人類幸福のための価値をどのように保護すべきか

ウルグアイ元大統領 ルイス・A.ラカジェ

 

1.理論と実践

 家庭とそれに関連する価値について、理論的な側面から十分に検証してみる必要があることは事実である。しかし、我々が今真剣に考えてみなければならないことは、理論もさることながら、その内容を中心として何をなすべきなのか(実践すべきか)ということだと思う。すなわち、議論する段階を終えて、今や実践段階に入らなければならぬ時だということである。理論と実践という二つの事柄は、相互に分かつことのできない不可分の関係にあり、より大きな観点から検証する必要がある。

 我々は、ことがらを単に理論的にだけ分析したり、ながめたりするような人間になることを望んではいない。もちろん知的な側面も必要だが、何よりも関心をもっていることがらに対して、何らかの行動に移すことが出来なければ、その本当の意味を表すことは出来ないと思う。

 おそらく我々の前に山積する問題は、ある意味では永遠になくならないであろう。ただ問題の全体量が次第に減っていくだけであろう。人間が社会的生活を営む上で必要となることを、可能な限り現実のものにするために重要なことは、倫理的実践である。人間は自然の中にありながらも、霊性を備えた存在である。そして、少なくとも我々人間が成長する途上においては、宗教から学び取った重要な価値について議論にのみ埋没してはいけない。

 そのような価値の内容は、すでに歴史的な資料の中に十分表現されてきた。また、多くの団体がその内容を活字化してきた。それが一体いかなる内容なのかについて、私はここで論じるつもりはない。ただ、誰しも何らかの緊張と苦痛の中で生きており、物質と精神、あるいは利己心と利他心という二つの相対立する考えによって、他人との衝突を経験しているという事実を明らかにしておきたい。それは人間の「堕落」によって生じた善と悪との闘争として説明することができる。善悪二つの思想は、我々が歴史を通じてなしてきたすべての活動の共通の背景をなしている。

2.人間幸福のための価値とは

(1)心の変革と家庭の重要性
 ここで誰でも心の中に、次のような疑問が湧き出ずるであろう。それは、価値は果たして教えられるものなのかということである。そのような価値は、(教育などによって)磨かれ啓発されることが可能なものか。ある人間にとって初めて接するような目新しい概念は、果たして人間の生き方の中にうまく適用していくものなのかという疑問である。もちろんこの疑問に対する私の解答は、肯定的である。そうでなければ、人間の本性に対して悲観的な見方をしているということになる。

 我々は人間のどのような領域において、そのような価値を守っていかなければならないのか、明確に知る必要がある。おそらくもっとも難しいのは、我々自身の心の奥底においてであるに違いない。人間は、今まで自分の外部に目を向け、そこにおいてそのような価値を守っていこうと努力してきた。しかし、本質的な変化が起こるのは、まさに私自身の心の内面においてである。そこに目を向け、見つめることを恐れてはいないであろうか。この人間の内面の問題こそ、もっとも超え難い壁となっているのである。それゆえ、人類幸福のための価値は、まず各自の姿勢と態度に適応されなければならない。このことに議論の余地はない。

 一方、我々は現実社会とともに生きていることも事実である。人間の内面においてだけではなく、もう一つの領域についても当然考えなければならない。もう一つの領域とは、「家庭」である。我々の普遍的価値は、まさに家庭の中においてこそ守られ、次の世代に養われ、更には子孫へと受け継がれていくのである。生命尊重の価値、個と全体を一方に偏ることなく公平に尊重するということは、家庭において初めて真の理解を得ることが可能なのである。現代人の家庭生活の中に、近年みられるようになった家庭内暴力、疎外された子どもたち、老人軽視の風潮などは、生命を重視する価値観を育むことによって払拭することができるであろう。

 (我々クリスチャンにとっては)神の次に自分の祖国が重要である。それがどれほど重要なのかについて説明しなければならない。教会や各自の家庭において家族の集まりを持つときに、礼拝の内容と関連した社会的なテーマについて言及する必要がある。新しい一週間を家族間の対話を通して始めなければならないと思う。そして若い世代の人たちは、人間は単に快楽を享受するためだけに生きているのではなく、より価値ある人生を送るためにこの世に生まれてきたことを知らなければならない。

(2)教育の果たすべき役割
 我々がこのような会議に参加するに際しては、まず第一に教育分野にすべての関心を集中すべきであろう。正しく教えれば、我々の生き方も正しいものになる。今日の社会において、さまざまな困難が横たわっていることは否定することが出来ない。我々が直面しているさまざまな問題点に対して、正しく(正確に)理解することが求められている。そして、若者たちが、悪なる環境の中においても正しく生きられるようにサポートすることが、極めて重要な課題となっている。それ以上に重要な先決問題は、我々自身の人生の中心軸であり、羅針盤ともいうべき価値観を確立し、若者にそれを提示することである。

 コンピュータが発達し、それが日常生活の中に取り入れられ、また数学や科学理論が存在するとしても、若者たちに基本的な価値観を伝えていかなければ、彼らが立派な人間になることを期待することは到底出来ない。現在の教育システムは、世界を危機の中に押しやっており、それを真摯に再検討する必要がある。なぜなら、世界各国の教育は、技術教育を標準としてなされており、価値観教育がないがしろされているからである。

 それに加えて、さらに言及すれば、体育やスポーツ分野も見落としてはいけない。我々は「健康な身体に健全な精神が宿る」ということを知りながらも、実際のところ体育やスポーツを一つのバッジのようにしか考えていない。若者の教育を完全なものにするために、体育やスポーツがきちんとした役割を果たせていないのではないか。今こそ我々は青少年の明るい未来を拓くためにも、健全な精神と健康な身体を備えられるような基本的価値観をもう一度定立させる必要がある。一般に、社会活動や人間関係のあり方は、団体競技を通じて学ぶことができ、体を通して学んでいくものである。その意味で体育分野も重要だと強調せざるを得ない。

(3)メディアの役割
 また一方で、現代社会に大きな影響を与えているテレビ、新聞、ラジオなどメディアについて、我々はこれまであまりにも野放しにしてきたと思う。一般に、人間は重要な価値観を大切に守り伝えていくこともできるが、それを破壊してなくしてしまうこともできる存在である。本当に教養のある立派な「ことば」があるにもかかわらず、それは不幸にもきわめて低俗な表現にさらされ続けているのが現実である。

 そのような現実を、我々はそれも一つの考え方だと受け止めてしまっていいものであろうか。消費享楽主義が我々の生き方の中に入り込み、女性の身体を商品化し、女性に対する尊敬心(清い思い)がなくなっても本当によいのであろうか。また、実績至上主義に走るあまり、人間関係を競争という観点からだけでとらえ、勝ち負けという評価だけの世界に転落してもよいのであろうか。

 テレビを見ると、あらゆる暴力と殺し合いが脚色されて映し出されている。それが若者たちの生き方の中にそのまま受け入れられ、反映されていることがわかる。今や我々は、マス・メディアを逆手にとって積極的に活用し、我々が必要と考えている自由という価値観を守っていかなければならない。我々にはその自由がある。そして、マス・メディアが提供するサービスを活用し、それを財政的にバックアップしている消費者としての立場ももっている。

3.政治家の責任

 この会議には、さまざまな国や団体の代表が参加しておられるが、特にNGO関係の方々は、上述した内容について重要な役割を果たしうる立場にあると思う。

 私は、このような伝統的価値を守っていく上で先頭に立っていると自負している国の、その代表としてここに参加している。それと同時に、政治的な一つのグループを代表した立場にも立っている。政治家たちも、既に述べてきたような重要な問題を見過ごすことなく、問題解決のための政策立案に積極的に取り組んでいただきたいと思う。

 我々は、それぞれの公的な責務を遂行するために国民から選ばれたものとして、たとえ時間がかかろうとも、我々の影響力を行使していけるよう努力すべきである。事実、現実的に見ても、我々が立てる教育の基本方針は、政治的権力の影響を免れることは出来ない。

 結婚問題を例に上げてみよう。離婚手続きを簡素化したという場合に、それはまさに政治家たちが国会において審議し、決定した法律の結果なのである。しかし、政治家といえども、一般国民によって選ばれた人たちである。それゆえ、我々政治家が、絶対に軽く考えてはいけない自分の義務とは何かと問うて見なければならない。それは国民・市民のために自分の生を奉仕するということであり、その目的のために選出されたということである。

 そのような観点から、私は皆様に重要な伝統的価値を真に守っていくことを望んでいるのかどうかを問いたい。喜んでそうしたいという意思があれば、政党内において民主的価値が守られていくよう、皆様の参与を願ってやまない。合法的な手段は、市民が行使した投票権を基盤として生まれてくる。それによって法律を承認することのできる権力が個々人に与えられるのであり、現段階ではそれに代わる方法はないと思う。人間関係について考えてみれば、そのような方法は今この会議を通して討議している伝統的価値を各自が守っていくことのできる重要な手段となるのである。

 以上で、我々の伝統的価値をどのように守っていくのかについての私なりの考えの一端を披瀝した。このような会議を契機として考えることは、我々がもし家庭、学校、マス・メディア、NGO、政党活動、表決権の行使などを通して、既に述べてきたようなことを行動に移すことがきて初めて、なくてはならない重要な価値を守っていく上で必要なことを、我々はなしたといえるであろう。

 私はこのような新たな覚醒とともに、一人の人間としてなし得ることのできる一つである、市民としての生き方と奉仕について、皆様に関心を促しながら、お話を終えることが出来たことを感謝するものである。