道徳教育の基礎としての宗教性

光塩学園女子短期大学助教授  加藤 隆

1.はじめに

 現代の教育を見てみると,教育方法や教育教材などについての研究は実に盛んであるが,人間とは何か(教育哲学),あるいはどのような子どもに育てていくのか(教育目標)といった点に関する研究があまりにも希薄に思われる。しかし,そのような課題をつきつめていくと,どうしても教育と宗教のかかわりを考えざるを得ない。そのような観点から,私は内村鑑三(1861-1930)を一人の教育思想家として研究してきた。

 そこで,ここでは現在の道徳教育の問題点と課題について,特に宗教性との関係からとらえ考察してみたい。

2.道徳的モデルとしての人物の有無

 私のこれまでの教育現場での経験からすると,道徳教育や歴史教育において(具体的な)「人物」がなかなか見えてこないという印象がある。

 例えば,文部省『小学校指導書 道徳編』(平成元年度版)には,次のような文章がある。

 「目標」については,「生命に対する畏敬の念」と「主体性のある日本人」の二点を加えた。…望ましい国民としての在り方をより主体的に自覚し,積極的に世界の平和に貢献し,世界の人々から信頼される日本人の育成を一層重視しようとするためである。…各内容項目については,その表現をできる限り平易にするとともに,特に次の点を重視するなどの改善を加えている。基本的な生活習慣の継続的・発展的指導,積極的で明るく誠実な態度,勇気や希望をもつこと,個性の伸長,感謝や思いやりの心,…

 このように道徳的価値,徳目がいくつか掲げられており,それらはきれいな言葉にあふれている。「ごもっとも」という感じを受けざるを得ず,率直に言ってきれいではあるが内実に乏しいと思う。道徳内容の解説的アプローチで果たして人間は道徳的になりうるであろうか。また,学校の校舎には,「きらきらと輝く瞳」などの学校教育のスローガンが掲げられている。しかし,この言葉を子どもたちが見て,一人一人の内面に迫っていくかと考えた場合に,非常に心もとないといわざるを得ない。

 これと対比させるために,ここで内村鑑三とレーガン元米国大統領の言葉を引用したい。

 内村鑑三は,『代表的日本人』という書を著したが,その冒頭で,「これは,現在キリスト教徒たる予自身の接木せられている台木の幹を示すものである。予が母の腹に宿らざりし前に種々なる感化が予を形成したのである。」と記して,日本文化の土壌の中で生まれ出てきた自分の尊敬する先人を5人挙げて論じた。

 内村自身はキリスト教徒ではあるが,尊敬する日本人の一人に日蓮をあげた。これは彼が宗教の枠にとらわれずに物事を見ていることを示している。また,西郷隆盛をあげた理由として彼は,儒教的背景からきた「天」の思想,即ち,「敬天愛人」の思想はキリスト教にもつながる普遍性を持っているとする。西郷はその思想を体現して明治の改革に当たった。さらに,中江藤樹の正直さをその生き様の中に示している。

 ところで,内村鑑三や新渡戸稲造は札幌農学校の2期生であった。1期生のときに,クラーク博士は帰国したので彼らは直接は会っていない。クラーク博士は,それまであったいろいろな校則を一本化し,「ジェントルマンたれ」にまとめた。同校の1期生から3期生の間に内村や新渡戸など輝かしい人物が輩出されたことを考えるときに,細かい校則をもって人間を管理するよりは,「ジェントルマンたれ」というようにひとつの理想像を示しながら教育したことが,そうした結果を生み出したのではないかと思う。更には,クラーク自身がそれを身をもってあらわそうとしたという事実も大きいと言わなければならない。

 次に,レーガン元大統領の二期目の就任演説(1985年)の中に,次のような箇所がある。

 …私の真ん前の真っ直ぐの所には,永く後世に残るアメリカの偉大な人々の碑があります。ジョージ・ワシントンの記念碑,建国の父であります。彼は人にいばることを知らず,いやいやながら権力の座についた人であります。ワシントンは英国に対する革命的勝利からアメリカを所期の国家に導いた人であります。こちら側にはトーマス・ジェファーソンの堂々たる記念堂があります。ジェファーソンが書いた独立宣言はジェファーソンの雄弁さと共に,その精神は今でもあの記念堂に燃え続けています。池の向こうには,アブラハム・リンカーンの記念堂があります。アメリカという国を理解しようとするならば,アブラハム・リンカーンの生涯にその心を見いだすに違いありません。これら英雄達の記念碑のかなたにポトマック川があります。その対岸にはアーリントン国立墓地のなだらかな丘があります。そこには十字架やダビデの星を刻んだ,白い墓標が並んでいます。これはわれわれの自由のために,支払わねばならなかった代償のごく一部に過ぎないのであります。これら一つ一つの墓標は,私が先に述べた英雄に対する記念碑と同じものであります。

 米国の国家が立ち上げられていったときの,忘れてはならない有名な3名の人物とともに,ベトナム戦争をはじめいろいろな戦争で命を亡くしたアーリントン墓地に眠る無名の人の碑に対しても同じように言及した。日本の総理が同様のことをやったことはないであろう。内村鑑三にしてもレーガン元大統領にしても,自分の尊敬する人物像,道徳的モデルを具体的に持っている。文部省のそれとの違いは何かというと,正直や尊敬などの価値項目を説明するだけではなく,それらの徳目を体現した歴史上の人物を掲げて語っている点である。ここに彼らの力強さ,確信というものを感じる。

 それに対して上述の道徳編でいえば,その点が実にあいまいである。さらにはそのような具体的人物を見えなくして,ただ「正直でありなさい」「勇気を持ちなさい」と抽象論を述べる。しかし,その徳目をたれるのならば,歴史上の具体的な人物を挙げて,その人物はこうであったと示さないとその内容は直接に伝わってこないのではないか。同じ空気を吸い,時代を変革していった人の内に培われた,生きた道徳性を挙げて示すことで,われわれはそれを共感するのである。

 あるアンケートで子どもたちに,「あなたの尊敬する人は誰か」と尋ねたことがあった。それに対する答えの大半が自分の親であった。もちろん,親を尊敬することは大切なことであり,それ自体を否定するものではない。しかし,先述した『代表的日本人』やレーガンの話の流れから考えたときに,自分が目標とすべき人物が歴史の中にいることと自分の親を尊敬する人物と挙げることを比較してみると,戦後教育の貧困さを感じざるを得ない。特に,歴史教育,道徳教育の価値内容の貧困さを感じる。

 道徳的モデルを,生きている歴史の中に持ちえているのか。これは非常に重要なことだと考える。この点が小・中学校における道徳教育の希薄な部分ではないかと思う。教育現場では道徳教育を一生懸命やってはいるのだが,こうした観点が抜けてしまっていることを残念に思う。

3.道徳教育を阻んでいるもの

 今日の道徳教育推進の背景には,「今の子どもたちの現状を見てみると非常にモラルが低下しているがゆえに,道徳教育を強化していこう」という発想があるように思える。しかし,それは対症療法的なやり方であって,問題の本質を捉えた取り組みとは言えない。もっと端的にいえば,「なるべくしてなった(現状)」だとさえ言えるのではないか。

 今われわれの周囲で見られる多くの教育上の問題は,あってはならないことが急に出てきたというよりは,明治以降の130年,あるいは戦後の60年,日本社会がやってきたことの結果であって,それはある意味で当然の帰結とも考えられる。目先の問題解決だけではいたちごっこであり,本質的問題解決からは程遠いように思う。

 道徳が子どもたちに定着せずに「なるべくしてなった」理由について私は,次の三つを考えている。

(1)功利主義の論理
 われわれ教育関係者がその営みをする場合には,必ず「教育基本法」の精神を入れるようにしている。即ち,「人格の完成」を教育の目的に据え,すべてここに向けて進めてきた。この内容を否定する人はいない。しかし,この内容はあまりにも格調が高すぎて,一人ひとりがその内容を具体的な自分の思想,言葉に砕いて体現していったのかと考えてみるとあまりにも心もとない気がする。もっといえば,「絵に描いた餅」「不磨の大典」のようですらある。

 かつて臨教審第1部会長であった天谷直弘(元資源エネルギー庁長官・元通産審議官)は,次のように指摘した。

 (敗戦によって)…こうしてわれわれは技術導入,高度成長,輸出振興に全力投球することとなった。時代を反映して,教育もまた,プラグマティズムと功利主義と「洋才」重視の明治初期の路線にもどったのである。タテマエのレベルでは,教育基本法が個人の尊厳,真理と平和の希求,人格の完成等々崇高な理念を掲げた。しかしこれらの理想は,いわば美しい「花」であった。当時,人々は飢えていたので,ホンネのレベルにおける人々の熱い眼差しは「花より団子」に注がれていたのである。高度成長時代の人々の関心は単純明快で,それは「団子」をできるだけ多く獲得することにあった。国のレベルではGNP,企業のレベルでは市場シェアと利潤,個人のレベルではよい会社への就職とそこでの昇進と昇給,学校のレベルでは偏差値と進学率である。…この価値観の等方向結晶構造が経済成長に大いに貢献したことはいうまでもない。…

 私は以前,北海道内の小学校から2校を抽出して,その学校の戦後50年の全資料をもとに,その学校がどのような理想像を掲げて取り組んできたのかについてその変遷過程を調べたことがあった。それによると,まず昭和20年代から30年代は,自分も戦争経験がある戦後教師たちから,「自分も変わらなければいけないし,そうしないと子どもの教育もだめだ」という切実な肉声がびーんと響いてくる。彼らは,「自分たちの戦前の教育が間違っていた。ゆえに自分たち自身の手で教育を変えていかなければいけない」というように,明確な教育の論理があったように思う。

 ところが,昭和40年代に入ると,非常に立派な言葉でちりばめられてはいるのだが,私にはそれが却ってよそよそしいように感じられた。すなわち,立派な教育目標などを掲げているのだが,そのホンネには天谷直弘が述べたような偏差値,点数が歴然とあるように思われた。その後,状況はさらにひどくなっていく。つまり,教育の論理から経済の論理へと主軸が移り,それが学校にも浸透していった。いい学校に入りいい成績を収め,いい会社に就職することが主流思想になった。それとともに,このころから塾が盛んになっていった。

 このような変化によって学校教育が大きな変質を遂げることになる。内村鑑三も「教育や宗教というものまでがビジネスになった」と同様のことを指摘している。近代の過程は,教育のみならず宗教も経済の論理に支配されるようになったということである。その根本には,何をするにも「損か得か」「役に立つか否か」という数字で表される価値でもって判断する姿勢がある。現在でも同様の発想があり,メディアの報道にも「○○大学に何人入った」とか,そのようなことが隆盛を極めている。タテマエでは善悪を価値基準におく道徳教育の重要性を謳ってはいるものの,ホンネの部分でそれが浸透しているかと問うて見るときに,やはり現在でも功利主義が大きな部分を占めていると思わざるを得ず,甚だこころもとない。

(2)アイデンティティの危機
今の大学生に接しながら感じることは,自分に自信のない子が非常に多いことである。「自分はダメだ」「自分は無理だ」「自分は人より劣っている」などと自分を否定的にとらえる学生が多い。一見優秀と思われる学生も例外ではなく,昨日優秀であったとしても今日の優秀が保証されるわけではないとの不安定で相対的な状況にある。さらに付け加えるならば,自分が正当に認められていない,自分が本当に心安らぐ場所がないという学生を多く見かける。偏差値に代表される数値で表される価値基準で区切られ,そこから落ちこぼれたと感じる。このような状況が,学校のみならず家庭や地域からも同じような価値基準の見方で責められた場合に,自分に対するネガティブな見方をすることになるだろう。このような学生たちを見ていると,全的(トータル)な存在として認めてもらいたいという彼らの心の叫びが聞こえてくるような気がする。

 宗教と教育,あるいは人生の意味などについて研究しているV.E.フランクルの研究者山田邦男は,次のように述べた。

 物は豊かになったが,心はますます貧しくなっている」と言われる現代の状況の問題性については誰もがある程度自覚している。にもかかわらず,この状況は改善されるどころか,ますます深刻さの度合いを増していくように思われる。この問題の真の深刻さは,心の貧しさ・空虚感を,かつての時代のように宗教によって満たすことができないまま,物の追求によってそれを麻痺させざるをえず,またそのことが一層心の空虚感を増幅させるというところにある。有限なものの無限な追求という,この出口のない悪循環がますます真の意味や生きがいを失わせるところに,現代の人間の問題の真の深刻さがある。

 このように自分のアイデンティティや自分の存在そのものについてあやふやにし自信を喪失し,生きがいそのものを,子どもも大人もそれを失ってしまった。自分とは何か。存在の根幹のところに危機が襲っている時代である。アイデンティティ,依って立つ存在そのものの危機であり,基盤が揺らいでいる。

 そのような時代状況の中で,「道徳が大事だ」「モラルが大事だ」と言ったとして,どれだけ人々の心に響くのか誠に心もとない限りである。道徳を説く場合に,その前提としての存在基盤やアイデンティティがしっかりしていることが必要である。そこが揺らぐ中での道徳教育は,一体どうあるべきなのか。さらに言えば,魂の危機である。そのような中で,「癒し」の音楽や香り,ヒーリングなどが大変に流行している。それは,人間というものが部分的・分析的に見られる存在ではなく,トータルな存在である,ありたいという表れと見ることができるのではないか。

(3)人間観の捉え方
 教育・道徳教育も最終的には,人間をどう捉えるのかという人間観の問題に帰着する。この理解なしに教育・道徳教育を論議したところで,齟齬を生ずるだけである。いろいろな教育の専門家と話をしてみると,一般にそのような方々は人間理解,人間論抜きで教育制度論・方法論・教育教材などを論ずることが多いように感じる。むしろ人間の本質理解を避けているようにすら思える。

 教育基本法は,教育の目的として「人格の完成」を謳っているが,そのことを主張したのは当時の文部大臣田中耕太郎(1890-1974)であった。田中耕太郎は,人格の完成について次のように述べた。

教育基本法第一条のいう教育の目的が人格の完成にあるということは,人間性の開発と同じ意義をもつものではない。…第一条の究極的意味における完成された人格の像は神でなければならない。…完成された人格というものは経験的に求められず,結局のところ,超人間的世界,つまり宗教に求めるほかはないのである。

人格の完成を目指せば目指すほど,宗教的なものにかかわらざるを得ないと言った。この点は,戦後ほとんど議論されてこなかった点であると思う。

 人間論で言えば,日本と欧米では相当の差があるように思う。欧米世界では,今でもやはりキリスト教文化が基礎にある。それゆえ,特に米国では進化論と創造論とが対峙的に議論され,最近では伝統的な創造論とはやや趣を異にするが理論的に一層洗練された「インテリジェント・デザイン論」も台頭してきている。

 翻って,日本の場合は,有無を言わさず進化論に基づいた人間理解の捉え方が一般的である。例えば,ある教育関係者の集まりである教育懇談会での話であるが,そこに参加した先生方の大半が進化もさまざまな存在の変化も突き詰めると「偶然」にそうなったと理解していた。私という存在がここにいるのも,偶然に生まれ,100年たらずの人生を生きて偶然にたまたま死んでいくと理解する。私には,そのような理解は耐えられない。

 私という存在の人生が偶然に始まり偶然に終わるとする場合に,そこに意味を見出すことが果たしてできるであろうか。そのような存在理解は,人生の意味を無化せずにはおかないであろう。その根底には,死んでしまえばすべて終わりだというペシミズム,ニヒリズムが横たわっている。毎日毎日が楽しそうに見えても,また忙しく働いていても,進化論の考え方に立って突き詰めていけば,このような結末に至らざるを得ない。

 社会思想学者の佐伯啓思は,「西欧近代の普遍性という理念は,百年前にニヒリズム(虚無主義)に行き着いた。二十世紀初頭にすでに理念は破綻している。快楽主義や科学至上主義に帰結するニヒリズムをどう克服するか,そこを見出せないまま今に至っている。」と指摘したが,これも同じ脈絡上にあると言える。存在の発生において意味を問うことなく,「偶然,たまたま」開始された人生に対して,道徳教育が大きな力となりうるのかという疑問が残る。

 その一方で,人間は教育することで無限の可能性があるとという楽観的人間観,楽観的性善説も根強い。われわれはこの楽観的人間観と存在を無化させるペシミズムの狭間で揺れ動いているのではないか。

 他方,キリスト教的な人間観では,人間を危うい存在と見る。つまり性善説ではなく,人間を扱うところの教育にも限界性を見出しているように感じる。明治期に初代文部大臣になった森有礼(1847-1889)に対して,米国アマスト大学総長J.H.シーリーは,歴史の教訓として次のように述べた。

 悲しくも悲しき事実というのは,教育は人を有徳ならしめざる一事にこれあり候。すべての歴史にして偽りならず,また,人生に対して深刻なる同情を有する人々の観察にして誤りなくんば,人をして有徳ならしむるために彼をして有識ならしむことのまったく無益なるを,吾人は信ぜざるを得ず候。実に道徳なるものは,ひとり宗教的霊感のあるものよりのみ来たるものにして…

 「知識をたくさん得ることはこざかしい悪魔を作る」ということわざがあるが,今日の世の中の有識な人々を見ると,確かに有識ではあるが,そのような方々がこざかしいことを行い有徳とはまったく異なったことをしているのを多く発見する。「あのような立派な方がどうしてこんなことを・・・」という事件があまりにも多い昨今である。その意味で,今から100年前にシーリー総長が指摘したごとく,道徳性の育成を教育のレベルで捉えることの限界性(知識を増やすことだけでは道徳性の育成にはつながらない)と人間のもつ危うさを認識せざるを得ない。

4.道徳教育の基礎としての宗教性

(1)新しいベクトルの自覚
 「一人のいのちは地球よりも重い」という人間中心主義,いのち中心主義の考え方は,戦後一貫した学校教育の流れであった。そのベクトルの出発点は,「すべてのものにまさって尊い私のいのちであるから,その自分のいのちを自覚する主体的自覚から出発すべきだ」というように,すべての出発が「自分」にあった。

 こうした理念の中に西欧流の個人中心主義も,価値判断の基準と根拠はいのちをもつ人間から始まるという近代的価値観も含まれているように思われる。これまでの学校教育も道徳教育もすべてこの視座で捉えられてきたのではないか。この捉え方は,「自ら考え,主体的に判断し行動する人間の育成」という方向とも一致するように思う。

 しかし,今次の学習指導要領で提示された「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」には,それとは違った,もっと言えば異質の流れを感じる。これは自分から出発する近代のベクトルとはまったく異質なものである。これに対しては,一部の方々から批判もある。しかし,「自分の存在の根拠が自分ではなく,人間を超えた何者かに依拠している」「自分が生きたいから生きているというよりも,生かされてあるいのちという自覚からくる畏敬の念」これらはまったく新しいベクトルといえる。もちろん,自分の自覚も大切ではあるが,自分の根拠のベクトルには向こう側からのベクトルもあるという意味で,今回学習指導要領の中にこの概念が入ったことは意義深いと思う。

 このことに関連して文部省が平成元年度の小学校学習指導要領改定を控えた前年に出版した「生命を尊ぶ心を育てる指導」の中で,生命を尊ぶ根拠について宗教との関連で次のように記している。

「生命」の「生」は草の生え出る形に由来し,「命」は「口」と「令」から成り,神や上からの指示・啓示を受けることを意味する。したがって,生命は生物学的な生命であるとともに,神に祈り神から与え命じられたもの(天命)でもあり,両者はもとは分離してはいなかったであろう。

 戦後の道徳教育のコアである生命尊重主義,すなわち「生命をなぜ尊ばなければならないのか」の根拠について,文部省は「神に祈り神から与え命じられたもの(天命)でもあり」と述べているが,これは注目すべきものであろう。このような背景から,人間の力を超えた存在に対する畏敬の念という考えが出てきたと思う。これまでの自分からのベクトルに加えて,自分の命は与えられたもので生かされているという向こう側からのベクトルを取り入れるようになった。その上で,今の自分があり,道徳教育があり,人間生活がある。この観点は非常に画期的なことだと考える。

(2)公立学校での宗教性の涵養とその素地
 それでは公立学校の道徳教育や教育の営みの中で,具体的に宗教性の涵養やその素地を育てるにはどうすべきかについて最後に考えてみたい。

 @宗派に属さない宗教的情操の可能性
 公立学校での特定教派の宗教教育は禁止されているが,私は特定宗派に属さない宗教的情操教育は可能ではないかと考えている。

 内村鑑三は『代表的日本人』の中で西郷隆盛を取り上げ,その中で「天」という意識をもっていたことを高く評価した。また,われわれの伝統の中では,(他人が見ていなくても)「お天道様が見ている」という表現があり,「(何かの)おかげさまで」「いただきます」「天知る,地知る,我知る」などの考え方もある。このような伝統的観念を,学校教育における情操教育を進めるにおいて,活かしていく必要がある。このような伝統の中で培ってきた超越的観念への共感は,特定の宗派には限定し得ない日本人が共有する優れた精神的世界観ではないか。このような素養を子どもたちの日常生活の中で培っていくことは学校教育の中でも十分に可能なことであろう。

 Aデス・エジュケーションの可能性
デス・エジュケーション(死への準備教育)も,これを実施するにおいては,宗教と道徳教育が密接に関係してくるのではないかと考えている。

 ある教育大学の先生と議論する中で,私は魂や霊性の重要性について話をしたことがあった。するとその方から,「とんでもない。なんでそんな時代遅れで古臭いことがらをもちだすのか」とたしなめられた。おそらくこの方の考えは,人間とは肉体的生命がすべてであって死ねば終わりだということであろう。

 近代思想の基本的な考え方は,目に見えないもの,宗教的なものの無視であり,それは「神の死」に代表される。日本では明治以降の130年間に近代がもたらした疲弊が蔓延し,人間一人一人の内部が崩壊現象を起こすまでになった。そこで,近代が無視してきたことにもう一度目を向けていくことによって,近代を超える(ポストモダン)時代のヒントがあるような気がする。

 近代は合理主義的思考と分析思考が基本となっているが,その中で「死」は一番不合理であり,解決が困難なことがらになっている。しかし,この問題は誰もが避けて通ることのできない課題である。それゆえ,死とどう向き合い,それをどう受容していくかという問いは,それぞれ各自に迫られた実存的課題であるとともに道徳的アプローチと宗教的領域の共有点になりうることがらではないだろうか。よりよき,より満足のある死の受容は道徳的に大切な視点を含んでおり,自分の死後のあり方についての確信や願い,信念は宗教的領域につながっていく。キリスト教や仏教などの高等宗教はみな,永遠のいのちや浄土世界という表現で肉体の生命が終わりを告げた後も,「魂」「霊」の生命が永続することを説いている。そして,このようなテーマ(デス・エジュケーション)は,単に宗教や人文科学の範疇のみならず,自然科学のテーブルの上でも論じられる時代(例えば,臨死体験の研究など)になってきたことは,注目に値する。このようにデス・エジュケーションが訴えていることは,よりよい生,その次の永遠の魂などにも目を向けることだと考える。

 B道徳教育と宗教教育をつなぐもの
内村鑑三はキリスト教以外はだめだという狭い考えではなく,他の宗教,すなわち仏教の僧侶などを招いて彼らをも受け入れている。それはなぜか。内村が学校教師(教頭)として最初に赴任(1888年)した新潟北越学館で強調したキリスト教に基づく教育理念の展開は,この問題を考えるに当たってのヒントとなるものである。「北越学館設立ノ主義ト目的ニ関スル意見書」の第一条に次のような記述が見られる。

 北越学館ハ基督教ノ徳義即チ宇宙ノ主宰ニシテ独一無二ナル真理ノ神ニ事フルニ全心全力ヲ以テス可キコト並ニ自己ヲ愛スル如ク隣人ヲ愛セヨトノ徳義ヲ以テ徳育ノ基本トス。・・・基督教ノ聖書ノ研究・・・宗式ヲ強ヘズ,基督教外ト雖ドモ前記スル所ノ基本ニ触レザル以上ハ之レヲ本館徳育上ニ採用スル・・・

 内村にはキリスト教を土台とする道徳教育とは神と人への全身全霊での愛がすべてであり,それ以外の研究や儀式は二次的な事柄であるという理解である。この姿勢を今日の公立学校に発展的に生かすことができるのではないだろうか。つまり,教職員レベルでは依然として否定的に見られがちな道徳教育や宗教性の涵養ということを,「教育愛」という次元に止揚することで新しい展望が見えてきはしないだろうか。もちろん,神への愛という次元は共有しえないかもしれないが,神に代えて真理,善,美なるものへの愛と共感,教え子へのできうる限りの愛と置き換えるならば,この教育愛という展望は多くの可能性を秘め,しかも道徳教育と宗教教育を深める契機になるのではないだろうか。

 <教育愛:真理に対する愛,善に対する愛,美に対する愛,人に対する愛>。これらを突き詰めていけば,これらは道徳教育,宗教教育がともに目指すことにつながっていくのではないかと思う。(2004年3月8日発表)

<参考文献一覧>
・田中耕太郎,『教育と政治』,好学社,1946
・梅根悟,『世界教育学選集―日本プロテスタント人間形成論』,明治図書,1965
・伊藤勝彦,『デカルトの人間観』,勁草書房,1970
・M.ブーバー,『我と汝』(植田重雄訳),岩波書店,1979
・大塚久雄,『意味喪失の時代に生きる』,日本基督教出版局,1979
・内村鑑三,『内村鑑三全集』,岩波書店,1980
・長井和夫,『人間形成と近代思想』,第一法規出版,1982
・桜井哲夫,『近代の意味』,NHKブックス,1984
・高橋史郎,『魂を揺り動かす教育』,日本教育新聞社,1991
・村田昇,『畏敬の念の指導』,明治図書,1993
・河合隼雄,『宗教と科学2』,岩波書店,1993
・市川昭午,『日本の教育』,教育開発研究所,1993
・佐伯啓思,『現代文明論』,PHP研究所,2003