近代韓国の平和思想研究(下)

韓国・鮮文大学教授 柳 在 坤

 

3.韓国の平和思想

(1)兪吉濬の東洋平和思想

 兪吉濬(1856−1914)は、開化思想家であると同時に政治家であった。1870年、朴珪壽の門下で、金玉均・朴泳孝・徐光範・金允植ら開化青年達と実学思想を学ぶ一方、魏源の『海国図志』のような書籍を通じて海外の文物を習得した。1881年、朴珪壽の勧めで魚允中の随行員として紳士遊覧団に参加し、韓国最初の日本留学生の一人になった。
彼は日本の文明開化論者である福沢諭吉が経営する慶応義塾で柳定秀とともに修学した。彼は韓国・中国・日本など、東洋三国の団結を目的に組織された興亜会にも参加し、日本の学者および政治家たちと交流した。

 1895年、兪吉濬は『西遊見聞』を国漢文混用体で執筆し、西洋の近代文明を韓国に本格的に紹介する一方、韓国の実情に見合う自主的な開化、すなわち、‘実情開化’を主張した。そして歴史が未開化・半開化・開化の段階を経て進歩するという文明進歩史観を提示した。彼の開化思想は実学の通商開国論、中国の洋務および変法論、日本の文明開化論、西欧の天賦人権論および社会契約論などの影響を受けて形成されたし、‘君民共治’、すなわち立憲君主制の導入、商工業および貿易の振興、近代的な貨幣および租税制度の樹立、近代的な教育制度の実施などを内容としている。

 兪吉濬の開化思想に表われた改革論は甲午更張の理論的な背景となった。
兪吉濬は1907年10月23日、「辞職疏」とともに「平和光復策」をさしだした。
兪吉濬が純宗にさしだした‘平和光復策’を‘平和克服之策’と言って、国是とみなし富強を図らなければならないと勧めている。

 今陛下、承中興之緒、啓一進之運、而国是尚有未、民志従而未完、伏願以平和克服之策、立為国是、明以語之臣民、使奉之為、金科玉条、而一其心協其力、家誦戸読、而図為富強焉、約臣即素以独立之義。1)
 
 兪吉濬は日本の侵略行為は韓国の能力不足、すなわち、韓国人が無知なことと国防が虚弱であったことにその原因があると認識している。また、韓国が日本の保護国になった原因は、全面的に韓国が富強国として発展するのに失敗した韓国人の能力不足に求めざるをえなかったであろう。

 彼は、韓国が日本の半植民地化状態で光復をできる道は、究極的に富国強兵をなすことであり、そのためには文明国日本を利用しなければならないとたえず主張している。

 舊我之獨立、非我之自為、不遇一時之受動餘力、則其動息、而我之獨立、亦 半向者也、我欲自為眞獨立、宜先修其案、向世界萬國而為之、非只向日本一國而為之、彼何嘗不願我為正面獨立哉。2)

 兪吉濬は、国家に対する愛国心、国王に対する忠誠心が国民的な統合をなすことができるのであり、東洋の永遠なる平和をもたらすだけでなく、韓国と日本の間に平和信頼関係をもたらすだろうと信じていた。

 固知彼之眞意、在於平和、故我亦以平和應之、外交焉委其代辨、内治焉聽其指導、従来我勢之長、可伍文明之隣、以平和の眞意収其代辨、謝其指導、則彼亦當以平和應之、故臣放曰惟我光復之道、一由平和、而集成就之方、亶富強。3)

 在我之自為富強、而自復我権、以保東洋之永遠平和也、彼我之間、只有至誠之平和而已。4)

(2)崔益鉉の東洋平和思想

 勉菴 崔益鉉(1833-1906)は李恒老の門人であり、衛正斥邪論者であった。
1873年、戸曹参判になったが、大院君の書院撤廃などの施策を論難したため、1875年まで済州島に流配された。1876年、日朝修好条規締結のときには上訴して、「開国通商は亡国をもたらす。」と主張して反対したために全羅道黒山島に流配された。

1904年、日本の軍事支配が始まるや、抵抗運動を展開したが、1905年、日本軍によって追放された。彼の言論と行動は旧体制維持の立場から日本の侵略を最後まで拒否した。
崔益鉉は乙巳五条約(1905)の強制的な調印を亡国条約であると正確に把握し、高宗皇帝に条約の破棄、五賊の処刑などを要求する上訴を行った。

 つづいて彼は1906年3月、挙兵を準備するために全羅北道の泰仁に移った。6月に挙兵の決意を表明し、高宗皇帝にその意思を伝え、国権を回復する計画を述べた。義兵とともに上京した崔益鉉は伊藤博文統監、長谷川好道司令官と会見し、日本の罪状を追及し、条約を破棄させたいというものであった。

 崔益鉉は<棄信背義16罪>という問罪状を日本政府に送った。その主な内容は、甲申政変(1884-1885)、日清戦争(1894-1895)を始めたときの王宮占領、明成皇后弑害事件(1895)を始めとして乙巳五条約にいたる16項目を列挙して、日本が<棄信背義>を謝罪して韓国の支配を止めよというものであった。

 前回の条約に朝鮮は自主独立の国であり、日本とともに平等権を保有するとしたが、今やわれわれを奴隷とみなしているとは、条約はどこに行ったのか。ロシアと戦うときに韓国の自由独立を擁護すると声明したことが今や韓国の独立主権を思うままに奪っていったが、これはまたなんという行為なのか。互いに侵略しあわないと清に誓約しても今やただひたすら侵略を当然のこととし、われわれ二千万の同胞の憤怒をかい、怨恨が骨髄にまで結ばれるようになったことはどういう理由であろうか。条約を変更せずして永遠に遵守し永遠に安定するということが今になって条約を変更し互いに信用しあわず、互いに安定たろうとしないのだからこれは韓国を欺き神名を欺き、世界万邦を欺いたのである。5)

 崔益鉉は、日本はしきりに韓国の独立・自主を言明してきたが、その信に相反して韓国を不法に侵害してきたと告発した。日本が信用を守り義理を明らかにすればこの書信を貴皇帝に差し出すに、第1に、条例とした16条目の大罪悪を悔い改め、統監を撤回し、顧問および司令官を送還しなければならないこと、第2に、信義のある公使を再び送って諸国に謝罪させること、第3に、韓国の自主独立を尊重し、侵害することがないようにせよと述べた。

 崔益鉉は初めから‘内獣外羊’という立場から帝国主義の侵略は国内の内政干渉によって解決されうると考えた。彼が指摘した内政問題は封建的な名分論による儒教的な政治理論の定立と運用であったし、この問題の解決はただ国王の受容と決断だけで可能であると信じていた。このような方法が実現されないとただちに彼は義兵を引き起こしたし、一方では、<万国公法>や国際条約を根拠に帝国主義の侵略を指摘した。外交的な方法によって日本の侵略を糾弾し、日本が罪を悔い改めることだけが東洋の平和を保障できる6)と主張したのである。

 崔益鉉の東洋平和は、日本が<棄信背義>したことを謝罪し、韓国支配を止めることを要求し、その上に日本が韓国の自主独立を尊重すれば、日本もほとんど完全な福があるだろうし、東洋大国がまた平和が維持されるというものであった。その上で、韓国、日本、中国の東洋三国の協力が必要であることを主張した。

(3)安重根の平和思想

 安重根(1879-1909)は独立運動家である。1894年、甲午農民戦争の時は父親の泰勲にしたがって政府側の義兵を引き起こし同地の農民軍に打ち勝った。その後、フランス人宣教師から洗礼を受けてカトリック教の信者になった。

 1906年、平安南道鎮南浦に移り、敦義、三興の二つの学校を設立させ、教育を通じた愛国啓蒙運動に尽力した。1907年、中国北間島をへてウラジヴォストークに行って同地を拠点に、李範允らと義兵を組織した。

 1909年、前韓国統監であった伊藤博文の殺害を計画し、10月26日、ハルピン駅で伊藤を砲殺した。

 安重根は伊藤砲殺によって監獄にいったが、法廷で「韓国の前途に対してはどのようにしなければならないと考えるか」という溝淵検察官の質問に対して、

 1905年の日露戦争のとき、日本の天皇陛下の「戦争の詔勅」によれば、東洋の平和を維持し韓国の独立を期するためにロシアと戦ったため、韓国人はすべて感激し、日本人と共に出陣し働いた者もいる。また、韓国人は日本の勝利に対してあたかも自国が勝ったかのように喜び、これによって東洋の平和は維持され韓国は独立されるだろうと喜んだのに、伊藤公爵が統監として韓国にやって来て5か条の条約を締結した。それは前の宣言に反し、韓国の不利益になるために国民は一般的に不服を唱えていた。のみならず、1907年、また7か条の条約を締結した。これは統監である伊藤公爵が兵力によって圧迫を加えながら締結させるようにしたため、国民は一般的に大きく憤慨し日本と戦っても世界に発表しようとした。元来韓国は武力によらず文筆によって建てた国である。7)

と答えた。また、「彼に対してどのような目的でもって行動しようと思うか」という尋問に対しては、彼は次のように答えた。

 そこで伊藤公爵は日本においても第1位の人であり、韓国に統監としてきたが、今述べた二つの条約を締結したのは日本天皇陛下の聖旨でないと思った。そのため伊藤公爵は日本天皇陛下を欺き韓国人を欺いたために、韓国の独立を期するためには伊藤公爵を亡き者にしなければならないと思い、7か条の条約の成立当時から殺害しようという思いを抱き、伊藤公爵を殺害しようというつもりで浦鹽付近にも出て、一身をかえりみず韓国の独立を期した。8)

 安重根の思想を代表するのは<東洋平和論>である。東洋平和論は安重根が国権回復運動に力を注いで立てた彼の持論としてその運動の背景になった思想体系であった。

 もともと安重根の<東洋平和論>はかなり体系的な著作になる予定であった。最近発見された彼の<東洋平和論>を見ると、その体系は、@序、A前鑑、B現状、C伏線、D問答と分かれているが、実際に執筆されたのは@序とA前鑑のみであり、前鑑さえもその内容を見ると未完成であることがわかる。本論各であるB現状、C伏線、D問答が執筆される前に安重根に対する刑が執行されてしまった。

 安重根によると東洋はアジア州、支那日本、韓国、シャム、ビルマを言い、東洋平和の意味はすべて自主独立していくことができ、東洋各国が力を合わせて協力すれば、5億の驚くべき人口があるためいかなる国であっても向かっていくことができると述べた。

 安重根は「自分が伊藤公爵を殺したのは、公爵がいれば東洋の平和を撹乱し韓国と日本との間を疎隔にするため、韓国の義兵中将として殺した。」9)と述べた。そして彼は、「韓日がさらに一層親密になって平和に治めれば、さらに5大州にもその模範を見せられること」を希望していたし、「韓国に対する施政方針を改善すれば韓日間の平和は万世に維持されること」を願っていた。

 元来、生命を惜しむようにすることは人情であるが、英雄はいつも身命を捨て国に尽くすように教えを受けている。ところが伊藤はいたずらに他国人を殺すことを英雄であると理解して韓国の平和を撹乱し、数十万の人民を殺した。私は日本天皇陛下の詔勅にあったように東洋の平和を維持し韓国の独立を強固にして韓日清3国が同盟して平和を主張し、八千萬以上の国民が互いに合してさらに一層開化の領域に進んで、さらには欧州及び世界各国と共に平和に力を尽くせば市民は安心して暮らせるようになりうるし、初めて宣戦の詔勅にかなうものであると思う。伊藤がいれば東洋平和の維持はできないと考えたため今回の事を行った。10)

 安重根は東洋の平和を維持するためには、「韓国の独立を強固にし、韓日清三国が同盟して平和を主張し」ていきながら、「欧州及び世界各国と共に力を尽くす」ことであった。

 このように安重根の東洋平和論は「韓国の独立を強固にすること」を前提とし、「韓日がさらに一層親密になって平和に治めるようになれば、さらに五大州にも模範となること」であり、「韓日清三国が同盟して平和を主唱し、八千万以上の国民が互いに合してさらに一層開化の領域に進み、さらに欧州及び世界各国と共に平和に力を尽くせば市民は安心して暮らせるようにする事」であった。

 すなわち、安重根の東洋平和論は、韓国の独立→韓日親密化→韓日清三国同盟→東洋の平和→世界平和へと発展していくものであった。

(4)申采浩の東洋平和思想

1) 歴史観
 丹齊 申采浩(1880-1936)は韓末・日帝強占期の歴史家・言論人・独立運動家だった。
彼は1905年11月、「皇城新聞」が無期廃刊されるやその2年後、梁起鐸の推挙によって「大韓毎日申報」に招かれ、その後主筆になって堂々たる時論を書いて民衆を啓蒙し、政府を鞭撻して抗日言論運動を展開する一方、韓国の歴史関係の時論を書いて民族意識を鼓吹した。

 申采浩の韓国史記述はほとんど古代史の極言されているところ、その特徴は次のいくつかに要約できる。第1に、檀君・扶餘・高句麗中心に上古史を体系化した。第2に、上古史の舞台を韓半島・満州中心の従来の学説をぬけでて中国東北地域と遼西地方にまで拡大しており、第3に、従来、韓半島内に存在したという漢四郡を半島の外に存在したか、あるいは全く実存しなかったと主張した。第4に、上古時代の朝鮮族と三国時代の百済が中国と山東半島などに進出したというものであり、第5に、三韓の移動説及び「前後三韓説」を主張した。第6に、扶餘と高句麗中心の歴史認識に従って新羅の三国統一を否定的に過小評価することなどだと言えよう。

 このような申采浩の歴史学は韓国の近代史学及び民族主義史学の出発として評価されたりもするが、民族主義思想の歴史研究への過ぎた投影が彼の歴史理論及び韓国古代史認識を教条的・独断的に導いてきたという点を排除できないと主張されたりもする。

2) 韓国独立と東洋平和
 西洋の学者らは外交上から見るとき、韓国を東洋のバルカンであるという。西洋社会の外交上の大きな問題はバルカンで起こった。たとえば、米亜戦争であるとか、最近に起こった第1次世界大戦などが勃発した。
韓国もまた近世、東洋列国の要衝地となっている。1894年の日清戦争、1904年の日露戦争は韓国問題を中心に勃発したために東洋のバルカンであるといった。

 而朝鮮 亦為近世東洋列国之交衝地 甲午中日之戦 甲辰露日之戦 莫不以朝鮮問題而起 謂之東洋巴爾幹也 固無不可。11)

 バルカンは自立している国であり、自決の民族である。しかし韓国はこのような自立・自決を得ようとしても得ることができない。

 韓国は昔から中国と日本の間にありながら緩衝の役割を果たしていた。
隋の煬帝・唐の太宗・遼の太祖・金の太祖などは大陸で起こりその武力が鴨緑江まで南北に拡大されたが東方の日本までは至ることができなかった。その理由は韓国があったからであった。また、日本の歴代にわたった海寇は慶尚道の沿海までは侵略したが、その凶暴性も中国を侵食できなかった。その理由もまた韓国があったからである。韓国人が東洋において平和を保全してきた功績もまた大きい。

 如隋煬帝・唐太宗・遼太祖・金太祖等之自大陸起者 其武力 止於鴨緑江之南北 而不至東擾日本者 以有朝鮮故也 如日本之歴世海寇 雖侵凌慶尚沿海 不之荐食中国者 亦以有朝鮮故也 朝鮮人在東洋 其保全平和之功 亦大矣。12)

 韓国が半島を守りながら隋・唐・契丹・女真など、大陸の民族たちが侵略してくればその侵略を防ぎ、海洋の民族である日本が侵略してくればその侵略を防ぐのが有史以来の韓国人の天職であった。しかし今はその歴史を忘れその天職を放棄するようにし韓国人を奴隷のようにすることは数千年にわたった恨みが重なった恩讐の国日本であり、そのしでかした罪は大きい。にもかかわらず列国は日本の棟梁が自分の思うままに行っていることを聞きながら、日本が韓国を併呑することを許すことは得策でない。

 今日東洋の平和を言及しようとすれば、最も良い方法は「韓国の独立」である。韓国が独立すれば日本が思い通りに侵略できないようになり、四方に経営がよくなり、その力をもって過激派を治めるようになる。また貧しく弱い民族を助け、難しい問題もやさしく治められるようになる。中国もまたうまく収拾すれば数十年間にわたった革命の揺籃もうまく整理されることはもともと東洋平和の重要な点である、というのが申采浩の主張だった。

 今日而欲言東洋之平和 其上策 莫如朝鮮独立 朝鮮独立 則日本 不至恣雎貪 経営四方 而収其力 以保海島露之過激派 亦無以籍口 於扶植貧弱之民族 而當斂翼垂翅 以縮書處乎赤塔之北 中国 亦得以濶ノ収拾 以整頓十数年革命擾機之局面 此固東洋平和之要義也。13)

 申采浩は、日本人が言う平和は、あたかも口では仁義道徳であるというが、実際には男盗女娼しながら東洋平和だ、東洋平和だと主張しているかのようである、と述べた。

 如彼倭人之所謂東洋平和 諺所謂滿口仁義道徳 滿肚男盗女娼 東洋平和云乎哉 東洋平和云乎哉。

(5)朴殷植の平和思想

1)『韓国痛史』と『韓国独立運動之血史』
 白巌 朴殷植(1859-1925)は韓末・日帝強占期の学者・言論人・独立運動家であった。
1905年11月、日本が乙巳五条約を強制的に締結して国権を奪われ、これを批判した張志淵の<是日也放聲大哭>の論説を理由に日本が「皇城新聞」を停刊させた。1906年には復刊されたが、張志淵がこの新聞に復帰できなくなると、「皇城新聞」を守るために1910年8月までこの新聞の主筆として活動した。「大韓毎日申報」には主として客員として論説だけを寄稿した。

 朴殷植は日帝が1910年8月、韓国を完全に植民地として併呑した直後、1911年4月、独立運動と国魂が込められた歴史書を書くために亡命を決行した。その理由は日本人が韓民族に対してやすまずに韓国の歴史抹殺行為を行っているからであった。

 そもそも他国を滅ぼそうと思えば、必ずまずその歴史を抹殺し、民族性を絶滅しようとするものである。日本は、わが民族の歴史を抹殺するだけでなく、言語・書籍・礼儀・文物・倫理・風俗などの一切を殲滅しようとした。15) 

しかし彼には韓国が日本に対して先進の位置にあるという自負心があった。

 わが民族は檀君の神聖な後裔として東海の名勝地に位置している。人材の産出と文物の発達は互いに優秀な資格をそなえ、他民族よりも優れていた。
 わが国の歴史は4300年の伝統と由緒があり、忠義と道徳の根源は深く厚い。宗教と文学はさかんで、文明の余波は日本に渡って栄え、わが国は先進国の位置にあった。
 わが大韓の言語を語り、わが大韓の風俗を風俗とし、わが歌を歌とし、わが礼節を礼としてわが衣服を着、ご飯を炊いて食べる。わが国の国民性は他民族とは特に区別される。このようなさまざまなことがわれわれの国魂を生じせしめ、われわれの国魂を強く堅固にした。決して他民族がよく同化しうるものではない。16) 

朴殷植は亡命後たゆまず執筆しつづけてきた『韓国痛史』を完成し、中国人の出版社から1915年に刊行した。
『韓国痛史』は3編114章から構成された大作として、1864年から1911年までの韓国近代史を一般近代史、日帝侵略史、独立運動史の3面から日帝侵略を中心にして一つの体制として叙述されたのであった。

 彼は『韓国痛史』において日帝侵略史を中心に近代史を叙述することによって、第1に、対外的に日本帝国主義侵略の残虐性と姦巧性を暴露、糾弾し、第2に、対内的に国民に「痛み」を教え、民族的な痛憤の激発にもとづいた独立運動の精神的な原動力を供給し、第3に、‘国魂’と‘国魄’を分けて日帝に奪われたものは‘国魄’のみであり、‘国魂’は残っており、‘国魂’をよく維持、強化して、完全な独立を争奪するように教育し、第4に、子孫万代にわたって日帝によって侵略された痛ましい歴史の教訓を刻み反省を促そうとした。

『韓国痛史』は刊行直後、中国・露領・米州の韓国人同胞たちはいうまでもなく、国内にも秘密裏に大量に普及し、民族的な自負心を高め、独立闘争宣戦を大きく鼓吹した。
日帝はこのことに非常に慌てふためき、1916年に朝鮮半島史編纂委員会(1925年に朝鮮史編修会と改称)を設置し、初めは『朝鮮半島史』を準備したが、計画を修正、『朝鮮史』7冊を編纂し、彼らの植民地史観による韓国歴史の歪曲を試み、その編纂動機を、朴殷植の『韓国痛史』のような独立を追求する歴史書の解読を消滅させるためのものであることを明らかにした。

 1919年8月、上海に行って上海臨時政府とソウルの漢城政府の統合による9月の統合、大韓民国臨時政府の樹立を支援した。同時に彼は上海で『韓国独立運動之血史』の執筆を初め、1920年12月、これを刊行した。

『韓国独立運動之血史』は1884年の甲申政変から1920年の独立軍の抗日武装闘争までの日帝侵略に対する韓国民族の独立闘争史を3・1運動を中心に叙述したものとして、韓国近代史体系にもう一つの古典をなしたものであった。この本において、日本帝国主義侵略の罪相を日ごと批判し、3・1運動が甲申政変以来の民族独立運動が民族内部に蓄積されて蜂起したものであることを説明し、歴史の大勢と国内情勢は日本帝国主義が必ず敗亡するように変化しており、3・1運動を転換点とした韓国民族の不屈の献身的な独立運動が必ず独立を争奪するように展開されているという最後の勝利に対する楽観的な見解を説明し、独立運動を限りなく鼓吹した。

2) 日帝の併合論理
 開国以来韓国と日本の両国が締結した条約を考察すれば、紀元4209(1876)年の「日朝修好条規」では、‘朝鮮は自主之邦として日本国とともに平等権がある。’とした。4227(1894)年には、日本は‘清の行動が朝鮮の独立之妨げとなる。’として戦争を引き起こした。同年に、「韓日同盟条約」を結んだが、その第1条には、‘朝鮮の独立を強固にする。’とした。明くる年の清日馬関条約[注:日清講和条約のこと]の第1条は、‘朝鮮が完全無欠な独立・自主の国であることを確認する。’とした。

4231(1898)年の露日協約第1条には‘露日両帝国は朝鮮の主権とその完全独立を確認する。’とした。

4235(1902)年の英日同盟条約の第1条には、‘すでに中国と韓国は独立を承認したので、その両国に対して侵略的な意向は全くない。’とした。

4237(1904)年の日露戦争に対する日本天皇の詔勅には、‘韓国の独立はわが帝国を完全無欠にする重要な版図になる。’とした。

 韓日議定書にはまた、‘日本政府は大韓国の独立と領土保全を確保する。’とした。
その他、多数の公私の文書で、日本は機会のあるたびごとに‘韓国の独立と領土を保全する’という対外名分を誇張し、韓国人に恩をきせるように世界に宣伝した。

 ところがいったん勢力を得て目的が達成されるや、日本は前の約束を弊履のごとく棄てたし、併合した後のいわゆる‘新しい政治’ということは、徹頭徹尾ただ強圧と差別と統計上の虚飾的な数字と植民地的な利用があるだけであった。

 これに対して朴殷植は“日本は国際上の確固たる条約としてしばしば世界に公約したものを、みずから破棄し、詐欺による人の国を奪おうとする野心をたくましくする。”とし、“わが二千万の民意を踏みにじって少しもかえりみず、世界の公理・公法の結局はけっして滅びないことを一人信ぜず、その国際的な地位は、まさに孤立の危機に陥っているのである。”17)と警告した。

 日本の韓国併合後のいわゆる、総督政治は専制暴虐の君主政治であった。日本は韓国を未開土蕃の地であるとみなし、台湾に実施したのと同じ統治方針をとった。そのため総督府の行政機関は主に植民地作業を実施する便宜のために設置されたし、この行政機関によって韓国人の生活権を奪いその代わりに日本人を扶養したのである。韓国人が新しい文化の創造へと志向することを絶対に許さなかった。固有の教育機関はすべて廃止された。

 日本の統治方針は主に憲兵警察を枢軸としていたし、日本の同化政策は日本語の普及に最も力を用いた。歴史教科書は韓民族古来の偉大かつ栄光の歴史事実をすべて抹消し、ひたすら日本天皇の慈愛、国威の発揮、人物文化の歴史を誇張し、日本崇拝思想を助長しようとした。

 1919年12月21日、日本政府の招待で呂運亨は東京に到着し、拓殖局長の古賀廉造、陸軍大臣の田中義一、政務総監の水野錬太郎、軍司令官の宇都宮太郎、内務大臣の床次竹二郎、逓信大臣の野田卯太郎その他の閣僚と会見した。

 彼は演説で、“韓国が独立して日本と分離するようになれば、韓国は仇恨の念をといて日本と同一の歩調を取り、日本と並んで進み、かえって真の意味での一体化をなすであろう。このことはまさに東洋平和を確実にし、世界平和を維持する第1の基礎である。”18)という内容の独立運動の真相及び韓国人の主張を披瀝した。

 次に、拓殖局長、古賀廉造との問答を通して、日帝が韓国を併合した論理を伺うことができる。

 第1に、韓国が独立または自治を獲得しようとすれば、何よりも富強をなさなければならない。…韓国民族の富強を世界に誇示する民族とすることが韓国人の最大の任務である。そのようにする方法は何よりも宗教・実業・教育などさまざまな方面にわたって、朝鮮総督府の方針に従って呼応し協力することである。…両政府がすでに合併したからにはどうしようもないことである。韓国人の実力が充分にそなわらないうちに日本と対等の立場に立とうとするとか、または、自治権を要求することも納得がいかない。…日韓の合併は二つの会社の合併のようなものである。

 第2に、世界が日本に良くない感情を持っていても…すでに合併が形式として成立した以上、どうしようもできないことである。いまはたんにこの形式を維持し、両民族が一つになって協力することが有益なようである。…韓国が自主防衛の実力がなくして独立することが、どうして東洋平和の大きな禍害とならないだろうか。…イギリスのインドに対する態度、アメリカのメキシコに対する政策を見れば、欧米人の東洋に対する施策は東洋の欧米化におかれている。自主防衛力の欠乏する韓国が独立すれば、東洋の平和を破壊するおそれがあるのである。それゆえに日韓が一致団結して西欧勢力を防御することが何よりも重要なのである。

 第3に、韓国に自衛の力がないのに、その独立を承認すれば、第三国の侵略をこうむらないであろうか。日清・日露の両戦争はこのために起こったのである。日本は莫大な犠牲を出したのではないか。

 以上のような質問に対して、呂運亨の独立運動の四つの主張は次の通りである。

 第1に、わが民族の幸福と利益、すなわち韓国の富強のためである。…われわれは誰の支配も受けなかった過去の自主的な歴史を継承し、また現在になされた発展をもって世界文明に貢献し、子孫万代の幸福を追求しようとするものである。

 第2に、日本の信義のためである。…日本が韓国の独立を承認するのは日本の信義ばかりでなく、日本の将来の国益のためでもある。

 第3に、東洋平和のためである。…日韓合併が東洋平和を破壊する根源となる韓国の独立はすなわち東洋の平和を保障するものではないのか。

 第4に、世界平和のため、同時に世界の文明に貢献しようとするものである。…東洋自体の平和がすなわち世界の大勢の均衡を保全するものとなり、東洋が団結することによって世界文化の進展に寄与できるのである。19)

 呂運亨は“日韓合併がすでに極めて不公正になされたものであるが、東洋の団結と東洋の平和のためには韓国の独立が至急な問題となっている。”20)と主張した。そのような意味から従来、日本人たちは誤った判断を下し、日韓合併は好意から出たのであり、韓国人の同化が可能であり、また韓国人は日本の良い政治に喜んで服従するだろうといってきた。しかし日本は、今日に至るまでもまだ夢から覚めえないでいる。もともと平和は生存の希望、自由・平等の尊い享有の中にあり、危惧・絶望・圧迫・差別など不平等のもとでは存在しない。彼は東洋には多くの国々があるが、特に韓国・日本・中国が互いに和睦できなければ、東洋平和を口にできないものであると考えていた。

 呂運亨は日本に対して、“貴国はもともと、わが国の独立を熱心に主張し、しばしば天下に声明しながら、ついにこの声明を反故にし、合併をなした。これでどうして東洋の平和を維持し、人民の幸福を維持することができようか。”と追及し、“しかし今はたまたまその趣旨に反している。政策の過ちを再び深く考えてみなければならないだろう。”21)と反省を促した。

 彼はまた、日本は日韓合併においていくつかの理由を挙げているが、その結果がどうなり現状はどうか。

 当初、日本が誠意をもってことに臨んだというが、何をもってこれを証明するのか、今や時代は変遷をくりかえしているが、日本もまたその誤った思考の方式からでなければならないし、強権の時代は過ぎ、平和と正義を追求する傾向が日ごとに高潮しているため、今日われわれが紛争をやめ、融和を企てた時期であると勧めた。

3)韓国の独立と平和思想
@ 韓国の独立
 呂運亨は韓国の独立を主張する理由として、“日本の中国に対する政策をもってこれを見れば、東洋平和の美名をかりて、その帝国主義、侵略主義を思う存分に実行した。このため4億の中国人民は、ひとしく一致して、日本を仇視するようになった。このことは、東洋内部の平和を破壊していることでなくてなんであろう。”と前提したうえで、“東洋の内部に平和なくしては、外に対して平和を期待しても全く不可能である。また、韓国の独立を得ざれば、東洋の平和を望めないことも明らかである。”22)というものであった。

 韓国の絶大的な主張はただ一つ、独立のみであり、韓国民族の独立運動は最近30年間中断されたことが歴史上の精神から発生する動力であったし、韓国独立の訴えは人道に符合し、時勢に平行し、神の命に従うものであるから、これは民族の宿願であった。

 また、国民が韓国の独立問題に対して、積極的に援助しなければならない理由として、“第1に、中国と日本の間の条約から見ても、日本の信義から見ても当然のこととして韓国の独立を承認しなければならない。第2に、人道主義的な見地から韓国独立の実現は当然促進されなければならない。第3に、東亜の安全を維持し世界の混乱をまぬかれようとすれば、何よりも韓国の独立を力のかぎり主張しなければならない。第4に、韓国人の独立要求はすでに充分な理由がある。”23)ことをあげた。

 中国が過去の条約で韓国の独立を承認したことは明確な事実であり、日韓合併は決して公式的な承認ではなかった。

 対中国との関係を見ても、“一人の平凡な義民の公憤が、韓国をして1日も早く独立の原状に回復させ、東亜の地に第2の共和国を建設させれば、ただ韓国国民の幸福ばかりでなく、わが中国4億同胞もまたともに栄光を得るのである。”24)さらに、東洋全体のための見地からみても、韓国の独立は最も重要なものである。韓国が独立さえすれば、山東問題だけでなく、中・日両国間の紛糾は次第に解決されうるだろうと見ていた。

A 東洋平和
 呂運亨によれば、平和は生存の希望・自由・平等の尊い享有のもとにあり、危惧・絶望・圧迫・差別など不平等のもとでは存在しないというものであった。彼は東洋平和を対内的な東洋平和と対外的な東洋平和とに分け、対内的な東洋平和は東洋の各国間での平和であり、対外的な平和は西洋勢力の東侵を防止し、平和を保全するものであるといった。さらに彼は、“東洋には多くの国々があるが、特に韓国・日本・中国が互いに和睦できなければ、これは東洋平和だとは言えないものであり、また、対内的な東洋平和がなくして対外的な東洋平和を維持できない。”25)と強調した。
義兵たちの主張も東洋の平和のためのものが明らかである。
呂運亨は、“真正なる東洋の平和は、広義安固なる東洋共存主義の基礎の上にはじめて樹立されるべきもので、一国の欲望と一時の勢力をもってほしいままに侵略奪取して成立するものではない。”と述べ、“今やロシア帝国はすでに崩壊し、ドイツもすでに駆逐され、侵略主義・軍国主義はともにすでに歴史上の遺物となった。そうして東洋平和に対する脅威は全く除去されている今日、 併合の意味はいっそう虚しいものとなっている。”27)このように両国の併合がいかに東洋平和にとって不幸なことであり、‘両国併合’はその主要な目的が東洋平和にある、とする主張に対して反駁した。
また彼は、“韓国の併合によって東洋全体は分裂、相互に反目し合うことによって、畢竟は白人種の横暴のもとに共倒れとなれば、日本は実際にその過ちの責任を負わなければならない。”と日本の責任を問い、また内では、怨恨と憤怒を抱き、日本のくびきから一時急ぎ逃れようとする民族に軍隊と警察をもって威圧を加え、外には4億の中国人が日本に対して永遠の危惧心をもたらし、上下の人民が心を合わせて日本を排斥するようになれば、東洋平和共存の原則は永遠になしがたいであろう。“28)と言い、東洋平和共存の困難が併合に起因すると述べた。

B 世界平和
 孫文は、“韓国は東洋のバルカンである。この問題が解決されずには永久平和というのは来ることができないだろう。”29)と述べた。
 韓国問題は世界の恒久的な平和と直結する。世界の平和と人類の幸福に東洋の平和が重要な一部になっており、韓国の独立が重要な要となっている。

 世の中の人たちをして韓国の独立を公認するようにしなければならない。そうしてその実現をなし、極東の患難の源泉を除去し、世界平和の基礎を強固にし、人類平等の実現が促進すれば、その恵沢が韓国民衆にのみかえるだけでなく、東亜と全世界の将来に寄与するだろう。30)

 朴殷植は、「儒教の発達が為平和最大基礎」という論説で、現代は世界人類の分裂競争が非常に激烈な時代であるといい、世界平和の最大基礎は宗教にあると述べ、その例として仏教の普度と耶教の博愛が平和主義であると述べた。

 わが東洋の儒教に対して述べれば、世界平和が一大主義であり、論語の忠恕、寛と中庸の中和位育、そして禮運の大同がすべて平和の本源であり、平和の極致である。また、春秋の一部の大旨が天下の列国をして禍乱を鎮めしめ、講信修睦し、また、儒教の発達がやはり東洋平和の最大の基礎になり、この東洋平和が全世界に普及するとき、世界同胞をして大同平和の幸福を享有するようになるだろうといった。

 世界平和の最大基礎は宗教範囲にあるので、仏教の普度と耶教の博愛が莫非平和主義であり、吾東洋の儒教に言及しても世界平和が一大主義である。論語の忠恕、寛と中庸の中和位育、禮運の大同が皆平和の本源であり、平和の極功であり春秋の一部大旨が天下列国をして息争が乱れ、講信修睦してこそ大同平和を為すことができ、これらの主義が目下競走時代には適合しないように、将来、社会影響が平和に傾く日に吾儒教の大発達を確然と期すべきだろう。…儒教発達の時期はすでに至っており、これこそ東洋平和の最大基礎ではないだろうか。然則東洋平和がこれに基礎し漸次発展する日であれば、全世界に普及する影響が有ることも理勢の必然であると言うのだから、嗚呼、吾東儒教よ、儒教の形式を勿泥し、儒教の精神を発揮すれば世界同胞をして大同平和の幸福を均一享有するようになるだろう。31)

 このように彼は、東洋平和が儒教の発達を基礎としなければならないし、さらには、儒教の精神を発揮してこそ世界同胞をして大同平和の幸福を均一に享有できると主張した。

(6)独立宣言書に表れた平和思想
 1919年3月に起こった3・1独立運動は19世紀後半以来長期間にわたってたゆまずに継続されてきた韓国民族の反侵略・革命運動、とりわけ反日義兵闘争、愛国的啓蒙運動などを継承発展させたものである。1910年以前のこれらの運動は全国的な規模の運動であったが、それはおのおの別個の潮流として展開され、全民族的な規模の民衆運動にはならなかった。1910年以後、日本の完全な植民地支配によって民族的な矛盾が極度に尖鋭化された条件下でこれらの運動は互いに作用しあい結合して近代的な民族主義を指導理念とする独立運動として発展した。

 3・1運動は韓国内では1919年3月-5月に最も集中的に闘争したが、日本、中国、ソ連沿海州、米国などの海外居住の韓国人らを含めた全民族的な抗日独立運動であった。この運動は日本の憲兵警察と軍隊によるいわゆる、「武断統治」というすべての自由と権利が剥奪された暗黒の困難な条件下で、国の内外から広範囲の階層の人々を動員し、日本の支配者及び日本国民の前に、そして世界各国人民の前に民族独立の意思を誇示した輝かしい独立闘争であった。

 1917年、第1次世界大戦がまさに終わろうとするとき、ロシア10月革命によって帝政ロシアが崩壊し、革命政権によって「平和宣言」が発表され、民族独立、無賠償、無併合の原則が闡明になった。続いて米国大統領のウイルソンは1918年1月、民族自決の14か条の原則を発表し、2月のパリ講和会議で被抑圧民族の独立が承認されるだろうと述べた。
こうして、1918年11月、世界大戦が終了すると同時にハンガリー、ポーランド、チェコスロバキア、エジプトなどのさまざまな国家の独立が宣言され、この民族自決主義、独立の機運は世界の植民地従属国の民衆に大きな影響を与えた。

 このような世界情勢の動向は海外に亡命して独立運動を行っていた韓国人の活動家たちには千載一遇と言える機会の到来であり、より積極的な独立のための直接行動の動きが始まった。

1)「2・8独立宣言書」
 在日韓国人留学生たちは東京で英国人が発行した「Japan Advertiser」紙(1918年12月1日付)、「東京朝日新聞」(1918年12月15日付)などに掲載された米国での独立運動の動きの報道を読んで刺激を受け、12月29日、東京韓国留学生学友会主催の忘年会を明治会館で開き、また、翌年、韓国YMCA会館で開催された東西連合雄弁会などで独立問題を議題とし、その実行に関する討議を行った。

 2月8日午後2時、韓国YMCA会館で学友会幹部の選挙の名目で約600人が参加し、留学生大会を開催した。この時、彼らが韓国青年独立団の名で発表した「独立宣言書」のうち、<韓国の独立>と<東洋の平和>に関するものを見れば次の通りである。

 日本は朝鮮が日本と唇歯の関係にあるといい、1894年の日清戦争の結果によって朝鮮の独立を率先して承認したし、米・英・独などの諸帝国も独立を承認しただけでなく、それを保全することに約束した。

 当時ロシアの勢力が南下して東洋の平和と朝鮮の安寧を脅かしたことがあり、日本は朝鮮と攻守同盟を締結し、露日戦争を開いた。東洋の平和、朝鮮の独立を維持するということがすなわちこの同盟の趣旨であった。...

 戦争が終結し、当時アメリカの大統領の故ルーズベルトの仲裁によって講和会議が開かれたとき、日本は同盟国である朝鮮の参加を許さず、露日両国の代表者が朝鮮に対する宗主権を任意に設定したし、日本は優越した兵力を信じて朝鮮独立を保全するという旧約を違反した。...

 朝鮮の皇帝とその政府を脅し欺瞞することによって朝鮮の国力が充分に独立を獲得するときまでという条件を強制で設定し、朝鮮の外交権を剥奪し、日本の保護国にして、朝鮮をして直接世界各国に外交する道を断絶するようにした。...   

 最後に、東洋平和の見地から見ても、日本の最も大きな脅威であるロシアはすでにその軍事的野心を放棄し、正義と自由を基礎とした新しい国家の建設に力を注ぎ、中華民国もそうである。...朝鮮を併合した最も大きな理由はすでに消滅した。以降、朝鮮民族が万一、革命の乱を引き起こせば、日本が朝鮮を併合したのは実に東洋平和を恐ろしくする禍根となるだろう。...

 わが民族は高尚な文化をもって以来久しく、また半年の間、国家生活の経験を持った。たとえ多年間の専制政治下での被害によって今日のように不幸となったが、今からは正義と自由民主主義の先進国の模範にしたがって新しい国家を建設すれば、われわれの建国以来の文化と正義と平和を愛好するわが民族は必ず世界の平和と人類の文化に対して貢献するだろう。

 ここにわが朝鮮民族は日本と世界各国に対して、民族自決の機会を要求する次第である。万一そのようにしなければわが民族は生存のための自由の行動をもってわが民族の独立を期することを宣言する。

決議文で、
 本団は、朝日併合がわが民族の意思から出たものでなく、わが民族の生存と発展を脅かし、東洋平和を攪乱するようにする原因になるという理由から独立を主張する。32)
  
2)「3・1独立宣言書」
同年3月1日、ソウルでは朝早く独立宣言書、独立新聞などが各家ごとに配布され、市内の重要な場所には檄文が貼られた。ソウルの鐘路街、パゴダ公園には市内の中等学校以上の学生、及び一般の民衆らが集まって数千―数万人に達し、独立宣言書の決行を待機していた。

 民族代表29人はソウル仁寺洞の明月館支店の泰華館に集まって、午後2時に独立宣言書を朗読するや、包囲していた日本官憲によって逮捕された。
パゴダ公園に集まった民衆は太極旗を手に持って元璧、康基徳らの指導にしたがって独立宣言がなされた。

 我々はここにわが朝鮮国が独立国であることと、朝鮮人が自由民であることを宣言する。...
 また、二千万人の民の含憤旧怨を主として威力にもって拘束しようとすれば、東洋の永久的な平和の障害になるだけでなく、これによって東洋の安危の主軸となる4億中国人の日本に対する危惧を時期がたつほどに濃厚にし、その結果として東洋全局が必ず共に倒れ同じく亡びる悲運に陥るようになることが明らかである。

 今日我々がはかる朝鮮の独立は朝鮮人をして正当な尊栄獲得せしめると同時に、日本人をして邪悪な道から救出し東洋の支持者としての責務をまっとうさせるものであり、中国人をして蒙昧にも忘れ得ない不安と恐怖からのがれさせようとするものであり、また、世界の平和と人類の幸福に東洋の平和が重要な一部となっており、朝鮮の独立が必要な段階となるのである。どうしてこれが小さな感情の問題たりえようか。

 両国の併合は、その主要目的が東洋の平和にあると言っているが、東洋平和というものはどういうものであるのか。果たして朝鮮人の国家的な犠牲と民族的な不幸が必要なのか。朝鮮の国家的な生命を絶つことがはたして東洋平和の永久的な基盤になると言うのか。真の東洋平和とは一般に共産主義の基盤に立脚して確固たる協議をもってなされ、決して一国の欲望や一時の勢力によってむやみに人の国を併呑して成立しない。世の中にどうして爆薬を基盤に装置した建築が認められ堅固たりえるだろうか。

 それゆえに両国の併合は東洋平和のために不幸なことだけである。このように誤った判断をもって併合したが、その考えが賢明たりえなかったと証明するだけである。のみならず、現在、ロシア帝国はすでに崩壊したし、ドイツもすでに追いやられ、侵略主義・軍国主義は歴史上の古物になった。そうして、東洋平和に対する脅威も完全に除去された時期である。だから併合の意義はさらに虚無のものとなってしまった。...

 次第に両国の併合がかえって東洋平和の最も有害な大きな禍根なるだろうと言うことは中国人らの日本に対する心理的な変遷がきわめて有力な証拠になる。

 中国のみならず、日本は蒙古に期待と野望を抱いているが、朝鮮の併合によって彼らに至大な恐怖心を与えたことは明確な事実である。

 ああ朝鮮を併合したために東洋全局が分裂し、相互に反目しあうことによって、畢竟、ともに白人種の横暴のもとに倒れるとすれば、日本は実際にその過誤の責任を負わなければならないだろう。また、内には怨恨と憤怒を抱き、日本のくびきから一時でも早くのがれようとする民族に軍警をもって威圧を加え、外には、中国の4億の人口をして日本に対して永遠の危機心をもたらし、上下の人民が心を合わせて日本を排斥するようになれば、東洋平和共存の原則は永遠になされ難いであろう。

 このような恐ろしい情勢を見ても、朝日両国の新しい運命を誇張することが焦眉の急務である。今日われわれの若干の過ちにすなわち日本が東洋平和の自主になるか破壊者になるのかの運命がかかっている。また韓国をして東洋平和の安全板になりもし、噴火口になれたりもするので、どうして牽制し注意せざるをえないだろうか。ひたすら日本の自衛上から見ても朝日併合は日本の国体に対して慎重な脅威を帯びていることを知識人は容易に知ることができようか。33) 

 独立宣言書の内容の骨子は次の通りである。第1に、韓国は独立国であり、韓国人民は自由の民であるということを宣言している。しかもそれは‘自由平等の大義’であり、‘民族自存’の正当な権利であると主張している。

 第2に、韓国は日本の支配によって大きな犠牲を出したが、民族と国家の発展と幸福のための最大急務は‘民族の独立’確立することにある。
 第3に、今日の課題は新しい国家の建設であり、旧思想、旧勢力及び日本支配者がもたらした不合理なことを正しくすることである。

 第4に、韓国の独立が日本国、日本民族との正しい友好関係をつくりだし、東洋及び世界の平和、人類の幸福をもたらすことである。
第5に、民族の独立及び自由のために最後の1人、最後の一刻まで民族の正当な意思を発表する。34) 

 独立宣言書には東京留学生の「2・8宣言書」、「3・1独立宣言書」以外の間島龍井村の間島居留韓国民族一同(3・13)、間島クンチュンの大韓国民議会(3・20)、間島の大韓独立宣言書やウラヂィボストーク新韓村の韓国国民議会の韓国独立宣言書、さらに大韓僧侶連合会宣言書、韓国民族大同団の宣言書、大韓独立女性宣言書など10余種類がある。
また、当時作られた文書にはパリ講和会議、ウイルソン米国大統領、日本政府、朝鮮総督らに提出された意見書あるいは請願書、通告書があり、国内の各地に配布された多数の檄文、各種の新聞がある。このような文書の内容を総合的に見ることによって当時の韓国人民が独立を志向した思想状況を知ることができる。

4.終わりに

 この論文では近代韓国の平和思想を重点的に分析、検討した結果、次のような結論に到達できる。

 第1に、韓国が独立すれば、‘極東平和の最大限の禍源になる。’というのが日本の一貫した主張である。‘韓国が保護国化すれば初めて将来韓国が対外関係によって再び国際紛糾を維持し、東洋の平和を攪乱する心配を根絶できるものであり、結局は、日本は相互の幸福と東洋の平和を永久に確保する’ために韓国を併合した。

 第2に、韓国人の主張は、‘韓国が独立すれば恩讐の怨みを解き、同一の歩調をとってともに発展していくとすれば、かえって真正な友邦として合一されるだろうし、是は実に東洋平和を確保することであり、世界平和を維持するための第1の基礎となるだろう。’というものであった。

 第3に、 福沢諭吉は韓国の滅亡こそかえってその幸福を大きくする方便であると露骨的に差別的な主張を展開したし、韓国政略の要点は、韓国の独立が韓国のためでなく日本の利益を確保することにあった。

 兪吉濬は韓国が日本の半植民地化状態で光復ができる道は富国強兵をなすことであり、国家に対する愛国心、国王に対する忠誠心が国民的統合をなすことができるものであり、東洋の永遠の平和をもたらすだけでなく、韓国と日本間に平和信頼関係をもたらすと信じていた。

 第4に、伊藤博文は韓国の独立を韓国にまかせば東洋禍乱が起こるため、韓国の独立を日本の保護にまかせれば(韓国保護国化)、東洋平和が克復されると述べた。彼が主唱した日韓提携論は日本が韓国を属国ないしは併呑することを目的とする関係であった。
崔益鉉は日本が韓国の独立を尊重すれば東洋大局が、平和が維持されるものであるというものであったし、韓日清の東洋三国の協力が必要であることを主張した。
安重根の平和思想は韓国の独立を基礎にし、韓日の親密化、韓日清の三国同盟、東洋の平和、さらには世界平和へと発展していくものであった。

 第5に、申采浩は大陸の民族と海洋の民族が侵略してきたのを防ぐことが有史以来韓国人の天職であったとして、東洋の平和の重要な点は韓国の独立であると主張した。
一方、朴殷植は、韓国問題は世界の恒久的な平和と人類の幸福と東洋の平和が重要な一部になるために韓国の独立が必要なものになるだろうと言った。
彼はまた、世界平和の最大基礎は宗教にあると見た。論語の忠恕、寛と中庸の中和位育、禮運の大同がすべての平和の本源であり、平和の極功であると言った。儒教の発達が東洋平和の最大基礎となるものであり、東洋平和が全世界に発展して影響を及ぼすことがこの世の必然である。さらに儒教の精神を発揮すれば、世界同胞と大同平和の幸福を均一に享有することができるだろうと主張した。
(2002年9月24日受稿、10月21日受理)
この原稿は鮮文大学校の2000年度研究助成金によって作成されたものである。


1)兪吉濬全書編纂委員会 編、『兪吉濬』[W]政治経済編(一潮閣:1971)、279〜281面。
2)上同 276面。
3)上同、277面。
4)上同、279面。
5)黄 、『梅泉野録』(韓国資料草書1、国史編纂委員会、1955)、378〜379面;李鉉淙 編著、『近代民族意識の脈絡』(ソウル:亜細亜文化社、1979)、114(386)面。
6)『勉菴集』巻6、<寄日本政府>。
7)市川正明、『安重根と日韓関係史』(東京:原書房、1979)、「安重根外三名第1回公判始末書」、429〜430面。
8)上同、430面。
9)「第5回公判始末書」、485〜487面。
10)「第3回公判始末書」、480〜481面。
11)丹斉申采浩先生記念事業会 編、『丹斉申采浩全集』(蛍雪出版社、1977)、251面。
12)上同、251面。
13)上同、252面。
14)上同、252〜253面。
15)檀国大学校付設 東洋学研究所 編、『朴殷植全書 上』(檀国大学校 出版部、1975)、501面。
16)『全書 上』、449面。
17) 『全書 上』、13面。
18)『全書 上』、134面。
19)『全書 上』、135〜136面。
20)『全書 上』、137面。
21)『全書 上』、53(561)面。
23)『全書 上』、139(647)面。
24)『全書 上』、105〜107(613〜615)面。
25)『全書 上』、104(612)面。
26)『全書 上』、139面。
27)『全書 上』、22(530)面。
28)『全書 上』、23(531)面。
29)「韓国東洋之巴爾幹此問題解決之前永久的平和不能来也」、『全書 上』、102(610)面。
30)『全書 上』、107(614)面。
31)『皇城新聞』(第3224号)1909年11月16日字、論説「儒教発達が為平和最大基礎」。
32)『全書 上』、10〜13(518〜521)面。
33)『全書 上』、17〜19 (525〜527)面。
34)朴慶植、『朝鮮三・一独立運動』平凡社選書49(東京:平凡社、1926)、93面。