学校パラダイムの転換と教員養成の課題

明海大学長 高倉 翔

 

1.学校パラダイムの転換

(1)近代学校の位置付け
 行政との関係から見た場合に、学校のタイプは大きく二つに分けられる。一つは行政主導型(guided system)であり、もう一つは草の根型(grass-roots system)である。日本の学校は前者のタイプであり、後者には欧米の学校が多く該当する。それぞれを対比して見ると、学校ができてくる過程が非常に対照的である。

 日本を例に挙げてみると、明治4年に文部省が設置され、翌年に学制(太政官公告)が頒布され、それに基づいて学校が作られた。すなわち行政機関、法令、学校の順となる。一方、イギリスに典型的に見られる草の根型では、まず学校が社会的な必要から生まれ、それらが無秩序では困ることから法令をその上にかぶせて調整を図り、最後に教育行政庁ができてくる。このように全く過程が逆になっている。こうした違いは今日まで、陰に陽に影響を及ぼしている。

 日本では第二次大戦後、地方分権やポピュラーコントロールが叫ばれ、国民による教育の経営が各方面から主張されたが、それまでの流れがあり中央集権による官僚統制型の教育が完全には払拭されず今日に至っている。ようやく最近になって、本格的に地方分権、規制緩和・改革などの政策が実施されるようになったものの、永年にわたり行政主導型の学校が主流を占めてきたのであった。

 日本が行政主導型で学校を作った背景には、明治時代に日本が欧米列強に対して後進国としてその隊列に入ろうとしたために、追いつき追い越せの政策(キャッチアップ・ポリシー)を取らざるを得なかったことがある。そうした政策を取った場合に、一つには国が必要とする知識、技術、考え方などを効率的に国民に教え込んでいく必要がある。つまり国家の利益と合致する教育内容を国が自ら関与して決めていく。もう一つは、効率的に教えることになるので、「学習(learning)」よりは「教授(teaching)、教え込み(indoctrination)」に重点が置かれる。その結果、今日に至り、自主的に学んでいくという学び方の欠如をどう克服するかが課題となった。知識・技術、学び方、生き方の基礎・基本をきちっと教えていかなければいけないが、それを教えるだけではなく、子どもたちが自ら学び取っていくという姿勢、つまり「生きる力」が必要になる。

(2)教育政策のあり方
 こうした時代的変化の中で「学校パラダイムの転換」ということが叫ばれるようになった。すなわち、教える学校から学ぶ学校への転換が政策課題とされたのであった。そのことを表明したのが、1996年7月の中央教育審議会答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」(キーワード「生きる力」と「ゆとり」)であった。しかし、その後国民的関心事とされたのは、「学力低下」の問題であった。「ゆとり」教育の中で「生きる力」を育てるということよりも、多くの国民は学力低下の方が関心事となっている。さらに学力低下よりも憂慮すべきは、学習意欲の低下だとの声もあがっている。そうした問題をどう克服していくかが、今度の中央教育審議会に諮問(2003年5月15日・「今後の初等中等教育改革の推進方案について」)された内容である。

 こうした政策転換のときに重要なことは、一つの政策ポイントを前面に出して進めるときに、どこまで政策の有効性が持続するかの見定めである。教育政策は、時計の振り子のように揺れる性質がある。日本の揺れと米国の揺れは、方向が逆になっていることがしばしば見受けられる。

 ある一つの新機軸を政策として出しても、それが未来永劫に続くわけではない。やはり振り子のように転換することは不可避である。例えば、キャッチアップ・ポリシーから脱していこう、教える学校から学ぶ学校へといったようなときに、問題は一体どこで振り切れるのかである。それを見定めて、振り切れる前にどんな手を打つのか。教育政策というのは、永遠普遍の部分だけではなく、現実には期間を限定した性質の側面もある。それゆえ振り子が振り切れる前に、そのことを予測し、さらにはその先のことまで予見し対応策まで視野に収めながら、政策立案を進めることが大事である。日本の場合は、先の見定めが不足しているといえよう。それはちょうど環境アセスメントと同じように、教育政策のアセスメントが必要である。さらに敷衍すれば、教育政策を含めた政策科学の立ち遅れを感じざるを得ない。

 今進めている政策がいつの時期にその有効性を失い、その次にどんなことを考えなければいけないのかといった先見性、先手を打つ見定めが教育政策に当たっては重要なのである。

(3)学校パラダイムの転換
 学校パラダイムの転換といっても、それは今ある「箱物としての学校」(ハード部分)の中での教育活動の話である。しかしこれからは箱物それ自体も変容していく可能性がある。例えば、バーチャル・スクール、Eラーニングなどのキャンパスレスの学校の登場である。あるいは、これまでの学校は国公私立の学校がほとんどであったが、最近の政策に見られるように、規制緩和政策によって株式会社やNGOが経営する学校も参入できるような特区制度ができつつある。それが近い将来全国区になってしまうかもしれない。このように多様な形態の学校が出現しつつある。

 その背後にあるのは、規制緩和や規制改革と言った時代の流れとともに、もっと本質的には、不登校やいじめなどの子どもたちをめぐる深刻な問題がある。そのような立場に置かれた子どもたちのための第三の学校を展開するということである。また子どもたちの不登校やいじめなどの深刻な問題をきっかけとして、学校に対する不信感が増大したことが上げられる。国公私立に学校を限定してきたのは、もちろん学校の公共性という側面から重要な意義があったものの、現在に至り子どもたちを巡る深刻な現状が拡大する中では、それだけに限定してはいられなくなった。

 従来の日本の学校管理の原則は、設置者管理主義であった(学校教育法第5条)。しかし近年地域住民の学校経営への参画をきっかけに、設置者管理主義が変わってこざるを得ない状況が生まれた。

 このように学校パラダイムが大きく変化する中で明らかなことは、これまでの伝統的な学校が変容するということである。その動き・流れは止めることのできないものとなっているが、それを手をこまねいて見ているだけではなく、どのような変容を良しとし、さらには行政がそれをどのように支援していくのかなどの課題がある。これまでの伝統的なタイプの学校にあぐらをかいていたのでは、時代の変化に対応できなくなる。

2.学校と地域との関係

(1)イコール・パートナーシップ
 学校、地域、家庭の関係は、従来から一般論としていろいろと論議されてきたものの、具体的にどのような関係を保つべきかははっきりしなかった。しかし、その中でもはっきりしていたことは、あくまで学校が中心で、そこに地域や家庭が協力するという基本枠組みであった。しかし今日になり、そのような「(学校を中心とする)協力」の関係から、「連携」の関係に変化しつつある。すなわち、三者がイコール・パートナーの関係で相互に連携していくということである。さらに地域と家庭が学校運営に主体的に参画していく。その参画する仕方として、コミュニティー・スクール、地域社会の人々の中から民間人を非常勤(特別)講師として教壇に立ってもらうなどの試みが現われ始めている。そのために教員免許法を改正(1988年)して、民間人の登用に道を開いた。特に「総合的な学習の時間」の導入によって、教師の力量だけでは対処しきれない状況が増幅されている。

 ところで、義務教育の段階では日本では児童・生徒を退学させることはない。しかし米国では、児童・生徒を退学させること(学校への出席停止)ができる地域がいくつかある。それの背後には、子どもたちは地域が責任を持って育て、学校にもう一度戻るところまで努力し、その段階で復学させるという考えが根底にある。それは、教育は学校にお任せ、あるいは学校が中心となってそこに地域と家庭が協力するというレベルを飛び越えて、学校・地域・家庭の連携、さらには学校教育へ参画するという内容の実践的事例ではないかと考えられる。そのようなことができるようになれば、まさに三者の連携はよい関係が築けることと思う。

(2)学校教育への社会人の登用
 社会人を学校教育に積極的登用することが国際的に宣言されたのは、1975年のユネスコ勧告(「教員の役割変化と教員養成・研修への影響に関する勧告」)によってであった。その勧告の中で「社会人」、特に地域社会の「専門家」(professionals and specialists from community)の積極的活用が奨励された。その後日本でそれが法律化されたのは1988年の教員免許法の改正であった(前年の教育職員養成審議会の答申を具体化したもの)。これによって免許状を持たない人が教師になることができ(特別免許状制度と特別非常勤講師制度)、さらに学校教育法施行規則の改正(2000年)によって民間人校長が誕生するようになった。このように国際的動向に従って日本も動いていたのである。

 実は75年のユネスコの勧告を作成するときに、私はその原案作成から採択に至るまでの過程に日本政府代表の一人として関わった。社会人を積極的に学校において活用するという趣旨の勧告文を作成するのは半日がかりであった。大筋ではみな合意していたのであったが、“more(多く) involved”という原案の文言に対して文句がついた。1966年に「教職は専門職でなければならない」という趣旨のユネスコ「教員の地位に関する勧告」が出された。その流れから言えば、“more involved”ということになると、素人が学校現場にどやどやと入ってくることになりかけないので、果たしてそれでよいものかと疑義が呈されたのである。激しい議論の末、“appropriately involved”(適切に活用する)というところに落ちついた。

 さらに社会人が学校現場に入ってくる場合に、教育の最終的責任を一体誰が負うのかという問題が提起された。結論としては、教育の最終的な責任は有資格の教員(qualified teacher)が掌握していることを前提として社会人を招こうということになり、新たな文言を追加することで落ち着いた。

 それとともに社会人の先生方は、教員になる前もなった後も、積極的に研修を受けなければならないとされた(事前、事後の研修の不可欠性)。このようなことが主な内容であった。社会人を学校に受け入れるときに、これらの課題は今でも大切にしなければいけないことと思う。

 すなわち、学校、家庭、地域の三者の連携、家庭・地域の学校経営への参画においては、このようなユネスコ勧告に見られる原則や議論された内容は、今でも噛みしめておく必要がある。つまり社会人の活用を単なる流行というレベルの問題としてとらえられていては困るのである。

3.教員養成の課題

(1)教員の質をどう高めるか
 OECD(経済協力開発機構)の「学校改善プロジェクト」(ISIP)では、教育の「3つの質」(カリキュラムの質、教員の質、経営<マネジメント>の質)が教育改善の柱とされた。教育改革においても、これら「3つの質」にかかわる改革が重要である。なかでも教育の成否はまさに教員にかかっているということは、従来から言われてきたことであるが、教員の質の向上は不可欠の要素となっている。ここで質といった場合、それは教育の力量であり、教員の資質・能力の中身を意味しており、それが今問われている。

 その中身については、さまざまな議論があるが、その中で一つには変化への対応能力を持つということが上げられる。すなわち学校で起きている深刻なさまざまな問題に具体的に対応することができる能力であり、「実践的指導力」ともいわれる。

 第二には、従来同じようなタイプの教師像を持って教育してきたが、しかし、すべての教員に共通に求められる基礎的・基本的な資質能力を確保した上で、各教員の積極的な「得意分野づくり」と「教員の個性伸張」も重要である。

 さらに今学校は多くの問題を抱えており、一人の先生の力だけでは対応に限界がある。そこで学校という組織の中でチームを作って事態に対応していく必要があるので、協調的力量も重要である。

 これらの力量形成は、従来教員養成の段階における課題としてのみ位置付けられてきた。しかし最近では、そのように狭く考える(「1回限りの養成」)のではなく、養成、採用、研修の各段階を通じて次第に資質を形成させていくと考えるようになっている。私はかつてOECDにおいて「教員政策(teacher policy)」策定の仕事をしたことがあるが、その中では養成よりも研修の方に優先権をおくべきだとの議論がなされていた。また先述した75年のユネスコ勧告作成に際しての議論のときには、養成と研修のどちらに優先権を置くかというのではなく、両者を連続させていくこと(継続的教育)がもっと重要だということになった。これは現在でも生きている内容である。

 その背後にある考え方としては、専門職(profession)、生涯学習(lifelong learning)が大きな流れになり、生涯学習体系への再編・移行が教育改革・教育政策の柱になっている。教員養成問題はまず大学における養成であるので、「実践的指導力」の基礎となるもの、換言すれば卒業して教壇にたって大きな問題なく授業・生徒指導ができる最小限度の資質・能力を教員養成の段階で育てていく。

 その上で採用段階の教育となる。すなわち初任者研修が大きなポイントである。従来は初任者研修に続いて5年目、10年目などに各都道府県毎に研修が行われていたが、それらは「行政指導」として行われていた。それが今年の4月から新たに「教職十年経験者研修」が法令により義務化された(2002年6月・教育公務員特例法改正)。

 教育改革国民会議の17の提言(2000年12月)の一つに「教員免許更新制の可能性の検討」が盛り込まれたが、中央教育審議会答申(2002年2月)では「そのメリットは認められるが現段階では導入すべきではない」となった。それに代わるものとしてこの「教職十年経験者研修」が導入されたと言われている。しかし私としては、そのように消極的にこの件を見るのではなく、積極的に評価しここに新たな制度を導入したと考えるべきである。それは初任者研修に続いて10年目の研修を義務化することによって、教員の資質・能力・力量を飛躍的にアップするのである。

 教員に期待される事柄としては、専門性の向上、適格性の確保、さらには信頼性の確保などがある。この3つが渾然一体となって10年目研修が出てくる。さらにその他には、「指導力不足教員の排除」の問題もある。

(2)人事考課制度
 もう一つは、人事考課制度である。以前の勤務評定制度は殆ど機能していなかった。この人事考課制度は管理上の手段ではなく、教員の成長にプラスになるという視点から考えたい。

 これからの教員問題は、資質の向上のために上記の三つの観点(専門性の向上、適格性の確保、信頼性の確保)から考えていく必要がある。信頼性の中には、説明責任を果たせる能力も新しい資質として考えられている。これまでは教員にこのようなことは求められなかった。新しい人事考課制度では、教員が単に評価の対象になるだけではなく、評価結果がその人の待遇、経済的処遇にも反映していく。それに関連して、「評価するものは評価されるのだ」ということを忘れてはいけない。どうかすると学校の先生方の中には自分は評価する側であって、学校の先生が評価されるのはとんでもないことだと考えている人が少なくない。一般社会では評価するものは、逆に評価される立場にも立つ。その評価も360度評価であり、周りの皆から評価を受ける。これは一般社会における明白な常識であるが、それを学校の文化の中に「評価文化」として定着させることが重要である。

(3)明海大学における教員評価
 本学でも教員の評価を実施している。その評価をどう生かすかという点では、昇進や期末手当査定(賞与)に反映するようにしているが、評価の客観性、公平性、透明性の確立は難しい課題でもある。

 学生による授業評価は本学でも実施している。最初の段階では教員の方に緊張感を持って授業を行ってもらうこと、次の段階ではその評価を公表せず教員本人にフィードバックして授業の改善に役立ててもらうこととしている。しかし教員評価に結びつけずにその段階でとどまっていては、授業評価そのものが空洞化してしまうのではないかとの心配もある。その考えに対しては「性悪説過ぎる」との批判もあり、無理して進めようとは思わない。それでも今年末の期末手当の査定までには、今まで積み重ねてきた学生による授業評価の結果を何らかの形で教員評価に組み込めないか結論を得たいと考えている。

 ここで注意しなければいけないことは、今まで大学は大学教員のために存在したと考えられてきたが、現在では顧客のためにあるという考え(顧客満足、customer satisfaction)が主流になりつつあることである。特に学生の満足度をどう高めるか(消費者主義、consumerism)を考えることは重要なポイントである。しかしそちらにシフトしすぎると、教員・職員の満足度を無視してしまうことにもなりかねない。大学を大学という組織として安定的に維持・発展させていくためには、両者の満足度を高められるようなバランスの取れた大学運営が求められることになる。
(2003年6月3日)