「人格教育」とは何か
―米国・教育改革の新しい潮流―

米国・ボストン大学倫理人格向上センター名誉所長 ケヴィン・ライアン

 

1.はじめに

 米国において「人格教育」(Character Education)というテーマは,多くの意味を持っている。そこで,まず人格教育の定義について説明したい。人格教育とは,「青少年が善を知り,善を愛し,善を行なうことを親や教師が手助けすること」である。それは,よき生活,よき手本,よき社会とはどのようなものかを理解するように,青少年の心に語りかけることである。

 人格教育とは,また「よき生活やよき社会の理想を愛することについて学ぶこと」でもある。それは,最終的には頭・心・手を用いて実践できるようになることを意味する。すなわち,人格教育は単に知的な教育のみで終わるものではなく,人間を個人として卓越した姿にまで到達させるために,全人的な努力を必要とすることである。

 米国における従来の教育における問題点の一つは,このような課題に対してほとんど注意を払ってこなかったことである。古代ギリシアの最も偉大な哲学者の一人であるプラトンは,人格について深く熟考した。彼によれば,教育の本質的な活動は,親になるべき人物が完全に自己実現した人間となることである。プラトンは「教育とは若者が賢く,しかも善くなるために手助けすること」であるとした。

 しかし,少なくとも米国では教師は,子どもたちが賢くなるのを助けることだけに没頭しがちである。善くなるように手助けしない。その結果子どもたちはあまり賢くもなっていない。米国の教師は,子どもたちが賢くなるのに必要とされる自制心という教育目標を持ってはいない。

2.米国における人格教育の歩み

(1)心理学的アプローチの失敗
 米国では,30年以上にわたって道徳教育が叫ばれてきたが,今日では人格教育に教育者と親を関わらせるための綿密な努力がなされている。かつて,私は心理学に傾倒し,心理学から導かれた方策やプログラムを採用して教育に当たってきた。しかし,心理学的アプローチが誤っていることに気づき,そこから生涯をかけて脱却しようと努力した。それは,私自身に対する自己批判でもあった。特に人格教育という深遠なテーマにおいては,心理学では限界があるのだ。

 今日,米国で人格教育に関心が集まっている理由の一つは,心理学に基づくアプローチが失敗したことによる。そのため,人格教育という直接的なアプローチの波が押し寄せているのである。ある調査によると,米国では高校卒業生の74%が在学中にカンニングをしたことがあるという。その背景には,規律の欠如や勉強不足による低い学業成績,性的早熟さや乱交,準備のない状態で性行為に巻き込まれることなどといった問題があると指摘されている。この結果,教育の焦点を若者の人格形成へと回帰すべきであると主張する学校や親が増えつつある。同様のことは,政治家・教育者・宗教指導者も述べている。親やとりわけ教師は,人格教育に携わる必要がある。

 ここで問題なのは,人格形成を熱心に指導すべき教師が,そうした訓練を受けていないことにある。彼らが教師になるとき,学校では人格教育にほとんど関心を払っていなかったからである。

(2)価値の明確化(value clarification)
 人格教育について言及する前に,競合する三つの主なアプローチについて説明したい。三つのアプローチのキーワードは,「価値」「見解」「徳」である。これらは,米国で教師が対話の仕方について用いる主要な選択肢となっている。その中でも,「価値」は最たる概念である。教師が,道徳に関して何をすべきか学んだと言う場合,それは価値に関して学んだということである。

「価値の明確化」は,米国において非常に速く,まるで学問の剣を持っているかのようにアメリカ文化を乱暴に通過した。それは,ベトナム戦争や麻薬の蔓延など,60年代後半から70年代にかけて生じた社会の混乱の中で生まれた道徳教育の方法である。

 当時は,強い反権威主義的精神が米国内に蔓延していた。教会や国家,親,教師が持っていた既存の権威は失われ,若者の思想に注目が集まった。若者が将来のやり方を代表し,すべての世代は彼らに従うべきであると考えられた。このような混乱の中で,教師は「子どもは生まれつき善であり,社会は堕落している。そのため,よき教育者は,子どもを自然に自発的に自ら物事を発見するように育てるべきである。すなわち,両親は沈黙し,個人的な情報に専念すべきである」とする,フランスの哲学者ルソーのロマン主義思想を受け入れたのである。

「価値の明確化」は5年間という短い期間に大きな成功を収めた。66種類もの「価値の明確化」に関する本は,極めて興味深い。というのも,これらの本によれば,教師は子供たちに共同体についての理想を語る必要はなく,なすべき正しい事柄についても語る必要はない。その理論によれば,自分自身の価値について子どもたちに考察さえさせればよいというのである。

「価値」は心理学用語である。それは,何を欲するかという欲望である。「価値の明確化」の背後にある理論は,子どもたちに正しいことを選択させるのではなく,自分の欲しいものを選択させるというものである。私はこの理論を考案した人々を知っているが,彼らははたして自分の子どもたちをどのように教育しているであろうか。子どもたちに常に自分の欲しいものだけを選択させればどうなるか,その結果は明白であろう。子どもは非常に甘やかされ,問題を引き起こすことになるだろう。

当時,「価値の明確化」は非常に大きな成功を収めた。しかし,その後拒絶され,効果のない教育方法とされた。それでもなお,「価値の明確化」は今も学校における教育方法の基底を成しており,子どもたちに価値の創造をさせようと再び試みる教師にとって,子どもを教育する方法となっている。

(3)「見解」のアプローチ
 第二のアプローチは,特に中学校で人気があるが,「見解」のアプローチと呼ばれるものである。それは,教師が子どもたちに自分の価値を見出させる代わりに,正しい見解を形成することを手助けするものである。特に,米国が抱えている堕胎の是非,死刑制度の是非,喫煙の問題といった論争を解決するための正しい見解を形成し,適切な人間になるためにはどうすべきかについて理解しなければならないとするアプローチである。「見解」のアプローチで教師がすべきことは,子どもたちが「見解」に対する正しい態度を形成することを手助けすることである。

 しかし,教師がなしたことは,学校のカリキュラムに多くの論争を導入したことであった。その結果,生徒は詭弁を弄するようにますます強く駆り立てられた。なぜなら,多くの場合,教師は生徒に議論させるよりも,むしろ自分の観点や意見を主張させることになりがちだったからである。

 自分が何者であるかを知ろうと模索している若者たちに関わっていく上で大切なことは,若者たちがよりよくなるような手ほどきを,いかになすかということである。

(4)「徳」に基づくアプローチ
 第三のアプローチは,「徳」である。徳とは「習慣」である。我々はよい習慣を持っている。その一方で,我々は悪い習慣をも持っており,それらはそれぞれ「美徳」「悪徳」と呼ばれる。人格教育とは,何がよい習慣あるいは美徳であるかを若者が真に理解することを助け,何が悪徳であり,悪徳の結果,人生において何が起こるかについても深く理解することを助けることである。

「徳」のアプローチは,よい人間になるとはどういうことか,人々に大きな成功をもたらす習慣はどのようなものかについて,人類が培ってきた知恵に依存している。このアプローチによれば,学校は若者を社会の道徳的な伝統についての非常にきびしい試験に取り組ませる必要がある。

 人格教育と道徳的生活との関係について,もう少し説明しよう。まず,多くの人々は普遍的価値に対しては懐疑的である。その一方で,ここ数年間,特定の国家や共同体においてだけではなく,全世界で通用する普遍的価値を明らかにしようとする動きが広がっている。そして我々は,かなり価値の共通性を見出している。国籍・人種・宗教といった差異を取り去ったときに,すべての人々が同意しうる人類に共通の核となる価値を見出すことができる。それにより,世界の異なる人々が核となる基本的考えを共有しうるであろう。

 普遍的価値について,いくつか例を挙げてみたい。まず,自制心あるいは節制と呼ばれるものがある。自制心は,感情や情熱に屈することなしに自らを保つ能力である。これは普遍的価値の一つである。第二は,親切,他人を思いやる感覚である。周りには他人がおり,自分一人で生きているのではないという認識である。

 第三は,思慮分別である。注意深く行為を見つめて,その選択や行為をしたらその結果何が起こるか,どのように他人に影響を及ぼすかについて考えることである。第四は,忍耐や勇敢さである。自分自身や外にある困難に立ち向かう能力である。第五は,尊敬である。自分を尊重することはたやすいが他人に対する尊敬も必要である。他人もまた(尊敬される)権利を持っている。我々はそれを認め,配慮しなければならない。

 不幸なことに子どもたちは,これらの徳を持たずに生まれてくる。実際,これらの徳の多くは,自然に委ねられた世界とは反対の方向へ向かおうとするものである。美徳と悪徳の二つの方向があるが,美徳を獲得することは非常に困難である。しかし,悪徳あるいは悪い習慣は,獲得するのが極めて容易である。我々は非常にたやすく怠惰,自己中心,不注意になりうるし,非常にたやすくそれを獲得することができる。

 ある米国映画の中で,二人の女性が大学で出会い,友達になった。一人の女性は自己中心であった。その映画の最後で二人の女性が座って語り合った。その自己中心な女性は,彼女を愛したすべての男性のことと彼女がなしたすべての事柄,そして彼女の寂しさ,彼女を拒絶したすべての男性のことなどを延々と語った。そして,最後に彼女は言った。「私の話はもう十分よ。今度はあなたの話をして。あなたは私のことをどう思っているの?」これこそ,悪徳そのものといえる。すべての意識が自分にのみ向かっているからである。

3.人格教育とは

(1)よい習慣の形成
 人格という言葉は,人格教育の鍵である。人格とはギリシア語で「刻み込むこと」という意味である。人格形成とは子どもの魂によい習慣を刻み込むことであり,悪徳をかき消すことである。人格を形成しようとするとき,我々がなすべきことは持続的によい習慣を保つ努力をすることであり,その習慣を深く刻み込むことである。勇気を必要とする状況に直面したときは,座り込んで勇気について考えたり誰かに助けを求めるのではなく,ただ勇気をもって行動することである。誰かが助けを必要としているのを見たときは,座り込んで考えるのではなく,ただ自発的に行動すればよいのである。それが習慣的な反応である。

 人格教育とは,こうしたよい習慣を発達させ,これらの習慣がその人にとって自然なものになるように手助けすることである。食べ物を投げたり,口に食べ物を入れたまま話したり,喧嘩をはじめるといった,子供たちの悪い習慣を打ち壊すことが,子育ての主な内容となる。子どもたちに理解させ,自制させ,他人に対する配慮をさせるようにすること,これらがよいマナーと呼ばれるものである。

 このような習慣をつけさせるには,母親がそれらの習慣を子どもに刻み込まなければならない。自分がよい習慣を持っているかどうか,自分が他人を尊重しているかどうかを子ども自身が決めるのではなく,母親が決めなければならない。成長のある段階になると,母親は子どもたちを学校に送り出し,刻み込む役割を学校に代わってもらい,自分の子どもによい習慣づけをしてもらいたいと願う。それは,過去の教育の伝統であった。昔の学校は,そのような習慣の形成と徳の発達の役割を両親から引き継いでいることを理解していた。

 子どもたちは,そのような習慣の形成を自分自身でコントロールすることをはじめなければならない。習慣の形成は大人になっても完全には終わらない。まだまだ多くのことを学ばなければならないからである。

 ここで問題なのは,人はなぜ自分のよい習慣をさらに発達させようとしないのか,なぜ他人に対する思いやりをもっと発達させないのか,なぜ自制心をもっと持とうとしないのかということである。彼らに,どのように実践すべきかを教える必要があるということである。

 これまで人格教育において見落とされてきたのは,習慣形成の技術である。しばしば,人格教育において,我々は美徳や悪徳について語り,人々によき生活を送るべきだと語る。我々は,子どもたちに立派な人格者に関する本を読ませたり,身近な立派な人のことを書かせたりする。しかし,どのようにすればよい習慣を獲得できるか,あるいはどのようにすれば悪い習慣を取り除くことができるかについて,教えるところまでは至っていなかった。

 例えば,保健の専門家によれば,禁煙教育を推進する人々は悪い習慣を取り除き,よい習慣を確立する手助けをしているが,そこには教師も参考になる教育技術(方法)がある。

 また,ベンジャミン・フランクリン(1706-90)の生き方も参考になる。彼は貧しい生まれであったが,当時の米国人の95%の人々が農民で,二流市民であることに気づいた。彼は,トップの5%に注目し,そのような紳士になりたいと考えた。そこで,彼は,自制心・勇気・他者の尊重といった紳士になるための13の習慣を決めた。そして彼はこれら13の習慣を身につけた。

 毎晩寝る前に,彼はシートを作成した。一週間目の目標は正直である。一週間,彼は正直であろうとした。そして,毎晩寝る前にどのように正直であったかを書いた。彼はチェックリストを作った。正直だけではなく,他の12の習慣についても同様である。次の週には彼は別の美徳を目標にした。そして,13週間で彼はすべての習慣を実行した。そして,毎晩彼はどのように行動したかをチェックした。彼は多くの美徳を備えた人間になるために自らを鍛えた。そして,19歳までに彼はフィラデルフィアでよく知られるようになり,25歳で非常に成功した実業家になった。

 後に,彼は偉大な外交官になり,米国で最も偉大な発明家になった。そして,アメリカ独立宣言(1776)の起草者にもなった。この話をした理由は,彼が自らを作り上げたからである。彼は自らを偉大な人格者にすると語り,教師を持たずにすべてを自分で成し遂げたのである。

(2)人格形成のための7段階
 よい人格を形成するための7つの段階を紹介する。
 第一段階は,必要なもの,不足しているもの,問題点を明確にし,自覚することである。「不正直であった,うそをついてしまった,あるいは宿題をやらなかった」。我々はいつもこのような自覚を持っている。しかし,多くの人々はここでやめてしまう。

 第二段階は「善の拡大」または「理解」と呼ばれるものである。もし,正直さが欠けているなら,あるいはうそをついているのなら,なぜ正直であることが重要なのか,何が正直の利点なのか,誰が不正直を克服したか,その結果はどうであったかについてもっと学ばなければならない。それはしばしば,読書や両親・教師に話すといったちょっとした学習・作業である。

 第三段階は,全力を傾けることである。問題を認識し,理解した上で,美徳を発達させるために努力することである。自分のすべてのエネルギーを費やす。自分がそれを望み,そこにエネルギーを費やす決意をする。しかし,多くの人は決意はするが,計画は立てない。

 そこで第四段階では,日常生活において,自分を変えるために何を行なうのかという計画を立てる。もし,自慢することの問題を克服しようとするなら,どのようなときに自分は自慢するのか,どのようにすれば私はその習慣を克服できるのか,美徳を獲得するために何を本当にする必要があるのかを考える。

 第五段階では,行動し始める。自分が慎みのある言動をしていることを確認する。あるいは勉強であれば,きちんと座って,課題が終わるまで座り続けることである。これが行動である。

 第六段階は,ベンジャミン・フランクリンに基づいているが,自己観察である。自己観察は成功の鍵である。例えば,禁煙を決心したときに,座って「禁煙する」と言ってみる。その後で,「今日,どのように行動したか。どのようなときに喫煙したくなったか。それでどうしたか」について,座って自分自身の成績をつけるのである。

 第七段階は継続することである。これは簡単に聞こえるが,最も難しい。ある調査によると,多くの習慣は獲得したり失ったりするのに,21〜28日かかる。だから,喫煙している人が,禁煙を始めて21日経過すれば,非常によく自らを調教したことになる。
ここで重要なのは,何が美徳であり,何が徳のある生活なのかについて,若者自身が考え取り組むことである。我々はまた,どのようにしてよい習慣を獲得し,悪い習慣を取り除くかを若者に教える必要がある。

(3)カリキュラムについて
 カリキュラムの概要について述べる。カリキュラムは,アメリカの教育者が用いるつかみ所のない言葉である。日本の場合,それは文部科学省や教育委員会などから出される通知や行政指導などを意味するであろう。それはまた,すべての公式的に書かれた時間割や生徒に教えたり覚えさせたりするように教師に渡されたものでもある。

 隠れたカリキュラムについては,一部の学校はそれに関してあまり注意を払っていない。それは,数学や理科などとは違い,子どもたちが学校で自然に学んでいることがらである。私は勝ったか負けたか,私は教師に気に入られることに成功したか,私は積極的にふるまっているか。学校は子どもたちに常にこういったメッセージを発している。隠れたカリキュラムは,社会的な存在としての子どもたちが受け取るメッセージである。それは,はっきりと話されたり書かれたりしていないがゆえに隠れている。少なくとも米国の学校は,非常に多くの隠れたカリキュラムを持っている。ある学校では,暖かく支えあう雰囲気の中で,子どもたちが勉強し,他人を思いやるように奨励されていることを感じる。また,ある学校では,非常に競争が激しく,冷たく,駆り立てられるような雰囲気を感じる。そこでは,誰もが自分のことは自分でしている。人格教育は,カリキュラムと隠れたカリキュラムに深く関わりあっている。

(4)6つの‘E’アプローチ
 最後に,6つのEで始まるアプローチについて説明したい。
第一に,Example(例)である。哲学者や心理学者も,そして我々もまた「例」によって学ぶと言っている。我々は抽象的な考えを学ぶのではなく,周囲にある例を見て学ぶのである。教師としてやっていく上で最も難しいことの一つは,自分が常に生徒に見つめられており,生徒は教師の行いを模範にしていることに気づくこと。そして,その事実を真剣に受けとめることである。教師は,生徒に対して指導的な立場にあり,生徒の学習の重要な部分を占めている。このことは教師にとって大きなプレッシャーといえる。

 一方,人格教育の非常に強力な源泉である模範的例は,我々が伝えようと思うものの一つである。特に,文学や歴史,偉人の伝記を教えることは,学校で継続して行なうべきことの一つである。青年に私たち自身の人生だけでなく,世界や歴史上の人物について記されたよい人生を提供することが必要である。

 感化は重要である。子どもたちは感化を必要としている。中学校で多く見られるが,テストの成績だけでなく,他のクラスの生徒のために行動するという点で目立った生徒がいる。我々は自分自身や文学を用いるだけでなく,よい行動をする優秀な生徒も例として用いる必要がある。

 第二のEは, Explanation(説明)である。ある生き方や物語を示されたときに,なぜそれが高潔でよい生き方なのかを知らねばならない。我々はなぜ正直でなければならないのか,明確な理由を知る必要がある。また,道徳的な生活とはどのようなものか,あるいは悪徳に従って生きた結果どのようになるのかについて,合理的な説明が必要である。我々は子どもたちに説明する必要があるだけでなく,これらのことについて推論できる能力を発達させる必要がある。このように,子どもたちはただ道徳を教え込まれるのではない。

 次のEは, Exhortation(訓戒)である。それは頭だけでなく,心に働きかけることである。できるだけ道徳的に生きなさいとただ奨励するだけではない。子どもたちが教師や親あるいはクラスメートを失望させた時には,反省させたり,訓戒したりすることも必要である。

 私が高校で初めて担任をもった時,転校生がクラスに入ってきた。約1カ月間,他の生徒たちがその転校生をつらい目に合わせた。彼は,いつもいじめられていた。とうとう,私は職員室に行く理由を作って,彼を教室から出し,他の生徒たちを反省させなければならなかった。彼らは反省する必要があった。彼らはとても残酷であった。このように,ただ子どもたちを奨励するだけでなく,子どもたちに過ちに気づかせることも必要である。感情に訴えかける訓戒は重要である。

 次のEは,Ethos(道徳的な雰囲気)のE,すなわちクラスの倫理的な環境である。学校へ行って,ある教室に入ってみると指導と集中と協調といったよい雰囲気を感じる。そして,次の教室に行くと,そこでは正反対であったということがある。教師は道徳的な雰囲気を作り出す必要がある。そこでは,教師は強力な教師となる。

 私は米国の学校と共同研究をする機会があった。人格教育を取り入れようとしたある学校で,最初に我々が取り組んだのは,その学校の道徳的な雰囲気であった。最も興味深いことは,変化が非常に早く起こったことである。

 教師が重点を置いたのは,学校をより幸福で,より配慮や思いやりのある環境にすることであった。教師はこのような環境において,教育がもっともうまくいくことに気づいた。そのような変化は一週間から1カ月の間に起こる。教師がグループを作って,自ら環境を変えることを決める。これは学校の教師たちにとって大変な仕事である。

 次のEは, Experience(経験)である。我々はただ考えたり感じたりするだけで人格を形成できるのではなく,成すこと(実践,行為)によって人格を形成する。アリストテレスは,「どうすれば人格者になれるか」と尋ねられたとき,「道徳的な行いをすることによって道徳的になり,親切な行いをすることによって親切になり,勇気ある行いをすることによって勇気のある者になる」と答えている。

 米国では,サービス・ラーニング(奉仕学習)が注目されている。そこでは,子どもたちは学校で援助者になる方法について習う機会を与えられている。今日,子どもたちは,次第に家庭の中で手伝うことをしなくなり,他人に仕えることを学ばなくなってきている。そこで,サービス・ラーニングが注目されるようになった。子どもたちは自己中心の考え方から抜け出すことや,他人を助ける方法を学ぶのである。

 最後のEは,Excellence(卓越)である。学校からの要求や責任といった重荷を負っている生徒の中で,一体何人の生徒が,よい生徒は宿題をきちんと行い,クラスメートと協力し,他の生徒を思いやっていることに気づいているであろうか。また,学校においてがっかりするような行為,失敗や拒絶といった出来事もある。生徒たちは,これらすべてが自身の人格形成の材料であることに気づかねばならない。それらはより大きな意味を持っており,彼らはこれらすべてを受けとめる必要がある。彼らのすべての努力が人格形成の一部をなすのである。

 人格教育で成功を収めた中学校で教師をしている友人が,私にはいる。彼は,生徒がしっかりと訓練されて人格が形成され,寛大な人物になっていくにつれて,成績を向上させようとする大きな意欲をも生徒に持たせることができたと,繰り返し述べていた。要するに,よい生徒にしようと努力することがよい人格を形成するのである。

4.最後に

 最後に一篇の詩を紹介したい。この詩はイギリスの作家によるものだが,孔子も同じ内容のことを述べている。この詩は,私が述べたいことをまとめている。
この詩には,

思想の種をまき,行動を刈り入れなさい
行動の種をまき,習慣を刈り入れなさい
習慣の種をまき,人格を刈り入れなさい
人格の種をまき,運命を刈り入れなさい

と書かれている。これが人格形成のすべてである。
(2003年6月7日,東京にて開催された「人格教育」特別講演会実行委員会<世話人・上寺久雄兵庫教育大学元学長他>主催のセミナーにおける講演要旨をまとめたものである。)