幼児期から青年期に至る道徳教育の課題

札幌国際大学短期大学部教授 平野 良明

 

1.はじめに:自己実現としての教育

 私は、「自己実現」についてある種のこだわりをもっている。それは教育の最大の目的が自己実現にあると考えているからである。それを噛み砕いて分かりやすく表現すれば、人生流されるままに高校に通い、大学に進学し、卒業して就職するといった生き方をするのではなく、自らの人生の目標に向かって生きようとする生き方である。すなわち、子どもに希望をもたせる意欲を育てることが何より大切なことだということである。人はこの世に生を受け、幼児期、小中学校、高校などの時期を経て成長していくが、子どもの時期に夢をどうやって引き出してやるかが大切なことである。小さい子どもは現実離れをした夢を語るかもしれない。しかしその後中学、高校と成長するにつれて子どもたちは現実を理解しながら、なりたい自分が見えてくるようになる。このなりたい自分になっていくことが、「自己実現」であり、教育が果たしていく最大の目的がそこにあると私は考えている。遠い将来のみならず、1年後、2年後にこんな自分になりたいと考える。それは老若男女を問わず、人間は死ぬまで自己実現を目指す存在だからである。

 以前、ある高校教師が小児科医と結婚して学校を退職した。その後の生活の中で彼女は、小児科にかかり長期入院する子どもたちが、幼児教育を受けられないことに気づいた。そこで自分にできることは一体何かと考えた。「これからでも、幼稚園、保育園の保育士の免許を取って子どもたちを教育することだ」と考えて、彼女は50歳にして、再び短大に入ることになった。彼女の自己実現への道はそこから新たに動き始めた。2年間、20歳前後の若い学生と一緒に体育の授業もこなしていく。そして保育士の資格を取って新しい人生を歩み始めたのである。このように我々は、死ぬまでなりたい自分を考えながら自己実現を図って生きていく存在でありたいと思う。

 大学生に対しても、なりたい自分を見つけさせられるような授業をしているか。私の指導する幼児教育学科の学生たちは、大半が幼稚園の教諭になりたいという願望を持っている。彼らは高校時代までにそのような自己実現の方向性を既に持っていたはずだ。一方、私は4年制大学でも授業を持っているが、そちらの学生の中には、自分の将来なりたいものがはっきりしない者も少なくない。そこで彼らと一緒に考える、あるいは彼らに自己実現を考えるヒントを与えることのできる授業をしていきたいと考えている。

 幼稚園から、高校まで、特に小さなうちから日々の生活の中で夢がもて、人生を肯定的にとらえることができ、意欲的に日々の生活をすることのできる子どもをどう育てることができるか。それが私の教育を考える上での出発点であった。それが即ち自己実現である。この問題はいまだに私の中では課題のまま、日々の教育活動の原動力となっている。

2.戦後民主主義社会の課題 

(1)団塊の世代の受けた教育の問題点
 団塊の世代が受けた教育は、「知育」が中心であり、加えて「思いやり」と「優しさ」と「協調性」の教育であった。学歴社会が「知育」を求め、戦後民主主義が「思いやり」と「優しさ」と「協調性」を求めたのである。我々は「思いやり」に反するとたしなめられ、「優しさ」を忘れるとしかられ、「協調性」を乱すと強く注意を受けて育った。そしてその教育は、今日にも引き継がれた。にもかかわらず、いじめが大きな教育問題となり、それが原因で自殺までする子どもが後をたたなくなったのである。ここに教育的課題は次の四点に見出される。

@ 団塊の世代が先人の知恵を引き継げず、子どもへ伝達すべき「善さ(しつけ)」の内容と方法をもち得なかったこと。

A 偏差値至上主義という大きな価値が、子どもから遊びの時間、必要な無駄な時間をなくしてしまったこと。

B 社会の進展によって子どもたちの集う場がなくなってしまったこと。
 AとBは、結果として子どもたちが育ちあう貴重な経験を奪うこととなった。

C 団塊の世代が、「善さ」と考え、子どもに教え込もうとした「思いやり」「優しさ」「協調性」という一見、民主主義的と思える価値だけでは、子どもに「人間としての総合力」を与えられなかったこと。

 教育はこのことを反省しなければいけないことに気づいた。
私が小学校の頃には、クラス目標というものがあった。その中には、「おもいやり」「やさしさ」「協調性」などがあった。我々が教師になったころも、クラス目標、あるいは学校目標の中にこれらのテーマが謳われることがあった。これに対して、教師の立場から管理的にそのような徳目を押し付けたり、それに反するようなことが起きそうなときにそれを事前に止めてしまうことなどが、教育現場で永年行われてきた。

 しかし私は、幼少期に、「辛い」「悲しい」「悔しい」「腹立たしい」「痛い」といった経験をすべきだと学生や子育てをする親に語り続けてきた。子どもたちはこういったいわば負の経験から、「思いやり」「優しさ」、争いごとを避けて「協調する力」などを自然に獲得するのである。少なくとも小学校の中学年くらいまでには、やはりカリキュラムの中で、意図的にでも葛藤場面を考えてもいいのではないか(勿論、多くの教師は気づき適切に実践しているが)。子どもたちに困難な状況を経験させて、そこを辛抱強く見守り、時には必要に応じて支援するという方法である。

 現に幼稚園に行って毎日園児と接してみると、その日けんかして、もういやだと別れても、園児たちはその翌日には仲良く遊んでいる。だから小さければ、小さいほどわだかまりを持たないという確信を強くもつようになった。これは幼児教育、小学校低学年段階での重要な課題になってくる。このような経験を経ずに成長した子どもたちが、複雑な成長期である自我の確立期に、初めて「辛い」「悲しい」「悔しい」などの経験をすると、そこで傷つき、立ち直れなくなる子どもが出るのは決して不思議なことではない。かつては誰でも小さい頃に、地域のガキ大将を中心とした「群れ」の中でそのような経験をしていた。現在ではそのようなことがなくなってしまったので、それを学校教育の場で考えていく必要があるのではないか。

 学習指導要領の観点で言えば、それ(様々な困難な状況で葛藤し、乗り越える体験)を各学校がどのように解釈し、また各学年がそれに基づいてどのような計画を作り、それぞれの担任がそれを授業に生かしていくのか。そのようなことも考えていく必要があろう。

(2)家庭における「徳」の教育
 日本の戦後民主主義社会における教育は、すべての子どもに平等に教育の機会を与えた。国家が繁栄し、高等教育機関への進学率がますます高まる今日、一方において青少年の非行は増大し、いわゆる普通の子が倫理観・道徳観に反する行為をするに至っている。おかしいことをおかしいと思わない子どもが増えているのである。

 千石保(日本青少年研究所所長)氏の報告(1999)によれば、日本の子どもは「アメリカの子どもと較べて規範意識が薄く、窃盗を一つ取っても悪いと思う気持ちが少ない。援助交際、ブルセラという現象なども個人の自由でいいと考える若者が多い」という。また、最近の新聞には総務庁の薬物乱用の意識調査の結果が出ていたが、高校男子の2割もが「薬物の使用は個人の自由」と答えていたことに、昨今の青少年の規範意識、倫理観の欠如を感じずにはおれない。

 また同氏は、日米の家庭教育の比較も行っている。それによると、アメリカの母親は子どもに対して熱心に道徳教育を行う。その第一は正直であれということ。その次は、自分が損をしても正しいことをせよである。ところが日本で、正直であれ、責任感を持て、自立せよなどと言われる子どもは半分程度に過ぎない。そして日本の親子は、「友達親子」になって親は子を叱らなくなったと言っている。さらにアメリカにおける“individual with liberty and justice”と言う言葉を引用しながら、「個人が何よりも大切だが、その個人はそれぞれに自由と正義を持っている。そして個人には義務もある。ルールに従う。規範に従う」と言っている。

 ここで私が「道徳」と言わずに、「徳」としているのには理由がある。私の小学校時代には、担任教師が道徳教育反対運動をしていた。その当時、道徳というのは修身教育の復活につながるという論理から、一部の母親とともに反対運動をしていた。そのような個人的な体験があって、道徳という科目が戦後民主主義の中で、その対極にある言葉なのかという思いが潜在意識の根底にあった。その後、東京都で教職に就いたころは美濃部亮吉・東京都知事の時代であった。当時、「日の丸・君が代反対運動」が活発な時代で、私もデモに参加した経験がある。

 そのとき心の中で、私は引っかかりを持ちながら、組合員として、教師として苦悩した時代であった。その後、歳月が経過するうちに、昨今の若者の反社会的行動や世の中の倫理観の欠如と考えられるさまざまな事象から、道徳の問題はイデオロギーを超えて、いろいろな思想・信条の人がみんなで考えていくべき根本問題だと考えるようになった。そのような論文を構想していたときに、この問題を「道徳」と表記すると、見てくれない人がいるのではないかという思いもあった。そこで「徳」とすることで、道徳に関心を持つ方も、道徳はちょっとと言う方にも、関心を持って考えていただけるようにと思い、このようなタイトルにしたのである。

 道徳教育学会に入ったのも、イデオロギーを超えてこれからの日本を考えていきたい、教育現場で多くの先生方が若い人たちを育てていくのに、善さ、価値をメッセージとして伝えていくことを希望してのことであった。

 家庭における道徳教育とは、善い心を育て、善い行いを引き出すために教え、しつけることである。また、この「しつけ」は、和服を仕立てる際の「しつけ糸のしつけ」と考えると分かりやすい。和服の仕立ては、でき上がりの形を整え、しつけ糸で止める。形が整った後はその形に従って少しずつ丁寧に縫い上げていく。縫い上がって着る人の身に付け、身体に合っていることを確認しながら、しつけ糸を一本一本切っていく。出来上がって「しつけ」の用がなくなったのである。基本的生活習慣の「しつけ」は小学校で行うべきものではない。これが家庭でできなくなってきているのではないかと感じている。本来、家庭がその役割を担うべきものである。

 さて、この家庭における道徳教育は「善いことを行える」レベルまで育てることができれば、学校教育における道徳教育と結びついて社会的な広がりを持ったその子どもの価値となり、徳となる。例えば、「親切」「清潔」といった価値(善さ)ある行動を家庭内で取っていれば、子どもたちは自然に親を見て学びながら育っていく。それを受けて学校が、価値あること(善さ)を子どもたちに育て、引き出していく。このように、家庭、幼稚園、学校という流れが非常に重要になる。このつながりをしっかりとしなければならないと思う。

 私自身、兼任ではあるが、幼稚園長として、一人ひとりの親に語りかける気持ちを忘れず、責任を果たしていきたいと考えている。

3.新しい「徳」の教育

(1)生きるための総合力を育成する道徳教育
 「知育」「徳育」「体育」のバランスの取れた子どもたちの教育が何よりも求められている。「知育」中心に偏った教育から脱して、真にバランスの取れた善く生きるための総合力を備えた人間育成のために「道徳教育」は、その役割を果たさなければならない。

 意欲を持った子どもたち、将来に向けて自己実現の夢をもった子どもたちが、あるとき突然、自分の中に自己実現の方向性を見出すことができる。ソクラテスは、「人はある日突然、神与とも思われる成長をする」と言った。人は小さいときからその能力を発揮する力があったのか。そうではない。ある日、何かのきっかけでどーんと成長する、それが人間なのである。そのときが30代で現われる人もいるし、中学・高校時代に発現する人もいる。

 私の新しい体験では、札幌市内でいえば、偏差値の中程度の高校から、私どもの短大部に入ってきた学生が、そこで勉強しているうちに、勉強に興味が湧いて4年制大学に編入した。そして本学大学院を経て、昨年東大の大学院博士課程に進学した。また短大部の教養学科卒業後、進学希望であったが家の経済的事情により1年間働いてお金を貯めオーストラリアに留学、そして日本語教師の資格を取得し、シンガポールの日本人学校で3年勤めた子がいた。帰国後、シンガポールに対する日本の国際支援について意識をもち始め、その後三重大学に入り、現在では一橋大学の博士課程に通っている。このように勉強に目覚める者もいる。

 小さな時期からいろいろなことに自己実現の意欲、目的意識をもたせながら育てていくと、どこの段階で大きな飛躍が出てくるのかわからない。最近、私は人を見る目が変わってきた。本学から豊かな人生を見出す多くの卒業生と出会えたことによる。

 今の時代は、小中高の中では勉強の面白さに気づかず、さらには基本的生活習慣、マナーなども身に付けられずに大学まできてしまった子どもたちも多い。しかし、彼らも変わっていく可能性がある。それぞれの段階で、夢と希望を子どもたちに与えて、善く生きる力を育くむことが重要であり、それにはその段階ごとに価値を語る必要がある。

(2)道徳教育における教師の役割
 私の研究室を頻繁に訪問してくれる2人の男子学生がいる。彼らは高校教師になろうと現在努力している。彼らに自分の道徳心をいつ持つようになったのかを尋ねてみると、M君は高校の社会科教師の語ったことの中から一番影響を受けていたと言う。またW君は、野球部の部長の先生が語った言葉であったと言う。その二人の教師とも道徳教育の専門家ではない。そこで彼らは、同様のことをアンケート形式で多くの学生に聞いてみようと思いついた。つまり自分の道徳心、基本的生活習慣、将来への夢などを支えてくれた先生、一番強く影響を与えてくれた教師は、どの学校段階の何の教師なのかを調べようとした。

 彼らが仮説として立てたのは、「道徳心を育てられるのは道徳の教師ではなく、道徳心をその人格の中にもった一人の教師であって、教科には関係がない」ということであった。実際、道徳の授業の中で教えること以上に、教師自身の人格が年間の授業を通して子どもたちに伝わっていくことの方が、影響が大きいと私も考えている。このことがこれからの重要な課題となっていくと思う。

 ところで、私たち大人は「善い心」を持ち「善い行い」をしていなければ、子どもをしつけ、教育する資格はないと考えるべきなのだろうか。以前「私のように遊び人で、高校も中退したような親が、子どものしつけなどできません」と話す親に出会ったことがあった。それに対して、「そんなことは決してありません。子どもに善く育ってほしいと願う気持ちがある限り、(あなたも)子どもをしつける資格があるのです。自信を持って子育てをして下さい」と声をかけたことを思い出す。

 教師たる私自身も五十歩百歩、似たような存在なのである。しかし、翻って、このことは小中学校の先生方にも共通していえることである。「私のような教員に道徳教育を教える資格はない」という教員もいる。それに対して、「あなたには子どもに善く育ってほしいと願う気持ちがありますか。もしそのような気持ちが少しでもあれば、あなたは立派に道徳教育を教えることのできる先生です」と答えたいと日頃考えている。

 しかし、この問題は私にとっても、いまだ未解決の課題である。自分自身がそうすべきだと思ったときに、そのように行うことができるか。行うところまでいければよいのだが、その前の段階として、おまえは道徳的かと問われもじもじしてしまう自分。しかし、道徳的でありたい、あるいは生きる上で善くありたいと願う気持ち、自分のかかわる人たちにも善くあってほしいと願う気持ち、これがあれば我々は道徳を語っていいのではないかを思っている。そのことは学習指導要領の中にも、学校教育の全体を通して道徳教育は行われるべきだと書かれている。

(3)大学における道徳教育
 大学が大衆化され、高校生の50%以上が大学進学する時代になると、昔であれば大学生にならないような子どもたちまで大学生になっていく。そのような時代には、学生の中には、高校までの勉強ばかりか、基本的な生活習慣すらきちっと身につけずに大学に入って来る者も少なくない。あちこちの大学のキャンパスでは、廊下に地べたすわりをしながら缶ジュースを飲む、そのようなことが当たり前のこととなっている。そのような学生を、ユニバーサル化された大学は、教育していかなければならないという大学としての新たなる課題が生まれている。

 かつては大学における道徳教育ということ、すなわち大学生に対する「モラール」の教育をすることは余り真剣に考えられなかったし、しなくても多くは育っていた。本学も4年前に男女共学になった際に、男子学生の中に、「モラール」に反し、あまりにも見るに見かねる学生が散見した。そこで入学させた以上は、やはり4年間で社会に出て行くに値する人材にどう育てていくかが、重要な大学教育の課題にならざるを得なかった。そこで大学においても、道徳教育の有用性が出てきた。それとともに、小中、中高、高大の連携の重要性が改めて見えてきている。教育界、道徳教育界の課題である。

 ところで私の大学の短期大学部では、幼児教育学科以外でも、家庭教育も含めて教育一般について考え、子どもの発達や心の成長について勉強する科目があり、それらを学んでいる。ところが日本の多くの大学の工学部や経済学部などのカリキュラムの中には、教職科目をとらない限りは、家庭教育、子どものことを学ぶカリキュラムがほとんど見られない。これからの大学は、母親、父親になっていく可能性のある若者に対して、家庭理解、子どもを育てるということを考える授業をカリキュラムの中にきちっと位置付けていく必要があると思う。

4.価値の教育

(1)作用価値:「行う」ことの重要性
 私が学生時代に学んだ価値論は、マックス・シェーラー(Max Scheler,1874-1928)の理論が中心であった。当時のノートを元に、道徳教育にかかわる価値の問題、特に「作用価値」について考えてみたい。

 より高い価値の実現に向かう作用が善であり、逆により低い価値の実現に向かう作用が悪である。「善さ」は何かを実現する作用においてのみ現われるから、必ず「作用価値」であることを本質としている。「作用価値」であるから、事物においてではなく、必ず作用の主体としての人、すなわち必ず人格においてのみ現われるのであり、常に必ず「人格的価値」なのである。

 例を挙げよう。バスの中で座っている私。そこに荷物を持ったお年よりが乗ってくる。そのことに私は気づく。ここで私のとる態度は、
@疲れていることもあるし、知らないふりをし、無視する。
A席を替わってあげようと思うが、声をかける勇気が湧かず、替わってあげることができなかった。
B声をかけ、席を替わってあげた。

 ここで価値の実現ができたのは、Bのみである。@とAでは、心の中では全く違っているのだが、行為として現われてきた部分は、同じであった。価値の問題を考えた場合は、自分の心の中でこうすべきだと思ったことを、行って初めて価値が実現する。思って行わないのは、思わないことと同じだ。これが作用価値で語られることのポイントである。

 私たちがある行為を「あるべき」だというのは、既にあるべき行為の価値をとらえているからである。私たちが困っている人と出会い、助けるべきだと考え、行おうとするときには、親切という価値をとらえているということなのである。

 だから私たちにとって大切なことは、「善い」と思ったことを思うだけにとどめず、行うことなのである。善いと思ったことを行うことを、小さな頃から育てることが大切である。幼稚園の例を挙げよう。ある幼児が、部屋に散らかっている紙を拾ってごみ箱に捨てた。それを見ていた教師が、そのことをみんなの前で「○○ちゃん、散らかっているごみを片付けてくれてありがとう」と褒めた。そのことを通して、子どもの中には大好きな先生が喜んでいるという思いが生まれ、自分も大好きな先生に喜んでもらいたいと思い、行動へのモチベーションが生じる。そのような過程を通じながら、子どもの中の「べきこと」が少しずつ形成されていく。このようなことが幼児期から必要なのである。

(2)教えることと考えさせること
 今日の教育の風潮は、子どもに対して「考えさせる」、「考えさせ、理解させる」、「考えさせ、納得させる」という流れにあり、幼少期からの教育に携わる人々も親も、子どもに何かを押し付けることを否定する。しかし、しつけは場合によっては、「押し付け」ではないだろうか。日本の伝統文化の多くは形から始まった。形を真似、学ぶことは結果として、心の問題であり、心を学ぶことであった。心を美しくするために形を美しくするというのは、日本のあらゆる方面の文化の特徴でもある。しつけも同様に考えてよいのではないだろうか。形を教え、正し、心を正すのである。

 幼少期から小学校低学年の子どもたちには、まず教える必要がある。教え、考えさせるのである。それ以上の年齢の子どもたちには、考えさせ、自ら分からせる。そして必要に応じて教える。しつけを考える場合、まず家庭では「教える」という姿勢を強くもつ必要があると思う。

 最近、特に若い一部の女の子たちに対して気になっていることがある。それは援助交際という言葉が私たちの間に定着し始めた頃から、女子高校生を中心とした上下の世代で、けばけばしい化粧と髪を染めることが流行していることである。

 私は、自分が中学生だった昭和30年代後半に、中学校の家庭科で、「おしゃれは余剰行為ではなく必要行為である」と習った。そしてそのとき、同時に「自分の顔や身体を清潔に清楚にきちんとした姿で表現すると、おのずから心も引き締まり、悪いことを考えたり、したり、だらしないことをしたりはできなくなるものだ」「化粧とは、そういった意味で自己暗示である」とも言われた。結果として、「化粧はあくまでも心を飾ることであって、さらに品性を高めるものである」と理解し、なるほどと感じたものだった。

 今日の高校生前後の若者の多くは、コマーシャルをはじめとする世相に踊らされ、一部のタレントや雑誌のモデルを真似、自分らしくない、自分を失った化粧をし、それによって自分の生活が自分らしくなくなり、時にだらしなくなっていることに気づいていないのであろう。

 子どもや青少年を育てる親や教師の世代は、次代を担う子どもたちに何を教えるべきなのか、家庭や学校の教育のあり方を問うと共に、改めて考え直さなければならないと思う。

(3)品性の教育
 数年前、学会でトーマス・リコーナー博士(Thomas Lickona)の講演を聞く機会があった。そこで彼は「道徳教育」ではなく、character education(品性教育)という言葉を使っていた。彼は「徳」を意図的に教える努力として、その推進を提案している。そして、以下に示す6点において、今、その必要性が求められているとする。

@子どもを道徳的に社会化させる家族の力の弱体化、その結果として基本的な価値や社会技術を身につけさせないで学校教育を開始する子どもの増加。
Aマス・メディアによる、若者の価値観への影響力の増加。
B広範囲な道徳性や精神性・霊性(spiritualism)の衰退。
C問題行動を示す若者の粗野な行為、暴力、不正、薬物の乱用、自己中心性、ひどく乱れた性の逸脱行動傾向。
D子どもたちに、客観的なよい品性の資質を育成すべきであるという意見への社会的同意が生まれてきていること。
E1960年代や70年代に行われた非指示的(nondirective)で過剰に認知的な価値観からの解放。
特にEについて補足すると、60年代から80年代にかけては価値の明確化が流行し、個人の経験からの価値の創造が主張された。教師は審判することをやめ、個人の価値を明確にする「プロセス」を生徒に教えた。つまり学習過程を大事にしたのである。その結果、あらゆる価値の審判は個人の好み(判断)にまかされることになり、生徒は万引き、セックス、悪魔的カルトに参加することまでをも道徳的選択を行ったと主張し、それを各自の選択した価値であると弁明するに至った。価値の明確化を教えてきた教師たちは、このような時代に直面したとき、無力になり、対処することができなくなったのである。

 当時米国では、自分で考え、判断し、行動する子どもを育てたいと考えていた。そのためには、課題解決型学習を中心としながら、課題を与えその学習過程を大切にし、自ら結論を導き出す。それに対して教師はアドバイスをし、出た結論について総括する。自分で考え判断し、それから行動するという風潮を生み出した。

 一般に米国と日本の子どもを比較して研究する場合、米国の例をほめることが多い。しかし、米国では学校における銃の乱射事件とか、青少年の反社会的行動が多い。薬物乱用にしても多い。リコーナーは、今まで自ら考え判断し行動する子どもを育ててきた米国は、それによって子どもたちは昔と較べて悪くなったと反省している。

 リコーナーはこのことに対して、価値観が育っていない(未成熟)子どもには、大切な人生の判断は難しいという。そのことを教師はわかるべきだ。価値観がきちっと育つまでは、児童・生徒に対して教えるべきことをきちっと教えることが必要であることを、教育の世界においては考えていかなければならない。常識的な判断力、正義に基づく判断力、そして行動力育成の課題である。

(4)「品性」とは何か
 品性とは、徳(virtues)である。よき品性は、私たちが身に備えている徳から成り立っており、より多くの、より充実した徳を身に付ければ、それだけ私たちの品性は強いものになる。

 徳は、賢明、正直、親切、勤勉のように客観的で、人間にとって善い性質である。徳は個人に満足すべき生活を与え、コミュニティーにとって調和や生産的に暮らすことを可能にする。

 徳は変化しないもので、思慮深さ、忍耐、粘り強さ、勇気なども時代や文化を超えて徳であり続けた。そして、将来も変わらないであろう。

 地球が丸いことは、客観的な真実であるが、徳や善き品性について語る上でも、客観的な道徳上の真実を信じなければならない。姦通、人種差別、拷問、強姦、カンニング、無実の人の命を奪うこと、これらは誤りである。仮に、多くの人がそのように理解していなくても、客観的な道徳上の真実なのである。このことは行動においても言える。寛大の方が自己中心より善いし、誠実の方が不誠実より、自己抑制できることは無謀より善いことになる。

 従って、人生の課題は個人の品性を育成することであり、品性育成とは何が正しいことであり、何がよいことであるかを学び、私たちの両親や行動を高い水準に適合させることであることを学ぶ作業である。

 リコーナーはここで、品性の心理的な要素として「道徳知識」「道徳情操」「道徳行為」をあげ、他にプラトンやアリストテレスの四つの徳(知・勇気・節制・公正)や、アイザックスの年齢発達段階における徳の獲得について述べている。

 それでは品性教育の効果的なアプローチとは何か。
品性教育は、徳を養成するための意図的な努力である。児童・生徒・学生は何が正しいことであり、何が誤っているかを自分たちで決定しない。学校は、尊重や責任のような徳を支持して、あらゆる機会をとらえてそれらを直接的、間接的に促進させる。品性教育は講話ではない。考えることや討論することも重要だが、品性の究極の尺度は行為である。

 品性教育は、仮に特別カリキュラムをその一部としていても、個別の授業ではない。それは、学校全体の努力によって、徳を備えたコミュニティーを形成することである。尊重、責任、正直、親切、勤勉、自己コントロールのような行為は、毎日の実践の中で手本として示され、教えられ、期待され、表明される。この理論の中核はアリストテレスの教えで、徳は思考ではなく行為であるということである。品性教育は品性に適った行為を児童・生徒・学生が繰り返し行えるように援助し、それに反した行為が比較的に不自然に感じられるまで援助することである。

 リコーナーは、最後に次のように述べている。
「これからの時代は、国家の偉大さを測るとしたら、決してその富とか力ではない。それは品性である。品性は子どもたちに進むべき方向を示し、子どもたちの人生に威厳を与えるだろう。品性は私たちの家庭、学校、社会、更に世界を強力なものにすることだろう」。

(5)性教育
 上述のT.リコーナーの講演会で問題提起がなれた具体的な例として、性教育がある。この問題は、学会内でも、今日でもさまざまな意見が出てくる難しい問題となっている。

 「純潔」はギリシアで命名された4つの基本的な徳の1つである自制の現われである。歴史的には性の自己コントロールは純潔の徳として認識されてきた。しかし、1960年代から70年代にかけての性革命によって、根本的に異なる考え方が広がった。人々は結婚していなくても、自由にセックスすべきであるとか、性は人間関係の責務と分離可能であり、愛からさえ分離できるとした。30年後の今、性道徳の崩壊に派生する多く問題に直面するに至っている。

 そしてリコーナーは、ウィリアム・シッケルの言葉を引用して、次のように述べている。「純潔は正直と同じで、市民としての徳であると同時に、個人としての徳です。社会が純潔を喪失したとき、社会はそれ自身が破壊しはじめました。純潔は人間にとって必要な徳であり、すべての人にとって、いかなる場所でも必要です。」

 徳を基盤とした性教育のアプローチが改めて必要であるにもかかわらず、学校教育の現場は精神分裂状態に陥っている。既に多くの学校では生徒に対して、うそはいけない、人種差別はいけない、物を盗んではいけないなど、道徳的に正しい結論を導いているのに、性教育については混乱したメッセージの発信になっている。すなわち、「性交渉をしてはいけない。が、極めて安全な方法がある」。そして、避妊具の使い方を教える必要性を説いているのである。ところが、薬物の乱用についてはこうではない。「薬物を使用してはいけません、が、安全な使用方法がある」とは決して教えていない。学校は誤っている行為のやり方を教えるところであってはいけない。学校は正しい標準と、それに恥じない行動ができるように品性の力を教えるのである。現実論は避妊教育に傾斜しがちだが、将来的には解決していくべき現代の人間的課題と考えている。

 リコーナーは、早い時期にセックス経験をした米国の女性たちの15年後の精神的な状況、精神的疾患をデータとして示した。セックスしたときは、何も考えずに興味本位で行っていたにもかかわらず、その後結婚し、子どもができたときに、かつての傷が蘇ってきて精神的に不安定な状態になる。そのような女性の離婚が多いなどのデータである。その中では自己コントロールすることが大事なのだが、もし性行為を持つのであれば、結婚を決めた相手とそうするのがよいという提案もしている。
 今、中学、高校において性教育を考えていく上での一つの問題提起になるだろうと思う。

(6)ダニエル・ゴールマンのEQ教育
 ダニエル・ゴールマン(Daniel Goleman)が1995年に『EQ〜こころの知能指数』という本を米国で出版したが、この本がベストセラーとなり、クリントン米国大統領(当時)がホワイトハウスの職員全員にその本を読ませた。この本はクリントンの教育政策に大きな影響を与え、結果として教育予算が大幅に増額されたのであった。

 これまでの先進国の教育は、知識偏重、偏差値重視の教育、すなわち、知能指数(IQ)教育の延長線上で教育に取り組んできた結果、そこにおいて微調整を繰り返すことしかしてこなかった。そのため地球環境は大きな問題をはらみ、国際紛争は後を立たず、人々は心を喪失して、世界的に危急の事態に直面しようとしている。

 ゴールマンは、米国社会で成功している人についてデータを取った。ところが、学生時代にIQ評価が高い人が必ずしも成功しているわけではないことが分かった。どのような人が社会的成功を得ているのかについて調べたのが、彼の本である。「エゴ(競争、対立、利己)からエヴァ(愛、調和、互恵)へと意識のレベルを高めなければ人類は生き残れない」という結論なのである。

 この考え方の基本は、次の点にある。「あらゆる衝動の根源は、行動として表出しようと待ち構えている情動なのだ。衝動のままに動けば、――自制の努力をしなければ――倫理を欠くことになる。衝動をコントロールする能力は人格の基礎だからだ。同じように、愛他主義の根幹は他人の気持ちを読み取る能力、すなわち共感能力にある。他人の欲求や苦境が理解できなければ、他人に対する思いやりは生まれようがない。今の時代が必要としている倫理は、まさにこの自制と共感だ」。

 それではEQ教育は何をするのか。
@自分をよく知る(モニター能力)
A自分の感情を制御する(コントロール能力)
B自分の意欲を向上させる(モチベート能力)
C相手の気持ちと共感できる(ラポール能力)
D社会的に交流できる(ソーシャル能力)

 若い世代に対して、この5つの能力を幼児期から学校がいろいろな教科を通して学習を進めていく必要がある。それが子どもの幸福と成功につながり、ひいては地域や国家や世界の心豊かな繁栄に結びつくのである。

5.最後に

 さまざまな背景を持って成長してきた子どもたちは、ソクラテスの言葉の如く、ある一つのきっかけを通して(面白みを発見したとき)その子どもの可能性が一気に伸びていくことになる。そのためには、高校までの間にきちっとした基本を身につけておく必要がある。各学校において、そのようなことを狙いながら子どもたちの教育に取り組み、心すなわち、人格を育てる道徳教育をしっかりと今進めていくことが緊急の課題となっている。

 先にM君、W君の例で話したように、自分の道徳性の一番の育ちは一人の教師との出会いであるという事例は、道徳教育が学校教育の全体を通して行われるという部分と、教師の再教育、意識の再啓発等をふまえて課題としていく必要があるだろう。道徳教育は、単に「道徳」という教科の中だけで教えることにとらわれず、自分の教科の中でも、教師自身が自分を前面に出して子どもたちの心を引き付け、価値観を育てていってもらいたいと思っている。(2002年5月26日発表。研究会における発題内容をまとめたものである。)