国連改革と今後の日本の外交戦略

同志社大学法学部助教授  村田 晃嗣

 

1.冷戦後の国際政治を見る観点

(1)「冷戦」の戦後処理
 いま我々は国際政治の大きな転換点に立っている。国際政治の歴史を振り返ると,大きな戦争の後には大きな講和会議が開かれるのが常であった。19世紀ナポレオン戦争の後にはウィーン会議(1814-15)が開かれた。20世紀の第一次世界大戦後にはパリ講和会議(1919)が,第二次世界大戦後にはサンフランシスコ講和会議(1945)がそれぞれ開かれた。

 そして第一次世界大戦が終わったときに,二度とこのような大きな戦争を起こしてはならないとの反省から国際連盟(The League of Nations)がつくられた。さらに第二次世界大戦を契機に,国際連盟がわずか20年で破綻をきたし再び大きな戦争を起こしたことに対する反省として,国際連合(The United Nations)が創設された。

 ところが,その後20世紀における最も長い戦争である「冷戦」が終わって10年以上経つのに,講和会議に匹敵するものが開かれていない。これは冷戦が実際に戦われなかった戦争であったためであるが,大きな戦争の後に国際秩序を仕切り直しするための講和会議,あるいはそれに類する機能を有するいかなる会議も開かれていないことが,冷戦後の国際政治が混沌とした一つの理由であろう。

 冷戦は実際には戦われなかった戦争であり,敗者が必ずしも明確でない。旧ソ連が負けたということもできるが,しかしロシアという国は残っており,敗戦国という扱いを受けているわけでもない。第一次世界大戦後のドイツや第二次世界大戦後の日独伊に対するような扱いは受けていないのである。

 第一次世界大戦後には国際連盟,第二次世界大戦後には国際連合が創設されたように,本来なら冷戦が終わったときにも新たな国際機関をつくるか,あるいは既存の国際機構をどう改めていくのかといった抜本的な議論がなされて然るべきであったが,そうした機会を逸したまま冷戦後10年余が過ぎてしまった。

(2)現代国際政治の三つの視点
 国際政治は,主に次の三つの視点から議論することができる。
まず第一は,軍事力である。軍事力という観点を抜きにした国際政治学は所詮,子どもの国際政治学に過ぎない。しかしながら他方で,国際政治を専ら軍事力のみから考えるのも幼稚な国際政治であり,私はこれを「ミリテク・オタクの国際政治学」と呼んでいる。いずれにしても軍事力は国際政治上の非常に重要なファクターである。

 第二は,経済である。相互依存の国際関係に経済が及ぼすインパクトは計り知れないものがあり,経済を抜きにして国際政治を語ることはもはや不可能である。しかし,同様に経済という観点からだけで国際政治を語るのも子どもじみた議論である。例えば,今回のイラク戦争のような複雑な現象を,中東の石油利権の観点からだけ議論するとか,米国の軍需産業の利権の観点からだけから議論するのは不十分であり,言葉は悪いが私はこれを「株屋の国際政治学」と呼んでいる。

 第三の観点は,実は一番見落としがちなことであるが,情報,文明,文化,知識などの側面,一言でいえば価値である。軍事力を力,経済力を富とすれば,第三のカテゴリーは価値観である。価値観をめぐる対立・優越という側面をも国際政治では見逃してはならない。しかし,逆にこの文化,文明,情報などの価値からだけ国際政治を語るのも行き過ぎた単純化であり,私はこれを「サブカル・オタクの国際政治学」と呼んでいる。

 どれも一つの観点からのみ論ずると過度に単純化してしまうため,国際政治はこの力と富と価値という三つを絡み合わせて考えなければならない。

(3)超大国米国の出現
 以上の観点からみると現代の世界は,アメリカ合衆国という一国に途方もない力の集中が起こっていることが分かる。とりわけ軍事力においては顕著である。全世界の軍事支出の40〜45%を米国一国が占めている。世界の軍事予算規模で第2位から第15位,あるいは統計によっては第20位までの軍事予算をすべて足しても,米国一国の軍事予算の方が大きい。

 また近代戦争においては軍事技術も重要である。この軍事技術の面でも米国の優越は疑うべくもない。ヨーロッパ兵1人あたりにかけられている研究開発費はおよそ7,000ドルであるが,米兵1人あたり約2万8,000ドルと言われている。

 軍事力に関してもう一つ忘れてはならないのが,ロジスティクス(補給)である。このロジスティクスでも米国の優位は疑う余地がない。分かりやすい例を挙げれば,アフガニスタンで軍事行動を開始してから米国海軍はインド洋に2隻の空母を派遣した。空母1隻には約5,000人が乗船しており,2隻で1万人である。米国軍は軍事行動を行っているとき,1人の兵が1日4食の食事とるという。空母2隻1万人に1日4食ずつ提供すると,1日で4万食分必要となる。従って1カ月で120万食,半年で720万食,1年で1440万食を2隻の空母のために補給しなくてはならない。これだけの補給兵站能力をもっている軍隊は世界中に米国軍しかない。

 経済についてもGDPで世界経済の3割近くを米国が占めている。わが国が長期にわたって景気低迷に悩んでいるのに比べ,米国経済はいろいろな問題を抱えているとはいっても好調である。03年11月に発表された米国政府の数字では経済成長率が7.2%から8.2%に上方修正された。失業率も若干下がっている。世界経済の動向が米国経済の動向に大きく左右されていることはいうまでもない。

 価値の面においても,卑俗な事例を挙げれば,世界の映画市場に占めるハリウッド映画の占有率は85%程度と言われている。また情報化時代でインターネットが世界の津々浦々を覆っているが,インターネットで流通している情報のほぼ9割が英語によるものである。逆に言えば,英語ができなければ,これだけのインターネット時代になっても初めから世界の情報の9割が取れないということであり,大変大きなハンディを背負うことになる。

 このように力,富,価値の三つの分野において,米国は優越した地位を占めている。このことは恐らくかつてのローマ帝国の比ではない。ローマ帝国にしても所詮は地域帝国に過ぎなかった。19世紀の大英帝国は,「七つの海を制し日の没するところなし」と言われたが,基本的に海洋帝国であり陸軍力においてはイギリスをはるかに凌ぐ力を持ったロシア,プロイセン,フランスといった大国が存在した。文化の面でもアングロサクソンの文化は確かに大きな力を持っていたが,それに対抗するにたるフランスその他の文化が存在した。19世紀の大英帝国ですら今日の米国ほどの優越を享受していなかった。一国にこれだけの力と富と価値が集中した時代を少なくとも我々は記録された歴史の上で経験しておらず,人類史上初めての挑戦であるといえる。

 このことは見方を変えると,このような大きな力を持ってしまった米国が,この力をどのように行使すべきか,あるいはどのようなときには行使すべきではないのかについて,十分に学習ができていないとも言える。つまり米国自身がこの力の行使,あるいは不行使の問題について思い悩んでいる試行錯誤の段階なのである。

 他方で,米国以外の世界もこれほど大きな力を持ってしまった国とどのように共存してゆくのか,即ちどこまで迎合してゆくべきなのか,どこまで対抗すべきなのか,などについての学習がまだできていないといえる。

 このような状況の中で今回のイラク戦争が起こったのであり,今回のイラク戦争の意味は恐らく5年,10年,15年というスパンをかけなければ分からない問題であろう。そのような大きな変化の中で国連改革,イラクの問題,日本の外交のあり方などが問われている。

2.国連改革の諸課題

(1)国連に対する浅薄な理解
 今回のイラク開戦をめぐって国連安保理は大変深刻な対立に直面した。そして米英両国は新たな安保理決議を求めることなしに03年3月にイラクに対する武力行使に踏み切った。これに対して読売新聞も朝日新聞も「国連安保理の機能麻痺」という表現を使って論評した。しかし,果たしてそうであろうか。つまり1945年の創設以来,国連安保理が深刻な安全保障上の問題で有効に機能した例は,むしろ極めて少ないといわざるを得ない。ある意味で国連安保理は機能しないものだと考えた方がよかったのではないか。ところが冷戦終結後,国連に対するある種の過剰な期待が生まれ,とりわけ90年,91年の湾岸戦争への対処が成功したことで,国連による集団安全保障がうまく機能するのではないかという期待感が非常に高まった。私はこれを「国連バブル」と呼んでいる。

 ところがその後のソマリア,ルワンダ問題では国連は何もできなかった。そしてボスニア,コソボと続き,国連が必ずしも新しい安全保障上の問題に十分対応できないことが再び明らかになった。いわば国連バブルの株価が低下してきたところに今回のイラク戦争が起こり,ほぼ国連株価は元値にもどったという感がある。従って国連が機能不全に陥ったというのは,かなり没歴史的な国連観ではないかと思う。

 私が問題視したい点は,少なくとものこのイラクの問題で安保理が明確な決断を下せなかったことに対して,「米国が国連を無視した」「米国か国連か」という議論があることである。そのような議論はそもそもナンセンスであり,米国が安保理の常任理事国である以上,理屈の上からして国連は米国の意向に全く反する決議を通すことはできない。そもそも国連か米国かという選択は論理的に存在しないのである。

 また日本の一部言論の中で,国連無用論の主張があったり,ある学者は雑誌に「国連は日本の敵だ」と書いたりしている。それは「国連憲章に依然として敵国条項が残っており,国連が日本を敵視しているなら日本からみれば国連は敵だ」というやや乱暴な議論である。このように,国連安保理機能不全論とか国連無用論が急速に一部の保守派の論者から出てきたが,これは危険なことである。

 なぜなら国連と安保理は分けて考えなければならないのであり,何も安保理だけが国連のすべてではないからである。国連にはその他に経済社会理事会や信託統治理事会,国連総会,国連事務局といった主要機関があり,さらにはWHOやユネスコ,ユニセフ,国連高等難民弁務官事務所といったさまざまな専門機関もある。そういうさまざまな機能を背負った総合体が国連なのであり,安保理におけるある一つの躓きをもって国連全体に落第点をつけるのは極論であろう。私たちの目に見えないところで世界中の貧困のために活動したり難民の世話をしたりしている国連職員がいる。そういう地道な専門機関の活動も含めて我々は国連と呼ぶのであり,安保理だけで国連を判断するのは間違いである。

 そのような議論は,日本の一部の根強い国連崇拝論,国連をいたずらに美化する議論と表裏一体であろう。いたずらに国連を美化するかと思えば,他方で国連のある機関の一つの躓きをもって国連全体を無用だという議論が出てくる。国連に対してバランスの取れた見方ができないで極論から極論に走るという傾向が日本の世論にはあるのではないだろうか。

 ところで,このことについて考えられる理由が一つある。国連問題だけでなく,国際政治をめぐって日本の議論が右から左,左から右へと大きくぶれる一つの理由は,日本語の属性のせいではないだろうか。つまり日本語が非常に閉じた言語空間で流通しているということである。欧米の言論人であれば英語で文章を書かざるを得ない。英語で書くと米国人であろうとイギリス人であろうと,自国民しか読まないということは想定できないのであり,国際的にさまざまな知識人や政策決定者が読んで,それに対する批判あるいは賛成論が返ってくる。

 東南アジアのシンガポールやタイのような国々のインテリ層や指導層は,母国語だけで書いても母国の言語マーケットが小さすぎるのでそれだけでは十分活動できない。それでやはり英語で書かざるを得ない。しかし日本語の場合,国際的には流通していないが国内に1億2000万のマーケットを持っており,日本国内で閉じた議論をしていてもそれなりに本が売れ,新聞社から取材があり,雑誌に書くこともできる。そういう中途半端な知的マーケットを持っていることが,どうやら他者との関わり,他者からの批判,多様な議論に対する感受性の広い言論が生まれにくい土壌となっているのではないかという気がする。
いずれにせよ,安保理だけから国連を論ずるべきではない。また国連をいたずらに美化する考え方も,いたずらに否定的な見解を持つことも誤りだということを述べておきたい。

(2)安保理の課題と国連改革の展望
 しかしこの安保理の改革が非常に重要な課題であることは言うまでもない。安全保障理事会15カ国のうち「P5」と呼ばれる5カ国はいずれも核保有国であり,これらの国々は拒否権を持っている。フランスやロシアがイラク問題で安保理決議にこだわったのには理由がある。フランスもロシアも本来の赤裸々な力と力の場としての国際政治ではもはや米国に対抗し得ないけれども,安保理という制度化された場では拒否権というカードによって米国に対してある種の牽制の力を持ち得るのである。中国も当然そうである。従ってこうした国々が安保理を殊更に重視することは驚くに当たらない。

 しかし安保理15カ国,そしてそのうちの5カ国に拒否権があるというこの現状が,もはや国際政治の現状にそぐわなくなっていることは言うまでもない。1945年に国際連合が設立されたときには加盟国は51カ国であり,51カ国中11カ国を安保理理事国としていた。しかし今や国連加盟国はその3倍から4倍に近い191カ国である。51カ国中の11カ国で構成されていた安全保障理事会が,その分母が191になりながら,15カ国に増えただけで,しかもそのうち5カ国の特権もそのままであるという形になっている。しかも加盟国の増加はアジアとアフリカを中心になされてきたが,安保理常任理事国5カ国のうち,イギリスとフランス,そしてロシアをヨーロッパと考えるならば3カ国までがヨーロッパの国々で占められており,あとはアジアの中国と米国のみである。アフリカからもラテンアメリカからも安保理常任理事国は出ていない。

 実際,この安保理の改革をどのように進めるかは大変難しい問題である。その難しさは,実は国連という組織の難しさを反映している。常識的に考えて安保理の常任理事国を拡大するときに,もっとも至近距離にいる国は日本とドイツであろう。しかし,例えばドイツの安保理常任理事国入りには間違いなくイタリアが反対する。イタリアが反対する理由は次の如くである。もしドイツが常任理事国になれば,西欧主要国の中でイギリス,フランス,ドイツが常任理事国で,イタリアだけが常任理事国ではないという事態を招く。イタリアにとっては西欧における二流国の烙印を押されることとなる。しかも英仏は戦勝国なので我慢もできようが,同じ敗戦国であるドイツの常任理事国入りについては,まず常任理事国となる見込みのないイタリアにとっては絶対に許容できない。日独の安保理常任理事国入りがセットで語られる限り,イタリアは日本には何の恨みもないけれども,日本の常任理事国入りにも反対するのである。

 さらに例えばメキシコやアルゼンチンも安保理改革には抵抗している。なぜなら安保理常任理事国をある程度地域性を考えて配分するということになると,ラテンアメリカでは人口で最大のブラジルが有力候補である。しかしメキシコもアルゼンチンもブラジルの常任理事国入りには反対であり,ブラジルを常任理事国にさせないためには安保理改革そのものに反対する。その結果,日本やドイツの常任理事国入りにも反対する。これがアフリカでエジプトが有力候補ならそれに反対する国,あるいは南アフリカならそれに反対する国という話になってくる。またインドは約10億の人口を抱えており,当然潜在的な常任理事国の候補だが,インドの常任理事国入りにはパキスタンが絶対に反対するので,インドを入れないためには日独の常任理事国入りにも反対するということとなり,大変錯綜した問題となる。従って言うは簡単だが見通しは非常に暗く,長い視野で考えなければならない問題である。

 それからこの安保理改革でもう一つ大事なことは,常任理事国を増やすにしても,闇雲に増やしてよいのかという問題である。イラクの問題でも明らかなように,たった5カ国の常任理事国の中で対立が生じただけでこのような混乱に陥った訳であり,この安保理常任理事国を仮に10カ国に増やした場合,数が増えれば増えるだけ当然のことながら利害の錯綜・対立も出てくる。安保理が意思決定できない可能性は,理屈の上でその数が増えれば増えるほど潜在的に増えていくことになる。従って単純に数を増やせば良いというものでもない。

 そこで一部の人たちが主張する議論として「拒否権なき常任理事国」というものがある。日本では中曽根元総理が1987年にそのような案を提示したことがある。「準常任理事国」ともいうべき,拒否権のない常任理事国という議論である。しかしながら,これは事実上安保理のヒエラルキー化,階層化を一層強めることになる。今の安保理でも拒否権をもつ常任理事国と非常任理事国という階層になっているのに,そこに拒否権を持たない常任理事国が何カ国か入ることによって安保理がさらに階層に分かれてしまう。これは本来国連が目指すべき姿ではなかろう。そのような意味で,果たして常任理事国の数を増やせるのか,あるいは安全保障理事会のメンバーの数全体の増やせるのかどうかということも含めて検討すべきであり,また増やしたときにどのように効率を担保するのかということを同時に考慮しなければならない。

 それについては,「拒否権を持つ常任理事国の数を増やし,ある一国が拒否権を発動した場合,安全保障理事会の3分の2がその拒否権に反対すればそれが無効になるといったオーバーライドのシステム」,「2国がそろって拒否権を発動すればあとは何カ国が反対してもオーバーライドできないという制度」などが考えられる。そうすると一国だけで拒否権を発動する場合には,もしかすると発動した拒否権が安保理全体のかなりの多数によって覆される危険性が出てくる。そのときには拒否権を発動しても役に立たないわけであり,却ってメンツを傷つけられるので常任理事国は一国だけの拒否権発動には非常に慎重にならざるを得ないだろう。二国が発動すればどんな多数決でも覆せないということになれば,安保理の常任理事国の中で少なくとも他の常任理事国と組めるような国でなければ拒否権を発動できないということになる。それが本当の解決策となるかどうかは別として,そのようなことも含めて考えてゆかなければならないだろう。

(3)国連分担金
 国連改革の大きな問題の一つに分担金がある。
米国は分担金の上限である22%を負担しているが,中国は1.5〜1.6%,ロシアは1.2%しか負担していない。日本は1956年に国連に加盟したときの分担率が2%であったが,今日では19.6%となり,米国に次いで第2位となっている。このように米国以外の全ての常任理事国の国連分担金を足しても,日本一国の国連分担金の額の方が多い。

 国連分担金の配分は3年に一度,委員会を設けて再配分を決定する。いま日本の経済状態は非常に悪いので,この分担金は徐々に引き下げられる方向にあり,恐らく最終的には15%くらいに落ち着くであろう。それでも大きな負担であることは間違いない。他方,国連分担金の最低分担率は0.001%である。この0.001%しか払っていない国が191カ国のうちの37カ国である。この分担金についても公平な配分を心がけなければならない。

 ところで,一部日本の政治家が論ずるように「日本が求める国連改革が進まないのであれば日本は分担金の支払いをストップすれば良い」「20%近いお金を出さないといえば国連は国連改革にもっと前向きなるだろう」といった議論がある。しかしこれは危険な戦略である。なぜなら,人間関係でもそうであるが,お金はきれいに使うことが大事であり,自分が使ってきたお金を「使わないぞ」と言って脅すことが果たしてどれだけ効果があるかは議論の余地がある。

 しかも,もし日本が全体の20%近い国連分担金の支払いをやめれば誰が困るかというと,イタリア,韓国,カナダ,オーストラリアなどの日本の安保理常任理事国入りに消極的な態度をとっている国々は,実はほとんど困らない。日本が分担金の支出を差し止めて困るのはWHOやユネスコ,ユニセフ,国連高等難民弁務官事務所などの専門機関であり,さらにはそういった機関の援助や支援を受けているもっとも貧しい国々,発展途上国の人々である。そうした発展途上諸国は安保理改革に反対している訳ではないし,日本の安保理常任理事国入りに反対もしていない。つまり日本が分担金の支払い差し止めをすることによって日本の提案している安保理入りに比較的消極的な態度を取っている国々にはほとんど実害は及ばないが,それに反対していない国々が大いに困るということであって,必ずしも賢明な策ではなかろう。

(4)敵国条項の扱い
 国連改革に関してもう一つ重要な点が,日本にとって非常に関心の深い敵国条項の問題である。国連憲章の第53条と第107条(注1)では,第二次世界大戦の敵国,つまり日本,ドイツ,イタリア,さらにフィンランドやハンガリーなどいくつかの国々が依然として敵国という扱いを受けている。この敵国条項については1994年の国連総会で事実上無効であることが確認されており,実際は死文であるが,しかし文章としては未だに国連憲章の中に残っている。日本政府はこの敵国条項の削除を求めているが,今日に至るまで削除されていない。

 この敵国条項の削除は,もちろんいつまでも敵国扱いをされている日本,ドイツ,イタリアその他の国々の名誉の問題であると同時に,国連という組織のフェアネス(公平性)に関わる問題でもある。第二次世界大戦のときの戦勝国がいつまでも常任理事国であってよいのか。資金的な負担に呼応した改革をしないでよいのか。これらは敵国条項とともに国連の公平性に関わる問題である。

 しかしながら,日本が国連改革と称して安保理改革と敵国条項の削除の問題ばかりを取り上げれば,「日本は所詮自分の利害からしか国連改革を論じていない」という反発を生む可能性がある。もちろんそれらも重要課題ではあるが,日本外交としてはそうしたものを含めて国連全体の機構をどう見直すかを考えなければならない。即ち,事務局の事務効率化をどう図るのか,あるいは経済社会理事会の活性化をどう図るのか,その他の専門機関にどのような問題点があるのかといった問題である。国連憲章にしても第53条と第107条の敵国条項だけにこだわるのではなく,全体的にどう改めるべきなのかという,もっと大きな全体像の改革案を提示しなければならない。

 安保理改革というのは国連の複雑性の象徴であり,1年や2年で実現するものではない。しかしこの敵国条項について言えば,敵国条項に特化してこれを削除するのも一つの可能性である。実は2005年は国際連合の創立60周年にあたり,その翌年の2006年には日本の国際連合加盟60周年を迎える。その辺りが一つの政治目標としてのターゲットたり得る年だと思われる。2005年,2006年をターゲットにして少なくとも敵国条項の削除は求めていく。しかし日本は同時に幅広い国連改革についての青写真,グラウンドデザインを提起していく努力をしなければならないだろう。

3.日本外交の課題

(1)日本の自己イメージの不正確さ
 上述のような情勢認識の下,日本外交の課題についていくつか述べてみたい。
国連をより公正な組織にしその正当性を高めながらも,その一方で米国の力や権威を傷つけないように同盟国としての努力を続けるという外交努力が日本に求められている。即ち国連の正当性を傷つけてしまい,国連の正当性なしに米国の突出した力だけで国際政治が運営できるかというと,たとえそれ可能であったとしてもそれは非常にコストの高いものとなるし,それはまた日本の国益に反する。実はこれは非常に難しいことであり,その意味では日本外交の選択の幅は,実はそんなに大きくないことを我々は自覚しなければならない。イラク問題でも今米国はある程度,国連を軽視したことのコストを払っているのであって,もっとうまい方法があったのではないか。

 ところが今回のイラクへの自衛隊派遣問題でもそのことが表れているが,日本人は国際政治の中に占める日本の地位や立場についての確立した自己イメージを持ちにくい。日本が何かをしないことが国際社会にとってどれだけインパクトを持っているのか,つまり日本の「不作為」が国際政治に及ぼす影響について日本人は総じて鈍感である(過小評価)と言わざるを得ない。ところが,他方で日本が何かをしたときの影響力,すなわち日本の「作為」に対してはやや過大評価する傾向がある。

 例えば「日本は米国に対してもっと言うべきことを言うべきだ」「同盟国として米国をもっと牽制すべきだ」「ブッシュ政権に対して影響力を行使すべきだ」などという人がいる。もちろんそのような努力はすべきであろう。しかしながら,日本政府がブッシュ政権に対して行使できる影響力は存外小さなものである。

 それは日本の国力が非常に不均等であるためである。経済についていうなら世界第二位の経済大国であり,世界のGDPの14%を占めている。しかし軍事力に関して言えば,わが国の自衛隊はそれなりに大きな規模を持ち,比較的しっかりした訓練と装備をもった組織であるが,その軍事力を極力使わないという非常に抑制的な政策を取っている。さらに価値,情報,文化という側面でも日本の文化外交がどれだけ成功しているのか。日本の情報発信力がどれだけあるのかというと,これもかなり怪しい。また資源をほとんど他国に依存し,食糧自給率も40%に過ぎない潜在的に非常に脆弱な国であって,国力が極めて不均等である。このように安保理常任理事国でもない日本の政治的・軍事的な弱さに注目すれば,日本が何かしなかったからといって,別に世界に大した影響はないのではないか。

 他方,世界第二位の経済大国という点に着目すれば,日本ほどの経済大国が米国に対してしかるべき発言をすれば米国政府は聞くはずだというので,日本の影響力を過大に評価することもできる。その辺りが日本の自己イメージが揺らぐところだろう。

 しかし実は両方とも間違いであって,日本の不作為は存外大きな国際的な影響を及ぼすけれども,日本が何かしたからといってそれがすぐさま大きな影響を及ぼすかというと実はそうでもないという,非常に難しい立場に日本が置かれていることを自覚する必要がある。そのような自覚に立てば,日本外交が政治家のリーダーシップと戦略的ビジョンと努力を重ねればいろいろなことができるというのは恐らく間違いだということが分かる。

 もちろんリーダーシップは必要であり,わが国にはそれが欠けている。また戦略も欠けているのも間違いない。日本外交が仮にいま55点ぐらいだとして,リーダーシップと戦略と知恵と努力を重ねればこれが90点になるというのは所詮無理な話である。55点が65点か70点になることはあるかもしれないが,90点とか95点のスコアを取ることは恐らく構造的に無理であろう。そのように過大な期待を持つと大きな失望がやってきて日本の外交が大きく揺らぐことになる。控えめな外交に対する期待とバランスの取れた自己イメージを持つ必要がある。

(2)イラク問題の核心:戦略的曖昧性
 米国がイラクにおける大量破壊兵器の存在をイラク戦争開戦の大きな理由としながらも,今日に至るまでイラクではその大量破壊兵器が発見されていない。そのことを受けて,そもそも今回の戦争には大義がなかったという議論がある。しかし私はこの議論には反対である。このイラク戦争の本当の意味は恐らくまだ分からない。国際政治上の評価,歴史上の評価というのは,もう少し時間をかけた長期的な視野の中でしか分からない。

 大量破壊兵器が発見されるかどうかは,必ずしも問題の本質ではない。本来大量破壊兵器(核兵器,生物兵器,化学兵器の総称)は破壊力が大きいために非常に使いにくい兵器で,むしろ「持っている」ことによって心理的な影響(威嚇)を及ぼす兵器である。そのような大量破壊兵器の本質的性格を考えれば,あるかないかはそれほど重要ではない。つまり「あるぞ」と思わせておけば大量破壊兵器はある程度の意味を持つ。湾岸戦争以降イラクがやってきたことが正にそうであった。

 イラクのフセイン体制にとっては,大量破壊兵器の存在が明らかになれば当然国連の制裁対象となり,米国は武力行使をする。従って大量破壊兵器の存在が明らかになることは,フセイン体制にとって困ることであり命取りとなる。反対に,持っていないことが明確になっても困る。なぜならフセイン体制が大量破壊兵器を持っていないということが100%証明されてしまえば,フセイン体制は国内の反体制派やクルド人のような少数民族をそれによって威嚇することができなくなるからである。そしてクウェートやサウジアラビアやイランといった近隣諸国を威嚇することもできない。

 従ってフセイン体制は過去12年間,大量破壊兵器を持っていそうだが持っているとの決定的証拠もないという「戦略的曖昧性」を意図的に作ってきたのである。9・11のテロ以降,テロと大量破壊兵器に対して極めて敏感になった米国が,もはやこのような戦略的曖昧性を継続することは許容できないという判断に立ち,新たな国連安保理決議を受けずに武力行使に踏み切った。とすればその結果,全土を占領してみて大量破壊兵器が出てこなかったとしてもそのことは必ずしも問題の本質ではなく,問題はフセイン体制が意図的に作った戦略的曖昧性であった。

 しかしそれによって米国のやったことが正当化できるかとなると,そうも言い切れないところがあり,それに対する答えはまだ出ていない。ただ,いま大量破壊兵器が出てこないから米国のやったことは間違いだ,この戦争に大義はないなどとは言い切れないということである。

 大国米国がそのような状況で武力行使をする国際政治の危険性と,あるいはフセインの戦略的曖昧性がこのまま許容されてしまい,そしてフセインだけでなくさらにイランが,あるいはその他の国が同じような戦略的曖昧性の状態を作り出すというゲームを始めたときの国際政治と,どちらが国際社会にとって危険かといっても,これはにわかには答えの出ない問題である。

 開戦事由はともあれ,この戦争終了後のイラクの戦後統治について,米国が非常に甘く見ていたことは間違いない。その点について米国には反省すべき点がある。しかしながら,開戦事由を理由にしてイラクの復興や占領統治に協力しないという議論はかなり後ろ向きの議論であると言わざるを得ない。イラクをできるだけ速やかに復興し,イラク人の手に主権を移譲させるという課題は,イラク開戦時の立場を越えた国際的な共通課題であることは言うまでもない。

(3)自衛隊派遣論議の問題点
「安保理決議1511」(注2)に賛成しておきながら仏・独・露は,米英主導のイラクの復興・統治には人もお金も出さないと言っている。それを理由に,日本も自衛隊を出す必要はないという議論が一部にある。しかし米国追随を批判する人たちが,「仏・独・露が出さないから日本も出さなくてよい」という議論に陥るのは論理矛盾のような気がする。米国に対しては主体性とか自主外交を唱える人たちが,仏・独・露の意向に合わせて日本の外交方針を決めようと言うのは,仏・独・露追随外交であり,甚だ奇怪な議論のように思われる。

 米国のブッシュ政権は徐々に国際協調の枠組みに舵を切ろうとしている。しかしながら今の治安状況では米英でなければ治安が担保できないのであり,いきなり国連主導にすると却って治安が悪化するかもしれない。治安を維持強化しながら国際協調の枠組みに持っていくという非常に難しい作業を米国は強いられているのであり,これに今しばらくの時間がかかるということについて,我々はある程度忍耐強くならなければならない。

 さらに,開戦のときにフセイン体制とアルカイーダとのコネクションが一部で指摘された。しかし開戦の段階でフセイン体制とアルカイーダのコネクションを証明することはできなかったし,恐らく関係はなかったであろう。しかし皮肉なことに,イラク戦争をやった結果,フセイン体制とアルカイーダは結びついたのである。その点で米国の失敗を批判することは可能であるし,批判しても良いと思うが,しかしいま現実としてイラクでフセイン体制の残党勢力とアルカイーダに代表されるような国際テロリストが結びついているという現実に我々はどう対応するのかを考えなくてはならない。

 03年10月にアルカイーダが,「もし日本が自衛隊をイラクに派遣すれば東京をテロのターゲットにする」と言ったと伝えられる。そして11月末には不幸なことに日本人の二人の外交官が殺害される事件が起こった。ここでもし日本が自衛隊のイラク派遣をやめることになれば,これは米国が大義なく始めた戦争に日本が追随するとか,米国追随外交であるという文脈を越えてしまう。つまりこの問題は二重構造を持っている。3月に始まって今日に至る,開戦理由について議論の余地のあるイラク戦争という構造と,9・11に始まった国際テロとの戦いという二つの構造である。いまこの二つが結びついてしまったのである。

 そしていま再びアルカイーダという名前が前面に出てきた。このアルカイーダは9・11に世界貿易センタービルを攻撃したとされる集団であって,ここでは24人の日本人の命が失われた。つまり我々日本は,既に2年前に犠牲者になっている。このアルカイーダを始めとする国際テロリストと戦うことは,イラク戦争の開戦の正当性とは別の次元の問題である。ここで我々は引けないのである。

 しかもアルカイーダの脅迫宣言と日本人外交官の殺害事件という状況下で日本が自衛隊の派遣を取りやめれば,テロリストから見れば,日本は国際テロリズムの恫喝のもっとも弱い輪となるであろう。今後とも国際テロとの戦いで国際協調が必要なときには日本を脅せば日本が引くということになる。それはイラクでの戦争を認めるのかどうか,あるいはイラクで罪もない子供たちが殺されているなどというウエットな議論とは全く別の議論ではなかろうか。日本が国際テロとの戦いの中での一番弱い輪になることだけは絶対に避けなければならない。

 いまイラクで実際に人を出して活動している国は37カ国と言われている。これをGDPでみると,世界のGDPのトップ12カ国のうちでイラクに人を出していない国は4カ国しかない。その4カ国は初めから反対しているフランスとドイツ,そして日本とメキシコである。フランスとドイツの二カ国は初めから反対しているので別にすれば,GDP規模でトップ12カ国のうち人を出していないのは日本とメキシコだけである。そして日本については世界第二位の経済規模を持っている国である。その国がテロリストの恫喝により,さらには日本人に実際に被害者が出た後に,それまで繰り返し出すと言っていた自衛隊のイラク派遣を見合わせるということになったときに,それがどのような国際的なインパクトを持つのか。20数名の犠牲者を出して踏み止まっているイタリア,9名の犠牲者を出して踏み止まっているスペイン,日本の直後に2名の犠牲者を出して踏み止まっている韓国に対して,それがどういう政治的影響を及ぼすのか。

 つまり,日本が人を出さないということは日本一国の問題ではなく,それによって各国が連鎖的に兵力の削減や撤退を始めるとするならば,日本の決定は日本が自衛隊を出す,出さないという議論を越えた大きなインパクトを持つものとなる。そのことについて我々はもっと自覚を強めるべきである。

 米国にはブッシュのイラク政策を批判している人々はたくさんいるが,ブッシュのイラク戦争を政策のレベルで批判するということと,一旦自衛隊を出すと約束した日本がこの段階で出さないといったときに米国人が日本人に対して持つ心証は全く別である。それは「軽蔑」という一語に尽きる。

 それからフランスやドイツやロシアといった軍隊を出さないといっている国々が,日本が自衛隊を出さないといったときに日本は賢明な判断をしたと言うかといえば,そうした国々も日本に対して心の底から軽蔑の念を持つことは疑いがない。中国や東南アジア諸国においてもアジアにおける日本のリーダーシップの陰りが囁かれる中,自衛隊派遣を決断できなかった日本に対して恐らくある種の軽蔑観を持つだろう。アジア諸国の意向を尊重すべきだという人は多いが,タイもシンガポールもイラクに派兵しており,隣国韓国も兵を出している。日本がここで派遣を見合わせることのインパクトは非常に大きなものとなるだろう。

 国内政治的に見ても,政府は派遣を決めたのでそれはよかったが,もし派遣しないことになっていたら大きな問題であっただろう。というのも,先の11月9日の総選挙で連立与党は絶対安定多数を確保した。この連立与党は7月にイラク復興支援特別措置法を可決成立させている。有権者はその連立与党を勝たせたのである。そして小泉首相は一貫してイラクに自衛隊を出すと言い続けてきた。その小泉首相が国会で再指名された。その選挙を決めたのは我々有権者である。11月と今とではイラク情勢が違うという議論はあり得るかもしれないが,それは詭弁である。つまりイラク情勢を普通に見ている人であれば誰でも,一週間とか一カ月の範囲でイラク情勢が急速に悪化する可能性があることは分かるはずである。11月の段階で与党と小泉首相に信任を与えてしまった有権者は,意図していたかどうかは別にしても,政治的な決断を下したのである。民主主義の下で有権者は権利を持っているが,同時に義務も負っている。自分たちが下してしまった決断については,我々全体が責任を負わなければならない。これは総理が口約束で言ったなどというレベルでは済まない問題である。

 しかも選挙制度が数年前に変わり小選挙区になった。中選挙区なら一つの選挙区に自民党候補が複数いるから首相を支える主流派ではなく非主流派に入れたのだと弁解することもできよう。改選前の議席を下回ったら党内で責任論が浮上して非主流派の領袖が新たな総理総裁になって,前の総理総裁が下野するということはあり得た。しかし現在は小選挙区で選挙が行われており,その中の自民党候補は一人であるので,それで小泉首相を勝たせている有権者の責任は非常に重い。また今回の選挙ほど各政党がマニフェストや政権公約を訴えた選挙はないが,国内選挙でこれほど公約が重要であるならば,日本国が対外的に行った国際公約の重みについて日本人はもっと自覚を強めるべきであろう。

 日本はイラク復興支援に50億ドルを拠出すると言っているが,イラク問題にどれだけ積極的に貢献できるかが,今後の国連改革で日本がどれだけの発言力を担保できるかということにもかかっている。単にイラクへの自衛隊派遣問題を日米関係の文脈からだけ考えてはいけない。国連改革を含めた今後の国際秩序のあり方に日本がどれだけ関与できるか。これは文字通り日本の国益の問題である。また日本が堂々と主張できる国際正義の問題がかかっている。そのために自衛隊に行って頂くのである。万が一尊い犠牲が出るかもしれない。しかし我々はそれを覚悟で行って頂くという認識を持たなければならないのではなかろうか。

(4)イラク情勢の展望
 今一部で「イラクの現状はベトナム化している」「第二のベトナムだ」との主張があるが,これに対しては3つの点で留保を要すると考える。

 まず第一に,イラクで展開されているのはテロ行為である。イラクで起こっているテロは単に米英軍だけでなく,イタリアやスペインのような他の国々の軍隊,イラクの警察,国連本部,国際赤十字まで狙う非常に残虐を極めるテロ行為である。この相当部分をフセイン残党勢力が行っているとすれば,これこそフセイン体制の残虐性を示すものである。

 いまフセイン体制が倒れてイラクから国家主権という壁が取り除かれた。それによって世界中のメディアがイラクに入っているから我々は今フセイン体制の残党がやっている残虐性を自分達の問題として体験しているが,イラクにフセイン体制があって国家主権という壁があったときには,実は見えない壁の中で何十年もあのような残虐なことが自国の国民に対して行われていたのだ。その体制が倒れて,主権という壁が破れて剥き出しになった今,我々はその残党がやっているテロ行為に直面している。

 テロもやはり大量破壊兵器と同じように実際の物理的な破壊力よりも,人間の心に影響を与えようとする戦略・戦術である。それを考えると,我々が今のイラクの現状をベトナム戦争と同じだ,あるいはこれからベトナム戦争と同じように泥沼化してしまうと言ってしまったときに,既にテロリストの術中にはまっているのである。もちろん国際政治は精神論ではないので,我々がイラクを決して第二のベトナムにしないと言い張っても,実際は第二のベトナムのようになってしまうかもしれない。そういう意味で,我々の楽観論は大して役に立たない。しかし我々の悲観論は確実に自体を悪くする。楽観論に過剰に期待してはいけないけれども決して悲観論に陥ってはいけない。安易にベトナム化を口にすべきではない。

 第二に,ベトナム戦争はいつ始まったかがはっきりしない戦争である。米国が撤退したのは73年でサイゴンが陥落したのは75年であり,終わりの時点は割とはっきりしている。それでもトンキン湾事件から数えても米国のベトナム撤兵まで10年近くかかっている。イラクの状況はこの3月にイラク戦争が始まって今日まで高々9カ月であり,10年を越えたベトナム戦争と1年足らずのイラクの現状を今この段階で比較するのは極めて没歴史的議論であると言わざるを得ない。

 第三に,ベトナム戦争時のベトナムと今のイラクと何が違うのか。一番大きな違いは,イラクにホー・チ・ミンはいないということである。ベトコンたちは確かに米国を追い出すという目的で戦った。しかしその後にホー・チ・ミン率いるベトコンは,共産主義政権ではあったけれども,自分達の手でそこに国家建設をするのだという目標を持っていた。米軍を追い出した後,民族主義に裏打ちされた国家再建ビジョンを社会主義体制ながら持っていたのである。しかしイラクでテロをやっている勢力は米英軍や外国勢力を追い出すという負のエネルギーは持っていても,その後にイラクの人たちのためにどんな国家再建をするのかといういかなるビジョンも持っていない単なる破壊勢力である。従ってベトナムとイラクを比較するのは明らかな誤りである。米英が努力し,国際関与が深まり,それなりの効果を上げていけば,国民の不満はやがては無謀で無差別なテロを繰り返す勢力に向かって行くのではなかろうか。建設的エネルギーを持たないテロ勢力からイラクの国民が離反する可能性は高い。

4.最後に

 結論として,我々は米国の力を弱めてはならないし,それは決して日本の利益にはならないことを自覚すべきである。しかしながらいくら大きな力を持った米国でも,それが横暴で一方的な行動を繰り返していては逆に米国の威信を傷つけるし日本のためにもならない。従って,米国の力を傷つけないように米国を国際協調に向かわせるという非常に難しい課題が日本に突きつけられている。そのために日本は一方で国連改革を進めながら日米同盟を強化するという難しい外交的使命を抱えている。

 そのためにどうすれば良いかという明確な答えはないが,二つだけ述べておきたい。第一点は,我々が米国についてもっとよく知ることである。日米同盟は極めて重要であり,米国の影響力は国際政治上圧倒的である。これは誰もが自覚しているところである。しかし実際米国のこと,即ち米国の政治・経済・歴史について我々日本人がどれだけまとまった知識を持っているだろうか。これは大変疑問である。実は我々は米国のことをそれほど知らない。そのことが恐らく明治の建国期や昭和二十年頃の敗戦占領期の日本と今との大きな違いである。その当時の日本人は外に対する関心,外から学ぼうという努力,外を知ろうという意欲はもっと強かった。ところが今や日本は経済的な落ち込みに打ちひしがれながら,他国を知ろう,他国から学ぼうという努力が非常に欠けている。外国に対する感受性が非常に磨耗している。米国について知っているようで存外知らない。これは非常に大きな問題である。

 二点目は,日米関係を支えている人脈をもっと幅広く開拓していくことである。ワシントンで日米同盟についてコンスタントに関心を持ち,日米同盟が大事だと思ってくれている専門家や政策決定者は極一握りに過ぎない。日本側ではもちろん日米同盟の重要性については外務省を始め多くの専門家が自覚しているが,日本と米国では非常に大きな認識の落差がある。米国の中で日米同盟が大事だと思い,そのために汗を流してくれる専門家をどうやって広げていくか。これは政府だけでなく我々民間人を含めて,米国とのパイプ作り,人脈の多元化,開拓が大きな課題である。そしてその米国との協力なくしては日本が目指す国連改革も決して実現しないことは言うまでもない。(2003年12月11日発表)

 

注1 国連憲章

 第53条1 安全保障理事会は,その権威の下における強制行動のために,適当な場合には,前記の地域的取極又は地域的機関を利用する。但し,いかなる強制行動も,安全保障理事会の許可がなければ,地域的取極に基いて又は地域的機関によつてとられてはならない。もつとも,本条2に定める敵国のいずれかに対する措置で,第107条に従つて規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは,関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする。

 2 本条1で用いる敵国という語は,第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であつた国に適用される。
 第107条 この憲章のいかなる規定も,第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であつた国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし,又は排除するものではない。

注2 安全保障理事会 第4844回会議 安保理決議1151(2003年10月16日採択)(骨子)

○イラクの現状は,改善したものの,依然として,国際の平和と安全に対する脅威である。
○イラクの主権と領土の保全を改めて確認する。連合暫定施政当局(CPA)の責務と権限等は,一時的なものであり,国際的に認められたイラク国民を代表する政権が樹立され,その責務等を引き継いだ時,終了する。
○イラク統治評議会とその閣僚が,イラク新政権発足までの間,イラク暫定行政の主要な機関である。
○CPAに対し,実行可能な限り,速やかに,イラク国民に,統治の責務と権限を返還するよう求め,その進展状況を,安保理に報告するよう要請する。
○イラク統治評議会に対し,CPAと,事情が許せば,国連事務総長と協力の上,03年12月15日までに,イラク新憲法草案と,それに基づく民主的選挙実施の日程表と計画書を,安保理に提出するよう求める。
○国連事務総長に対し,この決議に基づく責任事項及び上述の日程表と計画書の進行と実施について,安保理に報告するよう求める。
○国連は,人道的支援,経済再建や持続的発展の促進及び代表政権の国・地方の機関の再生と設立の努力の推進等イラクにおける重要な役割を強化すべきである。
○この政治プロセスを成功裏に達成し,国連の持てる力を有効に発揮するためには,イラクにおける安全と安定の維持が不可欠であり,統合指揮下の多国籍軍に,そのために必要なあらゆる措置をとる権限を付与する。加盟国に,この国連指揮下の貢献を求める。
○安保理は,この決議後一年以内に,多国籍軍の必要性と任務を見直す。
 如何なる場合にも,多国籍軍の任務は,政治プロセスが終了した時終了する。多国籍軍の継続の必要性については,イラクを代表する政府の意向を考慮して検討する用意がある。
○治安を維持し,テロと戦うために有効な警察と治安部隊の創設は重要であり,加盟国及び国際・地域機関に対し,そのための訓練や装備について協力を要請する。また,これらの国や機関に対し,マドリッドにおけるイラク復興支援国会議等を通じ,イラクの再建支援を強く要請する。
○米国に対し,多国籍軍を代表し,少なくも6カ月ごとに,この部隊の努力や活動状況について安保理に報告するよう求める。