学校で奉仕活動にどう取り組むか

北海道浅井学園大学教授  山谷 敬三郎

 

1.現代社会の状況

(1)人間関係の希薄化
 子どもたちのとのかかわりの中で,最近非常に気になっていることは,人間関係の希薄化である。そしてそれが現代における子育て上の大きな課題となっている。

 例えば,教師と子どもの関係でいえば,その人間関係は二つの側面からとらえることが可能である。一つは,役割上での交流である。教師の役割には,我々までの世代が築き上げてきた文化を正確に次世代に伝達すること,そして新たな文化を創造していくことのできる能力を子どもたちに身につけさせることがある。そのような役割を仕事の上で教師はしっかりとすすめていくことが重要である。

 もう一つ人間関係をうまく築いていくためには,感情の交流が必要である。これはカウンセラーとしての役割がその最たることととらえることができるかもしれない。例えば,始業のチャイムが鳴って,子どもが不安そうな顔をして私の前に来たときに,「今は授業の時間だから教室に戻りなさい」と言ったとしよう。これはカウンセラーの役割を果たしていないし,感情交流もしていない。カウンセラーとして重要なことは,子どもたちが不安な状況に陥ったときに,子どもたちの感情をどう受け止めるかである。これは大人同士の関係でも同様で,よい人間関係ができるためには,お互いの役割交流がきちんとできることが大切であり,さらに,感情交流がうまくできるということも必要である。

 このような観点から見た場合に,今の子どもたちは少子化で仲間が減少しており,家族を取り巻く人間関係も欠如している。それはすなわち,役割交流,感情交流(の機会)がなくなってきていることを意味する。これが今の子どもたちを取り巻く社会の現状である。

 地域社会には便利で自由な空間ができたのであるが,現代は一人になることが非常に多い。何かをするときに,一人であるために冷たく,さびしい,そのような空間が増えている。例えば,地下鉄の通路の端の方で高校生が喫煙していたとしても黙って見過ごしてしまうような風潮のことである。そのために何をやっても自由であり,そして一人で生活するには便利な社会になったが,地域社会の大人,教師,親(保護者)が子どもたちを見守る空間が逆に狭まってきた。便利な社会は,今後も益々便利になっていくであろうし,そのような恩恵をわれわれが享受できること自体は,何も悪いことではない。それはわれわれの先輩の方々が必死の努力を傾けた賜物であるので,それを批判しているわけではない。しかしそのような豊かな社会の影の部分が今日になって非常にクローズアップされてきたのである。

 子どもたちの健全な成長にとって大切なこととして,逆説的な意味で「不便さ」というものがあってもいいのではないかと考えている。というのは,不便さは工夫を生み出す動機となるからである。そして規制の中で他律を感じ取りながら自律というものを受け止めていく。2歳くらいの子どもがやっと歩き始めたころに,母親の視線を気にしながらも少しずつ母親のもとを離れて,少しずつ仲間のいる砂場に行く。母親の方を振り返りながら,自分の物理的空間を拡大していくさまこそ,子どもたちがチャレンジする姿なのではないか。このことはわれわれ大人にも言えることである。私どもが何か新たなことにチャレンジしようとするときには,それを支えてくれる誰かがいるとか,もしくはそれまでの努力を認めてくれる確信があるからこそ,チャレンジすることが可能なのである。

 子どもに必要なことは,不便で規制はあるけれども,温かく見守られているような環境を作っていくことである。このようなことは,われわれがカウンセリングしていく中で非常に重要な課題である。学習塾,学習教材は溢れるほどあるのだが,人間関係を学習する機会はそれとは反比例してきわめて少なくなってきているのである。

(2)家庭における子育ての変化
 大阪教育大学附属池田小学校の事件(2001年6月)では,子どもたちの目前で起こった殺人事件から受けた子どもたちの心的ストレスを解消するためにカウンセラーが働いている。その中の一人に私の友人がいる。その彼によると「地域の中で子どもたちを支えてくれる人(サポーター)がなかなかいないことが一つの課題だ」と言う。これは大阪に限ったことではない。われわれの身近なところでの問題でもある。もう一つの問題として家庭における子育ての問題が気になってくる。

 こうした凶悪事件を起こす犯人の生育歴を調べてみると,親を自分が成長していく上での一つのモデルとするような成長の仕方をしていないことがわかってくる。つまりテレビ,コンピュータゲーム,ビデオなどの過激な暴力シーンのある中のヒーロー,バーチャルな世界のヒーローなどを,あたかもこの世にも存在するかのようなモデルとして育ってきている側面は否定できない。

 私ども男性にとっては,父親はある意味ではライバル視する存在でもある。しかしいつしか知らず知らず,父親の生き方が道徳的生き方の一つの基準になっていく。このことをフロイドは「エディプス・コンプレックス」と言った。これを克服することを通して,父親の生き方をある一つの道徳基準,社会の中の生き方として身につけていくのである。このことを経験せずに大人になっていく子どもたちが非常に増えている。このようなことが凶悪犯罪を起こす青少年の生育環境の一つの特徴となっている。

 例えば,宮崎勤の事件で彼の部屋が紹介されたときに,彼の部屋の壁4面全てがおたく漫画,アニメのビデオでびっしりであった。それらに描かれている主人公を自分の成長モデルとして,現実の中の人物のように受け止めていたのではないだろうか。また新潟県で約9年余り女性を監禁していた「女性監禁事件」では,佐藤宣行被告の両親が自分の家の2階に見知らぬ少女がいることを9年間も黙認していたのである。知っていてそれを口にすれば,子どもから逆に虐待を受けるのではないかという恐れから放置していたのであり,親としての役割が欠如した中で育った事例と言える。今の子どもたちの中には,親の代わりにテレビ,コンピュータ,ゲームの中の主人公を同一視して育つしかすべがない子どもたちが徐々に増えている。

2.「こころ」の理解と豊かさ

(1)「こころ」を理解するために
 カウンセラーとして私は,子どもたち,保護者の方々,先生方と面接する機会がよくある。私は「こころ」というものを「その人の反応の総体」として捉えようと努力している。その際人の心の働きを,いくつかの窓口を用意して面接し,理解するように努めている。こうした「こころ」の理解についても,またカウンセリングについても,さまざまな理論や療法がその背景にある。私の場合,折衷的方法で取り組んでおり,「感情」,「思考」,「意欲」を窓口として取り扱っている。

 まず「感情」は,その人があるものごとに対してどのような思いを持つのかということに関して,その人の表情,言葉から理解している。次に「思考」は,その人がどのような考え方をするのかということを確かめながら面接をする。「意欲」については,私は二つの言葉が合成してできていると考えている。つまり,「意」は意志といわれるものであり,あるいは理性といってもいいだろう。また「欲」は,欲求,欲動(衝動)であり,それを意志の力によってどう制御するのかということである。人間はそれらの作業を心の中で無意識あるいは,意識的に行っている。

 「思考」については別の観点から解釈すると,私たちの頭の中には二人の人間がいて,AさんとBさんがお互いに問いかけ,応えるという作業をしている状況ととらえることができる。したがって表に現れた形を「対話」と称し,自分の頭の中ではAさんとBさんとが「あーでもない」「こうでもない」とさかんに考えながら,自分の行動に向けて考えを練り上げていく。それが思考なのである。

 これらをカウンセリングの中で受け止め,その人の「こころ」を理解しようと努めている。内面的な感情・思考・意欲は,最終的には言葉や行動に表れてくることから,行動の理解や行動の仕方を中心に治療的かかわりを強調する理論や療法もある。時としてそのような方法をとることもあるが,私の場合は,行動の裏にある感情,思考,意欲を理解しようという姿勢で対している。どちらかいうと,感情面から受け止めていこうと努力し,徐々にその人がどのようなことを考えて,そしてどのような方向に柔軟に解決していきたいと思っているのかということに話を進めていくことにしている。しかし,初対面でこれらのことが全て理解できるのではなく,一進一退で進んでいくのが通例である。そこで必要になるのが信頼関係である。

 カウンセリングをするということは,子どもたちにとって本当に身も心も安心して任せられる社会的に信頼できる人間でいられるかどうかということである。さらに敷衍すれば,そのことは,家庭では両親の役割であり,学校では先生の役割ということができる。家庭で虐待を受けている子どもたちは,身も心も安心して任せられるはずの親から時には虐待を受けることがあり,そうなると自分自身が置かれている境遇に関してどこ(誰)にも何も相談できない状況に追い込まれてしまう。そういう子どもが,身も知らぬ人間(カウンセラー)に家庭での虐待を告白できるところまでたどりついたときに,カウンセリングを途中でやめることはできない。

(2)豊かな「こころ」の条件
 豊かな心というものを考えた時に,上述の三つの窓口が大きく関連しているということに気づいた。豊かな心の持ち主は,さまざまなものに対して感情が非常に豊かであり,感情が多種多様に用意されていることが必要である。例えば,道端に咲いている一輪の花を見ても,その美しさを感じ取ることができる人は,感性が豊かで,心の豊かさに通じる。また道端に落ちているゴミを見ても何も感じずに通り過ぎる人は,そういったものに感じる感性が少ないといえる。困った老人がいればその人に対してそっと手を差し伸べられるような心の持ち主は,感情の豊かな人だといえる。

 その感情の中でも,特に今の子どもたちにできるかぎり多く味わってもらいたいことは,仲間とともに感じ取れる達成感,成就感,喜び,くやしさである。人間関係が希薄化する中で,私たちは個人としていろいろな喜びを受け止める場面はそれなりにある。例えば,テストで自分の点数がアップすればうれしいと思う。しかしその喜びは,周囲にクラスの友だちがいれば泣いて喜ぶほどの喜びにはならない。ところが,学校の文化祭,体育祭などで,自分のクラスが総合優勝したという場合,あるいは学級新聞で金賞を取ったという場合は,周囲に他のクラスの子どもがいようが,先生がいようが,涙を流して喜ぶことができる。このような喜びをどのようにしたら子どもたちに味わってもらえるのか。あるいは逆に,残念だったという悔しさでもいい。そのような思いを子どもたちに味わわせることがとても大切だと思う。

 感情とともに,思考も多様に用意される必要がある。ワンパターンの思考には,やはり心の豊かさを感じとることができない。上司や先輩に相談に行ったときに,いくつかの考え方を提示し,「自分ならこのような考え方をするが,それについてあなたがどのように判断するかは,君の考えなのだ」というようなアドバイスをしてくれるのであれば,その人に対してなるほどと心の広さ・豊かさを感じることができる。

 また欲求・衝動に駆られて行動するような人間に対しては,私たちは心の広さを感じ取ることができない。これらのことをまとめて言えば,多種多様な感情を持ち,それが土台となって思考を突き動かし,自分の衝動を抑えて一つの行動に結びつくような,一貫性のあることが重要となる。つまり,感情,思考,意欲がそれぞれ連携を保っているということである。

 またバーチャルな世界だけに浸っているのではなく,現実世界に立脚しながら,自ら行動を取ることができることも大切である。さらに自分も他人もともに幸せになれるということの判断ができることも大切な要素である。
以上のような人間像が,奉仕活動を通した学校教育全体の中で目指す方向であると考えている。

3.ボランティア活動の意味

(1)ボランティア活動における継続性
 私自身もほんの小さな範囲でボランティア活動に従事しているが,次の5つに留意しながら学生と行動をともにしている。それは,@ 自発性(主体性,自由意志性),A 無償性(非営利性,非配当性),B 公共性(普遍性,公益性),C 開拓性(先駆性,開発性),D 継続性(日常性,責任性)である。

 その中でも,何よりも大事にしたいと思うことは,継続性である。私は「あなたがボランティア・奉仕活動をやるならば,打ち上げ花火的なことはやめよう。とにかくあなたのできる範囲でいいので,継続することを通してあなたなりに貢献できる責任を果たしてほしい」と学生に伝えつつ進めている。

 これは子どもとのかかわり,不安・悩みを抱えている人とのかかわり,そして学校の先生の日常のかかわりにも共通している。自分がその子どもと何かかかわっていこうとする時に,継続性を大切にしてほしい。もちろん,それは,毎日でなくてもいい。1週間に一回でもいい。不安を抱えている子どもにきちんと自分の時間を割いて彼に声をかけてあげるなど,少しずつでも継続して行っていくことが大切なのである。つまり,学校として責任を自覚しつつ,日常的に,継続的にやっていくことができるかを重点的に考えなければならない。

(2)学校での活動で子どもたちに感じてほしいこと
 小・中学校であれ,高校であれ,大学であれ,教師が気をつけなければいけないことは,どうやって子どもたちの自尊感情や自己肯定感を育てていくかということである。子どもたちの中にこのような感情が芽生えていれば,自分から進んでさまざまな活動にチャレンジしていくことができる。それは成就感,達成感を味わわせること,これがとても大切だからである。しかし大人は,何ができたかというよりは,何ができないのかにより関心が行ってしまいがちである。

 例えば,子どもに玄関掃除をやらせたとしよう。掃除が終わったときに,母親に「終わったよ」と報告した。すると母親は,「玄関掃除は靴もそろえて終わりだよ」と答えた。おそらく子どもが脱ぎっぱなしの靴をそのままにしてその周りをほうきで掃いたのがわかったので,そういったのであろう。そのため,やったことを誉めずに,不足な点を指摘した。このようなことはよく見られると思う。評価は教師の特権であるから,きちんと評価しなければいけない。しかし,それは後からでもいいのではないか。「きれいに掃けたね。でも靴もきちんとそろえられるともっといいね」という方が,子どもにとっては自分のやったことを認めてもらったという思いが残る。

 大切なことは,子どもたちが何か活動をしたとき,特に自分から進んで何かをやったとき,場合によっては,私たちから何かやるようにいったとき,その出来栄えをきちんと「認める」「受け止める」ことなのである。そのためには,「その子なりの努力」と「その子の能力」をきちんと判断しなければならない。

 このようなことをさまざまな活動の中で少しでも実践することが,子どもたちの心の中に豊かな心を育むことにつながると思う。最終的には体験活動,奉仕活動の中で,このようなことが認められることが必要なのではないかと思う。そのようなときに,教師や親は子どもにとって何ができるのかということを見極めて,その子どもの活動のどの辺が課題なのかを見極めながら指導計画を作っていくことが求められる。

 しかし子どもたちは,同じ課題に対して,乗り越えるべき壁として受け止める子どももいれば,乗り越えられない大きな壁として受け止める子どももいる。前者は,ストレスを「ユーストレス」(eu-stress)として受け止めている。しかし後者は「ディストレス」(distress)として受け止めている。この差はどこから来るのか。それは,この子どもを支えてくれる人間がいるかどうかが分かれ目になっている。つまり自分を暖かく支え見守ってくれる人間が周囲にいる子どもたちは,一人一人が課題に挑戦するような子どもに育っていくのである。

(3)好奇心と応答性のある環境
 学校は知識・思考方法・問題解決法などを教えるところである。しかし発見・発明の動機(好奇心)そのものについては,教えてくれない。発明や発見につながる活動で一番大切なものは何かというと,知的好奇心,探求心をいつまでも捨てずに努力していくこと,子どもたちが本来的に持っている知的好奇心や探求心を根絶やしにしないことである。これは別の表現で言えば,応答性のある環境をいかにつくるかということになる。したがって,家庭においても子どもが「なぜ」「どうして」と聞いたことに関しては,親はできる限り分かる範囲で答える親の姿勢が大切になってくる。

 「こころ」の理解の部分でも述べたが,思考力というのは,言葉がもとになっている。それゆえ言葉を大切にすることも重要である。言葉遣いを通して,論理性や思考力が育つことを忘れないでほしい。そのためにも,家族とできるだけ長い言葉でコミュニケーションすることが大切である。不機嫌な時や気分が悪い時には,単語だけとか短い言葉で気持ちを伝えることはあるが,それでもちょっと工夫・心がけで変わってくるものである。そうすることで子どもたちとの関係にも必ず変化が現れてくるはずである。

4.最後に

 私は学校教育活動の中で奉仕活動をするのは大賛成である。これは行動を通して「思いやりの心」,「社会的共感性」を育てるための絶好の機会だからである。加えてもう一つ大切にしたいことは,そのような思いやりの心や社会的共感性を子どもたちがもつことができるためには,子どもたち自身が自分の気持ちが理解されてうれしいというような体験,機会がなければならない。

 例えば,奥さんがご主人のために一生懸命弁当を作ったとしよう。その弁当をご主人がおかずなどを残したり,何も言わずに弁当を返すと,なんとなくうれしくない気持ちが残る。しかし,弁当を作ってくれたときに,「玉子焼きの味付けがおいしかった」と言葉をかけてくれると,作った奥さんとしてはうれしい気持ちになるであろう。次の時にはさらに一工夫するかもしれない。

 他者から誉めてもらうこと,自分がやった努力や思いが理解されてうれしいという体験は,次の行動へとつながっていく。このような体験を子どもたちに味わわせる。体験的奉仕活動は,そのための絶好の機会となる。日常生活の中でも,そのような観点に目配りをしていくことが,奉仕活動をより深め,大切にするとともに,その意味あいが子どもたちに伝わっていくのではないかと思う。
 (2003年7月8日発表)