良心を育てる教育

神奈川大学講師 加藤 一雄

 

1.はじめに

 ここ数年,子どもたちの荒れ方がひどい。また毎日の新聞を読んでいると,親の子どもに対する虐待,子どもの親殺し,大人が大人をそして子どもが子どもを殺す・・・など,あまりにも痛ましい記事に出会わない日がないほどである。「人を殺してみたかった」とか,「なぜ人を殺してはいけないの? テロや戦争で大人はたくさんの人を殺しているじゃないの!」という子どもたち。

 人類歴史上には,「汝,人を殺すなかれ」(殺生戒),「汝,盗むなかれ」(正義),「汝,うそをつくなかれ」(正直)などのいわゆる「黄金律」という普遍的な価値観があった。この黄金律は,古今東西を問わず,またあらゆる時代を超えて通じる内容であり,それらは道徳教育,倫理学の基礎になるものであった。

 しかし昨今の現状を見てみるときに,そうした倫理・道徳の黄金律が崩壊寸前の状態になっており,ほとんど機能していないことがわかる。「汝,汚すなかれ」といっても,公共の場における落書き,家庭排水などによる水質汚染,排気ガスによる大気汚染などを平気でする。「汝,悪いことを繰り返すなかれ」といっても,子どもたちだけではなく,親も政治家も企業家も同様に,「みんなやっている。私だけがどうして悪いの」と反論する世の中である。

 このように家庭を始めとした社会の根幹が崩壊寸前の世の中にあって,一体私たちはいかにして黄金律を教えていくことができるのか。単にきれいごとを並べて諭そうとしても説得力はない。却ってむなしくなるだけである。そこで私は,「良心」を育てることを核にした教育を考えながら,それに対する新しい解決の道を探りたいと思う。

2.人間の二面性

(1)人間の持つ弱さ
 現代の社会においては,強者が弱者を支配する構図が,われわれの身の回りの人間関係から始まって世界のレベルまで支配している。「テロ」はある意味で,強者のやり方に対する弱者の側の一つの抵抗形態と解釈することができる。国家,政治家,学校の教師,親,子ども仲間・・・,すべて強者が弱者に向かって(弱者に対する配慮を欠いたまま)強大なヒエラルキー(ピラミッド型構造)の社会を形成してきた。

 しかし,われわれの先輩たちにはそうした社会の中にありながらも,弱者に対する暖かい目をもった人たちもいた。例えば,江戸時代の俳人小林一茶は,次のような句を詠んだ。
「やれ打つな 蝿(はえ)が手をする 足をする」

 われわれが日常生活において無意識に殺しているハエやゴキブリも,一茶の目から見ると「蝿が手をこすり 足をこする」ように見えたに違いない。
「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」

 この句を読むと,現代の交通事故を象徴しているようにも思える。すなわち,雀の子は人間で,お馬は自動車に置き換えて読み取ることができよう。

 また西洋では,A.シュバイツアー(1875-1965)が挙げられる。彼はアフリカにいた時に,自分の腕にたかった蚊を殺さなかったという。それは一匹の蚊にも「いのち」があることを感じていたからであろう。

 両者とも小さな生き物の中にも尊いいのちがあることを感じており,彼らはいつも弱者の味方であったと思う。

「やせ蛙(がえる) 負けるな一茶 ここにあり」
 人間は誰でも年を取れば体が弱り,さまざまな困難が大きくのしかかるようになる。また子どもの時代は,人の手を借りなければ生きていけない弱い存在である。
 こうした人間存在を相田みつをは,「弱きもの人間,いざとなると人間は弱いからねぇ」「躓いたっていいじゃないか。人間だもの」「アノネ,なるべくなら うそは ないほうがいいんだなあ。オレ,そんなことをいう資格は ないけどね」などと表現した(注1)。

 また山口県長門市の仙崎に生まれた詩人金子みすゞは,次のように表現している。漁港に大漁でたくさんのイワシ(鰯)を獲った漁船が入ってくる時に,彼女は港の倉庫の陰で日向ぼっこをしながら,大漁と騒いでいる大人を見つめ,また海を見ながら,「海のなかでは/何万の/いわしのとむらい/するだろう」という詩を書いた(注2)。われわれはふだん平気で鰯を食べているが,海に残された鰯が「とむらいをしている」とまでは普通考えない。弱い魚である鰯に向けるみすゞの暖かな眼差し。これが人間の持っている重要な感性としての視点である。

(2)いじめ
 ここでこの観点から,いじめの問題を少し考えてみたい。
先述したように,地球上のすべてが強者の論理で動いている。強者と弱者の関係は,昔もあったし,今後もおそらくなくならないであろう。ここで重要なことは,強者と弱者の関係をどう同一化するかということにある。

 いじめで言えば,かつては弱者(いじめられる子)の中にも強者に対して跳ね返す気力があった。またかつてはいじめっ子といじめられる子との間に必ず仲介者がいたもので,仲介者の子はいじめられる子をかばう存在であった。ところが今ではそのような存在がいなくなってしまった。自分がかわいいために余計なことには容喙(口出し)しない人が増えた。そして仲介者ではなく傍観者になった。いじめをじっと見ているだけで,中にはけしかける者もいる。

 このようないじめっ子といじめられる子との関係を,生徒指導の教師はカウンセリングの手法を用いて,いじめっ子には「もう,いじめないように」と指導し,もう一方のいじめられた子には「おまえにも,いじめられるようなところがあるからいじめられるのだ」などと,絶対言ってはいけないことまで言っていた。その結果,いじめられた子は,引きこもり,自傷行為などに走ることになる。加害者の方も,仲間を連れてますますのさばり,集団ではなく「群れ」になる。群れになると彼らは,「汝,殺すなかれ」といっても,平気で邪魔だからと言っては殺し,「盗むなかれ」と言っても,集団で万引きをし,「うそをつくな」といっても「国会議員がうそをついているのに・・・,どうして俺が本当のことを言わなければいけないのか」といって,そんなことには耳を貸さない。このように生徒指導で,いくら対症療法的にいじめっ子を止めようとしたり,いじめられた子に元気をつけさせようとしても,従来のやり方では限界がある。

(3)人間の素晴らしさ
(1)で述べたように,人間は弱い存在である。ソクラテスが「汝自身を知れ」といったのも,それは「弱い自分をまず知ることが大切だ」という意味であった。しかし,人間にはそうした弱い側面だけがあるのではない。人間には二面性があり,もう一つの側面,すなわち,よい方向に伸びていこうとする素晴らしさも秘めた存在なのである。

 そこで私は,そのようなことから「人間って素晴らしい」と人間賛歌を詠んだ(注3)。その中で私は,「この美しいもの人間,この強きもの人間,素晴らしきもの人間,気高きもの人間,崇高なもの人間。この人間の尊厳の本質はいのちである。」と表現した。

 生命の神秘という点から言えば,人間にとって<性と生>はワンセットであるので,それに真正面から取り組むことが大切である。また<生と死>もセットで考える。そして「死の教育」(death education)で死の教育だけを進めても片手落ちである。思春期のころはちょっとしたことで死への願望があるので,死の教育だけでは危険である。児童・生徒の中には「自分は生まれてこなければよかった」と思っている子どもが約25%いると言われる。死の教育とともに人間として生まれてきてよかったという喜びの側面も味わわせることが大切である。その部分が欠けてはいないだろうか。

 このように人間は,強さと弱さ,ジキルとハイド,昼と夜,光と影,創造と破壊という両面を持つ存在である。獣のような人間の中にも,神的なものがあり,それが「良心」である。その良心をマルチン・ハイデッガー(1889-1976)は,「良心の呼び声」といい(注4),E.シュプランガーは,自己の内面からの声であると同時に「神の声」と呼んだ(注5)。昔の日本人は,自分の中にいる神様を指して「お天道様が見ている」と表現した。人間は悪いことをする可能性があるが,それに対してちくちくと痛みを心に感じることによってよい方向にいく可能性も秘めている。これが人間の良心であり,それゆえ人間は尊いのである。

3.「良心」の教育

(1)良心のうずき
 私は良心を核とした心の教育の必要性があると考えている。私の心の教育は,「振り子の原理」である。振り子の極と極には,善と悪がある。人間の行動の原理には,快・不快(嫌なものは避けたい),損か得かということがある。好き嫌いという感情の問題とあわせて,嫌いなものは徹底的にいやがり,損することはやらない,汚いことはやらない,危険なことはやらない,一番安全で自分に得になることだけをやる。このような自己中心主義で動くのが人間である。

 しかし,それだけで行動するのではない。特に道徳的価値が対立する葛藤場面では,しばしば「善か悪か」の二者選択が迫られる。ところがこの判断は,単純に善悪に割り切れるものではないのが人間である。それでは何をもって善悪判断の基準とするのか。正邪の判断=迷い→悩み→熟慮→選択→実行(実践)と考える。したがって私は,そのとき自分は「どう動いたか」「どのように迷ったか」の価値判断を重視したいのである。

 人間は悪いと知りつつも流されてしまう弱い存在でもある。ここで重要なことは,この流されていく過程において,「迷い」が生じたかどうかである。そしてその揺れが大きければ大きいほどよい。振幅の幅が大きいほど心がよりちくちくと痛むからである。この迷いこそ,私は「良心の呵責」であると考えている。

 良心とは,いつも宙ぶらりんの状態にある。自分が悪いことをすると,ちくちくと感じる心(良心)がある。良心の呵責とは,自己が自己を裁き,自己が自己に道徳上の判断を下すものである。自己が正邪善悪を自ら判断し,悪への衝動を断ち切る強い意志を持つとき,「良心がうずいた」あるいは「良心が覚醒した」というのである。

 子どもがよいことをすると周囲から誉められる。しかし思春期には,いいことをやると「ぶりっ子」といわれ,逆に仲間はずれとなっていじめの対象になることもある。そのため却ってわる(悪)ぶる。仲間が集団で万引きしている時に,自分だけそこから抜けようとすると逆にいじめられるために一緒になって万引きをしてしまう。

 若者に「盗むな」と何十回お説教をするよりは,万引きをしそうになったときに,良心がちくちくとうずくような人格をいかに形成させるか。この教育が大事なのではないか。それをやるのは,中学であれば道徳,高校・大学であれば倫理となる。もちろん一番の根底には,家庭における親のしつけがなければならないのであるが。

(2)良心を育てる3段階
 人間となるための教育は,ひとえに生涯を通して行われる良心の教育にあると考える。この良心を育てるのに,ドイツの教育学者であり哲学者のE.シュプランガーは,次のように述べた。

@第1段階(乳幼児期):「良心への教育」
この段階は,「していいこと」「してはいけないこと」を習慣化する時期である。それ故,「してはいけない」ことをしたならば,その場でダメだと教える。「してはいけないこと」,「自分がしてほしくないこと」は人にはやらない。その一方で,良いことをやった場合には,親が進んで誉めてやる。

A第2段階(思春期):「良心の教育」
この段階では,「すべきこと」「すべきではないこと」を内面化する。道徳の資料とか学校で学内外の人の話を聞くことなどを通して,誰もみんな弱い心を持っているが,人が困っている時には助け合わなければいけない,自分を大事にする人間は人も大事にするなどといった内容を価値観として内面化していく。

B第3段階(青年期〜成人):「良心の良心」
最後の段階では,「積み重ねる良心」の社会化を進める。
東京のJR新大久保駅で,ホームから線路に落ちた酔っ払いを二人の青年が助けた話(2003年1月27日)がある。そのとき大勢の人がホームにいた。しかしその中で落ちた人を見ていられなかった人が二人いた。この二人の心は,そのとき,ちくちくと痛んだ。「このままでは電車に跳ねられて轢き殺されてしまう。助けなければ。」そのときの二人の青年は,あとのことは全く考えなかった。

 また米国・ポトマック川での飛行機墜落事故における「勇者は沈みぬ」という事件(1982年1月16日)がある。ウィリアムズ氏が川の中で浮かんでいる時に,ヘリコプターが助けに来て命綱が降りてきた。それをつかもうとした瞬間に,その近くに溺れかけて助けを求めている老婦人がいるのを見つけた。そこでその命綱を彼女にまきつけて助けた。その後も同様のことをやって5人ほど助けたが,結局は本人は溺死してしまったという事件であった。

 小説『塩狩峠』(三浦綾子著)の話を生徒にすると,確実に「そんなことは,出来ないよ」という返事が返ってくる。そして「先生はできるのか?」と聞いてくるが,「私だって死ぬのはいやだ。出来ないよ」と答える。しかし,主人公である鉄道職員の永野信夫は,限界状況に立ったときに,思わずそうしてしまったのである。ここが重要な点で,誰もがそのような行動ができるか,できないかの問題ではない。良心を育てる「良心の教育」をしてそれを内面化しておくと,限界状況に立ったときに,それが何らかの行動となって現れるようになるのである。

 ところで,宮沢賢治作の「雨ニモマケズ」という詩があるが,その中で「自分を勘定に入れずに」といっている(注6)。自分を勘定に入れてしまうと死ぬのは嫌だから助けようとはしない。いじめられている子を助けることは出来ない。しかし自分を勘定に入れないときは,とっさに自分も今まで気が付かなかったどでかいことが人間にはできる。「火事場の馬鹿力」ともいうべきものであろう。「弱い,けれども強い」存在が人間なのである。

 建前だけの道徳教育を,道徳教育の時間にいくら話しても,効果はないとはいわないが,本当の核心の部分,真に迫っていくのは,良心をちくちくさせることなのである。

4.最後に

 鳥取県のある小学校1年生に特別講義をしたことがあった。そのとき,まず「ペットを飼ったことがあるか」と一人一人に聞き,そしてそのペットが死んだ時どう思ったかを尋ねた。
「死んだ時悲しかったので,葬り祈ってやった。」
「今,君はどうしているか?」
「生きている。」
「どうしてそれがわかるか?」
「息をしているから。」
「息が止まると人は死ぬ。それでは,息とは何を吸っているのか?」
「空気。」
「それは見えるか?」
「見えない。つかめない。」
「見えないものを吸って生きているのが人間だ。他に見えないものがあるか?植木鉢の花の根が見えるか。引き抜けば根は見えるが,植木は枯れてしまう。」
このようなやり取りを通して,「見えないものは無理に見ようとすると枯れてしまうものだ。見えない大事なものは,そっとしておかなければいけない。人間のいのちも見えない。だから,いのちもそっとしておかなければいけない。」このようなことを子どもたちに伝えようとした。

 人間にとって大切なものとして,その他に「心臓」「良心」「脳」などと答えた子もいた。それらを見せてほしいといっても目の前に取り出して見せられない。このように「見えないものをどう教えるか」が教育の根っこに据えられなければいけないと思う。
また,ある小学校では,一人が一つの鉢に花の種を植えて育てる取り組みをした。毎日それぞれが水遣りをして大きくなるのを楽しみにしながら育てていた。ところがある日,一人の男の子が朝,登校したときに全部の芽を摘み取っているのを校長が目撃した。そして何をしているのか聞いた。その男の子の言うには,「他の子どもたちの鉢はみな芽が出ているのに,ぼくの鉢だけが芽が出ていなかったので,くやしくて友だちのもみなむしりとった」とのことであった。しかし,校長は強く叱るのをやめた。それは彼が自分のことを校長に話した時に,その心の中で既にちくちくと(良心の呵責を)感じていたことが分かったので,それ以上はとがめなかったのであった。

 その後,その校長は別のアイディアを考えて,翌年から「一人一鉢栽培」を止めて「一人三鉢栽培」に切り替えた。一つは自分のために,もう一つは学校の美化のために,3つ目は町に持っていって(交番,病院,老人ホームなどに)飾る。このように考えて,自分,他者,社会のためにという方向に切り替えた。この体験は人に対するちょっとした優しさ・思いやりがあると,心が豊かになっていくことを示している。これが大切な観点なのである。 

 人間はただ「生きる」のでは不十分だと思う。「生ききる」ことが大切である。100歳生きたとしても,その長く生きたこと自体に意味があるのではない。「自分が生きてよかった」,「誰かのためになることをやってきた」として,生ききったというのでなければ意味が生まれてこない。これからの教育は,自分がいただいたいのちを持っている間,どう「生ききるか」につながるものでなければならないと思う。(2004年2月20日)

注1 相田みつを『にんげんだもの』文化出版局,1998
注2 金子みすゞ(本名:金子テル)(1903-1930) 1903年4月11日山口県大津郡仙崎村(現長門市仙崎)に生まれる。20歳のころからペンネーム「金子みすゞ」で投稿し,雑誌「童話」「婦人倶楽部」「婦人画報」「金の星」などに掲載された。詩「大漁」は,1926年に発行された童謡詩人会編『日本童謡集』に「お魚」とともに掲載された。
 「大漁」
 朝やけ小やけだ
 大漁だ
 大ばいわしの
 大漁だ
 はまは祭りの
 ようだけど
 海のなかでは
 何万の
 いわしのとむらい
 するだろう。
 (『金子みすゞ童謡集「わたしと小鳥とすずと」』JULA出版局より引用)
注3 加藤一雄,『道徳・あらかると―殻を破る道徳教育』,日本教育新聞社,1991
注4 荒井恵雄,『ハイデッガー―人と思想』,清水書院,1970
注5 E.シュプランガー,『小学校の固有精神』,岩間浩訳,青山社,1992
 Eduard Spranger(1882-1963) ドイツの哲学・ 心理学・教育学者。ベルリン大学卒。その後,ライプチッヒ大学教授,ベルリン大学教授などを経て,45年ベルリン大学総長に就任。しかし戦後ベルリンが東側に入ったことからまもなく辞任。46-54年テュービンゲン大学教授。また戦後,西ドイツのボン基本法(憲法)の制定にも関わり,西ドイツの戦後復興における思想的精神的側面で寄与した。ディルタイから生の哲学を,F.パウルゼンからは文化哲学を学び,精神科学的心理学を樹立した。主な著書に,『生の形式』(1921)『青年期の心理学』(1924)『シュプランガー著作全集』全11巻(1969-80)など。
注6 「雨ニモマケズ」宮沢賢治作。
 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ
 丈夫ナカラダヲモチ
 欲ハナク
 決シテ瞋(いか)ラズ
 イツモシズカニワラッテイル
 一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ陰ノ
 小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
 南ニ死ニソウナ人アレバ
 行ッテコワガラナイクテモイイトイイ
 北ニケンカヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイイ
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 ソウイウモノニ
 ワタシハナリタイ