大学改革の課題と大衆化路線離脱の必要性

法政大学教授 川成 洋

 

1.はじめに
 今年(2000年)の秋、法政大学創立120周年記念パーティにおいて、来賓の関西、関東の学長たちのスピーチのほとんどすべてがきまって「大学改革」を訴えていた。どうも「大学改革」という言葉が免罪符のように一人歩きしているように私には思える。私が考える大学改革とその学長がイメージするものとは明らかに違う。「大学改革」の内容には一切触れることなく、「大学改革こそ、21世紀の大学が生きる道だ」というようなことを異口同音に言う。「通り一遍なことはいい。何をどう改革するのか、明確にして頂きたい」と思ったのである。所詮、大学サヴァイヴァルのためのリストラを含む「大学改革」にすぎないのではないか。

 戦後の私立大学の大きな大学改革の一つは、国立大学もそうかもしれないが、いわゆる教養部の解体だった。教養部の解体が大学改革の一番の緊急課題であるかのように言われ、教養部の教員を何とかどこかの学部に吸収した。

 教養部の解体というのは、文部省の行った大学行政の中では(解体そのものに限定して言えば)最も成功した例だと思う。これは言い換えれば、scrap and buildではなくて、scrapに関しては成功したということである。おそらく私立大学に対して文部省は、私学助成金の配分を引き合いに出して強権的に潰したのだと推測される。旧帝大の場合は、東大を除いては言語文化学部大学院を創設することで、教養部の教官たちはそこに横滑りさせたので「教養部コンプレックス」がなくなるため、彼らからは不満が出ないようにした。しかも旧帝大の場合は、旧制予科の教官たちが「ポツダム教授」などと陰口をたたかれたすべてが払拭できるのだからメリットもあったろう。

 私大でも、結局、教養部をつぶして、国際学部、文化学部、情報学部、福祉学部など、なんとも大学らしからぬ専門学校の学科のような、付け焼き刃的な名称の学部を新設し、大学改革が終わったことになっている。私大で、最も多い国際学部は新設から4年を経て、4年間のバーをクリアした段階で、カリキュラムの改定を行っている。

 森首相が教育における「国際化」を訴えたところで、日本人にそういう「国際化」が本当に必要なのかと疑問を感ずる。大学の「国際学部」こそ英語に訳しにくいし(もっとも、英訳する必要はないのだが)、国際的認知度がもっとも低い学部ではないかと思う。英語に訳せないような、若者に迎合したような学部を作って大学改革と称しているのが現状である。これらの愚行は教養部を潰すために許可した文部省の責任である。

 ところで、文部省の○○審議委員という人たちの名簿などを見ると、おそらくご自分の孫たちが就学年数を終えているような人たちが多い。とうの昔に引退した老人の知恵の有効性を無視するわけではないが、現役教師や父兄たちも交えたほうが良い。審議委員の提言は文部省に受け入れられることも多いのだから委員の選考は重要である。ところが、現実には時代錯誤なことが行われているように見える。あの程度のことで文部省が仕事をしているとしたら、実務能力、現実的対応能力が欠如していると疑われても仕方がない。いずれにしても教養部の解体、新設学部の創設、あるいは旧帝大では大学院大学の設置が行われた結果、多くの問題が噴出しているのである。

2.日本の大学の実情

(1)大学院制度の問題点
 非常に良くない実例から話すと数カ月ほどまえ、イギリス文学の講演のために北海道へ行ったとき、そこにいる大学時代の友人から聞いたのだが、以前の大学院はマスター・コース5人、ドクター・コースは0人という年度もあった。つまりその年度の学生にドクター・コースに入るだけの資格がなければ進学させなくてもよかった。ところが現在はマスター・コース10人、ドクター・コース5人と定員を決めたら、その定員を埋めないと予算が削減されてしまうので、基準が充たなくても進学させて大量に大学院修了者を輩出させている。

 しかし、彼らの就職先が全くないのが、現状である。ある文学系の専攻のドクター・コースを修了した院生が、院生時代に3年間ラーメン屋でアルバイトをしていたところ、たまたまそのラーメン屋で正式の店員を募集したのでそこに就職できたという。彼の指導教官はそれを聞いて「よかった」と安堵の胸をなでおろしたそうである。何とも返す言葉が見つからない。親の立場で考えると安くはない授業料を負担してドクター・コースまで行かせたわが子が、途中でラーメン屋のアルバイトをするのはともかく、修了後にラーメン屋に就職するのでは、職業に貴賎はないとはいえ、苦労が報われない。この例は、日本の文教政策の貧相さを象徴している。私がこのような問題について、強い言い方をすることの背景には、自分の教え子が、外国に留学し、まじめに勉強してPh.Dを取得し帰国しても、大学関係への就職先が全くないからである。日本社会はこれでいいのかと疑問に思い、激しい内容の『だから教授は辞められない』(ジャパンタイムズ)という本を出版したのである。

 私はこの本で一番問題にしたのは、「教授」である。日本の大学には研究をしていない教授が本当に多い。本来、文科系の学問というのは50才過ぎてから円熟した良い仕事が出来るはずなのだが、まともに研究している教授は本当に少ないのが現状である。『大学崩壊!』(宝島社新書)の巻末に私の著作の一覧表をつけたのは、その部分で喧嘩をしたくないからである。

 この『大学崩壊!』に大学教授のネガティブな例を書いた。その際の原則として新聞は、朝日、読売、毎日に限定し、週刊誌は全国紙系統でサンデー毎日、週刊朝日、Yomiuri Weeklyの3誌を用いた。あとは新聞社系が出している本に関しては知られている事実と判断して、実名で大学の名前が出ている部分はそのまま出した。

 新聞には三流、二流大学に関する記事はほとんど載っていない。一流大学の早稲田、慶応に関する記事がほとんどである。早慶ですらひどいのなら他の大学はどうなるか。もっとも早慶は純粋培養の卒業生で運営しているため一種の近親相姦のようなマイナス面があるが、その点を割り引いたとしても、100年以上の歴史を持つ早慶があの程度ならば、ほかの大学はさらに悪いと言いきってもよいだろう。

 例えば、「都内の有名私大」とか、「漱石門下の流れをくむ」とぼかした表現をしている法政大学については一番詳しく書いてある。一般読者にはわからないかもしれないが、法政の教職員は誰のことが書かれているのかピーンとくるはずだ。法政大学の悪口も書いているが、私が見聞し調べた範囲の内容に関してのクレームは一切なかった。

(2)教授会の課題
 研究しない教授ほど「学内政治」に多くの時間を割いている。身分不安定な助手や非常勤講師の待遇問題、学位を持っている若い研究者でも専任教員になれずに空きを待っているのが多いといういう現実がありながら、勉強しない老教授たちが教授会を牛耳り、人事に多大な影響力をもち大学を駄目にしているのである。文部省が提唱しているセンター・オブ・エクセレンス、つまり大学とは研究拠点であるべきだという理念からは程遠いのが現状である。だからまず、手始めに教授の仮面を剥がすために書いたのである。

 文部省の言葉を借りて読売新聞が書いた「教授会が長すぎる」という記事は事実である。教授会は通常3時間も4時間も続く。私は今の教授会が駄目だから排除するのではなくて、駄目だからこそ、まともなというか、正常な研究者を入れて作り直すことが大事だと思う。

 情報化が叫ばれている今日、教授会も公開したらよいのではないかと提案する。議会でも議事の進行を妨害しない限りにおいては傍聴できる。国民であれば国会、市民であれば市議会を傍聴してもよいわけである。つまり教授会は教員たちのことだけでなく、学生の身分、カリキュラム、教育方針などについて決定する機関なのだから、学生も野次をとばしたりしない限りにおいてはその時間帯に傍聴に行ってもよいのではないか。教員の人事や秘密にかかわることは非公開でもよいが、それ以外のことに関してはむしろオープンにすべきであろう。教授会を公開することにより、例えば教授会では主導権を握る「声の大きい人」が、学生から見れば「あの先生、授業中は声が小さいのに」ということがわかる。「教育と研究には自信がないA教授は、講義では声が小さいが教授会では声がデガイ」と学生たちも知るようになる。そうすると一般教員と学生が受ける印象の違いも明確になる。学生は自分たちのことについてどのような決め方がなされているかがわかるし、教員たちも「居眠り」や「飲み屋が開くまで待ちましょう」というような無責任でだらしない言動をしなくなる。むしろ教授会を秘密にすることによって淀み、自浄作用を失っているのが現状である。

3.業績評価をどうするか

 1996年に大学教員の任期法が上程され、翌年1月に両議院で可決されたとき、私は東京新聞に「大学教員の任期法には反対だが、大学教授の任期法には賛成である」と書いた。現実的に見ても、実績や業績もなく、今後、論文一本も書く可能性も能力もない教授は、違う仕事をした方がその人のためにも良いと思っている。実際には大学教育を根底で支えている助手や非常勤講師など、次の時代を担う若い先生方の身分が不安定なのである。能力のない「過去の教授」を撤退させて、「未来の教員」にポストを譲るべきである。

 十数年前にNHKでニューヨーク紹介の番組があり、そこで靴磨きのおじさんが出てきた。彼は前月まではニューヨーク市立大学の教授だったという。アメリカにはご存知のように、publish or perish、即ち、「業績が発表できなければ辞めなさい」という格言がある。首にされたのか自分で退職したのかは不明だが、アメリカでは元大学教授が靴磨きになることもある。こういう業績主義ないし実績主義に基づく制度を日本で導入してもよいのではないか。

 もちろん業績の評価に関して言えば、文科系と理科系とでは違う。理科系の論文の場合は、ファースト・オーサーとかセカンド・オーサーとかがあるが、文科系ではそういうことはめったにない。特に文科系での業績というのは400字詰めで30〜40枚の論文が通例である。この程度の文科系と理科系の差を割り引いたとしても、本当に何もしない教授がいるのは困り者である。空き時間にスポーツやゴルフに行くならば健全であるが、自分の子分をつくり、その派閥が連綿と続くようなシステムが問題である。私は『大学崩壊!』の冒頭にも書いたが、森鴎外の時代以来綿々と続いているこのような大学のシステムが今の日本を駄目にしているのである。

 私は研究員としてケンブリッジに滞在していたとき、キャベンディッシュ研究所にもよく行ったが、そこで所長のハウディ教授と親しくなった。キャベンディッシュでは研究員が約70人いるという。そこでは講師から助教授になれるのが25%、助教授から教授になれるのが30%である。組織がピラミッド形になっており、全員がトップに上がれるわけではない。キャベンディッシュだけでノーベル賞を受賞した人は28人おり、現役教授の受賞者は3人もいる。「日本の場合は教授になると勉強しないという習慣があるが、こちらではどうですか」と聞いてみたところ、「講師、助教授とシビアな競争を経て教授になった人にとって、研究や勉強は趣味のようなものである。だからそれをはずして生活することはありえない」と話してくれた。

 私はそのような環境で暮らしていたせいか、日本に戻ったとたん、教授会が始まる前日に飲み屋で打ち合せやリハーサルもどきが行われている(特に研究をしない教授たちが中心となって)のを見て、まさにカルチャー・ショックに襲われたものだった。前日のその会合ですべてが決まっており、当日は勝利の雄叫びをあげるような教授会を30年ほど見てきた。もちろん前日のその会合に欠席することなど言語道断だというのも不文律になっている。「学内政治家」の再生産が老教授の自らにかした至上命令だからである。おそらく他の大学でも同じような教授会が繰り返されているのではないかと思う。

 だから大学改革以前に、教授たちの業績審査や首切りもすべきなのである。よく教授会で問題になるのは、若い人は業績が大事だというが、停年退職間際にすばらしい論文を書く可能性もあるなどと年配の教授方はもっともらしくブロックしてくる。しかし、常日頃から努力していない人がいきなり良い結果を出すなどということは、どこの世界においてもありえないのである。

 大学教員任期法が上程されたときに、あれが「大学教授任期法」ならいいのにと喜んだのだが、結果としてあれはざる法である。当時、日共系の組合などからいくつかは反対声明が出たが、殆どの教授会は反対しなかった。わが国には、学部単位で3000以上ある教授会から一つも反対が出ないのは不思議だと思っていたが、大学審議会が、事前にこの法律は「助手の停年」のためだと通達していたからである。自分たちの身に危険のないことだからどこの教授会も反対しなかったのである。また専任講師以上しか教授会には参加できないため、助手からは反対するすべもない。この法律は助手たち、特に表現が悪いが、「終身助手」を首切りするためにつくられたのである。

 アメリカや他国に習い、publish or perishのシステムを確立するか、あるいは第三機関をつくり、教授の学問業績を厳正に審査すべきである。現在の状態では今後大学のレベルは一途に低下するばかりになるだろう。

4.学生教育改善への提言

(1)学力低下をどうするか?
 現在、大学生の学力レベルが低いことが問題になっている。六大学のひとつの法政大学ですらアルファベットの順番がわからない学生がいると思われる。その理由の一つは、最近の学生は辞典を使わず、機械を使うことからくるともいわれている。機械を使うと順序を覚える必要がないからである。もちろん英文法は中学から文法を教えていないのでわからない。発音記号も読めない。三人称単数にsがつく理由もわからなければ、名詞、動詞などの品詞の区別すらわからない学生が多い。比較的レベルが高いといわれている法政大学の学生でもその程度ならば、二流、三流の大学ではかなりひどいことが推測される。

 日本人の英会話は駄目だが、数学に関しては他国の学生よりすぐれていると私自身思ってきたが、それも最近はあやしいようだ。92〜93年にかけて、ケンブリッジ大学にいたとき、裏に掛け算が印刷されているものさしを見たことがあった。イギリスの生徒はそれを見たり、電卓を使ったりして計算する。私の子供は「九九」を記憶しているので、数学だけは日本人はイギリス人より優れていると考えていた。ケンブリッジ大学でインド系の13歳の女子が数学で博士号を取得したというニュースをテレビで見たとき、そんな人は例外中の例外だと思っていた。

 ところが、昨年あたり『分数計算が出来ない大学生』、『少数計算が出来ない大学生』(ともに、東洋経済新報社)の2冊が出版された。分数計算の出来ない大学生は早稲田と慶応の1年生で、少数計算が出来ないのは東大の文学部と京大の哲学科の1年生である。一流大学がこの程度なら他の大学は何も出来なくても恥ずかしくない。このような現状では教養部の解体は正しかったのかどうかわからない。アメリカのように一般教育を4年間履修させれば成果があがるのかもしれない。これに関して、是非、文部省の考えを聞きたいものである。

 私がイギリスにいたころ、当時のイギリスの教育改革に関して、BBC2(わが国でいえばNHK教育テレビ)が連日のようにテレビ討論会を行っていた。文部大臣、父兄、小中学生、学校の教師などが参加して3時間でも4時間でもじっくり討論する。そのような議論を経て行われたイギリスの教育改革の結論は「自由主義をやめる」ということであった。自由に教えるのではなく、ハードルを設けて徐々に越えさせるやり方がよい。アメリカもあの教育学者のE.D.ハッシュ教授が取り組んでいる学年別の教科書のハードルなども良い参考になる。例えば、大卒者はこれだけ覚えるべきだという客観的基準を設けることである(邦訳、『アメリカ教養辞典』中村保男・川成洋監訳、丸善、1997年)。また高校卒業者はこれだけというように基準を明確にすればよいのである。

(2)甘えを脱すべき大学教官
 学生たちが共通した知識(コア・ノレッジ)を維持できなければ、日本は今後ナショナルアイデンティティを失う危険性がある。また、国際化の流れの中で多くの外国人が入ってくる。そんなご時世に「外国語の勉強をしなければならない」というのでは遅いし、的が外れている。大学教育関係者はそういう危機感を持つべきであるにも拘わらず、現実には「今度、おれの子分を助教授に、講師にする」ことなどに神経を集中している教授たちがいる。彼らには辞めてもらうべきである。外国のようにpublish or perishを厳密にやる必要はないが、教授たちが危機感をもって職務に取り組む環境が必要である。週に2回くらいしか大学に来ないのだから、空き時間は社会に還元する義務がある。このまま行くと大学は崩壊するに違いない。

 戦後60年間、他国と比較してみると、日本の大学は甘やかされている。企業は「○○大学の卒業生」という理由だけで面接なしの無条件で採用してきたし、「社会の木鐸」を自認する新聞、ジャーナリズムも大学批判は絶対行わない。したとしても抽象的な形でしか行わない。例えば、東大の悪口を言うと、その後で、東大の先生から取材をボイコットされるから名指しで批判することはしないようにしているようである。つまり新聞社も大学を甘やかしてきた。父兄も子供が勉強してよい学校へ入ってくれればそれで十分満足している。「勉強さえしてくれればいい」という考え方の親たちが本当に多い。つまり社会、新聞ジャーナリズム、家庭の三者が大学を甘やかしてきたのである。例えば、17歳の少年が親や学友を殺したとか悪いことをしたときはその高校名はメディアに出る。しかし、大学生が人を殺しても大学名は出ない。何故か、私立大学とかいうように隠している。高校ですら「県立○○高校のA君は・・・」という形で報道されているのに、大学生のほうが高校生より社会的に責任があるのだから大学に対しても実名で報道すべきである。大学問題の報道に関してはテレビも含めてジャーナリズムは本当に弱腰である。批判すべきときにしなければ社会は良くならない。

5.「紳士教育」の必要性

(1)責任性のある人材の育成
 私は戦前の教育をよく知らないが、やはり今の日本の学生に必要なのは「紳士教育」ではないかと思う。授業中の私語があまりにもひどいし、現在の大学は勉強以前の点で教育しなければならない。「紳士教育」こそ明治維新以来、日本が失ってしまったものではないか。

 イギリスの大学には必ず礼拝堂があり、その入り口の右側には第一次大戦の戦死者、第二次大戦の戦死者の名前が刻まれている。戦死した場所やビクトリア勲章を受賞したとかは刻まれてないが、何年から何年までこの大学に在籍していたということだけはしっかりと刻印されている。

 今から何十年も前、慶応大学の故・池田潔先生の『自由と規律』(岩波新書)という本の中で、イギリスではパブリックスクールの学生ですら、戦争時には従軍していると書いておられる。大学生はもっと早い段階で参戦しているのである。だからイギリスは戦後、若手の指導者がいなくて困ったという。ところが、わが国では、太平洋戦争のとき大学や高専などの学生ではない18、19歳の男子がほとんど戦地に赴いている現実を受けて、「学徒出陣」として麗々しく、かつ悲愴に「もとより生還を望まない」と言い残して戦場へ向ったのである。そのときまで大学生だけが兵役を免除されたのは間違いだった。大学生こそがエリートなのだから一番先に行くべきであろう。ノーブレス・オブリージ(noblesse oblige)、つまり地位の高い人たちはより大きな責任があるのだということを徹底して教育しているのはイギリス教育の優れている点である。それ故、イギリスでは、大学を卒業した人たちは社会のリーダーとして尊敬されるのである。

 日本は明治維新から100年かけて西洋に追いつけ追い越せで競争してきたが、もし、もう一度刷新をするならば、「紳士教育」「武士道」など、何か一本筋を通すべきである。アンドレ・マルローという戦後フランスの文化大臣になったロマネスク派の作家がいるが、彼は戦争前から大の日本贔屓で、オリエンタリズムに対して非常に造詣の深い方である。当時フランスがドイツに占領されているときに、友人の小松清に対して、「形のうえではドイツと同様にファシズムのようであるが、日本はファシストではなく武士道の国である。ドイツとは違う。武士道は一本筋が通っている」と熱心に語ったという。ところが小松は左翼思想の持ち主で、日本から逃げ出した人であったので、ばつがわるかったという。

 当時の著名なイギリス人やロンドン・タイムズの記者などは、「日本は天皇中心などと言っているが、あれは武士道で筋が通った国である」とメディアに書いていた。ところが戦後、東京極東裁判にイギリスの新聞記者が取材したとき、お互いに責任のなすりつけをやっている姿を見て「日本の武士道はどこにいったのか?」「こんな取るに足らない日本人とわれわれは死闘をくり返していたのか!」と憤慨して書いている。武士道とは簡単にいうと「私に責任があるから首でもなんでも切ってくれ」という無私の美徳のことを指すのである。当時の外国人のインテリはそういう日本人の潔さを尊敬していたのである。基本的に白人優位主義者であるヨーロッパ人から見て、背が低く、黄色い顔に粗末な服をきている日本人ではあるが、彼らは筋が通っていると一目置かれていたのである。

 ところが戦後、日本人はその美徳を全く失ってしまったことが判明したのである。とりわけかつての軍国主義の指導者たち、侍の末裔としての軍人たちが、サムライではなく単なる官僚に成り下がっていたのである。自分の責任はここまでで、あの責任は自分以外の人にあるというような感覚になっていたのである。
もし大学の再生を考えるとするならば、日本人が失ってしまった「美徳」をどのように取り戻すかを考えるのが最優先である。しかし、考えてみると、これは大学の問題だけではなく、企業や政治でも同様である。最近、「モラルハザード」や「リーダー論」が出てくるポイントはそこにある。日本人として一番根幹のところが完全に緩み、腐敗し、あるいは崩壊しているのである。私は『大学崩壊!』を書きながら、日本人論をもう一度やったほうがいいのではないかと考えた。おのおのの持ち場で日本人論を、「日本人よこれでいいのか」を主張すべきである。

 最近、読んだ新聞記事では、どこかの小学校で徒競走をやるときに、最初にくじ引きをして順番を決め、その通り自分の到着点まで走るようにしたという。それならば徒競走する必要はない。また友達がくるのを途中で待つように指導する学校もあるという。こんな徒競走では意味がない。一番早い子がいても遅い子がいてもいいし、それで人間の価値がかわるわけではない。むしろ、多様な人間がいて世の中が成り立っていることを子供の時から知るほうが教育的なはずである。そういう肝心なことを教えない変な意味の「平等」を教えている。こんなことが公立の学校で行われているとするならば文部省や教育委員会は何を考えているのだろうか。全員辞職したほう良いのではないかと思う。

(2)スポーツエリートの問題点
 今や「死語」と化している「文武両道」ということに関しても述べたい。現在、名の通った高等学校では「うちの学校は文武両道で、野球で甲子園にいき、東大にも多く入学させている」などと言っているが、実はそれぞれやっている学生が違うのである。A君は野球だけやっているし、B君は受験勉強だけやっている。そういうのを「文武両道」とはいわない。クラブ活動と塾の二者択一を迫られ、教師も親も含めて悩むが、結局どちらかを選ぶことになるケースが多い。

 現在、日本のスポーツエリートにはいろいろと問題がある。ところで、代々木のオリンピック研究所では、毎年オリンピックの正選手と補欠選手の体力測定を行っている。彼らのような、平均的な日本人よりはるかに体の良い人の継続的な体力測定の研究は、人間が例えば50歳ではどれだけの運動能力があるかといったことの目標とすべきモデルになるからである。その研究でわかったことは、東京オリンピック時に、代々木のグラウンドを真っ赤なユニホームで染めた正選手と補欠選手のうちで、自殺した人も含めて親、兄弟、親戚の誰も行方がわからない元選手が50名以上もいるという。彼らは日本でその競技においては頂点を極めた人たちである。この話は今から4年前、アトランタオリンピックの頃の話である。

 頂点に上り詰めたあの人たちがそういう状態にあるのは、一体何故だろうか。彼らはチャンピオン・スポーツの覇者という栄誉をうけて、高校や大学も無試験で入っている。だから体だけでなく頭の中も筋肉質になっている。就職しても企業の広告塔として用いられるだけで、スポーツ年齢が終わったら降ろされる。たとえが悪いが、弊履のごとく捨てられてしまう。よほど芯が強くなければその企業に残れないようなシステムになっている。日本のこのようなスポーツ選手のありかたは間違っているのではないか。

 イギリスはサッカーが強いことで知られている。ワールドサッカーで4チームを出して、それでもかなり上位までいくほどである。日本のようにオールジャパンなどとセコいことはしない。私がケンブリッジにいたとき、息子たちはイングランドの現役をしりぞいた正選手に放課後サッカーを教えて頂いていた。彼はサッカー選手と企業の会社員を両立させていた。サッカー年齢が終わったらスポーツ選手を引退し、会社員として専念する。日本ではいつまでもスポーツ選手を続けていたり、オリンピック選手の選考に際して、しばしば醜悪な役割を果たすスポーツ政治家になったりするが、イギリスではそういう連中が地域のクラブスポーツを指導している。しかし自分が勤めている会社の終了後だから、練習は必ず6時以降になる。うちの息子達が習ったケンは学校に来て教えており、生徒は学校に一カ月に5〜10ポンド位払い、その中から学校がケンに払うことになっていた。そのような形でスポーツが草の根のように広がっている。決まった時間に超一流の選手が教えてくれるのである。練習時間に「ケン」と呼び捨てにしても問題はない。日本人のサッカー通にいわせれば彼は近づくことが出来ないほどの一流プレイヤーだそうである。そういうようなことがイギリスではどこでもあるということだ。実に羨ましい話ではあるまいか。

 日本ではオリンピックで金メダルを獲得した程度で大騒ぎしている。まるで英雄扱いである。そういう連中はそのままいくと最終的にはスポーツ政治家になる。この前のアトランタではチェコのカヌー選手が銀メダルをとり、しかもバルセロナで金メダルを取った。アトランタオリンピックでは「政治ショウ」、「商業ショウ」だといわれていたが、その選手はチェコの業者にメダルを売った。その理由は「自分は小児科医だから、こんなお金のかかることばかり続けていられない、子供の入院患者もいるので早く帰らなければならない。こんなものはいらない」というのである。そのときの日本のスポーツジャーナリズムは、こぞって、「アトランタを金権オリンピックと批判しながら、自分の金、銀メダルを売るとは何事か」とその選手をヒスティリックに叩いた。

 しかしよく考えてみると、日本選手団の中に誰か一人でも医者がいるのか。スポーツばかりしていて医者になった選手は一人もいない。それとは対照的に外国の選手は必ず生涯にわたる専門職を持っている。残念ながら、日本にそんな選手は一人もいない。日本の選手は大企業の社員かもしれないが、彼らは単なる広告塔に過ぎないのである。そういう企業スポーツのあり方に対して批判すべきである。現在のようなスポーツのあり方は青少年に良い影響を与えないからである。

 私の勤めている大学もスポーツ大学で、200人近くの学生をスポーツ推薦で入学させているが、六大学はお互い様だから仕方ないかもしれないが、今のシステムのままでは、スポーツはやらずに勉強だけして「もやし」になるか、スポーツだけで「脳ミソまで筋肉質」になるかのどちらかのタイプの人材しか輩出できない。勉強もスポーツも両方、適度に出来ることを理想とするような教育、社会システムを模索していくべきである。

6.これからの大学像

 結論からいうと、大学改革という大義名分のもとで「大衆化」はやめるべきである。

 最近では「入試の多様化」と称して地方入試が行われている。そうすると、例えば私は英語の教師として、同レベルの問題を複数作らなければならない。限られた期間で、何種類も同じレベルの試験問題をつくることは不可能である。大学の先生で入試に関係する教員は、夏から翌年の春まで作問に没頭するしかない。当然、それに時間を割いている教員は自分自身の研究時間をもてない。

 私は推薦入学や一芸入学は、一種の「不正入試」だと思う。生来の美人で女優なら入学できるというならば不正である。顔の良し悪しのように、その人の努力や責任と全く関係のない理由で入学の可否が決まるのは不公平である。しかも合格が早く決まる学生は、11月から翌年の3月まで飲めや歌えの大騒ぎである。作問や面接につき合わされ、1万枚位の採点をこなし、疲れたなと思っているともう新学期である。新入生の中の半分は飲めや歌え組である。この状態では大学などは崩壊どころか、なきに等しい。

 この惨状を直すためには大衆路線を放棄し、大学当局は教員の待遇を公平にすることである。看板教授に高い給与を払うのは当然であり、研究もしない人は辞めてもらうべきである。努力している人とそうでない人の給与が同じというのはよくない。そういう時代は終わった。おそらくこのままでは、私立、国立、公立全部合わせて650校近くある日本の大学の中から、今後どんどん潰れていく大学が出てくるであろう。

 現在、実際に倒産しつつある大学も多い。今年、都内で私学助成金をもらえない大学が出てきており、来年度は37校が出る見込みという。おそらくその中のいくつかは必ず倒産するであろう。学生数が少ないから入学金と授業料収入も少ないので、助成金をもらわなければ倒産するしかないのである。大学がこんな状況にあるときにこそ、子供たちはもっとゆったりと勉強すれば良い。ところが今は皆塾ばかり行っている。そのために若いお父さんたちの酒代も削られているような状況である。しかし、それほど熱心に受験勉強して入試を突破する大学自体が、高等教育機関および研究機関としては問題が多すぎるのが現状である。
(2000年11月4日発表、文責編集部)