『総合的な学習の時間』導入の意味とその問題点

教育問題研究家 四方 遼

 

1.はじめに

 平成10年7月の教育課程審議会最終答申に基づいて学習指導要領が改訂され、平成14年度より新たに『総合的な学習の時間』が新設され、その移行措置として本年度(平成12年度)より導入・実施されることになり、教育現場は大変混乱しているようである。

 その混乱は@『総合的な学習の時間』とは何か、Aなぜ、今、出てきたのか、B一体、何をすればよいのか、Cそれをどうこなしていけばよいのか、D先ず、何から始めたらよいのか、といったことだろうと思われる。巷では事例集や参考書が溢れ、文部省もいずれ近いうちに「事例集」を出すと言っている。しかし、私は個々の研究者が「事例集」を出すのは勝手だが、文部省が「事例集」などなまじっか出さないでほしい。それはまさに『総合的な学習の時間』の「ねらい」や「趣旨」に反するのではないかと思う。

 各学校では大変困っているようだが、一旦やると決まった以上、マニュアルなどに頼らず、まさしく「特色ある学校づくり」を目指して各学校で創造的に作り上げていっていただきたい。全国の小学校から高校まで約五万の学校があるが、その学校の数だけ違った『総合的な学習の時間』が、そして、その先生、生徒の数だけ違った『総合的な学習の時間』があっていい。試行錯誤を繰り返しながら、徐々に何かを掴み、積み重ねを行ってほしい。慌てることはない、先ず始めてみることだと思うのである。

 ただ、これに関連して、私自身大変重要だと思ったのは次の二つの観点、(一)今、なぜ、『総合的な学習の時間』が出てきたのか、(二)これからの学校は、そして日本の教育はどのように変わろうとしているのか、ということである。

 『総合的な学習の時間』というと、かつて1970年代に日教組が盛んに取り入れようとした『総合学習』という言葉を思い出す。そこで今、現場では日教組達が「自分達が先鞭を付け、文部省か後追いしてきた」とか、「『文部省版・総合学習』と白分達が長きに亘って実践を積み重ねてきた総合学習とは違うのだ」と盛んに言っているのだが、その違いが不明瞭な為、少なからず現場では混乱を来しているように思われる。

 1970年代、教育学者達を中心に教科書検定制度廃止や学習指導要領の法的拘束力をめぐる論争とともに、『教育課程の白主編成』が盛んに叫ばれた。つまり、文部省から一方的に押し付けられる教育課程ではなく、自分達の手で教育課程を自主的に編成しようという動きであった。こうした教育学者達の指導の下、日教組は『教育制度検討委員会』(1970年)を設け、最終報告書『日本の教育改革を求めて』(74年)で「総合学習」という言葉を初めて使い、76年には『教育課程改革試案』を発表した。そして未来の主権者たる子供・青年に不可欠な国民的課題への取り組みとして、「生命と健康」「人権」「生産と労働」など六つの分野が提起されたのである。この第一の分野で性の問題も挙げられている。しかし、こうした日教組の試みは結果的には一部の私学や民間の試みに委ねたに過ぎなかった。

 そして今、「『総合学習』がやってくる」(日教組機関誌・教育評論・1999年8月号特集タイトル)だの、「今こそ教師の出番だ」とか、「今回、個々の教師の教育課程編成能力が問われている、出来ないというのは教師失格だ」などと喧噪に『総合的な学習の時間』という言葉が躍り、教育現場が振り回されているように思う。

 しかし、私は先ず「今、なぜ、『総合的な学習の時間』なるものが設けられたのか」をしっかりと見極め、対処する必要があると考える。

2.文部省のねらい

(1)画期的な第15期中教審答申
 では、今回、文部省が改めて『総合的な学習の時間』導入を打ち出してきたのはなぜだろうか。

 そもそも『総合的な学習の時間』という言葉が出てきたのは、平成8年7月の第15期中央教育審議会第一次答申『21世紀を展望した我が国の教育の在り方について』においてで、答申のキーワードは「子どもに『生きる力』と『ゆとり』を」であった。

 私はこの『第15期中央教育審議会答申』は我が国の教育史上、大変重要且つ画期的な『答申』だったと分析している。それは明治以降120有余年続いた我が国教育の在り方、学校教育の在り方を根本から変えようとする“発想の転換”を図るものであるということである。

 答申は、これからの子ども達に必要となるのは「変化の激しいこれからの社会を生きる力だ」とし、これからの教育の在り方の基本方向は「ゆとりの中で『生きる力』を育てること」だという。その『生きる力』の重要な柱は、@いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力、A自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や、感動する心などの豊かな人間性、B逞しく生きるための健康や体力であり、この“生きる力”の重要な三本柱をバランスよく育んでいく、即ち「全人的な力」を育むことが重要だというのである。@の資質や能力は知、或いは学力、Aは徳、人間性、Bは体と言い換えて良いであろう。しかし、この三つの能力、即ち、知・徳・体をバランス良く調和的に発展させ、全人的な力を育む全人教育の重要性については昔から言われてきたことで、殊更珍しいことではない。

 答申のキーワードである「子どもに『生きる力』と『ゆとり』を」も決して目新しいものではない。『生きる力』は平成6年度の教育白書のサブタイトルにもなっており、現行指導要領の「新学力観」の延長線上のものとして文部省は強調しているし、『ゆとり』に至っては前々回(昭和52年度版)の学習指導要領のキャッチフレーズでもある。今回、敢えてキーワードとしたのは、ひとつには完全学校五日制導入の後付けとして必要であったとも受け取れるが、そう力説せざるを得ない現状にあるということだろう。

(2)「生きる力」が出されるまでの経緯
 政策としての『生きる力』のルーツを辿ると、昭和58年11月に中教審教育内容等小委員会(座長・河野重男お茶の水女子大名誉教授)から出された『審議経過報告』の中で「『自己教育力』の育成」を教育改革の基本方向の一つとして打ち出したことが始まりである。『自己教育力』という言葉は、今回の答申でも盛んに文部省は使っている。

 『自己教育力』が出てきた背景として、「昭和50年代までの我が国の高度成長を支えた教え込み、詰め込み的な画一的な教育により、国の、社会の、国民の水準は一定に達した。これからは“量”から“質”が求められる。能力主義と競争による人材育成が必要だ」という国の強い意思によるものであった。そして、斯くいうところの「『自己教育力』とは、@基礎・基本の徹底、A個性と創造性の育成、B文化と伝統の尊重を総合した“主体的に変化に対応する能力”の概念である」とされたのである。こうした考え方は少なくとも経済界の要請で起こってきたことでもあった。

 そして、翌59年、経済界を中心とした中曽根首相のブレーン主導で臨教審がスタートした。21世紀の我が国の教育の在り方を審議する臨教審では「学歴社会の是正」を目指し、教育界にも「競争の原理」を導入することや、自由化論争も盛んに行われた。答申は四回出されたが、とりわけ強調された理念は「個性化」(「多様化」)と「生涯学習社会への移行」ということであった。

 しかし、その後の連立政権という不安定な政治の流れの中で、臨教審の理念はこの15年間、充分に実現できたとは言えない。ただ、高校の多様化と、大学が受け皿となって公開講座を実施するなど、「生涯学習社会への移行」を目指す政策は着々と進んだと言って良いだろう。

 しかし一方で、いじめ、不登校、学級崩壊、ナイフを持った凶悪事件など、子どもをめぐる問題はより一層深刻、且つ悪化し、教育現場は憂慮すべき事態に陥っている。とりわけ学級崩壊や落ちこぼれ、不登校は学校教育の危機のみならず、学校教育の存在価値そのものが問われ出した。

 そこで今日の学校教育の中で「知の教育の部分」が大きな重圧を占め、子ども達の心の中に大きな負担になっている。この「知」「学校知」「学力」の捉え方を抜本的に換えるという“発想の転換”をしなければもはや解決しないとの結論に至ったのであろう。

3.「総合的な学習の時間」のねらい

(1)「知」の捉え方の抜本的転換
 今回の改革のねらいは「学校知」「学力」の解釈を抜本的に転換し、学校の在り方を根本から換えようというものである。

 先ず、「知」の捉え方がどのように変わったか、『答申』は次のように述べている。「これからの変化の激しい社会において、いかなる場合でも…必要となるのは人間としての実践的な力である。それは紙の上だけの知識ではなく、生きていくための“知恵”であり、知識を基礎にしつつ、社会生活や家庭生活において、実際に生かされるもの、生きて働く力となるもの」、「単に過去の知識を記憶していることではなく、初めて遭遇する場合でも、自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力」だと。そして更に、従来の教育は「画一的な教育」「知識偏重」で、一方的に教え過ぎた。これからは自ら学び、自ら考える、“生きる力”を身に付けることへの転換を図り、学校では知識を身に付ける以上に、「学ぶことの動機づけ」「学び方」を育てるのだと。

 また、学校では知識の量ではない、子どもの「自己教育力の育成」「知識を自ら獲得できる能力」、それが子どもの「本当の学力」だという“新しい学力観”こそ大切だというのである。

 こうした答申に対して、それでは、私たちが今まで受けた教育ではバランスの取れた“生きる力”を備えていないというのか。また、私たちは自ら考え、自ら学ぶ力、判断する力、行動する力を持っていないというのか。そして、“生きる力”とはその程度のものなのかと異議も挟みたくなる。また、子どもにとって、現在及び将来、真に必要な知識とは何なのか。学校における「知」とは何なのか、その必要な量とはどれくらいなのかが重要な問題になると思う。

(2)学校像の見直し
 ところで、「学校知の転換を図る」と、学校は一体どのように変わるのか。答申は“これからの学校像”をどのように描いているのだろうか。

 (1)これまでのような多くの知識を一方的に教え込むことから、子ども達が自ら学び、自ら考える教育ヘ、“教育の基調の転換”を図る。(2)生涯学習社会を見据え、学校で全ての教育を完結するという考え方を止め、変化の激しいこれからの社会において生涯を通じて、いつでも自由に学習機会を選択し、楽しく学び続けることができるように、学校では「生涯学習の基礎となる力」を育成する。(3)ゆとりのある教育環境としての学校をつくり、子どもが教師や仲間と楽しく学び合う。(4)ゆとりの中で生きる力を育成するには教育内容を厳選し、基礎・基本に絞り、分かりやすく、繰り返し学習し、確実に習得させる。(5)従来のような暗記・記憶といった覚えさせることから、作業的・体験的活動、興味・関心に応じた学習ヘ。(6)子ども達を知識の量で測るといった一つの物差しでなく、多元的で多様な物差しで評価し、学習の結果だけでなく、その過程を評価する。(7)学習指導は知識を教え込むのではなく、子ども達が自ら考え、自ら学ぶ意欲・思考力・判断力・表現力を身に付けることができるように。(8)教師は単に知識の伝達ではなく、“実践的な指導力”(@豊かな人間性、A専門的な知識・技能、B幅広い教養)を持って、子どもと共に学び、考え、子どもの問題解決を助けていく姿勢が必要。(9)学校は「学習する場」であると同時に「生活する場」であるから、高い機能を備えた教育環境であること。(10)地域、学校、子ども達の実態に応じて創意工夫を生かした“特色ある学校”を創る。(11)家庭、地域・社会と連携を図り、共に子ども達を育成する“開かれた学校”となること。こうした教育の基調の転換を図ることにより、学校は子ども達の“自分探しの旅”を扶ける“真の学び舎”になると答申はいう。

 つまり、従来の学校の捉え方に対して、学校観、教育観、学習観、教授観、教育内容観、教育方法観、教育評価観、教師観…等、すべてに対する意識改革を図ることを迫っていることは明らかであろう。そして、このように学校が様変わりすることによって全人的な力である“生きる力”を育むには、従来の教科だけではなく、「横断的・総合的な指導」を推進する発想・新しい手だてとして、各教科の教育内容を厳選し、一部削除することによりそこから時間を生み出し、一定のまとまった時間、即ち『総合的な学習の時間』を設け、横断的・総合的な指導を行い、「知の総合化」を図るとなったのである。

(3)教師像にも変化
 この中教審答申が出されるや、直ちに教育課程審議会、教育職員養成審議会、大学審議会、生涯学習審議会等が一斉に連動して、これに呼応した答申をこの四年間に次々と打ち出している。幼児教育の見直し、学習指導要領の改訂、高校と大学の接続の問題、地方教育行政の問題、21世紀を展望した望ましい教師像、学校評議員制度の導入…等、全て連動した動きである。

 大学の教職課程で本年度(平成12年度)より必修科目として新規に『総合演習』が導入されたのも、平成9年7月の教養審答申を受け免許法が改正され、“新しい教師像”としてコミュニケーションやディスカッション能力、グローバルな視点で物を見、考える能力、課題解決能力が必要とされたからである。

 「学校教育の枠組みを変革」し、学校、教師に裁量権を大きく与え、大綱化・弾力化というより、むしろ「自由化」といっても良いほどの改革を迫った今回の『総合的な学習の時間』の導入は、確かに明治以来の学校制度の歴史の中で初めての転換を図る画期的なものと言えるであろう。

 教科の枠を超えて、横断的・総合的に学ぶのだから異なる教科の教師によるものを含めたティーム・ティーチング(T・T)が決め手となる。教師個々人の持ち味や得意技を生かした共同作業が不可欠にもなるだろう。T・Tを組むにしても校長が個々の教師の資質・能力・性格を充分把握することが不可欠である。一つのテーマでもT・Tの組み合わせ方によって展開は違ってくる。特に教師の思想的・イデオロギー的な面が絡むと授業の中身は大きく影響される。個々の教師の価値観・人生観・社会観・国家観・世界観…等も入ってくる。結局は校長の教育観と強いリーダーシッブが問われるのである。

 また、生徒一人ひとりが課題設定というが、やはり学校として方向付け、動機付けをどのようにするかが重要になる。また、地域に根差す学校づくりというが、地域及び地域の人々を充分に把握するべきは言うまでもないことだが、国立や所沢問題に見るまでもなく学校評議員制度導入の危険性は大いにある。教師と生徒と共にどんな特色ある学校をつくりたいかということが問題になるが、その前提となる学校の教育目標をどこに置くかが重要なポイントになるであろう。まさに各学校の、各教師の自覚を促したものと言える。文部省は「学校、先生の力くらべ。学校間の格差は当然出てくる」と言うが、実はそこが狙いと言える。今日の学校教育の閉塞感を打開するには、「競争させる」ということ。教育、学校、教師、そして生徒にも「競争の原理」を導入することこそが「教育の活性化」「学校の活性化」に繋がると。また、『総合的な学習の時間』が教師の腕の見せどころとなるか否か、まさしく教師の力量に係っているとも言える。

(4)文部省のホンネ
 しかし、変化の激しいこれからの社会を生きるために生涯学習の考え方を更に進めていくには、何故、学校教育で知識を教え込むことを否定することになるのか、否、最小限の基礎・基本で良いということになるのだろうか。多くの知識を教え込む、多くの知識を身に付けるからこそ、自ら考え、判断できるのではないのだろうか。表裏一体の筈である。また、教え込む教育では主体的に学び、考える態度は養成されないというのか。そして、「生きる力」とは「生活する力」だと寺脇研文部省政策課長は言うのだが、今次改訂の根
本理念たる「生きる力」がその程度の次元のものなのかと呆れるほかない。

 ところで、こうした「学校観の転換」「教育の転換」を迫る今回の改革の真意は一体、何なのか、ホンネはもっと違うところにあるのではないだろうか。

 敢えて明言すれば、私は文部省は思い切って“頭の切り替え”を図り、一つのボタンのスイッチを押したのだと考える。つまり、「学校は知識を教える所ではない、学び方を教える所なのだ」という「学校知」の転換を図ったのだと思うのである。

 今までのようにすべての児童・生徒に同一レベルに画一的に同じ知識を身に付けさすという考え方や政策は捨てよう。さもないと、様々な憂慮すべき教育問題が解決しないばかりか、21世紀に世界に羽ばたく新しい人材を見出し、育てることができないと考えたのだと思う。つまり、学校教育でじっくり知識を教えようとしても今の子ども達の現状では無理である。まして、親の価値観がこれだけ多様化した今日ではもはや扱い切れない、もう面倒見切れない。個々人の責任に委ねるより仕方がない。教育は、そして学習は自己責任だ、各個人、各家庭の自己責任だと割り切ったのだと思う。

 しかも、科学技術の著しい進歩発展の中で学校で学んだ知識で一生通じる時代ではもはやなくなった。激しい変化の中で教科中心の知識が干からびてしまうのも事実。だから、教科の枠を見直し、学校では最低限の基礎・基本を教えよう。そして、すべての子どもに「学習に参加した」という“充実感”“達成感”、「自分で行動した」という“満足感”、共に参加したという“共働・協同意識”を与えないといけない。つまり、「学校は生徒が主人公である」と。

 そして、学ぶ楽しさを知ってもらおう。その為には点数で評価をせず、教師と生徒が楽しく学び合うということが大切。つまり、「学校は楽しい所」になるべきだと。

 そして、本当の学びは将来、学びたくなった時に自分でするもの。自分で知識を身に付けたくなった時に、個々人が自分の判断で学べばよい。その為のシステムづくりは行政レベルでやろう。つまり、今は「生涯学習社会への移行」こそが大切なのだ。学校はその為の学び方、考え方を身に付ける所と考えればよい。その為には情報の集め方、調べ方、処理の仕方、モノ作り等を含め体験的な学習、問題解決的な学習を多く取り入れることだ。こうした学校・教育に対する発想の転換は少子化時代、高齢化社会、情報化社会を迎えた今こそ最も相応しいのだ、今こそ“転換”を図るチャンスだ…というふうに頭の切り替えを行ったのだと思う。このような考えると、「『総合的な学習の時間』とは一体何か」、「何故、今、導入されたのか」がとても分かり易いのではないだろうか。

 しかしながら、こうした考えは従来の学校観からすれば、一種の“切り捨て”であると同時に、“責任放棄”であり、“文部省のギブアップ宣言”と言った方がよいかもしれない。例えば、学校に来たくなければ来なくても良いと不登校をも認めたことでも明らかなように、学校ですべての責任を背負うのはもう止そう。週休二日制になるのだから、地域・社会、家庭、学校が連携し役割分担して、それぞれが責任を持って子どもの教育をしようというのである。

 平成10年6月に出された第16期の中教審答申『幼児期からの心の教育の在り方について』の中で、「幼児のしつけは家庭で」と提言したのもこうした考えに立っている。また、本年(2000年)4月から法制化された『学校評議員制度』の導入は地域の人々も学校経営に参画するというものである。更には、昨年度より品川区で始まった「学校の自由選択制」導入は「教育は自己責任」の表れであり、同時に各学校間を競わせる「競争の原理」導入を意味している。今後、日野市や豊島区、杉並区はじめ各自治体が競って導入するだろう。それが地方分権の時代に相応しい教育の在り方だというふうに着々と進んで行くであろう。

 一方、こうした教育の転換は従来の画一的な教育により画一的な人間を育てることから、新しい才能、ユニークな個性、多様な人材、この閉塞した産業社会に新風を吹き込むような“新たなる人材”“創造性豊かな才能”の発見に繋がるとも言うべきだろう。学びたい時に、学びたい方法で学ぶ、才能のある人はどんどん先に進み、その能力を生かして下さい、その為には“飛び級”制度や5歳児の小学校入学、中学卒業後の大学進学も認めることも検討しよう。様々なシステムづくり、法改正による条件整備、環境整備は文部省でしよう。多様な入試、多様な教育制度、多様な学校制度も受け皿として認めよう。また、各学校も生き残りをかけて自由に学校改革を行い、競って対策を講じて下さい。すべて個々の学校の責任ですよというのである。まさに個性化であり、自由化であり、自己責任、能力主義の導入である。突き詰めれば、「個性尊重の教育」の実現と言うことになろうか。

(5)教育界の今後の展望
 しかし、こうした教育の考え方の転換、とりわけ生涯学習社会への移行のしわ寄せは最終的には大学教育に来ている。「学校知」の転換は「大学知」の転換をも意味する。詳細は別の機会に譲るとして、入試の多様化や「高大生」(キャンパスインターンシップ)と呼ばれ、既に埼玉大や都立大で試みられている高校生が大学の講義を受講する制度導入、専門的な技術・知識を習得させる為の一年制の大学院修士課程創設…など、今後大学には様々な年齢の、様々な職種の、様々な学習歴の人達が今以上に入ってくるだろう。実務面では大学教員を遥かに凌駕する人達もいる。今まで、いわゆる、高校卒業したばかりの若い学生達を相手にしてきた大学教員にとって、かなり意識改革が迫られると同時に、その真価が問われるであろう。しかも、個々の教員、個々の大学の評価が歴然と公になるといっても過言ではない。今や大学は“閉鎖的な象牙の塔”ではなく、「知はみんなで共有する時代」に入ったと言うべきだろう。しかし、そのことは各大学の「知的レベルが評価される」対象となったということである。

 今後、学校制度も中高一貫のみならず、小中一貫、高大一貫制への改革も試みられるに違いない。

 さて、『総合的な学習の時間』導入をめぐり、その背景を考えながら、ダイナミックに進められようとしている『教育改革の構図』を浮き彫りにしてみた。

 『総合的な学習の時間』の導入をきっかけに、相次いで出される施策の数々は決して個々のものではなく、まさに今、ダイナミックに行われようとしている教育改革の大潮流の中で行われている。その「文教政策の大転換を図る文部省の基本姿勢」なるものを御理解頂けたのではないかと思う。

 しかし、よく考えると、今回(即ち、平成8年以降)の改革はそのルーツはかつての『臨教審』答申の理念そのものなのである。つまり、「個性化」・「多様化」・「白由化」・「競争の原理」導入・「民間活力」の導入などの「教育の規制緩和」と「生涯学習社会への移行」が此処へ来て急ピッチで実現に向けて動き出した。否、『臨教審答申の理念』実現に向けて最後の仕上げの大詰めの段階に入ったと言うべきだろう。

 私は冒頭でこの『第1期中教審答申』は我が国の教育史上、大変重要且つ画期的な『答申』だと指摘した。『第3の教育改革』を謳った臨教審答申(昭和60〜62年)が、その後の政治混乱と文部省の消極姿勢により十分に実現出来なかった。そして、漸く平成7年に4年振りに再開された第15期中教審にこの『臨教審答申』の理念は受け継がれ、今、21世紀に向けた大改革の波となって現われているということだろうと私は分析している。

 このところ、学習指導要領改訂に伴う教育内容三分の一削減について学力低下を指摘する批判が多く出ている。しかし、“知の転換”を図るという文教政策の観点からすれば、当然の帰結なのである。いずれ個人が責任を持って、学びたい時に学べばいい。長い人生であるから、学校ですべてを準備する必要はない。しかも今はまさにIT革命の時代、情報化時代だから、やる気さえあれば「知」の獲得は各自の方法で充足できるということである。

 さて、こうした「知の転換」政策、教育内容削減による「ゆとりの教育」が我が国の将来にとって良しと出るか、失敗と出るか。また、果たして学校が“ゆとりのある真の学び舎”になりうるかどうか、いずれ結果は出るであろう。

 ただ言えることは、今後の学校はせわしない、セカセカした学校になるであろう。そして、『総合的な学習の時間』導入によって、学校間の格差は勿論のこと、「個に応じた指導」により学校内における児童・生徒間の差も拡大するに違いない。

 更には、基礎学力低下を危惧することから、公立離れが一層進み、もっと塾が繁盛することにもなるだろう。そして、なによりも当面の様々な学校をめぐる、児童・生徒をめぐる憂慮すべき問題が解決できるかどうか、疑問に思うのである。

 こうした疑念や不安の中で、今後、将来的には、学習指導要領改訂が今までのような約10年間隔ではなく、より短い間隔で行われるようになるだろう。そして、「教科」と「総合的な学習」とが共存しつつも、どんどん問題解決学習(活動)へと移り、両者はせめぎ合いを続けながら、「教科」はどんどん「総合的なもの」になり、「総合的な学習」は拡大し、次第に両者の関わり方が曖昧になりつつ、『教科の再編』(『知の再編』)ヘと展開していくだろう。

 いずれにせよ、現場教師にとっては大変“厳しい時代”に入ったと言えるのではないだろうか。

4.「総合的な学習の時間」における性教育の問題

(1)性教協の取り組み
 ところで文部省は今回の学習指導要領改訂の目玉と言われる『総合的な学習の時間』において、小・中・高校とも例示として「現代的課題」、即ち〈国際理解、情報、環境、福祉・健康〉の四つの課題を示し、高校では更に、生徒が興味・関心、進路などに応じて設定した課題について、知識・技能の深化・総合化を図る学習活動や、自己の在り方や生き方と進路について考察する学習を行うとした。

 これに対し、日本教職員組合(日教組)の安西和彦教育研究部長は「…まずは例示にとらわれないで、例えば人権の部分だとか、子ども達の自立やアイデンティティーにかかわるような学習、実態に応じた学習内容で考えた場合に、文部省や教育委員会が規制しないでほしい」と言い、全日本教職員組合(全教)副委員長の松村忠臣氏は「なぜ四課題なのか。平和や人権の問題、障害者の問題、或いは男女平等、ジェンダーの問題であるとか、そういう人類が直面している問題」を捉えず、文部省好みのものだけだと批判している。

 ところで、『科学・人権・共生・自立(・平等・平和)の性教育』を謳って過激な性教育を推進してきた“人間と性”教育研究協議会(略称・性教協)は、現行指導要領に導入されたばかりの小学五年の理科「人の誕生」が今回の改訂で削除されたことに「性の学習は再びきわめて不明瞭な位置に置かれそう」と危機感を募らせ、昨夏(平成11年)、長野で開かれた第18回全国夏期セミナーで執行部より緊急99年度運動方針として、『総合学習についての望ましい性教育の在り方を追求』が問題提起された。そしてこの一年間、会員達に「性教育は『総合的学習』になりうることを確認すべし」と幾度も呼びかけ、「いかに『総合的な学習の時間』に性教育を位置づけるか」「全国的に見ても『総合』の中にきちんと位置づけた性教育の実践の展開が急務だ」として必死の模索を続けている。

 今年(2000年)の7月29〜31日、長崎市で開催された第19回夏期セミナーでも、「『総合学習の時間』を可能な限り職場での合意を広げ、“健康”のテーマとの関わりも意識的に作り出しながら、性教育の実践を進めよう!!」と呼びかけている。そして2000年度方針として「地域・家庭・学校との連帯を」「すべての人と連帯するためのアクティビストになろう」とともに、「生きることや性の主体者としての子ども達が、総合学習としての性教育から巣立つことを目指す」を掲げている。

 しかしながら平成4年の性教育開始前後の「性教育ブーム」に乗って、急速にマスコミにもてはやされた性教協は、平成7年をピークとして年々会員数が減少傾向にある。更には本年(2000年)6月、会の創始者であり、“性教育の神様”とも言われ、常にユニーク且つクリエイティブな理論付けと新たなる課題を提起し、会員達を魅了し、扇動且つ先導してきた山本直英氏が病死したことは、今後の運動に大きな痛手となることは否めない。来年(2001年)の夏は設立20周年大会(横浜)、そしてアジア十都市を結ぶ「第一回アジア性教育学術交流会」(北京)を企画していただけに、性教協自体の今後の運動展開に大きな影響を及ぼすことであろう。

(2)「総合的な学習の時間」に相応しい性教育
 とは言え、文部省は昨年(平成11年)、13年ぶりに出した新たなる性教育の指導用手引書『学校における性教育の考え方、進め方』の中で、「『総合的な学習の時間』を性教育に活用せよ」と言っており、今後、この時間を利用した性教育実施が確実に広がっていくと言えるだろう。

 なぜなら、『総合的な学習の時間』は教科の枠を超えて横断的・総合的に学習する時間であり、現代的課題を取り扱うもの。性教育は性教協が主張するまでもなく、極めて『総合的な学習の時間』に相応しいものであると言えるからである。

 現代社会において、誰もが考えなければいけない問題、人生において誰もが直面する問題、例えば、性の問題、セクシュアリティやジェンダーの問題、生と死の問題、環境の問題、戦争と平和の問題、差別や人権の問題、そして今はやりの共生に関する問題など、教科の枠を超えて取り扱うには“格好”の課題である。しかもこれらは突き詰めれば、人間の生き方に関わる〈性=生〉ですべて“集約”できるテーマでもある。更にはマスコミは言うまでもなく、行政レベルでも今や確実に性教協流の価値観が浸透し、「多様な生き方」「多様なライフスタイル」「多様な家族像」「多様なる性」などは“新しいこれからの生き方”としてすっかり定着しつつある。厄介なことには、こうした“傾向”“価値観”が「共生」「自立」「平等」等といった耳障りの良い言葉とセットになって罷り通っているということである。

 巻末に掲げた【参考資料】はこれまで性教協の著書や指導案に出てきた内容の一部を総花的に列挙したものだが、彼らが主張する〈性=生〉の教育は、やり方如何によっては家庭科、保健体育、国語、理科、社会、生活科、特活、道徳の全てで取り上げ、これらの教科の枠を取り払って「生き方の教育」「人間の教育」と位置づけ、総合的な学習として行うにはとてもやり易い課題であることはお分かり頂けると思う。

 その点から言えば、今更なにゆえ、性教協が「性教育は『総合的学習』となり得る事を確認し合い、性教育をいかにして『総合』の中に位置づけたらよいか」などとバタバタと慌てふためいているのか、そのこと自体、実におかしいとさえ私には思えるのである。

 失礼を承知で敢えて言わせて頂くならば、寧ろ、彼らの今までの実践が、学習指導要領に違反して「外性器」・「性交」・同性愛などの「マイノリティの性」を指導者達の指示通り普及させることに会員達は汲々とする余り、本来の彼らの狙いや目的を見失っていたのではないかと嫌味(皮肉)の一つも言いたくなる。否、きっと真面目な会員達は創設者はじめ指導者たちの本来の狙いや目的、意図を理解しておらず、“性教育”という人間が興味津々たるジャンルで、それ故に長い間タブーだった新しい実践に挑戦出来るということだけに喜々とし、酔いしれ、踊っていたのかもしれない。だから『総合的な学習の時間』という実に願ってもない時間が出来たにもかかわらず、逆に彼ら会員達の真価・真の実力が問われると幹部達は慌てているのかもしれない。

(3)性教協流の性教育の危険性
 それはさておき、寧ろ本当に危機感を持って注視すべきはこれからだと言える。真に恐るべきは、一般の教師達が極めて現代的な課題である〈性=生〉に関する課題を取り扱い、自己の明確なスタンスも持たずに、巷間溢れている性教協のメンバー達が著した数多くの著書を無批判に受け容れ、そうした考え方を教育現場に撒き散らすことである。
では、性教協流の性教育が『総合的な学習の時間』で盛んに取り扱われたら、どんな危険性が出てくるのだろうか。列挙してみよう。

@階級闘争史観に基づく左翼思想が流布され、社会批判、国家体制批判などが大いになされるであろう。私はその危機感から、敢えて平成9年、拙著『性教育推進の実態とその隠された“狙い”』を公刊し世に警鐘を鳴らしたのだが、その中で性教協の動きを具に分析し、彼らの目指す政治教育・思想教育が性教育に姿を変えて出てきたものであることを明らかにしているので、是非、詳細は拙著をお読みいただきたい。

A性教協が示すワンパターン化したジェンダーフリー論が浸透する。

B彼ら流の女性学、即ち、我が国の女性がいかに長い間虐げられてきたかを殊更強調し、女性に被害者意識を植え付け、闘うことを鼓舞するような教育が行われる。

CエイズやSTD教育にも絡め、<外性器><性交>の教育が「科学教育」と称して更に行われる。

D“マイノリティの性”(高齢者、同性愛、障害者、HIV感染者、性同一性障害者の性など)が「人権」「差別」「共生」の教育として強調される。

E「個と自立」の性教育が強調され、“自分らしく輝いて生きよう”と一人ひとりをバラバラにしようとする教育がなされる。

F殊更、“多様なる家族の在り方”を強調し、円満な従来の伝統的な家庭観を否定し、家族崩壊思想を植え付ける。

G「性の自己決定権」を強調し、性解放思想を植え付ける。

H倫理道徳的な男女関係を否定し、社会秩序を崩壊させるような教育がなされる。

I「性役割意識」を完全に否定し、“新しい生き方”“新しい男女の関係”が強調される。

J教育現場で避妊方法や妊娠中絶の方法などが示され、実際にコンドーム装着の仕方を生徒達に実践させる授業が、これまで以上に行われる。

K性教協が示すワンパターン化したジェンダー論など偏った指導例や、性教協のメンバー達が作成した副読本、ビデオ、スライド、指導書などが全国的に拡大浸透する危険性がある。

(4)性教協の誤算
 ところで、山本直英氏は「いまや性と愛と結婚の三位一体の幸福イデオロギーは若者達によって解体されている」と述べている。また、「性は愛、結婚という伴走者なくして既に走り出している。…個人の生きる力に結びつく新たなる『性愛』の創造と性的自己決定権を育む『性の学習権』を確立するのが時代の要請だ。これからの性愛は生殖や制度や規制(他律)や差別からも解放されて、全く個人の私事のテーマになる」、その為に『総合学習』として性を学ぶ必要があると強調している。

 平成4年、全国の小学校で性教育を開始して丸8年、「赤ちゃん誕生」「人の誕生」の授業が一斉に展開された。性教協ら推進派は数々の小道具を用いた「生殖の性」を教育現場で披露し、「今や性教育は市民権を獲得した」と豪語したものである。

 そして山本氏は「21世紀はエイズの蔓延と結婚制度の崩壊だ」と大見得を切って予言したのである。しかし、その予想に反して、ここへ来て不思議な現象が出てきている。「今の若者達の九割以上は“結婚願望”を持っている」という各種調査結果が出ているのである。

 平成4年度に小学五年生だった子ども達は今や18歳。その間、どのような性教育が全国で展開されたかは分からない。だが、この8年の間に“援助交際”という嘆かわしい現象も生じ、果たして過激な性教育との因果関係がありやなしや充分検討してみる必要があると私は考えているが、少なくとも、“真実を教えよう” “子ども達が一番知りたがっている”と〈外性器〉・〈性交〉の指導が教育現場のあちこちで登場し、混乱を招き入れたことは確かな事実である。しかし、小学生段階で「赤ちゃん誕生」を教えるとなれば、結局、「お父さん、お母さん、産んでくれてありがとう!!」と子ども達一人ひとりの“生命の尊さ”が強調されたこともこれまた事実なのである。「お父さんがいて、お母さんがいて、子どもがいる」といった家庭像を夢描き、「『結婚』に憧れる若い少年少女たちの増加」という社会現象となって現れたとしても不思議なことではない。これは過激な性教育推進者達にとっては皮肉な結末、否、大きな誤算と言った方がよいだろう。

 それ故にこそ、山本氏達はいち早く、“生殖の性”から“コミュニケーションの性”へ転換し、そして平成8年以降は「個と自立」を基盤とした“触れ合いの性”“マイノリティの性”を殊に強調し、今や「『性器の人権』(セクシュアルライツ)が人類最後の人権」という極めてエキセントリックな主張をし、一人ひとりを個としてバラバラにしようと目論んできたのである。

 一方、団塊の世代を両親に持つ今の若者達は、批判的且つ反面教師的に両親の姿を冷静に分析している。言うなれば、戦後50年間に築かれた「民主的な家庭像」は今日の大人達が望み、描いた家庭像であった。それは己自身の自己実現・自立を第一優先として目指した親達によって描き、求められたものである。そして今、その家族像は「子どもらの反乱」によって大きく揺らぎ出した。自分のために働き、外に出ることを望んだ両親達によって育てられた、いわばニューファミリーの犠牲者たる今の子ども達は逆に「秩序ある温かい家庭像」を望んでいる。このことは私が担当する大学一年生達に書いてもらった「相次ぐ17歳の凶悪事件」についての感想を読んでもよく分かる。「親の愛に優るものはない。家庭がしっかりしていたら、親が我が子の真の声・叫びを聴けたなら、こんな事にはならなかった。親の愛情不足、姿勢です」と大半の若き彼らが切々と綴るのを読み、子ども達が親に何を期待し、求めているかがよく理解できるのである。それはいつの世でも子供が親に望む本来の姿、自然の“心の叫び”なのである。

5.まとめと展望

それなら、“生きる力”をゆとりの中で育む『総合的な学習の時間』を大いに利用しようではありませんか。性教育、ジェンダー論、女性学もよし。その中で、例えば、○女性は本当に虐げられてきたのか、被害者意識を殊更強調し続けるのがよいことだろうか、○女性と平和、戦争と平和の問題、○夫と妻が“パートナー”と呼び合う関係がよいのか、○望ましい家庭像は? ○将来どんな家庭を築きたいか、どんな夫婦となりたいか、どんな親子関係を築きたいか…等、今蔓延しているある種の“傾向”、それがあたかも当然のように一つの方向のみが示されていることに対し、「本当にそうなの?」という“問い掛け”を子ども達に投げ掛け、共に考えてみる機会にしたらよいと思うのである。

 「21世紀には教育だけでなく、社会全体を考えてもセクシュアリティは中心テーマになる。男らしさ・女らしさ、男女差別、家族形態、子育ての形態など全てが新しい形に移る。近代家族たる一夫一婦制も大変動が起こる。アメリカでは三分の一が非婚、三分の一が一度しか(傍点筆者)結婚しない、三分の一は何度もする。日本も将来必ずこうなる。否、もう既になりつつある。そうなると、男であるとか、女であること、母親、父親になるということはどういうことなのか、男と女が性交を媒介としてどういう関係を持ったらよいかなど簡単に答は出せない。21世紀はエイズ感染の拡がりと結婚の変容・解体化が必ず待ち構えている。結婚制度が変容・解体していく」と宣う。

 しかし、こんな予言・予測を断言するのは勝手だが、そうした“傾向”を受容して良いのか。“傾向分析”はこのあたりでやめにすることも大人の責任・大人の知恵ではないか。そうした“傾向”に対して望ましいと思っているのか否か。そうした“傾向”を人間として、日本人として、食い止めようと思うのか否か。そうした“傾向”に何故なったのか、21世紀を生きる子ども達にそうした生き方、価値観、人生観を持たせることが真に幸せなことなのか…といった視点が行政をも含む我々大人側に全くと言っていいくらいないのは一体どうしたことか。一体我が国はどこを向いて進もうとしているのだろうか。今、生き方に関する全ての方向が、そして規範が“ある種の一定方向”しか示されていないことこそが、今の子ども達にとって大きな悲劇だと思うのである。

 この機会に『総合的な学習の時間』で是非、積極的に取り上げ、今、世の中全体に蔓延する一定方向の価値観、家庭観、結婚観、男女観などに疑問を投げ掛け、問い掛ける授業を積極的に展開して下さることを、私は切に希望している。

 先日、私が某県の校長会で講演した折、その後で一人の校長先生が「『総合的な学習の時間』とは、まさに“両刃の剣”になるということですね。しっかりしなければ…」と語って下さったことがとても印象に残ったのである。       (2000年8月1日発表)

[参考資料:性教協の著書や指導案に出てきた内容の一部]
○女性の歴史(我が国における女性観の変遷、西洋における女性観の変遷、現代における女性観)・女性の性器官とその機能(性行動と性交、妊娠と出産)・母性保護(中絶・避妊・ピル)・女性の自立・多様なカップル・家族(結婚、離婚、再婚、単身家族、同棲、シングルマザー、ステップファミリー)・自由で豊かな人生を
○作られた女の子・男の子、性役割の形成、らしさの問題、職場における性役割(女性就労のM字型、パートタイマー、賃金格差、専門職、管理職)
○世界人権宣言、女性差別撤廃条約、労働基準法、男女雇用機会均等法、憲法、子どもの権利条約、児童買春・児童ポルノ処罰法、優生保護法(母体保護法)、民法、子ども虐待防止法、男女共同参画社会基本法
○多様な性、マイノリティの性(同性愛、障害者、高齢者、HIV感染者、ハンセン病であった人、性同一性障害者、インターセックスなど)、性産業と性情報(商品化された性)、人権を無視した性(レイプ、性的虐待、セクシャル・ハラスメント、女子割礼、タイの買売春と日本男性)
○性と戦争(従軍慰安婦)
○選択的夫婦別姓制導入運動(民法改正)
○天皇の戦争責任・戦後責任を問う
○日本国憲法・教育基本法改正反対
○教科書問題、自由主義史観批判
○日米安保条約と沖縄基地問題
○校則、日の丸・君が代反対運動
○少年法改正廃案への運動
○同性愛訴訟支援
○在日元・慰安婦謝罪請求裁判支援
○薬害エイズ訴訟支援
○日本の企業と家族・家庭
○戦後社会問題化した主な消費者問題
○日本史の中での闘い(自由民権運動、婦人参政権獲得運動、労働運動)
○日本に見られる差別
○働く親の出産及び育児休暇保障状況の国際比較
○主要国の年間実労働時間比較
○増大する税金・社会保障問題
○生活時間の国際比較