大学教育の課題と展望
授業評価の問題を中心として

東海大学理学部教授 安岡 高志

 

1.大学を取り巻く現況

 授業評価の本題に入る前に、日本の大学を取り巻く現況について紹介する。
18歳人口は1992年には約205万人だったが、現在約150万人程度まで減少しており、ここ3年ほど同水準で停滞している。しかし、決して受験生の減少が止まった訳ではなく、ここ7〜8年のうちに、あと20%は減少する。

 次に、18歳人口の減少に伴う偏差値の変化を見てみる。例えば1992年に偏差値50のレベルの大学について見てみると、このとき18歳人口は約200万人で、そのうち40%が高等教育に進むとすれば約80万人が入学する。そのうち、偏差値50以上の入学者総数は、半数の約40万人である。

 現在、進学率は若干上がっているものの、1992年当時の18歳人口の四分の一がいなくなっており、その結果、偏差値50以上の入学者も四分の一に相当する約10万人が不足している。その不足分を補うため、入学者の偏差値は50から46に下がり、上位66%を入学させなければならなくなる。18歳人口が今後さらに20%減少すれば、2008年から2010年頃には偏差値を40まで下げ、上位83%を入学させなければならない事態となる。

 ただし、以上は18歳人口の減少以外の要因を考慮しない場合の予測である。これに入学者確保に不利な地理的条件等の要因を加えれば、さらに偏差値の低下は加速する大学があると考えられる。

 2000年度は、四年制大学の30%弱、短期大学の約60%が定員割れとなった。2001年度には13校の四年制大学が新たに定員割れとなった。受験者の減少した大学は、定員割れ覚悟で一定の偏差値で受験者を切らなければ偏差値が大きく下がる。そうなると、受験者が名前さえ書けば合格する、いわゆる「Fランク」の大学となるわけである。学部・学科数の多い大学はしばらく一定の基準を保てるかもしれないが、それも数年以内に難しくなるだろう。

 以上は日本の私立大学の置かれた状況であるが、少し世界に目を向けてみたい。スイス・ローザンヌにあるIMDというビジネス・スクールが、毎年世界各国の競争力を比較している。その中に「大学教育は国際経済競争に対応しているか」という項目があるが、日本は47カ国中47位である(表1)。日本は国際経済競争に対応した教育力が極端に欠けていると評価されている。評価の仕方にも問題があるかもしれないが、日本の大学は教育に関して世界で最下位の位置にいるのである。何故そのようになってしまったのだろうか。今後の大学改革に大切な視点である。

2.教育改善に向けた東海大学の取り組み

(1)必要単位数についての考え方
 ここで、東海大学の取り組みについて紹介する。東海大学では1993年、卒業に必要な単位数を124単位とした。大学設置基準ではもともと124単位と定められているので、それに必要単位を上乗せしないことを決めたのである。

 ところで、大学設置基準は、「一単位の授業内容を45時間の学修を必要とする内容をもって構成することを標準とする」と定めている。1単位45時間ということは、124単位で5580時間の学修が必要となる。これを4年間の春・秋学期、さらにそれぞれの学期を15週間で割ると、学生は1日7.75時間学修しなければ卒業できない計算である。従って124単位以上を課している大学はもともと無理な要求をしているのであり、「単位の安売り」をしているとも言える。それをやめようというのが東海大学の決定である。

 学位授与機構の舘昭教授は「1単位」の意味について、学生が1日8時間労働をするのと同じだと指摘している。つまり、1週間のうち5日間は8時間労働し、さらに土曜日も半日働いて合計45時間の労働である。学生がそれと同じ時間だけ学修したときに、1単位が与えられるのである。これが単位制の本来の考え方だという。従って、1年間で30単位、4年間で120単位しか取れない。

(2)シラバスの導入とその効果
 東海大学ではこの単位の上限を決定した際、シラバス(授業計画)も導入した。教員の中には「シラバスは学生が読まないので、意味がない」と訴える者もいた。しかし、「学生は読まなくてよいものは読まないのである。ゆえに、学生が読まなくてはならないシラバスが必要である」との考え方に立って導入を進めた。

 大学設置基準は、1単位45時間の学修のうち、「(教室で行う)講義及び演習については、15時間から30時間までの範囲で、大学が授業時間を決めることができる」と謳っている。ところが、ほとんどの大学が教室での講義は45時間のうち15時間しか行っていない。つまり、残りの30時間は学生が教室外で自学自習をすることが前提となっているのである。

 学生にこの30時間の自学自習をさせるのが、シラバスの目的である。1単位につき45時間勉強させるという目的がなければ、シラバスを導入しても何の意味もない。ただ単に「何月何日に何の講義がある」と書いてあっても、学生がそれを読む必然性はない。教室へ行けば講義が行なわれているのである。予習をしなければ講義が理解できないとか、ディスカッションに参加できないという状況になって初めて、彼らは予習をするのである。日本の教員は、学生が予習をして来なくても、その場で理解できる授業が良い授業だと考える傾向があるが、それは間違いである。

 シラバスにはもう一つの意味がある。それは、教員が我が身を守るための学生との「契約書」という側面である。

 日本の大学における学生の成績は、社会からあまり信用されていない。学生は自分の成績がAであろうがBであろうが、それ程こだわっていない。ところで、最近日本でも「GPA(grade point average)制度」が導入されつつある。GPAは成績の平均点を表すものである。ただし普通の平均点と異なるのは、たとえばGPAが一定点数以上であればある企業に就職を推薦したり、奨学金や海外留学を推薦したりする点である。すなわち、何ポイントとれば何ができるかが明確に示されているのが、この制度の特徴である。しかし、日本のように、その使い道が明確でなければ、GPA制度を導入しても機能しない。

 米国の学生たちは、GPA制度があるために成績についてかなりシビアに考えている。たとえば教員がいい加減な成績をつけた場合には、「私があれほど授業中に発言してクラスをまとめているのに、成績がCとはどういうことですか」などと苦情を言う。そのとき教員が我が身を守るための契約書がシラバスである。教員は「シラバスには、成績のつけ方について授業態度20%、提出物20%、定期試験の成績60%と書いてある。君が主張する授業中の発言は20%だが、定期試験の成績が良くない」と言えば学生も引き下がらざるを得ない。日本では今のところあまり問題はないが、日本の教員が海外で授業をする際に最も苦労するのが、学生の苦情への対処であろう。

(3)セメスター制の役割
 東海大学では1997年から「セメスター制」を導入した。セメスター制は「学期完結型」と呼ばれ、たとえば、これまで週1回の講義を1年間行って4単位としていたものを、週2回講義を行うことによって春または秋学期だけで4単位を修了する制度である。セメスター制は週2回で4単位とするのが基本である。ところが、従来の週1回で通年の講義を春学期と秋学期とに分けて各2単位としている大学もある。これを「似非セメスター制」と呼ぶ人もいる。

 もともとセメスター制の利点は「集中の効果」にあるという。たとえば学生が10科目の授業を毎週並行して聴いていたとする。これが週2回の講義だと5科目になるため、じっくり考えることができ、10科目に比べて必要な参考書を探す時間が節約され、その結果1冊の参考書をより深く読むことが可能になる。

 もう一つは、特に語学の場合の「集中の効果」である。たとえば日本では、中学校から大学まで英語を学んでも満足に話せる人は少ない。それはだらだらと学んでいるからであり、集中して英語漬けにすれば効果が上がるという理屈である。本当に効果があるだろうか私は疑問に思っている。確かに、大学教員の立場で考えれば、週1回の授業が週2回になれば負担は倍に増える。ましてや非常勤講師の場合は週2回になると物理的に教えることができなくなり、生活も変わるほどの大問題である。ところが、学生にしてみれば高校までは週5回だった英語の授業が、大学で週1回から週2回に増えたところで、何ら関係ないと私は見ている。

 セメスター制は本来、月・木、火・金、水・土など、中二日間を空けて時間割を組むのが基本である。中2日開けてあるのは、学生に1単位45時間のうち、30時間の教室外での学修をさせるためである。この目的が無ければ、セメスター制度も意味は無い。

 結論として、いま日本の大学で行われている卒業単位124、シラバスの導入、セメスター制の導入などの改革はすべて、単位制を正しく機能させるために行われていると言える。これらの改革は単位制、すなわち「学生に1単位につき45時間学修させる」という目的がなければ、いくら導入しても意味がないに等しい。残念ながら、実際にはこの点をほとんど理解しないで改革が進められているのが現状である。

 先に日本の大学の教育力が最下位であることを指摘したが、この原因は単位制度が機能していないためである。すなわち、学生に1単位当たり、45時間の学修をさせてないからである。

 東海大学では、「問題発見・解決型の人材の育成」を教育目標のひとつとしている。文科省の審議会答申でも「課題探求能力の育成」を目標として掲げており、ほぼ同じ内容である。ただし東海大学では、それを達成するのために「単位の充実を図ることにより学生の学習意欲や自己学習能力を育成する」ことを授業の目標としている。すなわち、教室の外で30時間学修する学生を育成すれば、かなりの割合で学生の問題発見・解決能力が高められるだろうと考えている。従って、東海大学では1単位につき45時間学修させることをすべての授業の目標としている。

(4)組織的教育体制の構築
 大学全体も一つの組織であるが、意思の疎通が十分に行える組織規模を考えた場合に、「学科」の規模が適当である。そこで学科を基本単位として、それぞれに学生の教育に関する計画書の提出を求める。1年後にはその計画書に基づいた報告書の提出を求める。

 計画の内容としては、まず単位取得の敷居値低下の防止を目指す。これはある一定以上の成績をとらなければ単位を与えないという意味だが、ただ敷居値を高くするだけではほとんどの学生が単位を取得できなくなってしまう。従って、その学科の少なくとも70〜80%の学生が敷居を越えられるような勉強方法も合わせて構築するよう求めている。勉強方法の構築には学生の動機付けやシラバスの充実、「楽勝科目」の撤廃などさまざまな手段が考えられる。各学科はそれらの計画を実行し、その上で1年後に報告書を提出する。大学側はそれを評価する。

 組織的教育を評価する視点としては、@第三者が見て、何をやっているかがよく分かるかどうか、A第三者が見て、目標達成に意味があると思われるかどうか、B第三者から見て、評価基準に説得力があるかどうか、C評価結果を見て、改善した方がよいことがあれば提案する、などである。この計画書、報告書、評価結果は学内のウェブに掲載されており、大学の教職員や学生なら誰でも閲覧することができる。

 さまざまな統計はすべて大学に報告され、教育が成果を上げていることをアピールするために用いられる。組織内で行う自己点検・自己評価は、その組織を改善するための材料である。しかし、それを他者に提出する場合は、それが自らの組織をアピールするための道具となる。自分の手元にある場合と、手元から離れた場合では、全く意味合いが異なるのである。第三者機関の評価を受ける場合など、嘘を書いてはならないが、これらの材料を駆使して最大限自らの組織をアピールするために用いる。それが自己点検・自己評価の基本である。

3.授業評価

(1)授業評価とは
 次に学生による授業評価について述べる。授業評価と言えば、ほとんどの教員が直ちに「(自分が)評価される」という印象を持つが、必ずしもそうではない。たとえば、ある教員が「自分は素晴らしい授業をしている」と言っても、私はその言葉を信用しない。しかし、その教員がシラバスと授業評価の結果をもって「このようなシラバスに基づいて授業を行った結果、学生はこのように評価した」と言えば、納得せざるを得ない。従って、学生による授業評価は、教員が評価を受けるためのものではなく、逆に自分が良い授業を行っていることを証明するための道具だと考えれば良い。外国人の教員を募集すると、彼らは履歴書に加えて学生による授業評価の結果も添付する。自分の授業が優れていることを示すためにそうするのである。

 表2は、教育業績評価の対象は何にすべきかについて、大学教育学会の会員を対象に行ったアンケート調査の結果である。中でも最も多かったのが、学生による授業評価で76.8%だった。また、米国では学生による授業評価の結果が教員の教育業績評価において最重要資料となっているが、「学生による授業評価に勝る評価資料があると思うか」と尋ねたところ、「ない」と答えたのは41.7%、「ある」と答えたのは34.1%だった。面白いことに、「ある」という回答の中で具体例を上げるよう求めたところ、「今は思いつかないが必ずあるはずだ」と書いた教員が多かったことである。悔しさの表れだろうか。

 また、具体例としては「同僚による評価」が圧倒的に多く、「上司による評価」も多かった。私が東海大学で学生による授業評価をやるべきか問うてみると、学生による授業評価は信頼できないから同僚評価にすべきだという意見が多かった。しかし、いざ具体的に実施しようとすると、「同僚評価」はやりたくないものの筆頭なのである。従って、学生による授業評価は教育評価の項目として用いざるを得なくなると考えている。

 私の所属する理学部化学科では、各科目の評価を学生による授業評価の結果に基づいて行っている。そして評価の平均値が3以下(5点満点)の教員に対しては、大学セミナーハウスの研修会に参加するなど授業を改善するよう指導している。平均値の望ましい領域は3.5以上と想定している。一般的に5点満点なら「3」が「普通」で「4」が「大体良い」に相当するが、「3」と「4」のどちらかに採点させた場合、半数の学生が「大体良い」と評価すれば3.5となる。従って、半数以上の学生が「大体良い」と評価することが望ましいと判断している。さらに、平均値に基づく「プラス評価点」を設定し、それが合計7点であれば論文一本分に相当するなどの評価案も大学に提出している。

(2)授業評価の信頼性
 学生による授業評価の性質について述べたい。今から18年前、東海大学で学生による授業評価を始めた。今では多くの大学が授業評価を実施したり、導入を検討したりしているが、当時はほとんど例がなかった。図(略)は授業評価を始めて2年目のデータである。このデータから、学生が小項目について評価した上で総合評価を行っていることが分かった。それで私は授業評価が信頼に値すると感じ、大学全体に広めたいと考えた。ところが、他の教員たちはなかなか納得しなかったのである。

 先日神戸のある大学へ行ったとき、学長が「教員が授業評価の導入に反対している。彼らがこれまで培ってきた教養や知識は、授業評価に反対するために準備されていたと思えるほどだ」と言っていた。東海大学でも当時は同じ状況であり、「私の授業に、10点法で1点や2点をつける学生がいる」と怒る教員もいた。

 図1は授業評価を始めて5年目のデータである。当時もっとも評価の高かった教員が、10点法で8.6、もっとも低かった教員が5.7だった。図はその間を0.5ポイントごとに拾って分布を調べたものである。これを見ると、総合評価が高いほど山が右寄りになっている。逆に総合評価が低いほど山は左寄りに移動し、1点、2点、3点などをつける学生が多いことが分かる。仮に1〜3点をつけた学生がふざけて評価していたとする。ところが平均点が高い教員には1〜3点をつけていない。従って、この学生が不真面目であったとしても、総合評価5.7の授業に対しては「ふざけて評価しても良い授業」、8.6の授業に対しては「ふざけて評価してはいけない授業」と感じていたのだろう。私は実際にこの両方の教員を知っているが、学生の評価は正しいという印象を受けた。

 以上の授業評価は東海大学教育研究所が実施していたものであるが、1993年には大学全体で導入した。その後1996年に、大学が学生に対し授業評価で真面目に点数をつけているかどうかを調査した。その結果、「まあ真面目につけている」「非常に真面目につけている」を加えると、89%にであった。私はこれで十分であると思っているが、残り10%の学生が真面目につけていなければ、授業評価は信頼すべきではないと主張する教員もいる。私は教員が学生の成績をつける場合と比べてどうかと問いたい。たとえば学則で60点以上がC、70点以上がB、80点以上がAと定められている場合、教員たちは果たしてその通りに成績をつけているだろうか。平均点が30点でもほぼ全員が単位を取得している科目があるとすれば、それはどういうことか。そのような例と比較すれば授業評価は十分信頼に値すると言いたい。しかしながら、理屈は通っていても、教員はそれだけで納得しない。結局、拘束力がないのである。

 図2はカリフォルニア大学バークレー校の例である。教員から見て「良い教員」(Best Teacher)・「悪い教員」(Worst Teacher)と、学生から見て「良い教員」・「悪い教員」の相関関係を示している。このデータは30年以上前のものだが、米国では当時から学生による授業評価の信頼性について議論が交わされていたのである。

 教員から見て「良い教員」だが、学生から見て「悪い教員」と評価されたのは、わずかに2名である。逆に、教員から見て「悪い教員」だが、学生から見て「良い教員」と評価されたのは8名と、若干多い。従って、学生の評価は我々が考える以上に甘いと言えるかもしれない。図3は教育研究所が調査した「他の教師との比較評価と総合評価の関係」のデータである。現在または過去に学んだ教員と比較して、評価対象の教員がどの位置にいるかを学生に尋ねたものである。学生が教員を総合評価する場合、他の教師と比較して順位をつけながら採点していることが分かる。

 ところで、図3を見ると、このときの授業評価には評価が3以上の教員が参加し、3以下の教員は全く参加してないことが分かる。FD(ファカルティ・ディベロップメント)の研修会などでもよく言われることだが、本来研修に参加しなくてもよい教員が参加し、参加すべき教員が参加しようとしない。この結果から、大学教員の良心やボランティア精神に期待しても授業は改善されないと私は思っている。

(3)授業評価のさまざまな結果
 図4は東海大学が1993年に授業評価を導入した後のデータである。これを見ると理学部、工学部の総合評価が低い傾向があることが分かる。これについて、茨城大学理学部化学科の臼井教授は、同学部の中では数式の多く出てくる授業ほど評価が低くなっていると指摘している。カリフォルニア大学バークレー校の調査でも、物理科学系教員の評価が低くなる傾向があることが分かっており、日本だけの傾向ではない。かといって、理学部や工学部の教員の評価が低くても良いという話ではない。これらの学部の中でも評価の高い教員は存在する。

 図5は教員の身分別評価の結果である。これを見ると、これからの大学経営は専任講師と非常勤講師だけで行うべきだとさえ思わされる。なお、非常勤講師の評価が専任の教員より高いのは、外国語担当の外国人講師が多いためである。外国語科目の中の専任と非常勤、専門基礎科目の中の専任と非常勤を比較すると、ほとんど差はなかった。問題は、どう見ても教授の評価が低い点である。

 図6は年齢別の評価である。30歳代は3.9だが、60歳台では3.6近くまで下がっている。0.3に有意の差があるかどうかが問題となるが、前述の例と同じように考える。30歳代(3.9)の場合、学生に「3」と「4」のどちらかを選ばせると90%が「4」をつけたことを意味する。60歳代(3.6)では、それが60%に減っているのである。これは有意の差だと言える。先日、日本工学教育協会と産業界が主催する産学連帯協議会で、大手予備校の研究所長が授業評価の解析結果を発表したが、予備校教師でも同じ傾向が見られた。

 私は、60歳代の大学教員の評価点が低いのは、大学に評価がないからだと思っていたが必ずしもそうではないかも知れない。なぜなら、予備校や塾は評価そのものの社会である。教師は1分当たりいくらの計算で報酬を得ており、AAランクからDランクに分けられ、ランクが高いほど多くの授業を受け持つことができる。実力と報酬が直結しているのである。にもかかわらず、大学教員と同じ評価の曲線を描いているのだから、別の要素が働いている可能性がある。いずれにせよ、年齢が高いほど評価が下がっているのは事実であり、その原因を探る必要がある。

 図7は、30歳代と60歳代の各評価項目の比較である。「話し方」、「板書の仕方」、「学生の授業参加」の三つが特に差が大きいことが分かる。学生にこの三つの項目の中で、総合評価に最も大きく影響を及ぼす項目はどれかを尋ねたところ、「話し方」が最も大きく、次いで「板書の仕方」「授業参加」の順であった。また年齢差の大きい項目の順位を尋ねたところ、やはり同様で「話し方」が一番、次いで「板書の仕方」「授業参加」の順であった。

(4)評価後の改善策
 総合評価に及ぼす影響も年齢差も共に「話し方」が最も大きいことから、授業評価が低い場合はまず「話し方」をチェックする必要があるという結論になる。米国の例では、授業改善の方法として、たとえば話し方が単調な教員が教会へ行って聖書を読むとき、授業を思い浮かべながら抑揚をつける練習をする。あるいは演劇のクラスに参加して訓練をする方法などがある(『授業をどうする!』に紹介)。平たく言えば、教員が授業の予習を十分にするということである。一生懸命やってもやらなくても給料が変わらなければ、おろそかになり、よい講義をおこなえば給料が増えるのであれば、予習も真剣になる。

 次に、上述の三項目に関連して、年齢が高くなるにしたがって見られる傾向について学生に聞いた。話し方については、理解できない言葉を多く使用する傾向がある(27%)、話し方が単調になる傾向がある(23%)、同じことの繰り返しが多くなる傾向がある(19%)などと答えている。板書については、書く量が少なすぎる傾向がある(35%)、まとまりのない書き方をする傾向がある(18%)、早く消す傾向がある(16%)などである。

 今の学生は、高校の先生が黒板に書いてくれたものをそのまま写し、自宅に帰ってそれを読んだときに良く分かる板書でなければならない。聞きながら書く訓練ができていないのである。だから、「今の学生は聞いてまとめることができない」と言っていても仕方ない。教員が1年生に対しては丁寧に板書をするとか、特に重要な科目についてはさらに丁寧に書くなどして、組織で学生を訓練しなくてはならない。

 学生たちは、教員の年齢が高くなるにつれて、授業は知識の伝達手段である傾向がある(24%)、学生に興味を示さなく傾向がある(17%)、質問しにくい雰囲気が強くなる傾向にある(17%)と回答している。教員の中には、授業が終わって「何か質問はありませんか」と口に出しながら、目は「質問するな」と言っている者もいる。あるいは「質問はありませんか」と言いながら、足はすでにドアの方へ向いている。『授業をどうする!』には、授業が終わったら使用した教材をゆっくり揃えてみたり、わざと何か落としてみたりして、学生が質問に来やすい雰囲気と時間をつくるよう提案している。くだらないようだが、大切なことである。

 表3は、授業において若い教員と年齢の高い教員が最も異なる点である。授業の始まる時間が、年齢が高くなるにつれて遅くなるという回答があるが、東海大学が授業評価を導入して目立って変化したのが、授業時間のベルがなると同時に教員たちが授業に行くようになった点である。以前は10分たっても残っている教員が多かったが、現在は1分たつとほとんど誰もいない。シラバス通りに授業を行ったかどうかを授業評価で問われるからである。

 表4は、授業以外において若い教員と年齢の高い教員が最も異なる点である。年齢の高い教員は、生徒を授業の中だけであしらい、道であっても話しかけてくれないという指摘がある。

 前述のように、外国人教員は評価が高い。東海大学にも20人ほどのネイティブの教員がおり、彼らの評価の平均は4.2と驚異的である。なぜかと思い調べてみてみたところ、学生の回答で授業中以外で最も目立ったのが「道で会ったら必ず話しかけてくれる」という答えであった。外国人は他人を名前で呼び、日本人は名前で呼ばないという習慣の違いもあるが、日本人の教員は学生の名前と顔が一致しないことが多い。

(5)米国の実例
 カリフォルニア大学バークレー校の教育研究所が出版した「ABCs of Teaching with Excellence」という本がある。同校では学生の投票によって毎年優秀な教員が選ばれるが、その優秀な教員達に授業方法についてインタビューし、まとめたのがこの本である。同研究所はこの本を全教員が読めば、大学全体の教育力が飛躍的に伸びるに違いないと考え、全員に配布した。

 ところが、その後アンケートを実施して調べてみると、その本を読んだのは全教員の5%に過ぎないことが分かった。そこで同研究所は、ある工夫をした。授業評価が実施されると、教員一人一人の評価の高かった上位3項目には「○」、評価の低かった下位4項目には「□」をつけた。そして「□」のついた項目に関する授業改善方法を記した箇所をその本から抜粋し、評価結果に添付して返却したのである。その結果、その資料を読んだ教員の割合は5%から80%に増えたという。なお、同書を我々が翻訳・出版したものが、『授業をどうする!』(東海大学出版会)である。

 ここで同書から印象に残った部分を2箇所上げておきたい。まず、2回講義ノートを書くという歴史学教授の例である。

 「最初に私は週末をかけて、あるいは講義の前の晩に、非常に詳しい講義ノートを書き上げます。それから講義のある日の朝、1時間半ほどかけて、この講義ノートをインデックス・カード数枚に収まる量に概略化するのです。

 学生たちは構成のしっかりした講義を好みます。しかし彼らは、ノートに書いてあることを一字一句違えずしゃべるような、まったく型通りの講義が好きなわけではありません。講義で話したいことはもうすっかり練り上げてあるのですから、数枚のインデックス・カードを使って、それをより効果的に、かつ形式張らずに伝えることができるのです。」

 私はこんな教員がいることに驚いて、私の学科の熊本教授にこの話をしたところ、「私は2回は書かないが、30年間全ての講義を毎年書き直している」と言っておられた。この先生は、東海大学の1600人の専任・非常勤教員の中で常に上位5人に入っていた。努力をしたからといって報われる保証はないが、やはり努力している先生はいると感心したものである。
次に、初めての事柄を学ぶ学生たちの立場を理解しようと努める自然科学の教授の例である。

 「私にとって、コースを初めて受け持ったときのほうが、2度目のときよりもうまく教えることができました。自分でなぜなのか考えてみると、初めてコースを受け持って準備をしたときには、学生達に十分に説明できるよう講義資料のある部分をマスターするために、懸命に勉強しなければならなかったことに気付きました。ところが、次の回になると、これらの概念は私にとってはすでにやさしいものとなっていました。残念なことに、この新しい概念が学生達にとっては相変わらず難しいものだということを私は忘れてしまっていました。現在では、私は講義ノートを色分けし、学生達が難しく感じるだろうと思われる部分を検索しておいて、ポイントは特に詳しく説明するようにしています。」

 長く教員をしていると新しい概念を理解することがどんなに困難なことであるかを忘れてしまいがちだ。この点は特に注意したいものである。

4.今後の展望

 東海大学では2000年度から授業評価の項目を若干変更し、「この授業で次の項目が達成されたと思うか」という質問を加えた。その結果が表5である。総合評価との相関を見ると0.7前後であるから、総合評価の高い授業であっても、達成感のある授業とない授業があることが分かる。従って、授業を評価するためには総合評価だけでなく、達成感も重要である。学生につけた付加価値を測ることはできないので、せめて達成感の項目を加えるべきだというのが私の主張である。

 東海大学では10年間にわたり、教員が自己反省・自己点検する材料として授業評価を実施してきた。1993年に導入した時点で3.6だった平均値が1999年には3.9まで上がっており、一定の効果があったと言える。この評価結果を教育研究費に反映させることができれば、さらに効果が増すと考えられる。しかしながら、研究費が獲得できる教員は僅かであり、インセンティブを与えることができるのは一部に限られる。そこで、評価結果を公開してレッテル効果を期待すれば、より全体的に教育力が増すはずである。結果が公開されればより具体的なディスカッションができ、逆に非公開のままでは雲を掴むような話に終始する。

 さらに、その結果を教員の昇格・昇進などの待遇に反映させれば、さらに効果が上がる。また、教授になればもはや昇格・昇進に関係がないことを考えれば、最後は給料にまで反映させて日々の生活に結果が跳ね返るようにすべきであろう。

 東海大学では、2000年度から授業評価の結果を学内のウェブ上で公開している。学内のコンピューターからであれば、誰でもアクセスできるようになっている。そして現在、教育業績評価、研究業績評価、学内外活動評価の三本柱で教員評価を行い、その結果を昇格・昇進などに活用するため、各学部がその案を検討しているところである。

 最初にIMDの国際競争力ランキングで、日本が47カ国・地域中47位だと述べた。今のところ、授業を一生懸命やってもやらなくても大学教員を取り巻く環境が変化することはない。少なくとも昇格・昇進に反映させなければ、教員評価が給料に反映している諸外国にやがて負けてしまうに違いない。

 今から十数年前にミシガン大学で調査を行ったが、当時、同大の昇給率は平均7%、最大の教員が15%、最小の教員が0%だった。教員評価が反映された結果である。またカナダの大学で客員教授をしていたある教員によると、その大学の教員の昇給率はプラス・マイナス7%だという。日本はそのような国々と競争しなければならないのである。世界レベルの競争にさらされながら単位の充実に取り組むことで、初めて日本の大学は世界レベルの教育力に到達できるのではないだろうか。
(2002年2月23日発表)