世界文明の基本要素である家庭

インドネシヤ国連大使 / 国連経済社会理事会議長 マカリム・ウィビソノ

 

1.マルコ・ポーロに見る文明間の対話

 今国際会議は、世界平和のための文明間の対話の重要性と、その実現のために家庭と普遍的価値はどのような役割を果たすことが可能かについて検討する機会を与えてくれた。

 まず、タタル人とその他アジア民族と接触したマルコ・ポーロが、当時ヨーロッパ人にどのように影響を与え、他文明との交流と対話を促進させたのかについて振り返りながら、発表を進めていきたい。

 1254年イタリアに生まれたマルコ・ポーロ(注1)は、アジアに属する多様な文明と直接接触した最初のヨーロッパ人の一人であった。その彼の記録の中でも最も重要なものの一つが、当時中国(元)の支配者であった皇帝フビライ・ハンとの出会いであり、皇帝の下にあって仕えたという事実である。これは彼個人の次元のできごとではあったが、彼によって中国に伝えられたキリスト教文明と、王(皇帝)として代表される東アジア文明間において、互いに違った観点を発見しあう結果を生むことになった。

 文明とは、人間の歴史そのものであるといえる。ある文明は押し寄せてくる時代の潮流に押し流され藻屑となって消えていく反面、そのまま温存していく文明もある。一方、マルコ・ポーロの時代のキリスト教と中国文明間の交流、16〜17世紀にかけてキリスト教とシャム(タイ)、バンタム王国(ジャワ島西部、イスラム教)との友好的な相互交流のように、相互の価値を互いに尊重し合う中でなされた文明間の接触は、平和的な超文明的関係を導き出してきた。しかし自分自身の価値観や生き方を他人にも強要した強制的な接触は、植民地時代のヨーロッパとアジア、アフリカ、南米大陸との間においておきた事実を見ても明らかなように、深刻な副作用をもたらしたのであった。

2. 文明の「衝突」と「調和」

(1)「文明の衝突」
 今日、文明間の対話は、国際的平和と安定を維持するにおいて、なくてはならない要素となっている。これは、かの有名なハーバード大学のサミュエル・ハンチントン教授によって提示された「文明の衝突」論と正面から対置される概念である。ハンチントンの立場は、文明間に発生する可能性のある未来の衝突と葛藤は、特に西洋とその他の世界との対置構造においては避けがたく、危険で、かつ均衡の維持は難しいというものである。

 事実、文明間の対話か衝突かについては、二つの意見があり、我々はその間に立って苦悩と論争を展開している。我々は世界を統制することの出来ない混沌と衝突に向かって進んでいるのか、あるいは人類全体の共通利益のために平和で調和のある世界に向かって行こうとしているのか。その選択のカギは、我々の手にかかっている。

(2)国連「文明間の対話年」
 我々が昨年2000年9月に、国連ミレニアム総会において世界指導者ミレニアム宣言を採択したことは、きわめて喜ばしいことと思う。その宣言文は、「平和文化」の建設と文明間の対話を促進するための厳粛な誓いを明らかにしたものである。そして同年11月13日、「文明間の対話年」に対する決議案を採択することによって、より強力な推進力を得ることになった。

 その決議案によれば、各国政府はその国のあらゆる構成員に対して文明間の対話の場に参与するように呼び掛け、彼らに対して国連の制定した文明間の対話年の趣旨に沿って貢献できる機会を設けることとなっている。政府組織と国連組織を始め、その他国際的な非政府組織(NGO)などすべてが、セミナー、国際会議、情報交換などの多様な手段を動員して文明間の対話を促進させるとの共通の見解の下に、文化、教育、社会全般にわたる各種プログラムを計画し、組織することを持続的に強化するようにしている。またこの決議案は、より具体的内容を論議するために、第56回総会に合わせ、2001年12月3〜4日に全体会議を開催することを含んだ内容になっている。

(3)文明を超えた対話の必要性
 私自身の見解としては、文明の中における対話よりは、文明を超えた対話がむしろ重要だと考えている。歴史は、破壊的な葛藤と衝突を記録している。中世時代を風靡したキリスト教文明と預言者モハメッド死後以降展開されたイスラム文明の衝突は、人類歴史に不幸な記憶を残している。また、科学的実証主義と合理主義に代表される後期キリスト教文明、あるいは世俗的啓蒙主義の思潮は、やはりそのような内的葛藤を避けることができなかった。

 文明は、文明相互間において互いに作用しあいながら、次第にその文明自体が下位文明を発展させて、多様性と豊かさを内包しながら発展してきた。そのような下位文明は、いつも全体と調和していたとは限らない。それらは他との軋轢を生む可能性を内包しつつ、互いに調和できない結果を生み出してきたこともあった。

 例を挙げてみれば、イスラム教の初期において政治的指向をもっていたムアーウィヤ派とアリー派との論争(7世紀)は、次第に神学的・形而上学的な対立へと流れていった。ヨーロッパの歴史においても、それぞれの伝統と文明間に生み出されたすさまじい衝突の内容が存在している。1556〜1598年に起きたスペイン王国(カトリック)とネーデルランドのカルビン主義者との戦争(オランダの独立)、サン・バルテルミの虐殺事件(1572)を引き起こしたフランスの宗教戦争(ユグノー戦争、1562〜1598)、ドイツにおける三十年戦争(1618〜1648)などは、みなその例である。

3.「対話」こそ問題解決の道

 多様な文化、伝統、文明によって特徴付けられたこの世界に、永遠なる平和を根づかそうとすれば、あらゆる国家は国内のみならず、他の国との間において必ずや対話の道が開かれていなければならないだろう。互いの相違点を平和裏に調和させて行くことができ、更には我々を悩ませてきた問題に対して根本的解決策を模索することのできる唯一の道は、ただ対話を通してのみ実現可能なのである。私は対話こそが、現在人類においてしかも今までにもまして最も急を要する要素であると考えている。そして国家間の相互依存を通して、市場競争と価値概念・社会の統合がなされているグローバル化時代において何よりも重要なことは、政府と市民社会、国際機構、そしてあらゆる民間部門にわたったパートナーシップ関係を強化させていくことである。

 文明の根本について考えてみれば、家庭と家庭を基礎とした価値観、そして普遍的価値は国連憲章と国連ミレニアム宣言にも明示されており、いかなる文明や伝統の中にも見出すことができる。それゆえ、それらが世界文明の根本要素であることに疑いをはさむ余地はない。平和の価値観が芽を出し育って行く土台として、家庭が持つ重要性は、国連が1994年を「家庭の年」と宣言して以来一貫して強調されてきた。

 そして第53回国連総会において採択された「平和文化宣言」は、平和文化を築いて行くための核心要因の一つとして、家庭と父母の重要さを付け加えている。今後すべての国家・政府に向けてなされていかなければならない当面の課題は、まさにどのようにすれば平和という尊い価値を強調することのできる適切な家族政策を樹立し、実行して行くことが出来るかと言うことである。

 以上で、私の話は終わるが、最後にドイツの作家トマス・マンの智慧が込められた言葉を引用したい。すなわち、「対話とは文明それ自体であり、最も矛盾した言葉でもあるが、互いの接触を可能にしてくれるものである。しかし、沈黙は孤立をもたらすだけである」。

注1 Marco Polo(1254-1324)
 イタリア・ベネチア出身。1271年、父・叔父とともに中央アジアを経由して、元の大都を訪れ、フビライ・ハンに仕えた。中国には17年間滞在し、1295年海路で帰国。帰国後は戦乱に巻き込まれ、不遇な身の上となったが、獄中で口述した『世界の記述』(東方見聞録)は中央アジア・中国に関する詳細な記録であり、当時のアジアについての貴重な記事を多く含んでいる。