21世紀の中国・東南アジアの動向と日本

南山大学教授 田中 恭子

 

1. はじめに

 1989年に冷戦が終わり、世界秩序が大転換の時期を迎えるなかで、東アジア(ここで東アジアとは東南アジアを含めることにする)において冷戦期に形成された地域秩序はすでに大きく変化している。今後さらに変化すると思われるが、それはどのような変化なのか。また、その中で主要な国である中国や日本の役割と、今後イニシアチブをとろうとしている東南アジア諸国の役割などについて論を進めたい。

2. 東アジアの冷戦と冷戦後

(1)冷戦体制とその変容
 冷戦後の東アジアの秩序はまだ不確定である。今後これを安定的に構築していかなければならない。現時点においては不透明な状態にある。冷戦体制は、元来ヨーロッパから始まり、朝鮮戦争を経由してアジアにもたらされた。一方、アジアの冷戦体制は1954年に確立され、その後20年間は強固に安定していた。

 朝鮮戦争で米国と中国が血を流して戦い、両者とも簡単に和解できない状況になった。それ以前において米国は、必ずしも中国を敵視していなかったが、朝鮮戦争で米中の対立が明確になったため、米国はアジアにおいて中国包囲網を構築したのである。中国はそのような米国の動きに対して非常に脅威を感じ、そのあせりが中国をして文化大革命や大躍進運動などを引き起こしたということが、最近になって検証されている。以前は資料が得られず、中国の思考方法は不明であったが、「改革開放」以後、関係要人などへのインタビューなどが可能になり、冷戦体制下の中国が非常に不安定であった最大の原因が、厳しい国際環境にあったことが明らかになった。

 ただアジアの冷戦体制はヨーロッパと違い、自由民主主義と社会主義という境界線で分けられない点に特徴があった。中国とソ連は同じ社会主義陣営の中にいながら、60年代以降仲たがいし、対立したからである。70年代には、中国は西側寄りに動き、戦略的に米国に付くという状況が生まれた。具体的には、中ソ対立が10年ほど継続したあとに、中国は米国と和解したのである。60年代の10年間、中国は超大国に挟まれて孤立していた。それを打破するために中国が米国と和解したのは1971年であった。米国との和解のみならず、ASEAN諸国のなかでは、マレーシアが最初で74年、それに続いて75年にはフィリピン、タイとも和解した。つまり冷戦構造の中にはあるが、対外関係において中国は西側に付き、戦略的に中国は米国側についてソ連と対立するという状態を作り上げたのである。

(2)カンボジア紛争の意味
 それが明確に出てきたのは80年代のカンボジア紛争である。この時、ベトナム戦争が終わった段階で中国は、ベトナムに対してそれまで与えていた援助を打ち切り、南北の統一は延期するようにというようなアドバイスを与えた。それに対してベトナムが反発し、それが主な原因で中国とベトナムの関係が77〜78年にかけて悪化したのである。

 大国の中国がベトナムに対して脅威感を持つのは不自然なようだが、両国の戦争の歴史を見ると意外に中国の黒星が多い。北半分だけのベトナムならば中国は比較的安心できたが、南の方が非常に豊かで経済発展しているため、南を統合することにより、ベトナムが強国になることを恐れたのである。ベトナム側はこれを敏感に感じ取り、ナショナリズムの盛り上がりと中国に対する恨みが、ベトナムにおける華人迫害という形で噴出した。その結果、華人が難民となって北方では国境を越えて中国へ20万人流出し、南方からはボートピープルとなって80万人位が流出した。

 革命政権というのは、えてして革命の成功に酔い、何をしても成功するという幻想を抱きがちだが、カンボジアのポルポト政権も例外ではなかった。「南ベトナムは、元来カンボジア領だ」と主張し(200年くらい前まではそうだったのだが)、南越を取り戻そうとしたため、国境付近で軍事衝突が起こった。ベトナムとの関係が悪化していた中国はカンボジアを後押しし、中越関係はさらに悪化した。中国に脅威を感じたベトナムは78年にソ連と同盟を結び、中国はASEAN諸国を取り込むために小平がタイ、マレーシア、シンガポールを歴訪して、説得を試みた。しかし、この段階ではASEANは、このような情勢を中ソの対立と見ており、大国の紛争に自分たち小国が巻き込まれたくないので介入しないと決めていた。

 1978年12月の『人民日報』を見ると、二つの重要な事項が同時進行していることがわかる。一つはベトナムの華人迫害をめぐる中越交渉である。中国はベトナムに華人迫害をやめるよう要求し、ベトナムは華人問題は国内問題として中国の要求をはねつけた。もう一つの重要事項は、中国共産党中央委員会が改革開放政策を討議し、正式に決定したことである。

 1978年末、ベトナムは、カンボジアに兵を派遣して親ベトナム政権を打ち立てようとした。当時ベトナムは戦争が終わってまだ2〜3年しか経ておらず、ベトナム軍は米国が残した最先端の兵器を手にし、ベトナム戦争での戦闘経験も豊富であったので、東南アジア最強の軍隊であった。これがカンボジアを占領し、タイの国境まで出てくると、タイにとっては大変な脅威になる。タイの軍隊は近代において外国との戦争経験がないので、ベトナムとの戦争になれば、タイはすぐ制圧されると見られていた。ASEANはこれを放っておくわけにはいかないので、結束してタイを支援することになった。中国は、元来密接な関係にあったポルポト政権に武器を提供し続ける。ただ中国は国際的にあまり影響力がないため、その部分をASEAN が受け持った。ASEAN はベトナムを国連で侵略者として非難し、ASEANとしての西側の支持を取り付けるよう動いたのである。

 その結果、米国や日本をはじめとした西側諸国がベトナム制裁を実施し、ベトナムは世界銀行など国際機関からも借款が得られなくなった。この制裁によってベトナムは西側からの借款も援助も得られなくなり、貿易も難しくなるという状況に陥ったのである。

 カンボジア紛争は、ベトナムとソ連の同盟に対して中国・ASEAN・西側諸国が対立するという構図を作り上げた。カンボジアの内戦が、その代理戦争という形であらわれた。外国の軍隊でカンボジア国内に入っているのは、ベトナム軍だけであり、ピーク時に16万人と言われている。これはベトナムにとっては大変な負担である。86年12月ベトナムはドイモイ政策に転換し、同時にカンボジアからの兵の引き上げを決定して、87年に引き上げた。カンボジア出兵による出費に加えて、西側からの援助、貿易、借款などの停止がベトナムの経済を圧迫したため、ベトナム経済が加速度的に弱り、カンボジア駐兵を続けられなくなったのである。

 しかし、ベトナムの政策転換の直接的な原因は、ソ連がペレストロイカによってベトナム援助を停止したことにある。85年にゴルバチョフがソ連の指導者となり、86年にペレストロイカを始めた。ソ連がアジアにおいて最も重視したのは中国との関係改善だった。その当時、ソ連側は中国との国境線に45師団を駐留させていたが、これは人的にも経済的にも莫大な負担であった。この負担と中国の脅威を解消したいという動機からであった。

ゴルバチョフの関係改善の呼び掛けに対して中国は、中ソ間の三大障害が解消されれば関係は正常化すると提案した。三大障害の最大の案件はベトナム支援の打ち切りであった。ほかの二つは、国境に軍隊を常駐させて中国を敵視していること、アフガニスタンの侵略であり、この三つをソ連が中止すれば、関係改善してもよいと主張したのである。中国が最も重視したのはベトナム支援の中止である。ゴルバチョフもこれを理解し、ベトナム支援の中止を検討し始めた。実際に中止したのは少し先になってからである。軍隊の維持費のみならず、カンボジアの親ベトナム政権の予算は全部ソ連が出していたので、ベトナムはソ連の援助無しに戦えないことになった。

 ここでのポイントは、冷戦体制において中国が西側につき、ソ連・ベトナムと対立した点である。しかしアジアでは中ソ対立の時から冷戦が終了したわけではない。89年のベルリンの壁崩壊は、世界的な東西対立構造の消滅を意味した。アジアでは社会主義国が生き残ったが、社会主義陣営はすでに崩壊しており、体制を問わず各国は個別的に国際環境に対応していくことになった。

(3)冷戦後の三つの趨勢
 冷戦後の東アジアのトレンドは、「グローバル化」、「多角化」、「民主化」である。グローバル化の定義は広く知られているので、ここでは言及しない。「多角化」とは、マルチラテラル(multi-lateral)という意味である。特に中国は、古典的な国家観、国際関係観をもっており、二国間の関係に固執する思考が強かったが、現在はその考えから脱却しつつある。また、ASEAN加盟国が最初5カ国であったのが、90年代になって10カ国に増え、その後ASEM(アジア・ヨーロッパ閣僚会議)、APEC、ARF(アセアン地域フォーラム)のように、多くの国が一つの条約や協定に署名し、一定の目的のもとで協調することをも指している。このように、多国間での話し合いの場が、多くかつ広くなるという傾向がある。

 民主化の趨勢は、80年代から既に始っていた。西側社会に属しながら、その一方で一種の開発独裁のような体制をとっていた台湾、韓国、タイ、フィリピンなどが民主化した。各国の民主化過程にはバラエティがあるが、民主化の趨勢は否定できない。そういうなかで今後、どのような東アジアの地域秩序を形成するかが課題であろう。

3. 中国

(1)改革開放―経済発展至上主義への転換―
 中国は78年12月に改革開放政策を正式に決定した。これは国家の性格、あるいは政権の性格を激変させた大きな変革だった。中国がそれまで強調してきたことは、社会主義国であるということであり、国際共産党の連帯や革命の推進・深化であった。しかし、改革開放路線以降は、経済発展を最優先する普通の途上国になったのである。

 もちろんそれ以前においても中国には「途上国」という側面があったが、そのことを表立って言い出したのは初めてのことである。経済発展のために、事実上社会主義を放棄し、対外開放政策を進めたということである。つまり経済発展のために手段を選ばなくなったのである。

しかし、改革開放路線に対応する対外政策の転換には数年を要している。

(2)外交戦略の転換―国際社会への適応―
 毛沢東時代の対外政策の究極目的はもちろん世界革命だったが、特徴的なのは毛沢東が国内で展開してきた戦略をそのまま対外戦略に当てはめた点である。即ち、外国を敵と味方に分けて味方を増やし、最後には敵を孤立させて潰すという戦略である。敵と見なす諸国を主要な敵と副次敵に分け、まず副次敵と統一戦線を結んで主要敵を倒し、主要敵が潰れたら副次敵の中からまた主要敵を設定して、同じように潰していくという革命戦略をとった。これを「統一戦線戦略」と呼ぶが、国内の革命で成功したので、外交政策にもこれと同じ手法が用いられた。

 米国と和解したのはこの戦略に基づいている。つまり69年のダマンスキー島(珍宝島)事件(ソ連との国境における軍事衝突)で、米国よりソ連の方を主要敵と決めたのである。それで副次敵である米国と統一戦線を組んでソ連に対抗しようと目論んだ。米国はうまく和解に乗ってきたので、それに乗じてソ連とベトナムの同盟を潰す。そのため中国は、ソ連、ベトナム両国を覇権主義と呼んでいる。「ソ連は世界覇権主義」、「ベトナムは小覇権主義」と規定し、これに対抗する「国際統一戦線」を形成しようとして、西側諸国を誘ったのである。しかしこれは必ずしも中国の意向どおりにはいかなかった。

 その後82年に、胡耀邦(1915-89)が国連総会の演説で初めて「統一戦線戦略から離れる」という趣旨の発言をした。中国は今後、「独立自主外交を展開していく」と主張した。その意味は何処とも同盟関係を結ばない「全方位外交」、つまりどの国とも同じような良い関係を持続するというものであった。国家目標を経済発展に据えたため、産業振興がポイントとなり、どの国とも友好的関係を築くことが必要になったためである。これを「是々非々主義」と呼ぶ研究者もいる。外交関係においては、必ずいろいろな問題が起こるが、案件ごとに是々非々で対処していく、そのときどきの交渉で処理すればよいという考えに変化したのである。つまり中国は革命を放棄することによって国際社会に復帰しただけではなく、国際社会の通常のやり方に適応し始めたということである。

(3)経済の国際化と高度成長
 外交政策の変化は、改革開放によって経済が国際化したことも一つの要因だと思われる。中国の改革開放の目的の一つは、外国からの投資を中国国内に引き込むことであった。外国企業が投資してくれれば、彼らは機械・設備だけでなく、それを使うノウハウや近代的な企業経営の方法ももってくる。さらに製品を売るマーケティングの方法も教えてくれる。あるいは投資した会社自身が国際市場へ売ってくれることになるので、得るものが多いわけである。

 それで経済特区を設定した。中国の経済は一元的指導で上(政府)から規制されていたが、それをほとんど外したような特別区を作った。これを設定した場所が面白い。最初に経済特区が設定されたのは、香港に隣接する地区とマカオに隣接する地区、広東省の汕頭と福建省のアモイなど華人の出身地である。中国の狙いは、香港も含め海外にいる中国人あるいは華人の資本(海外華資と呼ぶ)が中国へ投資されることであった。実際に最大の効果をあげたのは香港からの投資であった。

 香港は80年代を通じて海外から中国への直接投資の7割を供給した。2位が米国、3位が日本であるが、1位と2位の差は非常に大きい。それが90年代になって6割を切るくらいに落ちた。その理由としては、91年に台湾が中国投資を自由化したために、台湾資本が中国本土に直接どんどん入り、その比率が高くなったということ。もう一つは93年以降東南アジアの華人資本の中国投資が増え、その比率が上昇したことである。現在では、香港が6割を切り、台湾が1割、東南アジアが1割(ほぼ100%華人資本とみて間違いない)を占めている。このように海外からの中国系資本が中国の経済発展を支えたのだが、このことは中国政府も十分自覚している。

(4)地域大国としての中国
 中国のように1人当たりの国民総生産が300〜500ドルというレベルでは、国際収支は赤字が普通で、黒字というのは非常に珍しいことである。89年の天安門事件以降3年間は下落したが、92年に小平が広東省・福建省を巡回したとき、この地方の経済が発展している様子を見て、改革開放をさらに進めるよう指示し、その結果改革開放に拍車がかかった。中国は本気で改革開放をしていくと多くの人が納得し、経済発展がさらに加速され、海外からの投資も増加した。東南アジアの華人が、この頃から迷わずに投資し始めたのである。それで90年代を通じて2桁の成長を遂げ、中国は急速に経済大国になった。

 中国は元来、人口も領土も大きな国なので、東アジア地域における重みが増している。特に90年代には潤沢な資金ができ、装備の近代化が遅れていた軍隊が海外で先端兵器を買いあさるようになった。冷戦後は、ソ連の余剰兵器を大量に買ったり、ソ連崩壊後はソ連から航空母艦を買う話まであった。兵器の近代化につれて、兵員は400万人から300万人位に減らしているが、軍の組織が近代化し、先端兵器に適合するような訓練により軍事力は充実してきている。その結果、軍事面での中国脅威論が米国から出てきた。台湾問題などもからんで米国で騒がれたのである。だが中国の兵器は、質量両面において米国とは全然比べものにならないのが現状で、米国が恐れる必要はないと思われる。

4. 東南アジア

(1)東南アジアにとっての中国
 東南アジアにとって中国は常に脅威である。どんなに経済がおくれ兵器が古くても国の規模が全然違うので脅威を感じる。冷戦体制下で中国は東南アジアに革命輸出を試みた経緯があり、これが脅威感を増幅させた。60年代までは東南アジアは貧しい国々だったので、現状不満分子が多く、それで共産党運動が盛り上がり、それに対して中国が援助したのである。現在では共産党への援助はなくなっているが、中国に対する脅威感は消えていない。また、ASEAN側の4カ国(ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイ)にとっては、南シナ海の島(西沙・南沙諸島)の領有権問題があり、更に中国が艦隊を整備しているという脅威感も新たに起こっている。

 中国の目から見れば、東南アジアは、歴史的にみて蛮族の国々というイメージであった。逆に東南アジア側から見ると、中国は歴史的に朝貢の対象であり、仰ぎ見るような大先進国・中華帝国であった。このような歴史的背景から、中国側には心理的な大国意識がある。

 中国は1981年に趙紫陽(1919-)が東南アジアの共産党に対する援助はしないと明言した。具体的には「各国の共産党にはそれぞれ独自の歴史があり、他国がこれに関与することは出来ない」という表現で、中国は他国の共産党を援助して革命を促進しないと表明したのである。それまでASEANの国々は中国に共産党への援助を止める宣言を求めてきた。中国はそれを拒否し続けてきた経緯があったため、この宣言は大きな意味を持っている。

 その後まもなく中国は国内から放送していた「マラヤ人民の声」(マラヤ共産党の地下放送局)と「タイ革命の声」(タイ共産党の地下放送局)の放送を止めた。つまり象徴的な援助も止めたことにより、革命輸出の脅威は霧消した。ASEAN側では、すでに共産党に対する国民の支持が急速に落ちており共産党自体の影響力は下がったが、他国に対する内政干渉という面と中国が大国であるということで、なお脅威感があったのである。

 中国が社会主義革命を叫ばなくなっても、脅威と感じられるのは台湾問題と南沙問題があるからである。軍事についての中国の考え方が古典的であり、ASEANや旧西側諸国と異なっている点が注意を要する。つまり何を考えているのかわかりにくということである。

 例えば、中国は最近国防白書を出すようになったが、これを説得したのはARFである(アセアン地域フォーラム:94年に設立された冷戦後の東アジアの安全保障を話し合うために18カ国をメンバーとして結成したフオーラム)。これはASEANが主導で結成された。当時その趣旨は明確ではなかったが、中国を教育するための機関としての役割を果たしている。つまり、中国に当たり前の国際慣行に従って行動してもらえるように、現在の国際社会の常識とは何かについて納得してもらうための機関だと表現する専門家もいる。実際に、中国は初め国防白書を出して軍事を透明にすることの必要性を理解出来なかった。軍事は不透明だからこそ役に立つと考えていたが、その後、軍事の一定の透明化は必要であり、それが国際慣行であり、そこから相互信頼が生まれると納得していった。中国の国防白書は他の国と比べるとまだ見劣りのする簡単なものにすぎない。しかし、中国がこういうものを出す必要性を納得したところに意義がある。

(2)ASEAN諸国の経済発展
 ASEANは97年からの経済危機のショックからまだ十分に立ち直っていないため、危機以前のような元気はない。完全に病気が治った状態ではなくて小康状態であるということをASEAN諸国自体が感じている。韓国も同じような状況にある。

 不良債権問題は、日本だけの問題ではなくアジア全体の問題で、克服する道は見えていない。それともう一つのASEAN問題は、その盟主であるインドネシアに混乱が続いていることである。インドネシアの人口は2億以上で、東南アジアでは群を抜く大国である。この国が今のような状態にあると中国に対するカウンターウエイトを失いかねない。それによって中国の脅威に拍車がかかることをASEANは心配している。

5. これからの日本のあり方

(1)米国志向とアジア志向
 日本の一番の問題点は何かというと、今度の「えひめ丸の事件」に象徴的に現れたように、敗戦から50年も過ぎているのにはっきりと(米国に対して)ものがいえないということ。そのような心理的な障害があるということである。米国との関係の重要性を強調することと、米国に対して主張すべきことが主張できないということとは本来別のことなのだが、日本は腰がひけている。本当に重要な関係であるからこそ、主張すべきことは主張しないと、両国の関係はかえって悪化する可能性があると思う。

 その一方で、日本にとってアジアの重要性が増してきている。太平洋戦争に負けて以降、日本はアジアに対しても腰が引けていたが、中国との関係が断たれた状態の中で、東南アジア諸国は日本にとって重要な国々となった。逆に東南アジアにとっても日本は重要であり、既に70年代から日本は彼らにとって大国である。日本がどのように行動するかということを注目していた。つまり日本にアジアのよきリーダーになってもらいたいというのが、当時からの願望であった。これは中国に対するカウンターウエイトという意味もある。

(2)歴史問題に見る中国・韓国と東南アジアの視点の差
 東南アジア諸国には、中国や韓国が日本に対してもちかける歴史問題とは違った解決を要求する心理がある。つまり東南アジアは、日本にアジアのリーダーとしてしっかりして欲しいと考えている。そのためには日本がアジアとの間に持つ歴史問題にけりをつけてもらわないとリーダーになってもらえないというニュアンスがある。そういう動機から従軍慰安婦問題などを早期解決してほしいという強い願望が出てくるのである。つまり、過去の問題をクリアした日本との関係をもって、未来に向かいたいという思考が強いのである。

 このことは日本にとっても、韓国や中国に比べて付き合いやすい相手だということである。植民地支配や戦争の被害が韓国や中国と比べれば比較的軽かったせいもあるが、東南アジアは比較的寛容な文化背景があるとも言える。

(3)理念なき国家、外交政策
 外国で行われているシンポジウムに参加すると日本の理念、目的について聞かれることが多い。しかし日本は国家としてその理念を述べたり、主張したりしたことはない。

 米国が人権問題や民主主義が重要だという国家理念や国家目的を明示している点を、日本も習うべきである。さもないと大きな国で力を持っているのに、その力を何に使いたいのかがよくわからず、外からみると気味悪く映る。日本は敗戦後、経済発展して大国化したが、大国としての理念と責任を表明すべき時を逃してしまったという感じがある。

 また日本の政治家たちは、自分の言動に対して外国のメディアがどのように報道するのかということを全く配慮していない。報道されてからはじめて「しまった」というような出来事が多い。それは国際的に日本がいかに重要な国であるかということを自覚していない証拠でもある。

6. 21世紀への展望

 これからの東アジアにおける潜在的なトラブルスポットについて考察すると、台湾海峡、朝鮮半島、南シナ海の三つだが、この中で国際的にジャーナリズムも研究者も最も危険と指摘するのは台湾海峡である。これは中国の国内政治の問題が多く絡んでいるので楽観できないと考えられている。中国はどのような展望を持って台湾海峡を越えるのかに関しては中国自体わかっていないと思われる。武力行使に成功したとしても台湾をどのように統合するのか展望がないし、その自覚もない。軍や世論の圧力に対して今の政権は強くない上、いろいろな分野のグループからの支持を得なければならないわけで、指導部がそれを望まなくても、そのグループが台湾の武力解放を主張したときに抵抗しきるだけの力があるかどうかは疑問である。

 他の二つは、ある程度楽観視されている。南シナ海は領有権棚上げがいわれているが、これに中国も乗ると思われる。中国は既成事実の上に立ったという形になると思う。朝鮮半島に関しては南北の戦争になることは考えにくい。

 結局、東アジア地域の地域秩序の安定は、米国のプレゼンス抜きにはありえない。米国が軍を東アジアから全面的に撤退させてしまえば、難しい状態が予想されるが、全面撤退はまずないと見てよい。だが米国も伝統的に孤立主義があるので、アジアの重要性を吹き込み続けることは大切である。

 今後、地域大国化した中国が近い将来に世界的な超大国になることはない。中国は確かに活発な経済活動をしているが、経済活動も政治的影響力もアジアを超えることはないのである。そういう意味で、東アジアにおいての比重は大きいので地域大国ではあるが、現在のところ大国としての責任よりも力を誇示する傾向がある。今後は地域大国としての責任という観点で役割を果たせるよう説得していく必要がある。

6. 日本は何を目指すのか

 日本では50数年間守ってきた平和憲法があり、それは少しは世界的に認知されてきている。それを守ることにより総合安保を考えたのだから、これは21世紀において目玉になると思う。冷戦後に日本の憲法が適合するような世界ができると期待したが、政府やリーダーたちにそのような自覚がないことが効果を半減させているように思われる。太平洋戦争後に一貫して民主主義を継続、熟成させてきたのだから、そういう意味ではアジアで仰ぎ見られるところもあるわけである。グローバルな価値観で日本がすでに実現して追求してきた実績のあるものを、国際社会に主張していく役割があると思う。
(2001年3月3日発表)