地方大学の試み
―学生教育の充実を目指して―

市立尾道大学長 松浦 泰次郎

 

1.はじめに

市立尾道大学は、2001年に尾道短期大学から四年制に転換して開学した新しい大学である。日本には現在四年制大学が 600 校余りあるが、その中にはさまざまな大学があり、それぞれ、成果を上げよう、特色を出そうと努力している。ここでは本学の取り組みも紹介しながら、大学教育のあり方について考えの一端を述べてみたい。

2.大学教育のあり方

(1)基礎研究と実務教育
 法律に書いてある伝統的な表現によれば、大学の目的は、「大学は学術の中心として、……深く専門の学芸を教授、研究し、……」という言葉がある。最近では、大学は「知」を継承発展させていく使命があるという言い方もある。

 言い方はともかくとして、大学が担っている研究、教育については、科学技術や産業社会の進展に伴い、その中身には、本質を踏まえながらも、かなり変容が起こっている。人材の量的拡大の面において多岐化、専門化が行われ、それは学部学科のさまざまな名称にもよくあらわれている。また大学院についても、科学技術の急速な発達と産業への波及から、特に理工系について大学院修了者を求める動きが強まり、その傾向はしだいに他の分野にも及んでいる。現在、国立大学では、大学院のない大学はない。公立大学では94%、私立大学では80%以上が大学院を持っている。尾道大学は、現在、開学3年目で、大学院はまだ準備を進めている段階にある。現在は、その準備とともに、学部教育をいかに充実し成果をあげるかで努力を重ねている。

 人は社会の一員として、社会の仕事の一部を分担していかねばならないが、これは職業としてみる場合、それに必要なものが全て大学で学べるわけではない。一言で言えば、大学で学ぶものはあくまでも基本であり原理である。社会が応用の世界だとすれば、大学は、応用問題を解く原理、原則を学ぶところである。基本ができていなければ応用問題を解くことはできない。もちろん基本原理、基礎的能力といっても、社会は高度化し、複雑化、国際化していくので、大学で学ぶべき基本的なものもそれに対応して変わってくる面がある。大学としては常にカリキュラムの研究改善を怠れないところである。

 しかし、これとは別に、最近、企業の求める人材の中身に変化が生じている、と言われている。以前は、企業の方からは、大学で基礎的な勉強をしっかりしてきてくれれば、後は企業内で実地に即した研修なり、教育なりをして企業戦士に育て上げるからという傾向があった。これが、最近は、経済的不況で企業に余力がなくなっているからか、競争が激しく時間的余裕もないのか、すぐに役立つ即戦力となる人材が欲しいという希望が強くなっているようで、大学教育も影響を受けている傾向があるようである。

 大学の研究面においても、そのような傾向の影響があるとの見方がある。元来、大学の研究のあり方とは、基礎的な学術研究を積み重ねて、その土台の上に社会への応用が図られていくものである。しかし上述のような企業の要請に押されて、大学自体が少し変容しつつあることに対して、憂慮の声も少なくない。あるドイツの学者も、「学問を極めるという伝統的な大学理念の崩壊と思われ、大変残念だ。」と言っている人がいる。ドイツでも日本と同様の傾向があるようだ。

 然しながら、現在のような学生の就職難の時代にあっては、基本的な学科の勉強をしっかりしているというだけでは就職がうまくいかない場合があり、学生の就職を助けるために、各大学ともいろいろな形で努力しているところである。それは大学の責務ともみられている。例えば、現代の社会では(特に国際関連企業では)、英語能力が必要な場合も多くあるので、その能力を高めるために、尾道大学ではTOEICの高得点に向けた特別プログラムも準備している。また、能力主義時代といわれる時代にあって、資格を持っていることが就職に有利に働くので、例えば教員になりたい人のためには、教職科目のコースも必要となる。このように、個々の学生の進路や希望に合わせた勉強の仕方・方法を援助できるようにと、尾道大学ではカウンセリングにも意を用いることとしている。

(2)教養教育の重要性
 一般的に言うと、学生が専門的能力を高めるためには、狭く突っ込んだ勉強を要求される傾向がある。しかし社会に出て一定の職業につくと、その分野独特の複雑な要素の絡み合った問題の処理のため、広い視野や論理的思考力や総合的な高度の判断力が必要になってくることが考えられる。

 従来、大学には「教養科目」というものがあった。高校時代に受験勉強でかなり徹底して勉強をしてきた学生にとっては、教養科目は高校の科目の延長のようでやや面白味に欠けるという批判があり、その改革が大きな課題になった時代があった。また「教養科目」の中身についても、以前は世界史、日本史、倫理学といったような、大きなテーマで全体を包括するものが多かったが、最近では学生に興味を持たせる意味から、内容も学生の興味に迎合するような傾向が見られるものがあったり、本来の教養科目の意味が薄れてしまうおそれのあるものもある。

 また教養科目は、一般に選択科目とされていることが多いためか、学生は単位をとりやすいものに流れる傾向もあるようである。教養教育を通して、学生に広い視野、判断力、総合力の素地を養うことが今後ますます必要になってくるのではないか。この点では、世界の歴史や自然科学の様相なども大切な分野といえよう。そのような方向を目指して大学としても力を入れていく必要があろう。

 さらに教養科目については、最近、青少年の精神的な側面、心の問題がクローズアップされているが、人生観、哲学、倫理学などをしっかりと学んでおく必要がある。さらには、ものごとの概念を曖昧にすると判断を誤ることにもなるので、そうした勉強も望まれるであろう。

 教養教育の重要性は上述のとおりであるが、それを本当に生かすには、根本となるべきしっかりとした専門性が必要である。教養の基礎の上に専門性の柱をしっかりと立ててこそ両者が活きてくる。専門的に突っ込んだ勉強と同時に、広い視野や総合的判断力があればこそ、方向性や判断を誤ることなく、物事に的確に対処することができるのであり、それが真の有用な人材と言えよう。

(3) 青少年の教育
 進学率が高まり、多くの学生が大学に入るようになった。大学としては、しっかりとした教育をし、すぐれた人材として世に送り出す責任がある。

 人の能力を高めない限り、産業の未来や社会の発展はない。日本のように資源の乏しい国ではなおさらである。経済大国といわれているが、人材教育に力を入れていかないと、将来の発展は期待できにくい状況にある。

 最近の青年は、精神面において何かひ弱になっていないかという見方がある。心の問題は、幼い時期からの家庭教育が重要であるといわれている。ソニーの井深大氏は、かつて「3 歳までの教育が大事だ」と言っておられたと思う。家庭教育において、子どもの小さい時から、親が愛情をもって子どもの心を育んでやることが極めて大切である。しかし特殊な状況下においては親にそれを期待しにくい場合も考えられる。他方、学校は子どもを心身ともに育成する立場にあり、教育者は、一定の資格要件を充たしているわけで、子どもの心の健全な発達にできるだけの努力をする責務があると思われる。大学においてもそれは例外ではないであろう。

 青少年の健全育成は、国民全体が力を合わせて努力しなければならない課題であるが、できれば、マスコミが先頭を切って国民運動を展開することが望まれるしだいである。

 あらためて、大学教育のあり方を振り返って考えると、どの学科をも通じて重要なことは、大学教育のあり方、原点を考えて、その水準を維持しながら、それを学生教育に効果的に反映していくことが大切である。

 最近学生と接してみてあらためて強く感ずることは、学生時代は、努力すればするだけ、鍛えれば鍛えるだけ、目に見えて力が伸びていくことを実感することである。科目の履修で、1単位は、予習復習を除くと15単位時間が基準であるが、1単位時間の勉強をするとしないとでは15分の1、すなわちその科目の成果において実に約6.5パーセントの差がついてくるわけである。これは学生の力を養う上において大変大切なことであると思う。例えば、英語にしても、大学の正規授業数だけでは少ないので、それを必要とする方面に進もうとする人には、特別の授業を考える場合がある。そうすると学生の実力も1時間ごとに進んでいくのがわかるといわれている。それゆえ大学の授業の1時間、1時間を大切にしていかなければならない。大学の4年間は貴重かつ重要である。二度とない時期なので、学生には時間を大事にせよと訴えている。教員との間での対話、なにげない話のやりとりの中からも、学生の得るものは大きい。

 大学で学んだ心のもち方、考え方、人間の生き方などは、特に意識しなくても、その後の人生において大きな力となっていることが少なくない。大学で学んだことが、そのまま生活で使われることはあるいは少ないかもしれないが、いろんな場面で判断力の基礎になっていることは多いであろう。生き方を考え、あるいは判断を必要とするときに、目に見えない形で生きてくる。つまり何かの意味で心の栄養になっていると思う。そういうことが大学教育のもつ大きな価値だと思う。

 青少年は、しっかりした人物だと評価されることが望ましい。そのためには、教養科目の寄与も大きい。工夫しながら教養をしっかりと教えていく必要がある。総合的判断のできる、心豊かな人間、困っている人の苦しみがわかる思いやりのある人間にならなければいけない。その意味で、大学教育においても、人間教育が重要である。

 また学生に対しては、進んで勉強に励むように動機付けの問題もある。「馬に水を飲ませる」という譬話があるように、その気になって勉強に取り組むように学生に自覚させることが重要だ。学生にやる気を起こさせる、あるいは油断しているような学生には、大学側で指導し助言などしていくことも大切であろう。

 尾道大学では、入学してくると、学生は全員、チューターと呼ばれる教員につく。およそ数人から10人前後ずつが割り振られる。一種の担任のような関係になる。そして教員と新入生とが話し合いをする。また「基礎ゼミ」を実施しており、それを通して、学生は大学の勉強の仕方や進め方を学んでいく。これをしっかりやると学生の勉強の成果にはっきりと現れてくる。また卒業後の進路とあわせて、大学時代にどのような勉強をし、またどのような資格を取得すればいいのかなど、さまざまな相談を受け、それに対して広い視野からのアドバイスをする。今の学生には、このように手取り足取りしながらやることが必要な場合もある。

 また、病気などをして定期試験であまりよい成績を取れないこともある。それはその科目の内容が自分の身についていない、自分の力となっていないことを意味する。特に必修科目の成績が「不可」の場合は、教員が特別に指導をして再試験を個別に行ったりすることもある。また「可」の場合でも、科目によってはもっと勉強しておきたいということもあるであろう。大学時代の成績表が卒業後にも影響することは少ないようだが、外国系の企業や大学などに行く場合に、卒業大学の成績証明書を求められることがある。そしてその場合、その中身が問われることになろう。ちょうど試験のときに体の不調で十分な結果を出せず悔やむこともある。もう一度勉強して再挑戦したいという学生もいるので、そうした学生のために挽回する道を作ってあげようという構想も検討されている。

 また学生の意欲とともに教員の熱意が重要である。教員の熱意は直接学生に伝わるものであり、それが学生の意欲にも繋がってゆくからである。

(4)大学の特色と大学改革
 近年、大学の特色を際立たせて、社会にアピールするということがよくいわれる。他の大学などでやっていない変わったこと、異色なことをやることが特色だと考えられている場合もあるようだ。一時は、情報とか国際とかの名前がつけば特色となるといった風潮があったように思われる。しかし学生一人一人に真の力を身につけさせる教育をすることが、当たり前で平凡なことのようだが、最も重要なことではないかと思う。「あの大学に行けば本当に実力がついて卒業できる」と周囲から言われるようになることは、素晴らしいことであり、これこそ一番大切な特色といえるものであろう。

 大学改革に向けては、経営学の成果を取り入れるのがよいのではなかろうか。会社等の企業は、問題に対して速やかに対応していかなければ、競争に立ち遅れ回復の困難ばかりか、倒産に直結することにもなりかねない。大学の運営の合理化には参考になると思われる。

3.尾道大学

 広島県東部に位置する尾道市は、千年の歴史を有する社寺などに見られるように、古くから良港を持つ瀬戸内の要衝都市として、経済的にも発展し、優れた芸術文化の伝統のある街である。鉄道が発達する以前の昔、船による輸送が盛んであった時代には、北海道の産物などが日本海を経由して瀬戸内海に入り、かなりのものが尾道を経て京阪神へと運ばれていった。そしてまた尾道から中国山地の各地に向けて物資も運ばれ、この地域の物資の集散地としても発展した都市であった。

 地域におけるこのような経済的、文化的な位置付けの中で、前の大戦直後の昭和21年、まだ高等教育機関の少なかった時代に、尾道市は、いち早く市立の女子専門学校を創設した。これが現在の市立尾道大学の最初の出発点である。その後、学制改革により、昭和25年に尾道短期大学に転換して、50年余りの歴史を歩み、平成13年(2001年)に四年制の尾道大学として開学したのである。

 科学技術の発展、国際化の進展など社会変化が著しい昨今であるが、そのような時代的趨勢の中で、人材に対する社会の要請の水準がかなり高まってきた。そこで、この社会の高度な要請に応えるべく、四年制大学への転換が図られたのである。そして現在では、大学院の設置に向けた計画も進められている。

 尾道大学は、県外の学生が半分を超えており、卒業生がほとんど地元に就職するというわけではない。それだけに、卒業してどこに行っても、立派にやっていけるような学生を多く輩出することが大切である。「尾道大学の学生は、しっかりとした教育を受けた素晴らしい学生だ。」と周囲から称賛されるようになることが、また、地域の誇りにつながる。すぐれた大学として学生の教育に力を入れることが何よりも重要であると思っている。
(2003年6月6日)