21世紀のパラダイム
―「農」の思想と都市再生―

東京農業大学長 進士 五十八

 

1.はじめに

 21世紀に入り早数年が過ぎたが,世界の諸問題はますます複雑化しており,解決の道が見えない状況にある。そこで私は,前世紀の問題点を反省しながら21世紀のパラダイムはどうあるべきかについて展望してみようと思う。結論を一言でいえば,20世紀は「工」の時代であったが,21世紀は「農」の時代とならなければならないということである。

「工」の時代の特徴は,工業が支配し都市が卓越した時代であり,その結果として地球環境問題が深刻化した。「工」の時代の問題点は何かというと,「基本的に人間は生き物である」という事実を忘れてしまったことである。生物としての人間という観点を捨象してしまったことは,致命的なことであった。それゆえ私は,生物的な自覚をしようと喚起して,さまざまな試みを実践している。そして地球環境問題を実践的に解決し,人間性を回復するためには,「農」の思想と発想が必要であると考えている。
以下,その考えの基本と実践についてご紹介しようと思う。

2.都市問題とその解決の道

(1)安定環境論
 私は「安定環境論」,「安定空間論」を唱えているが,それは「人間という生き物にとっての環境条件や空間条件には,特定の幅,すなわち安定域があり,この幅の外では不安定になる,さらには生きられない」という考え方である。まずこの点について考えてみたい。

「世の中には緑地が必要だ」とよく言われるが,それを科学的に立証するために,かつて私は,緑地がどの程度必要かについて調べたことがあった(注1)。その結論は,「300m四方を単位とする地域に,50%以上の自然面率がなければならない」ということであった。およそすべての地域は,建物や舗装面などの人工面と緑地や農地,河川などの自然面の二要素の割合と組み合わせで決まる。この場合,「自然」といっても,あえて緑にこだわる必要はなく,土,砂利,水などでもよいことが分かっている。自然面率50%を超えると緑充足意識がプラスに転ずる。しかもそれは,都市の健康,すなわち緑充足度,気候緩和,洪水防止,自然の水循環,生物棲息など多方面の機能を満たすミニマムでもあることが分かった。

 例えば,降った雨が地中に染み込むと,その水は水蒸気となって空中に蒸発する。そのとき熱を奪うので,ヒートアイランド現象が緩和される。空気があり,水が浸み込むような環境には,バクテリアも生きることができる。砂利面でも石の裏をひっくり返せば生物を発見する。このように生き物の生態系は循環している。端的に言えば,大地の水循環は水を通す地面があれば可能なのである。

 一方,太陽光によって急激に温度が高くなったり冷えたりする「砂漠気候」は,無生物状態を意味する。鉱物,無機物だけでは比熱が小さいために,太陽光が当たると一気に温度が上がっていく。そこに緑,水,土があると,比熱の大きいもの(温まりにくく,さめにくいもの)で地表を覆うことになり,それによって環境を安定化させることができる。そこは生物にとって暮らしやすい環境となる。

 また気温の環境でいえば,人間という体温36.5℃の動物の快適温度(comfort zone)は,18℃±3℃で,6度幅となっている。快適というのは,人間の生命活動がもっとも活発となり,適切な判断力,記憶力,肉体運動がきわめて調子のいい状態をいう。同様の快適値は,湿度,UV,騒音,CO2などあらゆる指標にあり,ヘンリー・ドレイフィスによって「ひと」のコンフォートゾーン幅が研究されている。

 私のいう「グリーンミニマム」50%を満たした都市地域は,緑充足感のみならず洪水防止や気温の安定,ヒートアイランド現象の防止等にもつながる。このように環境を安定化させるには,自然が必要なのである。人間は安定化した環境状態でないと生きられず,それが不可欠の条件となっている。

(2)都市化に伴う人間病理現象
 ところが近・現代になり大勢の人間が都市に集中して住むようになると,地表をハードカバーで覆うようになった。土に覆われいろいろな草が生えている畦道がよいと思っても,その道を一日に百人の人間が歩くようになるとそういうわけにはいかなくなり,ハードカバーで覆うようになる。その結果,都市はどんどんハード(コンクリート)に支配されていく。

 都市から緑が失われ,ビルなど比熱の小さいもの,エネルギー大量消費型都市になると,気温が激変するようになる。夏暑く冬寒く,エアコンをフル稼動せざるを得なくなり,もっとエネルギーを消費し,炭酸ガスを大量に排出することになる。過去100年間に地球上の人口は4倍になったが,エネルギー消費は25倍に増えている。都市に人間が集まり便利になったが,環境は破壊され,そこに住む人間にとっては却って生きづらく息苦しくなった。このようにして都市は,人口密度が高くなり過密状態になって崩壊の道を歩むようになる。

 人間は過密状態に生きるようになるとどのような行動を起こすかというと,犯罪,自殺,異常セックスを起こすようになる。このことはデズモンド・モリスという動物学者が指摘している(『人間動物園』,注2)。野生動物の世界では同類が殺し合うことはない。また異性を愛するのであって,同性を愛することはない。ところが動物園の檻の中に入れられた動物は,相手を殺す,とも食いをする,異常セックスをする(ホモ・レズが起こる)という。人間も同様である。特に,ニューヨーク,パリ,ロンドン,東京など巨大過密都市ではどこでもそのような現象が起きている。さらには精神病などの「都市病理」が起きてくる。これらはすべて過密を原因としている。

 人間という生き物も基本は動物であるから,存在する空間とそこに住む生物の個数とは関数関係にある。例えば,ある動物にとってそのテリトリー・えさが3匹分程度でちょうどいいというときに,そこに30匹,100匹というように個体数が増えた場合には,えさが不足し争奪関係となる。そこで彼らはどうするか。まずは相手を殺してえさを獲得する(暴力,犯罪)。またオスとメスが愛し合うと子どもができ頭数がどんどん増え密度が増大してしまい,却って自分たちも生きにくい環境(えさ,空間の減少)になるので,動物は本能的にそれを抑制するように働く。その結果,ホモ・レズが生まれ,独身主義者が増えてくる。これは人間も同様であろう。

 20世紀は都市化が進行した時代で,農村を都市にすることが発展だと考えた。そして都市に一極集中するようになり,日本では現在都市空間(約20%)に全人口の80%が集中するようになった。このように環境がコンクリート化した超過密状態では,都市病理が猖獗を極めることになる。

(3)三つの共生と都市再生
 このような都市過密問題を解決するためには,多自然居住,田舎暮らしの勧めなどを通して密度を下げ,自然と触れ合う機会を作ることが必要である。そこで私は,健全な社会を実現するには三つの共生が不可欠だと考えている。すなわち,

@自然共生:生物的自然との共生
A環境共生:資源エネルギーなど物質の共生と循環
B地域共生:発展途上国と先進国,農村と都市など異なった状況下の地域間の共生

である。特に,都市と農村との共生をも含めた「農業」と都市の共生が重要だと考えている。つまり,現代人の生活全般における「農」との関係の結び方,「農」のある都市生活スタイルの構築である。「農」にしかない自然性・循環性・生命性・撫育性(成長性)といった特徴を,人工的・無機的で非循環型の都市域,都市生活に導入し,新しい創造的関係を創り出さなければならない。

 その一つの例が,水と緑による都市の「エコ・シティー化」である。そこでは,省エネ,リサイクル,水循環,都市気候緩和,自然共生などのアプローチによる「環境共生都市」の実現を目指している。一例として,屋上緑化があげられる。都心の屋上空間は,空調など屋外機等の置き場となり,高所から見ると見苦しいディスアメニティーになっており,また未利用空間として無駄な場所でもある。これを一定以上緑化し集積することができれば,都市の微気候や雨水貯留など地域環境の改善に大きく寄与する。さらに私は,象徴的表現として,単なる屋上緑化ではなく「六本木ヒルズ」低層階では水田づくりを提案した。それは都市にも農が必要だという意味で,人間を含めた生き物はどこであっても,農と無縁には生きられないということを示したかったからである。

 生き物が生きるということは,食べることである。食べ物の根源は光合成作用にあり,植物中の葉緑体では,空中の炭酸ガスと光エネルギーと水で炭酸同化作用を行ってでんぷんを作る。そのようにしてできた植物をニワトリやウシがエサにして育つ。また地球上の大気中の酸素は,ほとんどが海の海草の光合成作用によって出てくる。このようにすべての基は植物であることが分かる。つまり緑があってこそ,地球の環境が安定化し,生き物が生きていけるのである。

 その意味では,人間という生き物は緑がなくては生きていけない。それが分かっているのに,都市の利便性,経済的なものへの欲求によって,次第に都市に集中してきた。そして今度は都市再生を考えている。しかし一般的には「都市再生」を景気浮揚策だと理解して,未だに都市に大きな高層ビルを建て続けることだと思っている。私にいわせれば,都市再生の本質は「都市の中における自然再生」でなければならないし,もう一つはたくさん自然のある田舎暮らしの勧め(多自然居住)である。

3.「農」の時代

(1)共生・循環型のライフスタイル
「農」の方法は,人間と自然とが上手にバランスをとって生きる方法である。ほどほどに自然を使い,ほどほどに文化・文明化する。道具・住まいを作り,集落を形成し,生産と生活を一体化させたコミュニティーをつくって一つのライフスタイルを創る。これが農の生活である。野生に生きる仙人暮らしを言っているわけではないし,極端に都市化された生活(artificial)だけでもなく,その中間的な立場に立った暮らし方である。これまで極端にアーティフィシャルな社会を作ってしまった20世紀型社会をほどほどに自然とつきあえる,ほどほどの農村的な良さや人間性(ほどほどの人口密度,人とのつきあい)をとり戻さなければならない。

 自然と人間の調和共存関係の原型(モデル)は農村にあった。農村のもつ自然性,歴史性,文化性,ライフスタイルとは,自然を上手に活かしながら暮らし,その土地の自然風土,自然災害ともうまく付きあい,農村生活の基盤づくりや村づくりである。そこには循環,共生,参加などの観点が全部含まれている。このように三つの共生を含む共生型・循環型のライフスタイルの原型(プロトタイプ)は,農村にあるのだから,農的なるものを学んでほしいと勧めている。21世紀に生きる文明人は,その原点に今一度遡ってほしい。

 これまでの近代科学者は,農村を遅れたものだと理解して否定してきた。そして,農村こそ文明化しなければならないと思い,農村をつぶし,脱農をすすめてきた。農村を最悪のものと喧伝してきた。例えば,戦後の学校の進路指導において,農業高校や農業大学に行く人はできの悪い人で,工業系に進む人が優秀だとレッテルを貼ってきた。評論家も「日本の米ほど高い米はない。米国の米を輸入すればよい」と言った。農業・農村の安楽死を叫んでいた。そのような人を世間も迎合していた。

 勿論だからと言って,私は都市を農村そのものに戻せといっているわけではない。その意味は,「農的なるもの」を取り戻せということである。私のいいたいことは「スローなまちづくり」,すなわち「ゆっくりした都市生活」である。適正なスケール,適切なスピードが大切で,環境の変化はゆっくりがよい。環境が激変するのは文字通り大変なこと。少しずつ風景が変わるのはよいが,今日あったものが明日にはなくなってしまうような極端な変化はよくない。

 例えば,地球の反対側から日本に飛行機で戻ってきた場合,疲れとともに時差ぼけを感ずる。これは文明のなせる悪い面である。飛行機で急激に移動したために,人間の体内のバイオリズムが狂って起きる症状である。人間の場合は,船旅のようにゆっくりと変化していくのはよい。適度な変化は好ましいが,大きな変化は痛みが伴う。

(2)「工」の思想と「農」の思想
 20世紀を支配した「工」の思想(テクノロジー,エンジニアリング)の基本的な失敗は,極限を追求したことにある。例えば,ジェット機のスピードであればマッハいくつ,新幹線であれば時速500kmを出そうととことんやる。ほどほど,適正,ということは我慢できない。極限の効率追求するという「工」の考え方は,農のそれとは根本的に違う。

 米は1反分から10俵収穫するのがよい。1反分から50俵を収穫することはそもそも無理だし,そのためには大量の農薬・化学肥料を投下しなければならない。そうすると一時的に多くの収穫が得られるかもしれない。しかし翌年からは土壌がだめになってしまうであろう。環境を持続可能なものにするためには,ほどほどで長くつきあう必要がある。一瞬の刹那的なものに喜ぶのが,都会人のもつ性質である。

 これまでの農業政策においても同様の傾向が見られた。1961年に農水省は農業基本法を立て,農業を工業化することによって農業生産性をあげようとした。例えば,大規模農地化,機械化,農薬・化学肥料の多投入などによって生産性をあげようと考えた。99年7月に新農業基本法(「食料・農業・農村基本法」)が成立し,ようやく「農」の環境・景観・生活・文化などトータルな価値を認めた。とはいえ,社会全体ではいまだ「農」の価値を軽視,または無視する論調も少なくない。

 わが大学では,毎年秋に収穫祭をやるが,そのとき学内にある豊受大神宮(伊勢神宮の外宮)に初物を供えて感謝する。一般には科学者は(唯物論になっているために)このような行為を否定するであろうが,わたしはこのように「もの」と「こころ」,サイエンスとテクノロジーとアートはワンセットでなければならないと思っている。

 人間には「身も心も」という表現があるように,肉体とともに精神もある。そうしたものがすべてバランスよく,有機的結合することによってトータルマンができている。しかしそれをすっかり忘れてしまった。顕微鏡だけをのぞいているようなものである。私は「顕微鏡だけではなく,レンズには,接写レンズ,標準レンズ,広角レンズ,望遠レンズなどいろいろあるのだから,それを場合に応じて使い分けられなければいけない」と言っている。多くの科学者は自ら顕微鏡になりきってしまった。それ以外のレンズを捨ててしまったので,世の中がおかしくなってしまった。科学者は科学万能だと考え,工業技術者も工業万能だと考える傾向が強い。

 EUのジャック・ドロール元委員長は,「通貨よりも大事なのは農業だ。なぜなら農業は文化だからだ」と言った。農業は文化であるから大事なのである。文化はその民族のアイデンティティーであり,生きる根源である。農業を経済,通貨としてしか見ないのは,愚の骨頂でしかない。別な表現で言えば,この見方こそが経済顕微鏡である。エコノミストは金しか眼中にない。

 03年9月下旬,私は国際会議出席のためウクライナに行ってきた。ウクライナは,一人当たりのGDPが世界128位という低水準国である。ところが実際は全く違う。ウクライナは国の経済の半分を農業に依存する農業国ということもあるが,食料面のみならず全てにわたって実に豊かな国であると感じた。ウクライナの自然と大地(風景),歴史と文化,生活と人々の交流の心の豊かさの根源に「農」があることを知り,改めて「農」からの豊かさを再認識したわけである。

 このように「経済」は,国の豊かさを測る一つの指標でしかないのに,エコノミストや政治家は,GDPがその国のすべての評価を決めるような錯覚に陥っている。私は本当の豊かさとは何かについて,エコノミストこそ研究してほしいと思う。GDPですべてが分かると思ったら大間違い。現実とは大きなギャップがある。

 これはWTOの議論でもいえることである。農業のトータルな価値を認識できない経済関係者が中心となって,世界の貿易交渉を進めている。どんな国にも農業は不可欠な存在である。農業(農地)こそそれぞれの国に一定量確保し,圧倒的な農業的土地利用をベースにすることで地産地消を目指すべきだ。全世界,どの国にも国土保全上農地が一定量不可欠である。国土の自然をすべて,人工的な都市空間にしてしまえば,地球環境問題はより深刻化するだろう。だから全世界が自給できる国土利用体制にすれば,地球は安定するのだ。米国のように農業を工業化して余剰生産物を大量に世界に輸出するような考えは問題である。農の思想こそグローバリィである。「農」は悠久なる地球全体史を通じた思想であった。それをみな忘れてしまった。工業文明,工学的発想に支配され,近代科学至上主義に支配された生き方を,何の迷いもなくよしと思い込んできた。

(3)分析する科学の限界
 全て学問は細分化し各分野固有のディシプリン(原理・原則)で,その世界を構築することに汲々としてきた。当たりまえの市民であること,生物であることを忘れてしまった。だから,心から本当の自然とは何か,本当の人間とは何かということを,深く洞察すべきだ。

 これまでは農業関係者自身,そのことを忘れていた。彼ら自身,「農」の思想に自信がなく,農業に劣等感を抱き,むしろ「工」と工業に近づこうとしてきた。大学でいえば,農学部の先生方が工学部や理学部にあこがれ,工学部的手法に乗り,理学部的な細分化された基礎研究のみに没頭するようになってしまった。例えば,イネの研究をするのに,葉,茎,根をそれぞれ別個に研究を進めた(理学部的思考)。また,イネを機械として認識して最大いくつまで籾がつくかと極限まで追求した。そうしたことを早くから見据えて,横井時敬(1860-1927)(注3)は「農学栄えて農業滅ぶ」と言った。

 農学のみならず,あらゆる学問がこのような道をたどってきた。21世紀に入り,20世紀の近代科学の発展が本当によかったのかを反省すべきときである。平和問題でいえば,軍事産業は全てのハイレベルの産業に支えられている。科学者は一体何を考えているのか。原子力が悪用されることを考えなかったのか。性善説に立てば,「科学者は正直にやったのに悪用された。悪用した者が悪い」となる。しかし作られたものは必ず悪用されるということを見通しながら進めるのが真の科学者でなければならない。

 現代社会における科学者のあり方を考え直さなければいけない。それゆえモラル,倫理が叫ばれるようになった。しかし私は,倫理だけでは足らないと思う。倫理は単なるけじめでしかない。もっと深く人間・社会を洞察すべきである。ある対象だけに限定して,その中で頑張ればいいという研究者的功名心の人が多い。私自身もこれまで,多くの論文を書いてきたが,昔書いたものはやはり分析型であった。細分化された研究ばかりやっていると,やはりどこかおかしいと感じるはずである。

 実例のひとつに,防災・防火効果のある樹木についての実験がある。木の葉の燃えるまでの時間について研究したグループがいた。木の葉の燃えるまでの時間に若干の差があっても,間もなく木は全て燃えるということ。しかも都市の中の緑は,単に防火だけのためにあるのではない。春夏秋冬と,季節感をかもし出す情緒的効果こそ大である。それを防火効果の大きい種類ということでその樹木だけを植えよという。研究者,専門家ほど,そのことの問題がわからなくなっている。部分の結果で全体を律してしまうのは極めて危険である。

4.体験教育と環境市民

(1)体験教育の重要さ
 私の編著,『環境市民とまちづくり』(注4)の3部作は全部,環境実践の体験的自分史を市民に書いてもらい,それらを三つの共生に分けて編集したものである。環境問題に関しては知識ばかりを教育しても,必ずしもアクションにつながらない。自ら体験した喜び,活動仲間との連帯を書いてもらうことに主眼を置いた。環境問題について多くの人は知識としてはよくわかっているのだが,行動するという肝心なことに結びついていかない。それは頭だけで理解するからだ。「腑に落ちる」というとおり,本当の理解は頭ではなくて,腹・こころでするものである。腑に落ちれば行動につながる。今日の教育の最大の弱点は,知識ばかりを与え体験が伴わないし,行動に結びつかない点にある。

 その原因は,大学人にもある。大学の研究者は,環境問題を研究対象としてしか扱っていない。その反省の意味もこめて,私は最近「田園再生自然活動コンクール」(農水省主催)の審査員をはじめさまざまな市民的実践活動に積極的にかかわっている。また学生に対しても,できるだけ体験をするように促している。

 なぜこのようなことをやるのかというと,本物の学生を作りたいからだ。現代において本物はNPOや市民の中にあり,研究者や専門家だけでは不十分だと思う。それで体験の豊富な市民やNPOの人にも,農大で客員教授・非常勤講師として教壇に立ってもらう。また農村で地道に普及実践してこられた方やJICA専門家として海外体験の多い卒業生にもきてもらう。顕微鏡をのぞいて論文だけ書いたような研究者だけでは,偏ったものにならざるを得ない。それ故これまでの大学は「象牙の塔」だと揶揄され,世の中の役に立たないものだとイメージがつけられたのである。これからは本物を追求しなければならない。

(2)教養としての「環境」
 そこで私は『環境市民とまちづくり』(全3巻)という本をつくった。そして農大の学生に対しては,環境コンクールを実施し,環境を実践的に体験した学生に賞金をあげている。環境とは,人間を主体とすれば,その周囲にあるすべてのものを指す。つまり社会的事象から,自然的なもの,都市的なもの,田園的なものなど全てを含む。すべてのことをバランスよく考える力をもつ市民,学生をつくらなければいけないと考えている。それは人間をトータルに見る,つまり「トータルマン」の考えからきている。

 私の考える教育の目標は「環境学生」(注5)をつくり,卒業したら「環境市民」に成長するような素養を与えておくことだと思うのである。環境への関心と体験は,一人前の大人の必要十分な教養であると考える。そのためには,体験教育が一番。クルト・ハーンは「子どもたちに大人の考えをおしつけてはならぬ。ただし,体験することだけは強制すべきである」といっている。学生はまず,すべてのことに関心を持ち,特に「農」に深い愛情を持つ環境学生となり,その上でそれぞれの専門分野の花を咲かせる。そのような人が増えてくれば,日本も世界もよくなっていくに違いないと確信する。そのような社会が真の豊かな社会となる。

5.最後に

 「理想的な環境を創る」,これが私の専門である「造園学」(landscape architecture)の究極の目標でもある。その対象は,狭い「庭」から次第にその範囲を拡大して,公園,田園,自然,国土,さらには地球環境へとつながっていく。それらは生態学的にエコロジカルシステムになっており,ミクロからマクロまで連続している。そして自然と人間の理想的な関係を追求する。好ましい状態を「アメニティー」という。その語源はアモーレ(愛)である。つまり愛のある世界,アメニティーをどうやって創り,守っていくか。これが我々の仕事である。

 最近私は『庭園の島』(注6)という本を出したが,それは広島県下蒲刈町という2000人程の小さな島の町おこしを14年前に私が計画しその成果をまとめたものである。かつて朝鮮通信使が何度も滞在した島でもある。その歴史を活かしつつ市民参画事業として島全体を庭園のように美しい島にした。そうしたら観光客もたくさん来るようになった。この事業を“Garden Island Shimokamagari”といっている。これを日本中に拡大すれば,真の意味で“garden island Nippon”となるだろう(注7)。

 理想的環境を「エデンの園」(garden of Eden)ともいうが,その意味はガードして守り(gan),その中を喜びであふれさせること(eden)である。そこからgarden city田園都市・庭園都市が出来た。gardenは「安全で快適な世界」という意味である。われわれは,日本中,世界中をgardenにすることを目指しているのである。
(2003年10月30日)

 

注1 進士五十八,「住環境におけるグリーン・ミニマムについての研究」『造園雑誌』38(4),日本造園学会,75年3月
注2 Desmond Morris, 1928- , 英国の動物行動学者。バーミンガム大学卒後,オックスフォード大学にて博士号取得。67年『裸のサル』がベストセラーとなった。著書には『裸の眼―マンウォッチング』『人間動物園』『セックスウォッチング―男と女の自然史』など多数。
注3 よこい・ときよし,1860-1927,農学者。熊本藩に生まれ,熊本洋学校,東京駒場農学校卒,福岡農学校,福岡県農業試験場勤務等を経て,1884年東京帝国大学農科大学助教授,ドイツ留学後,同教授。1911年東京農業大学の初代学長に就任。農本主義に立ち,農民教育に尽力した。主な著書に,『稲作改良論』『重要作物塩水選種法』『農学汎論』など。
注4 編集代表・進士五十八,『環境市民とまちづくり』@「自然共生編」,ぎょうせい,02年11月,同A「環境共生編」,03年4月,同B地域共生編,03年3月
注5 東京農業大学編集,『環境学生のススメ』,ぎょうせい,03年4月
注6 進士五十八/竹内弘之,『庭園の島−21世紀日本のまちづくりモデル ガーデンアイランド』,マルモ出版,03年4月
注7 国土庁の国土審議会は,新世紀の全国総合開発計画を「21世紀の国土のグランドデザイン・地域の自立の促進と美しい国土の創造」(98年3月閣議決定)として公表した。その中で,地域自立の促進政策として「多自然居住地域の創造」が,また美しい国土の創造策として「ガーデン・アイランド日本」が掲げられている。特に,「多自然居住地域」について同計画は,次のように述べている。「中小都市と中山間地域等を含む農山漁村等の自然環境に恵まれた地域を,21世紀の新たな生活様式を可能とする国土のフロンティアとして位置づけて,地域内外の連携をすすめ,都市的サービスとゆとりある居住環境と豊かな自然を併せ享受できる誇りある自立圏域,すなわち“多自然居住地域”を創造する」。