寺院建築に見る日本文化の特質

国立歴史民族博物館名誉教授 濱島 正士

 

1.日本の寺院建築

(1)仏塔の存在価値
 仏教の寺院建築、とくに仏塔を永年研究してきたが、その中から垣間見る日本文化の特質について考えてみたい。

 まず、寺院における仏塔というのは、他の建築物と比べ丈が高い建物であり周囲からは目立つ存在である。現代の言葉で表現すれば高層建築であり、ランドマークとなろう。仏塔の建築は、建築学的側面から見ても、全体的な構造、意匠面など他の建築物と比較して最も難しい部類に当たる。現代でもそうだが、かつて仏塔は、建築する大工にとって自分の技術をいかんなく発揮する絶好の場であり、とても名誉な仕事でもあった。幸田露伴の『五重塔』(注1)にも見られるように、恩ある人の仕事を奪ってまでもその偉業をなしたいというのが、彼らの心情であったろう。また、仏塔は一般の人にとっても、その地域のランドマークになるので、彼らにとっても心に残る存在であった。また、神社・寺院建築というものは、一般住宅のように一代、二代が住めばそれで終わりというものではなく、未来に残すものだという意識が建てる当初から強いが、仏塔はそれ以上の思い入れがあると思う。ここに仏塔の価値を見出すことが出来る。

 一方、現代建築の特徴といえば、まず機能第一主義である。比較的古いビル、例えば、東京の「丸ビル」(注2)は近代建築として建築家の目から見てもいいものであるし、一般の人の目から見てもランドマークとしてそれなりの価値ある建物であった。しかし、現代では特に機能面を重視するために、あれだけの一等地に高さの低いビルであってはもったいないとして取り壊され、その後にはもっと機能的な高層ビルが建てられてしまった。現代建築にはそのような限界があるように思う。もし「丸ビル」を後世にまで残そうとすれば、文化財として指定して保護していくしかない。

 その点では、過去の建築物は偉大といえる。日本の社寺建築に限らず、外国の教会建築にしても、今まで残ってきたということを考えると、人々の心の中に印象付ける何かがあって、それゆえに残ってきたのだと思う。

(2)日本と中国の違い
 もともと日本の寺院建築は、中国から朝鮮半島を経由して、飛鳥時代に百済人によってもたらされたものである。しかし、外来のものがそのままの形で日本に定着したわけではない。日本は地震が多く、台風や梅雨などの高温多湿な気候といった環境条件があるために、寺院建築、塔の建築はそれにあわせて工夫しながら造られてきたのである。

 そこで日中の寺院建築(仏塔)の大きな違いについて見てみよう。
形状面でさまざまな違いが見られるが、最大の違いは何か。中国の塔は、例えば、五重塔であれば5階建ての建物であり、七重塔であれば7階建ての建物となるわけで、階段によって各階に昇ることが出来るのが原則である。つまり各階に床と天井があり、場合によっては各階ごとに仏様が祀ってある。ところが、日本の塔はそうではない。外観から見ると、五重(5階)塔、三重(3階)塔なのだが、室内空間から言うと、2階から上は天井裏ということになる。つまり、中国の塔には人が昇る機能があるのに、日本の場合は人が昇る機能がないのである。

 元来、仏教の塔は「仏舎利塔」ともいわれ、釈迦の遺骨を安置するところを意味する。中国には、かつてインドから仏舎利を祀るストゥーパ(墳墓)が入ってきて仏教の塔の原型となった。ところで中国には、仏教が伝わる以前から「楼閣(高層)建築」があったが、そこには人が階上に昇る機能があった。中国ではそれらの二つの流れが合体して、仏教の塔が形成されたために、寺院の塔には人が昇る機能が残された。一方、日本では人が昇るという機能が全くなく、仏舎利を祀るという神聖な建築物に凝縮されている。

 その理由は次のように考えられる。日本の仏教・寺院建築は朝鮮半島を経由して入ってきた。朝鮮半島において仏塔に対する考え方が中国のそれとは変容し、それが日本に伝わってきたのであろう。ただ、朝鮮半島には現存する木造の塔としては近世の二つしかなく、あとは石造のものである。日本の仏塔は、形状面は中国の仏塔と同じなのだが、朝鮮半島において仏舎利だけを祀るということに凝縮した塔となってしまい、それが日本に伝来したために、このような差異が生じたのではないかと私は考えている。

 広大な中国において、多くの仏塔がありながらも、全体が木造で出来た塔は一つしか残っていない。あとは、石または甎(レンガ)でできたものである。朝鮮半島では、現存する仏塔はほとんど石造であるが、かつて三国時代には多くの木造の塔も造られていたと推定されている。一方日本には、石造の仏塔はまずない。あったとしても規模の小さな墓標にする程度のものである。その理由は、日本には用材としていい材料(ヒノキ、スギなど)があったことが挙げられる。もう一つの理由は、日本は地震が多いために、石造やレンガ造りよりは木造の方が壊れにくいということである。そうしたことから日本では、木造の塔が中国や朝鮮と比べて特に発達したのである。

(3)木造多宝塔の特色
 日本の寺院建築の独自性が最もよく現われている建築物は、高野山金剛三昧院や石山寺などに建てられているような木造多宝塔であると思う。高野山の多宝塔は、空海の発案とされ、大日如来を象徴する建物として9世紀に建てられたものである。

 ところで、方形の下重に円筒形の上重をつける二重の仏塔を多宝塔という。上下の連結部分は饅頭形、つまり亀腹につくる特色のある仏塔である。木造多宝塔は、日本の密教寺院において独自的に作られた日本的形式であるとも言われている。

 日本の南都寺院の三重塔・五重塔は、先述したように仏舎利を祀ることが第一義であって、仏像をお祀りすることは第二義的なことであった。ところが、密教の多宝塔は大日如来をお祀りすることを目的として建てた塔である。その意味で、最初の出発点からして中国・朝鮮から入ってきた三重塔・五重塔などとは根本的に違う建物なのである。形状面で言うと、多宝塔の形から仏を想像することは難しいかもしれないが、あの形は大日如来を具現しようとした塔である。

 韓国の仏国寺にも石造の多宝塔があるが、朝鮮半島にはその一つしか現存しない。仏国寺の多宝塔が、空海よりも先の時代に作られたものであることを考えると、日本の多宝塔の原型となるものが中国や朝鮮にあったのではないかとも考えられ、空海が中国に渡ったときに、それをイメージしながら独自に彼が考案したのではないかと思われる。ただその原型となる建物が未だ見付かっていないので、確かなことは何もいえない。現在のところ、中国にはない形式の塔であることは確かである。そして下が方形で上が円形という二重の形のものは、韓国・仏国寺の石造多宝塔を除くと、中国にはなく日本にしかないのである。ところで中国には、「多宝仏塔」というものがあるが、それは日本の多宝塔とは違うもので、法華経にいう釈迦と多宝の仏を並べて祀る塔で、建物の形式ではなく、お祀りする仏像を指すものである。

 多宝塔は、それ以外の塔より規模としては小さいものが多いが、構造面からいうと、多宝塔の方が難しい建築構造となっている。三重塔・五重塔では、四角い塔身で四角い軒・屋根を支持するので、構造面からは基本的に難しいものではない。ところが多宝塔の場合、方形の一重部分の上に、小さな円形の塔身で大きな方形の軒屋根を支持することになるために、それは技術的にかなり難しい作業なのである。出の大きな軒がいつまでも垂れ下がらないようにすることは、大工にとって大変な技術であった。そこには、このような難しい構造の多宝塔を作り出す日本人の緻密さが基礎としてあるのだと思う。

2.寺院建築と宗教家の役割

 空海のような昔の僧侶は、「宗教家」という狭い枠にとどまらず、ある意味では「科学者」であり、「技術者」でもあった。寺院建築は、多くの場合専門の大工に任せて建築作業を進めるわけだが、空海自身もそれを自ら指揮し、具体的に指示することが出来る能力を持っていたと思われる。最澄、栄西などにしても同様であったのだろう。

 鎌倉時代の初めに、東大寺を復興するのに際して勧進職を務めた僧重源(注3)は、そのような技術的な能力がかなりあった人物と考えられている。平安時代の末期に、平氏の焼き討ちにあって奈良の都と共に東大寺・興福寺も焼けてしまった。その後、復興の動きが現われ、興福寺は、日本でそれまで使われてきた従来の建築様式(和様)で復興した。大工に「こういうものを再興せよ」と命令すれば、当時建築工法が確立していたために、彼らに任せておけば黙っていてもできあがった。ところが、僧重源は新しい様式(大仏様)を取り入れて東大寺を復興しようとした(注4)。

 重源は中国に渡りいろいろと見聞してきた末に、中国にあった当時の様式をもとにしながらも、それに他のよいところとともに自分の考えも付け加えて、新しい様式を創造した。その意味で彼は建築に関する相当な知識をもっていたことが分かる。建築の過程で、彼はかなり細かい指示をしていたと思われる。

 また彼は、一種の「演出家」としての才能も持っていたと私は考えている。東大寺の別所として浄土寺(現在の兵庫県小野市)(注5)があるが、そこには浄土堂(阿弥陀堂)がある。平安時代の末期に浄土信仰が広まったとき、阿弥陀堂が各地に建てられた。まさに極楽浄土を思わせるような宇治の平等院鳳凰堂はその代表的な建物である。前述の浄土寺の阿弥陀堂は豪華ではないが、質実剛健な「大仏様」なので豪壮であり、四角いお堂の真ん中に大きな阿弥陀三尊立像が安置されていて、天井も勾配のついた高いものになっている。

 阿弥陀浄土は西方にあるので、阿弥陀堂は東向きに造る。信者が死ぬと、西方から阿弥陀仏が迎えにきて極楽浄土に連れて行ってくれるというのが、浄土信仰の要点である。その光景(阿弥陀仏が迎えにきてくれる来迎図)を表現したのが、この浄土堂である。普通ならば阿弥陀堂の背面は壁で光がシャットアウトされてしまうところだが、彼は裏側を全部窓にして夕日が入るように設計した。そのため信者が阿弥陀像を見ると、まるでその像の周りに後光が射しているかのように見える。そのように考えて一種の演出効果を狙った。この浄土堂は、外から見ると大きさの割には豪壮な感じはない。しかし、中に入ってみるとあっと驚くほどの壮大な空間がある。

 このように当時の僧侶の中には、宗教的な素養ばかりか、こうした演出家的才能、医学的知識なども持つ総合的な人も少なくなかった。とくに密教の僧侶は加持祈祷をもって病人の回復に努めると共に、医学的知識も持ち合わせ薬を処方することもしていたのではないかと思われる。

 経典にしたがって仏教の徳を説くだけではなく、何らかの物質的な処置をも施しながら布教を進めていったのが、当時の僧侶たちであったのではないかと思う。そのための演出の場が寺院建築であったという側面は否定できない。そのような観点から言うと、現代の僧侶たちの努力は比較にならないような気がする。

 江戸時代以降は、宗教的事情が大きく変化した。幕府の進める檀家制度によって仏教が保護されるようになった。そのために布教の努力が不要となり、宗教的情熱が停滞するようになった。その結果、寺院建築に対しても、近世の僧侶たちはそれ以前と比べ余り具体的な指示をしなくなったと思われる。

3.文化行政の現状と日本の世界貢献の道

 経済最優先の行政の方針には、いただけないところがある。その背景には、文化行政は「票」につながらないこと、更にはそれが目に見える結果が出にくいという点があると思う。つまり投資の効果が現われるまでに、10年、20年といった長い年月を必要とするのが、文化行政の特徴であるためである。しかし、青少年たちへの教育を考えるときに、彼らがそのような文化に触れることによって、歴史・伝統が彼らの精神に蓄積され、彼らの人格形成に寄与することになる。その上で、彼らの行動として初めて結果が現われることになる。将来を担う青少年に文化が如何に重要かということを教えていく必要がある。

 例えば、博物館の職員(学芸員)は、単に資料を陳列・展示するだけではなく、文化財の意義・価値を説明する作業も進めている。それは博物館内にとどまらず、最近では「出前授業」として学校などに出かけて行ってそのようなことを進めてもいる。また、遺跡を復元整備したりする作業を進めながら、一般にそうした情報・知識を普及・啓蒙することもしている。それを通して市民や青少年が自分の国の成り立ちを理解し、いい意味での愛国心を持てるようにする。そうすることによって、近隣諸国や世界の国々との付き合い方をどうするかという方向に発展させることが可能となる。

 考古学的な発掘作業、建造物の修理技術などのレベルについていえば、日本のそれは世界的に見ても相当なレベルである。中国・韓国等と比べてみても、残された文化財・建造物の修理・復元、調査研究等のレベルは日本がはるかに進んでいる。そのような事情から、日本から中国・東南アジア・ネパール・中東などに出かけていって、発掘や建造物の修復作業などを指導しながら貢献している。このような面でアジア・世界に対する日本の貢献の道が可能であるし、もっとやるべきだろうと考えている。また、そのような技術者を養成する人材育成面においても、日本は進んでいる。

 文化財の調査や保存の遅れている国でも、日本が支援することによって共同作業を通して、その国のスタッフが育成され彼らの技術力向上にもつながる。その結果、その国独自の調査が出来るようになり、その国の国民の文化財に対する理解が深まると共に、保存の熱意が高まることになる。そのような意味での、日本の世界への貢献の道がある。

 寺院建築の研究を通してわかることは、そのような建造物は日本一国の技術だけで出来たものではなく、中国や朝鮮等の影響を受けて発展した。このように、近隣諸国とのつながりがあってこそ出来たのが寺院建築であるという点を考えるときに、文化交流の重要さが改めて認識されるのである。     
(2002年10月9日)

注1)『五重塔』
 小説。幸田露伴(1867-1947)作。1891年(明治24)〜92年新聞「国会」に連載。五重塔建立のためにすべてをかける大工の情熱と執念を描く。男性的な理想を描く芸道小説。技量はありながらも小才の利かぬ性格ゆえに、「のっそり」とあだ名で呼ばれる大工十兵衛。その十兵衛が、義理も人情も捨てて、谷中感応寺の五重塔建立に一身を捧げる。エゴイズムや作為を超えた魔性のものに憑かれ、翻弄される職人の姿を、求心的な文体で浮き彫りにする。(「大辞林」第二版より一部引用、及びCopyright 2001 Iwanami Shoten, Publishers, All Rights reserved 岩波書店より)

注2)丸ビル
 丸ビル(正式名称:丸の内ビルヂング)は、米国の建築家ポール・スターレットとウィリアム・スターレットの指導により、桜井小太郎を中心とする三菱合資会社地所部の設計とニューヨークの建築会社フラー社の施工で、大正12年に完成した。アメリカ式本格オフィスビルとしてその機能美を追求したデザインは、隣の東京中央郵便局や新丸ビルとともに、丸の内のイメージを形成してきたといってよい。昭和8年、皇居外郭一帯が美観地区に指定された際、軒高が31mという高さ指定は丸ビルの軒高が基準となり、また市街地建築物法(建築基準法の前身)では、耐震性のために建造物の高さも31mに制限された。それから昭和49年に東京海上ビルが完成するまでの間、丸の内界隈はほとんどの建物の高さが31mにきれいに揃った見事な景観をほこっていた。昭和という激動の時代を丸の内の顔として、また戦前完成した建造物の中で最大の延べ面積を誇り、東洋一の大ビルと称されオフィスビルの象徴としてもあり続けたこのビルは、すでに取り壊しも終わり、新しい高層ビルとして生まれ変わりつつある。(東京散策“Tokyo”,Copyright(c)1997-2002, psychoblue All Rights Reserved.より引用)

注3)重源(1121-1206)
 鎌倉初期の浄土僧。房号は俊乗、南無阿弥陀仏と号す。紀季重の子。醍醐寺で密教を学び、1167年入宋。帰朝後は東大寺再建の立役者となり、南大門に大仏様式建築を残すと共に、各地に念仏道場を開いて不断念仏を興した。(「広辞苑」第五版より)

注4)寺院建築の様式
 「和様」:和様とは、鎌倉時代に新たにわが国に取り入れられた大仏様と禅宗様に対する語であって、必ずしも日本独特のものを意味するわけではない。7〜8世紀にかけて中国から断続的に移入された建築様式を基礎に、平安時代を通じて日本化が進んで成立した様式といえる。長押(なげし)を用い床をはること、また水平性が強くおおらかで穏やかな意匠が特徴である。

 「禅宗様」:禅宗様は唐様ともいい、鎌倉前期に禅宗とともに中国から導入された建築技術をもとにした様式。創建当初の鎌倉建長寺がこの様式であったと思われる。堂内を土間とすること、裳階(もこし)がつくこと、細部に特有の彫刻をほどこすことなどが特徴としてあげられる。

 「大仏様」:大仏様(だいぶつよう)は天竺様ともいった。鎌倉時代の初めに宋から新しく移入された。福建省など中国の南方の様式を多く取り入れており、禅宗様とは別の流れといえる。東大寺再建にあたって重源が採用した建築様式で、大型建築に対応し得るいろいろな技法をそなえており、貫を用いて柱をつなぎ強固な構造をつくりあげた。
「新和様」:在来からの建築様式であった和様に、大仏様の手法を部分的にとり入れた様式をとくに新和様とよぶ。南都(奈良)では、鎌倉時代後期以降、純和様に代わって新和様が主流を占めるようになった。

 「折衷様」:建築において折衷様というときは、鎌倉時代末から室町時代の和様の建物に、大仏様や禅宗様の細部技法を取り入れられているものをさす。(『寺院建築』濱島正士監修、山川出版社、2000より)

注5)浄土寺浄土堂
 兵庫県小野市にある真言宗の寺。この地は古くから東大寺の荘園大部庄で、東大寺再興にたずさわった重源が各地に建てた小寺院七別所の一つである。境内には浄土堂と薬師堂が、西と東に対をなして建っている。浄土堂は金色丈六の阿弥陀三尊像を安置する。方三間、すなわち一間四面の仏堂で、一間が6.06mと大きい。組物は大仏様三手先、隅扇垂木となり、鼻隠板がつく。屋根は宝形造り、本瓦葺となる。柱間は桟唐戸が吊られる。内部は板敷で、天井はなく、化粧屋根裏で垂木が見える。各四天柱から三方に向かって断面が円に近い虹梁が架かり、つけ根は挿肘木による持ち送りが入れられる。円束も立つ。大仏様独特の木鼻や皿斗も配される。この建物は重源の手によるものであるが、東大寺南大門とは異なる、中国の宋の様式に近い大仏様である。薬師堂は正面五間、側面五間で、組物は大仏様三手先である。室町時代の再興だが、その際、大仏様を採用したところに意義がある。(『寺院建築』濱島正士監修、山川出版社、2000より)