じように、もし一つの表現をかなり頻繁に用い、その表現を普及させれば、彼らの多くは最終的にそれが物事の現実の状態を描写していると認めるのである。ここに言葉の用法の背後に潜む権力への志向がある。

 「性」のかわりに「ジェンダー」という言葉を使うことは、それがいかに無邪気になされたとしても、その新しい言葉に隠された意味を暗黙のうちに認めることになる。そこに隠された意味とは、性アイデンティティーは流動的なものであるという示唆、「ジェンダー」は二つ以上にたくさんあるだろうということ、そして人々は「ジェンダー」を選択する――といった内容である。

 「ジェンダー理論」が否定するものは、現実の世界に男性と女性という二つの性のみが存在し、人間と動物も同様に、異性の個体との恋愛関係を求め、好むのが標準であるということである。言いかえれば、母親は女性であり、父親は男性であり、子供の養育は家族構造の中でもっともうまくいくということである。自分と同性の人間との繁殖を伴わない肉体関係をどうしても好む非常に少数派の人々といえども、生物学的には父あるいは母となる潜在能力を備えた男性または女性であり続けているのである。生理学的に擬似両性具有であるような生殖奇形を持って生れたごくわずかの不幸な人々の存在は、「異性愛が自然でないことを証明しない。それは盲目で生れてくる赤ん坊がいたとしても、人間がものを見ることが自然でないということを証明しないのと同じである」(注50)。

 「アイデンティティーとしてのジェンダー」についてのこの評論を終えるにあたって、私はデイル・オレアリー(Dale O’Leary)による北京会議分析の最後のページから引用したい。それは明瞭で時宜を得た言明であり、人文科学と性の分野におけるアイデンティティーの問題の解明に関心のあるすべての人が熟考すべき内容である。

 フェミニストは男性の礼儀正しさに依存してきた。彼らは危険かつナンセンスで愚かな考えを尊重をもって扱うよう要求してきた。ジェンダー・アジェンダは、人々が立ち上がって「包括的(非差別的)用語はもうたくさんだ。政治的に妥当なスピーチはもううんざりだ」という気持ちになるまで挫折させることはできないであろう。われわれは「性」を意味するときに「ジェンダー」と言うのを拒否しなければならない。現実と人間の性質に逆らったものたちは、それとともに生きなければならなくなるだけであろう(注51)。

(1997年11月24日〜29日、米国・ワシントンDCにて開催された第7回世界平和教授アカデミー世界会議において発表された論文)

注17 ハラップ標準仏英辞書(ロンドン,1961年)。
注18 ルーシー・ギルバートおよびポーラ・ウェブスター「女性らしさ(femininity)の危険:社会学か生物学か?」。41頁。オリアリー『ジェンダー:女性の解体批評』(ハース・マガジン,1995年)に引用。
注19 エイドリアン・リッチ「異性愛とレズビアンの存在」『血とパンと詩と:散文選集』(ニューヨーク,1979-85年)。57頁。オリアリー(1995年)6頁に引用。
注20 同書。70頁。オリアリー(1995年)6頁に引用。
注21 同書。35頁。オリアリー(1995年)6頁に引用。
注22 ケイト・ボーンスティーン『ジェンダー・アウトロー:男性、女性、そして我々に』(ニューヨーク)。52頁。(デイル・オリアリー『ジェンダー・アジェンダ:平等を再定義する』(ルイジアナ州ラファイエット,1997年,に引用。)著者は性転換手術を受けた男性。
注23 同書。115頁。
注24 アン・ファルストスターリング「5つの性:なぜ男性と女性だけでは足りないのか」『サイエンス』誌(1993年3−4月号)。24頁。
注25 メアリー・ハント「神学、倫理、儀礼のための女性同盟」。1993年ミネアポリス新概念会議にて。オリアリー(1997年)79頁に引用。
注26 クリスティーン・リディオー「社会主義、フェミニズム、ゲイ・レズビアンの解放」リディア・サージェント編『女性と革命』(ボストン,1981年)。87頁。
注27 オリアリー(1997年)112頁。
注28 ジュディス・バトラー『ジェンダーの苦悩、フェミニズム、アイデンティティーの破壊』(ニューヨーク,1990年)。6頁。
注29 同書。7頁。
注30 米国の女性解放運動の初期に最も影響力があったカナダ人活動家、1945〜
注31 米国の作家、活動家、1941〜
注32 ミリアム・シュネアー編『フェミニズムの古典的書物』(ロンドン,1995年)。245頁。
注33 シュラミス・ファイヤーストーン『性の弁証法:フェミニスト革命の事例』(ニューヨーク,1970年および1993年)(シュネアー前掲書246-256頁に抜粋引用)。
注34 ファイヤーストーン前掲書。9頁。
注35 同書。10-11頁。
注36 同書。10頁。
注37 同書。12頁。
注38 同書。59頁。
注39 同書。60頁。
注40 同書。240頁。
注41 同書(シュネアー(1995年)249頁に引用)。
注42 北京で「ジェンダー」問題がどのように扱われたかについての十分な説明は、オリアリー(1997年)を見よ。
注43 同書。86、87頁。
注44 カール・R.ポパーおよびジョン・C.エックルズ『自己と脳』(ロンドン,1977年)109頁。
注45 同書。111頁。
注46 同書。121頁。
注47 クリスティナ・ホフ・サマーズ『誰がフェミニズムを奪ったか?』(ニューヨーク,1994年)。
注48 ニュースピーク。一見客観的に見えながら、実は世論操作のために国家権力が用いる言語表現。「増税」(inceased tax)を「歳入の増大」(revenue enhancement)と呼ぶこと。1949年、G.オーウェルの小説「1984年」(Nineteen Eighty Four)中の造語。(ランダムハウス英和大辞典第2版より)
注49 langue de bois,(政府機関、特に共産党などの)紋切り型の用語。(新スタンダード仏和辞典より)
注50 オリアリー(1997年)70頁。
注51 オリアリー(1997年)213頁。