南北統一の展望と東アジア連合(EAU)

常葉学園大学客員教授・評論家  金 両 基

 

1.統一への胎動:南北の共通点と違い

(1)統一国家をめぐる歴史認識
 まず統一国家の時期の認識をめぐって,南北で見解に差が見られる。韓国では新羅が唐と連合して百済と高句麗を亡ぼし三国を統一した西暦668年をその時期とみなし,北朝鮮では高麗(935-1392)初期の10世紀に平壌以北に駐屯していた中国勢を半島から追い出した時期とみなしている。韓国でも統一を北朝鮮と同じく高麗時代とみなす少数派学者もいる。

 北朝鮮が統一を「高麗初期」にこだわる背景には,北朝鮮が統一を成し遂げるという意志が強く働いている。北朝鮮の掲げている統一論の「高麗民主連邦共和国」の創設の呼称からもうかがえるように,高麗の王都であった開城(ケソン)は現在38度線以北にあり,高麗が民族統一を成し遂げたというその歴史的遺産を堅固にし,統一を成し遂げるのは我が朝鮮民主主義人民共和国であり,それを主導するのが金日成であるといチュチェ(主体)思想が深く影響している。

 唯物論に基づく社会主義は神話を科学的論拠のない作り話だとして否定するのだが,北朝鮮では神話時代を歴史時代に読み替える試みが行われている。金日成の墓の真後ろに神話的時代の高句麗建国の始祖である高朱蒙(紀元前1世紀)の墓が作られ,その奥には西暦前2333年に古朝鮮を建てたとされる檀君を祀る墓が直線上に並べられている。つまり金日成,朱蒙,檀君の三つの墓が連動しているということは,金日成が建国した朝鮮民主主義人民共和国が韓(朝鮮)半島の統一を成し遂げる主役の座にあるというのである。ちなみに,高句麗の最後の王都は平壌であり,古朝鮮の王都も平壌以北とみなされている。

 韓国では金日成を始祖とする木に竹を接いだこのような論理,現代版建国神話は通じないが,高句麗の建国始祖である朱蒙と古朝鮮の始祖である檀君については北朝鮮と大きな差異はない。檀君神話を西暦前800年ころ実在した部族国家の神話的表現とみなし,教科書にも1990年代から檀君が掲載されるようになった。

(2)韓中歴史論争
 近年,中国との間で古代史論争が起きている。中国から「高句麗は中国の少数民族だった」とする見解が示されたとき,韓国では直ちに強く反発し,北朝鮮でも反発したが,中国はかなり以前から高句麗を中国の少数民族とみなしていた。私は韓国と中国が国交を樹立する以前の1989年に中国へ初めて行き,2年後の1991年には中国東北地方の渤海と高句麗の遺跡を踏査した。そのとき,将来韓中・朝中の歴史論争が起きるのではないかという予兆を感じた。当時,渤海の遺跡があった東京(トンキン)城などの遺跡には日本人や韓国人,北朝鮮人が入ることが禁じられていた。それは古代史に関する摩擦を起こしてはいけないという配慮からであった。その当時,瀋陽の博物館で展示されていた高句麗遺物の解説には「少数民族高句麗族」と書いてあった。その解説を読んだ私は,「高句麗民族は韓国・朝鮮を形成した古代国家の一つであり,平壌に王都があったとき新羅と唐の連合軍に亡ぼされ新羅に統合され統一新羅時代が始まった。つまり統一新羅は高句麗・百済・古新羅の三国の統合であり,その一国であった高句麗がなぜ中国の少数民族なのか」と接触のあった中国の史学者に聞いてみたが,明快な答えは得られなかった。私が聞いた中国の史学者は異口同音に中央政府でも解答できない問題であると応えた。このように少数民族の問題は決して最近起こったものではない。この問題が更に大きくなれば国家イデオロギーを異にする南北の歴史学会や国民は間違いなく強く反発するであろう。

 中国は現在隣接する国との間でそのような摩擦を起こしてはならないという考え方がある。これには中国の少数民族に関する国内事情も絡んでいる。56の民族が一つの国家を形成している中国に高句麗族まで入ってしまうと,朝鮮族の問題などが絡み出し少数民族の歴史問題になる可能性がある。また将来起きる可能性のある問題としては,北朝鮮と中国の境にある白頭山の国境線を巡る問題があり,それに関しては南北とも共同の歩調を取るであろう。

 日本に対しては,独島(竹島)問題がある。最近の出来事としては韓国で「独島記念切手」が発行されたとき,竹島は日本の領土であるという日本の抗議に対して反論する南北の呼吸は合っていた。このように対外的にはイデオロギーを超えたところの「ウリヌン ハナ(我々は一つ)」という反応が起こる。

(3)スポーツにおける南北統一チーム
 南北の統一に向けた具体的な動きは,実は日本国内で始まっている。1991年4月,千葉県で開かれた世界卓球選手権大会で南北が共同チームをつくった。意外にもこの事実は日本のマスメディアでは忘れられがちだが,同年ポルトガルで開かれた世界ユースサッカー選手権でも南北統一チームがつくられた。ところがソウルオリンピックやワールドカップサッカーでは,南北統一チームは実現しなかった。このように一度実現したものが持続するかというと必ずしもそうではない。

 しかし二度実現したという事実はある。そして他のスポーツ大会でも白地に半島をブルーで描いた統一旗を掲げて共同入場行進をすることがある。またワールドカップの釜山の競技場に北朝鮮から応援団の「美女軍団」が来て注目を集めることもある。

 「ウリヌン ハナ(我々は一つ)」ということがよく言われる。その具体的な提案は,1992年の「南北間の和解と不可侵及び交流・協力に関する合意書」からスタートした。それまでは南北の国内ではそれぞれ「あれは赤だ」「あれは資本主義だ」と相手よりとみなされる市民を指弾し,粛清の対象にしていたが,これを契機に我々は一つということを公の場で言える時代に入ったのである。但し,1972年7月4日の「七・四共同声明」は現在機能していないという先例から考えると,上述の合意書が実際に機能するかどうかは別問題である。さらに1991年12月に南北首脳会談で採択された「南北基本合意書」があり,2000年6月には金大中大統領の訪朝もあった。このような動きを並べてみると南北は今より仲良くできるのではないかと思ってしまう。ところがなかなかそうはいかない。統一に向けた多くの布石は打っているのだが,その布石をなかなか活かせないのである。

2.民族の統一性

(1)チュチェ思想
「チュチェ思想」(主体思想)は,朝鮮民主主義人民共和国の唯一の思想であり,国家的アイデンティティーである。これに代わるものが出てきたら革命が起きるか,粛清されるかどちらかである。今はこれ以外に北朝鮮のアイデンティティーの基礎を考えることは不可能である。

 チュチェ思想はどのような形で形成されたのか。1955年12月に金日成は演説の中で,「思想活動において教条主義と形式主義を一掃し,主体性を確立するために…」と述べたが,その「主体性」という言葉がチュチェ思想の始まりであった。これが定着するのに,1960年代後半まで約10年かかった。そして定着したスローガンが“「事大主義」「修正主義」「教条主義」との闘争”である。これに勝ったときチュチェ思想が確立するという図式になる。

 そして1970年の第5回朝鮮労働党大会で「チュチェ思想確立宣言」をする。何が確立したかというと,「思想の主体」「政治の自主」「経済の自立」「国防の自衛」などであり,今も北朝鮮はこれらを堅持している。

 その過程で出てきた運動が「千里馬運動」である。これは1956年に金日成が降仙製鋼所の現地指導を行ったのが発火点となって始まった運動である。そして1960年代前半に勝利するまでこれが続いた。この間,南労党(南朝鮮労働党)の朴憲永らの粛清が進められた。粛清作業の見通しが立つ時期は在日同胞が日本から北朝鮮に帰国する時期と重なる。

 千里馬運動では,現地指導で山に千枚田を作り,穀物ができなかった地帯に二毛作を推進し,これが千里馬運動の象徴になった。しかしそれは森林破壊をもたらしたのである。山に田を作るのであるから,木を伐採しなければならない。北朝鮮には戦前,日本の植民地時代に作られた水力発電所が多くあり,南に電力を供給するほど豊かな水力があった。

 ところが木を伐採したために山に水を貯める機能がなくなってしまった。森林破壊が水資源の枯渇を招き,水害をもたらすようになった。そして電力事情が悪化する。火力発電へと向かうが有力な解決手段とはならなかった。このように千里馬運動が衰退に向かったのである。その後,千里馬運動に代わって現地指導が効果を発揮するようになる。

 またチュチェ思想による伝統文化の再創造が行われた。これは「ウリシク」(我々式)として行われ,例えばそれまであった民謡をすべて五線譜に当てはめた。五線譜に当てはめた民謡はある意味で「洗練」されるが同時に土の香りが消えてゆく。民族舞踊においてもバレエのテクニックを導入した。鳳山仮面劇のような仮面劇は社会主義国家には相応しくないといってなくしてしまった。韓国でもっとも知られている民俗芸能に「農楽(Nongag)」があるが,北朝鮮の農楽は伝統が整理されて新作の民俗芸能とも呼べるような「農楽舞」に変容した。オリジナリティを限りなく薄めて再創造され舞台化された芸能に変容したのである。このようにしてこれらの伝統文化は民衆のバイタリティを失ってしまったのである。

 また,北朝鮮では演劇や映画を政治の最高の道具と位置づけられていたので,そこにも大きな変化が生じた。1950年代後半,集団創作,集団演出が流行った。戯曲も集団戯曲である。そのころの作品を私は10数編読んだ。テーマは地主階級批判,日本の植民地時代の日帝との闘争,新しい村や職場づくりなどが中心であり,それらの戯曲を読み始めた私は血が滾(たぎ)って興奮し,むさぼるように読んだ。そして七,八曲読んだ頃から作品がパターン化しているためか興奮が収まりだした。そこでさらに自分を試すために十曲ほど読んだ。読めば読むほど冷めて行くのである。私はアジテーションで血がたぎっていたのである。そうした政治の道具化された芸術の生命力が短いことを私はその体験から絵解きしたのであった。そして芸術は集団の産物ではなく個人の産物であることに気づいたのであった。気づいたと言うよりも私にとっては発見であった。

 韓国は全く逆である。6・25韓国動乱(朝鮮戦争)で経済力が衰退した韓国では民俗芸能や民族文化の育成のために経済的補助が出来ず,消滅する寸前に追い込まれていた。そこで政府が年に一度全国民族芸術競演大会などを開催して地域文化を競演させ,育てるようになった。政治の道具としてではなく,郷土自慢に比重をおいた民俗芸能の競演大会は地域に伝承してきた伝統を通して地域住民の誇りを喚起することになった。韓国の民俗芸能は地域の民俗芸能の集合体であるからその種類は多様であるが,ワンパターン化した北朝鮮では郷土色と土の香りが薄れ,伝統の幅が非常に狭められることになった。五千年の伝統と文化という慣用句を使いながらその実はチュチェ思想がスタートしてから始まった歴史,わずか数十年の伝統に狭まった。古き伝統をなくし,新しく生まれたチュチェ思想による伝統は年輪が浅い分だけ質と量が低下せざるを得なくなり,温故知新は機能しなくなったのである。

(2)南北共通の民族の統一性とは
 南北の伝統文化にはこのような違いが生じ,共通の広場とはなり得なくなった。では民族文化の統一性はどこに見出せるのか。無形文化は接点が開いて行くが,有形文化からは統一性を見出すことができる。無形文化である民謡や舞踊,民話伝説などは北朝鮮ではチュチェ思想によって整理され,神話は否定されている。ところが高句麗古墳のような有形文化はそれに関する解釈は異なっても,現物が存在しているので大きな変化が生じにくいのである。北朝鮮には高句麗の古墳文化のほかには有形の文化遺産は韓国に比べてかなり少ない。

 もう一つの重要な有形文化がハングルである。民族のアイデンティティーの核は遠からずハングルになるのではないか。北朝鮮では金日成主席のハングルに対する評価が高く五十年代から漢字を使わないハングルの専用化へと進んだが,韓国の朴正熙大統領もハングルを高く評価していた。期せずして二人とも朝鮮王朝末葉(大韓帝国時代を含めて)の封建時代には厳しい評価を下し,ハングルを高く評価していた。南北とも現在はハングルの専用化が進み,教科書や新聞雑誌などもハングルになった。現在ハングルは世界の文字文化の中で唯一,世界文化遺産にも指定されている。韓(朝鮮)民族には,ハングルを作った民族という自負心がある。

 ハングルの普及は北朝鮮の方が早く,1950年代終わり頃からハングル一辺倒になってきた。韓国がハングルを積極的に推進してきたのは1990年代のことである。韓国の全国紙がすべてハングルになってからまだ5〜6年しか経っていない。期せずしてハングルが重要視されているのであり,南北の今後を考える上で大事な点である。

 南北とも漢字を知らない「ハングル世代」が中心世代になり,日本では韓国のハングル世代の台頭に対して日本との対話の密度が薄らいでゆくのではないかとの懸念もある。しかしもっと早くから同じハングルを使用している北朝鮮の考え方に対して,日本の政治家や文化人が同様の懸念を示す様子はうかがえない。

 ハングルは表意文字ではないため,英語と同じように単語が持つ意味に重点が置かれる。日本人が「花」という文字を見たときに思い浮かべるようなイメージは,ハングルの「コッ」(花)という文字を見ても湧き上がらない。コミュニケーションの手段として考えたときに,そのような違いがあることを考慮することは重要である。

 南北には「礼節」を重んじる情の文化が広く深く残っており,それを通して同じ民族であると言うことを確認できる。南北の人士は出会うと情の文化は機能している。金大中韓国大統領が平壌空港でタラップを降りたとき金正日国防委員長は両手で握手を交わして出迎えた。韓国では情の文化は政治と切り離され国家権力で押さえるような仕組みになっていないが,北朝鮮ではイデオロギー,チュチェ思想が前面に出てくると情の文化は姿を隠してしまう。南北離散家族の再会などでもみられるように韓国は情の文化をダイナミックに表出するが,北朝鮮側では押さえている。情の文化は数少ない対話の糸口ではあるが,国家が絡むと機能しなくなる面もある。南北とも薄情が非人間的だというニュアンスをともなって生活文化としており,民族文化として共有しており,それは中国の朝鮮族,旧ソ連のエリアに住んでいるコリアンの高麗人,在外コリアンをふくめて共有している。

3.民族意識と南北統一の展望

(1)韓国の民族意識
「ウリ ミンジョク」(我が民族)といった場合の民族の実態と幻想も考えなければならない。「ナショナリズム」という単語を韓国と北朝鮮の人々が訳したらほとんどの人が民族主義と訳すだろう。国家主義と訳す人は少なく,日本では民族主義と国家主義の両方に訳すに違いない。

 民族という単語は漢字文化圏に無かった単語であり,大日本帝国時代欧米語から日本人が訳した翻訳語である。日本の植民地時代「民族」という単語が普及し,現在中華人民共和国では中華民族という造語が常用されている。南北とも「ウリ ミンジョク」という概念は同じ響きを持って伝わり合うが,日本では民族という用語はあまり使われず,韓国,北朝鮮,中国で頻繁に使われている。

 南北が「民族」といったとき,三つの民族がある。@「大韓民国ナショナリズム」,A「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ナショナリズム」,B「南北共通の韓(朝鮮)民族ナショナリズム」である。彼らは同じ民族であるにも関わらず6・25動乱で国家ナショナリズムをかけて戦った。この戦争はいわば民族どうしの国家ヘゲモニー争いであり民族戦争ではない。民族どうしで戦い合ったが民族戦争でなかったから「ウリ ミンジョク」がいまでも響き合い,同族の統一を復元しようということになる。政治的ヘゲモニー争いはあるが,南北の二つのナショナリズムが「ウリ ミンジョク」という接点で一緒になったりするのである。それが前述の統一ムードである。

 民族は外に敵ができると内部葛藤をいったん中止して敵に歯向う性質がある。たとえば中華民国内部で蒋介石と毛沢東とが争っていたが,大日本帝国という敵が現れたとき内部の争いを収めて大日本帝国と戦った歴史がいみじくもそれを語っている。民族という自覚は外圧,外との摩擦が起きたときに生まれてきたものであり,もともと民族という意識があったと考えるのは思い込みである。

 それでは韓国の民族意識の形成はいつ頃始まったのか。私は統一新羅時代の樹立時期だと考えている。新羅が唐と連合して百済,そして高句麗を亡ぼしてそれまでの新羅・百済・高句麗の三国時代が終わり統一新羅がスタートした西暦688年以降だとみている。統一新羅時代を迎えたときそれまでの連合国であった唐が,統一新羅をも傘下におさめようとした。そのとき統一新羅はそれを拒否して唐と戦うが,そのとき亡ぼされた百済と高句麗の遺民が新羅に加わって唐と戦う。そのとき三国の民が一つの輪に入り共通の意識が芽生える。それがのちに民族意識と呼ばれる意識のはじまりとみている。一つの輪に入りやすい文化を持っていたからである。

 言語の構造が同じ膠着語であり,三国時代に言語摩擦が生じたり,通訳を必要とした話がみられない。中国の漢族の言語は独立語であり膠着語を使う種族や民族にとっては外国語であった。また,生活文化も共通点や類似性が多かったと私は考えている。ちなみに,高句麗と百済の建国神話をみると同じ扶余族であり,高句麗と新羅の始祖の生誕神話はともに卵から孵化した卵生神話である。三国の文化はこのように同一性濃い関係にあった。

 近代の西欧の単語の翻訳語である「民族」の概念を,無意識に古代に重ねて民族概念や民族意識を論じ,民族の始まりを檀君神話までさかのぼる民族の原点に幻想を抱いたりする。これらの問題点を整理し,民族の原点とその歴史を比較し考察する作業は今後の大きな課題である。

(2)南北統一と「東アジア連合」
 南北の統一について言えば,ベトナム方式もドイツ方式も適用できない。ベトナム方式が有効でないことは6・25韓国動乱で実証済みである。韓国には西ドイツのような経済力もないので,韓国が北朝鮮を吸収統一するとしても内部の葛藤は激しくなることは目に見えている。それに替わる統一方式を編み出すことは,南北の自力のみでは不可能である。南北分断状況を作った原因には大きく日本の韓国併合と冷戦構造の下の米ソ対決があげられる。韓半島に駐屯していた関東軍の武装解除のためにソ連軍が38度線以北に進駐し,米軍を中心とする連合軍が以南に進駐し,さらに6・25韓国動乱では中国の義勇軍が参戦し,今日のような北東アジアの国際秩序が形成された経緯を忘れることは出来ない。今年は日露戦争100周年にあたるが,1991年にソ連が崩壊して国名がロシアに代わったので,あの当時のロシア・清・大韓帝国・大日本帝国が絡み合った北東アジアの国際環境が想い浮かぶ。日清・日露戦争は大韓帝国の韓半島を巡る覇権争いであった。清が中華人民共和国,大韓帝国が大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国,大日本帝国が日本になっているが,それにアメリカが加わると六カ国協議のメンバー国である。六カ国協議も北朝鮮がキーポイントになっており,私の脳裏にふと100年前のことが浮かび,深い憂いにおそわれるのである。温故知新,歴史に学ぶ姿勢を取り戻して欲しい。

 こうしたなかで我々に何ができるだろうか。私は以前から「東アジア連合」(East Asia Union=EAU)を形成することは可能ではないかと考えている。この作業は日本では「難しい」「絵に書いた餅だ」という意見が目立つのに,韓国人は関心を示し,なぜ実現出来ないのかと能動的に反応するので,韓国サイドから仕掛ける方が可能性が高いと私はこれまでのフィールドワークの体験から感じている。

 日本と韓国は最も近い隣国と言われるが,その距離を実感した人は多くないようである。対馬の北端から韓国の釜山まで49kmで,夜になると対馬から釜山の夜景が肉眼で見える距離である。両国の国境線は49kmの中間であるから対馬から国境線まで25km足らず,対馬から壱岐まで50km,壱岐から唐津まで50kmであるから昔からは島づたいに往来出来た。この海路を通って豊臣秀吉の軍勢が朝鮮王朝に侵攻したが,そこに平和の道を作れば日本は大陸と繋がるのである。

 日本は関門トンネルや青函トンネルを作って本土と島を陸路で繋いだ経験を持っているから,唐津・壱岐・対馬の海底トンネルを掘ることは可能であるという話が出てきた。唐津から対馬までは日本の国内の工事であり,地域の活性化にも繋がる。韓国と日本の間は49kmだから韓国側は25km掘ればよい。経済力を比較すれば日本はそれを掘れる能力があるとみたい。

 この構想が実現すれば,札幌から車のハンドルを握ればイギリスのロンドンまで行くことができる。南北間の京義線(ソウル〜新義州)は一カ月なくても列車が走れるような段階へ来ている。ただその一カ月の日程を消化できないでいるだけなのである。あとは瀋陽,長春,ハルピンへと抜けていけば都市を結んだ大陸横断鉄道が実現する。これは国連のプロジェクトとして認められた経緯がある。

(3)歴史問題解決の道
 私は以前から「東アジア連合」の実現を説きその可能性を指摘してきたが,昨今このエリアに自由貿易協定(FTA)を締結しようという動きがある。歓迎したい動きであるが,経済を最優先させたEAU構想が先行すれば摩擦が起きる憂いが大きい。経済摩擦が起きたときその理由を歴史認識に振られる可能性がある。過去の東アジアと日本の歴史摩擦を想起すればその憂いを否定できないが,この歴史認識の問題をクリアすれば前に進むことができる。

 歴史認識の摩擦は,西ドイツとポーランドの間で解決し,いまユネスコの歴史セクションではその方式を歴史摩擦を起こしている地域に摩擦解消のモデルとして提供している。西ドイツとポーランドの代表は初めはテーブルに着いても話し合うどころかポーランド側からの批判が強く進展しなかった。西ドイツはそれを我慢強く真摯に受け止め,ポーランド側も同じ批判を展開しなくなり,両者は事実に基づいた歴史認識を共有するようになった。さらに新しい資料が発見されれば,それを基にして両者が話し合うことに合意しているので,未来に禍根を残す憂いはほとんど生じていないという。当初は一つの歴史的事実を詰めるのに数年を費やすこともあったが,最終的には歴史認識を共有した歴史教科書が作られた。フランスと西ドイツ,イギリスと西ドイツも同じようにクリアし,EU時代を迎えている。なぜ東アジアはそれができないのか。

 アジア諸国から歴史的事実を求められると日本は歴史認識論で応じるので先に進めずにいる。しかし事実の確認だけはできるはずである。事実を確認すれば,加害者と被害者からそれぞれの立場で歴史認識を示せばよい。加害者は被害者になれないし,被害者は加害者になれないのであるからどちらが欠けても歴史事実の総体,実像はとらえられない。富士山はどちらが裏か表かともめた時代がある。甲府から見れば太陽を背に浴びている富士山の姿が表富士といい,東海道から見れば太陽の光を真正面に受けている姿を表富士だというように地域によって見解が異なる。しかし富士山は一つしかない。富士山を歴史事実に置き換えて考えてみれば事実確認は難しいことではない。歴史事実を確認し,加害者側と被害者側の認識論を出し合えば,歴史認識の共有は可能である。

 日本はなぜ事実を確認する作業に取り組まないのか。事実を確認するとすぐ「詫びろ,謝罪しろ」と言われるという思いが先に出てきてしまう。そうではない議論はできないだろうか。その一つの実践を現在,広島県教職員組合と韓国の全国教職員労働組合大邱支部の間で行っており,共通の歴史教科書のたたき台を作っているところである。私はその助言者として両者に「民族と国家を背負わず,一人の教師として歴史事実と向かい合って欲しい」と要望している。

4.北朝鮮を見る視点

 今年5月,小泉首相が北朝鮮へ行って金正日国防委員長,総書記に核放棄を説得した際,大量破壊兵器の開発計画を放棄したリビアの例を引き合いに出したが,金委員長は「北朝鮮はリビアとは違う」と反論したと新聞で報道された。1987年11月,ソ連に向かう朴成哲副主席(当時)と金永南外交部長(同)などの代表団を送るとき,金正日党書記(同)が次のように述べた。「アルバニアのような国も,封鎖された中で30年以上も耐え抜いた。チュチェ思想でよく武装された,金日成首領に領導されている我々は,それ以上に,いくらでも耐え抜いて行ける。」

 それから15年以上経過したが,「耐え抜いていく」姿勢は未だに崩れていない。今にも崩れそうな北朝鮮という見方をするのか,犠牲を払っても崩れないという現実を見るのかというところが重要なポイントである。金正日国防委員長の信念が崩れるか崩れないかということも課題である。

 『中央公論』1992年1月号に私は,「(北朝鮮は)現状のまま続けば,今世紀を越えることは至難だと思う」と書いた。その予測は外れたではないかと言われるかもしれないが,その前段に「食糧の自給自足ができるかどうかを,私はその日を占うキーワードにしてみたい。そこから5,6年が目安だと占いたい」とも書いた。北朝鮮は外国の援助がなかったら既に崩壊していたであろう。金大中大統領が太陽政策を掲げたのもそれから5〜6年後のことであった。韓国をはじめとする世界からの食糧援助があったから崩壊しなかったとも言える。

 日本には北朝鮮が崩壊したら周囲に与える影響が甚大だとの認識が小さい。隣国が安全で,多少経済的に貧しくても人々が自ら住める環境が維持されておれば,それは日本の安全に直結するのだという認識はあるのだろうか。自国の安全のみで真の安全が保障されるであろうか。中国の経済なしに日本の経済はあり得るだろうか。このような問題を自らの問題として考えながら客観的な判断を下せる環境が望ましい。

 私の多くの友人が日本から北朝鮮へ帰国して不幸な最期を遂げた。それを知ったとき私の胸は深く痛んだが,北朝鮮が突然自己崩壊するような事態は望まない。徐々に変化しながら南北が共生しながら統一へと向かって行くことを願っている。自己崩壊のリアクションがあまりに大きいからである。2500万人のわずか1割である250万人が動いただけでもどうなるであろうか。地雷を覚悟で38度線を突破するような現象が起きないと誰が保証できるだろうか。日本からの10万人ほどの帰国者がボートピープルとして日本に戻ってきたら,日本は上陸を拒否できるであろうか。考えて欲しい。

 北朝鮮が抱えている現在の生傷(拉致問題)と植民地時代の古傷を同時にどう治癒するかが課題である。どうしても生傷が目立つのでそこに議論が集中する。しかし生傷を治癒すれば,必然的に古傷を治癒することになる。それをおざなりにすれば,国際社会での批判は免れ得ない。

 日本,韓国,中国は異なる民族的体質を持つが,その中でそれぞれの持ち味を認め合い,共生の時代を一緒に作りたい。現況では難しいこともあるが,夢は描かないより描いた方がよい。かつては現在のような国境線は存在しなかった。戦前の満州国の時代にも大陸には国境線がなかった。アメリカとメキシコの国境線のような鉄条網もなかった。21世紀はボーダレス社会を実現する世紀でもあり,ヘゲモニー(覇権)争いはその夢を遠ざけ,共生時代を遠ざけているということを想起して欲しい。

5.最後に

 私は大学で「人権文化論」を教えているが,自分が差別される側のマイノリティーとして生きてきたから人権を研究したのではない。比較文化論を構築する過程で,「優劣を発見するために比較するのは邪道である」ことに気がついたからである。日本はかつて「大日本皇国臣民は優秀なり」ということ立証するためにアジアとの比較をした。ドイツがドイツ民族の優越性を主張するためにユダヤ人の大虐殺を起こした。日本は優劣を定規にして価値判断を下す弊害についてよく考えてみる必要がある。私は文化の独創性や創造性を発見するために比較をするのであり,文化の優劣を決めるために比較はすべきでないと思っている。比較によって質の違いを発見し,質の違いはそれぞれの独創性であり個性であり,それらは人類の創造した財産であると考えている。それが私の求めている比較文化論である。

 最後に21世紀は共生時代だという。共生のキーワードは「人権」であるということに触れたい。「人権尊重」の前提には信頼の再構築が必要である。人と人の信頼,国家と国家の信頼の再構築ができなければ,いくら「人権尊重」を掲げても機能しない。温もりのないところに信頼は芽生えにくく,死人には温もりはない。温もりは生きた人間に備わっている宝であり,そこから生まれる信頼は堅固である。温もりの漂う社会,それは人権思想の普及した社会でもあると私は信じている。
(2004年5月31日発表)