マレーシアにおけるグローバル化と高等教育

ケバングサーン・マレーシア大学副理事長代理・教授 モハメド・サレー・ヤシン

 

1.序:グローバル化

 我々は現在、大転換時代に生きており、その影響は人間の営みの全局面に及んでいる。そして、よかれあしかれ、誰も完全には理解していないけれどもすべての人が肌身に感じさせられている「地球的秩序」の中に組み込まれつつある。このように宣言したのは、英国の有名な社会学者アンソニー・ギデンズ(Anthony Giddens, 注1)である。その概念の真の意味合いについて、マレーシアでは今議論の真っ最中であり、まだ何のコンセンサスも見出されていない。

 「グローバル化」(globalization)という用語が本格的に語られ始めたのは1990年代であるが、それに関する学問的歴史の浅さのゆえにその概念の意味はつかみどころがない。ある学派の中には、グローバル化について、それほど評価しないものもある。それはグローバル経済が、以前に比べてそれほど劇的には変化を遂げていないからである。一般的に「懐疑論者」とよばれるこの系統の支持者たちは皆、「グローバル化」に対してその実体以上に力と影響力を有すると評価している。彼等によると、グローバル化の概念とは、実際には自由経済思想であり、その意図するところは福祉制度の解体と政府介入の役割の逓減の意味なのである。

 「過激論者」とされる別の学派の見解は、世界市場が飛躍的にその販路を拡大した結果、国家は以前と比べて国民の文化・社会・政治的生活に対する統治力を殆ど失うようになった。この典型が、「グローバル化絶対論」である。この議論では、グローバル化の流れはもはや制御不可能になっており、もう止めることができないという。しかしそれにもかかわらず、国家は依然強い力を有している。

 第三の学派は、「修正論者」である。グローバル化は実際に存在するものであるが、全般にわたる影響力がないゆえに、もっと正確に言えば、そのような完全な力がないゆえに、修正論者たちはグローバル化の現実を認めながらも、グローバル化の攻勢に対して新しい地域共同体を形成したり、市民社会を発展させるなどして、さまざまな戦略や計画を議論している。そしてグローバル化は不可避でありかつ完全に有益であるという「絶対論」を拒否している。

2.高等教育におけるグローバル化の影響

 高等教育におけるグローバル化の影響をどのように見るかは、グローバル化の概念をどう認識するかに大きく関わっている。グローバル化の理解だけではなく、より重要なことは、それにうまく対処し、最後に凌駕すると言う意味では、今のところ修正論の学派の考えが指針としてはもっとも適している。

 グローバル化とその教育への影響について、どのような立場をとるにしても、商業主義と競争自由化への移行へ導く要因は、グローバル化の作用そのものである。

 迅速なコミュニケーションを促進してくれるプロセスは、ビジネス指向をもった市場思想と組み合わされてはじめて有効となるが、それが大学を危険にさらしているものである。他の場所、特にオーストラリアと英国で、私の学究的同僚の研究者たちは、グローバル化する政治・経済が大学の経営形態にどのような影響を与えるのか、また日常的学術研究活動がグローバル化の作用によってどのように変えられてきたのかについて研究を進めている。彼等は1998年に、『大学とグローバル化;重要な観点』(Universities and Globalization; Critical Perspectives)という題の著書を共同で出版した(Currie & Newson, 注2)が、その中で管理統制主義、会計責任、民営化などに関する彼等の見方を発表し、編者の一人はそれを「大学の商業主義と競争自由化への移行を示す活動」と呼んだ。言うまでもなく、グローバル化した経済、政治、社会の相関関係は、国によって起こる速度が同じではない。グローバル化に各国がどのように対応するか、結果的にどのようにグローバル化活動を変容させるかはその国の経済、政治的哲学および歴史文化的足跡によって変わってくる。

 スローター(Slaughter)は、世界経済の構造的変化とオーストラリア、カナダ、英国、米国における各国の高等教育政策の再構築について研究した(1998)。著者は、世界経済における変化と高等教育を結びつけ、その中で、グローバル化理論とは、高等教育制度を集中化させることにより、世界市場での自国のシェアを確保するための国家戦略にまで高等教育を高めることを意味すると説明している。著者は、グローバル化の中に高等教育に関する四つの重要な含意を見出している。第一に、自由裁量活動に用いることのできる予算(資金)の圧縮で、一例として中等以降の教育があげられる。第二に、技術科学及び市場、特に国際市場に密接に関わる分野に対する重要性の増大。第三に製品開発とイノベーションに関する多国籍企業と国営企業との関係強化、第四に多国籍企業と産業先進国のグローバルな知的財産戦略への焦点の強化である。

3.マレーシアの高等教育

(1)高等教育の歴史
 マレーシアにおけるグローバル化の高等教育への影響を論じる前に、マレーシアにおける高等教育の歴史を手短かに述べる必要がある。ヨーロッパ帝国主義の最高潮期に、ヨーロッパ諸国の大学が各国の植民地にそれぞれ持ち込まれた。わが国の場合、学術研究のモデルを導入したのは英国人であったが、それはその少し前に米国にもたらされた学術研究モデルと同じものであった。マレーシアの公立大学(1969年まで1校、現在10校で、まもなく14校になる)は、英国とほとんど同じものが模倣されたと考えるのが当然であろうが、不幸にも英国に普及している自治と学問の自由の伝統的土壌のないところに導入されたわけである。

 しかしながらマレーシアの大学はそれ以来独自の道をたどり、国内及び国際的環境に適応しながら変化してきた。それでも西洋、特に英国と米国からの制度的類似性は、今なお根強い。さらに最近の大学は、わが国の土壌に深く根差しながらも、現実には国際的理念と外国のモデルから影響を受けている。

(2)最近の高等教育の発展
 マレーシアでのここ数年における高等教育の民主化とは、公立大学を補完するための私立大学の設立をも意味した。アヌウォー・アリ(Anuwar Ali)は、次のように分析している(注3)。私立学校の急増(合計しておよそ600校があり、英国、オーストラリア、米国の大学と姉妹関係を認められている)と海外の大学分校の開校、それほど数は多くないとしても私立大学の設立は、より興味深い新しい高等教育のシナリオを創造したが、政策立案者たちにはそれと同じくらい複雑で課題の多いものである。なぜならこの新しい状況で新たな知的展望が開かれたものの、教育の質の面では不安が多いからなのである。

 あらゆる量的変化は質的変化を伴うものであり、ときには意図しない結果がもたらされることを我々は承知している。学生数の増加に伴う新しい大学の予想外の増加は、既存のインフラ、教授陣、学問の水準に負担をもたらす。高等教育の優秀さとは、学術プログラムの質の機能、学習環境、学術スタッフの質であり、それぞれが互いに有機的に連動していることである。高等教育の民主化と国内経済の急速な変化に一致して、大学は全ての学術分野において高い水準の学生を輩出することができなければならない。

 急速なITの進歩にリードされた知識集約型活動の重要性から見ても、またグローバル化と自由化政策の過程という観点から見ても、公立大学は、その伝統的長所、短所、全般的な可能性を考慮に入れつつ、新しく定義された役割が明らかに要請されている。これは国内の全大学が共同して、あるいは個々の大学レベルのいずれかで、その作業を進めることができるはずである。多くの分野における技術発展及び技術革新の影響の意味するところは、世界の他の主要大学の卒業生と比べてもひけを取らない、数多くの重要な学問分野における有能な卒業生を輩出するという、より大きな役割を大学も担わなければならないということである。

 この目標を達成するために大学は、世界中の大学の発展に即して、国内的にも国際的にも互角に戦える内容をもったカリキュラム開発を計画しなければならない。労働市場の変化に対応して、労働環境の新しいニーズにあわせ、またカリキュラムに新しい学問分野、専門性を取り入れる必要があるときはいつでも、それに応じて学術の組織編成を改編していくことは、避けられない状況である。これによって卒業生達は間違いなく柔軟性、創造性、批判的思考法をますます身につけられるようになるだろう。

 高い質と洗練されたプログラムの創造とは別に、大学は非常に知識豊かで幅広い才能のある学生を創出するように期待されている。おそらく情報技術の知識とバランスの取れた人格を特に強調することができよう。このような流れの中で大学は、早急に現在の大学の使命と目的を再考し、優先順位を並べ替えなければならない。わが大学では、4つの自然科学系学部をひとつにまとめ、社会科学系と医学系の学部の再編に現在取り組んでいる。

 大学は更に最新のIT発展に基づいた最新の教授法と学習法に加え、世界に通じる学術スタッフの行う研究プログラムを備えなければならない。これは望ましい目標であるが、一方で政策立案者にはこれに関して地方大学の状況を再考する良い機会であろう。これらを実行するに際して重要な点は、産業界からの人材、専門家に加え、世界の他の大学からもさまざまな情報やアドバイスを受けるべきであるということである。また、新しい協力体制と連携が奨励されねばならないし、この種の活動に対する予算配分が増加されてしかるべきである。UKM(ケバングサーン・マレーシア大学)においては、海外の大学と企業30件と覚え書きを交わしてこの目標達成を推進しており、その他の公立大学も同じような取り決めをおこなっている。

 近い将来、教授陣も顕著に変わるだろうといえよう。教授法も、ほとんどの大学のカリキュラムにおいて、もはや従来の形式ではできなくなってきている。学生自身が課程編成に積極的に参画し、教育の質に対して学生自身もより大きな責任を持つべきである。既にUKMやその他マレーシアの大学ではICTの設備が設置済みであり、その結果、教授法および学習法の技術が教員と学生両方に利用可能である。

 同時に、常に学生数が増加し、多様性を増しつつある学生の学習上のニーズを満たすためにも、学術スタッフが適合するよう連動しなければならない。このように、学術的訓練の質と教授法の質がこれまで以上に重要となる。学術スタッフ訓練計画のもとにマレーシアの公立大学は、大学院の学位取得のために、かなりの数の教員を国内・外に派遣している。

(3)学問的優秀さの中心としてのマレーシア
 マレーシア政府は、マレーシアをこの地域における学問的優秀さの中心とする計画をしている。そこにおいては、全ての学術プログラムの質が常に強調されねばならない。高等教育の国際化を可能にするためには、大学は世界首位の大学の国際標準と基準にしたがって学術プログラムを提供しなければならない。この場合大学は、民族的価値観と妥協することなく、さまざまな基幹事業における国際標準にしたがって経営するようになるだろう。全国学校認可調査理事会(LAN)が設立されることにより、マレーシアの高等教育機関が提供するプログラムがある一定の基準をみたすことができるようになった。現在マレーシアでは、世界124カ国から12700名の留学生が高等教育機関で学んでいる。またUKMでは、現在35カ国から500名の留学生が学部および大学院レベルで学んでいる。残りのおよそ7500名の学生は、その他の国立・私立大学で学んでいる。

4.結論

 再度述べるが、グローバル化そのものは我々にとって有用なものである。グローバル化の作用は、今日我々の生活と社会制度を組織・構成する最大要因とみられているが、一方で市場優位が苦境の根源でもある。簡単に言えば、グローバル化の作用の議論においては、市場を善とし政府の介入を悪とするものである。1980年代に重要視されたこの主導的原理は、1971年に発表された政府の新経済政策において、国家はより大きな社会的役割を果たすべきとするマレーシアの場合とは明らかに一致しない。

 先述したオーストラリアと英国の研究成果に何らかの意味があるとすれば、それらの国では20年前に比べると、明らかに市場原理が大学に入り込みつつあり、学術性の根幹を揺るがすようになっているということである。それらの国々では研究の商業化によって産業とのつながりがより密になり、結果として、それに伴うより多くの応用研究計画が立てられ、いわゆる「好奇心にかられた」、例えば基礎研究と発明・発見というものを喪失してしまったのである。中でももっとも恐ろしい結果は、大学の民営化によって研究成果を包装して知識を商品化したことである。これらの遠い国での出来事をみて我々も、さまざまな戦略と計画をもつ必要性に迫られている。即ち、グローバル化との「交渉」である。
わが国の大学において懸念される内容は、次のようなものである。

□大学にも同じように容赦のない資金獲得競争をもたらす商業主義を持ち込もうとしていないか。

□理事会や教授会が無視され、同僚間の協力関係も同様に崩壊していないか。

□学問が偏狭的になりはしないか。

□応用研究計画が、「純粋」「基礎」研究などの「好奇心に駆られた」研究活動全てにとってかわりはしないか。

□大学で、「受益者負担」の概念がどれほど広がっているか。例えば、他の部署の行うサービス(管理業務など)について、以前は大学当局が支払っていたものを、個人や学部が自分たちで支払いを行うようにするというものである。

 上記のものは、大学が商業主義あるいは競争自由化へ移行しているか否かを判断するときに必要な指標でもある。

 しかし注意しなければならないことは、現代の大学のおこなう本質的な業績は、世界でも一握りの大学によって示される普遍的基準によって決定されているということである。このような高水準を要求する人材と財源が与えられた世界クラスの地位などは、マレーシアの大学を含め、世界のほとんどの大学にとってかなわぬ目標である。数多くの大学にとって経営と運営レベルの現実は、比べられないほど質素だからである。

 マレーシアは、グローバル化への対応として、固有の政策的選択肢をデザインし作成しなければならない。しかしあくまでも、わが国の歴史と教育の使命の概念に基づいた文脈にあうよう特殊化させてなされなければならない。グローバル化によっていかなる変化が起きようとも、それを我々の存在する特定の環境に合わせて変形させ、調整させねばならないのである。

(この論文は、2000年11月7〜11日、韓国・ヨジュ市で開催された第2回AUF年次総会国際会議において発表されたものである。)

注 1 A.ギデンズ、『手に負えない世界:グローバル化は我々の生活をどのように変えるか』 プロファイルブックス、ロンドン、1999年。

注 2 カリー& ニューソン(編)、『大学とグローバル化;重要な観点』 セイジ出版、ロンドン、1998年。

注 3 アヌウォー・アリ、「高等教育における変化の管理」マレーシア、クアラルンプール、 INTANにおける第5回全国公益事業会議(2000年6月22日-24日)に提出された論文。