北朝鮮問題とアジア新秩序形成過程

静岡県立大学教授 平岩 俊司

 

1.はじめに

(1)北朝鮮研究の方法
 北朝鮮は外からは非常に分かりにくい国とよく言われる。朝鮮問題の専門家の間においては、水面下の動き、秘密工作の動きなど情報のレベルを除けば、金日成時代の政治体制および対外姿勢に関する分析・研究方法はある程度確立していたといえる。ところが94年の金日成死後は、北朝鮮を巡る諸条件が大きく変化したために分析枠組みについて再検討する必要に迫られている。

 一つには、北朝鮮国内におけるイデオロギーの意味が変わったことが挙げられる。金日成時代は、マルクス・レーニン主義を基本において対外政策を立てていた。従来の分析方法としては、公式文書や要人の発言の言葉遣いや言葉の言い回しの微妙な変化の裏に、大きな政治的判断やイデオロギー上の変化、現実的変化があるのではないかと考えた。マルクス・レーニン主義は、社会主義陣営の国においてはその政権・政策の正統性と直結する問題である。それを微妙に変化させることは、大きな危険を伴う事項である。それはソ連・中国という社会主義大国が背景にあったためであった。

 北朝鮮国内の権力闘争は、金日成が何か新しいことをやろうとした場合に、それが中ソのやり方と違っているのではないか、金日成のやり方が間違っているのではないかと、イデオロギー論争の形態をとって金日成に挑戦したという歴史であった。67年以降はそのようなことも表面化しにくくなったが、それでも中ソが存在していたために、北朝鮮が何か新しいことをやる場合には、必ず中ソの目を気にしなければならなかった。

 特にマルクス・レーニン主義の解釈に関わる問題については、かなり気にしなければならなかった。それはちょうど法治国家に住むわれわれにとっての憲法に相当するものといえる。日本政府が何か新しいことを実施する場合には、まず憲法に抵触しないかを考える。仮に憲法に抵触するようなことがらを政治的決断で行う場合に、改憲または解釈の変更のどちらかが必要とされることは言うまでもない。イデオロギーは北朝鮮にとっての憲法に相当し、マルクス・レーニン主義に立脚している以上、その変更はできない。それゆえ解釈の変更しかなく、自らの行動とマルクス・レーニン主義の整合性を常に意識してきた。そのような前提があるために、北朝鮮研究者の間では、発言その他の微妙な変化を読み取って、その背後にある大きな変化を見出してきた。

 ところが金正日の時代になると、ソ連は既に解体してしまい社会主義陣営がなくなり、中国自体も実体としては社会主義市場経済の国家体制になって、従来でいうところのマルクス・レーニン主義の範疇には入らないものとなった。そのような中で、北朝鮮がマルクス・レーニン主義を掲げながらも、それを自分たちで大胆に解釈して行動する場合に、特に中ソの目を意識しなくてもよくなった。その結果、現在の北朝鮮政府の発言、公式文献のみを分析するだけでは北朝鮮の動向をさぐることが難しくなった。最終決定権を金正日がもっているとすれば、その最終的判断は金正日の頭の中にあるわけで、それを分析することは難しいことになる。北朝鮮研究において北朝鮮をどう見るかについての方法論を新たに模索すべき過渡的状況にあるといえる。このような研究上の制約があるが、そのような前提で考えを述べてみたい。

(2)北朝鮮問題の国際政治上の意味
 昨年9月17日に小泉首相が北朝鮮を訪問し、金正日との間で日朝平壌宣言を交わしてきた。それ以後、日本国内では拉致被害問題を始めとして北朝鮮問題に高い関心が集まっている。しかし最近は、拉致問題よりも核兵器をはじめとする大量破壊兵器のほうに焦点が移ってきている。

 大量破壊兵器問題が北朝鮮問題の中心に置かれるようになると、どうしても日本の役割が相対的に低下せざるを得ず、米国が中心的役割を果たすことになる。しかし北朝鮮をめぐる問題は、地理的に言えば北東アジア地域の問題なので、日本、韓国が当然大きな役割を果たし、米国も両国の意見・政策を全く無視して行動することは難しい。その意味で日本がイニシアチブを取って問題解決を進めることは難しいにしても、それでも大きな役割を果たしうるし、そうしなければならないと思う。また国際社会、とりわけ米国も日本の役割を期待しているに違いない。

 ところで北朝鮮の核兵器、大量破壊兵器問題は、それに対して周辺諸国が脅威を感じているというレベルの問題ではない。よしあしはともかくも、北朝鮮のこのような政治体制が50年以上にわたって朝鮮半島に事実として存在し、もう一方には韓国が同様に存在してきた。このことは何を意味するかというと、北朝鮮がこの地域に存在することを前提にして、ある種の国際秩序ができあがっていたということである。

 北朝鮮の瀬戸際政策は、今回に始まったものではなく、1993、94年の危機のときも同様であった。94年の段階で米国は北朝鮮に対する軍事オプションの使用まで真剣に検討したという。北朝鮮の核兵器保有が疑問視される中でも、その後の経過に見るように、ある種のシステムの中で安定が維持されてきたことも確かなことであった。

 それではこの核兵器・大量破壊兵器問題が解決されることの意味は何か。新しいアジアの秩序(システム)が作られていく過程であると認識すべきである。その中では中国、ロシアは、北朝鮮問題を中心として新しいアジアの秩序形成の過程にいかに関与し、後にできる新しい秩序の中でそれなりの影響力を確保しようとの姿勢で臨んでいる。短期的な問題解決とともに、北朝鮮問題解決後の新しいアジアの秩序形成も視野に入れておく必要があろう。

 私自身は小泉訪朝を高く評価しているし、さらに日朝平壌宣言は、これからのアジアの新秩序形成過程において日本が応分の役割を果たしうる一つのきっかけとなったと考えている。この宣言に則った形で両国が問題解決に向けた方向に進んでいれば、現在のような複雑なプロセスがなかったかもしれない。もちろん当時から北朝鮮が下心をもって日朝平壌宣言を交わしたというのであれば別の話であるが、必ずしもそうではないだろう。北朝鮮はその宣言に則って問題を解決していこうと考えていたに違いない。

 その直後から北朝鮮の核問題が再度クローズアップされ、焦点が大量破壊兵器問題に移っていった。さらにイラク戦争が始まるに伴い、その次は北朝鮮という雰囲気さえ醸成された。しかしその論理が妥当性のある話ではないが、北朝鮮が瀬戸際政策をどんどん進めて行けば、そうなる危険性はある。

 03年4月に米朝中三者協議が行われたが、必ずしもうまく進捗したわけではなかった。その際に、北朝鮮代表の李根・外務省米州局副局長が「核兵器保有と8000本の使用済み燃料棒の再処理がほぼ終了した」ことを米国代表のケリー国務次官補に通告した。その結果、今後の展開が微妙になり、さらに言えば果たしてこの枠組みでいいものかという疑問も出てきた。つまり日韓の参加とロシアの問題である。

 北朝鮮問題でよくいわれていることの一つに、「対話と圧力」がある。1999年にペリー北朝鮮政策調整官(クリントン政権時代)が、北朝鮮政策の見直しを行った(ペリー・レポート)。それまでの北朝鮮政策を巡る日米韓の政策は、韓国の太陽政策を中心とした宥和政策を基本に据えていた。しかし宥和政策だけでは不十分で、抑止と協調をバランスよく使いながら北朝鮮の変化を促していくことを主張したのである。今回の「対話と圧力」もこの流れの延長線上にあると思われる。ただ若干「圧力」が強調され、さらには「抑止と協調」に比べ強面のイメージがある。現在日本としては、対話路線とともに、北朝鮮の万景峰号に対する検査体制の実施、北朝鮮籍貨物船に対する検査体制の強化に象徴されるように「圧力」も使用しなければならない、という立場をとっている。

2.北朝鮮問題の本質

(1)冷戦の終焉と二つの危機
 現在の北朝鮮問題を乱暴な言い方で表現すれば、米国と北朝鮮がある種のチキン・ゲームを日本の隣の朝鮮半島で行っており、最終的には戦争の危険まで指摘される状況にあるといえよう。北朝鮮がなぜここまで核兵器・大量破壊兵器問題をめぐって、米国に対して危ないゲームを挑んでいくのかを考えなければいけない。

 その際に重要な意味を持つのが、冷戦の終焉である。北朝鮮の立場から見た冷戦期の特徴には大きく二つある。一つは安全保障面における特徴である。マルクス・レーニン主義を前提とする国なので、社会主義陣営対帝国主義陣営という枠組みをもっている。彼らの革命路線は、韓国に焦点が当てられることになるが、それだけではない。イデオロギー的にいえば、世界革命と朝鮮半島の地域革命を連動させるということになろう。具体的安全保障となると、米国からの脅威と韓国との関係という二つの課題がある。冷戦期は、基本的に社会主義陣営対西側自由主義陣営という構図の中で、米国からの脅威はプラス・マイナス・ゼロとなっていた。つまり米国からの直接的脅威は、中ソが後ろ盾になっていることで相殺されていた。朝鮮半島という地域に限定して言えば、韓国と北朝鮮が対峙する。このような二重構造になっていた。

 ところが社会主義陣営の崩壊によって、北朝鮮は米国からの脅威を自分たち自身で何とかしなければならない。それまでソ連が担当していた安全保障のコストを負うことになったと考えられる。その文脈から考えれば大量破壊兵器の開発への野心もその意味合いが見えてくるだろう。

 もう一つの特徴は、社会主義陣営はその陣営内における相互協力関係を前提にして経済が成り立っていた。例えば、社会主義諸国間における「友好価格」(通常の国際価格よりも割安な価格による商取引)、社会主義陣営からの北朝鮮への経済協力などがあった。ところが社会主義陣営が崩壊することによって、北朝鮮はそのような保護圏から一気に脱して直接に西側の自由市場とのやり取りをしなければならなくなった。北朝鮮にとってそれはなかなか容易なことではなかった。中国では、冷戦崩壊以前から改革開放路線を目指して漸次経済分野について西側諸国との関係を拡大してきた。それでも未だにさまざまな軋轢があり、うまく行かない部分もある。ところが北朝鮮は、そうした準備もないままに突然西側との関係をもつような局面に立たされたために、一気に経済難に直面したのである。

 それゆえ現在の北朝鮮が危険な瀬戸際政策を行っている最終的目標は、明らかに冷戦の終焉に伴う二つの危機の解消、すなわち米国からの体制保障と経済再建であることは間違いない。現時点で、北朝鮮を物理的にその政治体制を崩壊させる能力と意図を持っている国は米国・ブッシュ政権である。自分たちの政治体制にとっての具体的危機は米国なので、米国からの体制保障をどうしても取り付ける必要があった。もう一つは、経済的困窮状態にあるために、かつては社会主義陣営の相互協力関係を前提に成立していた自国の経済体制を立て直すためには、西側の資本主義社会との交流を拡大しながら支援をもらうしかない。この二つの問題は、昨年9月の日朝平壌宣言の中にも明記されていた。

 小泉首相が北朝鮮を訪問した目的は、北朝鮮が国際社会の責任ある一員になることにあった。北朝鮮にとって上記の二つの危機を回避するためには、国際社会の一員になることが必要である。しかしわれわれがそれを受け入れられないのは、彼らが大量破壊兵器問題を外交カードとして用い、ある種の危険なゲームをしながら国際社会の一員にしてくれという彼らの方法やり方が、国際社会としては受け入れられないものだからなのである。

(2)「無法者国家」
 それでは北朝鮮はどうしようもない「無法者国家」なのか。実は必ずしもそうではないと思う。北朝鮮はこれまで多くの国際的約束をしたが、その代表的なものが1994年10月に結んだ米朝枠組み合意である(北朝鮮が核兵器プログラムを単独ですることをやめ、その代わり国際社会は核兵器に転換しにくい軽水炉を供与する。それに伴い、核兵器転用がしやすい黒鉛減速型の原子炉から軽水型原子炉に転換するのに必要なエネルギー・代替燃料は国際社会が補填する。同時にそのプロセスの中で、米朝は関係を正常化するという内容)。北朝鮮はこの枠組み合意を昨年までは一応守る姿勢を見せてきた。

 94年以後では、98年8月にテポドン・ミサイルが発射された事件があった。それに対して米朝枠組み合意の精神にもとるではないかと考える人がいるが、しかし枠組み合意の中にはミサイルのことは記載されていない。枠組み合意はあくまでも核についての合意である。ペリー北朝鮮政策調整官が北朝鮮政策の見直しをした(1999年)が、その場合の「見直し」とは核問題だけではなくそれ以外の問題(ミサイル問題を含む)が発生することにいかに対応するかということであった。

 日朝平壌宣言もある種の合意といえる。「既に反故にされている」という人もいるが、しかし北朝鮮の立場からすれば未だに守っているともいえるのである。北朝鮮は拉致問題については「既に解決済みの問題だ」とし、今年の1月から行われている地対艦ミサイル発射についても、宣言では「弾道ミサイルの発射実験」については言及しているが、地対艦ミサイルについては言及していない。実際に発射された直後に川口外相も「日朝平壌宣言に違反に当たるとは思わない」と述べた。もちろん、彼らなりの解釈の中で守っているからといって、宣言を遵守しているといえるのかとの疑問も当然ある。しかし必ずしも完全な無法者国家とは言えないだろう。

(3)93年、94年危機との比較
 今回の危機は、94年の危機と比べた場合に、大きな違いがある。それはブッシュ政権に対する強い恐怖感が前提になっている点である。北朝鮮は米国との直接対話を要求しながら瀬戸際政策を行っているが、94年当時とはやり方が違う。当時はある意味では国際関係を全て断ち切って自ら孤立した後に、米国以外とは話し合わないといって臨んだ。今回は、韓国との関係は維持し、日本との関係においても(中断状態にあるとはいえ)完全に破綻状態にはない。何らかの形ですぐにでも戻せる状態に置きつつ、米国に対しては瀬戸際政策をとっているのである。この点が決定的に違う。

 また、現在の危機はむしろ93年の段階に近いと考えられる。93年3月12日に、北朝鮮はNPT(核拡散防止条約)脱退を表明、6月12日に米朝合意(米朝高官協議時の米朝共同声明)をした。その後はその米朝枠組みの中での危機が発生することになる。現在は米朝中の3カ国間における枠組みがあるので、93年6月から94年の危機へと移行していく段階にあると評価することが可能であろう。とりあえず93年の危機の方が依然として近い状況にあるといえる。

 それでは93年危機は、なぜ起きたのか。80年代末から社会主義陣営の崩壊現象があり冷戦の終焉となった。その結果国際社会の再編が行われた。北朝鮮でも同様のこと、つまり日米との関係改善が模索された。1990年に金丸訪朝があり国交正常化交渉を再開することが約束され、実際に91年から交渉が開始された。また韓国との間においては、90年に南北分断以降初めて首相級会談がもたれたが、その過程で韓国は90年9月にソ連と国交を回復し、続いて中国との改善に向かった。

 しかし、中国は韓国との国交正常化については慎重であった。中国がこの時点で韓国と国交正常化してしまえば、北朝鮮の後ろ盾となっていたソ連・中国と韓国が国交を正常化し、韓国の後ろ盾になっていた米国・日本はどちらも北朝鮮との国交がないことになる。つまり北朝鮮が孤立化することになる。そこには孤立化はよくないとの中国側の判断があったに違いない。

 92年8月に中韓国交正常化が実現すると、北朝鮮の態度が豹変した。その直後の92年11月に第8回日朝国交正常化交渉の席上、いきなり北朝鮮は「日本側の一方的な責任によってこれ以上の交渉はできない」と交渉中断を宣言。韓国との関係も、その年の暮から翌年にかけて南北につながっていたチャンネルを全て断ち切って自ら国際的孤立を深めていった。そしてNPTを脱退し米国以外とは話し合いをしないと主張し始め、米国への対話を要求した。

 その手法に比べると、今回の危機では、北朝鮮は国際的孤立はせずに米国との対話を要求していくとの姿勢を貫いている。韓国、日本を何とかうまく利用できないかと考えているようだ。それはおそらくブッシュ政権に対する恐怖心が強いからだと思う。ブッシュ政権の強硬政策とともに、それに加えて日本もそのブッシュ政権に協調して強硬な態度を示したことも大きかったに違いない。

(4)ブッシュ政権の登場
 米国はブッシュ政権の登場によって強硬策を取るようになった。米国が北朝鮮に対して問題にしていていることは、核、ミサイル、通常兵器、人道問題の4つである。ブッシュ政権の登場が最も誤算だったのは北朝鮮であったと思う。

 クリントン政権の末期に、米朝関係は関係改善の進展が期待され、もしかするとクリントン大統領の訪朝が実現するのではないかとさえ言われていた。その前提となったのが2000年6月の南北首脳会談である。その結果、周辺諸国の朝鮮半島への姿勢がかなり変わった。南北が仲良くするのならば周囲から援助しつつ米国も解決に向けた意思があることを表明した。そして北朝鮮のNo.2である趙明録国防委員会第一副委員長が訪米し、それを受けてオルブライト国務長官が訪朝した。同国務長官はクリントン大統領が訪朝できるか否かについて見極めに行ったとされた。しかし大統領訪朝は実現しなかった。

 それではその当時何が問題になったのか。核の問題ではなく、ミサイルの問題であった。ミサイル問題には、開発、配備、輸出の3分野がある。配備に関しては、ノドンミサイルが既に配備済みといわれており、この問題が日本にとって最大の問題である。輸出については、中東諸国へのミサイル輸出が問題視されていた。米国はむしろ輸出問題に関心をもっていた。北朝鮮は、「中東輸出を止める代わりに、その代価をよこせ」と主張しながら米国と交渉し、最終的にはクリントン大統領が訪朝してくれれば代価は要らないという段階まで至ったと言う。しかしその検証をどうするかについて合意できず、クリントン政権が終わってしまった。

 ブッシュ大統領自身が、金正日政権および彼個人に対する不信感、感情的なまでの嫌悪感を持っていることは間違いない。ブッシュ大統領は金正日について感情的とも思える発言をすることがしばしばみられる。ブッシュはなぜそれほどまでに金正日が嫌いなのか。

 ブッシュ政権が誕生したときに、各部署から世界各地の報告が新大統領になされたが、北朝鮮については北朝鮮国内において餓死者が出ているということが報告され、それがいたくブッシュに引っかかったといわれる。ブッシュ大統領の考えでは、国家指導者の最低の責任は国民を飢えさせないことであるのに、餓死者が出る状況にもかかわらず、却って核カードを用いて米国に対して危険なゲームをけしかけることに対する嫌悪感である。

 現在、米国においては大きく二つの考え方があると言われている。一つは国際協調派といわれているグループであり、もう一つは新保守主義(ネオコン)のグループである。前者はパウエル国務長官に代表される人たちであり、後者はラムズフェルド国防長官に代表される人々である。イラク戦争では後者の人たちがイニシアチブを取ったとされている。

 対北朝鮮政策に関してはどうか。現時点で言えば、両者とも基本的に大きな違いはないといえる。国際協調派といわれるパウエル長官も、北朝鮮に対しては譲歩をするつもりはないと強調している。ここまでは一緒であるが、その後は北朝鮮の態度如何で差が出てくる。つまり北朝鮮を変える方法上の違いである。新保守主義は最終的に北朝鮮の体制変換さえ容認し、場合によっては力によってでもそれをやるしかないとする。国際協調主義は、基本的に対話による解決を目指している。北朝鮮との対話如何によっては、違いがはっきりする可能性も大きいと思われる。

 新保守主義派がイラク戦争と比べ北朝鮮問題に対してあまり熱心でないのには、いくつか理由がある。一つには、よく指摘されるように、朝鮮半島には中東の石油のような天然資源が特別にないということ。もう一つは、現在の北朝鮮の大量破壊兵器の拡散について脅威と認識してはいるものの、それ自体が米国に直接的に及ぶ脅威でないということ。例えば、テポドンにしても、米国にまで届く能力はないと見られている。「核兵器を保有している」と4月の米朝中三者協議で北朝鮮が明らかにしたが、それを小型化してミサイルに搭載する技術力は現在の北朝鮮にはないといわれている。つまり核兵器が仮に存在するにしてもそれはそこにあるだけであって、米国に対して運搬する手段・能力は現時点でないのである。その後、テポドンUのようなものの実験を行い、射程距離も米国本土まで届き、核兵器も小型化に成功したということにでもなれば、新保守主義者たちの姿勢も変わるに違いない。なおかつ、米国全体の雰囲気も全体として新保守主義にシフトしていくと予想される。

 現時点では、依然として米国は二国間協議に対しては否定的であり、多国間協議を進めようとしている。その一方で大胆なアプローチ、すなわち北朝鮮も国際社会の一員になればこれだけの利益があるなどとしながら誘導して彼らの姿勢を変えていく方法も模索している。

3.イラク戦争と北朝鮮

 今度のイラク戦争は北朝鮮にとって大きな意味のある出来事であった。イラク戦争を通して北朝鮮は二つくらいの衝撃を受け、そこから教訓を得たものと思われる。一つは体制危機の恐怖を見せ付けられたこと。米国の北朝鮮政策について議論する場合に、米国は北朝鮮の政治体制についてかつては「危害を加えるつもりはない」と主張していた。問題は北朝鮮の大量破壊兵器であり、それだけを外科的手術によって除去すればよい、つまり核施設をピンポイント爆撃によって破壊すればよいと考えていた。それによって北朝鮮の態度変化を目指すとしたのである。

 一方北朝鮮としては、ピンポイント爆撃を受けるくらいまでは覚悟してチキン・ゲームを行うつもりであったかも知れない。もしピンポイント爆撃を受ければ、それに報復して韓国に対して一斉砲撃を加えると主張した。果たして米国は外科的攻撃を加えるのか。もし米国の攻撃があれば、韓国・日本は北朝鮮からの報復を覚悟しなければならないと憂慮している。特に韓国は北朝鮮によって「火の海にされる」と脅されているので、米国の攻撃はことさら避けてほしいと思っている。北朝鮮はそのような米韓の温度差につけこんでいこうと狙っている。

 今回のイラク戦争では、戦端が開かれた当初ブッシュ政権が目指したことは、その名目は別にして、フセイン体制の崩壊を狙い、戦闘を極小化することであった。北朝鮮はそのことを特に意識して見ていたに違いない。さらに米国の圧倒的な力、とりわけハイテク兵器の大きな進歩によって米国が本気になって望んだ場合、体制維持が難しいという危機感を強くした。

 また核査察については、イラクが核査察を受け入れたにもかかわらず攻撃を受けたことから、北朝鮮は交渉のない状態で核査察を受け入れたらすぐさま攻撃を受けても仕方ないと考えた。交渉しないままで査察を受け入れるととんでもないことになるので、交渉と査察は一体として取引しなければならないと強く意識した。 
さらに国連の無力を感じたはずである。北朝鮮は必ずしも完全な無法者国家ではない。国際法は彼らなりの理屈で守るし、彼らにとって国連は米国の突出した行動を抑制してくれる可能性のある組織であった。しかし米国が本気で取り組むことになると、国連でも阻止できないことを今回のイラク戦争の経緯を通してはっきりと認識したのである。その意味で、国連の枠組みも限界があり、米国との二国間交渉が何としても必要だと考えた。

4.米朝中三者協議

 米朝中の三者協議に北朝鮮が応じたタイミングは、イラク戦争でバグダッドが陥落した直後だと言われている。実際には3月末から水面下で行われていたといわれている。

 また北朝鮮は、今年1月10日にNPT脱退を宣言したが、それが発効するのは今年4月10日であった。NPTの規定では、脱退を宣言してから3カ月後にはじめて発効するとなっている。北朝鮮は93年に一度NPT脱退を宣言しているので、既に発効しているわけであるから、北朝鮮にとって4月10日はそれほど意味はなかったはずである。しかしこのような微妙なずれを利用しながら、交渉の材料とするところがまた北朝鮮らしい交渉術となっている。

 4月10日の数日前に、国連では北朝鮮のNPT脱退に対する非難決議を採択する動きがあった。国際社会では、脱退宣言から3カ月経過する前に、非難決議など明示的な行動をとっておく必要があった。ところが中国がかなり強硬な姿勢に出たために、非難決議は採択されずに三者協議という方向に進んでいった。

 米国はなぜ中国をねじ伏せてでも非難声明を出さなかったのか。この辺が北朝鮮にとっての恐怖でもあった。
米国にとっては北朝鮮のNPT脱退問題はどちらでもよいということなのである。北朝鮮がなまじNPTに残っていれば、北朝鮮による核の平和利用を認めることになる。しかしNPTを脱退してしまえば、その規定に拘束されることがなくなるので、米国が自国にとって北朝鮮の行動は危険だと認識すれば、そのまま軍事的なオプションも含めた行動を取りうるはずである。米国が最終的に国連による非難決議に固執しなかったのは、中国が積極的に動いたので一度中国にやらせてみようということである。仮にNPTに残ったとしても米国の本音としては軽水炉を供与するつもりもなく、重油発電所の建設で十分だとの判断があったためであろう。

 それを受けて、米朝中の三者協議が始まる前に、中国の胡錦濤主席は、「北朝鮮が核を平和利用するというのであれば、国際的なルールに基づいて認めていかなければいけない」と発言した。米国主導で対北朝鮮交渉が進んだのでは、北朝鮮は折れてこない。中国としては北朝鮮をNPTに復帰させてそれを履行させ、なおかつ北朝鮮が米国からの体制保障を求めた時に、最終的に北朝鮮が米国を納得させられるような包括交渉に入れる状況になるまでは、中国が体制保障を代理してやる。米国には絶対に主導権を握らせない。このように落としどころを考えていたと思われる。しかし残念ながら、三者協議は中国・米国の思惑とは異なって、さらなる瀬戸際政策の場となってしまったのである。

 実際に三者が協議を行ったのは初日と最終日だけで、あとは米中、中朝の二者会議を続けたのであった。その結果明らかになったことは、北朝鮮の核の保有を示唆する発言と燃料棒の再処理完了が近いことであった。これに関しては米国が最終的な確証を得ていない上、実際その証拠もないのが現状である。一つ明瞭なことは、北朝鮮が米国に対して「寛容な解決策」を提示したことであった。これは包括的提案とも言われ、核プログラムを北朝鮮が放棄する代わりに、経済協力をもらうという内容である。その部分については北朝鮮の従来の主張を大きく変えるものではなかったが、日本との関係正常化も含まれていたとされる。

 今後の展望はかなり流動的であるが、今回の三者協議では北朝鮮と米国が姿勢を変えなかった結果、限界があった。北朝鮮は二者協議を求め、米国との交渉取引と考えたのに対して、米国は交渉取引には絶対応じないとして全く対立した状態であった。

 米国が多者協議にこだわる余り、北朝鮮の意図が正確にわからないまま次のステップに進んでいくのは危険である。北朝鮮がこの三者協議に臨む姿勢は、自らが譲歩して国際社会の一員となるというのではなく、枠組みを作った中で従来どおり危機のレベルを上げて米国に対して譲歩・取引を引き出すという瀬戸際政策であった。この点では北朝鮮の根本的な姿勢を変えるといったことがなく、単にやり方・方法を変えただけであった。

 このような状況の中で日米韓間で政策の調整を行い、今後は三者協議に日韓を加えた五者協議の可能性が模索されているのが現状である。

5.日米韓三国協調と中国・ロシア

 日米韓三国の役割を考える上で一番大きな変化は、韓国に新政権が誕生したことであった。韓国の盧武鉉大統領に対する日米の評価は、当初は積極的評価の姿勢というよりは多少不確定要素が多いと懸念していた。盧武鉉大統領は、インターネット世代とも言われる若い世代によって支えられ、不安定な政権支持者によって登場した。その若い人たちは、金大中政権以来の北朝鮮に対する宥和政策を大前提としながら、なおかつ過激なことはやらないで、太陽政策の延長線上で北朝鮮を変化させていくことを期待している人が多かった。

 それに対して日米両国は、「宥和政策もいいがそれでは不十分である。今までのやり方に加えて強面の政策を出して変化を促す必要がある」と考えており、韓国との間に温度差が見られる。米韓、日米首脳会談において、基本的に平和的・外交的手段で解決するとの点は共通であったが、その後の追加的措置については、日米首脳会談ではもう少し厳しい姿勢で臨むというような具体的文言が使われた。しかしこの違いが三国の協調を阻害するほどの違いかとなると、そうとは思えない。

 その後日米韓三国調整監督グループ(TCOG)協議では、「対話と圧力」が主張されたが、その場でも平和的・外交的路線の基本は変わらなかった。それとあわせて万景峰号に対する対応も含めたより「圧力」に力点をおいたプログラムが同時進行していることも事実である。

 ただ経済制裁のプログラムに対して日本がどう対応していくのかについては、少し慎重であらざるを得ない部分がある。現在問題になっているのは、大量破壊兵器の部品とその関連物資、麻薬、偽札等の問題なので、生活物資を含めた民生部門についてはその限りではないということにとどまっている。そのため従来の法的枠組みの中で厳格に運用して対応することは私も賛成である。北朝鮮を特定のターゲットとして法整備を行うことは、かなり慎重であるべきであろう。仮に必要な場合は、国際社会との協調、とりわけ日米韓の三国協調の中で実施されるべき問題であろうと思っている。

 米朝中三者協議が開催される前には、六者協議のことがよく言われた。最終的には六者協議は必要だと思う。ところが中国・ロシアは、必ずしも北朝鮮問題を解決することのみを目的として関与しているわけではなく、むしろ朝鮮半島を中心とする大国間関係を念頭においている。

 中国にとっては、朝鮮半島を舞台とする米国との力学関係がある。北朝鮮問題が解決される結果の段階において、どのような北東アジア情勢ができるかは、中国にとって死活問題である。米国の影響力が決定的な状況下で朝鮮半島情勢が解決された場合に、中国にとってそれは最もいやなものである。台湾問題が残っている限りにおいて、台湾問題で緊張するたびに朝鮮半島での米国の影が気になる。

 ロシアの場合は、社会主義が崩壊した後、発展途上国的立場に甘んじてきたわけであるが、プーチン政権登場以来朝鮮半島問題で発言することによって、国際的プレステージを上げることが可能だという判断がある。例えば、2000年沖縄サミットのときには、事前に北朝鮮を訪問してミサイル発射実験の凍結を伝えたことで、ロシアの北朝鮮への影響力がクローズアップされたことは記憶に新しい。

 もう一つは、中国と同様に朝鮮半島を舞台とした米ロ関係である。ロシアが大国であろうとすればするほど、世界的レベルの安全保障問題に関与せざるを得ない。ロシア人は「NATOを含めて欧州に展開する米軍については口を出す枠組みがある。しかし在韓米軍については言及する枠組みがない。それゆえ北朝鮮問題を含めた多国間協議において在韓米軍について米国と話し合う枠組みがほしい」とよく言う。

 このように中国・ロシアは別の思惑を持って、朝鮮半島問題に接近しているので注意してみなければならない。

6.最後に

 北朝鮮問題の原点が、北朝鮮が冷戦終結後の国際社会の秩序にうまく対応できないところにあるとすれば、小泉訪朝による日朝平壌宣言の意味をもう一度確認する必要がある。北朝鮮がもう一度国際社会に戻ってくるために、抑止と協調、さらには対話と圧力という政策を最大限に使わなければいけない。

 米国が厳しい姿勢を崩していないのであれば、日米韓で抑止と協調を実践すればよい。すなわち米国が圧力を加えれば(抑止)、韓国は対話路線をとり(協調)、両者の調整を日本が担う。三国がばらばらでは北朝鮮の思う壺であるから、どうしても調整は不可欠である。これによって日米韓がそれぞれ出す政策に違いがあっても、三国が意思疎通をしっかりして一つの政策の下で抑止と協調というラインが出てくれば、結果として一致した北朝鮮政策となろう。そうした前提で、今後日本としては日朝間の問題を含めてトータルに解決を求めることをめざす必要があると考えている。(2003年6月14日発表)