教育観・学習観の転換

長野女子短期大学副学長 宮崎 和順

 

1.はじめに

 20世紀の教育を反省しながら、21世紀の教育をどのように考えていけばよいかについて考えてみたい。その基本は、「『勉強』から『学び』への転換」ということになろう。それが、真の意味での子どもたちの考える力、想像力を培っていく力になるのではないかと思うからである。

 1900年にエレン・ケイという文明評論家は、20世紀が真に子どもにとって幸せな世紀となるようにとの思いを込めて、『児童の世紀』という書を著した。果たしてその通りになっただろうか。私はそうではなかったと思っている。学校の施設・設備、教職員への待遇などハードの部分は、それなりに改善されてきたといえる。しかし、教育の主体である子どもたち自身は、本当の意味で幸せにはなっていないと思う。言葉を換えれば、「児童の世紀」ではなく「学校の世紀」であったのではないか。

 澤柳政太郎氏(京都大学元総長、成城学園創始者)は、「学校は条理の支配する所である」と述べている。「学校の条理」とは、子どもを中心に据えるということである。さまざまな教育改革が進められているが、その根幹に「子どもを中心に据える」という考えがあってこそ、真の改革が実現するのである。

 また、信濃教育会の教育研究所長を務めた上田薫氏は、「人間尊重の精神に立つことは、一人一人の子どもをよく理解することである」と言った。学校の先生方が、一人一人の子どもたちのことをいかに理解していないかということが最も問題なのである。「それが実現していれば、子どもを巡るさまざまな問題の多くは解決されるに違いない」と述べている。

2.教育を考える二つの視点

 カントは、「人間は教育によって人間になる」と言った。それでは、なぜ人間には教育が必要なのか。それにはさまざまな答えがあると思う。私は、人間が人間として、人間らしく生きていくためには、教育がどうしても必要だと考えている。人間が人間らしく生きる教育を考える上で、「不易」と「流行」という二つの視点がある。

 まず「不易」とは、人間が人間らしく生きていくために、時代性、地域性を超えて、身に付けておかなければならない普遍的な(道徳的)内容のことである。もう一つの「流行」とは、人間が一つの時代を生き抜いていくために、その時代的限定状況に応じた必要な能力を教育によって養うことである。

(1)「不易」
 「不易」のまず第一に挙げられることは、「自己抑制力」である。これは良心や深い同情心をもって、他人の苦しみや悲しみを共有することのできる感性を身に付けることである。それとともに、人間には社会生活を壊す「自由」はないということである。人間は社会のルールを守るべきであり、人間には「絶対的な自由」(自分の思いのままに他人を傷つける裁量をも含むこと)はないということである。別の言い方をすれば、人間が生きていくためには「不自由さ」があることを子どもたちに理解させることが、本当の意味の「自由」を獲得させることになると思う。そして人間は本能や欲望のまま、勝手気ままに生きることはできないのだということを、子どもたちに理解させる。このことが自己抑制力を育成していくことになると考えている。そのためには、家庭と地域社会も協力しながら共同生活や体験学習などを通じて身に付けていかなければならない。

 二番目は、「知的遺産の継承と発展」である。先人が作ってくれた人類の知的遺産を、後代に正しく伝えることのみならず、発展させて伝えていくことが大切である。

 三番目に、「個性を生かす」ということである。教育とは、各人が持っている個性を引き出し、才能を開花させることだと定義できる。しかし、これまでの日本の教育は、それとは少し違っていたのではないかと思う。

 明治時代は、欧米先進国に追いつき追い越せという時代の要請の中で教育改革がなされ、1872年(明治五年)に学制が施行され、義務教育がスタートした。そして知識の詰め込み、知ることが教育の中心に据えられるようになった。そのような中でも、福沢諭吉は当時から、子どもたちが持っている個性を十分に「発育」させなければならない(天子の発育)と考え、教育と言う言葉から「発育」という言葉に代えたらどうかと提案した(「文明教育論」)。

(2)「流行」について
 人間は一つの時代に生きる存在である。子どもたちが将来生きていく時代はどのようであり、子どもたちにどのような力を身に付けさせていけばならないのか等について、少なくとも次の十年を見据えて考えていかなければならない。

 既に21世紀に入ったが、この時代の共通する特徴は、不透明、流動的、複雑であろう。それは科学技術の進歩と工業化の結果もたらされたものである。特に、20世紀末からの特徴としては、計画経済から市場経済(自由経済、自由競争)、平等よりは自由、全体(公)よりは個人重視というように、「競争原理」ということが挙げられる。

 かつてルソーは、競争について「相手を蹴落としても」という競争(competition)と「共に高まっていく」競争(emulation)という二つの概念をあげ、後者の競争は良いと述べた。「競争」は、人間社会において避けることの出来ない課題である。人よりもこの部分では優れたいと思って人と競争するのは、ある意味で健全な姿だと思う。しかし、「競争」ということを広い意味で捕らえなおし、「共に高まっていく方向」に考え方を転換していくことが必要である。

 米国の社会学者D.ベルは、次のようなことを述べた。産業革命によって生まれた官僚制度を支え、経済社会を支える主軸は「効率」である。また、「平等」は、市民革命によって生まれた概念である。「自己実現」とは、何かの職業につくことではなく、自分らしさを作くりあげていくことであり、近代社会において外的な欲求が満たされた後には、自己実現欲求が大きく出てくる。資本主義社会においては、これら三つの価値が中心におかれることになる。しかし、社会の福祉・幸福を考えた時には、共に生きる、「共生」ということがこれら三つに加わる必要がある。すなわち、21世紀は「競争」と「共生」が同時に存在していくべき時代なのである。

 そのような時代発展の中で、必要な資質とは一体何か。
 第一に、科学技術の進歩は止められず、それに伴ってテンションが益々高まっていくので、その中では、健康で強靭な体を作ることが重要である。さらに都市化が進むと、人間関係が希薄化するために、感性を養うことが大切である。無機的になるということは、生活観がないことでもある。また、教養とは、人と人とをつなぐものだと言われている。そのような感性をしっかりと養っていくことが大切である。

 第二に、情報化がますます進行する時代においては、情報機器が使えるという段階に留まることなく、どこでもいつでも必要な情報を入手することが出来、それをしっかりと構成し使っていける能力が必要である。それはまた、考える能力でもある。

 第三に、国際化・グローバル化時代において重要なことは、まず日本人としてのアイデンティティーをしっかりと形成することである。日本人らしさを身に付け、次に、自分の考えをしっかりと表現できること(語学力)である。

 第四に、高齢社会において重要なことは、いくつになっても学ぶことを失わない「生きる力」をもつことであり、反骨、気骨を持つことである。ただ生きるのではない。年をとった時に、自分自身は何を生きがいにして生きるのか。それは学ぶことである。

 さらに付け加えれば、時代の変化に伴い、新しい学問領域が出現してくる。それと同時に個々の諸科学間の交渉領域(学際)を包括した学問を総合化していかなければならない。例えば、公害問題は、法律、経済、政治、医学などさまざまな学問的アプローチが総合されてこそ完結する。そのためには知的なものの再構築が必要である。

3.これまでの教育の問題点

(1)戦後教育の変遷
 日本の教育改革(明治維新、戦後の改革)は、「非常時の改革」であったために、どうしても知ることが教育の中心に据えられることとなった。それはそれなりに成果をあげることができたが、十分といえるものではなかった。

 それでも、戦後から1958年ごろまでは、非常に自由で創意工夫に満ちた学習が教育において実施された時期であった。しかし、1956年、地方教育行政の組織及び運営に関する法律ができ、さらに1958年には、学習指導要領が法的拘束力を持つようになった。そのようにして、戦後の日本では中央集権的な教育が行われるようになっていった。

 1956年ごろ(昭和30年代)から70年代、80年代にかけて日本の近代化のピークを迎え、世界各国から日本の経済発展に関心が集まった。果たしてそのような中で、子どもたち自身はどうであったか。トーマス・ローレン(スタンフォード大学文化人類学教授)は、『日本の高等学校』(Japan's High School)という書物の中で、自分自身日本の学校の授業や職員会議にも出てみた感想を述べている。日本の教育は、「学んで思わざれば即ち罔し」(論語)とし、知識の詰め込みであり、考えることが出来ておらず、知ることの教育にかなり偏重している。一方米国の教育は、「思うて学ばざれば即ち殆し」(同)とし、基礎学力をつけることを怠って、考えることだけを行っており、その結果、独断と偏見に陥ったと述べた。

 その後1998年、地方分権一括法の施行に象徴されるように、いわゆる中央集権体制に「ゆるみ」が出てきた。教育の分野では、1999年に学習指導要領の改訂が行われた。「ゆとり」を掲げて教育内容を削減した。「ゆとり」自体は、いわば自分自身で自由に使える時間であり、そのような時間を増やしていくことが、人間の創造力を高めていくことにつながるというわけである。

 「ゆとり教育」は、学校生活を改善していくためにはいい方向性だと思う。もちろん近年議論になっているとおり、子どものもつ知的水準がどうなるかという危惧もある。そのためには何が重要で何が重要でないか、そのような教育内容の識別・精選が非常に正確に行われる必要がある。しかし、それは大変難しいことである。また文部科学省としても、真の成果をあげるためにさまざまな手当てをしている。

(2)教師の力量
 教師が信頼されていれば、基礎学力を上げていくことが可能である。問題は、いかに学校の先生が信頼されていないかということに尽きるのではないかと思う。

 戦前の教師は、「国家の奉仕者(national servant)」といわれた。戦後は公僕(public servant)といわれ、その時点では新鮮味があった。1970年代から80年代の経済成長の絶頂期には、「教師は専門家」だといわれた。その意味は、技術者(technician)という意味であり、「本当のプロ」という意味ではなかった。一番最初に「プロ」といわれたのは、牧師で、その次には、弁護士、医師、大学教授などであった。彼らは、自由と自律が与えられた者であった。

 今、教師にとって大事な「ゆとり」というものが与えられたわけだが、教師が本当の意味でプロとなり、自由な時間を自由に子どもたちと共に使うことによって、本当の意味の学力を彼らにつけていくことができなければならない。

 21世紀の教育を考えるときに、Less is more. Simple is better. Small is sensible.ということがある。学ぶことは少なくても、たくさんのことを身に付ける(Less is more.)。学校というものは、単純なほど良い(Simple is better.)。教育改革とは、制度を変えることではなく、授業と学習のあり方を変えることである。それらはひとえに教師の力量にかかっており、その実現のためには、教師の専門性を高めていかなければならない。そのためには、教師が教材研究に集中でき、一人一人の子どもに対してよく理解することができる時間的なゆとりがなければならない。

 今までの教師は、非常に個人主義的な生き方であった。しかし、これからは、いろいろなアイデアを出して交換し合い、共に専門性を高め合いながら専門家としての連帯を培っていく。そのためには、学校は規模が小さく、単純であればあるほどよいことになる。そうすれば、同僚性、互恵的要素が高まり、教師の連帯性が形成されることになる(Small is sensible.)。

4.21世紀の教育のあり方への提言

(1)教育観の転換
 1948年に世界人権宣言が発表されたが、その第26条と関連して、J.ピアジュは学習と発達について述べた。子どもたち一人一人が持つ個性が十分発達することの出来る学習環境を作ってあげることが重要である。それが学習の真意であり、教育の権利とは、ただ就学の権利だけではなく、子どものもつ資質を十分伸ばすことのできる教育環境を与えることである。

 さらに1965年、フランスのポール・ラングランが「生涯教育」ということを提唱した。また85年に、ユネスコは「学習権」を宣言し、「学習権なくしては人間は豊かにならない」といった。年をとってもどのようにすれば生きがいをもつことができるのか。「生きる力」とは何か。その答えは学ぶことであり、人間いくつになっても学びを通して自分を広げていくことである。

 1972年にフランスのホール首相がユネスコの国際教育委員会委員長となり、その報告書の中で「Learning to be」ということを述べている。それは「人間はどうあるべきかを学ぶ存在だ」という意味である。その後96年に、21世紀国際教育委員会のドロール委員長は、「今までは知ること(learning to know)にあまりにもウエイトが置かれすぎた、人間はどうあるべきかを学ぶ、共に生きることを学ぶ、何を為すべきかを学ぶことが必要だ」と指摘した。

 彼はまた、ラ・フォンテーヌの「農夫と子どもたち」という詩を引用して、次のように述べている。フランスの農夫の父が死を目前にして子どもたちに遺言をした。「取入れが済んだら、畑を隅から隅まで掘り起こせ。そうすれば宝物が出てくるだろう。」そして子どもたちは、取入れ後に、畑を隅から隅までよく掘り起こしたが宝物は出てこなかった。しかし、翌年には豊かな実りを得た。実はそれが学習(learning)なのである。

 中国では、紀元前4世紀ごろ性善説(孟子)、性悪説(荀子)、性白紙説(告子)が唱えられ、それぞれが論争をした。「教育とは人間を良くすることだ。性悪説であれば、生まれながらにして悪なのだから、教育の結果は装いの姿となる。真のよさとはなり得ない。」として、性善説に軍配が上がったという。そして、性白紙説についても同様である。教育というのは、いかに人間をよくするかということに焦点が当てられている。
また、村井実氏(慶應義塾大学名誉教授)は「教師の立場、親の立場に立った時、どの子どもも良くありたいと思っている。これを信じることが教育の原点である。悪くありたいと思っている子どもは一人もいない。」と述べている。

 プラトンは人間を染色に喩え、モンテーニュは「軟らかいうちに人間は形を創らなければならない」と人間を粘土に喩えた(『随想録』)。その後、ルソーは、「自然に帰れ。余計な手を加えなくても人間は自然に育つ(力を内に持っている)のだ」と言い、人間を植物に喩えた。ダーウィンは、1885年、『種の起源』を発表し、人間を動物に喩えた。このように人間を、ものや動物に喩えたり、動物実験をもとに人間の教育を考えることが今までなされてきた。人間を人間として考えることが、人間尊重の根本精神である。しかし、なかなかそのようにはなされてこなかった。21世紀こそそうすべきであろう。

(2)勉強から学びへの転換
 21世紀は、過去の経験では処理することのできない問題に直面することが少なくない時代である。そのような時には、問題の本質を見極め、新しい方法で解決していかなければならない。即ち、「考える力」を養う教育をし、そういう人間が育たないと、今のような時代には対応できない。もちろん、従来のものを知る教育によっても考える力は養われたが、それだけでは間に合わない。この点をもっと考えていくべきであろう。それには、「勉強から学びへの転換」が必要である。

 まず第一に、「学ぶ」ことの本質は、「慎み深さ」「誠実さ」であり、倫理的な概念であると考えている。これを教育の原点として幼児教育から考えていかなければならないのではないかと考える。

 江戸時代は、認識としての「真理」と、倫理としての「誠実さ」「慎み深さ」を学ぶことが「学び(学習)」であった。誠実さ、慎み深さというのは日本的な概念のようにも聞こえるが、決してそうではない。例えば、フランスのルイ・アラゴンは、「教えることは未来を語ることであり、学ぶことは誠実さを胸に刻むことである」と言った。またデューイにしても、慎み深さ(modesty)が学習の一番根本の概念であると語っている。

 「勉強」という言葉について言えば、江戸時代には、「商人が勉強する」というと、「無理してでも値段をまける」という意味になる。学習するという意味には使われなかった。中国においても、「勉強」とは無理をするということであり、学ぶという意味ではない。「勉強」という言葉は、明治維新以降(明治20年以降)、東大をピラミッドとする学校体制を作っていく過程で生み出されたものだと、私は考えている。

 では、「誠実」とは、どのような意味か。学べば学ぶほど、慎み深くなっていかなければならない。そして人の言うことに耳を傾け、ますます注意深くなり、ものごとの真実や自己の信念に忠実に生きることである。これが「誠実」ということである。アイヌに、「耳二つに口一つ」という諺がある。しかし、自主性と主体性を重んじる現代の教育は、「耳一つに口四つ、五つ」といわざるを得ない騒々しい現状である。それで慎み深さが必要なのである。

 そして、そういうことをただ気持ちの中で表すだけではなく、「身体技法」として、つまり身をもって範を示していくことができるように子どもたちを育てていくことが、最も大切なことではないかと思う。

(3)対話的実践としての学び
 「学び」とは、モノとの対話、人との対話、自己との対話というように、対話を通して行う実践が学び(学習)である。また学習(learning)は、協同的(collaborative)、活動的(active)、反省的(reflective)の3つの特徴を持つ。「反省的」というのは、人によってものごとの理解の仕方が違うので、それを互いに出し合い吟味しあっていく過程から学ぶのである。今までの勉強は、知識を身に付けるという個人主義的な営みであった。しかし、「学び」はそういうものではなく、協同して学ぶ、何かを媒介にして行う対話的な実践である。学校の授業自体もそのように転換されなければならない。

 そして、上述のことを「内に開かれた」といい、学校の中がこのような体制になった時(三つの要素を持つようになった時)に、先生方が子どもたち一人一人を尊重する姿勢が現われてくるのである。その意味では、「外に開かれた学校」も大事であるが、「内に開かれた学校」にすることがより重要なのである。

 別の言い方をすれば、「学び」とは認知的、文化的実践ということになる。「モノとの対話」とは、認知的、文化的な実践であり、「人との対話」とは、対人的、社会的な実践であり、「自分との対話」とは、自己のあり方を探求する実存的・倫理的な実践である。そして、文化的な実践とは世界作り、社会的実践とは仲間作り、それから倫理的な実践とは自己のあり方を探求する実存的実践、つまり、自分探しとなる。これらが三位一体となったのが「学び」だと考えている。

 その点でいうと、「勉強」は学びの本質を完全に剥奪されている。知識を詰め込む「勉強」のままにとどまっていては、異質な考え方との交流もなく、自己のあり方を反省的に吟味する自分探しのプロセスも排除されてしまう。この段階での知識は、単なる情報にしか過ぎない。

 そういう中で、「学び」をいかに回復するかが、これからの教育のあり方として重要になる。対話的にものを考えることが、考える力を養っていくことにつながる。

 私は学習について、「必然性の実感」(それは本当だという実感)、「課題性の実感」(それは問題であるという実感)、「意義の実感」(それは大事なことだという実感)、「情動の喚起」(それは素晴らしいことだ)があることによって、人間が納得して対話的に知識を身に付けることが必要だと考えている。人間は、生まれながらに文化的実践(appreciation)に参加している。文化とは作るだけではなく、使い、味わい、理解することも含むことをよく理解しておく必要がある。なぜなら、授業を展開していく時に、理解、感謝、賞味などの形の学習が必要だからである。

 また、学習のあり方については、探究者のような活動(researcher-like activity)が重要な概念である。小学生は小学生らしく、中学生は中学生らしく、高校生は高校生らしく、研究者、探究者のような活動形態でもって学習を展開していくことが対話的学習であり、本当の意味で考える力を養っていく学習につながっていくのだと思う。

5.最後に―人間的自立をめざして

 私は人間的自立というのは、生きていく上で拠って立つ原理原則を自分の中にしっかり作ることだと考えている。例えば、コト、モノ、人に心を砕くこと(care)であり、次に知的関心を持つこと(concern)。もう一つは人と人のつながりを大事にすること(connection)である。こういう3Cをしっかり内に持つことが人間的自立、さらにはどう生きるか(learning to be)ということにもつながっていく。かつては、学習の3R's(reading, writing, arithmetic)に責任(responsibility)、宗教(religion)を加えて教育の原則とされてきた。これからは、上記の3Cを子どもたちの中にしっかり育てていくことが、21世紀の教育にとって重要なことではないかと考えている。(2002年9月1日発表)