考古学からみた日韓文化交流

名古屋大学名誉教授 渡辺 誠

 

1.はじめに

 日本と韓国の歴史を別表のように時間軸を設け並列して比べてみると、いろいろと興味深いことがわかってくる。例えば、韓国史を見れば一目瞭然であるが、高麗、朝鮮王朝時代がいかに安定度の高い時代であったかがわかる。それと比べると日本は、政権の不安定さを示していかに細かく時代区分されていることか。このように、日本・韓国・中国が、時間軸を共有しながら話し合いができる場が増えていくことが望ましいと思っている(第1図)。

 日韓の歴史をみると、最初は旧石器時代であるが、この時代は日韓の間には大きな違いが見られなかった。しかし次の新石器時代に入り、違いが次第に現れてきた。韓国の歴史は、新石器時代に続いて青銅器時代、鉄器時代へと推移していくが、日本は縄文時代から稲作を基調とする弥生時代に入っていく。弥生時代は鉄器時代であり、日本には青銅器時代という時代区分がない。
次に日韓交流の歴史に焦点を当てて振り返ってみたい。

2.紀元前の交流

(1)漁民の交流
 旧石器時代、新石器時代、縄文時代にかけての時期は、地質学的に見れば氷河期が終わる後氷期(温暖化)を意味する。そのためにそれ以前と比べ、日韓の海峡の幅が大きく広がり、人の往来は陸上ではできない段階に入る。この時代になって初めて具体的な日韓交流の歴史が始まった。最初の日韓交流は、慶尚南道と西北九州の間で行われたが、それは船を使った漁民の交流が基礎にあった。すなわち、玄海灘をはさんで日韓双方の漁民たちが魚をとるという形の出会い・交流がそのスタートであった(第2図)。

 日本の縄文時代は、ある意味で現代日本の水産の基礎を形成した時代ともいえる。その当時使われていた釣針は5cm程度の大きなもので、漁民たちはカツオ、マダイ、マグロなど大物しか狙わなかった。当時は鉄がない時代であったので、ほとんど鹿の角を加工して釣針を作っており、鹿の角の太さ以上のものはなかった。

 その後、結合釣針(軸と針との結合)が現れてくる。結合式は縄文中期に東北地方で非常に発達したが、その後九州にも及んできた。一方、西北九州では、「西北九州型結合釣針」といった釣針が、縄文時代初期から弥生時代まで一貫して使われていた。しかし、その影響は本州には全く及ばず、却って韓国においてそれらの遺物が発見されており韓国との行き来があったことがわかっている。

 実はその「西北九州型結合釣針」は、シベリアから朝鮮半島の東海岸を伝ってきた「オサンリ型結合釣針」が、海を渡って九州の熊本まで入り、その後「西北九州型結合釣針」に変化し、更に逆戻りして慶尚南道へと影響していったものである。漁具の往来は、すなわち魚に付いた釣針の行き来だけではなく、漁民の行き来も意味する。

 また「石鋸装着銛」(黒曜石を鋸の歯のように刻みを入れ、それを木の先端にはめ込んだもの)は、九州で非常に発達したものだが、それも韓国に渡り影響を与えた。これは肌のつるつるした生き物を刺す時に有効な働きをする銛(もり)である。黒曜石は佐賀県西部(現、伊万里市腰岳)でよく産出されたために、それを利用した石鋸装着銛が九州で発達し、韓国南部に渡った。ところがソウルよりも北方は、白頭山の黒曜石が石器の材料に使われた。このように日本から朝鮮半島に渡ったものも少なくないのである。

(2)稲作伝来の時期
 中国南部を起源とする稲作は、朝鮮半島を経由して日本に伝わったが、韓国にはBC700年ごろ、日本にはBC600年ごろそれぞれ伝わった。それを伝えたのは実は漁民たちであった。しかしこのような私たちの研究が出る以前は、そのように言う人はほとんどいなかった。

 従来の稲作伝来の説は、次のようであった。当時中国は戦乱に明け暮れ、負けた側はあちこちに逃げのび、そのときにその敗走した人々とともに稲作が伝わったとされた。しかし戦争で負けたとき、まず逃げるのは上層階級の人たち(支配層)であって、農民たちは決して逃げないし、また為政者も農民を決して逃がさない。なぜなら農民に逃げられては、その後食糧生産がおぼつかず食べていけなくなってしまうからである。

 ところで、魚だけを捕っている漁民というのはいない。むしろ別の本業を主にしながらプラスアルファとして魚を捕っているのである。すなわち漁民といっても、農業などをやりながら漁業をしているのが普通である。それは世界中どこでも同様である。そのようなところではぐくまれた稲作が漁民を介して伝わってきたのである。

 また従来の説では、稲作は韓国からBC300年ごろ日本に伝わったとされた。人間が稲作の技術を伝えるとともに、銅剣、青銅器、銅矛などの「ブランド物」、そして機織り機も入ってきた。ところが私たちの唐津市・菜畑遺跡の発掘作業によって、稲作の日本伝来の歴史がBC600年まで遡ることが分かった。

 「米を作るようになって初めて階級社会が生まれた」という説も、完全な間違いである。中国の場合、米作は長江流域だけに限られ、黄河流域では粟、稗、キビ、高粱などを生産していた。また古代の殷王朝もキビが主食であった。米作地帯に最初の国家が生まれたのではないのである。問題は米を生産しているか否かではなく、その生産力をいかに高くするか、そしてその技術を如何に開発していくかが決め手となる。実証的研究を抜きにして、すぐイデオロギー的に見てしまうところに従来の歴史学の大きな問題があったといえる。

(3)高身長の人々の渡来
 甕棺、背の高い人間(高身長の人)の渡来、ブランド物などの伝来時期は、従来みなBC300年前後といわれていたが、その後の菜畑遺跡の調査を踏まえて再検討した結果、すべてBC100年ごろまで下がった。

 高身長の人々は大型の甕棺に埋葬されたが、大型甕棺は福岡・佐賀地方に限定され、それ以外の九州にはほとんど見られない。それは高身長の人の人骨も同様で、長崎や熊本には見られない。また彼らの墳墓の埋葬物を調べてみると、すべてが「ブランド物」を持って埋葬されているわけではなく、そうでないところもあり、ばらつきが見られる。

 その後、氏族社会へとつながっていくが、この段階になって、魏志倭人伝に出てくる範囲に一致してくる。すなわち「唐津・博多ライン」と言って、それより西の漁民交流段階に重要であった地域には及ばないのである。ところでこのような甕棺は韓国にはないものである。それゆえ渡来人のアイデンティティーを確立するための考えが背景にあったと考えられる。

 また支石墓も、稲作とともに漁民によって日本にもたらされた(BC600年ごろ)。その分布を見ると、福岡、長崎、熊本などに見られ、その範囲は韓国にオリジナリティーのある「西北九州型結合釣針」の分布に一致している。
「弥生時代になって初めて朝鮮半島から何もかも入ってきた」と主張する人が多いが、実際はそうではない。大雑把に言えば、経済的なものはBC600年前後、政治的なものはBC100年前後に日本に入ってきた。

 年表を見ると、三国時代にはBC108年に楽浪郡など4郡が建てられた。これは漢の武帝が万里の長城の北方の遊牧民族匈奴との戦いにおいて、外交戦略として包囲網を敷いた一環といえる。しかし楽浪郡地域に比べて、匈奴の方が圧倒的に強かった中央アジアは遊牧民族の地域であり、北朝鮮から旧満州地域は青銅器文化であり、それぞれ関連が深い。すなわち両地域ともツングース系の文化が基層にあり、そこに中国が入り込んできた。そのうち旧満州地域の南方を中国が植民地化してしまったが、それが楽浪郡などであった。そのためにそこを追われた人々が南下し、その最南ラインが福岡付近となったのである。BC100年ごろに、一挙に明らかに違う人間が大量に南下してきたことは、このようにしか考えられない。朝鮮半島を見ても、北に行くほど身長が高い。その北方地域に楽浪郡を始めとする4つの植民地ができた。

(4)ソッテ・鳥形から鳥居へ
 韓国の村々には、入り口の神様として柱の上に6mほどの鳥形(アヒルなど)を載せ、泥棒や病気、いろいろな災厄が村の中に入らないようにとしたものがあったが、それを「ソッテ」と呼んでいる。

 日本では大阪府池上遺跡から鳥形木製品が出土しているが、これは弥生時代のものである。鳥形木製品は、その下に棒を差して立てられるようになっており、稲の神様をお祭りするものだと言われているが、実はそうではない。これが発掘されたところの地形図を見れば一目瞭然で、村の前方の入り口付近に立てられており、ソッテと同様の役割だと思われる(第3図)。

 ところが、日本ではこれが古墳時代から飛鳥時代に姿を消してしまう。それはこれが鳥居に取って替わるからである。村の入り口に注連縄を張ったり、鳥居を建てて、境界をはっきりさせて、外部からよそ者が入らないようにとの境界神としたのである。

3.古墳時代

(1)伽耶の鉄資源をめぐる争い
 古墳時代に入り、日本では中央政府が次第に形成されてくるが、それ以前は北九州地方に大きな勢力があった。「鉄は国家なり」という言葉に象徴されるように、この時代の勢力は、洛東江下流に位置する伽耶地方の鉄資源をどう抑えるかにその存亡がかかっていた。北部九州地方は縄文以来伽耶地方と生活文化を共有している上に、後の時代になっても関係が深い。そのような地理的な有利さから、ほうっておけば北九州に政府ができてしまいかねない。そのために吉備・出雲が連合戦線を張って、北九州を抑えて伽耶地方の鉄資源を獲得しようとしたというのが、この時代の大きな構図であった。

 ところで韓国では「(地下にある)あの世の土地を買う」という思想があるために、地下に墓を作りその上に大きな石を置くので、後に盗掘にあうことが少ない。この思想は、「黄泉の国は地下にある」という中国の伝統思想の影響を受けたものである。また中国ではその土地をお金で買うと考える。一方日本は、古墳の上部に墓を作った。

 墓の中では鉄挺の上に死体を置くが、それは「あの世の土地を買う」という意味である。この風習は楽浪を経由して中国から入ったものと考えられている。中国ではさらにその下に犬を置いて、死人の道案内をするとされる。

 伽耶地方の鉄をめぐっては、『三国史記』に「韓、倭争いてこれを採る」と記載されている。伽耶は、当時国としてはまとまっておらず、周辺の国々が干渉していたというのが通説である。

 ところが釜山地域の大学の研究者は、その説に次のように反駁した。それはまず、『三国史記』が新羅系統の人によって書かれた書であることから出発する。新羅にとって伽耶が統一の最も妨げとなっていたために、彼らはまず伽耶を滅ぼし、その次に百済、高句麗を滅ぼすという外交戦略をとった。慶州地方の平野は非常に狭いために、その農地だけでは一国の経済を維持できず、経済力に限界があり、国際外交をどう展開するかが非常に重要な点となっていた。その外交展開の中で最も大きく立ちはだかったのが伽耶であった。そのような背景から、『三国史記』に伽耶のことが大きく記載されなかった。

 この分野の実証的調査が現在進んでおり、史実の解明につながっている。それによってその後、鉄資源をもつ伽耶の重要性が高く評価されるようになり、現在では「四国時代」、「原四国時代」などといわれるようになった。

 韓国は陸続きという関係もあり中国との結びつきが深い。半島の中では、北部は中国北朝勢力との結びつきが強く、西南部は長江流域の政権との関係が深い。実際、朝鮮半島西南部の政権の中には、中国の南朝・宋から貴族の位置に列せられた人もいた。百済の武寧王のように。このように朝鮮半島では、単に地方勢力が割拠するというのではなく、中国の各王朝との関係を基に国として昇格したのである。一方、日本はその外側にあるために、一つの別の勢力として残った。

(2)三国の古墳と日本の古墳
 先ず日本の古墳の型式から見てみよう。古墳時代前期における古墳のスタイルは、竪穴式石室である。板石で箱を作り、その上に大きな石でふたをしているが、ここには一人しか入らない。その後、古墳時代後期になると、横穴式石室となり、扉を開閉することで埋葬が何度もできるようになる。これは国内的問題として古墳に埋葬される階層が高位層から下に下がってきた証拠だとされる。しかし私自身は、半分はそのような理由があったかもしれないが、もっと別の理由があったと考えている。

 実は竪穴式石室というのは、伽耶の古墳の型式であり、もう一方の横穴式石室は中国の型式であった。この中国の横穴式石室が高句麗、百済に入り、その後古墳時代後期に日本に入ってきたのである。これはどういうことかというと、日本の外交チャンネルが変わったということを意味している。それまで石器時代以来、伽耶地方と九州との深い交流関係があったが、その後、大和と伽耶との関係へと拡大していった。しかし古墳時代後期になると、伽耶は新羅に吸収されてしまう一方で、日本と百済との関係が深まっていくことになる。その結果、横穴式石室に変わったのである。すなわち外交チャンネルの変化である。

(3)韓国の前方後円墳問題
 前方後円墳は近畿地方を中心に発達した日本独特の古墳形態である。これが一時、前方後円墳そのものが中国を起源とし韓国を経由して日本にもたらされたと言われた。それまで群雄していた王の中から、王の中の大王が現れ隔絶した形で単独で埋葬されるようになった。その古墳の型式が前方後円墳。そしてここには韓国からの影響はなかったというのがこれまでの説であった。

 しかし韓国の研究者は、そうではないという。そして韓国側の公式見解としても、前方後円墳は韓国にもあるといっている。正確には、「前方後円型古墳」といい、埋葬施設はその後円墳にある。前方の部分の意味は、王が死んでその王位を継承する儀礼の場所である。その後になり、前方の部分を作らなくなっても王位の継承の儀礼はできるために、前方がなくなっても問題がなかった。

 全羅南道の新徳古墳の図を見ると、長さ50mで、明らかに前方後円墳である。これらはすべて5世紀後半〜6世紀前半のものだが、日本の前方後円墳は3世紀後半に現れるので、ここに大きなギャップがある。

 その中で慶尚南道の松鶴洞古墳は例外で、最近これが前方後円墳ではないことがわかった。そして前方後円墳は光州市以西にしかなく、しかも時期はすべて5世紀後半〜6世紀前半である。その意味は何かというと、この時期に日本人が何らかの事情で半島に渡りそこで葬式を日本式で行ったと考えざるを得ない。ただし百済への外国使節であれば、当時の都である光州、扶余などに墓(古墳)がなければならないのに、全部全羅南道にしかない。百済は前期には漢城(現ソウル)にその都があったが、その後高句麗に圧迫され、都を公州、扶余へと移動させてゆき、ついには滅亡してしまった。そのとき百済の勢力が南下するにつれて前に住んでいた人たちは吸収(支配)されてしまうことになる。その代表的な地域が、全羅南道の大きな独特の甕棺をもった地域である。

 6世紀前半は、百済第25代の武寧王(在位501-523)の即位の時に当たるが、彼は日本の九州(加唐島:現佐賀県東松浦郡鎮西町)で生まれ、20余年在位しながら日本との関係も深い人物であった。全羅南道の地域が飲み込まれていく過程で、若干その地域の人々が抵抗を試みたが、そのとき日本の勢力を利用したと考えるのが合理的だろう。しかし韓国の研究者はこのような見解は取っていない。

 また同志社大学の森浩一教授は、「前方後円墳は韓国から日本に入ってきた」と言っている。しかし実際には日本から行ったと考える方が正しいと思う。例えば、日本にしかない埴輪が韓国のこの地域だけで発掘されている。このことには私も驚いた。以前全南大学に行ったとき、埴輪が60本くらいがあったが、総合すれば200本くらいになるという。それらはすべて光州近くの月桂洞古墳から出土したものという。なぜか6世紀前半のほんの一時期に集中して、この地域に前方後円墳がある。

 日本の研究者の発想には問題があると思う。常識的に考えてもわかりそうなものだ。日本から侵略した場合に、最初から葬式をする人はなく、最初に作るのは砦(拠点)である。考古学をやる前に想像力を働かして欲しいものである。例えば、釜山などには前方後円墳がないという事実をどう説明するのかと聞きたい。つまり前方後円墳が、特定地域に集中し一時的に存在するという特徴が重要なのである。韓国には何千という古墳がある中で、前方後円墳は全羅南道のわずか13基しかない。

4.中世以降

(1)木綿・モメン
 中世における大きな問題といえば、木綿である。木綿は、古代に一時的に日本に入ったが、100年も続かなかった。それは木綿の生産力が上がらなかったことが大きな原因であったと考えられる。木綿は花が咲いて実がつくと、糸がたくさん絡まりつく。その真中の種を取り繊維を取り出す作業と、フワフワとさせて糸を引き出す作業は、大変手間のかかるものである。その技術が日本には入って来なかったために、なかなか生産力が上がらなかった。

 その後の木綿の交流史は、13世紀ごろになる。黄道婆という上海人がいて、あるとき奴隷として売られそうになったので、船底に隠れていたところ海南島に着いた。その後数十年して故郷に帰りたい思いがかない、ようやく上海に戻ることができた(13世紀末)。そのとき彼女は新しい木綿の処理器具をもたらしたのである。それによって上海の木綿産業が大きく発展したが、周辺国にはその技術を伝えなかった。

 当時、元と高麗とは厳しい関係にあったが、その中で高麗の政府高官であった文益漸が中国に渡っていた(14世紀)。ところが彼らが高麗に対する反乱軍に編成されることを拒否したため、元によって拿捕され牢獄に入れられ、ベトナムまで流された。そこで文益漸は書記官であったので、筆の筒中に木綿の種を密かに10粒入れて韓国に持ち帰った。5粒は舅のところに、残りの5粒は自分のところでそれを蒔いて育てたが、舅のところの木綿がよく育った。これが韓国への木綿種伝来の由来である。しかしこのときは、種を持ってきただけで新しい道具は持ってこなかった。そのため韓国でも生産力は上がらなかった。

 日本では、15〜16世紀に日本側が執拗に侵略的に木綿を韓国に求めた。その訳は、千石船の帆を作るための材料などとしてであった。しかし江戸時代に入るとそのような必要がなくなった。それは1652年に中国の呉陳官が木綿の新しい処理道具(唐弓)を長崎にもたらした。そのおかげで処理能力が50倍も高まったという。

 近代になると日本では木綿が非常に普及したが、韓国ではそういうことはなかった。チマ・チョゴリは麻やモシを主材料として使っている。木綿はやわらかく、染色が可能である。モシは部分染めができないために、韓国では刺繍が発達した。
 
(2)滴水瓦の伝播
 私たちが普段見ている日本の瓦は、桟瓦である。もし韓国で桟瓦が発見された場合は、日本が関わったことの名残りとみてよいだろう。それ以前の瓦は、丸の部分と平らな部分が別々になっており、それを連結したのは江戸時代の日本人の発明であった。古代に百済から日本に入ったのは別々になった瓦であった。それを「本瓦」と言っている(第4図)。

 中国から始まり韓国で発達した瓦は、丸の部分の間のところが三角形状に大きく広がる。これは装飾上美しく、宮殿装飾となる。中国、韓国は極彩色で塗られている垂木の色を保護する(退色防止)ために香前の瓦を三角形に大きくした。それが日本に入って変化していくが、その入り方が問題であった。

 沖縄の瓦は中国から直接入ったものだが、それ以外の日本の瓦は全て韓国経由で入ってきたものである。入る年代は、ほとんど「文禄・慶長の役」のときであった。ここで一言言えば、一般に国際間の争いを「戦争」と言い、国内間の争いを「役」と言う。例えば、「西南の役」は国内の争いであるので「西南の役」であって「西南戦争」ではない。同様の論理で言えば、「文禄・慶長の役」は正しくは「文禄・慶長戦争」としなければならない。

 この戦争のとき朝鮮半島に出兵した日本の大名の城に、この瓦が使われている。ここに興味深い例がある。例えば、鹿野城(鳥取県気高郡鹿野町)を守った城主亀井茲矩は豊臣秀吉のちゃきちゃきの子分であった。

 このことは「農協型」ではなく「商社マン型」と理解すると分かりやすい。つまり、前者はどこにでも出かけていくが、後者は必ず港湾都市を掌握するためにそのようなところにまず派遣される。明智光秀が山間部の領地に飛ばされたのは彼が農協型であったからだと思う。

 そして亀井茲矩は、後に命からがら韓国から帰って来るのだが、それにもかかわらず、その亀井茲矩の城の瓦は天守閣から下まで滴水瓦でもって葺いている。それは彼の考えの中に、韓国のやり方を珍重すべきだとの意識があってのことである。この瓦の日本における北限は、宮城県松島の瑞巌寺である。これは伊達正宗が慶尚南道まで出兵した何よりの証拠なのである。当時はこのような瓦は韓国にしかなかったし、韓国でも高麗時代にはないものであった。中国は高麗王朝には作らせなかった。

 当時の東アジアは、中国を中心として朝鮮王朝も琉球王朝も中国と同じ年号を使用していた。その意味は、中国を傘の頂点としてそのもとの諸国は対等であり、時間(年号)とレートを共有しながら国際関係が成り立つということである。しかし日本は独自の年号を使い、その外側に位置していた。この枠組みの中では宮殿建築の様式においても同様であった。この瓦のやり方は6世紀に中国で始まったものである。

 中国の紫禁城の瓦は黄河を治めた皇帝の意味で黄色であり、韓国は青瓦台に見られるごとく青となっている。また日本の姫路城は白鷺城とも言われ、姿の美しい城で日本的な城だと言われているが、上から下まで全部韓国の瓦でできている。このように国際的な交流の中からよりよいものが生み出されるのである。

(3)和蜂はもともと韓国蜂
 ミツバチについては、明治4年にドイツの洋蜂が日本に輸入され、それ以前は和蜂がいたとされている。しかし事実はそうではない。和蜂というハチはいなく、これは実は韓国蜂(韓蜂)なのである。ただヨーロッパに対して和蜂といっているだけなのである。

 日本では西日本から東北地方まですべて和蜂の巣箱は、丸太をくりぬいた形のものとなっている。その代表的なものが対馬の巣箱である。一方、韓国のものは変化してしまい四角いものを重ねて作っている。日本の伝統的なものは自家食用なので移動しない。しかし 洋蜂の場合は南から北に移動していく。
(2002年7月7日発表)