近代日本の対韓平和思想
―内村鑑三の平和思想―

韓国・鮮文大学教授 李起勇

 

1.はじめに

 内村鑑三(1861〜1930)は若くして札幌農学校で科学と宗教教育を通じ西洋文明の真髄に接し、さらに4年間のアメリカ留学を通して東西文化の日本における接触の意義を深く洞察した。しかし内村の西洋文明受容の態度は明治期、他の先覚者達とは違う特異性を持っていた。それは彼が単純に西洋の科学と物質文明だけに関心を示したのではなく、それと同時に西洋の宗教を自己問題として扱い生涯を通して追究した点である。これは明治期のクリスチャンの先覚者達が西洋の宗教だけに関心を持った面とも違っていた。内村は最初から宗教と科学の両面を同時に自己の内部問題として扱った点が、彼の西洋文明受容の独自性と深みのある思想体系形成の由縁となったのである。

 内村は基督教に入門した札幌農学校時期より生涯をかけて模索した事は、まずどのような基督教が人類を救うことが出来るのかという点であり、次に日本の天職は何であるかという問題であった1)。即ち、彼は日本を超越して人類を救うことの出来る基督教の新しい形態を追究したのであり、又、日本の天職を悟り日本が世界の為に行くべき道を捜したのである。これは当時の国粋的で盲目的な愛国心を持った他の先覚者達とは違って、より広い世界観に基き日本の進路を模索したという点で彼の独自性があり、彼こそが正に真の愛国者であったと言えよう。

 彼は近代日本の歴史の歩みの中で生涯を通し、愛国心を持って日本人と日本社会に対する関心と批判の声をゆるめなかった。特に彼が著した「日本国天職論」を始めとする日本論は、彼をして単なる基督教思想家を超えた預言者的立場で日本近代化の方向に対する重要な示唆をしており、さらにそれを基調にしたあの時期まれにみる彼の対韓平和思想が提示されたといえる。

 内村に対する韓国での研究は日帝期、内村の弟子であった金教臣と咸錫憲共著の単行本2)と金教臣の人物評3)がある。ここで彼等は内村の無教会主義と純粋な愛国心に対して高い評価をしており、自らも多く感化された事を告白している。反面この時期、金麟瑞(1894-1964)は内村に対して「日本帝国主義教会の武士道的脈絡を持つ内村鑑三との接触に民族的良心の苛責を感じる。」4)という批評もした。しかしこの内村論に対して金教臣は「唯一なる先生、内村鑑三師を通してはなはだしかった餓渇が医癒された。」と反論している。5)このように内村の国境を超えた良心的な真の愛国者の姿勢が日帝圧制下の隣国のクリスチャンに大きな感化と影響を及ぼしたと言えよう。

 日本における内村鑑三の思想と行動に対する研究、及び論評は非常に多い。それは内村の日本近代史における比重の大きさに基因するといえる。まず近代日本における内村の役割と位置に関した松沢の著述があり6)、 又、内村の弟子の森、政池、関根等の著作がある7)。これらの著作では内村の全生涯を通した信仰心と愛国心、そして基督教思想と行動が当時の日本の良心の表れだとして高く評価している。その反面、内村の基督教が非民衆的性向の限界性を持っているという土肥氏の批判的な論文もある8)。

 彼の首弟子であった矢内原忠雄は内村の歴史上の役割について、旧日本と新日本、東洋の日本と西洋、神と人間との連結という面で評価をし9)、政治思想家の遠山茂樹は内村が主張した「武士道的基督教」は基督教的信仰と欧米的教養と武士道的気質、この三者の完結的な調和からくる認識と行動との乱れぬ統一であり、確かなる明治精神の最も健康な姿であると評価している10)。又、家永三郎は日本思想史上における彼の位置を同時期の文明論者、福沢諭吉と比較して近代精神の体得と表現において内村は福沢より数歩、先んじていると評価した11)。

 一方、内村と韓国との関係の研究としては、内村の韓国問題に関する態度を扱った佐藤氏の論文12)と内村の韓国観の変化過程と韓国基督者との関係を扱った高崎氏の論文13)がある。これらの論文では概して内村の韓国における肯定的位置を評価している。以上のような内村に関する研究を参考にしながら、本稿では彼の基督教思想の特徴を捜り、「日本国天職論」を始めとする日本論、それと不可分の関係を持つ韓国論を推察しながら彼の対韓平和思想にせまりたいと思うのである。

2.内村鑑三の思想形成とその特徴

(1)内村の独自的基督教思想形成
 内村が生まれる直前の10年間は西洋列強の開国要求に屈伏し旧日本の解体が急進展した時代であった。1853年3月、日米和親条約が締結され、そして内村が生まれる3年前の1858年6月に日米通商条約が締結された14)。しかしこの時期日本の対応と物質文化への表面的な移行とはちがって、幕府側の武士の間では以前と同じく武士道と儒教思想が彼等の精神生活の全てを支配していた。

 内村は1961年このような武士の一人である上州 高崎藩士 内村宜之の長男として江戸小石川の藩邸で生まれた。父親は時代の洞察力に秀れた指導力のある人物で藩政の近代化に重要な役割を果した。同時にりっぱな儒学者として四書五経の各節をほとんど暗誦することができた。時代の急変にもかかわらず、このような家庭で内村はいち早く父親の厳格な儒教的教育を受け、儒教的・武士道的倫理に親しみながら徹底的にそれを体得した。ここで「武士道に接ぎ木された基督教」を標榜する基礎が準備されるのである。又、内村がうけた儒教的感化のひとつは主君に対する忠誠である。これがその後、国に対する忠誠、即ち愛国心として表れるのである。

 1877年、内村が17歳の時、内村の思想形成に大きな影響を及ぼす札幌農学校へ入学する。この農学校は北海道開拓の為に官立で新設された学校で当時の他の学校とは違い、主に米国人教師を通して開拓精神とそれを支える実用科学を教えた。当時、札幌農学校教師であったW.S.クラークは清教徒的倫理に基礎した校風をつくっていた。彼は特に伝道の執念が強い人で倫理教育は基督教によらずば到底、不可能であると確信した。内村はこの農学校で実用科学的に訓練された学問を習い、彼の精神的変革に一番、重要な役割を果した基督教との出合いをするのである。

 1881年7月、内村が21歳で札幌農学校を卒業した時、在学中つくった「小さな教会」も解散した。そして1882年1月合同で「札幌独立教会」という名の新しい教会を誕生させるのであるが、これが教派から独立した日本最初の日本的教会であった。この独立教会の特徴はまず教派主義による同窓信徒の分裂と競争を不可とし、次に煩雑なる礼拝儀式を排除し、そして国内の福音伝道は外国に依存せず国内人の義務であることを主張した。したがって新教会の組織は非常に簡単で農学校 1期、2期生の卒業生5名が委員として管理をし牧師を雇用せず彼等5人が交代で壇に立った。これについて内村は次のように回想している。

  明治初年に農学校の青書生が血の涙をもって築き上げし札幌教会は、日本における最初の独立教会なり。故に、キリスト教と独立とを重んじる人士にして、これに向かって深き同情を抱かざるはなかるべし。日本人はその資力において、その教義において、外国人伝道会社にたよらずしてキリスト教会を建設しうるや、これ小なりといえども札幌独立教会が世界に向かって証拠立つべき大問題なりとす。…この教会の立つと否とは、日本におけるすべての独立教会の運命に大影響を及ぼすべければなり15)。

 このように内村が教会の独立に熱心であったのは、教会に対する反抗より本質的に信仰の自由の為には独立が一番重要であるという信念があったからだと言えよう。その後、内村は信仰と人生の悩みも重なり、1884年11月、米国行きを決心する。渡米後、まず経済的な理由もあって白痴院の看護人としての慈善事業の生活から始めた。ここで慈善事業を自ら体験しながらこの時期、彼が落ちこんだ感傷的基督教の問題を意志的、倫理的姿勢で解決をはかろうとした。そしてさらに学問の探究の為にアマースト大学に入学する。内村が学んだアマースト大学は当時、アメリカが南北戦争後、資本主義の急成長のもとに世の中が物質・機械文明・金力万能の頽廃風潮に落ちこんでいるのに対して、そのような世俗風潮から隔離したニューイングランド固有のピューリタン的学風を持っていた。従ってその学風は保守的で智育より徳育を、事業より主義を、知識量より鍛錬を重要視し、権威に依存しない独創的人物の育成を目標とした少数精鋭主義の大学であった。内村は特にこの大学でシリー学長から直接的な感化を受けながら信仰上の再発見をし、その後、伝道を自己の天職として自覚し日本の為につくすという使命感を持つようになった。1887年7月アマースト大学卒業後、内村は神学校へ行ったが当時のアメリカで伝道が一つの職業として金銭とつながっている姿に失望し、神学校を中断して1888年5月帰国した。彼はアメリカ滞在3年間を通して信仰上の再発見をした。それと同時に伝道の職業性、宗教教派対立、賭博、偏重政治、階級差別等の米国文明の現実的な非基督教性に衝撃を受けたのも事実で、その後、彼の独自な基督教思想形成に大きな影響を及ぼしている。

(2)天皇神格化と内村の抵抗
 1887年以降、明治初期の欧米文化一辺倒の傾向から徐々に国粋主義、又は国家主義の色彩が深まる中で謂ゆる「不敬事件」が発生する。明治藩閥政府は明治近代国家の基礎を立てる為に大日本帝国憲法を1889年2月11日に宣布し、さらに国民教育紀綱確立の為に1890年10月30日に教育勅語を宣布した。この背景は明治維新以後、近代化の推進の中で国民中堅層の成長と自由民権運動の展開及び、西欧市民社会の論理と倫理の導入等、内部的に封建倫理が相当に侵蝕される中で、明治政府は封建倫理の再確立と政治的権威の維持の為に天皇制強化の必要性を痛感するに至ったからである。それが即ち天皇の神格化であった。

 これ以後、欧米社会において基督教が果たしている機能を、日本においては天皇制が果たすことになる。その後、天皇制は政治的秩序の中核、窮極目的であると同時 に、国民の精神的中核、倫理的規範の源泉ともなるのである。

 内村が奉職した一高でも、1891年1月9日、始業式の前に教育勅語奉読式があった。奉読に先がけこの親書に対する奉拝儀式があったのであるが、内村はこの奉拝を拒否したのである。理由は奉拝は宗教上の行為であり、唯一神を信じる彼としてはこの親書に対する敬意は持っても、決っして奉拝は出来なかったのである。内村は明治政府の国民に対する天皇神格化の強要を基督者の良心を持って抵抗したのである。

 内村の奉拝拒否は大問題となった。一高の過激な学生は勿論、一部国粋主義思想を持った教師達も、基督者内村を国体に合わないとして排斥した。全国の新聞がこの内容を扱い内村に対する非難の声は全国的に高まった。この事件は以後、宗教と教育の問題にまで論争が展開した。東京大学教授井上哲次郎は1892年10月、雑誌『教育時論』で次のように基督教を批判した。

 第一に日本の教育原理は教育勅語を基礎にしなければならない。第二に教育勅語は国家主義を基本原理として忠孝主義を中核とする。しかし基督教は世界主義で愛には差別がないというので日本を特別に愛する訳でもない。さらに天皇の上に神が存在しキリストが存在するとして、父母の生命より神の戒律を重要視する為に忠孝主義に相反する。従って基督教は教育勅語の精神に附合せず我が日本の教育原理と衝突する16)。

 このような論争の中で内村は公開状を書いて井上の主張に反駁した17)。この公開状で内村は哲学者井上を公評しながら、彼が完全な資料を持って所論を主張しなければならないのに、それを怠り事実とは違う内容を掲載したと反駁した。さらに内村はこの不敬事件に対して10年後の1903年8月の「万朝報」で次のように回想した。

  教科書事件という文明世界に向かって日本国の体面を非常に傷つけしこの大事件をひき起こすに至りしを悲しまざるを得ない。日本国の文部省は、弱き余一人を不敬漢として排し得て、数十百人の、余にまさるの大不敬漢をその部下の中に養成し、もって国辱を世界に向かってさらせしの責任よりまぬかるることはできない18)。

 彼は天皇に対する尊敬心は持っていた。しかし彼の信仰は人間を神に奉る天皇制には決して融合出来なかった。そしてこれは、彼の日本の歪み始めた天皇制近代化路線に対する真の愛国者として全人格をかけた拒否でもあったのである。この天皇制近代化路線が以後、韓国を始めとした対アジア侵略路線へと直結した点に注目するとき、内村は正に先覚者の行動をしたといえよう。

(3)儒教・武士道的基督教思想
 内村は武士の家に生まれて父親の儒教的教育を受け、早くから儒教及び武士道的倫理を体得した。その彼がクリスチャンになった後にも自己のこのような素養をほこり、又行動の規範とした。そして西洋宣教師よりも寧ろ先人の儒学者から学ぶ姿勢を忘れなかった。これに関して彼は次のように述べている。

 儒者は東洋人の教師である。而して東洋人にキリストの福音を伝へんと慾する我等は福音的儒者として立つべきではない乎、教会に由らざる自立の聖書学校を起すべきではない乎、誠に儒者に傚ふは宣教師に傚ふよりも遥かに高貴である。我等基督教信者と成りたればとて西洋人と成るの必要はない、伝道者となりたればとて宣教師に真似るに及ばない、我等は儒者が経書に依て立ちしか如くに聖書に依て立つべきである19)。

 ここで内村は、西洋から精神的に又は経済的に完全に独立した固有の基督教を模索し、その姿を福音的儒者と表現した。即ち、儒教の先覚者達が経典だけで充分に教化をはかった如く、よき伝統を受けつぐ我が東洋の基督教人達は西洋人と全く同じようになる必要はないとした。寧ろ儒者の姿を習って教会に依存せず、ただ聖書だけに依存する福音的基督教人になるべきだと主張したのである。内村は同じ内容をもって1915年5月、東京基督教青年会で韓国の基督者にも次のような講演をした。

  日本のみでなく支那朝鮮は元より儒教国であったのである。讃美歌なく会堂なく唯経書に就いて学ぶ事によりて斯かる偉大なる感化力を得たのである。誠にこれは東洋人特有の道であって、吾等は聖書を学ぶ事によりて善き基督教徒となり得るのである。若しも朝鮮人が曾て孔孟の書に接せしが如くに聖書に接するに至らば朝鮮は怖る可き国なるであらふ。余は朝鮮の基督教が聖書的であると言ふ事を聞きて之に多大の望を属するのである。諸君は願くは飽くまで聖書的であらん事を望む20)。

 ここで中国、韓国、日本における儒教の歴史的価値を評価しながら、経典による儒教の感化力を今日の基督教に生かし、聖書的な基督教になるように努めなければならないと力説している。特に経典に接する姿勢がよく培われてきた韓国人が今日その姿勢で聖書に挑むならば、驚くべき基督教国になるだろうと予言した。
彼は武士道と基督教の関係については次のように説明している。

  武士道は日本国最善の産物である。しかしながら武士道そのものに日本国を救うの能力はない。武士道の台木にキリスト教を接いだもの、そのものは世界最善の産物であって、これに、日本国のみならず全世界を救うの能力がある。今やキリスト教は欧洲において滅びつつある。そして物質主義にとらわれたる米国に、これを復活するの能力が無い。世界はつまりキリスト教によって救われるのである。しかも武士道の上に接ぎ木されたるキリスト教によって救わるるのである21)。

 ここで‘武士道の台木’とは武士道を支えた封建的社会体制を意味したのではなく武士道の精神を言ったのである。即ち正直なる事、借金せざる事、逃げる敵を追わざる事、人の窮境に陥るを見て喜ばざる事等、武士の徳目を強調しながらこの祖先伝来の武士道により人生のたいていの問題は解決すると判断した22)。このように武士道の精神に接ぎ木された基督教であるならば、物質文明にとらわれた米国、及び世界をも救うことが出来ると確信したのである。

3. 内村鑑三の対韓平和思想

(1)「日本国天職論」と 日清戦争観
 不敬事件で内村の苦悩と混乱が続いた年の翌年1892年4月15日、内村は当時の進歩的な雑誌である『六合雑誌』に「日本国の天職」という題下の論文を発表した。それは内村が基督教に入門した後、継続追求し続けてきた天が日本に附与したと確信する日本国の使命論で、内容の要旨は次の如くである。

 日本国本土はその腹部は西洋文明の粋を受けつつあるところの米国に向け、右手をもって欧米の文明を取り、左手を持ってシナならびに朝鮮にこれを授け渡すの位地におるがごとし。日本国は実に共和的の西洋と君主的のシナとの中間に立ち、キリスト教的の米国と仏教的のアジアの媒酌人の位地におれり。

  東洋国民中、日本人のみ、欧米の文明を了解し得べく、東洋の思想を有するものなり。理想界においても、商法界におけるごとく、日本国は東西両洋の中間に立てる飛び石にして、帰納的の西洋と演繹的の東洋との間に立つ媒酌人なり23)。

 以上の様に地理的な位置においても又西洋文明の理解度においても東西両洋の媒介人は日本のみ可能な役割であることを主張した。明治当初、日本が西洋文明化だけに専念した時期に彼が表明した東西両洋媒介論は西洋文明の吸収だけではなく、東洋化された西洋文明を再び西洋に伝播する意味も含んでいたのである。内村は東洋文明に誇りを持ちながら西洋文明に臨んだのであり、東西両洋文明の長所を混合した理想的な文明形態を実現せんと試みたのである。その典型が東洋精神と結合した所謂、儒教的・武士道的基督教なのである。内村のこの「日本国天職論」は彼の日本論のみならず、対アジア、対西洋の基本論と言える。

 日清戦争が勃発した時、内村は対アジアに対する使命観に立脚しこの戦争を義戦とみた。即ち1894年8月23日号に発表した英文論評「朝鮮戦争の義」(訳文:日清戦争の義)で「日本は東洋における進歩主義の戦士なり。ゆえに、われと進歩の大敵たるシナ帝国を除くのほか、日本の勝利を望まざるものは、宇内万邦あるべきにあらず。吾人は朝鮮戦争をもって義戦なりと論定せり」とふるい立った24)。さらに、日清戦争の目的を「第1に朝鮮の独立を確定するにあり。第2にシナを懲戒し、これをして再び頭をもたげ得ざらしむるにあり。第3に文化を東洋に施き、長くその平和を計るにあり。」25)といい、この時、彼は本心から朝鮮の独立と文明化の為の戦争であると確信し擁護している。

 しかし、戦争が終わり日本の本音が露骨に現れると、彼は非常に失望し彼の米国の友人ベルに送った手紙で「義戦は掠奪戦に近きものと化し、その正義を唱えた預言者は、今や恥辱のうちにあります。」26)と書きながら義戦論を主張したことを後悔した。そうしたなかで、1895年10月、彼をして失望感を越え憤怒を惹起させた事件がソウルで起きた。それが即ち明成皇后(閔妃)弑害事件である。彼はこの事件に触発され記した『警世雑著』の序文で「朝鮮、京城における日本人大失態の悲報に接す。余は悲憤措くあたわず、決然、筆を執って起ち、叱呵鞭撻一週日にて成りしものを‘時勢の観察’となす。日清戦争は大軍艦を作って大文学を作らざりし。これ、その不義の戦争なりし充分なる証明なり。」27)と述べ日清戦争を先の主張とは逆に不義の戦争と訴えるに至るのである。その義憤の中で執筆した「時勢の観察」で彼は次のように主張した。

  彼らは日清戦争を義戦なりと唱えたり。しかして余輩のごとき馬鹿者ありて、彼らの宣言をまじめに受け、余輩の廻らぬ欧文をつずり、「日清戦争の義」を世界に訴うるあれば、日本の政治家と新聞記者とは心ひそかに笑って言う、「善いかな、彼、正直者よ」と。義戦もしまことに義戦たらば、何ゆえに隣邦シナ人の名誉を重んぜざる。何ゆえに隣邦朝鮮国の誘導に努めざる28)。

 内村は韓国の独立及び文明化は名分だけで実際の目的は日本の国益のための対アジア侵略という、日清戦争の本質を把握できなかったことを自嘆した。そして国益のみに没頭した日本の政治家、言論人達の言動に激怒したのである。

 この時期内村と対照的な近代思想家として福沢諭吉がいる。彼もいち早く日本の主導による韓国の文明化を主張し、日清戦争が勃発すると彼が主筆する「時事新報」に「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものとの戦い」29)とこれを礼讃した。さらに「眼中朝鮮人なし唯朝鮮国の文明開進あるのみと覚悟して前後左右を顧みず一日片時も速に著手して新面目を開く可し其改革の実手段に至りては尚ほ続て開陳することある可し」30)と述べ、韓国と韓国人を無視したまま文明化を名目に日本の国益だけを追求する姿をみることが出来る。彼は元より日本の国益と国権に重点を於いた文明論者であった。従って内村とは対外観に於いて根本的に違うのである。内村は真実、韓国の独立と文明化を願ったため「義戦論」を撤回し自嘆までする。このように福沢とは対韓姿勢における大きい違いをみせるのであるが、後、内村は実利主義者福沢を次の如く熾烈に批判した。

 金銭これ実権なりというは彼の福音なり。彼によりて拝金宗は恥ずかしからざる宗教となれり。彼によりて徳義は利益の方便としてのみ貴重なるに至れり。日本人は福沢翁の学理的批准を得て、良心の譴責なしに利慾に沈淪するに至れり。福沢翁の流布せし害毒に至りては、精神的大革命を施すにあらずんば、日本人の心底より排除しあたわざらん31)。

 彼は近代日本の文明化に大きな影響を与えた福沢とは西洋文明論、及び日本が行くべき近代化の方向に対して本質的な違いを闡明したのである。

(2)「 日露戦争」前後の対韓平和思想
 内村は日清戦争とは違って日露戦争に対しては開戦前より反戦論を展開した。それは彼が過去、日清戦争の勝利の結果の現実からこの非戦の論理を導出した為であり、彼は既にこの戦争の本質を把握していた。即ち、

  余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して、個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。日本国はこの日清戦争より何の利益を得たか。その目的たりし朝鮮の独立は、これがために強められずしてかえって弱められ、シナ分割の端緒は開かれ、東洋全体を危殆の地位にまで持ち来たったではないか32)。

と主張し、帝国主義的な戦争の結果がアジア全体に何を招来するかを充分に認識していたのである。それは彼が願う方向とは全く違っていた。
日露戦争後、日韓保護条約の締結により韓国は、実質的に政治的、外交的、経済的な独立を剥奪され日本の保護国に転落した。このような状況の中で、内村は彼の韓国観をより根本的に変える韓国基督教宣教の増進と韓国人の宗教性の深さに対する報告に接した。この時、大きい衝撃と感激の心境で「幸福の朝鮮国」という題下の韓国論を著わす33)。ここで内村は歴史上、韓国が東洋文明の中心であったことを想起させた。そして、その文明を日本にまで伝播させた如く、今日主権は失ったがはるか以前、新しく発生した宗教の基督教を西洋に伝播したユダヤ民族の如く、今日の悲惨な現実的状況の中で韓国は東洋教化の中心になる事が出来ると強調したのである。この時期、日本の知識人の大部分が韓国保護国化を擁護し韓国蔑視に傾く時に、それとは本質的に違う次元でこのような主張をした事に注目する必要があると思う。日本であれ韓国であれ教化が窮極目的であり、生涯の使命とする彼としてはこの時、以前の彼の常識論を越えた“人の思念を越えた韓国に対する神の摂理”を彼なりに大きく悟ったのである。従って単純な慰めの言葉だけではない、一種の驚きを伴った韓国観の大変化として高く評価すべきである。そして次の様な純粋な心で韓日平和論を力説した。少し長いが引用してみたい。

  近ごろ、余輩の旧友にして朝鮮国京城在留の米国宣教師某君より、余輩のもとに書簡を贈り、その中に次の一節があった。「われら、当国在留外国宣教師全体の世論に従えば、朝鮮国はたぶん日本国に先だちてキリスト教国たるべしとのことである。」と。余輩は朝鮮国のためにこの事あるを喜んだ。かの国は今や実際的に国土を失い政府を失い、最もあわれむべき状態においてある。そうして恩恵ある神が、地上における彼ら朝鮮人のこの損失に対し、霊の財を持って彼らに報いたもうとは、さもあるべきことである。日本国は過去十数年間において、地上において多くの物を獲た。台湾を獲た。満洲を獲た。また実際的に朝鮮をも獲た。しかし、物において獲し日本国は、霊において多くを失った。その士気は日日に衰えつつある。その道徳は日日に堕ちつつある。その社会は日日に壊れつつある。ここにおいて余輩は思うた、神はかえって朝鮮国を救うて日本国を捨てたもうのではあるまいかと。余輩は精神的に暗黒なる日本を去って、伝道的に希望漫漫たる朝鮮に行いて、みずからも外国宣教師の一人となりて、その教化を助けんかとも思うた。朝鮮国はあるいは日本国に先んじてキリスト教国と成るであろう。されども日本国とてもまた、ついにキリストを受くるに至るに相異ない。そうして朝鮮国も救われ、日本国もまた救われて、両国、すくいの神によりて相和し、平和は富士山の頂より長白山のそれにまでわたり、彼も喜びて、共に声を合わせて讃美の歌を唱うるであろう34)。

 この内容は内村の神による韓国と日本の親和に対する結論的な見解であり、両国関係に対する基督教的な平和思想である。彼は韓国に於ける聖霊の大降臨を認知した後は韓国に対する視角が根本的に大転換するのである。内村は瞬間韓国伝道を思い詰める程に暗黒たる日本と比較しながらの認識の転換であった。彼は当時、依前として変わらない日本の非信仰的な社会現実に対して極めて非観的であった。1910年の日韓併合についても、日本が領土的に拡大しても霊魂を失うならば何の意味があるのかと日本の帝国主義的な侵略に対して非常に批判的であった35)。彼は基督教化が韓国が先んじ日本が遅れていることを実感していた為、日本の教化が先決問題であり、日本の教化の為にも日本の対アジア侵略主義が抛棄されるべきだと確信するのである。

(3)韓国基督者との真の合同融和
 韓国が日本によって併合された後、朝鮮総督府の擁護のもとに韓国伝道を推進した日本組合基督教会が「韓国併合」は神意にもとづいた、朝鮮人民の為の唯一なる幸福の道で同化推進は基督教徒の当然な使命という主張をした36)。まさに韓国に対する優越感にもとづき韓国人を無視したままの韓国伝道が日本の使命の如く力説したのである。これに対して内村は韓国人と日本人の真の合同融和を強調しながら、日本組合基督教会の意識と行動を批判した。内村のこの精神は後、1915年5月の東京朝鮮基督教青年会における講演内容にもよく表れている。即ち、

  日米両国間の平和維持の唯一の道は米人が今の浅薄なる基督教の信仰より進んで更に善き基督者となり、日本人も亦良き基督者となる事である。吾国に於ては更に困難なる問題がある、それは日鮮人の真の合同融和である。其解決法は亦日米問題の解決と同一方法たる日鮮人相方共に善き基督者となる事の一つがあるのみである。此所に居る金君(金貞植)がしばしば余の宅に来られ、君の不完全なる半解の日本語を持って語らるるも余はよく其心の最も深き所が解るが、これは我等二人が同じキリストに於てからである。日本人も朝鮮人も共に此キリストとの深き関係に入りて真の合同は成るのである37)。

 ここにおいてまず韓日間の平和、合同融和の為の解決法は日米間の場合と同じく共に善き基督者になる事のみであると彼の基督平和論を主張した。 

 そして、近い心の友である韓国基督者金貞植(1862-1937)との関係に言及した。彼は併合前、旧韓国の警務官を過ごした人物で内村との出会いは、彼が東京基督教青年会の総務に就任した時から始まっていた。彼は「内村氏は日韓の民族的にも政治的にも差別のない基督教主義による正義人道を絶対的に主張した。」38)と内村を基督教的人類愛を実現する人物として評価していた。内村はこのように当時の日本組合基督教会の韓国に対する態度とは違い、日本人も韓国人も同等な兄弟という立場で‘真の合同融和’を強調する事で日帝が推進した‘日鮮同化’政策とは対照的な姿を示したのである。さらに内村は長きアメリカの親友D.C.Belに送った書翰で「かあいそうな朝鮮人達は彼らの国を失いました。彼らの中には立派なクリスチャンが居り、精神的には、原則通り、日本のクリスチャンよりはるかにすぐれています。彼らの間には私の善い友人が数人います。我々は互いに心から愛し合い、人種問題なぞは介在しません。」39)ここで内村は韓国基督者が信仰的に優秀である事を伝えた。内村のこのような韓国及び、韓国人観は近い信仰の友人、そして彼を慕う韓国人の弟子達との間に良き相互作用を起こし彼が晩年に至るまでこのような関係は続いた。

 内村のこのような韓国人に対する姿勢と、独特な基督教思想、そして強烈な愛国心に感動し感化されて弟子になった韓国人青年達がいた。彼らは1919年、3・1独立運動直後日本に留学し、相前後して内村の聖書研究会に参加した金教臣、40)咸錫憲、宋斗用、柳錫東、鄭相勲、楊仁性の6名である。彼らは内村門下生として1925年から「朝鮮聖書研究会」をつくり朝鮮に帰国後、1927年7月に唯一なる韓国語の無教会主義基督教雑誌である『聖書朝鮮』を創刊した。

 創刊辞で彼らはその創刊動機を「祖国朝鮮の独立の為に貢献せんとする朝鮮人基督教人としての愛国心によるもので、その目的は朝鮮に基督教の能力的な教訓を伝え、真理の基盤の上に永久不滅の朝鮮を建立する民族救済運動の遂行である。」41)とした。この内容をみると、金教臣、咸錫憲、等内村の韓国人弟子が内村から基督教的愛国心を学んだことを察することが出来る。さらにこの事は、1936年の『聖書朝鮮』94号で金教臣が内村を‘私が見た内村鑑三先生’という題下で「内村先生は勇気ある愛国者であった。」42)と回顧していることからもわかる。

 本来日本植民地下で韓国人の持つ愛国心と、当時の日本人の愛国心とは衝突するはずである。しかし、金教臣、咸錫憲等韓国人の弟子と内村との間にはそのような問題は起きなかった。亡国の民として、祖国独立の為に何かを果たさんと抱負を持った韓国の青年達は、当時の日本人とは本質的に違う内村の韓国に対する隣人愛を実感し、そして彼の日本に対する真なる愛国心にも感動を受けたのである。それは内村の愛国心が国粋的で盲目的なものではなく、広い世界観に基づいた人類愛的な愛国心であったからだと言えよう。

4.おわりに

 これまで内村鑑三の基督教思想の特徴をさぐり、さらに彼の独特な日本論、及び韓国平和思想を検討してみた。彼の基督教思想の特徴の一つは、札幌農学校期、西洋宣教師の宗派から独立してつくった札幌独立教会に既にその萌芽がみられる独立的な基督教である。もう一つは幼い時から武士の家で受けた儒教的な教育と武士道を肯定的に継承して確立した、儒教的、武士道的基督教である。彼は滞米期間、信仰的な再発見もしたが、アメリカの社会と基督教の現実も目撃した。それで彼は儒教と武士道精神が西洋にはない東洋の長所と確信し、この精神と結合した基督教が宗派主義と物質主義に落ちこんだ西洋基督教を救うことが出来ると確信した。そして東洋精神と結合した基督教の西洋及び世界への再伝播を強調しこれが神が日本に与えた使命と思ったのである。

 このような特徴を持った内村の基督教思想の根底にあったのは強烈な独立心と愛国心であった。韓国基督者の弟子に感銘を与えたのもこの部分といえよう。この思想の表れが天皇制国家の移行に反発した「不敬事件」である。この事件は教育勅語が記された天皇署名の親書に対する奉拝拒否という単純行為であったが、結果的に天皇の神格化によって確立せんとする「国体」に対しての良心の独立宣言であり、歪み始めた近代化路線に対しての愛国心による拒否行為であった。

 日清戦争に対しては当初その本質をしらず、他の思想家と共に韓国の独立と文明化の為の義戦であると主張したが、戦後、日本の不道徳性と侵略性に気付きそれに警鐘を鳴らしながらその覚醒を訴えている。

 日露戦争を前後して本格化した内村の対韓平和思想は、1907年、韓国に於ける基督教の伝道と教化の進展を認知した後、内村の韓国観が根本的に大転換する。即ち、韓国人の宗教性が深く、教化可能性も日本人よりも高いことを知り、これより先、韓国が東洋教化の中心国になると確信するに至る。この時よりの彼の隣人愛に満ちた韓国に対する姿勢は日本の韓国併合後、晩年に至るまで彼と親しく接した韓国基督者の友人と弟子との間に良き相互作用をしながら強化される。ここに内村の真の愛国的基督教に影響を受け『聖書朝鮮』という雑誌を出刊しながら、祖国独立運動に専念する金教臣等の韓国基督教者の青年弟子が多く生まれるのである。

 内村鑑三の思想の根底には彼の基督教信仰があり、ある面ではそれが彼の人生のすべてであったと考える時、その信仰心において、又教化面において韓国が日本より先んじているという認識によって、彼が一番重要視する本質的人間性において、韓国人が日本人以上だと思うに至るのである。内村はおそらくこのような認識を持った当時唯一なる日本人であったと思う。これより先も、内村に対するより広範なる研究が要望される。
(2003年9月18日受稿、10月15日受理)


1)関根正雄 編著, 『内村鑑三』清水書院 1973, p.6
2)金教臣, 咸錫憲 共著, 『内村先生と朝鮮』 1940年 5月
3)金教臣、「私が見た内村鑑三先生」『聖書朝鮮』 第94号 1936年11月1日、「内村鑑三」同雑誌第136号、1940年5月1日、聖書朝鮮社
4)金麟瑞、「無教会主義者 内村鑑三氏に対して」『神学指南』、1930年7月号
5)金教臣、「内村鑑三論に答えて」『聖書朝鮮』1930年, 8月号
6)松沢弘樹、「近代日本と内村鑑三」『日本の名著』38、中央公論社、1971 
7)森有正、『内村鑑三』弘文堂 、1953、政池仁、『内村鑑三』三一書店、1953、関根正雄、前掲書
8)土肥昭夫『内村鑑三』日本基督教団出版局、1962
9)矢内原忠雄「日本思想史上における内村鑑三の地位」、鈴木俊郎編『内村鑑三と現代』岩波書店、1962、p.3-6
10)遠山茂樹、「内村鑑三に心うたれる理由」鈴木俊郎編 『回想の内村鑑三』岩波書店、1961、p.112-113
11)家永三郎「日本思想上の内村鑑三」、鈴木俊郎編『回想の内村鑑三』岩波書店1961、p.118-119
12)佐藤全弘、「朝鮮問題と内村鑑三」『内村鑑三研究』5号 、1975年12月
13)高崎宗司、「内村鑑三と朝鮮」『思想』639号 1977年9月。 森山浩二、「内村鑑三と朝鮮の基督教」『季刊三千里』33号、1983年2月 
14)井上清、『日本の歴史』中 岩波新書 1971、p.83-86
15)「札幌独立教会」『聖書之研究』1900年11月、『全集』18、p.46-47
16)「宗教と教育との関係に関する井上哲次郎氏の説話」、1892年 10月、『教育時論』
17)内村鑑三、「文学博士 井上哲次郎君に送る 公開状」1883年 3月、『教育時論』
18)「不敬事件と教科書事件」1903年 8月 「万朝報」『全集』 24、p.164
19)「寧ろ儒者に傚ふべし」1915年 7月、『聖書之研究』『選集』4、p.202-203
20)「教会と聖書」1915年 7月10日、『聖書之研究』『選集』4 、p.193-197 
21)「武士道とキリスト教」(三) 1916年1月、『聖書之研究』『全集』22、p.191 
22)「武士道とキリスト教」(四) 1918年1月、『聖書之研究』『全集』22、p.191
23)「日本国の天職」1892年4月、『六合雑誌』『全集』24、p.20-22
24)「日清戦争の義」1894年9月『国民之友』、『全集』21 p.128
25)「日清戦争の目的如何」1894年10月、『国民之友』『全集』21、p.137-139
26)山本泰次郎訳補、『内村鑑三、D.C.ベルに送った自叙伝的書翰』第27信、1895年 5月22日、新教出版社、1949年、p.151-152
27)「改版『警世雑著』に付する自序」1900年5月、『全集』24、p.90
28)「時勢の観察」1986年 8月、『国民之友』『全集』24、p.63-66
29)福沢諭吉、「日清の戦争は文野の戦争なり」1894年6月17日、『時事新報』『続福沢全集』第4巻、p.170
30)「破壊は建築の手始めなり」1894年6月17日、『時事日報』上掲書 p.124 
31)「福沢諭吉翁」1897年 4月、「万朝報」『全集』21、p.228
32)「戦争廃止論」1903年3月 、『聖書之研究』『全集』24、p.27
33)「幸福の朝鮮国」1907年 10月 『聖書之研究』『全集』15、p.205
34)「朝鮮国と日本国」1909年 12月、『聖書之研究』『全集』24、p.194-197
35)「領土と霊魂」1910年 9月、『聖書之研究』p.1
36)松尾尊允「日本組合基督教会の朝鮮伝道」『思想』529号 、1968年7月 
37)「教会と聖書」『選集』4. p.193-194
38)金貞植「内村鑑三氏を追憶す」、金教臣、咸錫憲 共著 『内村鑑三先生と朝鮮』1940、5
39)『D.C.ベルに送った自叙伝的書翰』第94信、1917年4月19日、前掲書p.342
40)この中での代表的人物である金教臣は1901年4月18日、韓国咸鏡南道咸興で生まれ、1918年咸興農業学校を卒業して翌年の1919年、日本の東京に留学する。1920年20歳の時、東京のある教会で入教し、その年、東京衛生会館で開催された内村のロマ書講解聖書研究会に参席してその門下に入った。その後7年間、彼が帰国するまで内村の家で師事しながら人格形成と信仰生活の決定的な影響を受けた。金丁煥著『金教臣その人生と信仰と愛』韓国神学研究所、1994、p.17
41)金教臣主筆『聖書朝鮮』創刊号1927年7月1日、聖書朝鮮社
42)金教臣主筆『聖書朝鮮』第94号1936年11月1日、聖書朝鮮社