中東における民主主義とイスラーム主義の衝突

東洋大学教授  後藤 明

 

1.イスラーム主義

(1)イスラーム主義とは何か
 イスラーム主義に基づく運動を私は「イスラーム運動」と呼んでいるが,まず「イスラーム主義」について整理しておきたい。イスラーム主義といっても多様な理解があるが,私は「よきムスリム(イスラーム教徒)になろうとする主張」をイスラーム主義と呼んでいる。

 現在日本には,数千人の日本人ムスリム,ムスリマ(女性)とともに,外国人のムスリム(ムスリマ)が数万人いる。若い男性の外国人ムスリムの中には,何とか定住権を得ようと日本人女性と結婚する人もいる。イスラーム教徒の場合,結婚相手もイスラーム教徒でなければならないとされるために,建前の上では日本人女性もイスラーム教徒(ムスリマ)になる。このような背景も手伝って,日本人のイスラーム教徒も少しずつ増えている。

 ところが,日本でムスリムとして生活しようとするとさまざまな障害に出くわす。例えば,ジャマーアテ・イスラーミー(注1)というイスラーム運動の団体がインド・パキスタンを中心として活動しているが,彼らは東京近郊に数箇所モスクを設けている。イスラーム教徒にとって日々礼拝をし,金曜日の正午には集団礼拝をすることがよきムスリムの証となっているが,それをすべて実践することは現在の日本の環境ではなかなか難しい。そこで上述のようなモスクをつくっていくことが,日本における彼らの「イスラーム運動」ということになる。

 また日本人ムスリムにとって,よきムスリムの条件であるメッカ巡礼は,現実には容易なことではない。現在,メッカ巡礼には毎年200万人が訪れているが,現地を管理するサウジアラビア政府は,「これ以上来られても対処できない」と言っている。そのためムスリム人口1000人に1人の割合に制限してほしいと各国に要請している。日本にはその割当てがないために,マレーシアのダクワ・イスラームというイスラーム運動の団体が日本の面倒を見てくれ,日本のムスリムの巡礼希望者はマレーシアの巡礼団に加わって行くことができる。

 日本人に自分の宗教を問うてみると,はっきりしない場合が多いが,中には仏教,神道だと答える人もいるであろう。しかし後者の人にしても,仏教や神道について果たしてどれだけ知っているのか,さらにはよき仏教徒(あるいは神道信者)として暮らしているのかとなると,大部分の日本人はそうではないだろう。さらに教義となるとほとんど勉強していない。それと同様に,イスラーム教徒の大部分もイスラーム教についてよく勉強しているわけではない。そこで一人一人のムスリムに「あなたの信仰はいいかげんだから,もっと立派なムスリムとなって生きなさい」と勧める運動を支えている主義主張が,イスラーム主義なのである。

 イスラーム主義に基づく運動は,イスラーム教徒ではない人間をイスラーム教に改宗させようとする運動ではない。ムスリムでありながらよきムスリムでない場合に,彼らをよきムスリムにしていく運動が近年非常に盛んになっている。このような運動は,イスラームの歴史の最初からあるのだが,特に1970年代以降顕著になり,イスラーム圏全体でこうしたイスラーム主義に基づく運動が活発化している。

 1970年代までは,民族主義に基づいて国づくりをすれば豊かになると思ってやったがその夢は実現できなかった。また,社会主義に基づいて計画経済を実施すれば豊かになると信じてやったが,これもやはりだめで,相変わらず貧しい国が多かった。そうした過去の歩みの反省の上に立ってみるときに,「どうやら今までのわれわれは,立派なムスリムでなかったことがいけなかった。ゆえに立派なムスリムになれば,国も豊かになる」と考えるようになり,そこから上述のようなイスラーム運動へとつながっていった。

(2)よきムスリム
 イスラーム教徒として行うべき儀礼を実践するに際しては,手本が必要である。よきムスリムの手本は,7世紀に預言者ムハンマドに直接指導を受けたムスリム,あるいは彼の死後その影響がまだ残っていたころのムスリムたちである。彼らを「サラフ」(アラビア語で「先達」の意味)といい,彼らは神の教えを守って信仰を全うしたと考えられている。

 当時のムスリムたちの生活は,どのようなものであったか。アラビアのアラブ人のうち20〜30万人の成年男子(その家族も含めれば約100万人)が戦士となり広い世界の征服者となった。その被征服者の数は数千万人にのぼると思われる。彼らは各地に軍事基地を設け定住するようになった。各地に散らばるムスリムたちは,自分たちの指導者(カリフ)(注2)を選ぶ。カリフは,ある一人がカリフとして名乗りをあげるとそれに対して個々人が自立的に忠誠を誓うことによって選ばれることになる。そして当時の20〜30万人の成年男子相互の関係は平等で,信仰がきちっと保たれた社会であった。

 例えば,ある一つの都市の人々とそこを支配するイスラーム教徒との関係は,民主的なものでも信仰に基づくものでもなかった。武力によって非支配層を抑え,税金を徴収する。それに従えばイスラーム教徒になる必要もない(各自の信仰を保持してよい)。しかし,もし税を納めなければ戦争をしかける。征服者100万人と被征服者数千万人との関係になるので,支配層であるイスラーム教徒たちは(税収により)豊かで平和な生活を享受することができた。この時代の征服者であるムスリムの生活,社会,政治が理想である。

 預言者ムハンマドとその直後の時代の,このようなイスラーム社会を今の時代に再現することはできない。しかし,征服者と被征服者との関係はさておいて,ムスリムの中での平等で豊かな社会を再現したいという思いが,現代のイスラーム運動の基礎にあると私は理解している。

 翻って,19世紀イギリスにおける議会制民主主義も,考えてみれば全く同じ状況にあった。当時まだ女性には参政権が与えられておらず,成年男子のみに選挙権が与えられていた。その中でのみ議会制民主主義が機能し,さまざまな意見が反映された民主的政治が行われていた。しかし,例えばそのイギリスと被支配国(植民地)であるインドとの関係は,民主主義とは全く関係なく,搾取―被搾取の関係であった。インドの統治・徴税方法については,イギリス議会が決定することであって,そこにはインド人は参画できなかった。他の植民地でも同様であった。つまり,民主主義というのは,イギリス国内における一握りの人々が作っている政治システムであって,数億人を擁する植民地との関係においては無関係のものであった。

(3)イスラームの政治思想と国家
 しかし,上述したような理想の時代は長く続かず,数十年のみであった。その後は複雑な歴史が展開した。その間,イスラーム的な政治思想,その思想に基づく政治学という学問が発達した。その中で特に議論されてきたものが,「ウンマ」(注3)という理念であった。現実にはさまざまな国家や王朝が興亡してきたが,それとは無関係にイスラーム教徒たちがつくっている一つの世界があった(これをウンマという)。つまり,イスラーム社会には,国家あるいは王による支配という歴史はあったが,イスラーム政治思想の考え方の中では国家はあまり重要視されてこなかったのである。

 「ウンマは異教徒とどのようにかかわるか」――これがイスラーム世界の政治的議論の中心的テーマであった。多くのイスラーム教徒たちは,キリスト教徒やユダヤ教徒などの異教徒と隣り合わせて住んでおり,ウンマは異教徒の社会と共存することになるが,異教徒がウンマを妨害しない限りは共存するという条件がついている。もし自分たちにとって不都合な場合は,戦争をも辞さない。

 さまざまな王朝が興亡してきたが,個々の王朝はいつかは壊れるものであって,ウンマ全体とはかかわりがないと理解した。イスラーム的信仰が守られる社会が実現しさえすればよいのであって,そこを支配する国家(王朝)は何であってもよいという極端な意見まで展開された。

 18世紀半ばまでは,そのような思想に基づいてイスラーム教徒の世界は十分に運営ができた。そのころまではイスラーム世界はほぼ拡大傾向を示しており,異教徒から支配されることはほとんどなかった。例外として,モンゴル軍がやってきてイスラーム世界の一部が支配されたこと,キリスト教世界から十字軍がやってきてパレスチナ地方に小さな国を作ったことなどがあった。

 ところが,その時代以降は,圧倒的な力を持つ欧米諸国の前に,イスラーム世界は敗北し植民地化されてしまった。そのため,イスラーム世界では思想的転換を迫られることになった。植民地化されなかったのは,現在のトルコ,イラン,アフガニスタンなどの地域のみであった。これらの地域を含めて,この時代に現在の国境が欧米諸国によって設定されたのである。つまり,欧米列強の勢力範囲を区分する線として国境が引かれたのであった。もともと中東地域における国の歴史は非常に古いものがあるのだが,現在の国家という領土的枠組み(国境線)はおおむね19世紀から20世紀にかけて西欧諸国によって恣意的に作られたのである。

 例えばイラク地方は,紀元前3000年ごろから都市が栄えた世界最古の文明の地といわれている。しかし,現在のイラクという国家の枠組み(領土)は,20世紀にできたものである。その意味では,現在の中東地域の大半の国家はイスラーム的政治思想,価値観によってつくられたのではなく,西欧諸国間の力関係によって作られた枠組みなのである。そこに現在に至る矛盾の原因があるといえる。

 ところで,現代は国家という枠組みが非常に強い時代である。学校の歴史教科書の中では,一般に19世紀を「国民国家の時代」と規定している。私の執筆した高校の歴史教科書では,第二次世界大戦後の時代を「国民国家の時代」と名づけたら,高校の教師に非難された。しかし実際の世界の歴史をひもといてみれば,19世紀には日本,中国,インドなどには「国民国家」はなかったのであり,国民国家が世界的に形成されたのは20世紀の半ば以降であった。現在の中東地域は,全ての地域が国家に分割されている。そのため国家の存在とその維持発展が,政治の中心的課題となる。

 例えばエジプトは,アラブ世界の一部であり,アラブが一つの国を作るまでの暫定的な措置としてつくられた国であると以前は考えられていたが,現在ではそうした考えはない。エジプトという国家を維持し発展させるという考え方が基本になっている。国家の枠組みを強化するために,政治体制,官僚体制,軍事制度が整備されている。そしてその国家を維持していくためには,民主主義ということばを使わざるを得ない。民主的でなければ,国民をはじめ世界から非難を受けるために,全てが民主的になろうと努力する。しかし,民主的のなかみについては一致した見解があるわけではなく,さまざまに解釈されている。

(4)国家を超えたイスラーム運動
 既に述べたように,イスラームの政治理論においては必ずしも国家は必要でない。国家の枠組みは,必要があればそれに応じてつくればいいものであって,絶対的なものではない。イスラーム教徒たちがイスラーム的信仰を守って生活できる場があればよく,それを保障してくれる国家はよい国家ということになる。そうでない国家は解体されてもよい。そこには国家が民主的に運営される必要があるとの考え方はない。民主主義を主張するのは,後述する第一のグループ(3節「ムスリムの反論」参照,P8〜)であり,それ以外はそのようなことはあまり主張しない。

 例えば,アフガニスタン(18世紀から19世紀にかけて作られた国家)には,現在政府があるものの,ほとんど機能しておらず国家なき地域といってもよく,地方はそれぞれ自立している状況である。パレスチナ地域もパレスチナ自治政府があるものの,イスラエルの攻撃などによって実効支配ができず,大部分はイスラエルの軍事占領下に置かれている。ロシアのチェチェン自治国も政府がない状態にある。このように国家がなくてもイスラームの社会が存在する地域が,現在いくつか存在している。

 また現在,イラクという国がなくなり,バース党もなくなった。だからといって,イラクが全く無秩序になったかというとそうでもない。もちろん米英軍や国連に対するテロ活動は続いているものの,農村部や都市部において市民同士が鉄砲を持って敵対したり,略奪を繰り返している状況にはない。それぞれにそれなりの秩序が保たれている。

 それでは一体何がそうさせているのか。国家がなくても,秩序が維持されているのは,イスラーム運動があるためである。おたがいにムスリムであることから,モスクを中心として少なくとも週に1回は集まり,互いの連帯を確認する。このようにして全体の秩序が保たれていると思われる。またこの地域には,我々が「部族」と呼んでいる組織がある。実際には,部族とは「おまえと俺とは,同じ血を分け合っている」という人々の意識にすぎないのではあるが,秩序の原点の一つではある。

 事実,イスラーム運動は国家にとらわれず,国家の枠を超えて展開している。例えば,日本でも積極的に行動している先述のジャマーアテ・イスラーミーという団体は,インドネシア,インド,マレーシアなど各地で活動している。その中心テーマは,よきムスリムになるという運動であり,国家とは関係がない。

2.近代西欧文明の諸概念

(1)国家と市民(国民)
 私は,近代西欧文明は18世紀から始まって19世紀に完成し20世紀に持ち込まれたと考えているが,この文明が2003年の現在でもまだ世界に大きな影響力を及ぼしている。そしてそれは国家を大前提にしている。

 近代西欧文明では,「国家とは,国民(市民)が集まってできた一つの契約体」であると考えているが,国民(市民)の定義はあまり明確ではない。漠然と想定されていることとして,19世紀までは「健全な成年男子」のみを市民(国民)とし,そこに女性が含まれるようになったのは20世紀になってからのことであった。

 それではここでいう「健全」とはどのような意味か。日本は明治維新以来,近代西欧文明を積極的に取り入れて,近代日本国家をつくろうとした。法律体系も西欧のものを参考にして作られた。刑法の基本思想には,罰は健全な市民に対して与えられるとの考えがある。例えば,殺人事件が起きた場合に,その被告が精神異常の場合は罪に問うことができない。なぜなら,その被告は「健全な市民」ではないからだ。また少年も同様に,成年でないので罪に問えないことになる。即ち,少年は大人がきちんと管理しなければならないし,精神が正常でない人も同様にきちんと管理されなければならないからである。このことを裏返して言えば,健全でない者は差別の対象になってしまうのである。女性もかつては同様の論理によって,健全な市民とはみなされず,差別の対象になっていた。

 また,近代ヨーロッパではそうしたもののほかに,「ユダヤ教徒」も健全な市民ではないという考えがあり,それが差別の温床となった。キリスト教によって支配されていた中世ヨーロッパの都市においては,市民の条件としてキリスト教徒であることを求めていたために,ユダヤ教徒は市民ではないとされた。その延長線上に近代ヨーロッパが出てきたために,上述のようなユダヤ教徒への差別が生まれる背景が醸成された。その極端な例が,ナチズムによるユダヤ人の大量虐殺であった。ジプシーも同様の扱いを受けた。

(2)民主主義
 それでは民主主義とは何か。それは健全な市民の間における自由・平等・博愛の実現である。米国では,「人民(people)の,人民による,人民のための政治」といわれているが,そのpeopleについては,何も定義していない。

 現実の歴史はどうであったか。Peopleにとっては,「アメリカ・インディアン」は邪魔な存在であった。実際には「アメリカ・インディアン」という一つの民族がいたわけではない。当時,現地にいた人たちの中には,森の中で生活した人々,ミシシッピー川の河畔で米を食べていた人々,草原で家畜を追っていた人々,太平洋の海岸で漁業をして生きていた人々など,さまざまな人々がいた。そのような人々を一括して「インディアン」と呼び,彼らはpeopleではないから人権はないとみなされ,土地などの略奪をほしいままにされた。また19世紀半ばには,ミシシッピー以東の「インディアン」を皆その以西に強制移住させ,それに抵抗した人を殺した。さらに開拓が進むと,インディアンを一定の保護区に住むようにさせたのであった。そのような法律を作る際にも,インディアンはpeopleではないとの理由で制定過程から除外された。

 ここからも明らかなように,民主主義とはあくまでも市民の間の自由・平等・博愛の実現なのであり,市民でない人々にはそのような価値を享受する権利はないと考えられていた。このような考えが,民主主義の根幹にあったのである。このような近代民主主義が成立して,世界を覆うようになった。

(3)アジア・アフリカ蔑視の考え方
 私の専門である歴史学の体系は,19世紀のランケ以来のドイツを中心として近代ヨーロッパ人が築いてきた。つい最近までは,欧米の歴史学の中では,日本の歴史は扱われていなかった。中国,インドの歴史も同様であった。ランケの歴史学によると,「歴史とはヨーロッパ人の歴史」でしかなく,それを世界史と呼んでいる。東洋の国など他国の歴史は,ヨーロッパの歴史に関わったときのみ「世界史」に登場するだけであった。

 近年東洋諸国については,彼らの歴史の範疇に含められるようになってきたが,ブラックアフリカは未だに研究対象になっていないのが現状である。このように,歴史とは近代ヨーロッパ文明が形成されていく過程であって,そこに寄与しなかった国の歴史は歴史研究の対象にはならないという基本認識をもっている。

 例えば,K.マルクスにしても,日本,中国,インドなどの社会構造全てを一括して「アジア的生産様式」と呼んだ。彼はそのとき,日本やインドについて殆ど研究していない。歴史は発展のダイナミズムであり,その結実として近代ヨーロッパがあるのに比べ,アジアは全く遅れており,ダイナミックな発展がみられない。中国やインドがかつて偉大な文明をおこしたとは言っても,専制君主と貧しい農民という構造は,2000年前と現在と殆ど変わっていないではないか。アジアは発展せず数千年停滞していた。このような歴史は歴史研究の対象にならない。これは近代歴史学の発想に共通する考え方である。

 これを象徴するものに,オリンピックの五輪のマークがある。その五輪は,ヨーロッパ,アジア,アフリカ,北アメリカ,南アメリカの5大陸を象徴している。その中で,ヨーロッパ大陸というものは本当にあるのかと問いたい。どうみてもアジア大陸(ユーラシア)の一部に過ぎないのではないか。それを強引に二つに認識したのが近代文明の世界認識であった。そこではヨーロッパはアジアとは全く違うという認識が前提になっており,彼らは一括扱いされることを非常に嫌う。

 それでもアジアにはかつての文明があり,固有の文字も有していたとして,価値を認識することも可能だが,アフリカ,太平洋などの島々などにはそうしたものもなく,未開で野蛮との理由で半分人間扱いをしなかった。後にこのような人々を学問の対象として扱ったのが,文化人類学であった。

 このような中で,武力を持って近代ヨーロッパの人々がアジア・アフリカ・アメリカに押し寄せてきたのが19世紀であった。その中にイスラーム世界も含まれ,大半の地域が征服されてしまった。

3.ムスリムの反論

 そうした動きに対するイスラーム側の反論が19世紀から始まった。その反論の流れには,大きく3つあると考えている。

 第一は,イスラーム世界にも全面的に近代西欧文明を取り入れようという考え方である。これはちょうど日本が明治以来とった考え方と同じである。当時帝国大学が作られたのは,まさに欧米の学問を輸入するためであった。同様の傾向は,イスラーム世界でも現われた。エジプトのターハー・フサイン(注4)という盲目の思想家・文芸家は,「エジプトはアジアでも,アフリカでもない。ヨーロッパである」と主張した。なぜか。ヨーロッパ文明は古代エジプト文明を発祥としてできたものであるから,エジプトはヨーロッパだという。このような考え方を持った人々が現われ,一つの潮流を形成した。その一つの典型例が,現代トルコを作ったケマル・アタテュルク(1881-1938)の政治思想であった。彼は,イスラームを一旦横に置き,全面的に西欧的政治を進めた。イスラームを個人の信仰に閉じ込めてしまい,政治には関わらないようにした。

 第二は,イスラームを見直すことによって,徹底して西欧的支配に対抗しようという考え方である。現在にいたるイスラーム運動の多くは,18世紀に始まっている。西欧文明,あるいはそれに基づく軍事力がイスラーム世界に押し寄せたのは19世紀であったが,その前の18世紀に既にアラビアで一つの改革運動が胎動した。

 その一つが,現代サウジアラビアをつくったワッハーブ運動である。これはイスラーム法学者ムハンマド・アブド・アルワッハーブという人によって提唱された。彼は,当時のイスラーム世界は全く堕落しており,イスラームを浄化しなければならないと考えた。

 当時、聖者廟がたくさん存在した。この聖者廟は,信者たちが廟内の聖者の墓に触れ安産を願ったり,病気が治るよう祈願するといった現世利益が得られるもので彼らの信仰の対象であった。しかしこれはイスラームではないとし,全ての聖者廟を壊す運動を始めた。この運動は近代西欧文明の流入とは関係なく,イスラーム世界内部における改革運動であった。上述のような聖者廟破壊の運動を受けて,聖者廟を中心とする教団の中には反省し,もっとコーランを勉強するなどの改革運動を発展させたところもあった。いずれにしても,この流れはイスラームをしっかり再組織させることによって,近代ヨーロッパ文明,あるいはその政治勢力を防ごうとする19世紀以降の運動の基となった。

 第三は,イスラームは非常に近代的であり,むしろ近代西欧文明はイスラームのおかげで育ったのだとの考え方である。つまり,イスラームと西欧文明とは異質なものではなく,逆にイスラームの延長線上に西欧文明があると考えた。

 イスラームは,元来民主的な政治を行っていた。7世紀の預言者ムハンマドの時代及びその直後の社会は,非常に平等な社会であった。自由・平等・博愛の精神は,実はイスラームの中に既に実現していた。民主主義も同様であった。また,ムハンマドやその後のカリフの時代には,みな長老を集めて会議を行い,意見を集約して政治を行っていた。これは議会制民主主義の原点に当たるものである。7〜9世紀はイスラーム文明が開花した時代だが,この時代のイスラーム文明が基礎になって近代西欧文明が生まれた。

 例えば,哲学と天文学,医学などの学問は,紀元前3世紀ごろからギリシア語に翻訳され,ギリシア語文化圏の中で発達した。8世紀以降,ギリシア語の文献は全部アラビア語に翻訳された。そのアラビア語文献を通して中世ヨーロッパ人は文明に接することになった。アリストテレスのギリシア語のテキストは中世にはなく,存在したのはアラビア語訳であり,それをもとにラテン語訳がつくられた。医学も同様で,ギリシア語の医学書はまずアラビア語に訳され,そこで体系化された後でラテン語に翻訳された。このように近代文明とは,みなイスラーム文明がもとになっている。

 このようにイスラームは近代文明を先取りしていた文明だから,それをきちんと守ればいいと考えた。現代のイスラーム世界の学者の中にも,同様の主張をする人が少なくない。

4.イスラーム運動の過激派

(1)イスラームの正義と悪魔
 イスラーム運動は正義を主張するが,その正義の内容になるとむずかしいものがある。民主主義も同様に正義を主張する政治思想である。特に,近代西欧文明は神の正義に代わって人間の正義を主張した。中世までは神の正義の時代であり,それを代弁するのが聖職者であった。そのため国王といえども,正義の代弁者ではなかった。しかし近代に至り,神を排除して健全な市民が正義を実現するのが民主主義の基本になった。正義を実現するためには,時には健全でない市民,さらには遅れた社会の人々,未開社会の人々を排除することもありえた。

 イスラームも,「イスラームが正義であり,神の正義はイスラームの信仰の中に実現している。それを実現するためには,さまざまなイスラーム運動がなされなければならない。」と考えている。

 また正義には,悪魔という対概念がある。そしてイスラーム(正義)の敵は悪魔であり,イスラームの正義を実現するためには悪魔を排除しなければならず,そのためにはテロも必要だというのが,過激派の論理である。同様の論理は,近代西欧文明の中にもある。

(2)政治運動とイスラーム運動
 現代のイスラームの過激派運動とよばれているものについて,我々は一括して論じがちであるが,実はそうではない。まず政治的運動がある。パレスチナを巡る運動はイスラームの運動ではなく,政治運動である。さまざまな民族が先住していたパレスチナに,彼らの事情を全く無視して自分たちの夢の国家を作ろうというシオニストたちが,移植してきて独立国家を作った。そのためイスラエルによってその地を追われた人々,あるいはイスラエルの軍事占領下におかれ政治的権利を持てない人々などが,組織を作ってイスラエル政府と闘っている。この構図が,パレスチナ問題の基本となっている。それゆえこれをイスラームの論理だけでとらえることはできない。むしろこれは北部アイルランドでイギリスからの独立運動のために時にテロ活動に出たり,イベリア半島のバスク人がフランスやスペインから独立しようとしてテロ活動をするのと同じ論理である。

 パレスチナ人の権利を代表する組織がPLO(パレスチナ民族解放機構)である。彼らに所属する人々は,パレスチナで生まれた人々とその子孫たちである。それゆえ宗教とは直接関係がなく,キリスト教徒も含まれている(20%弱)。ところが,PLOのアラファト議長はイスラエルと妥協してパレスチナ内部に自治政府を作り,イスラエル政府を認めてしまった。それに対して反抗した政治勢力がハマスである。ハマスはパレスチナの政治問題から発生しているが,基本的にイスラーム教徒の運動になっているために,ここではイスラームの正義が声高に叫ばれている。

 イラクの場合はどうか。これまでイラクを率いてきたサッダム・フセインは,イスラームの正義,アラブの大義を叫んできたが,彼は基本的にバース党(社会主義政党)(注5)の党首である。彼はイスラーム運動とは元来全く関係のない人物であった。むしろイスラーム運動を叩き潰す運動の主役でもあった。しかし,政権維持のためにはよきムスリムであることを誇示する必要があり,時にはモスクで礼拝したりしたが,彼はあくまでも世俗的な政党の代表者であった。それゆえサッダム・フセインの政治をイスラームやイスラーム過激派の文脈でとらえると全く間違ったことになる。

(3)イスラーム過激派
 このようなさまざまな運動の中で,イスラームの正義を叫び,「敵は悪魔であり,彼らをやっつける」というのが,イスラーム過激派である。しかしそれは,あくまでもイスラーム運動の中の一部なのである。

 イスラームの正義を声高に叫び,その実現のためにはテロをも辞さないという人々,あるいは悪魔を破壊するためには9.11テロのようなことも当然だと考える人々の論理に対しては,多くのイスラーム教徒は「それはイスラームではない」と言っている。それは日本赤軍派の運動を見て,これが日本の政治だとするのはあくまで誤解であるとする論理と同じである。

 ウサーマ・ビンラーディンの思想は,イスラームの中では異端視されている思想である。そうはいっても,米国は悪魔であるという思想に共感し同調する若者もたくさん出てくる。そのような人々が一つの組織に組織されていると見てしまうと,イスラーム過激派の運動の本質を見落とすことになりかねない。即ち,ウサーマ・ビンラーディンという首魁に組織されたわけもわからない人間が9.11テロを起こしたのだと理解するのは誤りで,彼らはみな自立的人間なのである。そしてたまたま思想を同じくしているから集まってくる。その中の代表的人物の一人がビンラーディンであって,集まってくる人々それぞれがイスラームの正義のためには自分を犠牲にしてもいいと信じて行動する。ここで重要なことは,自立した人間の集まり(組織)であって,組織された人々ではないということなのである。

 それゆえ,組織をつぶし,あるいは組織をあぶりだせば解決するというのは,誤った見方になる。米国が悪魔であると信じてしまう若者が多くいるという現実とその背景を直視する必要がある。パレスチナで自爆テロを行う人と,9.11テロを起こした人々とは,思想・背景も違い,同じイスラーム運動でもないのである。(2003年10月11日発表)

注1 ジャマーアテ・イスラーミー
 1941年8月に創設されたパキスタンの非ウラマー系イスラーム主義団体,政党。正式名称は「ジャマーアテ・イスラーミー・パキスタン」(略称JIP)。創立者はサイイド・アブール・アーラー・マウドゥーディー(1979年没)。パキスタンでのイスラーム政治体制の確立を掲げ,ムスリムの国民会議派への参加やムスリム連盟の近代主義的建国理念に反対した。49年,パキスタンの基本原則に関する目標決議採択時に,「イスラーム国家」の理念を組み込ませた。(編集代表片倉もとこ,『イスラーム世界事典』明石書店,2002より引用)

注2 カリフ
 アラビア語のハリーファのなまりで,国家元首のイスラーム的称号。別称として「信徒の長」ともいう。現在はモロッコ国王だけが「信徒の長」の尊称を用いている。元来は,ムハンマドの死後に「預言者のハリーファ(=代理人)」という称号を用いたことに始まる。(同上)

注3 ウンマ
 ウンマは普通名詞としては共同体を意味する言葉であるが,村落のような生活共同体ではなく,いわば地球的な運命共同体としてのイスラーム世界をさす。「イスラーム共同体」ともよばれる。もちろん,今日存在するのは,国民国家群であり,そのほとんどは国民の多数がムスリムであるという意味においてムスリム国であるにすぎない。これまで,統一国家としてのウンマが存在したのは,イスラーム史のなかのごく一時期のみであるが,イブン・バットゥータ(1304-68)たちが自由にイスラーム世界を歩きまわっていた時代には,王朝がいくつかあったとしても,全体としてイスラーム共同体が存在し,ウンマが実体をもっていたといっていいだろう。・・・アラブ民族主義の「アラブ統一」の場合も,ウンマ,イスラーム共同体の概念が用いられる。西洋的な国際関係の理解とはちがった概念として,注目されるものである。(同上)

注4 ターハー・フサイン(1889―1973)
 アラブのなかでもっとも早くから日本に紹介された盲目の作家。最後は文部大臣にまでなり,たんなる著述家にとどまらない広範な活動によって,1973年に他界するまでエジプトの近代主義をリードし続けた。しかし,イスラームという観点から見ると,フランスに留学し,エジプトにおける西洋的近代の定着を推進したこの人物は,むしろイスラームを解体する側にいた。ということは,西洋的な知識人として,民衆のアイデンティティとは隔絶した面を多く持っていたわけで,最近ではさまざまな批判が寄せられている。著書『不幸の樹』(池田修訳,河出書房新社)など。(同上)

注5 バース党
 正式名称はアラブ社会主義復興党。ミシェル・アフラクとサラーフ・アッディーン・ビタールが1947年に設立したアラブ・バース党が,52年アクラム・ホウラーニのアラブ社会党と合併してシリアで成立。アラブの統一,(植民地支配からの)解放,社会主義を党是とし,より具体的には資本主義,帝国主義,シオニズムに対する戦いを掲げる。基本的には世俗主義であるが,アフラクはイスラームをアラブ民族主義の重要な要素として位置づけた。(同上)